また、私が見ていると、小羊が7つの封印の1つを開いた。すると、4つの生き物の1つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、私は聞いた。 そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。 小羊が第2の封印を開いたとき、第2の生き物が「出て来い」と言うのを、私は聞いた。 すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。 小羊が第3の封印を開いたとき、第3の生き物が「出て来い」と言うのを、私は聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。 私は、4つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は1コイニクスで1デナリオン。大麦は3コイニクスで1デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな」 小羊が第4の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第4の生き物の声を、私は聞いた。 そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の4分の1を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。 ――旧約聖書『ヨハネ黙示録 6章:1〜8節』 |
異端審問官のおしごと2 大根メロン |
「――春香菜」 突然、背後――それも至近距離から、声をかけられた。 不意討ちじみた一撃に、一瞬だけドキリとする。 「……逝狩。あなたは私を驚かす事が楽しいの?」 「勿論。私の数少ない趣味の1つさ」 そう言って、田中研究所付属病院院長――黒沢逝狩は、ふふふと笑った。 「ちなみに、私の趣味は108つある」 ……こいつとまともな会話をする事は不可能だと知っているが、それでもやはりげんなりする。 離反した小街つぐみの気持ちが、よく分かるというものだ。 「それで、何の用よ。貴重な私の時間を犠牲にしているんだから、よほど有意義な話なんでしょうね?」 少しばかり皮肉をこめてみたが、逝狩はそんな事は気にせず、 「――17号室の患者。もうすぐ、死ぬよ」 まるで明日の天気でも告げるように、言った。 「……そう」 「本当にいいのかい? 会わなくても」 「冗談。どうして私が、そんな事をしなきゃならないのよ」 「君があの娘の事を気にしているからだよ」 ……こいつは。 「別に……私と同じ病気だからといって、どうだという事はないわ」 「素直じゃないねぇ」 「うるさい。それに、私に出来る事なんて何もないもの」 そう。私が彼女と会ったところで、運命が変わる訳じゃない。 病院の廊下。 「――あっ」 自動販売機に入る前に、私の指から十円玉が滑り落ちる。 私の手が、逃げ出すほど嫌いか――と転がって行く十円玉に心の中で問いかけてみるが、答えが返って来るはずもなく。 「……はぁ」 1mほど向こうで停止した十円玉を拾いに、歩き出す。 だがその十円玉は、何者かの手によって先に回収された。 もしやネコババか、と危惧したが、 「はい。これ、貴方のですよね?」 拾った女の子は、とびきりの笑顔で私に十円玉を差し出した。 「――え? え、ええ、そう」 「よかったですね。隙間とかに入らなくて」 「…………」 ……いい子だ。ネコババされるかと思ってた自分が狭量な存在に思えてくる。 「貴方、ここの入院患者?」 それは確実だったが、訊いてみる。 「はい、そうですよ。貴方はお医者さんですか?」 ……そういえば、私って白衣着てるんだっけ。 「そういう訳じゃないんだけど……ね」 苦笑しながら答える。 目の前の女の子は?マークを頭上に浮かべながら、首を傾げた。 ……そういう仕草の1つ1つが、妙に可愛い。 けれど―― 「……じゃ、私は行くわ。十円、拾ってくれてありがとね」 「――え? あ、はい」 私は彼女に背を向け、自動販売機に向かう。 今度こそ十円玉を投入し、コーヒーを購入した。 そして、あの女の子の事をきっぱり忘れようと―― 「……ダメね。やっぱり気になる」 コーヒーを飲みながら、女の子の後を歩き始める。 私は、彼女の事をよく知っていた。 ――彼女の名は青山礼香。 かつての私と同じ後天性の心臓病で入院している、17歳の女の子。 私は廊下の壁にもたれかかりながら、17号室を眺めていた。 その病室のプレートには、『青山礼香』とある。 廊下を歩いている人々は突っ立っている私を少々不審な目で見ているが、そんな事を気にするほど私の神経は細くない。 青山礼香の病室には、多くの人が見舞いに訪れた。 同年代の少年少女――そして、両親。 瞳を見れば分かる。皆、彼女の事を心の底から心配していた。 きっと彼女は私の第一印象通り、いい子なのだろう。どれほど状況が絶望的でも、皆に希望を忘れさせないような。 「まるで、どっかのバカ男みたいね」 あいつは『いい子』ではないけれど。 「…………」 そろそろ、この病院の消灯時間が近付いている。 私は17号室に背を向け、歩き出した。 やはり、私が会っても意味はない――そう、思った。 ……脚が痛い。何時間も突っ立っていたせいだろうか。 ――また、夜が来た。 私は17号室のベッドの上で、天井を眺めていた。 とても陳腐だけど、眠るのが怖い。1度眠ったら2度と起きられないんじゃないかとか、そんな事を考えてしまう。 皆、私の事を心配してくれている。だからこそ、別れの時が―― 「……違う。それは、違う」 ネガティヴな方向へ走り始めた思考を、止める。 別れの時なんて来ない。いつかまた昔のような、満ち足りた日々に戻れる。 お母さんと一緒に朝ご飯を作って、それをお父さんがおいしいと言ってくれて。 学校では、皆とくだらない話で盛り上がって。 ――そんな日々に、また戻れる。 そう信じなれればならない。皆が、私の回復を信じてくれている。私が信じないでどうする。 そこまで考えて、突然ある事を思い出した。 昼に会った、白衣の女の人。 「あの人……『死』がカケラもなかった」 私が入院している間も、病院では次々と人が死んでゆく。仲が良かった人も、好きだった人も。そして私は、それを見続けていた。 だから私は『死』のニオイが感じ取れる。この人は死ぬな、っていうのが分かる。もの凄く嫌だけど。 あの女の人からは、まったくそれがなかった。 健康な人だって、僅かだけど『死』のニオイを発している。いつか、人は死ぬものだから。 だけどあの人は、それすらなかった。 「そんな事、ありえないよ……」 「ありえますよ。あの人は不死ですから」 ――突然、病室の中にそんな声が響いた。 私は恐る恐る、声の方に目をやる。 そこには―― 「ノックレスでごめんなさい。僕は、ブルーノ・ニィアルラといいます」 ――神父の格好をした、男の子が立っていた。 身体が動かない。声が出せない。部屋の中の闇が、私を縛っているよう。 「彼女――貴方が会った女の人は、かつて今の貴方と同じ病でした。しかし不死となる事により、それから逃れたのです」 ……何だろう。頭がぼけっとしてくる。 「不公平だと思いませんか? 貴方は、こうして死に近付いて行ってるのに」 不公平? うん、不公平だ。どうして、私だけが死ななきゃならないんだろう。 ――皆、生きてるのに。生きて、楽しい事をしているのに。 「しかし安心してください。僕が貴方に、神の救いを与えましょう」 ……何処からか、トランペットの音が聞こえてくるような気がした。 「カミの……スクい?」 「はい」 黒い神父はそう答えると、注射器を取り出す。 注射器の中は、何か得体の知れない液体で満たされていた。 「これは、とある医師が開発した死者を生者もどきへと転化させる薬を改良したものでして、生者を不死者へと転化させる事が出来ます。それも、吸血鬼の真祖に」 「……アン=デッド」 「ええ。不死なる存在、ですよ」 「……フシ」 もう、何も考える事が出来ない。 だけど――その不死という言葉は、あまりにも魅力的だった。 「ワタシ……イきたい」 黒い神父は小さく嘲笑うと、その注射器を私に差し出す。 ――彼が首から下げている十字架は、キリスト教の十字架というより、エジプトのアンクのようだった。 警備員の萩本は、病院の見回り中に人影を見た気がした。 それを追うと、案の定入院患者の姿。 「うっ……ぁあ……!」 その女の子は苦しそうな呻き声を上げながら、萩本を見る。 「お、おいっ、どうした!? 発起でも起きたのか!?」 ここが病院である以上、こういう事態が起こっても不思議ではない。 「待ってろ、すぐ夜勤の看護士を――」 「喉、が……」 「――何?」 「……喉が……渇く……ッッ!」 瞬間――萩本の目の前から、女の子が消えた。 そして、背後から何かが首に噛み付く。 いや、噛み付かれたなんてものではない。喰い千切られたのだ。 「……ッア……!!!?」 ベキベキという音が、萩本の耳に届く。それが自分の身体が引き裂かれている音だと気付くのに、そう時間はかからなかった。 「貴方の血を……命を……全て、ください……!」 さっきの女の子の声が聞こえる。 そこで、萩本の意識は闇に呑み込まれた。 その数時間後、萩本の死体は発見される事となる。 彼の身体はバラバラに食い散らかされており、血液の殆どが奪われていた。 ――ヴァンパイアとなった青山礼香が起こした、最初の事件である。 「優、また死人が出たぞ。しかも、今回は一夜に2人だ」 桑古木が私に、16人目と17人目の死者が出た事を告げた。 あの夜、ヴァンパイアへと転化し、病院から消えた青山礼香は食餌――吸血を行う度に、その相手を惨殺し続けている。 「その16人目と17人目って、何処の誰?」 桑古木は言い辛そうだったが、 「……青山礼香の、両親だ。メチャクチャに喰い散らかされてた」 少しずつ、押し出すように言った。 私の脳裏に、あの日見舞いに来ていた2人の姿が浮かぶ。まさか、見舞っていた娘に惨殺される事になるとは思ってもいなかっただろう。 「1週間で17人、か」 もっとも、まだ発見されていない者や完璧に喰い尽くされた者を加えれば、倍近い数になると思うが。 「青山礼香を追ってる退魔チームにも、重傷者が出てる。このままじゃヤバいんじゃないか?」 そんな事、桑古木如きに指摘されなくても分かっている。 「……今夜から、私も街に出るわ」 桑古木は何か言いたそうだったが――結局、口から出たのはただの警告だった。 「気を付けろよ。黙示録四騎士も動いてるみたいだからな」 あんな連中の事なんてどうでもいい。 