月は、そこにあると信じることによってのみ、そこにあるという。
 海は、そこにあると信じることによってのみ、そこにあるという。
 それならば、と私は思う。
 そこにあると信じることなしには、その存在さえ断定できない、月や海や私たちとは、一体何なのだろう、と。
 翻っては、こう……私は思うのだ。

 私たちの生きている意味とは、一体何なのだろう、と――。

「月と、海と(前編)」
                              YTYT 





 2035年4月中旬。
 長らく居座り続けていた偏西風も退き、ようやく春らしい陽気が巡り始めていた。
 車窓には、青く澄み渡った空が広がっていた。
 そのあまりにも透明な青に、夢を見ているような錯覚に陥る。
 いや、自分は本当に夢を見ているのかもしれない。それほどまでに、綺麗な青空だった。
 橋梁の上には、空の青。その下には、それより少し深い海の碧が広がっている。車窓から見える風景としては、申し分ない。
 倉成一家を載せたワンボックス・ワゴンは今、そんな橋を南下し、我が家への帰途についているところだった。視界のはるか先には、臨海都市の遠景がくすんで見えた。
 この爽快な景色は、あと10分は続くのだ。
 今走行している橋は、日本でも三本の指に入る長さだという。
 橋の総数、大小あわせて5。橋梁部は7km。高架部を含めると優に11km超の延長を持つ、大型の橋だった。
 日焼け止めのローションを幾重にも塗った手や肌が、光を弾いていた。
 それが、自分の持つ体の意味を否応なしに教えてくる。自分がキュレイ・ウィルスのキャリア(感染者)であるという事実を。
 p53遺伝子の効かない存在。老いない肉体。そして、死ねない運命……それは皆、自分という存在を示すものだった。
 それでも、とつぐみは思った。自分には今、ささやかな幸せがあるのだ、と。
 つぐみは、ハンドルを握りながら、少し息を吸った。
 潮の香が、わずかに嗅覚を刺激してくる。風に運ばれてきた匂いの中に、つぐみは生命のいとなみを感じた。
 ――自分たちを繋ぎ合わせたのは、この海だった。
 深い海の中で、あのLeMUの中で、自分たちは出逢い、生死を共にし、やがて一つの家庭を築くに至ったのだ。
 それを思うと、郷愁が胸の内に起こってくる。そして、遥かな想いに束の間とらわれるのだった。18年前に武と出会い、ホクトと沙羅を自分の内に宿した、あの場所に……。
 が、そうしたつぐみの想念は、助手席の馬鹿明るい歓声の前にかき消えていってしまう。
「よっしゃあッ! 本日は晴天なりィッ!」
 武だった。
 豪快に手を叩き、サイドミラーを全開にしては首を出し、天空と海原に向かって吠えている。武は、家から持参して来たプラスチック製のタイガースバッドを振り回してもいた。
 そればかりでない。武は、後部座席に首を振り向けるや、ホクトと沙羅にもけしかける始末だった。
 けしかけられた二人も二人で、それぞれ勝手な歓声をあげたものだ。
「たーまやァーッ!!」
「4月は卯月でござるゥーッ!!」
「ニンニンッ!!」
 武のダメ押しの歓声に、ホクトと沙羅が笑い声で応じていた。
 自分の夢想を滅茶苦茶にされ、つぐみはなんとなしに面白くない心境だった。
 武がまたも車窓から首を出して、何事かを叫ぼうとしたところへ、パワーウィンドウを上げる。

 ……倉成家は一時の休暇を過ごしていた。
 武の誕生日を一週間後に控えていたこともあり、「この際だから羽根を伸ばしておくか」という当人の提案もあった。そうして企画され、実現することになった”後ればせの春休み”というわけだ。
 武は現在、優春が所長を務める、”田中研究所”の研究員だった。
 表向きは、民間の製薬研究所。その実態は”ウィルス・細菌の研究を専門とする機密機関”――それが、田中研究所だった。
 そこで、武は試験管とプロトコール(実験手順・条件などを記載したもの)を手に、日がな一日研究に勤しんでいる次第だった。
 この休暇を獲得するために、武は勤め先の所長である優春へ陰に陽に奉仕していたのだという。その、”陽”の部分は良いとしても、”陰”の部分が少なからず気になるつぐみではあった。
 が、ともあれだ。
 旅館に一泊。そこで温泉と遊行に興じた後、家の帰途がてらにシーサイド・ドライブ。予定と言うのもはばかられるほどに粗雑な日程だったが、それらはまあ、ほぼ滞り無く終えようとしていたところだった。
 翌日からは、再び日常が始まるのだ。ホクトと沙羅には高校生活が、武には長残業三昧の仕事が、そして自分には自分の家事が。
 そうした事情もあり、”今の内に家族と愉しんでおきたい”とはしゃぐ、武の想いは判っていたのだが……。

