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Ever17連載SS
『空と彼方の境界線』


著:氷龍 命

Scene:01 邂逅、別れ、そして胎動………

 西暦2034年5月7日……。本土へと向かう船は、一面に蒼を湛えた海原に純白の航跡(ライン)を刻みながら順調に航海を続けている。人影のあまりないその甲板の中央部……普通ならば大勢の家族連れで賑わう筈のその場所では、数人の男女が暖かく降り注ぐ陽光の中、
五月の陽気に相応しい歓声を上げていた。
「平和だなぁ…………」
などという声を上げ、舷側の手すりにもたれながらその集団を見つめているのは『倉成武』……。2017年のLeMU崩壊事故の際に海底下の研究施設『IBF(イーベーエフ)』に退避。同時に退避した脱出メンバーのリーダー的な役割を担い、全員の脱出に成功したはずであったが、一人LeMUに
戻った『小町月海』を連れ戻した後、IBF所有の潜水艇での脱出の際、月海を助けるべくその身を
海底に躍らせた。しかし、時を越えて現れた第三視点『ブリックヴィンケル』の導きによってIBFに
帰還。そこで脱出したと思われていた『八神ココ』と共に長期間の冷凍睡眠についていたのである。
その後、2034年にIBFに降下したホクト少年の手によりココと共に冷凍睡眠より覚醒。17年振りの
地上へと帰還したのである。 そして、ちょうど日陰になる位置に立っていたやけに太った
キツネザルの着ぐるみ……。その頭部を脇のベンチに置きながら、艶やかな黒髪の少女も
その視線の先−明るい金髪にグレー系の服装でまとめられた少年と、どこかの学校の制服を
着込んだ少女がシャッフルボードを楽しむ姿がそこにあった−をぼんやりと見つめながら
「待ち望んだこの幸せ……。ねぇ、チャミ?この幸せが……いつまでも続くといいね?」
と、掌に載せた小さな生物−灰色の毛を持つハムスターが彼女の掌の上で春の陽気を吸いながらせっせと毛づくろいをしていた。−に静かに語りかけていた。 小町月海……。彼女の存在は
当初ごく一部の者のみが知り得る事であった。幼い時のある日に感染したウイルス……。
そのウイルスは、彼女に超人的な身体能力と不老不死に近い肉体を与えた。そして、それは
過去に学会で『マイケル・キャビン博士』がその存在を提唱した『キュレイウイルス』と呼ばれる
物であった……。その事からか、彼女は『ライプリヒ製薬』に拘束、研究施設に監禁されて非人道的な
人体実験を連日のように強制されていた。しかし、ある豪雨の夜に月海は実力でその施設を脱走、
社会の闇に潜む逃亡者としての過酷な時間を歩み続けてきたのである。 その後、LeMUを訪れた
−その目的は、自己とライプリヒ製薬の消去であった−月海はそこで武と出会い、ありのままの
己を受け入れてくれた武と結ばれた。しかし、LeMUからの脱出において武は月海を救うべく海底に
身を躍らせ、残された月海もライプリヒ製薬の追っ手から逃れるべく再び逃亡を開始。その後、
2034年……仕組まれた崩壊事故を乗り越えた月海の前に武は再び立ったのである……。当然、
二人がその再会を喜ぶのは当たり前のことであったが、そこには二人以外にも
その再会を祝ってくれる人物がいたのである。


「ママ!ママってばぁ!!終わったよ〜。早くジュース買いに行こうよ!!」
と制服姿の少女が月海に近づき、その背後からグレー服の少年も
「お父さん!お母さん!あと二時間くらいで到着するってユウが。早く荷物纏めちゃおうよ!」
と二人で賑やかに話しながら月海の傍へと駆け寄ってきた。
 この二人の名は『松永沙羅』と『ホクト』といい、2017年の事故の際LeMU館内で身体を
重ねた武と月海の子供であった。二人の本当の名前は判らない。生まれる前から続いた二度目の
逃亡生活の中で生まれた二人に名前をつける余裕は月海にはなかった。そして生まれて少しの間、二人は月海と共にライプリヒの追っ手から逃げ続けていたのだが、月海の『二人を連れて逃げる事はこの子達の将来を奪ってしまう』という考えのもと孤児院に預けられたのだが、数年の時を経て二人は里親に引き取られていたのである。そして沙羅は学校の行事で、ホクトは匿名の電話による
呼び出しでそれぞれLeMUに集まり、崩壊事故に遭遇。その脱出行の中で、ホクトと沙羅が
兄妹である事と月海が二人の母である事が判明、母子の絆が取り戻さた。そして、
辛くも脱出した二人は父親である武との感動の対面を果たしたのである。
「そうね……。そろそろ準備しましょうか……」
と言う月海と
「いよし、久し振りの本土だ!まずは……親父の所に行かなきゃな……」
と言いながら、テンションダウンでげんなりとした表情を浮かべる武を間に挟みながら
ホクトと沙羅は船内へと消えていった……。


