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Ever17連載SS
『空と彼方の境界線』


著:氷龍 命

Scene:04 目覚め、月よりも深い蒼に……

 田中優美清春香菜を始めとする一群が、囚われた松永沙羅と茜ヶ崎空を奪還するべく今回の事件を仕掛けた
『DoomS』の拠点『パンデモニウム』へ強行突入してから早数時間……。
地下で繰り広げられた文字通りの死闘を知る者は春香菜達に近しい者しか知る由もなく、地上では事の大きさを
伝えるメディアの空々しい激論が延々と繰り広げられ、軍事関連の評論家やIT技術の専門家。国際政治の学者や
反核団体の人間達が、最悪の結末を阻止するべく、そして自らが愛しく思う者を取り戻す為に命懸けで闘っている
春香菜や月海に武、別れてから後も自らを求め、放浪の末に組織によって造られた『もう一人の自分』によって
命を奪われた、最愛の妹の無念を晴らすべく闘う拓水達の事など露にも知らず
『ですから!今回の事件は非常に高度な技術によって為されたサイバーテロなのです!』
『しかしだね。核施設のセキュリティは強固なのだよ?それを破るという事は何らかの技術的なミスが
あったのではないのかね?』
『いいえ!そもそもの原因は核弾頭などというあってはならない武器があるから起きたんです!!この際世界中の
核兵器を廃絶し、核実験も禁止するしかこの事件の再発を防ぐ手立てはないのです!!!』
…などと、真相を知っている者が見れば茶番この上ない、討論と呼ぶにも無様な責任の擦りあいが
延々と繰り返されていた。
 或いは、そんな世界の重大危機など関係ないねと言わんばかりにバラエティ番組を放送している局もあったが、
不毛な論議を延々見聞きさせられるよりはその方がまだありがたいと言えるかも知れない状況だった……。
 そんな地上であったが、この家に残る者達だけは、この一大事の真相とそれに対して戦っている者の存在を
知っているだけに、冷静にとはお世辞にもいいがたいが、それでも慌てふためく様子もなくリビングのソファに
座り込んで春香菜たちの無事を願い続けていた。だがその中の一人…八神ココだけは先刻から放心したような
状態が続き、時折何かを小さく呟いているだけだったが、やがて『うん…解ってるよ。お兄ちゃん……』という
言葉と共にぐったりと身体を弛緩させたまま意識を失ってしまった。


 テレビの中で繰り広げられている不毛な議論が、ヒートアップのあまり罵りあいに発展しかけていた
ちょうどその頃……。そんな地上の狂乱振りなどこれまた知らぬ気に、DoomSの本部『パンデモニウム』の
最深部でもあるコンピュータールームへと続くドアの前に向かって走る一組の男女の影があった。
「まったく…よくもここまで込み入った地下施設を、その動きすら掴ませずに造り上げていたなんて……。
今回の一件が露呈しなかったら今ごろ地上はアルマゲドンになっていたわね……」
皮肉たっぷりにそう呟き、腰に手をやりながら眼前に重々しく聳えるドアを睨みつけた女性の名は
『田中優美清春香菜』……。本業は考古学者なのだが、色々な分野に秘密のコネクションを持っているが故に
時折このような荒事にも首を突っ込む事にもなるのだが……。
 そんな春香菜の背後に立っている青年も、うんざりとした様子でそのドアを睨みつけながら
「まったくだ…。俺も研究室の助手だけで済むなら気楽なモンだったが、ライプリヒ製薬なんぞに関わっちまった
せいで裏道街道爆走中だからな……。まぁ、血の気が多い分こういう事は嫌いじゃないけどな」
 苦笑混じりにそう呟いて、拳銃を弄っているのは『桑古木涼権』…。春香菜の研究助手という立場である彼だが、
2017年に発生した海洋テーマパーク『LeMU』の浸水・圧壊事故の時に閉じ込められたメンバーの一人であり、
2034年に再び起きた同じ事故の時には『ある計画』の為に春香菜とこの事故を仕掛けた張本人でもある。
 そんな彼らだが、2034年次の事故によって歴史の狭間から救い出された『倉成武』の事は慕っており、
春香菜は恋心にも似た好意を、桑古木は揺ぎ無い尊敬の眼差しを送っていた。
 そうして二人が中枢部のドアを睨んでいると、そのドアのそれぞれ左右に開いてる通路から誰かが駆けて来る
足音が『バタバタバタ……』と響いてきた。
さすがに敵中という事もあって警戒しながら身構えた二人だったが、通路の奥から姿を現した人影を見て
安堵したように小さく溜め息をつき、構えを解きながら
「倉成…月海に海藤も……。どうやらみんな無事だったみたいね。それにしても、海藤のクローンがいた所で
別れていた道が一番奥で繋がっているなんて……何かのマンガかしら?」
そう愚痴りながら零した言葉に、
「本当…くだらない造りの建物だわ…。これを作った奴のデザインセンスを疑うわね……」
と返したのは倉成月海。LeMU崩壊事故から武が生還した後に彼と結ばれ、姓を今までの小町から倉成に
変えている彼女だが、そのアイロニストな部分は相変わらず冴え渡っているらしい。
 そんな月海の言葉にうんうんと頷きながら
「しっかし、建築センスも何も殺風景にも程があるな……。俺だったらこう、どっかの神殿をモチーフにした飾りでも
用意して心理的に訴える所だがな……」
などと微妙にズレた事を言っているのは『倉成武』…。愛する一人娘をさらわれた上に、崩壊するLeMUの中で
短い時間とは言え、一緒にすごした『仲間』にもその危険が及んでいる以上黙ってはいない彼だったが、
如何せん荒事に関しては素人のケンカ以上のスキルは持っていない。それを言えば、彼の傍らに立ち、
仰々しいまでにデカイ扉を睨みつけている『倉成ホクト』も同じようなものである。だが、そんな武の軽口に
「って言うか武さんに月海さん…。こういう時に建築デザインのセンス云々を説いても始まりませんって……。まぁ、
目の前にどんな障害があろうとも力づくで押し通って、沙羅ちゃんと空を助ける。そして世界中で乗っ取られている
核サイロを取り戻すだけですがね。…それにしても、今回の連中の資金源ってドコから出てるんですかね?」
と、もっともな疑問を投げかけつつ周囲に警戒の視線を巡らせているのは『海藤拓水』…。
 LeMU崩壊事故と直接の関連はないものの、春香菜の計画した倉成救出作戦…後世に『第三視点計画』と
称される計画の鍵を握る月海の身辺警護を影から行っていた青年であり、それに前後して社会の法が及ばない
闇の部分…俗に言う所の『裏社会』へその身を置く立場でもあるのだが、彼が裏社会に入り込んだ事には
もう一つの理由があった……。
 それは彼の身体…『Tief Blau 2017-Rev.17』という致死性が極めて高い悪性ウイルスに感染し、生死の境を
彷徨いつつも黄泉の国から帰り来た彼の体は、通常の人間の体とは大きく違った力を有していた…。
 身体能力の大幅な強化−自分の力を体の構造が耐え得る限界まで解放する事が可能で、その握力は
瞬間的に一トン近くまで解放できるらしい−に加え、再生能力や病理抵抗能力も通常の人とは大きく
かけ離れたレベルにまで強化されていたのだが、それを悪用される事を恐れたが故に両親や友人の前からも
姿を消し、以来17年にも及ぶ逃亡生活を送る事となった。
 もっとも、その途中で春香菜や月海と知り合い、同時に計画へ影ながら支援の手を差し伸べる事とも
なったのだが、計画終了と同時に行われたライプリヒ製薬への強制捜査と共に逮捕された父親の事は、さして
気にもしていなかったと言う……。
 そんな拓水も沙羅の事は気にかけていたらしく、皆が集まるような場面でも何くれとなく気を使ったりしていた
点からも疑いようはなかったのだが、流石に今回の一件だけは腹に据えかねていたらしい。
さっさと準備を済ませるのと同時に襲撃計画を立案し、今回の突入劇をサポートしていたのである。
 だからといって、普段の拓水が血に飢えた殺人嗜好者かと言うとそうでもなく、むしろなるべく血を見ずに
済ませられるような依頼を受ける事の方が多いのである。
もっとも、本人に曰く『その血を流す事に意味のある流血は嫌いじゃないが、最近はそんな依頼もなくってね……』
と遠くを見つめながら語っている。


 扉の前で内部の様子を探る事暫し。中には大規模な兵力等がいない事を確認した一同は、
その大仰な扉を左右から押し開くようにして中に突入。核サイロの管理コンピューターと首謀者である
Doomの姿を探すべく散開しようとしたその刹那。

『ようこそ新世界へ到る秩序の間へ!君たちの強さはやがて来る新世界に対する脅威でね…。申し訳ないが
この場で排除させていただこう……。だが拓水…お前は別だ。新たなる世界の守護者となる生命体を
創造する為の基礎となってもらうぞ……』

