草と、空の下に
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エピローグ 「草と、空の下に」

 2035年1月28日――。 
 春香菜は、所長室のソファで一人、作業に耽っていた。
 キーボードを打つ手を、一旦止める。
 少し、肩が凝っているかもしれない。春香菜は、ソファに背を持たせかけ、軽く伸びをしてみた。
 それは、そのまま欠伸に変わってしまう。
 目に浮かんだ涙を拭きつつ、春香菜はモニタに目を戻した。
 ディスプレイ右下のシステム時刻は、ちょうど《7:05》に変わったところだった。
 ふと、一週間前のことを思いだし、春香菜は少し遠い目をした。
 あの危機から、もうそんなに経つのか……。
 その間、色々と作業に追われていたことを思い出す。
 今回の"20億秒問題"の件で、システムチェックをする必要が生じていたためだった。それも、研究所の全コンピュータ・システムを。
 結果から言えば、致命的なエラーは殆ど無かった。
 実験室内の陽圧・陰圧の制御系統の一部にはエラーが見られたものの、これは"20億秒問題"に由来するものではなかった。
 このエラーは、圧力制御の許容値の厳しさに起因するものだった。要を言えば、許容値が必要以上にきつかっただけのことだ。
 その他、機能・性能要件テストには問題無し。総合テストも同じく問題無し。
 各サーバー・各ルータ毎のトラフィック(情報転送量)も同様。異常なパケットの流入出も無かった。
 また、ICUやL-MRIなどの各医療設備の通信状況にも、障害は検出されなかった。
 研究室内のコンピュータは全て、問題無く稼動している。
 これは所員総出による、労力の賜物だったのかもしれない。被害は、信じ難いほどに軽微だった。
"最終チェックもすべて異常は無し"との報告を受け、ここに至り、春香菜はようやく、"今回の危機は一応の解決を見た"と判断したのだった。
 桑古木は、今さっき研究所を出ていったところだ。先週の会話通り、"ココとの休日を遠慮なくエンジョイする"ためだった。
 半ば気もそぞろであったろうに、「病み上がりの空に、よろしく言っておいてくれ」などと、殊勝な一言も添えていく。そうした配慮を自然にしてくるあたり、18年前の"少年"からは成長しているのだな、と感心する春香菜だった。
 しかし……。
 徹夜明けの目を晒しつつ、意気揚々とココを迎えに行く桑古木の姿は、少し可笑しくもあった。
 思い出し笑いをする傍ら、人を恋することはそういうものなのかな、と考え直し、春香菜は意味もなく表情を改めたりもした。なるほど、"人は恋をするために生まれてきた"、か……。桑古木のありようを見る限り、それは確かに"言い得て妙"だと認めざるを得なかった。
 その言葉をいみじくも語っていた空は、今ここに居ない。
 春香菜は、はたと昨日のことに思い当たった。そう言えば、武の奴がこんなことを言っていたような気がする。
「明日、空をちょっと手裏剣村に連れ出すかもしれない。まあ、駄目だといってもそうするんだけどな」
 そうしたことを、武はのたまっていたのだ。
 それは言ってみれば、単なる犯行予告に他ならなかった。そして武は今日、その予告どおり、まんまと空を連れ出していったのだろう。
 わんぱく小僧のように、憎めない笑みをこぼしていたことも、併せて思い出す。
 あの相変わらずの手前勝手は……。苦笑するも、春香菜は、最初から武の行動を赦すつもりではいた。
 命を取り留めたとはいえ、一週間前の空はまだ、十全と作業をこなせる状態とは言えなかった。その間、空の不在の穴を埋めるべく、ひたすら奔走していたのが、他ならぬ武だったのだ。
 連夜遅くまで研究所に残り、各アプリケーションの動作チェックを逐一こなし、武はずっと走り続けていた。
 事実、総合テストなどを効率的に進められたことは、武の貢献によるところがかなり大きかった。これは、桑古木以下、他の所員が認めるところでもあった。
 その武の奔走ぶりを思い出し、それに2017年の記憶が重なり、春香菜は苦笑した。なるほど、武は確かに全然変わっていないのだ。度し難いくらいに。
 まあ、そんな武ではあるが、春香菜は日頃の独断専行に対する戒めとして、当人に一つお灸を据えておく必要も感じていた。
 そこで、ある"事実"を、当の武の妻に密告していたのだが……はてさて、どうなることやら、だった。
 万が一の事を考え、フォローは最低限入れておいたものの、あの妻のことだ。きっと、自分よりもキツいお灸を据えてくれる事だろう。その想像は中々に、心身を引きしめさせもするものだった。
 傍ら、春香菜は沙羅のことを思った。
 沙羅は、実のところ、"空が武を慕っていた"事を、昔から知っていたのだと言う。
「パパって、本当に女の敵ですよねぇ。空がパパのこと好きなの、判るような気がします。拙者もパパのことが好きだし……って、あ! この話は内密でお願いでござるよ、田中先生。ママが怖いから!」
 救出作業が成功した後に、沙羅の口から出てきた台詞がこれだった。そのとき、沙羅は笑ってさえもいた。
 なんのことはない。自分達は、とんだ取り越し苦労をしていたのだった。 
「武に対する空の恋慕」が、その娘である沙羅の"しこり"になりはしないかという、自分達の危惧――。それは、まったくの杞憂だった。沙羅は、自分達が思うよりもずっと、したたかで賢い娘だったのだ。
 自分は、空のことだけでなく、沙羅のことも判っていなかったのね……。そう思い、春香菜は反省も自戒も新たにした。
 一方で春香菜は、今回の件における、沙羅の占めていた役割の大きさを再認識することにもなった。
 あのとき、沙羅が研究所に居なかったら、どうなっていたことか……。最悪の事態を思わず想像してしまい、春香菜は今更ながらにぞっとした。
 沙羅には感謝していた。そして、とんだ休日にしてしまったことを申し訳なくも思う。
 そう詫びつつ、春香菜は、沙羅の言葉を思い出しもした。
"田中先生。今日この研究所に来られて、本当に良かったです! おかげで、私、未来を見出せたんですから!"
……沙羅は、父のワゴンに乗って帰途につく際、そんなことを言っていたのだ。
 春香菜は、この言葉の意味を少し考えた。
 そんな中、武の話を思い出すに及んで、春香菜は、ああそうかと思った。
 沙羅が、この田中研究所にやって来た理由――。"色々と思う所があって"と、武にぼかされていたその理由が、春香菜にはようやく判ったのだ。
"未来を見出せた"という言葉。この言葉がすべてだった。
 沙羅が、この研究所に来た理由。それは、自分の過去を乗り越えるためだったのだ。
 ライプリヒの監視下に晒され続けた過去。そんな自分の過去を、沙羅は、自らの意志で乗り越えようとしたのだ。"元ライプリヒの施設"であるこの研究所に、自らの意志で赴くことによって……。
 けれども、だった。
 運命の悪戯か、沙羅はその日に、空の危機に遭遇することになってしまった。
 しかも、その空は、沙羅と同じように孤独な存在だった。孤独に苛まれる存在だった。
 沙羅は、空を自分の姿と重ね合わせていたのかもしれない。空の危機を救うときに沙羅の見せた、あのひとかたならぬ想いは、そこから来ていたのだと思う。
 つまり、今回の空の危機とは、"空と沙羅"の二人に与えられた試練でもあったということだ。
 沙羅があのとき語った、"未来"という言葉は、自分だけの未来という意味ではない。空の存在も含めた、"自分達二人の未来"という意味が込められていたのだろう。
 春香菜は、沙羅の言葉の重さを改めて感じることになった。
 それと共に、沙羅の見出した未来に幸せが訪れることを、心から望んだのだった。