 その頃フェリー桟橋がある本土側では……。
「そろそろ時間か!?」
「照明の最終チェック急げよォ!!」
「リポーター!立ち位置確認しっかりしとけ!!」
といった報道陣の怒号が飛び交っていたが、無理もなかろう……。かつて巷の話題を席巻し、
報道各社のワイドショーの話題を独占した『2017年LeMU浸水・崩壊事故』において
『いなかった筈の生存者』が生きているという衝撃の事実と、人類に新たな可能性を示した
『キュレイウイルス感染者』の姿、そして、そのキュレイ感染者に対するライプリヒ製薬が行った
非人道的行為に対する生の証言が得られると言う事で、報道各社が総力を挙げた大規模な
取材陣を送り込んでいたのである。
 そして、色めきたつ報道陣のやや後方……雑木林の中にある一本の木にもたれながら、
一人の青年が近くの自販機で買ったデミタスコーヒーを片手に売店で売っていたハム&チーズの
ベーグルサンドを齧っていた。
「ン……。そろそろ月海さんや春香菜先生達が戻ってくる頃か……。7日間気を張りっ放しだったろうでしょうね……。ま、起こした事が事と言い、手段が手段だった訳だからそれ位の根性入れてもらわないと、17年がかりで警護とか準備に奔走したこっちも浮かばれないもんなぁ……」
と呟いて、食べ終わったベーグルサンドの包み紙をゴミ箱に投げ込み、デミタスコーヒーの缶を
両手で挟み、力を込めて間『グシャリ!』と言う音と共に缶を『縦に』潰し、
何事もなかったかのように空き缶入れに放り込んでいた……。


 この青年の名は『海藤拓水』と言い、生まれ付いての超人的な身体能力−その身体能力は
月海に代表される純キュレイ種と同等のものであった−に加え、数年前まで世界中に死を撒き散らしていた恐るべきウイルス『Tief Blau 2017-Rev.17』に感染した際、全身に供給された
『寄生宿主防護酵素』の影響で遺伝子コードが高速で書き換えられ、人体の構造上の限界レベルで自己の能力を引き出せるような身体へと変化していたのである。その後、両親や双子の妹とも離別し、ライプリヒの幹部である父親の追っ手から逃れるための逃亡生活を続ける傍ら、
途中で春香菜達と接触。2034年の計画に向けて必要とされる月海の身辺警護を引き受け、
紆余曲折の果てに無事守りきったのである。そして、拓水自身も興味を持ったことなのだが、月海の姿を見ているうちに彼女が内に秘めた『生きるという執念』と『死への渇望』に拓水は気付いていた。そして、その内のひとつ『死への渇望』は己が宿す永遠という名の司祭(キュレイウイルス)によるものである事はすぐに気付いたが、もうひとつの『生きるという執念』の原動力については中々それを
見極められずにいた。だが、救出作戦前日になって武の存在と月海が武に寄せている想いを知り、一人の女性をそこまで本気にさせた『倉成武』という人物に大いに興味を抱いたのである。そして、
計画の成功は報道陣の異様なまでの騒ぎようから見れば一目瞭然。確認するまでもなく成功という事は確信できた。そういう点では後は至極簡単な事だった。……要は月海の前に現れた上で、
武の事をちょっと構ってみればいい事なのだ。
「さーてと、そろそろ春香菜先生達のお出迎えに行きますかね……」
と声こそ暢気な声音だったが、桟橋へと歩き出した拓水の瞳には剣呑な光が宿っていた……。