問題は青山礼香が不死者になる事によって、心臓の病を克服した事だ。 そう、まるで――私のよう。 彼女を滅ぼす事は、今の自分を否定する事に繋がる気がする。だから、彼女の捜索には参加しなかった。 ――だが、それも今夜まで。 青山礼香が私の鏡像なら、私の手で滅ぼす事にも意味があると思う。 溜息をつこうと思ったが、やめた。これ以上幸せに逃げられたら大変だ。 今夜は、月が綺麗。 ああ――喉が、喉が渇く。 「フラナリィさん、私達はこの街――星丘市に、何か縁があるのでしょうか?」 アーリアの言葉に、俺は心中で同意した。 何が悲しくて、時差ボケに悩まされながらこんな所に何度も来なければならないんだ。 しかも、毎回活動は夜。夜の住人である以上仕方のない事かも知れないが、たまには日光の下で労働したい。 俺がそんな事について考えていると、 「白き騎士、赤き騎士。待っていましたよ」 俺とアーリアをこの街に呼び出した、クソガキの声が聞こえた。 黒き騎士――ブルーノ・ニィアルラ司祭はこちらを眺めながら、イタリア人とは思えないような色黒の顔にニヤニヤした笑みを貼り付けている。 奴は自称13歳だが、俺は信じていない。アーリアの話によると、彼女が異端審問部の一員となった5年前も13歳だったらしい。 ……天然ボケのアーリアは、ブルーノが13歳だと信じているようだが。 「枢機卿から聞いていると思いますが、貴方達の仕事はこの街で吸血殺人を繰り返しているヴァンパイア――青山礼香を始末する事です」 って言うか、お前も働けよ。 「彼女は新生者ですが、真祖――<主人>です。くれぐれも油断しないでください。では」 ブルーノは言いたい事を好きなように言うと、夜の闇の中に溶けるように去って行った。 「……さて、始めるか」 「そうですね……」 俺とアーリアは、夜の星丘市を歩き出す。 ……さっさと終わらせて、ローマに帰ろう。 「どう思います? フラナリィさん」 「――ん? 何が?」 「病院に入院していたアオヤマさんとやらが、突然吸血鬼の真祖へと転化した事についてです」 ああ、その事か。 「真祖とは、他のヴァンパイアによっての転化ではなく――秘術によって人を辞め、ヴァンパイアと成った者。あるいは、高位の存在にヴァンパイアとして創造された者」 「はい」 「青山礼香は、どっちだと思う?」 アーリアはすぐに、 「それはもちろん前者だと思います。アオヤマさんは、人間として生まれたのですから」 と、答えた。俺もそう思う。 ――思うんだが。 「だがな、青山礼香は普通に育ったんだぞ。真祖に転化するための秘術なんてどうやって学んだんだ?」 「う、それはそうですが……」 アーリアが口篭もる。無理もない。 どうも、今回は怪しい。 青山礼香の転化にしてもそうだが、ブルーノの嫌味ったらしい笑顔がいつもよりネチネチしてたのも気になる。 そう――あの顔は、<贖罪の釘剣>の奪取を俺達に命じた時と同じ顔だ。 「フラナリィさん……」 アーリアの小さな、それでいて鋭い声が、俺の思考を止めた。 ……ああ、近くいるな。 「…………」 俺達は無言で、それぞれの聖具を出現させる。俺の赤き剣は前に折られたが、ばっちり再生済みだ。 そして。 「――こんばんは」 透き通った声が、闇の向こうから聞こえた。 「こんばんは」 「おう、こんばんは」 挨拶を返すアーリアと俺。なんかマヌケだが、挨拶を返さないのは礼儀に反する。 「今日は、いい夜ですね」 「ああ、そうだな。吸血鬼が墓から出て来そうな夜だ」 俺の言葉に、目の前の少女は僅かに笑う。 なかなか可愛い子だ。人間だったらの話だが。 「確認するが、お前が青山礼香だな?」 まぁ、それは間違いないだろう。 彼女の服は、赤いペンキでもぶちまけたかのような有様だ。本当にペンキならいいんだが、残念ながら血の臭いがする。 「はい、そうです。そちらは、黙示録四騎士のアーリア・パウズィーニさんとタケシ・フラナリィさんですね」 青山礼香の言葉に、少し驚く。 黙示録四騎士――と言うより異端審問部は、存在自体が極秘だ。少なくとも、一介の女子高生が知ってるような事ではない。 「……誰から黙示録四騎士の事を訊いた?」 「あの人からです」 「そのあの人とやらが、お前をヴァンパイアにしたのか?」 「はい」 予想通りの答えが返ってきた。面白くない。 「あの人ってのは、一体誰だ?」 「それは……ごめんなさい、分からないんです。頭の中に霧がかかってるみたいに、あの時の事が思い出せないんです」 ばっちり記憶操作もされてるようだ。 「ま、いいや。俺達が何者か知ってるなら、俺達の目的も分かってるな」 アーリアが光の矢を番え、白き弓を引く。 その先には、もちろん青山礼香。 「私を……殺すんですか? せっかく、生きられるようになったのに」 「お前はもう死んでるんだよ」 「変な事を言わないでください。お父さんもお母さんも、私が元気になった事を喜んでくれると思うのに。なのに……どうして」 青山礼香が俯く。 肩が、ガクガクと震えていた。 「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして! どうして、殺されなくちゃいけないんですか!! 貴方達は生きてるのにッ!!」 アーリアが、矢を放つ。 光のラインが、空間に引かれてゆく。 だがもう、そこには青山礼香の姿はなかった。 「不公平です……不公平不公平不公平です! 