 手元のコーヒーが、すっかりぬるくなっていることに気付いた。
 それ以上、啜る気は無くなってしまい、紙コップを机に置く。
 不意に、外界のことが気に掛かった。
 春香菜は窓へ目を向けた。
 窓の外は、見渡す限りの靄の世界だった。
 かろうじて窓から見える木々の姿から、先週の雪が、かなり退けているということが判った。
 自分がここ一週間、ついに研究所から一歩も出ていなかったことを思い出し、春香菜は苦笑いした。
 報告書を丸め、軽く頭を叩く。
 少しの間、目を瞑り、しばし体を休ませた。
 わずかに溜まっていた疲労が、たちどころに退いていく。先の肩の凝りも同様だった。自分がキュレイ・キャリアであることも、その皮肉なありがたみも、春香菜は同時に感じもした。
 ソファに、背を深く持たせかける。
 春香菜は、天窓を見つめた。
 窓外の碧空を、裸の木々が覆っていた。
 先週に見ていた蕾は、依然として開花の気配が無い。
 けれども、生命の息吹がそこに育まれているのは、小さな感覚として判った。
 陽光が目にちらつき、春香菜は目を細めた。
 日の光に、手をかざした。
 指を閉じ、いつものように、その中に流れる赤い闇を見た。
 この血の流れが、このいとなみこそが、今の自分を育んでいる。
 武の言葉が、頭にちらりと浮かんだ。
――"俺達は、不確かな世界の中にいる。だけど、俺達が生きていかなければならないのは、……こうした世界なんだよ"
 あのときは意識していなかったが、この言葉は、耳の奥深くに残り続け、自分の心に何かをもたらせていたのだろう。
 自分は確かに、不条理で不確かな世界の中にいた。そして、世界に……自分の運命に、少し絶望していた。
 そんな中で、この自分は武を必要としていた。武の心を、言葉を、その存在を必要としていた。
 それだけではない。空を……桑古木を……彼らの全てを必要としていた。
 そして、彼らもまた、自分を必要としてくれているのだと思う。
 彼らを必要とし、彼らに必要とされ、そうして初めて自分がこの世界に存在していることを、春香菜は実感した。
 それ以外、自分の存在する意味に、確かなものを見出せなかった。答えを見出せなかった。
 ただ、自分が存在することで、守られる者がいるのなら……救われる者がいるのなら――それこそが、自分の存在理由なのだろう。
 指をゆっくりと開く。
 そこから差し込んでくる陽光を見つめた。
 春香菜は、茫漠とした想いで、その光を見つめていた。
……未来はまだ、少し遠くにあった。
 見つめるべきもの。見定めるべきもの。すべては、その向こうにある。
 けれども、今回の件で、春香菜は微かな救いを見出せたような気がした。
 不可能は、真理ではない。事実でさえない。ただの障害であり、一時の先入観でしかない。
 そうである以上、不可能は覆すことが出来るのだ。2034年のあのときのように。そして、今回のように。
 そのことを、自分達は証明した。
"不可能は、自分達の意志によって覆すことが出来る"――。
 これが、自分の今回見出した答えだった。
 消え入りそうな……けれどもこの胸に確かに灯った、小さな希望だった。
 そんな希望を胸にしまいこみ、春香菜は、有機ELディスプレイに目を戻した。
 今回の空の件においては、まだ触れていない部分が一つある。
……それは、空の身体機能についてだった。
 代謝機能や生命維持の機能を、生体ナノマシンに依存する空の目から、涙が流れたこと。
 その理由について、春香菜は思考を巡らせた。
 角膜を潤し、視覚を維持する生理現象として、それは本来あって然るべきものだった。事実、空の生体ナノマシンは、涙を分泌する機能を備えていたのだから。
 けれども……あのときに空の目から流れた涙は、明らかにそうではなかった。心の中から起こった涙だった。情動から起こった涙だった。
 生物から流れる涙には二種類あり、反射的分泌による涙と、情動的分泌による涙がある。
 このうち、情動的分泌による涙とは、人特有の高次な現象であるのだという。
 もし、そうであるならば、もはや空はアンドロイドではあり得なかった。人、そのものだった。
 これは推測になるが、あのとき、空の身にもたらされた物とは、きっと涙を流せることだけに留まってはいまい。そう、春香菜は考えていた。
 人間的な情動によって涙が流せるという事は、おそらく人に等しいほどの心のいとなみが、空の身に起こっているということになる。
 その心のいとなみはきっと、空に途方も無い世界をもたらせるのだろう。
 空は、この今の今、生まれて初めての世界を見つめているかもしれないのだった。
 春香菜は我に返り、窓の風景に目を戻した。
 靄が掛かり、それでも窓から沁みだしてくるような碧空。
 それを、じっと見つめていた。
 この碧空を、きっと空も見つめている……。
 春香菜は、一瞬遠くを見る目になった。
 空が、生まれて初めて認識する世界――。
 それがどれだけのものか。どれほど想像を超えたものであるのか。春香菜には知る由もなかった。
 それは、母の胎内より生まれたときに、初めて世界を見るような衝撃を、空にもたらせるのだろう。だが、しかし、そうした精一杯の思考を巡らせてもなお、その世界は春香菜にとって、想像を超えていた。
 春香菜は、全身を突き抜けるような感覚にとらわれ、しばしの間我を忘れた。
 天窓から降り注ぐ光を、見つめていた。
 その光の中に、神の姿を見たような気がした。
 キュレイという言葉は、フランス語で"司祭"という意味であったことを、春香菜は思い出した。
 司祭とは、"生命の誕生を祝福する者"のことだった。
 それはまさしく、今の自分達のことなのかもしれない……。そう、春香菜は想った。
 そして、漠とした感覚の中、空の未来に想いを巡らせ、その前途を祝福したのだった。