「倉成さん!17年振りに地上に戻ったご感想は!?」
「LeMUの最下層の更に下へと避難していたという情報がありますが、
本当はどうなのでしょうか!?」
「ティーフ・ブラウに感染して、それを克服したというのは本当ですか!?
ぜひ、その体験を教えてください!!」
LeMU海上部分でもある『インゼル・ヌル』から戻ってきたフェリーが接岸。武達が船から降りるや
否や、今か今かと待ち構えていた大勢の報道陣が一気に武とココの周りを取り囲み、矢継ぎ早の
質問を浴びせ始めた。すると、今まではやや後方に控えていた春香菜が報道陣の前に割って入り、
いつも通りのよく通る声で
「すみません、彼らは非常に疲れています。とりあえず今日はゆっくりと休んでもらい、詳しい話は
明日記者会見を開きますので、その席でお願いします」
と言って報道陣に応対し、その横を空にエスコートされて武達が通り過ぎようとした刹那
「小町さん、お久し振りで……。あの日の病院以来ですね……」
という声が報道陣のやや後方、ベンチの辺りから聞こえた。そして、その声は月海をして
信じられない……もう会う事のない筈の青年の声だった……。
「か……海藤!?どうして貴方がここに……!?」
 武もそう詳しく月海の事を知っている訳ではないのだが、如何なる時でも悠然としていた月海が
声を上ずらせて狼狽している光景に思わず
「おい、月海!アイツは一体何者なんだ!?まさか……ライプリヒの……?」
と素早く月海の前に躍り出て庇いかけたが、その行動を制するように春香菜が再びその青年の前に
呆れたような表所を浮かべながら歩み出た。
「海藤……あまり驚かせちゃダメよ……。倉成もココも今までハイバネーションで眠ってたわけだし、月海に至っては17年間逃亡続きだったんだから……」
と砕けた調子でたしなめた。すると、その青年−腰まで届く銀髪に2mはあろうかという長身……。
その青年は言うまでもなく海藤拓水だった−は、少しおどけた仕草で肩をすくめ、飄々とした足取りで月海の前に歩み出、人懐っこい笑顔を浮かべて
「ついに大願成就ですか……おめでとうございます。……ふーん……この子達が小町さんの
子供かぁ……。そう言われて見れば、女の子の方は目元とか良く似てますもんね……」
と言いながら腰を落とし、沙羅の前髪を極自然な動作でかき上げながらその顔をまじまじと
覗き込んでいた。そのあまりにも突然の事に、当の沙羅は頬を赤らめ……いや、耳まで
真っ赤になってされるがままになっていた。当然、ホクトとしては歓迎出来るような
状況ではない……というか、拓水の突拍子もない、しかし極自然な仕草に
「な……何やってるんですか!!離れてくださいよ!!」
と大声を上げながら拓水に掴みかかった……筈だったがスルリとかわされてしまい、その場に
つんのめってしまった。その間に拓水は軽やかに踊るような感じでステップを踏みながら
沙羅から離れ、今度はホクトに向き合って
「おいおい……気になる人の子供の顔覗き込んだ程度で怒るなんて……。ホクト君、ひょっとして
沙羅ちゃんに気があるとか??」
などと恐ろしい冗談を飛ばした。しかし、ある意味人を疑う事に疎いホクトと、単純に騙され易い
沙羅はこの冗談を真に受けてしまったらしい……。二人して真っ赤になりながら
「い……いや、そう言う事は決してない訳だし……。勿論『ちょっと気になるなー』とか思った
事はこの7日間ただの一度もなかった訳で……」
「せ………拙者もお兄ちゃんの事を『かっこいいなぁ』と思った事はこざったけど、『気になるなぁ〜』と
思った事は決してない訳でござって……あ、でもでも、コスミッシャー・ヴァルで拙者が溺れた時は
必死に手当てしてくれた事が嬉しかったな〜〜とか思った事はある訳でござって……」
と言った感じで二人揃って意味の通らない言い訳を必死に始めた。すると、最初は唖然としていた
拓水だったが急に顔がにやけ始め、ついには『ぷっ……わははは!!』と腹を抱え、涙を目尻に
浮かべながら大笑いを始めた。そして、その拓水のあまりの笑い方に唖然とする一同であったが、
春香菜だけは冷静な様子で心底呆れ果てながらも
「海藤……。からかうのはその辺にしておいて、貴方の方こそ一体何しに来たの?普段からあちこち逃げ回って中々捕まえられないのに、こう言う時だけは呼んでもいないのに現れるなんて……
まぁいいわ。で、本当に何しに来たの?」
と少々の呆れを交えながらも、大業を成し遂げた者のみが浮かべる事を許される晴れ晴れとした笑みを浮かべながら拓水に訊ねた。すると、拓水の方はそれまで浮かべていた飄々とした表情を収め、
代わりに逃亡時代に常に浮かべていたであろう研ぎ澄まされた表情を見せた。今までの表情から
拓水の事を『軽いヤツ』と思っていた秋香菜やホクトに沙羅は、あまりの表情の変化に
呆然としてしまっていたようだが、武だけは拓水の表情に混ざった剣呑なモノに気付いたのか、
無意識的な動作でホクト達の前に歩み出て
「お前……!何をするつもりだ!?俺に手を出すのならともかく、月海や沙羅、
ホクトに対して手を出すってのなら、妙な真似はさせねぇぜ!!」
と拓水に対して身構えたが、当の拓水はと言うと、『?』といった表情を浮かべながらもやや困惑していたが、まるで何か楽しいイタズラを思いついた子供のような『ニコォ〜』っとした表情を浮かべた。
そして、唐突に武に向かってフルスピードに近い速さで飛び込み、そのままの勢いを駆り、
武に向かって腕を突き出し、誰の耳にも『シュッ!!』という風を切る音がはっきり聞こえるほどの
超高速で貫手を放った。
 拓水の突然の行動に月海は全身を硬くし、ホクトからは『お父さん!!』という悲鳴に近い絶叫が
上がった。そして、秋香菜と沙羅は何が起こったのかすら判らずに呆然とした表情を浮かべていた。
そのすぐ後ろにいた空からは『く……倉成さん!!』という悲鳴が上がり、桑古木も拓水に
飛び掛ろうとしたが、春香菜は至って冷静に
「海藤……どうやら貴方が此処に現れた理由は倉成みたいね……?」
と尋ねた。すると、武の眉間の本当に寸前、距離にしてわずか数センチの距離で貫手を
寸止めしていた拓水がニヤリとした笑いを浮かべ
「御名答……。いやね、こま……いや『倉成月海』さんだから、月海さんと呼ぶべきかな……?
彼女が内に秘める『生への執念』の原動力がずっと気になってたんですよ。で、そんな時に
春香菜先生から教えてもらった倉成さんの事を聞いて、納得したんですよ。なにせ……」
と一旦そこで言葉を切った後、どこまでも続く五月の青空を見上げながら
「『……一人の女性が、17年間一途に愛し続けた『倉成武』とはどういう男なのか?』って事が
気になりましてね?で、今日のこの日に確かめてみようと思ったわけなんですよ。」
と言ってから姿勢を正し、これまで浮かべていたいずれの表情でもない、拓水が本来持っている
穏やかな表情を浮かべ、左手を差し出しながら
「突然すみませんでした……。俺の名前は拓水……『海藤拓水』と言います。でも、正直言って
驚きましたね……。あの貫手、止めるっていう事が判ってたんですか?普通だったら、
逃げるか喰らうか掴んでる筈なんですけどね……」
と武に向かって聞いた。すると武の方でも
「俺は倉成武だ……。ま、当てる心算が無いのは判ってたからな。何たって、殺気が全く
感じられなかった。それに、優から聞いたが月海が色々と世話になってたり、イカレたキュレイの
殺人鬼が襲ってきた時も助けてもらったみたいだしな……。ま、俺からも礼を言わせてもらうよ」
と拓水の腕を握り返した。そして、お互いに暫く視線を合わせていたが、唐突に拓水が
いつも見せている軽い調子の笑顔を浮かべ、大仰に肩をすくめながら
「……勝てないなぁー。この人の芯の強さは、高校時代の連れだった良哉そのものですよ。
……これなら月海さんが17年間待ち続けるのも納得できますね」
と妙に晴れ晴れとした表情を見せた。
 そして一行はそのままホテルに入り、帰還初日の夜を思い思いにすごした。そして、拓水も
久し振りに緊張を解いたのかぐっすりと寝込んでいる最中、ホテルの一室に集まった武以下の面子は
春香菜と空の口から拓水が背負う永遠の宿業−それは、誰一人自分に近づく事の出来る者のない
『人類の最上位亜種』として進化してしまった己の身体と、その永遠の呪い−拓水自身は
己の身体の事を何時でもこう呼んでいた−が、あの『Tief Blau 2017-Rev.17』によって
引き起こされているという衝撃的な事実を知った。