 どこかから響いてくる男の声と同時に、それまで薄闇が支配していたその部屋にあるであろう全ての照明が
一斉に点灯し、その場にいた春香菜達の網膜を一瞬とはいえ灼いた。
「なんだ…!っていうかこの部屋、こんなに広かったのかよ……」
やや呆れ気味に呟く桑古木に対し、月海は冷え冷えとした声で
「確かに広い部屋ね。でも、この広さをどうして貸倉庫にして社会に貢献しようと思わなかったのかしらね」
等とややピントの外れた事を言っていたが、拓水や春香菜はというと……
「お…親父……!でも、アンタはまだ刑務所の中にいるはずじゃなかったのかよ!?」
「そうよ!貴方は…『海藤幹彦』は懲役20年の判決を受けてまだ収監されているはずよ!?なのに、
どうして今ここに?」
と驚愕に満ちた目でその男…苗字と拓水の発言から判断するに彼の父親である海藤幹彦を見つめていた。
 そんな二人の視線に対し、幹彦は余裕たっぷりの様子で
「あぁ、それは簡単さ。私はこういう事があってもいい様に予めクローンを作りあげておいたのさ。そして
片方の私が警察に出頭するのと同時にクローンを起動。この計画を進めていたのさ。あぁそうそう、風音市で
採取したお前の遺伝子サンプルは非常に有効だったよ。お蔭で、私は戦闘能力的に極めて高く、更には
不死の肉体を得る事が出来たのだからな。拓水……」
その言葉に一瞬怪訝そうな表情を浮かべた拓水だったが、すぐにその意図する所を知り
「な…!俺の遺伝子サンプルだって!?ということは、まさか……。TB種の遺伝子を組み込んだのかよ!!」
 驚愕に震える声で叫ぶ拓水だったが、その声は最早届かなかったらしい……。超然とした表情で高みから
武達を見下ろす幹彦は、まるで楽しい遊びを見つけた子供のように
「あぁそうだ、田中君の所に預けたあのAI人形をベースに、私は更なる超兵器を生み出す事に成功してね…。
折角だから君達に披露してあげよう。彼女の名は『アテナ』…拓水、お前がてこずったあのミネルヴァよりも
更に戦闘能力を高め、ミネルヴァの時にはクリア出来なかった感情の制御にも成功してね。そういう意味では
ミネルヴァのように変な感情の揺らぎなどと言うものは一切ない。まぁ、実際に闘ってもらえれば分かるよ。
さぁアテナ、新しい世界に君臨する君への供物だ。存分に殺してしまうがいいさ…」
 そう幹彦が言うのと同時に彼の足元のハッチが開き、そこから姿を現したのは……
「嘘…空がもう一人!?」
愕然として動きを止める春香菜に続いて
「でも…金髪って時点で偽者確定ね!」
そう毒づいてナイフを構える月海。その隣では
「俺の生徒はマジメ揃いでね!金髪なんて不良生徒は願い下げだぜ!!」
拳銃を構えて吐き捨てる武。様々な視線と意思が交錯し集中する中、アテナはその手に収められた
ブレードを握って音もなく駆け出し、両者の真剣な生き残りを賭けた闘いが始まった。
 だが、その戦闘の直前に拓水は春香菜に向き直り
「先生。あのアテナ相手はちょっとキツいかも知れませんけど、何とか頼めますか?俺は俺で家族の不始末
清算しなきゃいけないみたいで……ね?」
 一瞬とはいえかつての拓水が見せていた殺気剥き出しの視線を見て、その底知れない恐ろしさを
改めて思い直した春香菜だったが、こちらも負けないわよとばかりに、かつて狂犬と言われた
鋭い視線で拓水を見返しながら
「OK…どうやら家族で話し合いたいらしいようね。だったら止めないわ。行ってらっしゃい…そして、お土産は
必ず持ってくるのよ。了解?」
その言葉に我が意を得たりといわんばかりに頷いた拓水は『了解!お土産は必ず持って帰りますよ』とニヤリと
笑みを浮かべながら身を屈め、全身のばねを効かせた大ジャンプで幹彦のいる上部デッキへと躍り上がった。
 一跳びでかなりの高さまで跳び上がって行く拓水を見送りながらも、春香菜自身アドレナリンが漲り始める
確かな高揚感を身に覚え、やがてこちらもニヤリと凄絶な笑みを浮かべながらハンドガンとナイフを構えて
アテナ目がけて低い姿勢で突っ込んで行った……。


 二つの死闘が幕を開け始めたのとほぼ同じ時刻、パンデモニウムの地上施設の裏手からひっそりと
建物内に忍び入る一人の影があった。
一瞬の月明かりに浮かんだそのシルエットは綺麗な銀髪と細身の身体。身に纏ったネイビーブルーの
バトルジャケットの腰にはナイフの鞘が据えられ、反対側の腰には月光に鈍く光る一丁の大型拳銃……。
 なにより、その少女の身体から発している気配からして『その道の人間』という事がはっきりと分かる
身のこなしで工場に忍び込んだ少女は、辺りに広がる乱戦の跡を見回してから盛大に溜め息をつき、
腰に手を当てて苦笑いしながら
「やれやれ、ここまで凄い戦い方だと向かって行った方に敬意を表したくなるわね……」
とこぼしながらもぐるぐると周囲を探しているうちに目当てのもの−それは言うまでもなく地下へと通じる
階段だった−を探し出してから飛ぶような速さで駆け下り、拓水が粉微塵に切り刻んだネプチューンの
無残な残骸を横目に見ながら通路の一つに飛び込み、その脚力を生かした素晴らしい疾走で最奥部へと
突き進んで行った……。
 その女性は普通の者が見れば普通の女性だが、彼女の目指す場所にいる『ある者』にとっては何よりも
衝撃的な存在といえる人物だった……。


 その少女が目指す場所では、ミサイル格納庫の床とその壁面に設けられたキャットウォークに分かれての
文字通りの死闘がお互いに繰り広げられていた。
 床全体に散開し、四方から取り囲むようにして斬撃や援護射撃を行っている春香菜達だったが、アテナが誇る
運動性能の前に劣勢を強いられていた。
「冗談…!この包囲攻撃が当たらないなんて、なんて運動性と認識力なの!?」
驚愕の表情で吐き捨てる春香菜に対し、自身の運動能力を活かしてナイフによる格闘戦を仕掛けていた
月海はというと、自分のスピードに付いて来るだけでも内心舌を巻いていた所に加え、ブレードから発せられる
ようやく聞き取れるくらいの甲高い音…これが高周波である事には何の疑問も抱かなかったが、その威力を
上乗せして繰り出してくる強力な斬撃が接近を阻んでいる事に苛立ちを覚えていた。
「ッ…!意外にやるようね。さすがは人らしさを捨てて強くなった堕天使ってところかしらね……!」
などと毒づきながらも、鋭い踏み込みと左右に素早く振るようなフットワークでアテナの反応を一瞬でも
逸らそうと試みる月海に対し、アテナは端然とした笑みを崩すことなく
「愚かですね。その程度の速度で私を誤魔化せるなどと……。やはり、あなた達はやがて訪れる新世界には
不要な存在なのでしょう。ならば、新しい世界が無事に誕生する為の礎としてここでその命を捧げなさい……」
そう呟いた刹那、その瞳が紅く輝き、一条の閃光が月海の左足を過たず貫いていた。
 とはいえ月海もさる者。貫かれた瞬間にバランスを崩しはしたものの、その崩れた体勢が生み出した遠心力を
利用して縦に一回転しながらの浴びせ蹴り…格闘技で言う所のフライングニールキックでアテナの脳天を打ち抜こうとし、それを避けようとしたアテナに対して牽制の射撃を同時に行うと言う離れ業をやってのけていた。
 が、それすら予測済みだったのかアテナの余裕は揺らぐ事もなく、月海の蹴りを体半分ずらして回避し、
同時に手に持っていたハンドガンをつぐみの右足に打ち込むと言うカウンターを見舞っていた。
 だが、そこから止めの銃撃を月海の頭に打ち込もうとしたその刹那、格納庫の一角から飛来した紅い閃光が
彼女の腕の中の拳銃を捉え、その銃身を綺麗に切り落していた。
 この突然の攻撃に、両脚を打ち抜かれて床に倒れこんでいた月海はもちろん、周囲で牽制と援護を行っていた
春香菜や武、果ては正にトリガーを引こうとしていたアテナですら驚きの表情を浮かべる中、ゆっくりと
格納庫の一角に凝る闇の中から姿を現したのは………
「こ、今度は銀髪の空だと!?」
と驚く武に、呆然とした様子の春香菜が
「違う…今度の空も空じゃない……。でも、アテナと同じ事をやってのけた今度の空は一体私達を
どうしようと言うの?まぁ、イザとなったら小型高性能爆薬でまとめて吹っ飛ばすんだけど……」
と、狂犬の雰囲気そのままで冷や汗を浮かべながら一人ごちていたが、当の銀髪の空はというと、
ゆっくりとした足取りで月海に歩み寄り、その体を軽々と抱きかかえて春香菜の前へと進み、優しい動作…
まるで軽い真綿を水面に浮かべるような動作で床に横たえ、本来の空でも滅多に浮かべないような
穏やかな表情で春香菜達を見回し、かすかな微笑を浮かべたままで
「私は『ミネルヴァ』…ソラ・アカネガサキから作り出された戦闘用フィギュア……。『CN-BAEM4913 XC』と
分類される、闇に取り込まれた空…それが、私です……」
と自ら名乗ったが、その後に続けるようにして
「そして、私はあなた達の仲間…海藤拓水と刃も交えてきました。でも、その時彼に言われたんです。
『自分の心のままに生きてみるのもいいものだ』と…。だから、私はあなた達に味方します。今回の
革命を…一個人の復讐にしては度が過ぎているこの暴挙を阻止して、それから後は自分で考えます……」
と付け加え、ゆっくりとした動作で振り向きながらも月海に向けて
「私がアテナの注意を引き付けます。その隙に皆さんで集中攻撃をかけてアテナを排除するしかないでしょう…。
もっとも、彼女の方が完成バージョンである以上私の力でもそう長くは相手が出来ないんですが……」
と言うが早いか、月海をも上回る俊足でアテナに駆け寄り、腰に佩いたブレードを抜き放った瞬間に超振動波を
送り込み、アテナの首筋めがけて横薙ぎに振り抜いていた。
 その攻撃の鋭さに、それまで余裕の表情でいたアテナも怒りの表情を浮かべてブレードを抜き、ミネルヴァの
斬撃を受け止めながらもなお尊大な口調で
「貴女の様な裏切り者がいるからこそ世界は堕しているのです。崇高な目的を持つ我々に作り出されながらも
この穢れた世界に加担するとは……。貴女もどうやら廃棄処分せざるを得ないようですね。あのソラの様に…」
とあくまで動揺を誘うように告げていたが、それを聞いたミネルヴァは
「いいえ、空は私が解放しました。いまは予備バッテリーを外部接続して地上階に隠れてもらっています。
そして、本当に穢れているのは世界ではない…。自らが罪を犯したが故に捕縛され、それを認められずに
この世界を逆恨みしているあの人…海藤拓水の父親が起こしたテロに他ならない!!」
と鋭い声で断罪すると同時、回し蹴りでアテナの手首を蹴り上げ、同時にブレードを弾き飛ばしていた。
しかも、その回転力を利用した二発目の蹴りがアテナのこめかみを捉え、今まで武達が散々攻撃しても
微動だにしなかったアテナを大きくよろめかせた。
 その凄まじい光景を、息を呑んで見守っていた武や春香菜だったが、月海が不意に発した
『武、手榴弾一発借りれるかしら?』と言う声で我に返って月海を見ると、月海は既に立ち上がり、右手のナイフを
逆手に持ち替え、空いた左手で自分の髪をつかんでいた。
 そしておもむろに、何の気負いもないようにナイフを髪に当てると『ザリッ!』という音と共に今まで伸ばしてきた
自分の黒髪…鴉の濡れ羽色よりなお艶やかなそれを何の躊躇いもなく切り落としていた。
「おい月海!お前…何やってるんだ!!」
と武がいさめたが、月海はその顔にかつての彼女が浮かべていた、焔よりも激しく刃よりも鋭い表情を浮かべて
「私も覚悟がついたわ。彼女…ミネルヴァだけに苦労はかけさせない。沙羅を助けるのは私達親の役目だし、
その為ならこの髪だって惜しくない。だから、この作戦で行くの……」
そういって月海が語った『作戦』とは、かなり分の悪いギャンブル性の大きい作戦ではあったが、
ミネルヴァの援護が受けられると言う点では十分実現可能であった。
 そして、手短な打ち合わせを終えると同時に月海、桑古木とホクトがアテナめがけて疾走し、かく乱するように
取り囲んだのを合図にして作戦の幕は切って落とされた……。