 ……当の本人は、助手席で激しくむせていた。
「おま、えッ……つぐみ、ごろ、ず気か!?」
 先刻のパワーウィンドウが、見事に下あごに入ったらしい。涙すら浮かべながら、武はかんしゃくを起こしていた。
 つぐみは前方を見たまま、応えた。
「“走行中、車窓から首を出してはいけない”……そういう初歩的な交通教則を、貴方に体験学習させてあげたのよ。戒めの意味も含めてね」
「戒められる前に、死んじゃうじゃんかよッ」
「死なない」と断言してから、つぐみは武を見、言葉を続けた。「……貴方は、キュレイ・キャリアだから」
 いささか鼻白んだものの、武はまだ食い下がってきた。
「いくら俺がキュレイ・キャリアだからって、人間死ぬときゃ死ぬもんだ」
 死んだらタツタサンドだって食えなくなるんだぞ、と腕組みする武に、つぐみはこう言った。
「逆に、タツタサンドが食べられなくなったら、さしもの貴方も死ねるかもね。……仮に貴方が死ぬとしたら、そういう珍奇な原因しかありえない」
 だが、これは言っている自分でもよく判らない、意味不明な理屈だった。武の相手をすると、自分は知らず知らずの間に、こんなふうに狂わされていってしまう。
 また、そうした乱れざまを、自ら愉しんでいるふしもあり、つぐみとしては、そんな自分自身に半分呆れ、半分驚きもする心境だった。
 そこへどうしてか、武は合点のいったような表情をし、更にこう言うのだった。「そいつは、もっともだな」と。
「たしかに、タツタサンドが食えなくなったら、生きてる愉しみもあんまり無いしな。人生も終わりってもんだぜ」
「まあ、その人生観の在り方からして、貴方はすでに終わっていると思う」
 つぐみは、身もふたも無い一言を返した。
 後部座席では、ホクトと沙羅の笑いが起こっていた。
 ピントが徐々におかしくなっていく自分たちの会話に、つぐみ自身気付いていたが、やはり外野の二人も同じことに気付いていたのだろう。
 少し面映ゆくもあり、そうした二人の洞察を誇らしく思う気持ちもあり、母親としては複雑な心境にもなってしまう。
 一方の問題は、この頑迷な夫だった。当人はまだ、タツタサンドが云々と言っている。
 そんな際、海原に視線を向けたホクトが、唐突に口を開いた。
「あ、僕。いま良い句が、一つ浮かんだよ!」
 そうして、ホクトは次のような句を詠み始めたのだった。

 駒ヶ原 (こまがはら)
 ああ駒ヶ原 (ああこまがはら)
 駒ヶ原 (こまがはら)
《詠み人:倉成 ホクト》

 これには、車内でわずかながらの反応が返った。武などは、真顔でう〜んと唸りもしたものだ。
「凄いな、ホクト。先達の威光が今、ここにあらわれたかのような響きだ。言霊って本当にいるんじゃないのか」
 そうした、えせ評論をのたまう武でもあった。けれども――。

