「月と、海と(後編)」
                              YTYT 




 春の陽は、落ちるのが早い。
 ファミリー・レストランに寄り、遅めの昼食を取った倉成一家の前には、いつの間にか夕暮れが下り始めている。けれども、つぐみの頭には、あの文字がこびりついたままだった。
 武が先刻言っていた「鼻血が」云々という言葉を唐突に思い出してしまい、自分の心は更なる警告を発してきている。
 武と子供たちが盛り上がっている傍ら、つぐみは一人想念を巡らせたまま、心ここにあらずの食事を進めるだけだった。
 一つ一つの疑念を慎重に取り上げ、丹念に消しては、味わいもしない料理を口に運んでいく。
 シフトレバーのそばに落ちてきた、あの診断書――。
 その診断内容は、しかしティーフブラウ・ウィルスに由来するものではないはずだと、つぐみは思い直し始めていた。
 もし、診断の結果がティーフブラウ・ウィルスの出血熱であるならば、そもそも武自身がこんなところに居るはずがないのだった。
 レベル4ウィルスを本格的に扱える場所は、アメリカのCDC、NIH、イギリスのADCP、ドイツのマールブルク大(Philipps-Universitat Marburg)など、世界各国でも限られた機関だけであり、現在の日本においては、”田中研究所”のほか数箇所しか無い。しかも、ウィルスの感染者は、WHO/CDCのバイオセーフティ指針などに基づき、即刻に完全隔離されるはずだからだ。
 けれども、とフォークを置き、つぐみは考えを進めた。
 ……それならば、あの診断書に記載されていた病名とは、いったい何なのだろう、と。
 自分をはじめとするキュレイ・キャリアは、抗体の遺伝子の一部に高頻度の突然変異を起こして、抗原との結合力を変えていく能力が高い。
 それにくわえて、免疫伝達物質であるインテユーザー因子やサプレッサー因子などを活性化させ、HLA(ヒト白血球型抗体)、CD11b(細胞傷害性キラーT細胞)やTNFα(腫瘍壊死因子)の水準を上げ、ウィルスへの抵抗力を向上させる能力もまた、キュレイ・キャリアは桁外れに高いのだ。
 突然変異をするウィルスと同等の速さで、自らの抗体も突然変異をする。さらに免疫機構を強化し、ウィルスそのものに対する抵抗力を飛躍向上させる。それらの反応の速さゆえに、あのティーフブラウも駆逐されたのだ。
 そのキュレイ・キャリアである武が今、ある病気に罹っているのだとしたら、果たしてそれは何か? いかなる病理によるものなのか? 皆目判らなかった。
 そんなことをつらつら考えていくと、妄想や憶測は留まるところを知らなかった。
 あの診断書について聞くタイミングを何度か窺ったものの、ホクトや沙羅のはしゃぐ様子を見ては、どうしても口が重くなってしまう。
 そして、このときどうしてか、武に対して腹立たしいものを感じてもいた。
 おそらく、あの紙が診断書とするならば、それは武の勤め先である、優春の研究所で診察した結果だろう。
 ならば、何故真っ先にそのことを、自分に言ってくれないのか。打ち明けてくれないのか。そのことが腹立たしかった。そんな大切な診断書を、財布と一緒に胸ポケットに入れておく無神経さも、やはり理解できなかった。
 この苛立ちや憤懣は、次第につぐみ自身にも向けられることになった。
 己の思考に行き詰まりを感じたのなら、すぐにでも武に訊ねて、真相の確認をすればいい。それなのに、自分は未だそれを出来ずに、ぐずぐずと時間を浪費し続けている。
 そんな不甲斐ない自分自身のありようにも、つぐみは腹立たしさを感じていたのだった。
 あるいは、武へ執拗に向けている自分のこの詮索は、伴侶として行き過ぎたありようなのか。それとも、武に対する独占欲なのか、妄執なのか。つぐみ当人自身、もう判らなくなり、徐々に心の足場を失いつつあった。
 そのときだった。肘を軽くつつかれたのは。
 見れば、武が自分を覗き込んでいた。
「ドリンク、持ってきてやろうか?」それから、苦笑してこう続けたのだった。「もう三回くらい聞いているんだけどな」
 つぐみは少しだけためらい、それを辞退した。
 そして、武たちの様子から、彼らの会話に目鼻が付いたと察するや、こう言った。
「意味のない会話はお終いにして、そろそろ帰らない?」
 つぐみの発言はしかし、温度差を持って、それぞれ三人に受け止められた。
「うん、そうだねッ」と、ホクトと沙羅がつとめて明るく応じる。
 やや遅れて、返事をよこしたのが武だった。
「よし、判った」と言ってから、武は子供たちに、こう言葉を継いだのだった。
「ああ、ホクたん、沙羅殿。……パパとママは、ちょっくら外でお散歩して来るぞい」と。