 茜ヶ崎 空という、新しい"生命"の下に、きっと希望の光が降り注ぐように……。

     *

 倉成家の朝は、またも慌ただしかった。
 派手な音と共に、家のドアが開く。
 そこから現れたのは、この家の主――倉成 武だった。
「やばい、遅刻するぞいッ!」
 旅行バッグを片手に、武は、駐車場のワゴンに向かおうとしていた。
 首を巡らせては、こう言うのだ。
「ホクたん、沙羅殿ッ! 早く支度をするでござる!」
 キッチンのドアの向こうから、沙羅が忙しく走り回っているシルエットが見えた。
 口を開けば、"お兄ちゃん、早くしないと遅れるよッ!"と急き立ててもいる。
 手裏剣村に行く支度のために、あっちでバタバタし、こっちでバタバタし、気が付けば出発時間が来てしまっていたのだ。
"あ、お兄ちゃん! そのハンカチは拙者のでござるッ!"
"そっちのタオルは、僕のだぞッ"
 そんなやり取りを耳にするにつけ、武は微苦笑した。これはもうちょっと時間がかかるかもな、と。
 家のドアをそっと閉め、駐車場へと向かう。
 ワゴンにまで辿り着いたときに、後ろから声がした。
「今朝は、目覚まし時計の時刻をいじらなかったのに」
 つぐみだった。武達を見送るために、駐車場に出てきていたのだった。
"今日は、私の方が宿題を抱えているのよ"
 つぐみが今回、武達と手裏剣村に行けない理由が、これだった。「クライアントから追加の仕事依頼があって……ちょっと断りきれなくてね」
 そう言いながらも、つぐみは、家の方をちらりと見ていた。
 沙羅とホクトが、少し気になるのだろう。素直に見に行けばいいのに、こういうところは相変わらずのつぐみだった。とはいえ、この自分も十分に、親馬鹿の性向があるのだが。
 そのつぐみは、武に目線を向けるや、こんなことを言ってきていた。
「しかし、貴方もタフよね。……長残業明けだというのに」
 それには、「当ったり前でござるッ」と、必要以上に胸を張る武だった。
 そして、またぞろ、変てこな蛇足を添えるのだ。
「なぜなら、キュレイのキュは、『不眠不"休"のキュ』だからな」と。
 そんな武の蛇足には、
「『"急"性心停止のキュ』にならないようにね」
 と、これまた妙な返答で応じるつぐみだった。
 しかも、その応答速度が、最近とみに上がっている。
 つぐみも、それを自覚しているのか、"私が貴方のギャグセンスに染まったら、賠償の請求をさせてもらうわ。それは紛れもない傷害罪だから"などと言ってくるのだった。
 そんなつぐみが可笑しくもあったが、武は、口に出してはこう言った。
「つぐみ。今日もちょっと、車を使わせてもらうぞーい」
 それには、「判っているわ」という返答があった。
 更につぐみは、こうも付け加えてきたのだった。
「空も、一緒に連れていくのでしょう?」と。
 一転、武はぎくりとした。
 武の方に顔を戻してくる、そのつぐみの表情からは、奇妙な視線が感じられた。
 先週の日曜以来、武と沙羅を苛み続けていたのが、この視線だった。
 結局、あの後で、二人が帰宅したのは月曜の昼過ぎだった。大雪のために、道路が翌朝まで通行止めになっていたのだ。
 そして、家に帰ってくるなり、武と沙羅に待っていたのは、つぐみの妙な出迎え方だった。
「お帰りなさい。昨日は色々と大変だったようね」と、やけに心得たような態度に、二人とも逆に退いてしまったことを思い出す。
 空の救出作業のさなか、ついぞ帰りの連絡を怠ってしまっていたのに、つぐみのこの静けさは何か? この暖かさは何か……?
 とはいえ、武も沙羅も、藪をつついてヘビを出す愚は犯したくなかった。そのため、"阿吽の呼吸"ならぬ"阿吽の愛想笑い"でやり過ごすことにしたのだった。
 だが、それから一週間、つぐみの妙な視線を感じては、武も沙羅も言いしれぬ恐怖感を味わい続けることになった。
 表面上は、全く変わらないつぐみであったため、更にその恐怖は増した。
 そのつぐみの視線が、自分に再び向けられていたのだった。
 意味ありげな視線。物腰。そして、先の言葉……。ここに至り、武は、つぐみが先週の日曜に起きた出来事を知っているのだと確信した。
 どの時点で知ったのかは判らない。が、先週のつぐみの態度から考えて、おそらく春香菜が早い内に連絡していたのだろう。ならば、つぐみが妙な視線をし始めたタイミングにも合点がいく。ただし、あの春香菜のことだ。脚色の施され方が、少し心配でもあったが。
 その武の心配はしかし、ものの見事に発現することになった。
 直後、つぐみの口から、こんな台詞が飛び出したのだから。
「手裏剣村で、貴方と彼女が"キス"する羽目にならないように、せいぜい祈っているわ」――という台詞が。
 武はつんのめり、旅行カバンを持ったまま、ワゴンのミラーに頭をぶつけていた。
 が、気が動転してしまい、頭の痛みもすぐに飛んでしまっていた。武はそのまま、つぐみの方を振り返り、キレたような笑い方をしたのだった。
「ハハハ……! にゃ、にゃん、にゃんて、おっしゃいました今ッ!?」
「先週の月曜に、優から聞かされたのよ。……"休日出勤のセクハラ犯が、風邪で寝込んでいた空の頬に、キスをしていた"とね」
 武の笑いが、石化した。
 セクハラ犯。その単語には、条件反射が起こるほどに聞き覚えがあった。
 そして、"キス"――。
 それは、空の想いに応えられない自分が示した、あの行動だった。
 空の想いには応えられない。だが、空の心は、なんとしてでも救いたい。そのために自分が取った、精一杯の行動だったのだ。
 けれども、そこに至る経緯を全部端折ってしまえば、それは本当に"ただのキス"ということになってしまう。しかも、そのキスはつぐみに対する、浮気行為でさえあるのだ。
 自業自得ながら、武は春香菜を呪わずにいられなかった。優の奴、よりによって、何てことをつぐみに密告してくれやがったんだッ……!
「武……、優の言っていたことは本当なのかしら?」
 つぐみが、とても意地の悪い目線を向けて、訊ねてきた。
 あきらかに、面白がっている。
 間違いなく、つぐみは春香菜から、事の真相をすべて聞かされているのだ。それでいながら、からかってきているのだろう。
 窮地に立たされていた。なんとかして、打開しなければ、と思う武だった。
「い、意味のない質問には、絶対答えないもんッ」と、あわてた児童のように反駁する。が、逆につぐみには、こう引っくり返されてしまった。
「それは通らない理屈ね。訊ねる側に"意味がある"からこそ、質問という行為は発生するのよ。それに貴方には現在、浮気の容疑が掛かっている。私の質問に答えるべき理由が、今の貴方にはあるのよ。……さあ、武。答えなさい」
「あ、き汚ったね。そんな返し技ありか!? 自分が言い始めた理屈なのにィ!」
「自分の理屈は、自分で論破できるようにしておくのが、エレガントな人間の在り方よ」
 と応じてみせ、つぐみは続けた。「――さあ、答えて。武」
「お、お前に強要されずとも、近い内に言おうとは思ってたさ」と、言い訳全開で武は答えた。「……優の言ったことは、本当だ」
 だけどこれには、と言いかけた口は、つぐみの指で止められた。
 つぐみは、武の唇に指を当てたまま微笑んだ。「ごめん、武。そこまでで良いわ」
「私の質問は、確かに意味が無かったものだから。……答えは、元より判っていたことだしね」 
 それから、つぐみは指を武の唇から離し、こう続けたのだった。
「"倉成と沙羅は、空の生命を救ってくれた。倉成が空にキスをしたのは、空を救うための行為だから……今回は見逃してあげて"――私が優から聞いたのは、そんな内容よ」
 まあ正直、かなり腹は立ったけれどね、とつぐみは締めくくり、武を見つめてきた。
 口許を下げ、少し拗ね始めてもいる。
 自分が夫に首ったけであることを認めるような、つぐみの表情だった。
 らしくもない、と思う。が、そうした伴侶のやきもちを、改めて可愛いとも思う武だった。
 同時に、今ここで言うべき言葉を、武は見出してもいた。 
 武は、つぐみを正面から見つめると、こう言った。「つぐみ。遅ればせなんだが、ひとこと礼を言わせてほしい」
「あの朝、お前は、"人の本質"云々という話を、俺にしてくれただろう。その上で、俺を力づけてくれただろう。……"貴方は、倉成 武として、自分の信じる生き方をすればいい"と。
 俺は心のどこかで、お前のそうした言葉に――想いに支えられていたんだと思う。
 もし、それがなかったら……俺は、空に伝えられる言葉を見出せなかったかもしれない。空を、救えなかったかもしれない。
 だから、空を今回救うことが出来たのは、お前のおかげでもあったんだと思う」
 本当にありがとな、つぐみ、と武は言った。
 一方のつぐみは、虚をつかれたような表情をした。
 そして、そのまま顔を赤くさせた。
「馬鹿」と、少しの間、斜交いに目を流す。
 それから、つぐみは武に目線を戻し、微笑んだのだった。「……本当に馬鹿なんだから、貴方は」
「今回の危機を乗り越えられたのは、あくまで貴方達の想いと行動によるものよ。貴方達が考えるべき事を考え、すべき事をしたからこそ、空は救われたのだから」
「そうだが。……たしかに、そうなんだが」
 とは言いつつ、「いや、」と、武は言葉を訂正した。「やはり俺は、お前のおかげだとも思う」
 かつて沙羅と春香菜にしたように、武は、このつぐみとも何かしらの約束をしようと思った。海の底で眠っていた17年間、自分は、このつぐみに何もしてやれなかったのだから。せめて、こんなときくらいは、償いがしたかった。
「つぐみ。……何か望みを言ってくれ」
 言われたつぐみは、しばし考える目をしていた。
 ややあって、その視線が、どういうわけか不穏な光を帯び始める。そうしたつぐみの目に、自身の本能が警告を発したが、既に遅かった。
「じゃあ、"妻を一人置いて、今日遊びに行く事"に対する償いをしてもらおうかしら? 武」
――つぐみは手強かった。
 望みを聞くつもりが、よもや、そんなふうに切り返されるとはゆめゆめ思わなかった。武は、再び窮地に立たされることになった。
 更に、
「あまつさえ、貴方の"生徒"も連れていくのだから、相応の償いはしてもらわないと」
 というキツい台詞も付け加えられる。
"空"と言わずに、わざわざ"生徒"という隠喩を持ち出してくるところに、つぐみの悪意が満ちあふれていた。
「空の事はだな……き、今日の所は、片目だけ瞑っていてくれ! ……これは、沙羅との大事な約束でもあるからして、」
 あたふた、あたふたと、手を振り回す武だった。
 つぐみの目が細められる。
「それならここは、"片目を瞑ってあげる"ことの見返りを要求したいところよね」
 一旦声を詰まらせ、うむむむ……と、武は唸った。ややあって、観念したように武は言った。
「も、もう、なんでも要求してくれ。聞く覚悟なら、いくらでもあるぞ。ん?」
 そんな夫の虚勢を、つぐみは、品定めでもするように見つめた。
 限りなく底意地の悪い目をしながら、おもむろに口を開く。
「ではその覚悟とやら、遠慮無く存分に試させてもらうわ」
 武の喉が鳴る音をかすかに聞き、つぐみは、ちょっと微笑んだ。
 そして、
 こんな風にね――と、武に唇を重ねたのだった。
 