 お兄ちゃん (おにいちゃん)
 芭蕉の真似は (ばしょうのまねは)
 否でござる (ひでござる)
《詠み人:倉成 沙羅》

 ホクトの句へ冷や水をかけるように、沙羅が後の句を詠んでいた。季語も切れ字もへったくれも無い。全くの即席俳句だった。
「ひどいよ、沙羅。真似呼ばわりは」 
 口を尖らせて抗議するホクトに、沙羅はべったりと抱きついてきた。
「次からは、ちゃんとした自分の句を作ろうねぇ、お兄ちゃん」と、沙羅は甘え声を上げた。でも、その言葉の内容は少し手厳しかったりする。
「けれどもさ。沙羅のなんか、季語も何にも入ってないよ。こんなの俳句の定義に反してるしさ」
 自分の句のことは棚上げにし、ホクトがまだ不平を垂れていた。けれども、当人は、妹に胸を押し当てられて赤面してもいる。
 つぐみは、ホクトに向かって口を開いた。
「ホクト。そうした”定義”云々という考え方に、縛られてはいけないのよ」
 高架橋の景色に目をやっては、言葉を続けた。
「物事の定義というのは、時が変わり世情が変われば、少しずつ変容していくものだから。
 ……たとえば、”死”がそうでしょう。昔は、人の死の定義とは”心停止”のことだったのに、今ではそれに”脳死”が加わっている。そして、その脳死の定義すらも、医療の技術が進むにしたがって、変容しつつある。
 つまり、物事の定義なんて、すべてあいまいなものだということ。……だからよ」
 車内が、急にしんとしてしまった。
 言った後で、つぐみは我に返り、少し後悔した。興を殺ぎ、場の雰囲気を損ねたのは、自分の余計な価値観の吐露だった。
「ああ……以上、うちのワイフの、知的な論説でした」と、武が小器用なフォローを差し入れてくれる。
 その武に、つぐみは自嘲の笑みを浮かべつ、こう応えた。
「こんな屁理屈を”知的”と評してくれるなら、それは恐縮至極ね」
 言ってしまってから、はたと気付く。今の自分の台詞は、皮肉を通り越して、相当に嫌味な感があった。
 自らの口の悪さを改めて思い知る一方、なんとか早く話題を元に戻そうと考えるつぐみだった。
 そんなつぐみへ、更なる助け舟を出そうとしたのか、武は手を突然叩いた。
 そうして、「ぃようし! 次はいよいよ俺の番だなッ」と語調も明るく、鼻を鳴らす。
 真打ち登場と心得よお前ら、と言っては、武は得意げに句を詠みあげた。
 だが……これが非常にまずかった。

 月海も (つきうみも)
 油断大敵 (ゆだんたいてき)
 皮下脂肪 (ひかしぼう)
《詠み人:倉成 武》

 ホクトと沙羅の引きつった顔が、バックミラー上に交錯した。
 ――詠み終えるや、修羅場が始まっていた。
 物を言う暇すら与えず、つぐみは無言で、タイガース・バットを武の手から奪い取っていた。”神速、目にも留まらぬが如く”だった。
”月海(つきうみ)”とは、無論つぐみのことだ。
 武にしてみれば、とんちを効かせた俳句のつもりなのかもしれない。が、それはこのとき、完全に仇となっていた。とんちを効かせ、頭を働かせた分、つぐみの怒りを倍加させていたのだから。
 一閃、二閃とプラスチックバットが、極めて正確に武に振り下ろされる。ンきゃんッ、という武の悲鳴がこだました。
 殴打されたその数、じつに17発。まさか、自らのタイガース・バッドを得物にされるとは思っておらず、武はバッドの洗礼をしこたま浴びることになった。
”キジも鳴かずば打たれまい”という格言を思い出すよりも前に、武はまず目下の地獄を見させられていたのだった。
 ちなみに、第六感を働かせて黙っていた子供たち二人は、難を逃れている。
 MT車でステアリングを片手に握ったまま、助手席のパパに天誅を下せるママのドライビングテクニックを、ホクトと沙羅は驚愕と戦慄を持って見入っていた。
 激しく揺れていたサスペンションがおさまり、残されたのはすさまじい武の有様だった。
 陸に打ち上げられた魚の変異種よろしく、助手席に横たわっている。その武の形姿(なりかたち)は、UMA認定も確実な壮絶さだった。
「あ、ああ、わ……」
「あう、あ、う……で、ござ、る……」
 ドメスティック・バイオレンスの現場をつぶさに目撃し、がくがくと口を開くだけのホクトと沙羅だった。
 そして、その二人が見ている中、虫の息の武を尻目に、つぐみは淡々と一句を詠み上げたのだった。