 ファミリー・レストランを出てから、倉成一家は散り散りになった。
”僕らも、ちょっとそこらで散歩してくるよ! ユウも誘ってさ!”
”小一時間は、かかるかもしれないでござる〜!”
 おしゃまな気の利かせ方を見せつつ、ホクトと沙羅は路地に走っていった。
「ませすぎだぞ、おぬしら!」とおどけて見送る。
 さて……と武は、つぐみの方を見た。
 少し前からのつぐみの異変が、気に掛かっていた。それを訊ねたかったのだが、先程はホクトや沙羅の面前ということもあり、そのタイミングを掴めずにいた武だった。
 つぐみは、夕陽に染まる海岸に目を向けていた。
 その表情は、ここからでは窺い知ることが出来ない。少々迷ったものの、武は「つぐみ、」と声を掛けた。
「ちょっと歩かないか? 海岸に」
 つぐみは、こちらを振り返ろうとはせずに、首の動作だけで応じてきた。

 暮れなずむ砂浜に、武とつぐみは居た。
 つぐみは、遥か彼方の水平線を眺めていた。
 しばしの間を置き、武はつぐみに目線を向けた。「……なあ、つぐみ」
「ワゴンの中で帰り支度をし始めた頃から、お前の様子が少しおかしいと感じていたんだが……何があった?」
 つぐみは、武の質問に答えようとはせず、代わりにこんな問いを発してきた。
「武……。貴方、去年IBFで救出されてから、ティーフブラウの後遺症は無いの?」
「後遺症?」
 問われた言葉を、頭の中で繰り返してみる。ややあって、つぐみの質問が、去年のLeMUのことだと理解するや、武は即答したのだった。
「全然ないぞ、そんなもん。まあ、ココとハイバネーション・ユニットに入る前は、少し気だるかったような気がするが。今はへっちゃらだ」
「へっちゃらだと断言できる根拠を提示してほしいものね。……貴方の当てにならない主観ではなく、確たる客観性をもった根拠を」
 武は思わず閉口した。
 ざらついた空気を感じた。それは元より、ファミリー・レストランを出る前から、すでに孕んでいた気配ではあった。
 平素ならやり過ごせたはずのその気配を、今無視できずにいるのは、この自分自身が焦り始めているからなのだろう。返答を考えるも、自身の動揺の前に、頭がうまく働かない。
 そもそも、つぐみが何故、この自分の肉体にこだわっているのかが判らなかった。そんな自分にも、つぐみに対しても苛立ちが重なり、武自身、神経がすさみ始めてもいた。
 そのために、つい、売り言葉に買い言葉的な台詞を返すことになった。
「客観性もくそも無い。今の俺がこうして普通の体でいることが、なによりの証拠だ」
「貴方は今、”普通の体”じゃないわ。”キュレイ・キャリア”でしょう。私と同様に」
 間髪容れない、つぐみの即答だった。
 その手加減の無さに、苛立ちをさらに上積みさせられるも、武は言葉を返した。
「つまらない揚げ足取りは止めろよ、つぐみ。……確かに、俺たちは”普通の人間の体”をしているわけじゃない。キュレイ・キャリアだ。
 だからって、p53遺伝子の機能や老化が妨げられていること以外に、どんな障害がある?」
 何も無いだろう、と武が言いかけたときだった。
「貴方は、何も判っていないわッ」と、つぐみが語気を荒げたのは。
 つぐみは、更に続けた。
「ウィルスは、いつどういうきっかけで、どんな変異を起こすのか、判らないものよッ!
 宿主の遺伝子に内在していたウィルスが突然変異を起こし、その宿主に悪影響を及ぼす可能性だって、ありえない話ではない。キュレイ・ウィルスも、その例外ではないわッ」
 つぐみの語尾は、殆ど怒号だった。「キュレイ・ウィルスのキャリアであることは、そうした危険も常に背負っているということを、忘れないで頂戴ッ!」
 それから、つぐみは下を向いてしまい、沈黙してしまった。
 その沈黙を見るにつけ、武は、自身の怒りや苛立ちを一寸忘れた。
 そして、己の肉体に対する無頓着を省み、自分の非を認めざるを得なくなった。
 武は同時に、つぐみと自分の距離を改めて痛感することになった。
 つぐみが必死に生き続けてきた17年――。
 自分が、ただ眠り続けてきた17年――。
 この歳月の溝は、容易に埋まる筈も無く、時にこうした形で剥き出しになる。
 その溝は、古来より夫婦に与えられる試練の一つなのだろう。それは、自分とつぐみとて、例外ではない。
 つぐみにとって、自分は疑いようも無い伴侶だった。
 けれども、同時に”世間知らずの青二才”でしかない。しかし、そのつぐみを支え、包み込み、慈しんでいくのは、この自分しかいないのもまた一つの事実なのだった。
 つぐみの今しがたの怒りは、正当なものだった。
 そして、それを招きよせたのは、ひとえに自分のキュレイ・ウィルスに対する無知によるものだった。見識の足りなさからだった。
 ならば、この場はなんとしてでも、自分の方から収めていくほかは無い。そうして、武はつぐみに詫びるための言葉を探し始めた。
 が、そんな矢先、つぐみの方が先に顔を上げてきた。
 そして、唐突に笑みを浮かべながら、こう言い出したのだった。「馬鹿みたいね、私」
「貴方やあの子たちと共にいる幸せを、かみしめてみたり、浸ってみたり、溺れてみたり、酔ってみたりして……私は一人、”意味もなく”舞い上がっていたのよ。そんな幸せもいつか、自分の元を離れていってしまうのにね……」
「つぐみ、」
 武の台詞をさえぎり、つぐみは言葉を続けた。
「あの子たちは確実に、私よりも早く年老いてしまう。貴方は貴方で、自分の肉体のことさえ判っていないときている。そんな自分自身に対する無神経さから、貴方は、いつまた危険な目に遭うともしれない。そして気が付いた時には、私はまた一人になっているのよ。それから、再び”意味の無い”永遠を送ることになる……」
 つぐみの言葉は、徐々に抽象的な内容に入っていた。
 その抽象的な物言いには、単なる虚無感とは違う何かが感じられた。
 武は今や、つぐみの様子を慎重に見守らざるを得なかった。
 思えば、あのLeMUにいたとき、つぐみは何かにつけて、このような物言いをしていた。
 あのとき、つぐみは「死ぬことの出来ない自分の運命」に絶望を感じていたように思う。そして今、つぐみは明らかに、また絶望のただ中にいた。否、絶望というよりも……何かに追いつめられているように、武は思った。
 それが何であるかは判らない。けれども、今のつぐみは止めてやらなければならない、と思った。
 なによりも、”意味の無い”という言葉を、つぐみの口からこれ以上出させたくはなかった。
 つぐみの瞳は、定まるところ無く揺れ動いていた。それが今にも崩れそうな予感をさせもし、武を切羽詰まった心境に陥らせていた。
「つぐみ、もうよせ……。俺は絶対に、お前を一人になんかしない。ずっと、お前のそばに、」