 そして、翌日開かれた記者会見は様々な意味で世界中に衝撃を与えた。2017年の事故で
生き延びた春香菜や桑古木たちからの事故の真相の暴露。それ以前からライプリヒに因縁を
持ち続けていた月海の証言による、彼らの非人道的実験の数々。そして、武が17年間ココと共に
ハイバネーションしていた海底研究所『IBF』でかつて行われていたティーフ・ブラウの細菌兵器への
転用研究等等……。もしライプリヒの幹部がここにいたら、その場で公開私刑にでもされていそうな
ほどの悪行の数々がぶちまけられた。もっとも、この記者会見が開かれていた時点では既に
司法機関各所にこの情報はリークされていた。ただし、春香菜から『5月7日までは何があっても
動かずに泳がせておいて欲しい』という強い要請もあったわけであるが……。


 そして、数日後……。
「優…色々と世話になったな……。また何かの機会に合えると嬉しいぜ……」
「ええ……。ま、残念ながらそういう機会は今しばらく無いと思うけどね……」
そう言いあいながら、武と春香菜は硬い握手を交わした。所は優の研究所の前、時間は日曜日の
昼下がりをやや過ぎた所か。武と月海、ホクトに沙羅は優が手配した新居−本来ならば、
長年顔を出す事の出来なかった両親の許に行くべきではあるのだろうが、不幸にも倉成夫妻は
数年前に他界していた。その今際の際まで武の無事を祈り、早く帰って来て欲しいという願いを
口にしながらの事であったと言う……。−に転居するために、僅かばかりの身の回りの品を
詰め込んだレプリカのビートルに乗り込むところであった。
「武……俺は、もうあなたに頼らなくてもやっていける。ココは、俺が引き取って一緒に此処で
暮らす手筈が付いてるし……ひとりじゃ、寂しいだろうしな」
そう言って握手を求めてきたのは桑古木だった。ココの両親もまた、武の両親と前後するように
他界していたそうである。
「ああ、ココの面倒しっかり頼むぜ。まぁ……なんだ、ココがむくれないように新作の『コメっちょ』は
ちゃんと聞いてやれよ?」
と苦笑交じりに武が付け加えると、桑古木も苦笑いを返し、二人はがっちりと握手を交わした。
そして別れ際……
「お前には…色々と犠牲にさせちまったな……。すまないと言って終わるような
事じゃないけど、ホントに……すまなかったな」
その言葉とともに、倉成一家は17年ぶりの平穏を踏みしめるべく春香菜の家でもある研究所を
辞していった……。しかし、その一団を遠くから見つめる二人組の男性がいた事に、その場の誰もが
気付かなかった。そして、この二人が後に武と桑古木、それに拓水をして『最もヤバい事件』の
発端になるとは、誰が予想しえただろうか……。


 そして時は移ろい……数日来の梅雨空が見事なまでの快晴に塗り替えられた6月のある日……
海の見える丘に立つ教会で、今まさに一組の男女が結婚式を執り行っていた。
『倉成ーッ!おめでとーう!!』
『武くーん!お幸せにぃーっ!!』
『倉成さん!いよいよゴールインですね!!』
 そう……。教会で挙式中のカップルとは、武と月海だったのである。そして、当然の事ながらいつもの面々も二人を祝福するために駆けつけていた。春香菜は、いつもの白衣姿からは想像も付かなかったが、黒地に金銀刺繍の瀟洒な留袖をきっちりと着付け−美容院で頼んだのかと思いきや、
自分で着付けたのだと後に語っていたが−ていた。そして娘の秋香菜は再び流行し始めたのか、
空色の生地に鳳凰の刺繍が入ったアオザイを着ていた。空は田中家の居候兼春香菜の秘書と言う形で住んでいるのだが、LeMU時代を髣髴とさせる純白の生地に龍の刺繍が入ったチャイナドレスに天使の羽の様な薄手のストールを纏っていた。
 ホクトと沙羅はそれぞれ大学に進学。制服がないといえば当たり前である以上ホクトは新調した
黒の礼服を、沙羅は純白のアオザイにペールブルーのストールを合わせたものを着て
出席していたわけである。一方、桑古木は今までそういう事に縁が無かったのか−いや、
これまでの17年間を一つの大願に捧げていた訳であるから、むしろ持っていない事の方が
自然と言えたかもしれない−貸衣装の礼服に身を包み、2034年の事故再現の時でさえ
見せなかった極度の緊張ではたから見ても判るほどガチガチに固まっていた。
 一方、ココはと言うと……救出後から急に大人びた雰囲気を見せ始めたココは、今までの
『天然マイクロウェーブランチャー少女』のイメージから見事に脱出、身体も少し大きくなり年相応に
近い『オトナの女性』へと華麗な変身を遂げていた。ちなみに、今日の彼女の服装はシックな黒い
パーティードレスを華麗に着こなしていた。そして、そのココの姿を見た武をして『おまえ、ホントに
あの[ ねえねえたけぴょん、ひよこごっこやろうよ ]って言ってた八神ココか!?!?』と取り乱させるほどの見違え振りであったという……。
「それにしても……」
いつも超然と構えている春香菜の声音にやや苛立ちが混ざった事に気付いたのか、秋香菜が
『お母さん、どうしたの?』と聞き返してきた。すると、春香菜は
「海藤にも招待状は送ってるんだけど……。『アイツの事だし、普通に郵便で出しても
届かないだろうから』って倉成が言うもんだから、私経由で届けさせたんだけど……。返事の一つも
寄越さないなんて……何やってるのかしらね……」
そう言いながら少し不満げな顔をする春香菜を横目で見ながら秋香菜自身も拓水の性分上そういう事はする筈が無いのにと思いつつ、静粛かつ静謐に進行していく挙式を見つめていた。