 月海に (つきうみに)
 戯れ句哀しき (ざれくかなしき)
 末期かな (まつごかな)
《詠み人:倉成 月海》

 かくて、即興俳句大会は、つぐみのきつい一句で締めくくられた。
 武にとっては、なんとも厳しい幕切れとなったが。

 ――高架橋のドライブも、やがて中盤から終盤に差し掛かろうとしていた。
 遠くにぼやけていた臨海都市の輪郭も、だいぶ明瞭になってきている。
 武の腫れ上がった顔は、大分退いていた。
「鼻血の止まりが悪いな」などと呟きつつ、顔を上に向けて、後頭部をとんとん叩いてもいる。
 さらに、「Hな想像をしていると思われちまうし」などと、無駄口を重ねる武だった。
 つぐみは、それを無視しつつ、前方の風景に目を細めていた。
 運転を続けながら、つぐみは、このワゴンの乗り心地の良さに改めて気付いてもいた。
 中古のワゴンであり、元はAT仕様のものだった。それを、武がMT仕様へ換え、所轄の陸運局の車両審査に通していたのだ。
 武曰く、”いかにも車を運転しているという感覚”が良いらしい。もっとも、今現在運転しているのは、この自分だったりもするのだが。
 ともあれ、中古であるにも関わらず、このワゴンのクラッチのかかり方には不具合感が無かった。
 おそらく、クラッチディスクやプレッシャプレートも全て換え、周到な調整をしていたのだろう。半クラッチの位置に無理は無い。油脂類やシフトフィールなども手抜かり無し。ステアリング各部の挙動も問題は無し。……ナビシステムが不調で使えないことを差し引いても、及第点は十分にあげられるワゴンだった。
「良いだろう? つぐみ。俺の仕込み方は」
 まんざらでもない、といった様子で、武は聞いてきた。
「何が?」
 自分のとぼけ方は、少し下手だったのかもしれない。武は「またまた、つぐみんったらもう」と、見透かすような笑みを浮かべた。
 武の、平素はきつい顔貌は、こんなとき絶妙な表情となって和むのだ。
 陽気で朗らかで献身的。それでいて、時には頑迷で意地っ張りで不器用。
 そんな、子供のような大人げなさと、常人を二、三歩踏み出した包容力が、この夫には同居しているのだった。
 そのあたりもまた、女心をくすぐっているのかもしれない。
 おそらく、あの空も、これにしてやられたのだろう。そう、つぐみは思った。とはいえ、これは、空への嫉妬と邪推を含んだ見方ではあるのだが。
 そして、こうした自分の胸中を、武が露ほどにも感じていないのもまた、伴侶としては歯がゆくもあり、嫉妬心も抱かされるのだ。
 包容力も行動力も、人並み以上にあるくせに、女心にはまるで疎い。想像力一つさえ働かない。
 ちょっと、いまいましい気分になる。が、ここでつぐみは、改めて思い直しもした。
 きっと、これこそが、生まれもっての武の気質なのだろう。17年ぶりに再会した武が、まず最初にしたことはと言えば、この自分を茶化してきたことなのだから。チャミを方便に、私をからかって……人の気持ちも知らずに……。
 この、女の敵。そんな目線を送るも、当人は気付く筈もない。
 溜息を吐いた。自らの夫の鈍さに対する憤りと諦めが、虚空に散っていった。
 けれども何故だろうか、口の端に少し笑みがこぼれてくる。人にこうしてやきもちを焼いている自分のありようが、なんとも可笑しかった。
 馬鹿みたい、と思いながらも、自分の心は少女のように躍ってもいた。ライプリヒに監視される前の自分は、きっとこうだったのだろう。ライプリヒからの逃亡生活で長らく凍りついていた心と時間が、この一年の間でようやく動き始めたのかもしれない。
 晴れ渡った、フロントガラスの景色を眺め見る。
 そして、先刻の返答代わりに、つぐみは武に微笑で応じた。たしかに、この車は上出来だった。
 アクセルペダルを少しだけ踏み込んだ。背中が少し後ろに沈み、ホクトと沙羅が歓声を上げた。
 橋梁の隙間の影が、こぎみ良く過ぎ去っていく。
“風を駆っている” ――そんな、心地よい錯覚に陥る。
 サイドドアから流れ込んでくる外気はまとわりつくこともなく、肌の上を涼やかに流れていく。至極自然でうららかな、春の風だった。
 日は、高らかに上っていた。 
 翳りは、この天上のどこにも見当たらなかった。
 雲一つ無い。どこまで見ても、青ただ青の碧空だった。
 色彩学では、青は知性や理性を象徴する色でもあり、内省的で沈着した精神の状態を生む色であると言われている。
 己が胸の内に、どこまでも沁みこんでくるような、至純の青。
 遠い過去と、近い過去で見た、青い世界。
 その青い世界の下に、自分たちはいる。
 