 超振動波をまとった拳で壮絶な打ち合いを演じ、周囲に金属質の轟音を響かせていたミネルヴァと
アテナだったが、突っ込んでくる三人を見てからの行動は両者で完全に違っていた。
 月海と桑古木、ホクトの三人がアテナめがけて突っ込んで来るのを見たミネルヴァだったが、先頭を行く
月海が手にしている物体を見た瞬間に作戦の目的を理解し、三人が位置につくまでの時間を稼ぐために
その攻撃の密度をさらに上げ、アテナの足止めに専念している間に三人がそれぞれアテナを取り囲む位置につき、
身構えるのと同時に最後の一撃を放ちざまで飛び退いていた。
 一方、アテナはと言うと三人による包囲をただの開き直りによる暴挙としか考えていなかったらしく、
ミネルヴァが飛び退いた後も悠然と三人を見回し、呆れたような口調で
「まったく…。勝てないと分かっているのに開き直って三人で取り囲むとは……。諦めの悪さは
どうにもならないようですね。いいでしょう、私がまとめて裁きを下してあげましょう!」
余裕たっぷりに告げるのと同時に身構えたアテナだったが、散開した三人が同時に飛び込んでくる攻撃方法に
若干の戸惑いを見せた時点で勝負はついていた……。
 先行して左右から飛び掛った桑古木とホクトをいなそうとした刹那、器用に身を沈めた桑古木が身体を捻りながら
アテナの鳩尾へ器用に肘を打ち込み、その直後に反対側から踏み込んだホクトがアテナの顎に向けて
鋭い掌低をねじり込み、派手にアテナの頭をかち上げていた。
 だが、この二発で身体を傾がせていたのも一瞬。怒りの表情で踏みとどまったアテナだったが、そのタイミングを
待っていたようにミネルヴァが飛び込み、超振動波を十分に乗せたボディーブローをアテナの胃へ轟音と共に
叩き込み、ほぼ直角にアテナの身体を折り曲げさせていた。
 その一撃を待っていたのか、それまでじっと身構えていた月海が急激に突進し、同時に武からもらった手榴弾を
右手に持って間合いを詰め、体勢を立て直したアテナめがけて『シャッ!』という短い呼気と共に手榴弾を
アテナの顔…正確には口元に叩き付けていた。
「月海!それだけではダメージになりません!早くピンを抜いてアテナの服の下にでも差し込んでしまわないと!」
と激しい調子で警告を送るミネルヴァをチラリと一瞥し、同時に壮絶な笑みを浮かべるのと同時に
「私からの贈り物よ、アテナ。これでも…丸齧りしてなさい!!」
と叩き付けるように叫んだ直後に左手で掌低を繰り出し、手の甲が砕けるのも構わずにアテナの歯を砕きながら
彼女の口の中へ手榴弾を強引に捻り込んでいた。
 月海が自分の右手を犠牲にしてまで作った最後のチャンスに、真剣そのものの表情で拳銃を構えていた
武だったが、素早く月海が飛び退いたのを確認すると同時に引き金を絞り、徹甲弾を一発撃ち放っていた。
 そして、その銃声を聞いた桑古木とホクトが同時に離れ、月海も飛び退こうとしたのと同時にミネルヴァが
足元のブレードを拾って構え、アテナは自分に醜態を晒させた月海を捕らえようと踏み込んだその足に桑古木と
ホクトが拳銃を打ち込んで膝を打ち抜き、同時にアテナが伸ばしていた右手めがけてミネルヴァが投げつけた
ブレードがダイレクトで突き刺さったのを見た月海がさらに距離を取ろうとした瞬間にミネルヴァが飛びついて
さらに跳躍して距離を稼ぎ、四人が同時に武の周りへ飛び込むようにして倒れこんだのと同時に銃弾はアテナの
口内に嵌っていた手榴弾の信管を過たず打ち抜いて

「バァァァンッ!!!」

という派手な爆発音が周囲に響き渡り、立ち込めた噴煙が晴れたそこにいたのは……
「げ、なんて様だよありゃ!」
と自分でしでかした事に愕然となる武と、そこに現れた惨状を冷静に睥睨しながらも、春香菜は
「ふん…。自称女神様にしては、なんとも無様で惨めなくたばり方ね。もっとも、貴女のような傲慢な者には、
これこそ本当の意味での『天罰』と言った所ね……」
と吐き捨てるように言い捨てたその視線の先…先程までアテナが立っていたその場所には、爆発の衝撃に
耐え切れず、頭どころか上半身を吹き飛ばされて腰から下だけが残ったままよろめいていた、最早
死体と呼ぶにもおぞましいほどの無残な姿を晒しているアテナの残骸だった。
 そのあまりにも無残な姿に、ホクトは口元を手で覆ってこみ上げてくる吐き気を必死で押さえ、桑古木は
苦々しい面持ちで残骸を見つめ、月海は荒い息を吐きながらもどこか遣る瀬無い表情で暫くその残骸を
凝視していたが、やがて決然とした表情を浮かべて武達を振り返り、どこまでも芯の通った強い声で
「これで、邪魔者はいなくなったわ…。優!早く核弾頭サイロのコントロールを乗っ取っているプログラムを解除して
制御を回復させましょう。そして、沙羅も助けてここを出ましょう……」
 そう言って、コンピューターシステムが備えられている奥の壁に向かってゆっくりと歩んで行った……。