 一方、挙式が行われているその教会近くの場所に、一人の青年が佇んでいた……。そして、
その青年は腕に持っていた、派手さにこそ欠けるもののその場所……そこは、教会が管理する墓地であるその場に相応しいコーディネートが成された花束を足元の墓石に手向け、片手に持っていたシャンパンの瓶の口を開けて中に入っていた黄金色の細かな泡を立てる液体を墓石に注いだ。
ちなみに、その墓石に刻まれていた碑文は……。

Nanami Kaito
2001-2032

そう……。この墓石は彼が最も愛し、袂を別った後も常に気にかけていた妹『海藤菜奈海』の
亡骸を納めた墓石だったのである。そして、その青年−2mを優に越す長身に、腰まで届く
サラリとした銀髪の目立つ外見の青年だったが、その身体から滲み出ている雰囲気は、
野生の狼を連想させた−は、紛れもなく海藤拓水であった。実を言うと、月海と別れた後
拓水は菜奈海の事が気になっていたらしく、春香菜への報告後すぐに菜奈海の消息を
追っていたのだが、この町で不幸にも事件に巻き込まれ殺害されていたと言う衝撃的な
事実をつかんだのは、インゼル・ヌルで武達と出会う僅か三日前の出来事であった……。
「………」
 風に乗って、遠くから武達の幸せを祝福する鐘の音が拓水の耳に聞こえてくる。鐘の音をバックに、
そのまま無言で立ち続ける菜奈海の墓標を優しげに、しかし、僅かな悲しみを湛えた眼差しを
もって静かに見つめていると
「このお墓の方に、何か御用ですかな?」
静かな声が拓水の背後から聞こえ、気付いた拓水が振り返ると、そこには一組の老夫婦が
拓水が供えたのと同じ花束を手に佇んでいた。その問いに、拓水はやや悲しげな笑みを浮かべると
「この墓は……俺の妹の墓なんです……。都合で別れる事になってからも、気には掛けて
いたんですがね…。まさかこの町でこんな形で再会する事になるとは思いもしませんでしたよ……」
菜奈海の墓標に視線を向けながらそう答えた拓水に対し、老夫婦は意外な言葉を告げた
「お前さんの事は、菜奈海ちゃんからよく聞いてましたよ。『優しくて、あんな別れ方はしたけど、
自分なりの事があっての事なんだろうから』と、最後まで言ってましたから」
「妹を…菜奈海の事を知ってるんですか!?」
意外な所での繋がりを聞かされて、さすがの拓水も意表を突かれたらしい。
だが、老夫婦は穏やかな表情の中に一抹の悲しさを浮かべ
「あの子がこの町にやって来たのは…そう、もう10年程も前になるか……。大雨の真夜中に、
虚ろな瞳のまま通りを彷徨っていた様でな、びしょ濡れで倒れていたのをばあさんが見つけて
家で介抱したのが最初だったんじゃ……」
「それで、暫くして元気になった後『兄さんを探す』と言ってあちこちを旅していたんじゃが、
正月にはいつもここに帰って来てくれてねぇ……。私達の事を本当の祖父母の様に
慕ってくれていんたけど……」
 そこで言葉を切って涙ぐんだ老婆に代わって言葉を継いだ老人が、悲しい表情を浮かべながら
「2年前にこの町へ戻って来た時、家がやっとる質屋に押し入った居直り強盗と争って、
揉み合っている最中に胸を刺されて……。病院に運びはしたが、もう手遅れだと言われて……」
知らされた事実が衝撃的だと言う事は往々にしてある事で、何より拓水自身が家族の、菜奈海の
許を去る原因となった母親−やはりあれから数年後にTB敗血症で死去していたが、その事を
知っても拓水自身何の感慨も沸かなかったのはある意味当然の事だと言えたかもしれない−
の発言が充分衝撃的だった。だが、菜奈海が目の前の老夫婦を守って命を落としたという事実は
あまりにも衝撃的だったらしい……。暫く呆然としていた拓水だったが、
ややあって穏やかな笑みを浮かべ、老夫婦に向かって
「でも、あれから一度も会う機会はなかったですけど、あの頃と同じように真っ直ぐに生きてくれた
事は兄として誇ってやれる事かもしれませんね…。それに、貴方方のような良い人に巡り会えた事も
あの両親に比べれば幸せだったかもしれませんね……」
と、やや寂しげな表情を浮かべて呟いた。老夫婦も静かに拓水の言葉を聞いていたが、こちらも
穏やかな笑顔を浮かべ、暖かい眼差しで菜奈海の墓石を見つめながら
「菜奈海さん…あんたのお兄さんも、あんたに似て優しい人なんじゃな……。それに、兄妹の絆は
切れないものというが、こうして探してくれていたんじゃ。これからも、この町でゆっくりと
お眠りなさい…。わしらの命の続く限り、そして、お兄さんも来てくれるじゃろうて……。」
そう告げた後、老夫婦は墓地を離れて行った。そして、初夏の夕暮れ空に輝く満月を目を細めて
見つめていた拓水も、目を伏せつつ笑みを浮かべながら墓地を後にした……。