 武は、ホクトと沙羅との会話に興じていた。
 会話の内容は、実にとりとめのない物だった。武の友人が新しく始めたドイツ料理店の話やら、ホクトが値切った自転車の話やら、本当に一貫性というものが無い。そのあたりは、適当に聞き流しておくつぐみだった。
 そして今は何故か、一ヵ月後の文化祭の話になっている。
「なあ、お前らと一緒に、出られないもんかな? 愛称”倉成 たけぴょん”。エレガントな留年高校生というシチュエーションでさ」
 一体どんな魂胆があるのやら。突飛ではあるものの、ホクトと沙羅を喜ばせようとしている意図だけは明快に伝わってくる、武の発言だった。そうした会話に、つぐみは少し耳をそば立て始めていた。
「パパ。一体、どれくらい年齢をごまかす気でござるかなぁ?」
 沙羅が面白がって、茶々を入れた。後部席から身を乗り出しては、武の背にそっと手を伸ばす。
 そんな沙羅を、つぐみは横目で見ていた。
 ホクトもそうだったが、この沙羅も、親への接し方はひとかたならぬものがあった。特に、武に対する接し方は尋常ではない。まるで、自分の恋人かそれ以上の親密さをもって接しようとする。
 けれども、その原因とは、自分たちが彼らに十全な幼少時代を与えてやれなかったことに他ならなかった。
 子供の発育段階のうち、出生後の初期にあたる期間を、心理学用語で「口唇期(こうしんき)」という。
 口や唇を通して、母親などへの愛着を生じさせ、対象からの愛を感じる期間。それは0才から2才くらいの年代を指すのだが、この段階で十分に欲求を満たされないと、大人になってもその人間は依存的になり、愛情欲求を強くするようになる。
 この時期に問題を生じた性格は、「口唇期性格」と呼ばれており、統計学上の傾向として、その子供は甘えん坊になるというのだ。
 ……だが、つぐみはそうした想念を、すぐに頭から遠ざけた。
 発達心理学の話以前に、ホクトと沙羅の性格の形成とは、まず親の責任によるものだった。
 その責任は責任として、厳然と受け止めなければならず、もしホクトと沙羅がそうした性向を有しているのであれば、それは、自分と武とで対処していかなければならない問題だった。
 幸か不幸か、ホクトも沙羅も、他人の家庭に引き取られていた生い立ちから、最低限身を守るための防御本能を備えていた。そして、他人と適度に距離を置く術を持ってもいる。
 二人とも、きっと家の内と外では別々の顔があるのだろう。
 自分の知らない、一高校生としての二人の姿を想像し、つぐみは少し救われるような、少し寂しいような、複雑な心持ちになるのだった。
 意味の無い想像にこだわっている、とは思う。けれども、ホクトと沙羅の将来を思えばこそ、そうした想像にも心が揺れ動いてしまう自分がいた。
 ――そうこうしているうちに、武の軽快な返事があった。
「うんッ、まあ少なくとも5年くらいは、年齢をごまかしたい所存でござるな! キュートたけなわの、ティーン・エイジャーに逆戻りでござる」
 と、腕を組んで答える武だった。ニンニン、とのたまってもいる。
 武のこうした性格は、いつも自分を呆れさせる反面、和ませてもくれる。それは武の性格の一面に過ぎないのだろうが、今は、そんな武のお気楽さに救われる思いがした。
 そして、なんとなく悪戯心めいた気分にも駆られ、つぐみは武の台詞に一つ乗ってみた。
 皮肉をちょっと込めながら、つぐみは言った。「大丈夫よ、武」
「……そんなことをしなくても、精神年齢なら今でも子供たちと互角以下だろうから、貴方にも出る資格は十分にありそうだわ」
「お、言ったわねぇ、つぐみん。エヴァー17才」
 おどけて武は応じてきた。珍妙な横文字も、台詞にまぶしていたりする。
「でもなあ、見かけの年齢で言えば、お前にだって参加資格はあるんだぜ。この文化祭、たしかディベートコンテスト(討論大会)もイベントとしてあったはずだし、お前も出られるぞ。優勝しろ、しちまえ。そうして、皆に反感を……」
 言い終わる前に、つぐみは軽く言葉を返してみせた。
「私も出られるなら、貴方と夫婦で参加してみようかしら? この文化祭、たしか仮装大会もあったはずだから。……お題は”魔女と漬物石”というところでね」
 とっさに反撃の言葉を探せずにいる武を尻目に、つぐみは更に言った。「不惑も間近の男が、魔女にたぶらかされて漬物石にされてしまい、17年間海の底で眠らされてしまう……こんなストーリー仕立ては、どうかしら?」
「”海の底で眠り続けること”なら、あなたはさんざん体験しているし、予行演習も要らないものね」と、つぐみは、とどめの一言を突き刺した。
 ついに武は、チャミの形をしたマスコットに泣きつき始めていた。
「チャミチャミぃ。お前のご主人ちゃまが、亭主にヒドいことを言うんだよう」
 すりすりと、武が頬擦りしていたりするそれは、当人がこしらえたマスコットだった。それは、使わなくなったルアーから器用にも削りだしたものだ。
 4人分。”キーホルダーに”と、武はこのチャミのマスコットを、自分たち全員に渡していたのだった。
 いつの間にか取り出したそれに向かって、武は切々と語りかけていた。馬鹿馬鹿しい限りの茶番だったが、なんだか妙に力の入っている武だった。
 武が、いかに虐げられている存在か。
 その妻が、いかに恐ろしい存在か。
 そうした事を怪しげな語り口で、怪しげな論理を展開しつつ、武はマスコットのチャミに説明していた。ご丁寧にもこのチャミを擬人化させて、応対させながら。
「ふぅ〜ン。たけぴょン、とっても可哀想。同情を禁じ得ないでチュネ。うン! このチャミチャミが、つぐみンにきっちりと注意しておくヨッ!」などと、恥じらいも無く続けている。しかも裏声。殆ど、電波がかった芝居だった。
 しかし、そんな三文芸であっても、ある次元にまでいけば、笑いの情緒を創り出す域に達するものらしい。ホクトと沙羅などは、終いには腹を抱えて大笑していた。
 おそらく、先刻のバッドの腹いせもあるのだろう。ホクトと沙羅に受けていることを追い風に、武はここぞとばかり、つぐみの欠点を並べ立て始めていたのだった。
 まったく、転んでもただでは起きない夫だった。
 腹話術の台詞の中には、多少かんに障る類の揶揄もあった。が、つぐみはホクトと沙羅の笑顔に免じて、このときばかりは被告の席に甘んじることにしたのだった。
 そして、そんな茶番のくせに、この武の腹話術には、中々どうして説得力を感じさせる物もあった。
 表向きには無視を決め込んだものの、つぐみは思わず聞き入ってしまっていた。
 その中には、自分も知らないでいた欠点をつく物も少なからずあり、つぐみは密かに自戒を強いられてもいた。