不幸病です!! 何で私だけ私だけ私だけ私ダケ私ダケ私ダケワタシダケワタシダケワタシダケ」 何処からか、声だけが聞こえる。 まるで、この夜の闇が語りかけてきているみたいだ……。 「――私だけ死ぬのは、嫌なんです」 「だから、他の人間を殺したのか?」 少しの間、闇の向こうは沈黙していた。 「……はい? 何を言ってるんですか? 私は人殺しなんてしてません。死ぬのが嫌だからって、他の人を殺すような最低の人間ではありませんから」 「……じゃあ、その血は何だ?」 「血? この血は、さっき喰べた肉が撒き散らしたモノですけれど」 「…………」 「ああ、そう言えば訊きたい事があるんでした。私のお父さんとお母さん、どこにいるか知りませんか?」 「……何?」 「家に帰ってもいないんです。肉が2つ転がってただけで。その肉は喰べましたけど。血も内臓も美味しかったですよ」 ……嫌なタイプだ。 言葉が1つ1つ発せられるごとに、まるで身体の中を掻き混ぜられるような不快感を感じる。 「知りませんか? 知りませんか? 知りませんか? 死りませんか?」 くそっ、どうしてブルーノは面倒事ばかり押し付けるんだ! 「死りませんか? 死りませんか? 死りませんか? 死りませんか?」 「うるさいですッ!」 アーリアが闇の中に、光の矢を撃ち込む。 その光は闇を引き裂き、一瞬だけ青山礼香の姿を現した。 間髪入れず、アーリアは彼女に向けて矢を連射する。 ――チャンスだ! 俺は光の矢を追うように駆け、赤き剣を振るった。 矢が青山礼香の身体を貫き、さらに俺の斬撃が彼女を斬り裂く。 浅い。だが、手応えはあった。 「ぐ……っぁあぁ……!!?」 青山礼香は後ろに跳躍し、再び闇を纏う。 2,3度、カエルの鳴き声みたいな呻きが聞こえたが――すぐに、静かになった。 「……逃げられたか」 ――痛い。 身体のあちこちが痛い。狂い死にしそうなくらい痛い。 涙が出て来る。どうして、私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。 でも、諦めたらダメだ。お父さんとお母さんが待ってる。 この傷を治すには、食餌を摂るしかない。 超視力をギリギリまで使い、辺りを探った。 「……見つけた」 1700mくらい先に、肉がある。後ろから襲いかかって、喰べてしまおう。 あの白衣、どこかで見た事がある気がするけど……まぁいいや。 突然、背後から殺気を感じた。 私は振り向きざまに、<銀ナイフ>を一閃する。 メスは相手の肋骨の隙間をなぞるように、肉を裂いた。 「ああぁぁ、あああああああッッ!!!?」 絶叫が響く。 ここで初めて、私は相手の正体を知った。 「青山礼香……」 ――私の鏡像にして、私のターゲット。 彼女は泣き喚きながら、胸を押さえている。そこからは、次々と血が溢れ出していた。 もしかしたら、さっきの一撃は心臓に達していたのかも知れない。銀の斬撃が心臓に入ったら、間違いなく致命傷だろう。 私は、彼女の首に<銀ナイフ>を当てる。 「今、楽にしてあげるわ」 少し力を込めて、メスを引けばいい。 それだけで、全て終わる。 だけど―― 「……ッ」 ――斬る事は、出来なかった。 理由なんて分かってる。だけど、納得出来ない。 覚悟はしたはずだ。それなのに……。 「ア、ァ……ッ!!」 青山礼香が、私を殴り付ける。 速さも技もない力任せの攻撃だったが、呆けていた私を弾き飛ばすには十分過ぎるくらいだった。 彼女は再び、夜の中に消える。 誰か、助けて。 血が止まらない。このままじゃ、死んでしまう。 助けて。 生きたい。私、生きたい。 何度も転びそうになりながら、必死で走る。 ――だけど、その時。 光の矢が、私の右足を吹き飛ばした。 青山礼香が、声にならない悲鳴を上げる。 彼女の右足は、アーリアが放った矢によって、跡形もなく消え去っていた。 右足を再生させようとしてるみたいだが、無駄だ。聖具による傷は再生しない。 それでも青山礼香は、前進をやめなかった。這ってでも先に進もうとする。 ……何て痛々しい姿だ。見てるこっちまで辛くなってくる。 「…………」 赤き剣を、握り締める。 俺には、楽にしてやる事くらいしか出来ない。 ……誰かが、私に近付いて来る。きっと、私を殺すつもりなんだろう。 視線を落とす。右足があった部分からは、止め処なく血が流れ続けている。 どうして、こんな酷い事を平気で出来るんだろう……? ……。 …………。 ………………。 ……………………ああ、何かイライラしてきた。 こんな事をされて、黙ってる事なんて出来ない。 ――目には目を、歯には歯を。 返してやる。 痛みも苦しみも悲しみも、全部返してやる。 殺してやろう。 殺して殺して殺して、それでもまだ殺してやろう。 そのための『力』が、私にはあるんだから。 ……ちょっと、楽しい気分になってきた。ははははは吐吐。 1人残らず、殺殺殺殺殺殺殺シテヤル。 私は笑いながら、思い切り叫んだ。 「――『暗黒のヴァンパイアの神殿』ッッ!!!!」 ――突如、世界が激震した。 青山礼香の叫びと共鳴するように、地鳴りが轟く。 俺とアーリアはバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。 そして――それを、見た。 夜空が裂け、その亀裂から何かが落ちてくる。 それは、神殿。 