 言い終えるよりも早く、つぐみは、武の言葉を拒んでいた。「気休めなんて要らないわ!」
「貴方も、永遠には生きられないでしょう。貴方の老化は抑制されているだけ。私のように停止しているわけではないから。……いつかは、貴方も私を置いていってしまうのよ」
「……止めてくれ、つぐみ……」
「すべての生命に意味は無い。みんな、どんなに生きていても、最後には死んで消えてしまうのよ。私は、それをただ見ているだけしかない……」
 ついに、つぐみは叫び出していた。涙を浮かべて、目線を砂浜へ落としながら。
「人が生きている意味なんて無い! 本当に、何も無いのよ! みんな、最後は死んでしまうのだから! あの子たちも貴方も皆、私を置いていってしまうのだから! 私、怖いの! 本当に怖いのよ……私……私、」
 次の言葉をつぐみが言いかけた、そのときだった。
 ――ふざけるなッ……!! 
 武が、つぐみの叫びすら掻き消すような怒声を上げたのは。
 はっとして、つぐみは顔を上げた。
 武は正面から、つぐみを睨んでいた。そして見据えながら、こう続けた。「ふざけるなよ、つぐみ……」
「人は確かに、いつか死ぬ。人の生命は、必ず死ぬことで終わる。だが、人の一生そのものに”意味が無い”なんてことは無い。絶対に無い」
「武……、」
 つぐみは、気圧されるような目をしていた。
 武は、つぐみから目を離さなかった。
 それから、先刻までの怒気も鬼相もすべて捨て去り、静かにこう言ったのだった。
「つぐみ。いや……悪かった。お前やホクトや沙羅を17年もほったらかしにしておいて、こんなことを言う資格は、俺には無い」
 武は、しかし決然と言葉を続けた。「……それでも、お前の今の言葉は、間違っている」と。
「生きることに、意味が無いなんて事は無い。人がその一生の中で果たした行為は、その人が居なくなったとしても、この世界にずっと存在し続けるんだよ。
 お前が子供に教えた”子守唄”がそうだろう。
 ……あの唄は、お前が居なくなってから、沙羅の中で無意味なものになっていたか? 無価値なものに成り下がっていたか?」
 つぐみは、武を凝視していた。
 思いもかけなかったことを言われ、二の句を継げずにいるつぐみに、武は続けて言った。
「そんなことは無かっただろう。人のした行為は、その人が居なくなったとしても、……たとえ、その人が死んでしまったとしても、残された者たちの心に残り続けるんだよ。
 お前自身……俺が居ない間も、ずっと守っていてくれたじゃないか? ”生きている限り生きろ”という、俺の言葉を……」
 つぐみは、何も答えようとはしなかった。
 だが、代わりに、武の言葉を肯定する頷きを一度だけ返すと、目を固く瞑り、下を向いてしまった。
 武は、そんなつぐみの体を抱いていた。
 抵抗することもなく、つぐみはそのまま、武の中に体をゆだねてきた。そして、背中に手を回し、抱擁に応じたのだった。
 つぐみの目から、やがて涙があふれ落ちていくのを、武は見た。
「すまない……。説教するつもりなんか、毛頭なかった」とだけ詫び、武は視線を海へと向けた。
 しばらく、武はつぐみを抱いたまま、海原を見つめていた。 
 潮の香が遠かった。波のさざめきも、はるか遠くに感じられた。傾いていく陽が、水平線の下端に没していく。
 それが、失われていく生命のイメージを想起させ、武は突然に思った。
 ああ、つぐみが見つめてきた生命の姿とは、いつもこんな感じだったのか……と。
 太陽の輝きが刻々と失われていくのを、人がただ見つめることしかできないように、つぐみもまた、大切な者たちが老いて死んでいくのを、ただ見つめることしかできなかったのだ、と。そのことに、武は考え至ったのだった。
 つぐみの今し方の言葉は、そうした自身の存在への虚無感や絶望に根ざしたものだった。
 人が生きている限り、苦悩や煩悶は常に訪れる。が、つぐみの苦悩には、死による救済も終焉も無い。
 そして、自分が慈しむ者も、自分を慈しんでくれる者も、やがては自分を置いて消えていってしまう。”自分はただ永遠に、一人で存在するしかない”という、それは気の狂うような孤独だった。
 その想像が、徐々に心に巡ってくるにつけ、武は胸の塞がる想いがした。
 だが、そうした虚無感や絶望を理解してもなお、武はつぐみの”生きていることに意味が無い”という言葉一つには、どうしても同意ができなかった。そんな救いの無い諦観を、つぐみに抱いてほしくはなかった。
”生きていることに意味が無い”なんてことは、絶対に無い。
 ……こうして、抱き合っている自分たちの生命には、絶対に意味がある。そう、武は信じていた。
 そして武は、こう思い至ることになった。
 それを、このつぐみに伝えていくこそが、伴侶である自分の役目なのだ、ということを。“生きることには必ず意味があり、価値があるのだ”ということ――それをつぐみに残し伝えていくことこそが、自分の”生きる意味”なのだ、と……。
 黄昏の沈黙の中で、つぐみと体を合わせながら、武は、このとき一つの決断をした。
 つぐみのために……そして、ホクトや沙羅や自分の守りたい者たちのために、自分は己の全人生を捧げる。そうした決断だった。
 いや、それは遥か昔よりしていた決断でもあった。武は今、かつてしていたその決断を、ここに改めて心の中に呼び戻したのだった。
 武はつぐみの体を、腕の中に包み込んで、ゆっくりと口を開いた。 「つぐみ……」
「……俺は確かに、お前よりも先にくたばってしまうかもしれない。
 けれど、絶対に約束する。
 たとえ、そうなったとしても、そのときまでには必ず、お前に何かを残しておくから。
 お前がその先も生きていけるような、確かなものを……大切なものを……必ず残していくから」
 武は、自分を見上げてきたつぐみの涙を拭いてやり、柔らかな笑みを浮かべてみせた。「でも、まだまだ、全然大丈夫だ」
「……お前にそんな顔をさせているうちは、俺は決して死なない。これも、絶対に約束する」
 つぐみはしばし、武を見つめていた。
 その目は、やがて静かに細められた。つぐみはそれから、武に顔を近づけ、唇を寄せてきた。
 唇が静かに重なった。
 つぐみは少しだけ唇を離すと、武の耳元で囁きを漏らした。
「武、貴方の言葉の意味……今、痛いほど感じてる……」
 それから、つぐみは武の体に手を回し、ぎゅっと力を込めてきたのだった。
「私……生きるから――貴方と、貴方の想いと共に、ずっと……生き続けるから……」
 武は、つぐみの体を抱きしめていた。
 二人は手に還ってくる肌の温かさを、その存在を、互いに分かち合い、互いに満たし合ったのだった。