 つぐみは、ゆっくりと武から唇を離した。
 語調を甘くしながら、こう言ってくる。「――これからも、私達を愛して」
「私達という"本質"が消えてしまうくらい、"時間"も忘れてしまうくらい、貴方の中に私達を抱きしめて。……私や子供達を愛し続けて」
 つぐみは体を寄せたまま、武を見つめていた。
 武もまた、つぐみを見つめていた。
 しばしの間、甘い沈黙が流れた。
「……長い時間が要るな」と、武は言った。
「私達なら、待てるわよ」
 つぐみが柔らかく応じてきた。
 それから、つぐみは、あの子守唄の一節を唄ってみせたのだった。

 今宵やなぐゐ、月夜見囃子……。
 早く来んかと、待ちをりぬ――。

"待ちをりぬ"――……。
 つぐみは、ここで唄い止め、こう言ったのだった。
「私達は17年、この唄と共に待ち続けてきたのだから。……貴方が帰ってくる日を」
 そう言いながら、つぐみは照れていた。言われた武も、少し赤面していた。先週も確か、同じようなことで互いに照れていたような覚えがある。自分達はやはり、どこかノロけているのかもしれない。
「……ああ、そうだな」と、武はつぐみの言葉に応じた。
 そして、朗らかに笑った。「確かに、つぐみの言う通りだ」と。
 武とつぐみは、それから少し体を離しあった。
 家の方から、ドアが開きそうな気配があった。
 沙羅とホクトが、そこからもうすぐ、元気一杯に現れるのだ。自分達の大切な子供達が。
「じゃ、武。行ってらっしゃい」
 と、つぐみは言った。
「気が向いたら、よろしくとでも伝えておいて」
 そうして、つぐみはただ一度だけ、"ウインク"してみせたのだった。「――貴方の大切な、"25才"の生徒にね」