その神殿は街の上で重力に逆らい、停止する。 空に浮く魔の神殿は、絶対的な威圧感を放ちながら、俺達を見下ろしていた。 「ようこそ、私を祀る神殿へ」 気付いた時、俺とアーリアは神殿の中にいた。 神殿の壁や柱には、見た事もない象形文字がびっしりと刻み込まれている。 青山礼香は祭壇の上に立ち、こちらを眺めていた。 「ここは私の神殿――私の楽園――私の世界。ここに来てしまった以上、貴方達の運命は死で決定です」 青山礼香の全身の傷が消える。それだけではなく、漲る力はさっきまでとは比べ物にならない。 ……まいったな。まさか、こいつがここまでやるとは。 「な、何が起こったんです!!?」 パニック気味のアーリア。表面に出していないだけで、俺も心中は似たようなものだったりする。 「あいつ……神殿を使って自分自身を祀り、神になりやがった」 「……はい?」 俺の呟きに、アーリアが訊き返す。 まぁ、キリスト教徒には理解し難い事か。 「人間を信仰する文化、ってのがある。日本では平将門、中国では関羽なんかが有名か。彼等は死後、その怨念やら偉業やらによって、人々に祀られ――神と成った。信仰が、人間を神にするんだ」 「……順序が逆転しています。まず神が在り、それを人々が信仰するのが筋でしょう? 信仰が先に来るなんて、矛盾しています」 「言いたい事は分かるが、そういうものなんだから仕方ないだろ。話を先に進めるぞ」 アーリアは不服そうだ。 「これもそれと同じ事だ。上空に出現したこの神殿に、人々は畏怖の念を向ける。畏怖っていうのは、信仰の形の1つだ。そして当然、神殿に向けられた信仰は、そこに祀られている青山礼香への信仰だな。あいつは畏怖という名の信仰を集め、神へと変生したんだよ」 青山礼香はニコニコしながら、こちらを見ている。どうやら正解らしい。 「凄いですね、フラナリィさん。まさにその通りですよ」 ぱちぱちと、拍手の音。バカにされてるような気がするのは被害妄想か? 「……アオヤマさんが、神なはずがありません」 アーリアが、1歩前に出る。 「何故なら、神とは我等が主のみ。神を騙る悪魔を狩る事も、私達の仕事なんです。覚悟してください、アオヤマさん」 青山礼香の笑顔が、ニコニコからニヤニヤに変わった。 この全てを見下すような嘲笑――見た事がある。そう、あいつの笑顔と同じだ。 「竜――ですか。そういうのも、いいかも知れませんね」 べきり――と、骨を無理矢理捻じ曲げたような気味の悪い音がする。 骨格の歪んだ青山礼香の身体から、2枚の翼が現れた。 最初は、蝙蝠にでも変身するつもりなのかと思ったが――どうやら違うようだ。 彼女の身体が膨張し、肌が爬虫類じみた色に変化する。それに合わせたように、青山礼香は蜥蜴のような姿にメタモルフォーゼを遂げた。 有翼の、巨大な蜥蜴。 ――分かりやすく言えば、ドラゴンというヤツである。 「凄いな、アーリア。ドラゴンに変身出来るヴァンパイアなんて、たしか3人しか確認されてないんじゃなかったか?」 つまり、彼女が4人目だ。 「……フラナリィさん、どうしてそんなに余裕があるんですか?」 「ただの現実逃避だ」 ……さて、どうするかな。 この神殿ごとあいつを真っ二つにする方法もあるにはあるが、出来れば使いたくない。 「いあ……んがい……いぐぐぅぅうううッ!!!!」 竜が――咆哮する。 そして、大きく口を開いた。 直感的に、俺とアーリアはその場から跳び退く。 竜の口から吹き出された炎により、俺達が立っていた床が蒸発する。 ……何て火力だ。まともに受けたら、間違いなく天の主の元へ召される事になるだろう。 「避けないでくださいよ……ッ!」 竜の額に青山礼香の顔が浮かび上がり、虚ろな眼で呟く。 だが、そいつは無理な相談だ。 俺は竜の背後に廻り込む。 これだけ図体がでかいんだ、後ろから斬りまくれば―― 「……え?」 ――竜の姿が、消えた。 「フラナリィさん、上です!」 「――ッ!?」 上を見上げる。 そこには――俺に向かって落下してくる、竜の巨体。 「チィ――!?」 渾身の力で、床を蹴り飛ばす。 俺が立っていた床が粉々に踏み抜かれ、衝撃が走る――! 「くぅっ……はぁぁっ!」 ――閃光。 アーリアの白き弓から放たれた聖なる光矢が、竜に向かって突き進む。 だが竜は残像だけを残し、それを回避してみせた。 くそ! あの大きな身体で、どうしてそんな動きが出来るんだ! 「あはは、あは、あはははは這ははは這はは這這這は這這は這這這這這這這はは這這這這這這這這……ッッ!」 青山礼香の狂ったような――と言うより完全に狂い切っている声が、木霊する。 笑い声が神殿の壁や床に染み込み、逆に何かがそこから溢れ出す。 ――それは、数多の異形の者達。 そいつらは異界の祝詞を囁きながら、俺達に迫る。 「フ、フラナリィさん……」 「……なんか、どんどん面倒な事になってきてるな」 俺は素早く、近くの1体を斬り斃す。昆虫と人間を足して2で割ったような、醜悪な化物だった。 アーリアも、化物どもに矢を撃ち込む。四足歩行する奇怪な魚が、豪快に吹き飛んだ。 「イアァァッ! シュゥゥゥブ=ニィィグラァァァァスッッ!!」 「――ッ!?」 ……しまった、化物どもに気を取られ過ぎていた。 青山礼香の顔が叫ぶと同時に、竜の口から炎が吹き出される。 陰を内包し、闇を内包し、死を内包した――黒い炎。 この世のモノでない炎が、フロギストンを放出しながら俺に迫る。 