 一方、キャットウォークの上で行われている親子喧嘩はというと……。
「親父!アンタがそこまでみみっちい性格してたとは知らなかったぜ!!」
という海藤拓水の怒号と共に繰り出された渾身のストレート…それこそ、直撃でもしようものなら身体を一撃で
貫いていたであろう破壊力に満ち溢れた一撃を、正確なパーリングで弾きながら
「私のどこがみみっちいと言うんだ、拓水!お前こそいつの間にか自分の力に酔って、
正義の味方気取りになっていたのではないか!?」
という海藤幹彦の嘲りが、壮絶な打撃音に混じって周囲に響き渡っていた。
 だが、そんな殴り合いに早々と見切りを付けた拓水がシュベルトメッサーではなく、腰の鞘に収めていた大型の
サバイバルナイフを抜き放つが早いかくるりと逆手に持ち替え、その柄から伸ばしたナイフを
幹彦の左腕に何の躊躇いもなく突き立てていた。
「!拓水…お前は実の親をも手にかけるというのか!?」
と驚きの声を上げつつも間合いを取り、同じようにナイフを取り出して構えた幹彦に対し、拓水はゾッとするほど
醒めた表情を抑揚をなくした冷淡な声で
「だが、あんたは俺をモルモットにしてたろう?あれから色々と思い返していたら、どう考えても不自然な状況で
ケガをしている場合が何度もあった。そして、お袋が病院に連れて行こうとするとあんたは止めたよな…?
あの時は自分の特異遺伝子が露見しないよう配慮したんだと思っていた。だが、その真意は俺の身体の
快復力を調べる為にわざと病院に連れて行かなかった……。違うかよ?」
 普通の声音であれば激昂しているくらいの勢いで喋ったであろう、恐ろしく剣呑な内容の話だった。だが、
逆に抑揚を無くした拓水の声色が押し潰されかねないほどの圧迫感を持って周囲の者に届いていたのも
また事実だった。
 つまり、拓水がTief Blau 2017-Rev.17に感染し、今の身体に生まれ変わるまでは父である幹彦の研究材料と同じか、それ以上に過酷な扱いしか受けていなかったという事になるのだが、幹彦はいつもと同じ表情で
「何を今更。お前のように人の枠組からはみ出した者が普通に生きられただけでもありがたいと思わなければ
いかんのだぞ?それをお前は、一端に自由を求めて逃げ出しおって…。親不孝にもほどがあるぞ」
そう言いながらもナイフを構えた幹彦だったが、先ほど拓水に刺し貫かれた左腕の傷は、まるで
内側から肉が盛り上がるように蠢きながら傷を塞ぎ、まるでバラエティ番組で用いられる逆回転映像のような
速さで塞がって行く傷跡を見ながら呆然としていた拓水だったが、やがて何か思い当たる節があるらしく
「親父…。あんた、俺の遺伝子情報を自分に組み入れたって言ってたな。と言う事は…まさか!
ナイトシアミンの生成インプラントも移植してるのか!?」
と愕然とした表情で叫んでいたが、その言葉が終わらないうちに俯いていた幹彦が突然破裂したように
高らかな哄笑を響かせ、誇るように自らの両腕を広げながら
「あぁそうだとも!私の体内にはナイトシアミンの供給インプラントが3基組み込んである。そこから無尽蔵の
ナイトシアミンを血中に流し込む事で私の身体は爆発的な力と明晰な頭脳。それに多少の怪我では
傷すらつかない不死身の身体を得たのだ!中途半端なキュレイや、お前のような偶発的に生み出された
存在ごときは私の前に淘汰される運命にあるのだ!そして階下にいるお前の仲間どもも間もなく
アテナの前に屈し、世界は私の手によって新たな姿に作りかえられるのだ!!」
 だが、そこまで幹彦が言ったのと同時に下の方から『バァァァンッ!!!』という音と共に鈍い振動が
キャットウォークを伝わって二人の足元を揺らした。
「ん?爆発か…?だが、規模は小さいな。手榴弾か!?」
と訝った拓水とは逆に、幹彦はキャットウォークから階下を覗き込んだ幹彦だったが、その爆発の噴煙の中から
現れた銀髪の女性…かつて自分が作り、失敗作として廃棄をかねて工場ブロックで拓水にぶつけた
キュレイノイドの姿を認め、同時に手すりが歪むほどの怒りを表情に浮かべながら
「ミネルヴァ…!失敗作が何故こいつらの手助けをしている!?」
と喚いていたが、拓水はぽかんとした表情を浮かべながら
「ミネルヴァ…?何でここに居るんだよ!?っていうか、どうして作り主に背くような事を!?」
と疑問をぶつけたが、当のミネルヴァは穏やかな笑みを浮かべながら
「拓水…私はあなたに救われたのです。だから、私はこの身を以ってその恩に答えます。それは、この馬鹿げた
復讐を阻止し、サラ・マツナガを救い出す事がそうだと自らに結論付けました…。だからあなた達に力を貸し、
自分の進む道を探す為の第一歩を踏み出そうと思ったのですから」
 そう言って微笑むミネルヴァの表情は、かつて拓水が対峙していた時の思い詰めたような表情とは違い、
曇りのない夜空で穏やかに輝く白銀の月のように穏やかな表情を浮かべていた。
 そんなミネルヴァの笑顔を見て安堵したのか、殴り掛かる前のように落ち着いた表情を見せた拓水が
「どうやら、彼女もあんたのしてる事が悪事だって分かったみたいだな…。だったらやる事はただ一つだ…
力づくであんたをぶっ飛ばして核ミサイル制御を取り戻す。それだけだ……」
と言うが早いか、予備動作を全く見せない鋭い機動で幹彦に詰め寄り、ゼロ距離へ踏み込むのと同時に
わき腹をナイフでざっくりと切り裂き、同時に顎をショートアッパーでかち上げていた。
「っぐ!拓水…!お前がそこまでやろうと言うのなら私も遠慮はしない!この手で再生出来ないほどズタズタに
引き裂いて、私の兵隊を作る材料にしてやる!!」
 そう激しく罵りながらも、体内に備えたバイオインプラントから供給されたナイトシアミンが傷を埋め、その身体を
さらに強化しようとしていたその瞬間、背後の天井近くから不意に蒼い影が飛び出し、幹彦の身体を
すれ違いざまに切り裂きながら拓水の眼前へ綺麗な体勢で着地していた。
「なっ…!?誰だ貴様は!この私に気取られる事なく背後から切りつけるなど……!!」
そう呻く幹彦とは対照的に、目の前に着地した人物を見た拓水は、そのあまりの衝撃に目を見開き、
やっとの事で搾り出した震える声で恐る恐る
「お前…菜奈海……なのか?でも、それじゃああの墓は一体……どういう…?」
と拓水にしては珍しく混乱した様子で尋ねていたが、その人物…菜奈海と呼ばれた女性は落ち着いた様子で
「あのお墓は、神父様にお願いして建ててもらって、うさぎ屋のお爺ちゃんとお婆ちゃんにも黙ってもらっていたの。
だって、こうでもしないとお父さんが…ううん。目の前にいる『出来損ない』が私に気づかないよう欺くためにね…。でも、今回のニュースの裏を調べていたら、DoomSの存在とそれに立ち向かっている田中教授のグループに
辿り着いて…その中にあなたの名前を見つけたから…お兄ちゃん…やっと会えた……」
そこまで言っていったん言葉を切った菜奈海は、涙で目を潤ませながら拓水に飛びつき、しっかりと拓水の服を
握り締めてすがりつき、涙を流しながら
「寂しかったんだよ?突然いなくなっちゃって…。後を追うように私もお兄ちゃんと同じウイルスに感染して、
病気が治ったらお兄ちゃんと同じ身体になってた。それからお兄ちゃんを探す為に家を飛び出して
ずっと一人旅を続けて…うさぎ屋のお爺ちゃんとお婆ちゃんのお世話になりながらずっと探し続けて…。
でも、やっと会えた。お兄ちゃん……もう、何処にも行かないよね?」
拓水の胸板からそっと顔を離し、潤んだ瞳で拓水を見上げる菜奈海の姿はとても様になる光景で、
ちょっとした出来の恋愛映画を思わず連想させるものだった。
 そんな二人を睨みつけていた幹彦だったが、怒りに震える声で
「私の力はこんなものではない!さぁナイトシアミンよ、もっとだ!もっと私に力を授けるんだ!!」
と叫びながら全身に力を入れて力んだ瞬間、それこそが海藤幹彦がその存在を消滅させる合図となった。
 力を入れた瞬間右肩が大きく盛り上がり、更なる筋肉の発達が行われると思ったその時だった。
「ぐぅうおぉっ!?な…なんだ!?身体が、膨らんで行くだと……ぅうぉあぁぁぁ!!!!!!」
そんな幹彦の悲鳴に合わせ、彼の全身が激しく脈動し、徐々に膨張して言った身体が『ビクン!』と一瞬大きく
脈打った途端、全身がその体形を維持する事すら出来ないほど異常なレベルで膨張し始め、しかもその膨張は
最早人としての形が完全に崩壊しているにもかかわらず、いまだ止まる気配がなかった。
「な…これ、一体どうしたって言うんだ!?親父の身体が急に膨らんで……どうなってるんだよこれ!」
蒼白な顔で混乱したように喋る拓水に対し、菜奈海は冷静さを保ったままの表情で
「『ナイトシアミンオーバードーズ』…血中のナイトシアミンが許容限界を超えた時に発生する、細胞の
無制限異常分裂…体内に設置したバイオインプラントから供給され続けたナイトシアミンをあの人の身体が
代謝し切れずに溜め込み続け、やがて限界寸前まで蓄積されていたナイトシアミンが、私の攻撃で受けた傷を
引き金にして暴走した…TB種がどんなに再生能力に長けていても、これだけは再生できない。高い身体能力と
驚異的な細胞再生力と身体復元能力…故に不死に最も近い種族といわれる私達にとって、オーバードーズは
『死』そのもの…。こうなったら、もうただの肉の塊よ…生きてはいるけどもう知性も何もない……ただの混沌…」
はっきりと言い切る菜奈海だが、ややあって拓水に向き直り
「私ね…。TB種になって家を出て…それから暫くして国立の研究機関に自分の身体を…TB種の身体を
解析してもらった事があるの。自分がこれから生きて行くためには何に気をつければいけないのか…何を自分の
敵と認めなければいけないのか……そういった疑問に答えをもらうために、依頼したの。当然、研究結果の
完全非公開と被検体…つまり私に関する情報の封印をお願いした上でだけどね」
とあくまで穏やかな顔で告げた。
 だが、それを聞かされた拓水自身は特に気にする様子もなく、何かを思い出したような顔で
「あ、俺も調べてもらえばよかった…。あの時は警戒心剥き出しになってたからなー。もぐりの闇医者の所で
簡単な検査しかしてもらってなかったんだ。…よし、今回のヤマが片付いたら俺も国立の機関できっちり
検査してもらうとするかな。菜奈海、その時は紹介頼むな?」
と菜奈海の前でおどけた様に手を合わせて頼み込む拓水の姿は、以前の通り仲のよい兄妹のそれと同じであった。
 やがて全ての戦いが終わり、キャットウォークの上から飛び降りざま空中で猫のように身体を一回転させながら
器用に着地した拓水と、傍らへ同じように着地した菜奈海を見た武達は一様に驚いた表情を浮かべていたが、
菜奈海自身の自己紹介で一転和やかな雰囲気になり、そのまま最後の一仕事を終わらせるべく
コンピューターブロックへと向かって駆け出した。


 たどり着いたコンピューターブロックでは、先行していた春香菜と月海がコンソールを前に悪態を吐きながら
キーボードを猛烈な速さで連打していたが、やがてその手をピタッと止めた春香菜が、忌々しげに
「あぁもう!秋香菜じゃないけど踵落としブチ込みたくなるわね!!何なのよこのシステムは!!」
と声を荒げてシステムを睨みつけていた。
 そこへ入っていった武達だったが、久しく見ていなかった春香菜の狂犬っぷりにおもわず半歩退いていた。
 そして、春香菜ほどではないにせよそれなりのコンピュータ知識を持っている拓水と、曲りなりにも裏社会の
エージェントを勤めている菜奈海が二人がかりでシステムを解析した結果……。
「ダメですね…。このシステム、一秒ごとに乱数を用いて自動的にパスコードを書き換えてます。次に来る数も
読めないようになってるし、ヘタに弄れば信号が送られて乗っ取られている核ミサイルが一斉にドカン!
って構造になってるみたいです。っていうか、これどうします?」
呆れ顔の中にも憤りを滲ませた顔で告げる拓水を見つめながら、憤懣やるかたない様子で大仰にして巨大な
システムを見上げていた武や月海だったが、システム的に沙羅を切り離すのがほぼ不可能と言われているのも
同様なこの状況では、ただただ歯噛みするしかないと思われていたその時……
「…誰?誰が私に語りかけているの!?」
その言葉と共に、それまで沙羅が収められていたカプセルを見つめ続けていた月海が、まるで弾かれるように
周囲を見回して叫び始めた。
 だが、そんな月海の行動が誰にも理解されるはずもなく、ミネルヴァは念のために周囲を音声と赤外線の
複合センサーでスキャニングしてみたものの
「いえ…この周囲には我々以外の熱源や音声媒体などは存在していませんが?」
といぶかしむ様に周囲を見回しながら告げた。だが、暫く月海の行動を見ていた春香菜は、思い当たる節が
あったのか、月海に駆け寄るなり
「月海!ひょっとして『彼』が…『ブリックヴィンケル』が現れたの!?」
と激しい調子で質した。すると、月海も力強く頷き返しながら
「えぇ、間違いない…。でも、第三視点の能力を受ける事が出来るのはホクトだけの筈よ…!なのに、どうして
今度は私が声を聞く事が出来るの?」
と半ば混乱したように一人ごちていたが、今度は全員…ミネルヴァにさえもその声は聞こえたというくらい
はっきりとした声でブリックヴィンケル…いや、彼の視点を借りた人物が語りかけた。
「なっきゅ、つぐみん、たけぴょんも…。ココだよ、ココがね、お兄ちゃんの視点を借りてそのコンピューターの
システムを破ってみるよ。今からココが少し先の…17分後の世界を見てくるから、そこで書き換えられる
パスコードを予め入力して、その時間が来たら同時に入力。kろえで、システムは何の問題もなく破れる筈だよ」
そう言うココに対し、春香菜は桑古木と拓水の三人で議論をしていたが、やがて決心したように
「OK…。じゃあココ、今から17分後の世界でパスワードを入手して、それを教えてちょうだい。
入力の時間合わせはこっちでやるわ。…桑古木、エンターはあなたが押すのよ。もちろん、タイミングが
一番重要だから焦って押し損ねたなんてのはなしよ?」
とプレッシャーをかけていたのは言うまでもない事だった。
 そして全ての準備が整い、あらかじめココから教わったパスコードも入力だけは済ませて待機する事数分…。
「カウント、10から取ります。10…9…8…」
リストウォッチでカウントダウンを取る菜奈海の前では、右に桑古木が、左には武がそれぞれコンソールにある
キーボードのエンターキーに指をかけてその瞬間を待っていた。
 一方、沙羅が閉じ込められているカプセルの前には月海と拓水が配置につき、コード受付と同時に
カプセルを破壊して沙羅を解放する手筈でそれぞれの得物を構えて待ち構えていた。
「5…4…3…」
継続してゆくカウントが順調に時を刻む中、遂にその時が訪れた……。
「2…1…ゼロ!」
菜奈海の声と同時に桑古木と武がエンターキーを押し込んだ瞬間