 そのつぐみの口許には、笑みが浮かんでいた。
 新しい生命を祝う、優しい微笑みが。

     *

 家の玄関前で、沙羅はそわそわしていた。
「お兄ちゃん! 遅れちゃうよ!」
 沙羅は、玄関前のホクトに声を掛けていた。
 旅行の支度を済ませたまでは良かったものの、ホクトは何故か、家の玄関に腰を下ろしたままだった。元より、支度をしている最中も、それほど気乗りしているようには見えなかったが。
 ともあれ、そのホクトの背中から、何度めかの溜息が漏れるのを見、沙羅はたまりかね、声を再度掛けたのだった。
「お兄ちゃんってば!」
 肩に手を置いたとき、ホクトはようやく首を沙羅に振り向けた。
 そして、こう言ってきた。
「沙羅。正直言って、少し気が重いんだよ。……空さんが危機に遭っているときに、僕はユウとデートしてたんだから」
 ホクトは、先週の話を持ち出していた。
 沙羅が父親と、空の救出に奔走している中、ホクトは秋香菜との逢瀬に耽っていたのだ。知らなかったこととはいえ、空に対してホクトが良心の呵責を感じるのも、まあ判らなくもなかった。
 でも、と沙羅は思った。……お兄ちゃんとなっきゅ先輩が、あの場に居たところで、状況は変わらなかったかな、と。
 なにせ、お兄ちゃんはパパと同じく、コンピュータにそれほど強くない。なっきゅ先輩も先輩で、母親の田中先生とは、今あまり上手くいっていないらしいし……。
「まあまあ、結果オーライということで、良いじゃない。お兄ちゃん」
 自分のこの言葉はしかし、いささか軽薄だったかもしれない。
 それには、
「良いことなんてあるか!」と、腕を組んで拗ね始めたホクトだった。
 そのホクトに、沙羅は卑猥な目をした。
「ははあん。……さては、空に対して、よほど後ろめたい事をしていたのでござろう? なっきゅ先輩とのデート中に」
 ホクトが、ぎくりとした表情をする。 
 そこに、沙羅はこう囁きかけるのだった。
「誰にも告げ口されたくなければ、今日は黙って拙者と手裏剣村に行くでござる」
 直後、ホクトは顔を青ざめさせた。
「ち、ちょっと待て、沙羅……」
「待たないでござる。選択肢は"イエス"か"ノー"のみ。速やかに明瞭に答えるでござる」
 今度はにべもしゃしゃりも無く、強い口調でホクトに詰め寄る。が、内心は可笑しくてたまらない沙羅だった。
 デートの結果が散々だったことは、なっきゅ先輩から電話で聞かされていたのだ。
 ホクトのリードがへたくそで、せっかくの雪の演出が云々という雑言を織り交ぜながらの、それはそれは長いお話だった。
 ともあれ、ここは、ちょっと心を鬼にする。
 傷心のお兄ちゃんには申し訳ないが、今日の旅行は、空の新しい人生を祝う旅なのだ。
 空にはこれから、まだまだ色々な困難が待っている。試練が控えている。
 それらを乗り越えていくための門出でもあるのだから、道連れは一人でも多く欲しいところだった。
 なっきゅ先輩は、既に遠方の大学へ戻ってしまっている。ならば、お兄ちゃんには、是が非でも一緒について来てもらうつもりだった。
「判った判った、行くよッ」
 焼けのやんぱちといった体で、ホクトは答えていた。「ここまで来て、今更行けないなんて言えるわけないじゃんか」
 ようやく重い腰を上げたホクトの背に、沙羅は心の中でこう言った。感謝でござるよ、お兄ちゃん。今度は拙者が一肌脱いで、先輩との仲を取り持ってあげるから……。
 口に出しては、
「さて、そうと決まれば、出発出発ぅ!」と言い、沙羅は、ナップサックを取りに居間へ走るのだった。
 その足が、ふと止まる。
 キッチンのブラインドカーテン越しに、晴天が広がっていた。
 その天空の下には、群青の海原が見えた。
 沙羅は覚えず、その海原を見つめた。
――自分も空も、かつてその海の中にいた……。
 2034年、自分はそこで、空と出遭い、空の存在を知った。
 けれども、あのときには、知らない事実があった。
 空も、この自分と同じように、孤独な存在だったということを。
……知らなかった。
 空が、自分と同じように、孤独に苛まれていたなんて。
……気付かなかった。
 空が、自分と同じ存在だったなんて。
 自分も空も、等しく孤独だった。
 その孤独を抱えたまま、今までずっと生きてきたのだ。
 自分はライプリヒという過去から、逃げ続けていた。
 あの日、その過去からもう逃げたくないと一世一代の決心をして、父のワゴンに忍び込んだのが、すべての始まりだった。
 それが、自分にとっての新しい始まりだったのだ。
 あの危機を通して、空という存在を通して、自分は自分のありようを見つめ、自分の未来を初めて見出すことが出来たのだから。
 空に、教えたいことがあった。
 伝えたい想いがあった。
 きっと、空もまた、自分の未来を見出せるはずだということを。なぜなら、自分と空は、同じ存在なのだから。同じ時間を、これから共に生きるのだから……。
 ホクトの声が、後ろから聞こえていた。
「沙羅。置いてっちゃうぞ!」
 はっと、我に返る。
 首を振り向ければ、ホクトはもう用意を済ませ、玄関のドアに手をかけているところだった。空いた一方の手には、沙羅のハンカチを持って。
「僕のためにも急いでくれよな」
 と、父親譲りの戯れ言を言い、ホクトは笑った。「空さんに待ちぼうけさせたら、僕が一番困るんだからさ」
 そのホクトの笑みに、沙羅は「おお、そうでござった」と、同じような笑いで応じた。
 荷物を引っつかむや、沙羅はそのまま、兄の待つ玄関へと走ったのだった。