 ――つぐみは、ややあって、武から体を離した。
 自分を勇気づけてくれた武に感謝しつつも、ここで一つ、当人に確認しておかなければならないことがあったことを思い出したのだった。”karte”、”tief”と記載されていた、あの診断書のことを。
 つぐみは、おもむろに武に訊ねた。
「武、ごめん。……もう一つ、私から質問をしても良い?」
 かなり緊張していたのだろうか、自分の声は少しこわばっていた。
 ……武は黙したまま、自分の話を聞いていた。
 やがて、つぐみの質問の意図を把握したのか、武は胸ポケットから財布を取り出し、そこからあの紙を取り出したのだった。
 しばらくの間、武の目はその字面を追っていた。
 だが……。
 ややあって、武の顔は、突然に苦笑いへと変わった。
 それは苦笑いから、笑いに変わり、やがては腹を抱えんばかりの大笑に変わっていった。
 そのめまぐるしい変転に、さすがのつぐみも付いていけず、呆気にとられていた。
 やがて、もしやと思い、つぐみは武の手から紙を取るや、その内容を確認したのだった。
 確認するや、言葉を失った。
 粗末な、白地の名刺大のコート紙に書かれていたのは、……実に拙劣で、文法も怪しいドイツ語の紹介文だった。
 先刻の武たちの会話にあった、武の知人が経営する料理店。その店の料理をドイツ語で紹介するくだりが、そこにはあったのだ。
 ああ、これは……。そうだったのか――。
 つぐみは気恥ずかしさで、めまいを起こしそうになった。そうか、そういうことだったのだ……。
 karte……tief……そうではなかった。

”……kalte bier den tiefen geschmack gibt ist〜”(深い味わいを与えてくれる、冷たいビールは〜)