『Code accepted. Nuclear silo control has been released.』

の文字がモニターに浮かび、目的の一つは達成された。だが次の瞬間……
『ドォォォォンッ!!』
という鈍い音と同時に部屋が…いや、パンデモニウム全体が激しい振動に見舞われていた。
しかもタイミングの悪い事に
「沙羅!」
という月海の悲鳴にバッと顔を上げた武が見たものは、余りにも信じ難い光景だった。
 沙羅が閉じ込められているカプセル全体に、どこかのケーブルがダメージを受けたのか激しいスパークが走り、
駆け寄って助けようとしていた月海が弾かれていた。
 だが、その状況を一瞬で把握していたらしい拓水が背中のシュベルトメッサーを一本抜き放ちながら駆け込み、
何時の間にはめていたのか皮手袋で覆われた右手に持ち替えるや否や、丁度カプセルの背中側を
ぎりぎり掠めるようにして振り下ろしてカプセルの背後から延びていたケーブルを一刀で断ち切り、同時に
両手でカプセルを抱えるとバックドロップの要領で一気に床からも引っこ抜いて背後に下ろし、表面に
自らのひじを叩き込んでカバーを割り砕いて沙羅を助け出した直後、部屋の中に焦げ臭い臭気が満ち始めた。
「何処かで火災が起きてるわね…というか、さっきの地響きから推察すると…連中、動力プラントか何かを爆破したらしいわね。恐らくは核サイロのコード奪還と同時に自爆させるようなプログラムになっていたはずよ……。
まったく、何から何までやる事が派手ね……」
そう言いながらも周囲の安全を確認し始めた春香菜と桑古木に遅れるようにして立ち上がった武も
周囲の安全確認と脱出路の確保に向かったが、ホクトだけはよろける様に沙羅の許に走りより、震える声で
「沙羅!沙羅!!返事をしてよ!目を開けてくれよ……。沙羅ぁぁぁ!!」
と沙羅の身体を掴んでガクガクと揺さぶっていたが、沙羅を抱きかかえていた拓水に
「早くここから逃げるぞ!みんな揃って土葬して欲しいなら居残り決め込んでもいいが、俺はまだそこまで
人生エンジョイしてないんでね…。武さん達や春香菜先生だってそう思ってる。当然菜奈海だってうさぎ屋の
爺ちゃん婆ちゃんにお暇するには早過ぎるからな……。君もだろ?だったらここをずらかるしかない。行くぞ!」
そう言いながら、意識を失っている沙羅の身体を抱きかかえて駆け出した拓水と、併走する菜奈海を先導しながら、
この施設を一番よく知り尽くしているミネルヴァのナビゲートに従う形でその後に春香菜や武達が続いて
全力疾走で脱出するべく地上めがけて駆け出していた。


 その頃地上では、パンデモニウムがダミーとして利用していた農業機器工場の建物が全焼し、その消火作業に
駆り出された消防士達が必死の消火作業を続けていた。
 だが、突然その一角が爆発し、荒れ狂う炎によって乱雑に引き起こされた陽炎の中から現れた一群を認めるや
皆一様に驚きの表情を浮かべていた。
 先頭を行くのは全身傷だらけでぐったりとした空を抱きかかえながらも強い意思を湛えた目を気丈にも
前に向けている桑古木と、その傍らで疲れたような表情を浮かべている春香菜。
 そこに続くのは、憔悴しきった表情で足元をよろめかせ、それでもホクトや武の肩を借りてやっとの様子で
歩いている月海。その後にはミネルヴァと菜奈海に挟まれる形で沙羅を抱きかかえた拓水の姿があった。
 そうやって粛々と、まるで荘厳な炎に彩られた葬列を執り行っているような一団の後ろで、どこかのガスラインに
引火したらしい更に激しい爆発が起きた時だった。
「武さん!沙羅ちゃんを!!」
という拓水の声と同時に振り向いた武目掛けて、背後で声を上げた拓水があくまでも優しい力加減で
抱きかかえていた沙羅の身体を投げ渡した。
 そして、その声に驚いた武が何とか沙羅を抱き止め、突然の暴挙に及んだ拓水目掛けて叱責を上げようとした
正にその瞬間、菜奈海とミネルヴァの悲鳴と共に背後から襲いかかった鋭い切っ先の瓦礫が、拓水の腹部を
『ズドシュッ!』という不快な音と共に大穴を穿ちながら貫通していた。だが、決して沙羅を傷付けないと誓った
拓水の意地がそうさせたのか、自分の身体を貫通した瓦礫を素早く掴み取って勢いを殺し、大量の鮮血を
撒き散らしながらも強引に引き抜いたそれを、自分の脇へ無造作に投げ捨てていた。
 そんな拓水の行動を春香菜や桑古木は唖然として見つめ、月海は自らを犠牲にしてまでも引き受けた依頼
…沙羅を無事に奪還するという依頼を遂行しようとしている拓水の律儀さと、何者にも動じない
揺ぎ無き意思を感じて慄然とし、武は自らを犠牲にしてまで沙羅を守った拓水の強い意思に打ち震え、
菜奈海とミネルヴァは二次爆発に警戒しながらも体制を崩して倒れ込む拓水を支えようと駆け寄り、
呆然と状況を見守るホクトの前で、大量の血を吐き出しながらゆっくりとさえ見える動作で倒れ込んだ拓水を
庇うように、両脇からミネルヴァと共に抱き止めた菜奈海が、周囲を圧する爆音や炎の音に負けない声で
「救急車を!早く救急車をこっちに!!搬送先はこっちで心当たりがありますから!!」
と指示を出していた。


 敷地から全力で走り出した救急車の中で、隊員から発せられた『それで、搬送先はどうするんですか?
市民病院が一応基本ですが……』という問いに、菜奈海は冷静に
「市民病院じゃなくて国立理化学病院にお願いします!そこなら彼の治療もより完璧に出来ますから!」
と返していたが、同情していた春香菜の『でも、どうして国立研究所に?』という、至極真っ当な問いに対しても
「私はそこで自分の身体を解析してもらった事があるんです。だからこそ、私の解析データを応用出来る筈ですから、
治療に関してもより的確な物が期待できます。それに…特殊な遺伝子を持つ私達だからこそ、秘密を知っている
人間が少ない方が都合がいいですから。ね?」
と微笑さえ浮かべて返していた。
 そんな間にも救急車は理化学病院へ飛び込み、あらかじめ菜奈海からの連絡を受けていた医師や研究者達が
敷いていた万全の体制の結果、手術は無事に完了。基礎的な細胞再生能力が常人とは比較にもならない
TB種である拓水にしてみればちょうどよい休養だったのかもしれないが…。
 一方、同じ病院に搬入された沙羅の方は状況が深刻極まりない状態になっていた……。
「身体そのものには怪我や病気等の異常は見つかりませんが、電流を浴びたのが正直言ってまずかったですね。
下手をしたら意識の戻らない状況がこのまま続くかもしれません。それに、例え意識が戻ったとしても、
記憶に相当な障害が残る可能性があります。まぁ、とりあえずは経過観察を続けて、意識が戻るとしたらその時は
その時で対応するしかないのが現状でしょう……」
沈鬱な面持ちで状況を告げる医師を前に倉成家の面々は一様に絶句し、ホクトに至ってはこの世の終わりのような
絶望的な表情を浮かべて泣き崩れていた。
 だが、武や月海が絶望していたのも一瞬。すぐに気を引き締めて沙羅が眠る個室に向かい、昏睡状態で
眠り続ける沙羅をいたたまれない表情で見つめながら、月海が沈黙を破るように
「これからが大変ね…。沙羅が目覚めてくれると信じてはいるけど、そこから先は私達にも分からない……」
「あぁ…。だが、どういう状況になっても沙羅は俺達が守る…。自分の身を挺してでも沙羅を守り抜いた
海藤の心に答えるためにもな……」
二人が同時に考えていた事を改めて口にした武に見守られて、童話の眠り姫の様に昏々と眠り続ける
沙羅の姿は、不謹慎ではあったが一切の穢れを持たない妖精の様であった……。
 一方、拓水が眠る病室では……。
「それにしても、彼の根性は見上げたものね。自分が死ぬかもしれないってのに二人で飛び退るんじゃなくて
自分を盾にするなんて……。ねぇ菜奈海ちゃん…だったかしら?海藤って昔からこうなの?」
パイプ椅子に腰掛け、ベッドで眠る拓水を呆れた様子で見つめながら発せられた春香菜の問いに、壁際で
腕を組みながら懐かしさを含む苦笑いを浮かべながら菜奈海が
「そうですね…。以前からそう言う所がありましたけど、私たちの前から姿を消している間にその傾向が
強くなっていますね。でも、私もここまで思い切った事をするとは思っても見ませんでしたが……」
と同じように拓水を見つめながら、かつての姿から変わってしまった自分の兄を想って言葉を紡いでいた。
 そして、隣のベッドでは応急修理で再起動を果たしていた空とその傍らに佇むミネルヴァも心配な様子で
拓水を見つめていたが、不意にミネルヴァが
「これからの事は…拓水とサラ=クラナリが目覚めてから決めましょう。それまでは私もスタンバイモードで
眠りに就きます……。ソラの身体については、今後の修復状況に応じて私に手伝える事があったら
遠慮なく起こしてください。起こし方は普通に身体を揺すってもらえばそれで結構ですから……」
そう言ったきり部屋の片隅に腰を下ろしたミネルヴァはスタンバイモードに入って眠りに就き、空も春香菜の
研究所へ搬送し直して再度身体の再点検と修理箇所の特定を行う事となった。