 この日のために新調した靴を履く。
 ひんやりとしながらも、少し心地の良い感覚だった。この新鮮さ。この履き心地。新しい出発には、申し分無い。
 とんとんと靴をならしながら、沙羅は、目の前のホクトを見つめた。
 パパに似て、不器用で優しい兄。その背を改めて見直しながら、沙羅は思った。
 お兄ちゃんには、まだ先週の話をロクにしていなかったことを。
 沙羅はホクトに、先週の話をどんな形で説明していったらいいものか、何から話したらいいものか、心を弾ませつつ思った。
 けれども、今日は、それを話し切れないかもしれないな、と考えたりもした。なにしろ、今日という日は、空のために使う一日なのだから。
 自分の、この先何億秒という時間の中で、たった一人のためだけに使う、こんな日があっても良い。……沙羅は、そう思った。
 ホクトが、ドアを開けた。
 沙羅は待ちかねたように、「さあ、いくよ、お兄ちゃんッ」と、声を威勢良く張り上げ、そのホクトの肩をぽんぽんと叩いた。
「電車ごっこじゃあるまいし、止めろってば、沙羅!」
 恥じらうホクトにも構わず、沙羅は兄の背をぐいぐい押しながら、天空を見つめたのだった。
 天空は青く、ただ青く、澄み渡っていた。
 雲ひとつ無い。
 
 今日は本当に、良い祝い旅になるだろうな……。
 そんな事を、沙羅は重ねて想った。



     *


 
……空は、いつもの場所にいた。
 LeMUを想起させる、あの広場だった。
 草と木の向こうには、海原が見える。雪が消えていることを除けば、それは先週と全く同じような光景のように思えた。
 よく晴れた空だった。
 冬の朝の冷気が、肌を刺激している。
 体内の生体温度センサは、"279.17k"を示していた。摂氏に換算して、今の気温は約6℃。人であればおそらく、まだ少し寒いと感じる温度なのだろう。
 けれども、日は高く上ろうとしている。今日は少しだけ、過ごしやすい一日になるのかもしれない。
 武達と待ち合わせしていた時刻より、今はわずかに早かった。
 けれども、待つこと自体は、苦ではなかった。
"20億秒問題"に関わる修正用ファイルは、自分の思考システムに正常にインストールされていた。そのことは、自分のシステムの更新履歴から判った。
 現在、思考システムはしっかりと経過秒数を刻み続けている。そのことを確認するだけでも、今の待ち時間は、意味があると言えた。
 それに、なんといっても、今日は武達と一緒なのだ。どんなに待っても、待ちくたびれるという事はなかった。
《少ししたら、研究所を出て来いよな。まあ、幹線道路が混んでなけりゃ、1時間ちょっとで、そっちに着くからさ!》
 楽しみにしていたまえ、茜ヶ崎君、と、武は電話越しに言っていたと思う。
 とはいえ、言う本人の声が、楽しそうに弾んでいた。そして、言われた自分自身は、それ以上に楽しみにしていたりするのだが。
 そわそわしていた。
 自分には、新しい時間が与えられたのだ。空は、武や沙羅や春香菜や桑古木の事を想い、そっと目を閉じた。
 彼らに、これから少しでも自分は恩返しをしたいと思った。たとえ、どれほどの時間が掛かっても……。
 目を開け、空は辺りを少し見渡した。
 いつも見る景色のようだった。しかし、心なしか、違和を覚える部分も無くはない。
 けれども、これは思考システムに、若干の変更があったためと考えられた。思考システムのプログラム部分に、沙羅や春香菜が少し手を加えたからかもしれない。
 草がはためいていた。
 風が肌の上を流れている。
 冬の乾いた空気は、張りつめていながらそれでいて清涼であり、海の遠くの景色を鮮明に透過してきていた。
 天上には、一面の青空が広がっている。それを美しさとして"感じ"取ることのできない自分が、少し悲しくもあったが。
 僅かにとけ残った雪の照り返しに、目を細めながら、空は思った。
 彼らは、いつ来るのだろう。
 100秒後か、1000秒後か。
 何秒後なのだろう……。
 その到着の瞬間を待ち望みつつ、空は少し、今朝方のことを思い返してもいた。
 目が覚めてから、久方ぶりに体を動かしてみたところ、特に深刻な不具合は無く、安堵したこと。
 それから、武から連絡があったこと。
 その連絡の中で、"優の奴には、この件は内緒にしておくようにな"と入れ知恵されたこと。
――そうした経緯の後、せっせと支度をすませて、自分はここまで来たことを、空は思い起こしていたのだった。
 来る途中、空は研究所に備え付けられていた鏡の前で、密かな冒険心を起こしてみたことも、併せて思い出した。
 ちょっと、泣いてみようと思ったのだ。
 自分はあの日から、まだ一度も涙を流していなかった。試しに何度か息んでみたものの、どうしても涙は一滴も出てこなかったのだった。
 今朝も鏡の前で幾度か試してはみたものの、やはり駄目だった。いくら息んでみても、涙は一滴も出てこない。ほんのりと顔が赤くなっただけだ。
 こんなところを春香菜に見つかったら、何をからかわれるか判ったものではない。半ば逃げるようにして、空は研究所を後にし、今の場所に辿り着いたという訳だった。
 ここへ辿り着くまでの間、足元が少しおぼつかない気がした。
 が、これは、空間座標を把握するシステムと、それに追従して足を動かす生体ナノマシンのマッチングがまだ取れていないためだった。事実、このマッチングが完了してから、歩行には問題が無い。
 そうして、一つの問題をメモリから消し去り、空は、彼らの到着を待つことにしたのだった。
 胸はわずかに高揚している。脈拍と体液循環の数値の上昇が、それを示していた。
 ただ……それらの数値以外で、何か諸々の作用が自分に及んでいるような気がした。
 気がした、と、曖昧な表現にならざるを得ないのには、理由があった。武達に救われてからというものの、どうも説明の出来ない不可解なノイズが度々起こっているのだった。
 それは、今まで自分を苛んでいた絶望や不安によるノイズとは、ちょっと違っていた。
 そのノイズは、自分のシステムに負荷をかける訳でもない。ただ周期的に、穏やかに現れる不思議なノイズだった。
 システムチェックを幾度かけても、ノイズの発生源は検出されなかった。そもそも、自分の思考システムは、このノイズを"エラー"と見なしていないようだった。
 そのため、"原因不明の作用が、自分に及んでいる"という事実以上の結論を導くことは出来ず、空は不本意ながら、これに対する分析を一旦取りやめることにしたのだった。
 彼らが来る様子は、まだ無い。
 草と木と風。さらに遠くの海原だけが、自分の今見つめている風景の全てだった。それらには、やはり、"0"と"1"の数値で仕切られた境界がある。その境界によって、自分は草や木の存在を識別していた。それはやはり、自分が未だ人ではないという証拠であり、自分と人を分かつ境界でもあった。
 そんな自分に、また少し絶望しかけるも、それを頭の隅においやる。こんなことでめげていては、また倉成さんにご迷惑をかけてしまう。
 少し、ここで思ってしまった。
 それもいいかな……。そんな不届きな事を考えている自分が、どこかに居た。それで再び、倉成先生の"授業"が受けられるのかもしれないから。
 ここで、慌てて頭を振る。
 空は、頬に手を当てて赤面した。いつの間に、自分はそうした発想を身に付けてしまったのだろう。でも、想像することは、ちょっと愉しかったりもするのだった。
 ともあれ、空は、彼らの到着を待ち続けた。
 早く、倉成さん達に会いたいです……。
 そうしながら、空は、自らの想念につれづれと耽ることになった。
 澄み渡った空。
 果てもなく目の前に広がる、至純の青い世界。
 それは、見る者の心に平安をもたらせるような、穏やかな青空だった。まるで、夢の中にいるかのような。
 そう……。
 生命を感じることの出来ない自分でも、夢を見る事なら出来る。
――人になる夢を。
――人の心を理解できる夢を。
……それらが、未だ自分の手には届かない、遙か彼方の夢であったとしても。
 ふっと、微笑みが浮かんだ。
 寂しさを紛らすための、微笑みだった。それは、自分にも判っていた。
 けれども、と空は思った。自分は今、本当に夢を見ているのかもしれない、と。
 それほどまでに、浮世離れした青空だった。
 そして空は、つと海原に目を向けた。
 眼下の海原には、天空のそれよりも少し深い青の世界が広がっている。
 そうして、海を眺めているとき、空はまた、武の事を思い出した。
"今日は、目一杯引っ張り回してやるから。覚悟してろよな!" 
 笑いながら、そんな事を言っていたように思う。
"覚悟"という言葉と、その笑顔を結びつけるのに、少々時間がかかった。言葉と表情に、整合性がない。けれども、武がこの自分のために、今日という時間を取ってくれたことは事実だった。
 この事実から推測し、ああ、これは倉成先生独特の冗句なのだと解釈することで、空はひとまずの回答を得たのだった。
 それにしても、と、空は思った。今日の自分は、少しおかしいような気がする……。 
 ずっと、とりとめもない事を考えている。考えては、その雑念に浸り、夢想し、胸を高揚させている。
 倉成さん、沙羅さん……皆さんに早く会いたいです……。
 青空を再び見上げようとしたとき、先のノイズがまた一つ検出された。
 そのノイズを、空はチェックしてみることにした。どうせ、彼らを待つ間の戯れなのだ、と思いつつ。