 武達の婚礼から二ヵ月後……。真夏の強烈な日差しを浴びながら武と桑古木、そしてホクトの三人は商店街に買出しに出かけていた。というのも、春香菜が急に『今夜は海岸でバーベキューよ!』と騒ぎ出したのがそもそもの発端であるのだが、元からお祭り騒ぎが好きな春香菜に、ほぼ同じ思考パターンを持つ娘の秋香菜。そしてすっかり影を潜めたとはいえ、元のキャラが騒々しかったココも
加わっては反対意見を出すほうが無駄である。
 三人でスーパー等を回りながら必要な食品やビールを買い込み、休憩がてら木陰に入りコーラで
一息ついていると、不意にホクトの肩を『ポンポン』と叩く者があった。慌ててホクトが振り返ると
「よっ♪こんな大量に肉やらトウモロコシやら買い込んで……。春香菜先生が『今夜は海岸で
バーベキューよ!!』とでも宣言したって所みたいだけど……。この調子じゃ秋香菜ちゃんも
ノリノリになってるんだろうね………」
と腰に手を当てつつ呆れ顔で呟く長身の青年……。2mを軽く越す長身に折からの暑さの為か、
腰まで届く周りの女性が羨望の眼差しを抱かずにはいられない程見事に手入れされたストレートの
銀髪を首の辺りで束ねた髪型…そして、瀟洒なサマースーツをさり気なくカジュアルに着崩した
ファッションセンス……。そして、何よりも常に浮かべた笑顔の中に見え隠れする、野生の狼を
連想させるその雰囲気………。紛れもなく海藤拓水が、ホクトの背後でいつも通りの飄々とした
笑顔のままで、ポケットに片手を突っ込みながら佇んでいた。
「か…海藤!?お前、こんな昼日中に出歩いて平気なのか!?!?」
と武が慌てて様子で聞くのも無理はない…。キュレイである月海に匹敵するという拓水の
運動能力をキュレイに結び付けて考えるのは当然の事と言えよう……だが、拓水は面白そうに
眉を少し上げ、次いで『あぁ』といった表情を浮かべた後
「あぁ、そういえば言ってなかったですね。ご心配なく…俺の場合だとp53は活性している
状態ですからね。紫外線遮断クリーム塗らなくても、日中の活動は問題ないんですよ……。」
と言いながら、ひらひらと片手を振りながら説明した。そう言いつつも、傍らの自販機で缶紅茶を
買いながら武たちと同じ木陰に入り、恨めしそうな表情で猛暑の続く今年の青空を見上げていた。
「で、何でお前が俺達と一緒にいるんだよ…お前は裏方でもやってろっつーの!!」
そう言って声を荒げたのは他ならぬ桑古木であったが、前回の田中研究所での一幕に続き、
今回も相手が悪すぎた……。拓水のジャケットを掴みにかかったはずが、飲み終わった空き缶を垂直に放り上げつつも素早く身を沈めた拓水に足を払われ、昔のギャグ漫画に出てきそうな勢いで地面に顔を打ちつけて転倒する様を公衆の面前に晒したばかりか、重力に従って落ちてきた空き缶−紅茶であるからかはいざ知らず、スチール缶であったのだが−が『コイィィィン!』という軽やかな
音を立てて後頭部に激突するというさらにお約束的な醜態を晒すハメになってしまった。
 そして、桑古木の後頭部で直立している空き缶を、拓水が絶妙の狙いで自販機横の缶入れに
蹴り込み、ダイレクトで入ったのを確認してから思い出したかのように武達に向き直り
「あぁそうだ、今夜のバーベキューには顔出します。それに、結婚式の時に顔出さなかった訳も
合わせて話します……。ま、出席できる状況でもなかったですしね……」
と意味深な言葉を告げた後、背を向けたまま片手を挙げつつも雑踏に紛れて−いや、あの身長に
あれだけ目立つ髪をしてるだけに、紛れるも何もないだろうが−姿が見えなくなっていった。
そんな拓水の意味深な言葉に、さすがの武も『??』といった表情を浮かべるばかりだった………。


 一方、人里からは完全に隔絶されたとある場所……。その建物の中には、数人の男女と
一人の初老の男性が部屋の中でなにやら話し合っていた。
「…で?『計画』は順調なのかね?監視員は『サリィ』にずっと着いてくれてる様だが……」
「御心配なく…我々の監視員達は『サリィ』にも『ユラノース』にも着いていますから…。
作戦開始と同時に二人を確保、ユラノースとサリィを『リプログラム』した上で有機的に接続し、我々に必要な『メギド』を手にするという手順には、何の変更も遅延もありませんよ『ドゥーム』……。全ては、
今の安寧に浸り続けている愚かで忌むべき愚民どもへの鉄槌のために……ですよ」
「そして、今度こそあのキュレイの女をこの手で殺してあげるわ…!あの男もろともね……!!」
その後、初老の男は建物の奥に姿を消し、密談をしていた男と女はそれぞれの『仕事』にかかるべく
何処かへと立ち去って行った……。