 しかし、『どうにかなるだろう』という春香菜達の淡い期待はあっさりと裏切られ……。
「修復不可能だって!?それじゃあ空の身体はどうなるんだよ!!」
という武の愕然とした叫びも想定内の事で……。
「あれから研究所に運んで再チェックを行って、修理箇所の特定と破損箇所の絞込みをしていたんだけど…
駆動部分の全滅と内蔵動力の破壊。これらの状況からして、今の空の身体は破棄するしかないのよ……」
と沈んだ表情で春香菜が告げていた。
 そんな絶望的な報告に、窓の外を見ていた月海が
「ねぇ、空の身体ってそんなに造り出すのが難しいの?それじゃあデータ移植とかは出来る?」
と矢継ぎ早の質問を浴びせていたが、春香菜は一切動じる事もなく
「そうね。この段になっての再製作はほぼ無理ね…。あの身体にしたってほとんど奇跡よ。そう言う点から言えば、
空の身体は完全なワンオフモデルと言えるわ。あと、データに関しては容量さえ確保されていれば
問題なく移行できる。もっとも、20テラバイトにも及ぶ莫大なデータを収容できるHDDがあればの話だけどね……」
と言いはしたものの、表情が『あるわけないでしょう』という事を雄弁に物語っていた。だが、月海は何を思ったのか
「ねぇ優…。連中のアジト…パンデモニウムって、今はどうなっているの?」
などと、聞きようによっては見当違いのような次の質問をしていた。
 だが、その言葉に思い当たる所があるのか、バッと顔を上げた優が
「月海…貴女、パンデモニウムに行って使えそうな空の身体を捜そうって言うの!?無茶よ!あそこ、未だに
残党が立て篭もっていて警察でも地下区画には入れない状況が続いているらしいわ。それに、万が一
入れたとしても、そんな都合のいい身体があるかどうかさえ分からないのに……」
といつもの春香菜らしくないうろたえた表情を浮かべていたが、不敵に微笑んだ月海は
「あの空もどき…アテナって言ったかしら?あんな高性能の身体をいきなり造ろうとしてもそうは行かないわ。
と言う事は、何処かに保存されているはずよ…。アテナの試作機とも言える身体がね?」
そう言って沙羅の病室から出て行った月海は、暫くして拓水の病室で起こしてきたのかミネルヴァを連れて
戻って来た。そして、戻るまでに状況を聞いていたらしいミネルヴァの説明は、春香菜をしてさえ驚愕の事実だった。
「アテナの身体は、高い戦闘能力と高度な情報処理能力を両立させたワンオフモデルです。とはいえ、
ツグミの指摘通りいきなりそんな高性能機は製作出来ません。アテナが製作された時には、戦闘能力を
強化したモデルと情報処理能力を強化したモデルがテストベッドとして製造され、それら二機のデータを
融合させて最終的に製造されたのがアテナです。そして、私はその戦闘能力強化型モデルです。それに、
私の半身でもある情報処理強化型モデル…『CN−MTPM4913 XS ユーノ』はパンデモニウムの深部に
保管されています。回収してソラのデータを移植、再起動させる事については問題ないでしょう。
ユーノのHDDは119テラバイトありますから、ソラのデータを移植するには十分な容量があります」
というものだった。
 その後、警察に『DoomSの残党処理を請け負う代わりに回収したユーノについてはこちらの帰属権を
認めてもらう』という妥協案が結ばれ、前夜に意識が戻った拓水とミネルヴァ、菜奈海の三名が驚異的な速さで
パンデモニウムの再制圧を達成してから三時間後には田中研究所で空の再起動が
行われたのだが、新しい自分の身体がDoomS製だと言う事に空が猛反発。いつもの空からは想像も付かない
激しい口調でミネルヴァを罵ったらしいのだが、それについては月海と春香菜が手厳しく窘めたせいもあって
一応の沈静化は見たものの、この遺恨はかなり後まで引きずられて行く事となる……。


 そんな出来事が過ぎてゆく間も沙羅の意識が戻る事はなかったのだが、晩秋も過ぎてそろそろ冬の装いが
ちらほらと街に見え始めたある日の事……。
 当初の錯乱も落ち着き、いつもの習慣で沙羅の見舞いに来たホクトがそっと沙羅の手を握ったその時だった…
「ん、う…うぅん……」
と小さなうめき声を上げながら沙羅が身じろぎし、やがて閉じられていたまぶたがふるふると震えながら
ゆっくりと引き開けられて行き、ぼんやりとした表情のまま数回瞬きをした沙羅がゆっくりと身を起こし
「ここ…どこだろう…それに、私……誰だろう……?」
と思わず緩みかけていたホクトの表情を凍らせるには十分すぎる事を言い出した。
 そんな言葉を聞いたホクトが思わず沙羅の両肩を掴み、狼狽ここに極まれりと言った感じの声で
「沙羅…?ボクだよ、ホクトだよ…。ボクの事…覚えてるだろ?」
と聞いたが、逆に沙羅は怯えた様子で
「ちょっ…放してください!私、貴方の事覚えていないのにいきなり『覚えてるだろ?』って言われてもさっぱり
分かりません!!とにかく、こういう時ってお医者さんを呼ぶのが先じゃないんですか!?」
と窘められ、慌ててナースコールを起動して医者を呼んだ。
 その後、医師による診察と検査が行われた結果
「非常に言い辛いのですが、お嬢さんの記憶は拉致される以前のものが失われている可能性があります。
その証拠に、ご家族の方達の事はさっぱり覚えていないのに、彼女…ミネルヴァさんといいましたか?
彼女の事ははっきりと覚えているのです…。まぁ、一時的な記憶の混濁が引き起こしたものだとは思うのですが、
一度退院していただいて、自宅療養という形でもう少し経過を見ましょう……」
そう言って立ち去った医師を見送りながら、記憶を失っているであろう沙羅は
「えっと…武さんと月海さんは私のお父さんとお母さんで、隣にいるホクトさんが私のお兄さん
…でいいんですよね?そして、私はお母さんから受け継いだ特殊な遺伝子を持っていて、お母さんのようには
行かないまでも普通の人よりも身体の老化が遅くなっている…と。これで合ってますよね?」
と、帰宅後の生活に齟齬が生じないように知識の共有が行われていた。
 その傍らでは、空との遺恨を抱え込んで以来浮かない表情をする事が多くなったとあの拓水をして溜め息を
吐かせるほど沈んだ表情を見せる事がまた多くなったミネルヴァが壁際で目立たないようにぼんやりとしていたが、
そんな彼女の様子に気づいた沙羅が、武でさえびっくりするような弾んだ声で
「あ、ミネルヴァじゃない!ねぇねぇ、ミネルヴァもパンデモニウムから出る事が出来たんだ?」
と尋ねていたが、これに驚いたのは他でもないミネルヴァだった。そして、うろたえた様子で
「サラ・クラナリ!貴女は監禁されていた時の記憶が残っているのですか!?でも、あの時の感電で
貴女の記憶は一時的とはいえ喪われている筈……。一体、どういう事なのですか?」
そう尋ねるミネルヴァに対し、月海は考え込むような表情でその細い指をあごに持って行きながら
「たぶん…。沙羅の記憶が混乱したあの瞬間、最も新しい記憶…パンデモニウムに監禁されていた時の記憶が
表層に固定されて、それ以前の記憶が深層に保護されているんだと思うの。しかも、双方の記憶にある齟齬で
精神的な破綻が起きないように情報の遮断も行われている……。そう考えると、ミネルヴァを知っているのに
私達の事を一切覚えていないという状況にも説明がつくわ……」
そんな月海の考察を聞きながら呆然としていたミネルヴァだったが、やがて何かを理解したように
「承知しました…。それでは、私もこれからはごく普通の友人関係をサラと築かせてもらうようにしましょう。
今となっては殆どコンピューター関連の話しか共通項はありませんが、それ以外の事でも触れ合えれば良いと
自分自身でも思っています。それに、もう私にもDoomSに関するしがらみはありませんから…
ソラとの事さえ除けば、ではありますが……」
と、少々苦いものの混じった表情を浮かべてやや自嘲気味にそうつぶやいたが、沙羅は『それは違う』と言いたげに
首を振り、ミネルヴァの両肩に優しく手を添えながら
「空だって、きっと分ってくれるよ。だから、そんなに悲しい顔をしないで…。それに、ミネルヴァは拓水さんと
一緒にいる事にしたんでしょ?だったら、拓水さんが遊びに来てくれる時には一緒に来ればいいじゃない。
いつでも歓迎するよ♪それに、私もパソコン関連の事とか色々ミネルヴァに教えてもらえるし…ね?」
にっこりと微笑んでミネルヴァに語りかける沙羅に、ミネルヴァは幾分救われたような表情を浮かべていた…。
 そんなやり取りからすぐに沙羅も退院し、多少ぎこちなさはあるもののこれまでと変わらない生活が再開された。
 沙羅は復学し、ホクトと共に登校する姿が見受けられ、武もこれまで以上の熱意を以って仕事に取り組み、
春香菜や桑古木、新たな身体『CN−MTPM4913 XS』を手に入れた空も、取り敢えずの憤りを我慢しつつ
そのサポートをこなしていた。
 一方、拓水と菜奈海はうさぎ屋の老夫婦に改めてお互いを紹介し、そのまま菜奈海と拓水が拓水のマンションに
同居する事で話がつき、そこへミネルヴァも加わって三人暮らしを始めていた。
 最初は日常への対応に四苦八苦していたミネルヴァも、戦闘時の風貌からは想像も付かないほど手が細かく、
大抵の家事を一人でこなしてしまう拓水と、うさぎ屋の老夫婦と共に暮らし、食事の世話をしていた事も当然ながら
海藤家にいた時から家事好きな菜奈海の手ほどきを受け、一ヶ月もした頃には何の苦労もなく
家事をこなす様になっていた。


 どこか歪な、それでも日常を内包して回る世界は時を進め、秋には松茸狩りで行った一気飲み大会で拓水が
不覚を取って酔い潰れたり、冬のスキーでは空とミネルヴァの雪合戦を通り越した雪合戦で巻き添えを食らった
秋香菜が雪だるまにされたり、新春の顔合わせでは酔った勢いで菜奈海にちょっかいをかけた桑古木が
庭先で何処からともなく拓水が取り出した壷に閉じ込められたり、花見で酔った春香菜を武と月海で
追いかけている内に周囲を巻き込んだ大捕り物になったりと色々な事が騒がしく過ぎて行き、やがて
全ての始まりとなった夏を迎えたある日……。
「あれから一年…全ての始まりからはもう二年半……。長いようで案外短かったわね……」
そんな事を言いながら、デスクに置かれたアイスコーヒーを楽しんでいた春香菜だったが、不意に
「よし、今度の土曜日に海岸でバーベキューよ!」
そう叫んで立ち上がるが早いか手元のPDAを掴んでいつものメンバーに猛然と電話をかけ始めたその後ろ姿を
見つめながら、ため息混じりに桑古木と空は
「はぁ…。やっぱりこうなるのか…。しゃあない、買い出し行ってくるか……」
「楽しそうですから、私もご一緒しますね。それに皆さんの好まれる材料なども私がメモスペースに記録して、
効率よく買い物が終わるようにしましょう」
そう言いながらも、どこか呆れたような表情で同意する空だったが、ユーノの身体を使いこなしている
その姿を見ながら、電話をかけ終えた春香菜が
「空…。海藤と菜奈海ちゃん、それにミネルヴァも呼んだから、せめてミネルヴァには喋ってあげるくらいの事は
してあげなさいね…。彼女の知識がなかったら、貴女はHDDのままだったんだから……」
そう振り返らずに告げた言葉を、空と桑古木は苦いものを混じらせて聞きつつ買出しに出かけて行った。