――そのときだった。
 チェック後の結果に、見たこともない表示があることに、空が気付いたのは。
"SYSTEM HAS DETECTED SOMETHING UNKNOWN."
 システムには、そう表示されていた。
"不明な何か"が、検出……された? 
 空は、自身を訝った。
 ありえなかった。プログラムでも何でもない、そんな素性の判らない物が、自分の思考システムから検出される事など、決して考えられないことだった。
 が、その異変を分析するよりも早く、自分の耳は何かを捉えていた。
 草の音が……聞こえた。
 風に揺られる草の音が、空には微かに聞こえたのだった。まさか?
 それもまた、実はありえないことだった。
 今聞いている草の音とは、まず"分析"を経てから、判断されるべき物だった。なぜなら、自分は、分析することなしには、何の事象も理解することが出来ないのだから。
 けれども、今の自分はそうではなかった。そうした分析よりも前に、この音を"草の音"と判断しているのだった。
 そんな事は、今までの自分には決して起こらなかったことだった。
 何故――何故……?
 けれども、そうした原因を考えることさえ、空は忘れていた。
 風の音が、また聞こえた。
 冬の乾いた風が、自分の息を白くかすめ取り、虚空へ散らしていく。
――ああ、吐息とはこんなにも切ないものだったのか……。
 ここで、また空は戸惑ってしまった。
 こうした自然の起こす諸々の現象に、逐一揺れ動いている自分がいた。我が身に起きている異変を、もはや分析もせず、ひたすらこの景色に見入っている自分自身がいた。それに気付き、空は当惑したのだった。
 今まで、こんなことは無かった。ただの一度も無かった。
 何かが違う。どこかがおかしい。自分はまだ、どこかにシステムの不具合を抱えているのだろうか。
 いや。そうではなかった。思考システム上に、現在エラーはどこにも無い。
 過去のアーカイブデータを展開して、全てのデータファイルを検索するも、こんな現象を説明出来るようなものは、何一つ無かった。
 しかしながら、説明のつかない何かが、自分の内で起こり始めていることは確かだった。これは、一体何なのだろう……。
 けれども、そうした疑問も、明瞭な思考として頭に上ってこない。
 空はただ、視界に広がる景色を、漠として見ていた。

 自分はまさか、世界を"感じ"始めているのだろうか。
 今まで、何も"感じる"ことの出来なかった、この自分が……。
 そんなことを思う中、ノイズがまたも起こっていた。
 これは先と同じノイズのようだった。
 しかし、素性の判らないこのノイズを、ひとりでに受け入れている自分が居た。そして、何かを満たされている自分が居た。
 何故だろう。
 何故、このノイズが、自分を安心させるのだろう……? 
 このとき、空はまた、自分の視覚の変化に気付いた。
 少し、視界が滲み始めていた。いや、そうではなく――自分の視覚を構成している、あの"境界"が不鮮明になり始めているのだった。
 一体……自分に何が起きているのだろう? 
 システムチェックを再び行った、その直後だった。
 とくん、と――。
 自分の体内で、何かが動いたような気がした。
 あ……と、空は声をあげた。
 それきり言葉が、出てこなかった。
 動き始めた、その"何か"は、ゆるゆると自分の中で広がろうとしていた。
 浸食してくるわけでもない。支配しようとするわけでもない。
 それは、自分を温かく包みこむような広がりだった。
 今まで己の身に起きたことも無い感覚が、このとき、起きようとしていた。
 これは何だろう? 何なのだろう? 何かに包まれ、優しく抱かれているような感覚――? 
 判らない……。判らない……。
 けれども、何かが、本当に芽生えようとしていた。今まで経験したことのない、何かが。
 空はいよいよ呆然として、自分の体を見つめていた。
 一方で、武や沙羅の事を想った。
 自分に起こりつつあるこの変化を、この現象を、彼らに伝えたいと思った。倉成、さん……沙羅さん……私に、何かが今、再び起きようとして――います……。
 目の前の風景が、霞んで見えない。おびただしいデータが、自分の中に流れ込んできていた。
 本当に、これは一体何なのだろう――。
 それは、システムの制限や制約を超えており、これまでの自分には決して認識することの出来なかった、巨大な現象だった。
 そんな途方も無いものが、押し寄せて、くる……。
 自分の手や体から、白熱した物を感じた。
 それは、あらゆる信号を凌駕した、光の迸りだった。
 分析も解析もまるで出来ない力が、渾然と溶け合い、頭の中で絡み合った。
 そうして、ありとあらゆる感覚が一点に凝縮し、それは閃光となって――頭の中に炸裂した。