「フラナリィさんっ!!?」 ――ダメだ、避けられない! 「だからって、焼かれはしねぇぞ!」 俺は人差し指と中指を伸ばし、その2本指で正面に五芒星を描く。 それは光る盾となり、黒炎から俺を護った。 「……? 旧き印――いや、晴明桔梗印ですか」 「お袋の実家が陰陽道の家なんでね。こういう異端の魔術はあまり使いたくなかったんだが……ま、超法規的措置だ」 俺は青山礼香の言葉に答え、不敵に微笑む。 ……何故か、アーリアがもの凄く冷たい眼で睨んでいるが。 「フラナリィさん……魔術を使う者は、火と硫黄の池に落とされるんですよ?」 「さっきも言ったが、超法規的措置だ。慈悲深き神の御心は、きっと俺を赦してくださるだろう」 「……はぁ」 ――呆れられた。 「小言は後で聞いてやる。だが今は、さっさとあいつを片付けるぞ」 だが、敵は予想以上に強い。 このまま闘い続けても、勝てる可能性は高くないだろう。 「……仕方ない」 アレを、使うしかないみたいだ。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな――」 俺は静かに、三聖頌を詠唱する。 それに応えるかの如く、手の中に一振りの剣が現れた。 「何、ですか……ッ!?」 変わる空気。 それを敏感に察知した青山礼香が、慄く。 さらには化物どもが、蒸発したかのように消える。剣が放つ清浄な空気が、奴等を異界へと送り返したのだ。 まさに――浄化。 「…………」 アーリアは畏怖するかのように、俺が握っている剣を見詰める。 その剣は、キリストの血を吸った鉄から造られたといわれる――聖なる剣。 「――<贖罪の釘剣>ッ!」 勝敗は、一瞬で決まった。 何が起こったのか、まるで分からない。 フラナリィ神父の手に剣が出現し、その剣身が滴り落ちる血のような――不気味な光を放った所までは、見えた。 しかしその後に起こった事は、完全に私の理解を超えている。 気付いた時には、剣が私の身体と私の神殿を真っ二つにしていた。 ……どうやら、人間を超越した私にさえ知覚出来ないようなスピードで斬られたらしい。 でも、そんな事はありえないよ……。 「ありえますよ。あの剣は、僕が造った物ですから」 ――突然、頭の中にそんな声が響いた。 竜の身体が光の粒子となり、消えてゆく。 それと共に神殿もまた、消滅する。 ――俺が放った必滅の斬撃は、青山礼香を完膚なきまでにこの世界から斬り離したのだ。 「……フラナリィさん」 まぁ、それはともかく。 「この状況、どうするんですか!?」 「……どうするかなぁ」 俺達は、落ちていた。 地上に向けて。まっさかさまに。 まぁ……あの神殿は空に浮いていたのだから、それが消えればこうなるのは当然なのだが。 「とにかく、何とかしてみよう」 「何とかって――」 俺は素早く、右腕でアーリアの身体を抱える。 アーリアは短く悲鳴を上げると、ジタバタしながら顔を真っ赤にした。……酒でも飲んだんだろうか。 だが、その摩訶不思議なリアクションにツッコミを入れている時間はない。 「ハ――ッ!」 俺は下に向けて、左手に握っている<贖罪の釘剣>を振り下ろす。 地面が爆砕され、その衝撃が俺達の落下速度を減殺する。 しかし―― 「く……っ!?」 まだ、速い。このスピードで落ちたら、かなり危険だ。 だが、もう地面は目の前にある。 結局、スピードを殺し切れないまま――俺は、地上に激突した。 「……助かったんですか?」 「うぅむ……」 アーリアが、不思議そうな表情で俺を見る。きっと、俺と同じ気持ちなのだろう。 あのスピードで落下すれば足の骨くらいは確実に砕けるはずなのだが……何故か、俺は普通に着地していた。 これは、一体……? 「……まさか」 試しに剣を振るい、近くの木を刻んでみる。 「――!」 眼に映らないほどのスピードで、剣が――俺の腕が、動く。だがしかし、脳は確実に剣の動きを認識し、それを操っていた。 あっという間に、木が山のような切り屑へと変わる。 (……俺の身体能力が向上しているのか?) さっきの着地といい、今の斬撃の速度といい、そうとしか考えられない。そういうレヴェルの話ではない気もするが。 しかし、何で急に――? (……やっぱり、この剣か?) 手の中の<贖罪の釘剣>を見る。 「…………」 この剣は青山礼香を斬った時、その命というか魂というか――ともかくそういうモノを、喰ったのだ。 そして、それによって剣が得た力は、剣の主である俺の力となる。故に、突然俺は強くなった。 ――そういった事を、理屈抜きで理解する。もしかしたら、剣が俺に教えたのかも知れない。 (しかし、これは……) お袋から聞いた事がある。確か陰陽道にも、そんな術があったはずだ。 1人で考えていると、<贖罪の釘剣>に変化が現れた。 金属で出来ているはずの剣身が肉のように裂け、血が溢れ出す。まるで、かつて吸った聖なる血を吐き出すかのように。 「……っ!?」 あまりの光景に、アーリアが息を呑む。 剣身の傷口は次々と増え、流れる血量も増してゆく。そして、俺の足元に血だまりを作った。 最後には剣そのものが融解し、血だまりと混じり合う。 「何なんだ……?」 次の変化は、すぐに起こった。 「――ッ!!!?」 なんの前触れもなく血だまりが爆発し、血飛沫が上がる。 そして――無数の血の雫は、一斉に俺に群がり始めた。 「ぐっ……あああああああっ!!!?」 