 その夜、海岸で行われた田中研究所一行によるバーベキューは、盛大なものであった。
早くも一杯引っ掛けてメートルが上がっている春香菜に、彼女に強引に付き合わされた挙句
同じような調子で出来上がり、ホクトをはべらせて岩の上に胡坐をかいている秋香菜。
そして、その様子を見ながら『ホクトよ、倉成の男子たるものもっと強くなれよ……』と滝のような
涙を流している武に、その横で同じようにあきれ果てて額を押さえている月海。
 グリルでは桑古木がいつものように焼き番をしつつも、その傍らで空が同じように甲斐甲斐しく
働いていた。周りから見れば『なぜだぁー!』という血涙混じりの声が上がりそうなこの光景だが、
近頃空にも心境の変化があったのか、はたまた存在意義にすらかかわる大事件となった
『エーアトボーデン起動事件』の時に桑古木が見せた命懸けの救出行に心を打たれたのか、
空と桑古木が一緒に買い物などをしている姿がよく見られるようになったというホクトと沙羅の証言があったのは言うまでもない……。
 ではその沙羅はどうしているのかというと、みんなから少し離れた岩に腰掛け、ぼんやりと夜の海を見つめていた。幸い今夜は月明かりが綺麗なせいか、月明かりに照らされた海はさながら
ダイヤをちりばめた様に輝いていた。
「…………………」
無言で海を見詰めている沙羅だったが、不意に感じた気配に振り返ると、そこに立っていたのは…
「やぁ、みんなの所には行かないの?結構盛り上がってるけど……」
「あ…海藤さん……。ちょっと、考え事があって………」
沙羅がみんなの輪から少し外れている所にいるのが引っ掛かったのか、紙コップを両手に持って
海藤が近付いて来た。そして、沙羅の傍らに立ち左手に持っていた紙コップ−中身は自分で
作ってきたというジンジャーエールだったが−を彼女に手渡しながら初めて会ったあの時と同じ
穏やかな笑顔のままで、更に酒が回りいよいよ混沌としはじめた集団を見つめながら
「まぁ、『いつもの私はどこへやら』なんて状態になってる所に入って行くのも
勇気がいる事だけどね……。それで?家族4人の新生活にはもう慣れたかな?」
そう笑顔で尋ねながら、拓水は紙コップに入っていたビールを一気にあおり、少しふざけたように
顔をしかめながら『発泡酒は好きじゃないねぇ〜。やっぱりバーボンかウイスキーが好みだな……』
と愚痴をこぼしていた。ちなみに、キュレイをも上回る『人類最上位亜種』である拓水にとって、
アルコールというのは大した意味がない。肝臓の分解能力が常人の数十倍というとんでもない
性能ゆえに、摂取したそばから分解してしまう。よって、常人レベルであればとうに酔い潰れて
しまうほどのアルコールでも、拓水は顔色一つ変える事無く空けてしまうのである。進化した
おかげで確かに身体能力はケタ違いに上がったのだが、こういう所までパワーアップしていると
いうのも正直困りものである。何故ならば、『悲しみを一時の酔いで忘れようとする事さえも出来ない
身体』になってしまったのだから……。『進化が常に良い方向に向くとは限らないと』いう話をどこかで
聞いた事があった拓水だったが、まさかその事を身をもって実感する事になろうとは誰が予測
しえただろうか。いつもよりビールが苦く感じられたのは、そんな感傷がの為だと思いたかった……。
 そんな拓水に安堵したのか、さっきまで表情を硬くしていた沙羅もフッと表情を和らげ、ややあって
「そうですね…。松永の家にもパパとママで挨拶に来てもらって、その後お兄ちゃんの家……高城の
家にもちゃんと事情を説明して戸籍を回復して、一緒に暮らし始めて…最初はなかなか
慣れなかった……。夜、ベッドから見上げる部屋の天井が、なんだか松永の家で使ってた
部屋の天井と違ったからかな…?一週間くらい全然眠れなくって……」
 そこでいったん言葉を切り、拓水の方に振り返りながら
「でも、やっぱり慣れちゃうんですね…。すぐに見慣れた風景になって、
結婚式の後も変わらない風景が続いて……。でも、海藤さん…どうしてパパとママの結婚式に
来てくれなかったんです?ママ、あれで結構気にしてたみたいですから……」
と問うてきた。流石の拓水も、こればかりは予想外だったらしい……。苦笑しながらも沙羅と
同じように海を見つめ、隣の岩に腰掛けながら、少し寂しげな表情を浮かべ
「あの教会には来てたんだよ、正確に言えば教会の墓地にね……。月海さんは知ってるんだけど、
俺には妹がいたんだ……俺が街を去る時に分かれて、そのまま音信普通になって、月海さんを
護りながら同時に妹を…菜奈海の消息も探してた。『闇に紛れたこの身体で一緒にいる事は
出来ない……だから、もう一度だけでもいいから会っておきたい』と思ってね……」
そう言って、拓水は夜空に浮かぶいつもよりも青みがかった満月を眺めた。
「それで…妹さんには会えたんですか……?」
「会えた。といっても、菜奈海のやつも俺を捜して同じように全国回ってたらしい…。そして、
居候みたいにしてた骨董屋の爺さんとばあさんを庇って強盗に殺されたそうだよ……」
その言葉を聞いた沙羅は、ハッとなって拓水の方を振り返った。そして拓水は……
「でも、俺は菜奈海を責めない。いや、責めるんじゃなくてむしろ褒めてやりたいんだ……
あいつらしくて……でも、俺を必死になって見つめてたんだなって……さ」
 泣いていた……。沙羅自身も詳しくは知らない事だが、月海の話から抱いた拓水のイメージは
『どのような事態にあっても不遜で、飄々とした態度を崩さない』というものであったが、
そのイメージは微塵もなく、そこにいたのは妹の死を嘆く『一人の兄』としての拓水だった……。
「海藤さん…泣かないでください…。そんな顔されたら、私も泣きたくなるじゃないですか……。
妹さんにお別れをするために教会に来てくれてたんですよね……だったらいいです…パパやママ、
お兄ちゃんや私にはいつでも会えるけど、菜奈海さん…ですか?妹さんにはもう
会えないんですから……。お別れは大事ですよ…新しい今に続く為に……
自分に区切りをつけるために……。今を生きる為に……ね?」
そういいながら拓水によりかかる沙羅もまた泣いていた。無言で涙を流し、それでも
笑みを浮かべながら……。
 そんな二人の様子を遠くから見つめながら、月海もまた感傷に浸っていた。
あの時の自分は世界を恨み、絶望していた…。でも、武に会って変われた自分…ホクトと沙羅に
再び会えて認められた自分……今この時を素直に楽しいと思える自分……。
自分でさえ変われる。ならば沙羅も、ホクトも、武も、みんな変われる……。今日という日は、
正にその為の日なのかもしれない……。武と二人、そう思う事はもはや当たり前の事だった……。