 商店街やデパートでの買い物をほぼ済ませ、木陰で一時の涼をとりながら桑古木と空が
缶コーヒーを飲んでいると、背後から『ポンポン』と誰かが肩を叩いてきた。それに驚いて二人が背後を振り返ると、
そこにはよく見知った顔が4つ並んでいた。
「ちわっ♪お二人でお買い物ですか?もしかして…愛の巣作りとか!?」
とにやけた表情でからかっているのは海藤菜奈海…。その背後で
「そんな訳ないでしょうが…。大方、カブちゃんが田中先生に頼まれた買い物を空に手伝ってもらってるって
所かな……。それに、その買い物の内容からまたバーベキューですか?」
と半ば呆れたように釘をさしているのは海藤拓水。そして、そんな二人に気をとられていると……
「わぁ♪お肉にコーンに焼きそばも。しかも一式フル装備じゃないですか。という事はー、もしかして私達も
お呼ばれされるって言う事ですか??当然ミネルヴァも来るんだよね?」
そんな事を無邪気に言っているのは沙羅で、その隣には
「それにしても、これだけの量を買い込んでどうやってラボに持ち帰るのです?車でも用意していないと
戻るまでに肉類などの食材が痛みますよ?」
と冷静な提言を成しているのは銀髪の空…ミネルヴァであった。
 そんなミネルヴァの疑問に、桑古木は『しまった』という顔をしていたが、空の方は逆にむっとした表情で
「貴女に心配される事なんてありません!これくらい桑古木さんと二人で持って帰ります!!」
そう言うが早いか、どう見ても…拓水でさえも『カンベンしてくれよ…』と言い出しそうなほどの荷物を半ば意地で
持ち上げた空だが、当然前も見えなければ足元のバランスなど論外であって……
「キャッ!」
という声をあげながら前のめりに転ぼうとした空だったが、そうなる事を予め予測していたのか、素早いステップで
回り込んだミネルヴァが、荷物の上側と底の部分を押さえて崩れを止めながら
「あまり無理はしない方が良いのではないですか?リョウゴも心配をしていますよ?」
と窘めるように言ってから上半分を取り分け、両腕に抱えながら
「ラボまでの荷物持ちならば構いませんよね?」
と、どこか寂しげな笑みを浮かべながら春香菜の研究所へ向かって歩いて行くミネルヴァと、その隣で
荷物を半分に分けながら『ビールにチューハイ…ポン酒まで…。またあの騒ぎか……』と呟きながら一人で
テンションダウンしている拓水。そんな二人を見つめながら、納得の行かない面持ちで後を追う空と、屈託ない
笑顔で歩いてゆく沙羅を見やりながら、溜息交じりに
「それにしても、拓水の奴ミネルヴァとすっかりいい雰囲気だな。…で、アンタはそれでいいのか?」
と桑古木が菜奈海に尋ねていたが、菜奈海は思いっきり呆れた様なジト目を向けながら
「何で私が兄に欲情しなきゃいけないのよ…。そう言うカブラキさんこそ、いいトシしてんだからココちゃんを
追い回すようなロリコン趣味は封印したらどうなの?ソラが拗ねるわよ??」
などと毒のある突っ込みを入れていたが、つっこまれた桑古木はというと
「んなっ!?空!そんな事ないよなっ?なっ!?」
と慌てるにも程があるだろうと言わんばかりにうろたえて空の後を追いかけて肩を掴み、周りが見えていないような
勢いで尋ねていたが、当の空は困惑気味の表情で
「あの、桑古木さん…?私は別にどうとも思ってませんけど……。それよりも、可能性としては
菜奈海さんにからかわれているだけではないでしょうか?」
という答えに、しばらく呆然としていた桑古木だったが、やがて状況を把握したのか菜奈海に詰め寄るが早いか
「お前…!いい大人をからかいやがって!!」
と怒りまくっていたが、それを全て言い切る前に
「いいオトナだったら…そんな程度で動転しない!!」
という言葉と共に繰り出された菜奈海のアッパーカットで顎を打ち抜かれ、ゆっくりと仰向けに倒れていた。
まぁ、何処からともなくゴングの音が聞こえたような気がしないでもないのだが……。


 そして土曜日。夕方から海岸で行われたバーベキューには、田中親子に空とココに桑古木。倉成家も
全員参加に加え海藤兄妹とミネルヴァも参加していた。
 いつもどおり乾杯の音頭から既に暴走状態に入りつつあるグループの中で、相変わらず桑古木と空は
焼き番に励み、その様子を見ていた拓水と菜奈海が『ま、おアツい事で…』とチャチャを入れたり、
春香菜vs月海の一気飲み対決が始まり、その介抱に武とココが駆り出されたりと、呆れ返るほどいつも通りの
展開が繰り広げられる中、騒ぎから一人抜け出して波打ち際の岩場で腰掛け、月明かりで輝く海を
ずっと見ていた沙羅だったが、不意に背後に立った人の気配で振り返るとそこに立っていたのは
「沙羅…。どこか具合でも悪いの?何だったら空かミネルヴァさんに見てもらう?」
と、少し不安な表情で尋ねるホクトと、両手に紙コップを持ち、ちょっと肩を竦めながら
「まぁ、これが田中親子クオリティーって奴かな?ショック受けてるのは分るけどさ…。はいこれ、お手製の
ジンジャーエール。お酒よりはましだろうと思ってね……」
そう言いながら紙コップを差し出している拓水の姿があった。
 見慣れた二人…長い付き合いだという実感はないにせよ、そうだと言う前提の元で見知っている二人の姿を
認めて小さく息を吐いた沙羅だったが、拓水から受け取ったジンジャーエールを一口飲んで
「こういう事があったって言う話はお兄さんから聞いて知ってたんですけど、実際目の当たりにすると
みんな元気があり余ってるんだなーって気圧されちゃって……」
そう呟きながら改めて海の方を見つめる沙羅の傍らに立ったホクトが、ポケットから取り出した小箱を
沙羅に差し出しながら、ちょっと気恥ずかしげに
「これ、沙羅が僕たちの前からいなくなった時に残していったイルカのイヤリングなんだけどさ。せっかくだから
修理してもらって取っておいたんだ…。で、沙羅がいるから今のうちに渡しておこうと思ってね?」
そう言いながら箱を開き、中に入っているイヤリング…銀細工のイルカがジルコンを掲げているデザインそのままの
イヤリングを、沙羅は黙って箱から取り出し、左の耳に付けてから
「どう…です?似合いますか…?」と少し緊張しながら尋ねて来た沙羅に対し、拓水はニヤリと笑みを浮かべながら
「へぇ…これはお似合いだ。ホクト君にはは宝飾デザイナーの才能あるかもね」
と素直にホクトのデザインセンスを褒め、ホクトはじっと沙羅を見つめながら
「まぁ、これで沙羅の記憶も戻ってくれたら言うことはないんだけど…。でも、今の沙羅でも沙羅には
変わりないからね。これからもいつも通りにいようよ……」
と優しく語りかけるホクトを呆然と見つめていた沙羅だったが、不意に身体を震わせて顔をしかめ、同時に
こめかみを手で押さえながらその場にうずくまり、震える声で
「あ…たま、痛い…よ。何か…大切な事……わ、すれ…てるような…っ、気がする…のに……っあぁぁっ!!」
と一際大きな叫び声をあげるのと同時に、あまりの苦しみ故かその場で転げまわる沙羅を抱き止めながら、
必死な表情でホクトが
「沙羅!大丈夫だから!!大丈夫だから落ち着いて!!」
と呼びかけている隣で、拓水も回りにある危険な物を取り除きながら
「沙羅ちゃん、しっかりするんだ!ミネルヴァ!ライフスキャンで沙羅ちゃんの様子を調べるんだ!!」
とホクトに負けないような声で指示を出していた。
 その後、駆け付けたミネルヴァのライフスキャンで身体のどこにも悪い部分がない事が分り、一応の安堵に
包まれた一同だったが、春香菜と月海は納得が行かない様で
「海藤…貴方沙羅に何を飲ませたの?まぁ、あのジンジャーエールだってのはすぐに分ったんだけど…。
材料が古かったとかって言うのはなしよ?」
と尋ね、春香菜は春香菜で
「一体、沙羅ちゃんと海藤のあのジンジャーエールって何の関連があるのよ……。ねぇ、前回のバーベキューの時、
沙羅ちゃんと二人っきりで居たみたいだけど…何を話していたの?」
と疑問をぶつけていたが、海藤の答えは非常に簡単なもので
「材料に関しては、朝掘りの生姜をうさぎ屋の爺ちゃんと婆ちゃんが分けてくれたんですよ。それで
あのジンジャーエールも作ってあるから、古いってのは完全になしです。まぁ、前回話していた内容は
簡単なものですよ…。ほら、武さんと月海さんの婚礼を欠席してたでしょう?あの事でちょっと話していたんですよ。
で、その時渡したのも同じジンジャーエール……って、そう言うことか!?」
と腕組みを解きかけた瞬間はたと思い当たったように身を乗り出し、突然の行動に驚いている春香菜と
月海に向かって人差し指を立てながら
「つまり、あの事件が起きる前にあったバーベキュー大会でも同じ事があったんですよ。ホクト君が沙羅ちゃんに
イルカのイヤリングを渡して、俺がジンジャーエールを勧めた。しかも、何の因果か同じ場所でね。
で、それが切っ掛けになったらしくて記憶の封鎖に影響が出てこうなったと……。まぁ、今夜の騒ぎはこれで
お開きでしょうね。沙羅ちゃんの様子も気になりますし、片付け済ませて病院に早く行ってみましょう……」
とさばさばとした表情で語り、そのままくるりと背を向けて海岸の片付けに戻っていった。