「――フラナリィさん!?」 血雫は俺の皮膚を貫き、血管の中へと入り込む。そのまま俺の血と混じり、身体を巡り始める。 「ぐ……っ」 激痛が去ると、例の血はもう1滴たりとも存在しなかった。一瞬にして、全ての血雫が俺の身体に入り込んだらしい。 「だ、大丈夫ですかっ!!!?」 「……ああ、何ともない」 心配するアーリアに、そう答える。事実、血雫による傷は跡形もなくもう消えていた。 ……だが。 (これでまさしく、俺と<贖罪の釘剣>は一心同体って事か。嫌な気分だ) 不吉な予感が、俺の胸の中に渦巻く。 ――その時。 「その剣は、私が高いお金を出して買ったモノなんだけどね。赤き騎士――ファーザー・フラナリィ」 「……なら、返してやろうか?」 「謹んで遠慮するわ」 突如割り込んで来た声に、軽く答える。 眼をやると、白衣の女性が佇んでいた。 「あなたは……田中優美清春香菜!」 アーリアが矢を向ける。 だが優美清春香菜はまるで気にも止めず、勝手気侭に喋り続けた。 「久し振りね。庵遠がこの街で騒ぎを起こした時以来かしら?」 「ああ、そうだ。しかも、あんた達はその庵遠を取り逃がしたんだよな」 クスクスと、優美清春香菜が笑う。 「自分の手で庵遠を滅ぼす事を望んでいるあなたにとっては、その方がいいでしょう? それに、あいつみたいな存在を闇に葬るのは、本来は教皇庁の仕事だしね」 「ミスを正当化するな」 「まぁ、そんな事はどうでもいいわ」 優美清春香菜の眼が、スッと細められる。 「彼女は……青山礼香は、滅んだの?」 ……瞼によって隠れた瞳にどんな感情が宿っているのか、見る事は出来ない。 「ああ。俺がこの手で滅ぼした」 その方法には、不満が残っているが。 「そう……」 優美清春香菜は哀しんでいるような、あるいは安心したような表情で、呟いた。 「……せめて、あの世では幸せになってもらいたいわね」 「陰陽道に、蠱毒という咒術があるんですよ。青山礼香さん」 私は宇宙のような――でも絶対に宇宙ではない場所――を漂っていた。 黒い神父が、吐き気をもよおすような声で囁きかけてくる。 「蛙や蛇といった生物を壷などの中に閉じ込めて共喰いさせ、生き残った最後の1匹――1番強い1匹を、術に使うんです」 神父の顔は見えない。まるで、顔が無いみたいに。 「他の命を喰らい、それを取り込んだ最後の1匹。それがどれほどの力を持つのかは、ヴァンパイアである貴方ならよく分かるでしょう。咒術として使われるのも当然ですね」 ケラケラと、黒い神父が笑う。 「ハハハ……赤き騎士を『最後の1匹』にするためのエサとしては、貴方はなかなか良かったですよ。これで赤き騎士は――あの剣は、さらに強くなった」 ……この人は一体、何を言っているのだろう? 分からない、分からない。 「さて、手早く終わらせましょうか」 神父の手に、何かが現れる。 「――黒き秤」 ……それは夜の闇よりも黒い色をした、天秤。 「古代エジプトでは、死者は死後の世界でオシリスという神の審判を受けると考えられていました。そこでは、天秤にその死者の心臓と真実の羽根を乗せ、罪の重さを測るんです。そのために、ミイラは心臓だけを残されているんですよ」 天秤の片方の皿に、毒々しいほど赤い塊が乗った。 あれは――私の――心臓――? 「心臓と羽根の重さが吊り合えば、その者はオシリスの国で暮らす事を許されますが――」 もう片方に、フワフワと羽根が舞い降りる。 天秤が揺れ、私の心臓の方が――沈んだ。 「――心臓の方が重かった場合、その心臓はアメミットという怪物に喰べられてしまうんですよ」 異様な、気配がした。 上下左右前後――そのいずれとも違う、認識する事すら出来ない方向から、何かが近づいて来る。 「どうやら、罪深き貴方はオシリスの国へ行く資格はないようですね」 どうして……どうして、貴方はそんなに楽しそうなの? 「さよならです、青山礼香さん。もう会う事もないでしょう。貴方には――」 異質な方向から現れた怪物の口が、私の心臓を呑み込む。 それと一緒に、私自身も……2度と這い上がる事の出来ない穴へと、堕ちてゆく。 最後に聞こえたのは、黒い神父の嘲笑だった。 「――来世すら、無いのですから」 「……青山礼香を転化させた犯人は、分かっているの?」 しばらく呆っと遠くを見ていた優美清春香菜が、再び俺と話し始める。 「いや、分かっていない。だが――十中八九、あいつだろうな」 「そう……やっぱり、あの黒い男の仕業なのね。何週間か前に来日してたらしいから、まさかとは思っていたけど」 「休暇とって、日本に来たんだよ。ったく、俺達はほとんど休みなく働いてるってのに」 ここにはいない同僚に向かって、言う。 だが―― 「ああ、すいません。少しやらなければならない事があったんですよ」 ――答えが、返ってきた。 世界が重く、暗く、忌まわしく……変質する。 「……黒き騎士」 優美清春香菜が、呟く。 その鋭い視線の先には――ブルーノが、あの憎たらしい笑顔で立っていた。 「それはともかく……白き騎士、赤き騎士。仕事も終わった事ですし、ローマへ帰りましょう。枢機卿が報告を待っていますよ」 ブルーノは俺とアーリアを先導するように、歩き始める。 しかし、 「――待ちなさい、砂漠の王」 優美清春香菜は、それを鋭い声で止めた。 「……何か?」 「あなた、やらなければならない事があったとか言ってたけど……」 少し、間が開く。 