 ただ、それにも限度があった。
 そろそろ、三人とまともな会話をする必要にも駆られ、つぐみは口を開いた。
「武、……電波ジャックはその辺にしておいて、そろそろ荷物の整理をしておいた方が良いんじゃない?」
 貴方たちもよ、とバックミラーの二人に声をかける。
 高架橋はすでに通り過ぎていた。自分たちの家へは、あと少しの距離だ。
「は〜い」と、異口同音に、ホクトと沙羅が支度を始める。武も、自分の胸ポケットなどに財布を入れ直したりもしていた。
 その武に、つぐみが視線を向けた時だった。「おっと」という武の声を聞いたのは。
 視界を、紙が横切った。
 それは気まぐれな軌跡を描き、自分のシフトレバーの脇に落ちた。
 取ろうと手を伸ばすも、「あ、いい、俺が取るから」という、武の声があった。
 武が身をかがめ、その紙を拾い上げる。
 そのとき――。
 一瞬、つぐみの目は、ある文字を捉えていた。その紙に書かれている、二つの文字を。
 karte……tief――?
 呼吸が止まった。
 karte……tief。 
 まさか……。
 karteとは、ドイツ語で”診断書”を意味する。そして……tiefとは。
 tief……tief――。
 脳裏に、黒い靄がかかった。tief……blau。
 ティーフ・ブラウ――。
「つぐみ、前ッ」
 武の鋭い声が聞こえ、我に返った。
 目前に、10tトラックの後部が迫っていた。
 ブレーキをかけて減速する。スキール音を一瞬轟かせたものの、ワゴンはすんでのところで追突をまぬがれた。
 ステアリングとペダルの操作で、車体の挙動をすぐ元に戻す。その後、アクセルを少し踏み、ワゴンの速度を車列の流れに合わせた。
 後方からのクランクションを、したたかに浴びる。こちらに非があったとはいえ、かなり陰湿でしつこい鳴らし方だった。
 舌打ちをし、その方向を睨みながらも、武はすぐにつぐみの方に目を戻した。
「大丈夫か? つぐみ」
「ママ、大丈夫?」
「顔色、少し悪いよ……ママ」
 すぐに、三者三様に気遣ってくる武たちに、つぐみは手を軽くあげて「大丈夫よ」と応じた。
「ちょっと、武の怪電波に当たり過ぎたかもね」と、そううそぶく。
「つぐみ、運転代わるか?」
 自分の言葉を真に受けてしまったのか、武が提案してきた。
 そんな夫の気遣いに、良心の呵責を感じた。しかし、詭弁とはいえ、一度吐いた言葉を翻すわけにもいかない。つぐみは夫の申し出をやんわりと辞しながら、運転を続けた。
「大丈夫よ。……それに、家まであと少しでしょう」
 言いつつ、前方に目を戻す。
 武には悪いと思ったが、運転を代わるつもりはなかった。
 正直、何かに集中していなければ、平静でいられなかった。自らの想像に押しつぶされそうだった。
 karte……tief……。その文字は、ずっと頭に貼りついたままだった。