 そう。
”karte(診断書)”ではなく、”Kalte(冷たい)”だったのだ。
”tiefen”は、単なる”深い”という意味だった。むろん、ティーフブラウ・ウィルスとは何の関係も無い。
 ――これを、自分は勘違いしていたのだった。
 武は、ようやく笑いが収まってきたのか、こう言ってきた。
「いや、俺のそのダチがさ、どうしても、俺に書いてくれって言うんだよ。”お前は薬品の研究をしてるんだから、外来語には詳しいだろ? うちには、ドイツ人の客も結構来るんで、是非店のメニューの紹介文を頼む!”なんて言いやがってさ」
 さらに武は、そいつの裏面を見てくれ、と言ってきた。
 促されるままに紙を裏返すと、そこには電話番号や住所などが書かれていた。それは、今回の休暇で泊まった旅館のものだった。
 つぐみは、完全に固まっていた。つまるところ、この紙は、旅館の連絡先を控えるための裏紙にすぎなかったのだ。
 取り越し苦労も、甚だしいところだった。つぐみは、顔から火を吹くが如く、赤面していた。
 道化も道化。今まで自分は、正に赤っ恥を晒し続けていたのだ。
 一方の武は、そんなつぐみを見て、またぞろ思い出し笑いに耽り、砂浜を漂うクラゲのような状態だった。
 ひとしきり笑った後、今度こそ笑いの波が退いたのか、武はつぐみに目線を戻してきた。
 目には涙がまだ残っていた。もはや笑い涙か、本当の涙かも判らない状態だった。
 それから、武は軽く目尻を拭き、こう言った。
「いやぁ、なるほどそういうことか。それで、お前の様子がおかしかったんだな。合点したぞい」
「それと」と、表情を改めては、武は言葉を繋げた。「……本当に、嬉しく思う。そこまで、俺の体を心配してくれたことに」
 そうして武はさりげなく、つぐみに寄りそってきた。
 つぐみは、まだ恥じらっていたものの、やがて何もかも観念したように、目の前の夫に身を預けたのだった。
「武、今日は色々な意味で迷惑をかけたわね……私」
 つぐみは、武に言った。
「いえいえ、なんの」と、武は軽く応じたものの、さすがに少しは本音らしきものを漏らしてきた。
「だが、こういう心配事は、なるべく早い目に打ち明けてくれよな。毎度こんなやり取りしてたら、本当に身がもたんから」と。
 もう、と、その頭を軽く小突く。武は笑みを絶やさなかった。
 そして、今一度の接吻を試みようとしてくる。
 つぐみの方もまた、そんな武の欲求を見破っていた。むくれたふりをして、武の顔に唇を寄せる。
 耳元で、武の声が聞こえた。
「次からは、俺はこんなに心配なんかせんぞ。もう少し、お前を鍛えんとな」
 さらりと、つぐみは言葉を返した。
「いいえ、きっと次も心配することになるわ。貴方は」
「頼むから、試そうなんて考えるなよ」
「それは、ひとえに貴方次第ね」
 他愛の無い言葉を交わしあう。それから、手短な口づけを交わしあい、その刹那の中で想いを交わし合った。
 このとき、つぐみは思った。
 人に対して依存的になり、愛情欲求を強く求める性格。それが、”口唇期性格”であることを、つぐみは思い出していたのだった。
 ああ……私自身がそうだったのだ。
 つぐみははっきりと、そう自覚した。ホクトや沙羅ではない。この自分自身こそが、口唇期性格だったのだと。
 私は、武に依存している。武の愛情を欲している。それだけではない。ホクトを沙羅を、彼らの全てを必要としている。求めている。
 私もある意味、まだ子供だったのだ……。
 そして、つぐみは無言の接吻を通じて、重なり合う唇を通じて、自分の生きている意味を武に伝え続けた。
 この世界に、貴方がいる。ホクトや沙羅がいる。そんな貴方たちを見つめ、育み、守り続けること――。それこそが、自分の生きている意味だということを。