その後、優美清春香菜は覚悟をしたかのように――言った。 「それは、青山礼香を<主人>に転化させる事かしら?」 ブルーノが、笑う。 怖気が立ち、思わず震え上がるほどの……壮絶過ぎる、笑みだった。 「少し違います。転化させるに相応しい者を見つけ出す事、ですよ」 アーリアの瞳が驚愕で震え、優美清春香菜の瞳には怒りの炎が宿る。 「……覚えておきなさい、ブルーノ・ニィアルラ。いつか必ず、徹底的に滅ぼしてやるわ」 ブルーノの瞳にあるモノは、あまりにも深い闇と侮蔑。 「僕を滅ぼす? ハハ、どうやってですか? ヌァザ・アガートラームの力でも借りますか? たとえそうでも、僕を滅ぼす事など出来ませんよ」 「ニィアルラさん……あなたはっ!」 アーリアが、ブルーノに向けて白き弓を引く。 だが、 「……止めろ、アーリア」 俺はそれを、手を伸ばして制した。 「――ッ!!? どうして止めるんですか!!? 彼が元凶だったんですよッ!!!?」 「今の俺達がどうにか出来る相手じゃない。教皇だって、あいつには逆らえないんだからな」 「な……っ!?」 アーリアが憎しみさえこもっていそうな視線で、俺を睨む。 俺達にとって、教皇とは神の代理人だ。その教皇が逆らえない存在など、この地上には存在しない。少なくとも、アーリアはそう思っているはずだ。 なら、その存在を知ってしまった時――アーリアはどうなってしまうのだろう? 「お話は終わりですか? では、僕は行かせてもらいます」 ブルーノは、俺達に背を向ける。 その貌だけを――その嘲笑貌だけをこちらに向け、奴は別れの言葉を口にした。 「――さよなら、田中優美清春香菜さん。いつか、冒涜的な悪夢の中でお会いしましょう」 「……教皇庁はもう終わりね」 「そう言うなよ。俺だって、あの怪人千面相をどうにかしようと必死なんだからな」 俺は優美清春香菜の言葉に答えつつ、深い深い溜息をついた。きっと、マリアナ海溝よりも深いはずだ。 「で、どうするんだ? 天下の田中優美清春香菜なら、ウィルマース・ファウンデーションに協力を要請する事くらい出来るんだろ?」 「そりゃあ、出来るけど……それでどうにかなる相手だと思う?」 「……いや」 ま、それもそうか。まったく、難儀な話だ。 「帰るぞ、アーリア。もう本気で疲れ果てた」 「あ、はい」 トボトボと歩き始めた俺に、アーリアがトコトコと付いて来る。 「それにしても……『武』に『空』、か。面白いわね、あなた達」 後ろで優美清春香菜が何か言っているが、俺にそれを気にする余裕はない。 だがアーリアは律儀に振り返り、言葉の意味を問いかける。 「……どういう意味ですか?」 問いに対して優美清春香菜が答えた事は、質問の回答ではなかった。 「アーリア・パウズィーニ。髪が長くて、目付きの悪い女には気を付けなさい。その女は、あなたの天敵よ」 「……はぁ?」 優美清春香菜は意味深な笑みを浮かべ、去って行く。 「どういう事でしょう?」 「さぁな」 そんな事、心底どうでもよかった。 「フラナリィさん、1つだけ聞かせてもらえませんか?」 帰りの船の中――もちろん密航である――で、ずっと黙っていたアーリアが口を開いた。 ……何が聞きたいのかは、見当がつく。 「何だ?」 「ニィアルラさんは……ニィ神父は、一体何者なんです?」 「…………」 やっぱりそこか。 「……這い寄る混沌」 「――え?」 俺の口にした単語に、アーリアが首を傾げる。どうやら、聞き覚えはないらしい。 「昔、アメリカにある小説作家がいた。その作家は夢からインスピレーションを得て、作品を書く事があったらしい」 「……それが、どうしたんです?」 「まぁ聞け。ある時……彼の悪夢の中に、邪神が現れた。そして彼は、それを作品として発表したんだ。タイトルにその邪神の名を付けてな」 「…………」 船の中が、静まりかえる。海はとても穏やかだ。 あの綺麗な青い海の下には、何が眠っているのだろう……? 「――その作品のタイトルは、『Nyarlathotep』という」 かくしてついに内なるエジプトより 尋常ならざる闇きもの来たりて 農夫ら額衝きぬ ……野獣ども其の跡につづき 其の手を舐めん たちまち滄溟より凶まがしきもの生まれいずる 黄金の尖塔に海藻のからまりし忘却の土地あらわれ 大地裂け 揺れ動く人の街の上には 狂気の極光うねらん かくして戯れに自ら創りしものを打ち砕き 白痴なる<混沌> 大地の塵芥を吹きとばしけり ――ハワード・フィリップス・ラヴクラフト『ユゴス星の黴』 |
あとがきだと推測されるもの ……テトラといいブルーノといい、私が書く超越神は何故ショタなのでしょう?(知るか) こんにちは、大根メロンです。 さて、どうやら続くらしい異端審問官のおしごと。 ……にしても、ヨハネ黙示録から始まってラヴクラフトの詩で終わるEver17SSって一体。 あと、これってもしかして連載なのでしょうか。個人的には、一話完結の短編だと思って書いてるんですが。 まぁ、短編という事にしておきましょう。いつでも辞められるように(オイ) さて、『異端審問官のおしごと3』はあるのか。あるとしたら、タケピョンは『髪が長くて、目付きの悪い女』と運命的な出逢いを果たすかも知れません。 ではまた。 |
/ TOP / BBS / |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||