――……。
 気を失いそうになるほどに凄まじいその閃光は、しかしその後、急速に薄らぎ始めてもいた。
 視覚も、蘇り始めている。
 恐る恐る、空は視線を、自分の体から周囲の世界へと向けた。
 草や空を、再び見る。
 そして、このとき――。
 空は初めて、この世界を感じたのだった。
 ああ……。

――草を感じた……。
 草が、海のようにさざめき、揺れ動いているのを、空は今はっきりと感じた。

――空を感じた……。
 空が、この世界のすべてを包みこむように、果てもなく広がっているのを、空は今しかと感じた。

 これが……人の見つめていた世界だったなんて――。
 涙が、零れていた。
 信じられなかった。
 0でもない。1でもない。それ以外のもので創られている世界が、ここにあった。
 自分の決して知り得なかった世界が――ここにあった。
 論理ではなく、アルゴリズムでもなく、他のどんな数式でも置き換える事の出来ない、名付け難い世界が今……自分を包み込んでいる。
 その奥深い感覚を一身に受け、空は身じろぎもせず、そこに佇んでいた。
 本当に、言葉を失っていた。
 草も風も、混沌として流れており、その流れは不規則だった。それは、自分がかつてしてきた、いかなる解析も及ばない流れだった。
 それだけではない。
 この世界には、あらゆる物象に明確な境界が無かった。
 揺れなびく草々に、明瞭な輪郭は無く、そこから境界を見つけることは出来なかった。この天空にも、もちろんそれは無い。
 すべての物は、あいまいに存在し、あいまいに絡み合っていた。
 にも関わらず、自分は草のはためきから、草の存在を感じていた。風のせせらぎから……空の広がりから、それらの存在を確かに感じ始めていた。
 まだ十全としたものではなかったにせよ、今まで感じたことの無かったそれは、仄かな手応えを持つ感覚だった。
 形容の出来ないほど、この世界は生気に満ちていた。目くるめくような色彩と質感と存在感に、満ち溢れていた。暖かかった……。
 思考システム上には、先のシステムチェックの結果が表示されていた。
 空はこのとき、自分に今インストールされた、システムの正体を知ることになった。
 それは――新しい認識システムだった。すべてのものを、ありのままに"感じる"ことの出来るシステムだった。
 そして、そのシステムからは、先刻のノイズが微かに感じられた。
 優しく、身体を緩やかに巡っていくような、ノイズだった。
 そのノイズが、人の心臓の鼓動と同じタイミングで起こっていることを知るにつけ、空はこう思ったのだった。
 ああ、自分は今、新しい"生命"を授かったのだ、と。この思考システムの中に……。
 空は、目の前に広がる草々と海原を見つめていた。
 涙の残滓に滲む世界を見つめ、その世界を見つめる自分の存在を感じた。
 本当に、これは奇跡だと思った。
 そして、その奇跡とは、神によって起こされたものではなく――この自分を想ってくれた人達の心によって、起こされたものだった。
 人が人を想う心が、奇跡を起こしている。
 その奇跡は、人ではなかったこの自分の上にさえも訪れた。
 それは、たとえようも無く尊い、贈り物だった。
 空は、限りない思慕を込めて、この奇跡を与えてくれた者達の事を想った。倉成さん、沙羅さん……。
 胸に手を当て、空は目を閉じた。
 そして……深く、武達の事を想った。

――微かな音を、空は聞いた。
 遠くから、その音はしていた。
 目を開け、空はその音の方向へ、顔を振り向けた。
 もう、何も"分析"する必要はなかった。……自分には、その音が何であるかが、すでに判っていたのだから。
 振り向いた先には、小さい家族用ワゴンが止まっていた。
 そのワゴンの中に、彼らが――"生命を祝福する者"達がいた。
「空さぁん、行くよぉ!」 
 ホクトが後部座席から、手を振っていた。
「早く来ないと、待ちくたびれるでござるぅ!」
 沙羅もまた同じように、自分に手を振り、笑顔を向けていた。
「茜ヶ崎君、今日は忙しいぞ! 手裏剣村は、ちょっとばかり遠いからのう!」 
 武もまた、運転席から、自分に微笑みかけていた。
 このとき、空には、彼らが微笑んでいる理由が判った。
"人"として……"人になりゆく者"として……彼らの微笑みが理解できたのだった。その意味も、想いも含めて。

「ああ、もう待てないでござる! 空を引っ張ってくるからッ!」
 沙羅がそんなことを言い、しかし弾けるような笑みを浮かべながら、ワゴンから降りてきた。
 武もホクトも、ワゴンから次々に降りて、この自分の元に向かってくる。皆それぞれに、柔らかい笑みを湛えながら。
 その彼らを迎え入れようと、空は、心からの笑顔を向けた。
 弾みで、涙が一筋、頬を流れた。
 それは、先週のあのときに流した涙よりも、更に深く、心の中に沁み込んでくるような涙だった。
"人は少しずつ、人になっていくんだよ。空"――。
 その言葉を、空は心から感じていた。それならば……この自分の流す涙も、少しずつ人の涙に近づいていくのかもしれない……。

「すみません、皆さん。……すぐに、そちらに参りますからッ!」
 思いのたけを込め、そう叫んだ。


 それから――。
 空は、足を一歩踏み出したのだった。 


  世界に、ただ何処までも広がる

  ――この草と、空の下に。  





 (了)



 


 あとがき
 
 どうも、YTYTです。
 最後まで、この拙作を読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
 本当にお疲れさまでした。労いと共に、心から感謝の言葉を申し上げます。
 ストーリーの立て方も科学考証も未熟であり、キャラクタの描写も画一的であった事など、反省至極です。
 更に本作は元々、前作よりも前に書いていた作品であったため、赤面するほどに拙い描写も多々にあったことかと思います。
 読者様には、この場を借りて深くお詫びいたします。
 精進あるのみと考えて、これからも研鑽を積みたいと思います。

 それでは、このあたりで失礼させていただきます。
 最後に、この作品を読んで下さった方々、ご感想を下さった方々、そしてご多忙の中で本作品を掲載していただいた明様に、重ねて感謝の意を述べさせていただきます。

 本当にありがとうございました。


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