「ホクト、沙羅。お前ら、腹減っただろう?」
 武が突然に、後ろの二人へ声をかけた。
「あ、うん。小指の先くらいは」と、ホクト。
「こちらは親指の第二関節くらいでござる」と、沙羅。
 ホクトも沙羅も、沈みかけた場の雰囲気を繕おうと、それぞれに小粋な冗句を言い合っていた。
「んじゃ、ファミリー・レストランにゴーだな!」
 そう言って、武はつぐみに敬礼のポーズをしたのだった。
「つぐみ様。こういう事情ですので、我々を最寄りのレストランへお導きくださいませ」
 よろしくであります、と武は敬礼してみせた。
 この自分をリラックスさせるための、武の配慮だった。
 いつも忙しく口は動き、手は動き、目は相手の機微を窺っている。また、それらの動作が、ごく自然な生理現象であるように見えるのが、武の不思議なところだった。
 そうした武の神経が今、この自分に向かっていた。それがつぐみには判った。気恥ずかしさもあったが、自分が幸せであることを、このときつぐみは感じた。
 大切にされている。そんな自覚を持っては、仄かな嬉しさと面映ゆさが立ち上ってくる。
 だが同時に、不安にもなった。
 この夫を失うことが怖かった。ホクトや沙羅も失うことも、堪えがたく怖かった。自分のかけがえの無い家族。それを失うことが、想像できないほどに怖い。
 今まで自由を奪われ続けていた自分の人生は、いつもこういったときにさえ、不安を胸にもたらせる。これが己の性分だ、と判ってはいながら、止められない自分がいた。
 吐いた息は震えていた。喉が少し熱い。
 武と再会したときから、自分はこうだった。緊張すると、自分の喉は火が下ったように、熱に蝕まれる。
 ……そんな際、武の声がした。
「つぐみ、飲んどけよ」と武は、缶コーヒーを取り出していた。ホクトが後部座席のクールBOXから取り出してきた物だ。
 武は続けていった。「喉の渇きとは別だ」
 飲めば、気分転換くらいにはなるだろ? と、笑みをよこす。
 朗らかな笑みだった。
 押し付けがましさのない善意が、そこにあるのを感じ、つぐみは少し気分が安らいだ。
「そうね」と応じ、つぐみは左手を差し出した。「武、それを頂戴」
 よっしゃ合点、と請け合う。武は缶コーヒーのプルタブを起こしては、それをよこしてきた。
 つぐみはハンドルを握ったまま、片手でそれを一口啜った。
 湾岸線を右に折れ、小道にワゴンを滑り込ませる。
 十字路を一つ二つ抜けて、数百メートル走ったところには、我が家がある。その少し手前に、レストランがあった。
 けれども、自分の頭は、さほど風景を認識できずにいた。
 頭の片隅には、あの診断書がまた不気味にはためき始めていた。

 karte……tief……。



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送