 武は柔らかく抱擁を解き、つぐみを解放した。
 つぐみは、顔を朱に染めていた。この自分もきっと似たようなものだろう。
 一度だけ微笑みを交わし合い、武とつぐみは、家の方に首を巡らせた。そろそろ、ホクトと沙羅が、自分達を捜し出す頃かもしれなかった。
 武は、家の方へ足を踏み出した。
 二、三歩進んだところで、つぐみに呼び止められる。「武、」
「これ、貴方のでしょう?」
 つぐみが手にしていたのは、PDAだった。さっきの抱擁の勢いで、落ちたのだろうか。確かにそれは、自分のものだった。
 そのPDAを指差しながら、武は家の方へ歩き始めていた。
「つぐみ。それ、悪いがあとで持ってきておいてくれ。……先にあいつらを呼びに行ってくる。どうせ、晩飯の用意もしてないし。こうなりゃ、昼も夜も外食づくしだ」
 それに、お前が涙を拭く時間を稼いでやるからさ、と武は笑いながら続けた。
 だが……。
 しばらくの沈黙の後、再び「武」という、つぐみの声がした。
 その声色は、どういうわけか、先刻までと全然異なっている。
 妙だと思ったのか、武はつぐみの方に振り向いた。
 武の笑みは止まった。
 何故だろうか、つぐみは腕組みをしていた。
「……武。もう一つ、質問したいことがあるのよ。いい?」
 そう言って、胸の高さにすっとPDAを掲げる。そして、目の前でパネルを開け、とある部分を突きつけてきた。 
「これは、何?」
 静かな声で問われるも、事態の展開が飲み込めず、武はそのメールを目で追った。
 空からのメールだろうか。それはたしか、一週間くらい前のものだったような気がする。
 つぐみはご丁寧にも、文字をスクロールさえしてくれた。
”こんにちは、空です。過日におきましては、お忙しいところ、”倉成先生の授業”をどうもありがとうございました。
 さて、一週間後は、先生のお誕生日ですよね? おめでとうございます!
 あいにく、先生のお好みが判らないので……せめて、私自身をプレゼントとして、受け取っていただけたらな、と(笑”
 ここで、パネルが激しく閉じられた。パネルが引っ込んだその奥には、つぐみの無表情が一つあった。
 武は青ざめていた。そして、息を深々と飲み、己が窮地を悟ったのだった。
「先刻の貴方の約束って、こういうメールも”残していく”ことなのかしら?」
 自身の言った台詞を、思いっきりつぐみに皮肉られてしまい、武は狼狽した。
「これなら、私もたしかに、確固とした意志をもって生きていけるわね。この先も、貴方をしっかり監視するために」
 つぐみの棒読みが、恐ろしく静かに砂浜に広がりわたる。
 つぐみは心配性の塊だった。
 それ故に想像力も豊かだった。
 そして……夫に対する猜疑心も、独占欲も強い。
 なんという失敗だろう。自分のPDAへのメールの内容を、このつぐみが調べないはずが無かったのだ。
 武は己の不覚を呪った。つぐみに、その絶好の機会を与えてしまったことを。
 未だかつて無いピンチだった。
 水深119mの水圧よりも、ティーフブラウの猛威よりも、今ここにあるつぐみの存在が危険だった。じつに、あの2017年以来のビッグピンチだった。
 前頭葉が、己が窮地を激しく告知した。シナプスというシナプスが、警告のドラムを叩いている。
 更にそのドラムを叩くシナプスは、何故かあのチャミのマスコットに見えた。そして、大脳下の辺縁系も、フルピッチでアドレナリンを産生中。”活況ここに極まれり”といったところだった。
「あ、ああ……そ、そのメールも”意味の無い”物だ。お前の言ったとおりだろう? 全ての物には意味なんて無いんだから」
 んじゃそういうことで! と、しゅたっと手を挙げるも、踵を返し掛けたところで止められた。
 手首が、つぐみに握られていた。腕が痛い。ちょっと、これはめちゃくちゃ力が入りすぎているような、気が……する。
 つぐみは手を緩めもせずに、ゆっくりと口を開いた。それはもう、ゆっくりと、ゆっくりと。
「それでもね……。私、心の中で感じるのよ。このメールの意味を」
 空いている方の手を、わきわきさせながら、つぐみは言葉を続けたのだった。
「……”瞭然端的でかつ動かし難い物的証拠を伴った、極めて明白な浮気行為”という意味として、深く激しく感じるのよ。この心に」と。
 台詞が進む内に、声が低く、鋭くなっていく。
 語調から眼光から冷気が発散してくるような、つぐみの表情だった。
 正直、怖かった。とても怖い。
「つ、罪を犯す前に、一つ聞いてくれ」
 武は殆ど怯えるようにして、口を開いた。
「聞くから話しなさい」と、つぐみ。
「お、俺は、そのメールに返信していないぞ。それは絶対の事実だッ!」
「貴方は、そのメールを削除してもいない。それも絶対の事実でしょう」
 審判は下った。
 もう、ことここに至って、訪れる運命は決まっていた。
 避け得ない運命が迫っている。しかし、だからといって、それを観念する諦観も覚悟も勇気もない。哀しいかな、武は未だ絶望的な弁解を続けていた。
「待て、落ち着け、つぐみん、いやつぐみちゃん、いやつぐみ様! 話せば判る! きっと判る! 絶対、多分、気持ちおそらく、ほとんど全然そこはかとなく、げに判りますから……!」
 けれども、そう言う間にも、つぐみがゆらりと迫っていた。心なしか、自分よりも遙かに背が高いように感じられるのは、いわゆる心的効果というやつかもしれない。
「武。さらに、質問、しても、いい、かしら?」
 言葉を切っている。区切っている。その抑揚の無さが、かえって恐ろしい。
 つぐみの目は今や、DNAを裂けそうなほど鋭利に細められていた。
 そのまま、つぐみは言葉を続けた。「武――」
「次に、私が貴方に言う言葉、……判っているわよね?」
 判るわけがなかった。サトリじゃあるまいし、こんな事態に及んで、一体何を読みとれというのか。
 けれども、下手な発言は即、破滅的結末につながる。反発の言葉を飲み込み、武は必死に考えた。考えながら、ある一つの回答候補を見つけた。
「つ、漬け物石……ですか?」
 混乱と恐怖と緊張のため、敬語も混じる。
 つぐみは頭を振った。「もっと、単純な言葉よ」
 あの2017年のLeMUの中、自分の名前の由来を語ったときのような口調で、つぐみはこう続けた。
「……”数千年来、人の足として重宝されてきた動物”と、……”偶蹄目に分類される、角を持った哺乳類”の名」
 それはたった二文字の言葉だから、と、つぐみは言葉を締めた。
 二文字。武は、またまた必死に考えていた。つぐみのヒントはもうよく判らなかったが、この二文字という言葉には希望を見出せそうだった。
 ほどなくしてピンと来るものがあり、武は心の中で、手をぽんと叩いた。判ったぞ。あれだ。
 つぐみが自分を侮蔑するときに発する言葉と言えば、これしかない。”馬”、そして”鹿”!
 つまり――“馬鹿”……。
 だが、思いかけた時、背筋にぞくりと悪寒が走った。
 武は、つぐみの方におそるおそる目をやった。
「正解のようね」
 それだけを言い、つぐみは口の端をつり上げた。
 ――武は見た。つぐみの微笑みを見た。
 究極かつ至高。
 最強にして最恐にして最凶にして最兇の……その微笑みを見た。
 そして、その笑みが消えるのも見た。
 次いで、つぐみのその口が、一気に開かれるのを見た。二つの眼で、これまたしっかりと見た。
 あの言葉が来る、あの怒号が、来る……。武は怖気を禁じ得ず、そう思った。
 そうだった。
 あれだった。
 倉成家が知り、優春も桑古木も皆知っている、つぐみが怒髪天を衝いたときのあの言葉。
 それを……つぐみは、ついに発したのだった。
”――武ィ……ッ!” ――つぐみが叫び、
”―――のォ………ッ!!” ――目一杯、その拳が振り上がり、
”――――馬ァ鹿ァァ…………ッ!!!” ――その拳が、まばゆい光を放ったのだった。
 悲鳴。
 怒声。
 二つの相反する声が、虚空に逆巻いた。
 直後、激烈かつ叙事詩的な音が上がった。
 心理学的に正しく、おそらくは力学的にも正しいその幕切れは、武にとってかなり激しく痛い結末と相成ったのだった。