 その翌日に病院を訪ねた一行が沙羅の病室を訪れると、まだベッドに横たわったままでスゥスゥと柔らかい
寝息を立てている沙羅と、傍らで椅子に座り込んでずっと付き添っている武の姿があった。
 そんな姿に安堵の表情を浮かべていると、気づいた武がゆっくりと振り返り
「お、おはようさん。とりあえず昨夜からずっと眠ったままだけど、身体の方はミネルヴァのスキャン通り
異常なしだそうだ。まぁ、何が原因でこうなったのかが分らんそうだが、じきに気付くだろうってさ」
という武の言葉が終わらないうちに沙羅がゆっくりと目覚め、数回瞬きをした後に身体を起こし、それと同時に
「あ、パパぁ♪でも、どうして私病院で寝てるんだろう……?ねぇ、私何か変な物でも食べたの?」
と尋ねながら首を傾げていたのだが、そんな何気ない言葉の中に潜んでいた変化を敏感に感じ取った月海が
「沙羅?貴女…もしかして記憶が戻ってるんじゃないの!?」
と驚いたような声をあげ、その言葉に反応した秋香菜が驚いたように
「そうだ…。今さっきマヨは確かに『パパ』って言ってる!記憶がなくなっている時は『お父さん』だったのに…」
とつないだが、沙羅の方はそんな周りの光景が不思議らしく、頭の上に『?』が浮かんでいそうな表情をしながら
「あのぉ…。なっきゅ先輩もみんなも何かあったんですか?」
と逆に尋ねていたが、取り敢えずは医師の診察が先だという春香菜の意見に同意して医師を呼び、
沙羅の診察をしてもらった訳だが、診察に当たった医師からは奇跡とも言える状況が告げられた。
「本当に不思議な事ですが、お嬢さんの記憶が完全に戻っているのです。しかも、拉致されていた間の記憶も
完全に繋がっているのです。何が原因になったのかは分りませんが、これはとても珍しい事です」
という報告がなされた。
 そして医師が立ち去った後、全てが元通りになった事を喜びと共に受け入れていた一同だったが、少し険しい
顔をした春香菜が、面々を見回しながら
「でも、これで完全に終わりとは言えないわね。確かにDoomSの指導者は海藤の父親だったけど、彼は
クローンだったわ。と言う事は、現在服役中の本物が出所したらまた同じ事が置きかねない。これから
どうするかの…どうやって身を護るかの検討が大事になってくるわね……」
と喋っていたが、それを遮る様に廊下の外から
「それについてはご心配に及びませんよ…。海藤幹彦は今回の事件を指揮した罪で一旦確定していた懲役刑が
逆転して死刑判決に差し替えるよう国会が要請し、司法もそれを了承しました。執行書類には即日で
サインがされましたから、もう今頃は十三階段の上でしょう……」
という涼やかな言葉と共に姿を現したのは、スーツ姿の壮年の男性だったが、その喋り方はあくまでも優しくあり、
しかしその裡には確固たる意志を秘めた強い響きを持っていた。
 突如現れたその男性に春香菜達が身構える中、その喋り方にふと思い当たる所があったらしい拓水は
「お前…良哉?泉水良哉か!?」
と指差しながら唖然とした顔で尋ねたが、その男性は満面の笑みを浮かべて
「えぇ、そうですよ海藤 拓水さん。かつて貴方のクラスメイトだった泉水良哉ですよ。しかし…私はあれから
いいオジサンになったと言うのに、海藤さんは変わりませんね。いつまでも若々しい……」
と不満気な表情をおどけて見せながら答えていた。
 そのやり取りでかつての親友だという事を確認した拓水はくるりと振り返り、呆気に取られている一同に
「紹介します。俺の高校時代の親友で、いまは国会議員してる『泉水良哉』です。確か今は……」
という拓水の言葉を引き継ぐように、良哉が
「民主国民連合で、厚生部会のメンバーしてます。今回のテロ事件をきっかけにして、キュレイ種の持つ
高い知性と運動能力が広く知れ渡ってしまいましたからね。我々も前々から懸念はしていたのですが、
最早待ったなしの状況になったようです……。現在、超党派の議員有志でキュレイ種ならびにTB感染者への
生活支援と存在認知を含む無期限の救済法案を審議しています。官僚連中は嫌がっている様ですが、
国内のみならず世界中の世論が『彼等に救済を』という方向で動いています。ライプリヒ製薬の闇の部分が
明るみに出たのが余程効いているのでしょう…。可決は時間の問題です」
と一同に告げ、今度は沙羅に向かって
「今回の一件で君には一番辛い思いをさせてしまったね。でも、どうか挫けないでください…。あなた達が普通に
生きて行ける社会は、我々が責任を持って創り上げますから……」
と言って更に深々と頭を下げた後、今度は拓水に向かって
「海藤さんも、あまり無理はしないでくださいよ?私にとっても貴方は本音で語り合える数少ない
親友なのですから。それに、貴方が無理して倒れられるとそこにいる女性が悲しむでしょうからね?」
と、そんなジョークを飛ばしていたが、当の拓水は一瞬きょとんとした表情を浮かべていたものの、
見る間に顔を赤くしたと思いきや、誰も見た事がないほどにうろたえて
「ばっ…良哉!!言うに事欠いて何を言い出すんだよ!!そりゃ、ミネルヴァや菜奈海は俺にとって大事だけど、
それとこれとは違う訳であってだな……」
と取りとめない事を口走っていたが、やがて諦めがついたのかがっくりと肩を落として大きく溜息を吐き、
観念したような表情を浮かべながら
「忘れてた…。昔からお前は俺の事よくからかってたっけな……。まぁ、悪い意味でからかわなかったから
俺も気兼ねなくバカやりあえたんだしな……」
と疲れた様にこぼして姿勢を直し、楽しそうに口元を吊り上げて
「その法案が出来たら、キュレイ種の人達は楽になれそうだな。早期成立を楽しみにしてるぜ、良哉」
と檄を飛ばしていた。
 その後激務の間を縫って訪れた良哉も引き上げ、静寂が戻ってきた病室から外に出た沙羅と拓水は
屋上に上がり、澄んだ夜空に昇っている三日月を眺めていたが
「あの…海藤さん。私をかばって大けがしたって聞きましたけど…その、大丈夫ですか?」
と、そんな事をおずおずと尋ねる沙羅を見て『?』という表情を浮かべていた拓水だったが、やがて納得したようで
「あぁアレね。大丈夫大丈夫♪タダでさえ人並み以上の快復力だったし、TB種になった事で磨きかかってるから、
土手っ腹に風穴開いたくらいじゃ死なないよ。まぁ、久々にぐっすり熟睡は出来たけどね……」
などと言いながら、ウインクをしておどけて見せていた。
 だがそれも一瞬の事で、不意に表情を真面目なものに戻した拓水は沙羅に向き直り、決意を込めた表情で
「これからも俺は皆の為に戦って行く…。この身体であるが故に斃れる事はないだろうけど、だからこそ…かな?」
そう呟く拓水を見つめながら、涙で瞳を潤ませた沙羅は悲しげに
「とっても、悲しい事ですね…。でも、忘れないでください。貴方は此処に居る事が出来るし、私やお兄ちゃん、
パパにママ…なっきゅ先輩や空も、皆貴方の事が好きなんだって事を……」
そんな事を言って、縋る様に海藤へ抱きつく沙羅の温もりを感じながら、拓水も黙って空を見上げて
「…かもね。でも、生まれた時から孤独だった俺はそれが当たり前なんだと思う。そして、俺は
生者と死者の狭間にいる事を宿命付けられているのかもしれない。でも、自分も此処にいる。存在とは、偏在して
それらが確固として顕在するものだからね……。だから俺も君やホクト君、武さんに月海さん。春香菜先生に
秋香菜ちゃんやココちゃんに空…まぁ、カブちゃんはアレだけど……」
とそっぽを向いてぽりぽりと頬を掻きながら話していたが、やがてゆっくりと沙羅の身体を引き離し、数歩
後ずさりながらにこやかな表情で
「だから俺は生きて行ける…踏み締める大地が血に染まっていても、吹く風が硝煙のニオイニ満ちていても、
俺は此処に帰って来る事が出来る……。だから、それまでのお別れだ…また会おう……」
と言い終わるのと同時に大きく後ろへ飛び退き、地上に止まっていたジープのシートに納まるが早いか
ミネルヴァの華麗なハンドル裁きで急発進してそのまま闇に溶けて行った……。


 その後、治安当局と拓水達裏社会に属するエージェント達の協力で、世界中に点在するDoomSは
完全に摘発され、それを待っていたかのように日本でも国会の全会一致で泉水良哉を中心とする
議員グループが議員立法で提案した『キュレイウイルス並びにティーフブラウウイルス感染者の人権と
社会保障に関する特別救済措置法』…通称『キュレイ特措法』が成立し、これを切っ掛けに国連でも
同様の条約が採択、即日発効された。
 海藤拓水がTB種へと進化した時に渇望した『穏やかにキュレイ種が暮らせる世界』は此処に実現し、
拓水と菜奈海もまたその存在だけは…個人を特定し得る情報はミネルヴァの手で痕跡すら残さずに
消去されていたが知られる所となったものの、普通に生きる事が出来るようになっていた。
 国連で批准された条約…最初のキュレイウイルス罹患者の名から『ジュリア条約』と呼ばれている
その条約発効から数年後……。キュレイ種やTB罹患経験者への偏見も次第に解けて行き、社会は彼らを
新たな隣人として暖かく迎え入れ、社会は平穏が長く続く事になる。あの事件が起こるその時まで……。
 
Ende...
 
あとがき:
 ハイ、もう言い訳はありません。完全に執筆ペース落ちてます。
べっ、別にパンヤにはまっていたとかからじゃないんだからねっ!!(ダマレ

 ともかく。
 沙羅と空を巡る死闘はこれでお終いです。ただし、時間は更に流れてリレーSSへと
続くのですが。

 で、美雲と呼ばれる事になるミネルヴァですが、元からの名であるミネルヴァも
捨ててはいません。
 日常は『茜ヶ崎 美雲』で過ごし、依頼が入ると『レディ ミネルヴァ』として
活動するという二重生活みたいな事をしているという裏設定が。

 さて、私のEver17SSは一応これで終わりです。また何か気が向いたらチョロっと
書くかもしれません。気が向いたらですが…ね?

 では、いずれどこかでお会いしましょう……。
2006年吉日 氷龍 命
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