 そして、バーベキューパーティーの翌月…。雌伏し続けその牙を研ぎ澄ませていた『運命』という
名の避け難い怪物は遂にその牙を剥いて武達に襲い掛かった……。
 ある日曜日、珍しく秋香菜以外の友人達と買い物に出かけた沙羅だったが、カフェで話し込んで
−ハッカー同好会の部長であるからかはいざ知らず、話の中心は常に新作PCの性能やら
改造のコツなどといった、およそ年頃の少女とは縁のない話になる事がほとんどだった−いる内に
夕方になってしまい、友人達と別れて家路を急いでいたが、カフェからだとどうしても人気のない道を通らなくてはならなかった。
 最近は治安もあまり良くないから、なるべく通らないようにしなさいねと月海には言われていたが、通らなくては帰れないのでは仕方がない……。急ぎ足で駆け抜けようとした彼女の足取りは、
眼前に現れた数人の男達によって遮られた。
「松永…いや、倉成沙羅だな?我々のが裁きを下す日の為に必要な力になってもらうぞ……」
その中のリーダー格らしき男が宣言するが早いか、背後で取り囲んでいた男が何の前触れもなく
沙羅に組み付き、口もとにハンカチの様な布を押し当てた。すると、先程まで必死に抵抗して
暴れていた沙羅の体から力が抜けていき、やがて眠ったようにぐったりとしてしまった。どうやら、
布にクロロホルムの様な薬品が染み込ませてあったらしい……。
 手馴れた様子で沙羅をクリーニング業者が使う大きな布袋に押し込んだ男達は、
現れた時と同様な静寂と迅速さで姿を消し、現場には何も残してはいなかった……。
 沙羅の失踪翌日……。何の連絡もなしに一晩帰ってこなかった沙羅を案じ、彼女の足取りを
追っていた武達だったが、手掛かりは一向に掴めなかった……。そして、件の路地で何か沙羅の
手掛かりになりそうなものはないかと探し回っていたホクトだったが、側溝の辺りで何かキラリと
輝く物があった。慌てて拾い上げてみると、銀色のイルカがジルコナイトをくちばしで掲げている
デザインのイヤリングだった。しかし、それを見た瞬間ホクトは全てを悟った。即ち、この場所で
沙羅が何者かによって拉致されてしまったと言う事に……。
 その後警察によって行われた捜索でも、沙羅の行方が解明される事はなかった……。
ちなみに、沙羅のイヤリングはホクトが沙羅の為にデザインしたオリジナルの品で、
同じデザインのものは二つとしてないという事であった……。
 そして、倉成家のリビング……。警察からの連絡があるかもしれないと思い、不安と共に
待機しているホクトと月海、そして春香菜と連絡を取るためにPDAで通話中の武だったが、
電話口で武に告げた春香菜の一言は武達の不安を更に大きく掻き立てるものであった……。
『倉成…ええ…沙羅ちゃんが拉致されたのね?…こっちも、空が何者かによって拉致されたわ……
そして、海藤が不穏な動きがあるという事を連絡してきてる……。おそらく、二人の拉致は
何者かによる明確な目的と、その達成の為の手段として行われたものよ……』
普段よりも数段底冷えし、静かな殺気すら漂わせている様に聞こえる春香菜の声が、どこか遠い
異世界より下った絶望という名の信託のように聞こえる武だった……。

 時に西暦2042年10月22日……秋の日に起こった事件は、やがて世界に関る大事件へ
変貌を遂げる事になると予想できる者は誰一人としていなかった………。

Ende.
 
あとがき:
 さて、すっかり時間を空けてしまいましたが皆様いかがなものでしょうか??
氷龍=筆不精=命(ハゲシクマテ)です。
拙作『Tief Blau −生者と死者の狭間で−』と『大罪と贖罪』以降リレーSSで
チョロリと姿を現して以来の執筆です。
 よくもまぁ自分で連載モノやる気になったねと褒めてやりたいです……ええ。

 さて、拉致されてしまった沙羅と空。拉致した者達の思惑とは?この事態に
武達の取った動きとは??そして、本気になった海藤拓水の力とは!?
 次回『空と彼方の境界線 Scene:02 Ignited Soul−荒ぶる心−』

怒りの刃、天空に振り上げて掲げよ!武!!
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