 ――海からは、波音が静かに聞こえていた。
 武が、おもむろに口を開いてくる。
「やはり俺達……まだまだ足りないものがあるんだな」と。
「足りないもの?」
 先刻の怒りの余波もあってか、まだ語調は少し荒かったものの、つぐみは努めて平素の感覚で訊ねてみた。
 武は「ああ」と頷いた。「……時間さ。言葉を通じて、お互いを知り合っていく時間だよ」
「少なくとも、俺はまだ、お前のことをよく知らない部分があると思う。それどころか、自分自身さえもよく判っていないところがある。この肉体のこともそうだし。……お前の苦悩についてもそうだ。
 だから、今回みたいに、些細なことで諍いが起こったりする。それを乗り越えていくためには、やっぱり時間を掛けて、対話することが大切なんだと思う」
 つぐみは、傍らの武を見つめていた。
 《言葉によって、対話をすることによって、人と人は絶対に判り合えるはずだ》 武の目は、そう信じて疑わない者の目だった。この現世が、人の良心や善意で出来ていると信じ続ける、一人の人間の目だった。
「確かに、対話は必要かもね」
 そんな簡潔な返事をしつつも、つぐみはしかし、全面的な同意をするのは控えていた。
 ――対話をすることによっても、人はしかし判り合えないときがある。
 それどころか、人は対話によって、互いに埋めがたい溝を作り出しかねないときがあるのだ。
 個人として存在している以上、人は、他人と決して相容れない心の聖域を持っている。
 夫婦といえど、親子といえど、それは厳然として存在しているのだった。そのために、人と人の間には、接し合えない距離というものが存在する。
 だからこそ、時には譲り合う心が必要になる。距離を保って、相手を見守っていく心が必要になるのだった。
 武の思想は、人として尊い在り方の一つだとは思う。けれども、それは高邁すぎる思想だと、つぐみは感じた。高邁すぎて、この世界には実現し得ない、それは儚い理想だった。
 他人と言葉を通じて、心を通わせたいと考える人間はいる。が、そうは思わない人間も確かにいるのだ。かつての自分が、そうであったように……。
 とはいえ、武にはそう簡単に挫折して欲しくない、という矛盾した思いもあることを、つぐみは認めていた。
 2017年のあのとき、武は、どんな危機や困難の下にあっても、決して絶望せず諦めなかった。
 この自分に差し伸べてくれた手に、言葉に、虚偽や欺瞞は一つとして無かった。澱むところは無かった。
 そんな武の心と人間性に、自分は惹かれたのであり、考え方を変えるに至ったのだ。
 それはとりもなおさず、人と人が理解し、折り合っていくためには、言葉や歩み寄りが必要であることに他ならなかった。
 人の心は矛盾に満ちている。が、そうした矛盾を乗り越えて人と人が判り合うためには、やはり言葉によって、お互いの距離を縮めていくしかないことも、また一つの真実だった。
 この当たり前の真実を、今更ながらに認めもし、つぐみはもう一度自分のありようを省みた。
 武の理想に、欠点や限界を感じながらも、また一方では、その理想を守りたいと思う。信じてみたいと思う。
 そうした自分自身の、この矛盾も、この身勝手さも、併せて認めつつ、つぐみは武の横顔を見つめることになった。
 私は、ずっと貴方と共にいる。そして、どこまでも貴方の行く道を見守っている。……この生命がある限り。
 つぐみはそう思い、目の前の武を改めて見つめたのだった。

 薄暮だった天上には、すでに黒い夜の帳がかかっている。
 それを彩るように、星々の光がさんざめいていた。
 黒は闇に向かう色であり、絶望を象徴する色でもあるが、同時にそれに耐えようとする力を象徴した色でもある。つぐみの髪の色が、瞳の色が、そうであるように。
 そのつぐみを、柔らかく見つめた後、武はやがて立ち上がった。
 それから、威勢の良い声を発したのだった。「ようし、明日からまた、じゃんじゃん働くぞ! つぐみッ!」
「死にもの狂いで働き抜いて、お前たちを必ず幸せにしてやるからな!」
 臆面もなく躊躇もなく、そういうことを言ってのけるのが、この武だった。
 聞いている方が、恥ずかしくなってしまう。しかし、”武の言葉を信じてみたい”という希望もいたずらに湧き上がってしまい、つぐみは知らず、照れ隠しの言葉を漏らしていた。
「貴方って、つくづく本能と逆行した生き方をするのね。……“自分の生命なんて、二の次で良い”という印象を受けるわ」
「まあ、それは、俺が人間だからかもな」と、武は応じた。
「そもそも、人間って唯一、本能に逆らうことのできる生き物だろう?
 2017年のあのとき、お前は種の生存本能に反して、死にたがっていた。
 俺は、自分の生命を捨ててでも、そんなお前を助けようとしていた。
 正反対な意志だが、この二つの意志は、ある意味において似ていると思う。どっちも、”生き残りたい”という生存本能に逆らっている部分で、似ていると俺は思う」
「そうした部分で惹かれあったとすれば、俺たちが結ばれたのは、やはり縁だったのかもしれないな」と、締めくくり、武は笑った。
 つぐみは、しばし何も言わず、武を見ていた。
「つまらん言葉だったか?」と武に問われ、つぐみは軽く首を振った。「ううん、そうじゃないのよ」
 それから、つぐみは少し笑った。「私はね……。今の貴方の言葉に、意味を感じていたの」
「どんな?」
「”全ては起こるべくして起こった”ということ。……だから私たちは2017年で出逢い、結ばれ、そして今ここに存在しているのよ」

 武とつぐみは、無言で見つめ合っていた。
 そこへ、遠くから声がしてくる。
「あ、いたよ! パパとママが」
「本当だッ、あんなところにいたでござる」
「相変わらず、見せつけてくれるわねぇ。二人とも」 
 そんな声が遠くに聞こえていた。こちらを見ながら、真っ直ぐに向かってくる。ホクト、沙羅、優秋の三人だった。 
 ホクトは、優秋に自転車を漕がされている。摩擦の大きい砂浜のために、亀のような速度だった。
「もう少し景気良くペダルを回しなさいよ、ホクト! せっかく、あなたが値切った自転車でしょうが!」
 リアキャリアに、どっかと尻を乗せたまま、横暴なけしかけ方をする優秋だった。
 その当人に頭をこづかれ、「無茶言うな」と反発すれば更にこづかれ、ホクトは散々だった。
 沙羅は笑いながら、二人に併走し、息を弾ませている。
 そんな三人を遠目にし、武が思わず顔をほころばせていた。
「確かに、”全ては起こるべくして起こった”んだろうな。だから、俺たちが今、ここにいるわけだ」
 武は、つぐみの方に目線を向け、言葉を続けた。
「俺たち……いつまでも、こうしていられるかな?」
「その答えなら」と、つぐみは武に言った。「……月と海なら、知っているかもしれないわね」
 武は、つぐみをまじまじと見た。
 それから快く笑い、応じてきたのだった。
「おお。それなら、今度ゆっくりと聞いてみようか。……俺の大事な、”月と海のお姫様”に」
 つぐみは、愛しげに武を見つめながら、改めて深く想った。

 月が、”そこにある”と信じることによってのみ、そこに存在するのなら。
 海が、”そこにある”と信じることによってのみ、そこに存在するのなら。
 この私たちの存在も、全ては皆……”ここにある”と信じる想いによって、今ここにあるのだろう、と。

  つぐみは、最愛の夫にこう言った。
 「武。さあ、行きましょう。……あの子たちのもとに」  

  それから……手を差し伸べたのだった。

  光が舞い降りてくるような、最高の微笑みを浮かべて――。





 (了)






 あとがき
 
 どうも、YTYTです。
 最後まで、この拙作を読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
 本当にお疲れさまでした。労いと共に、心から感謝の言葉を申し上げます。
 本作は、拙作「草と、空の下に」および「不器用な想い」の前に書いた習作でしたが、ファイルサイズが50KB以上にかさんでいたため、前編と後編に分けさせていただきました。
 しかしながら……すみません……手直しも殆どしていなかったため、かなり読み辛い箇所もあるかもしれません。
 読者様には、この場を借りて深くお詫びいたします。

 それでは、このあたりで失礼させていただきます。
 最後に、この作品を読んで下さった方々に、重ねて感謝の意を述べさせていただきます。

 本当にありがとうございました。

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