幸せってやつは、一体何処にあるんだろう。
 曰く、人の心に。
 曰く、平凡な日常に。
 曰く、贅を尽くした絢爛な世界に。
 説は多々あるが、この前まで、俺はそんな大層なものだとは思ってなかった。毎日の飯が旨くて、友達とバカやって、時には小さなことで腹立てて――それが幸せかどうかなんて、別にどうでも良かった。俺はここに在り、そして生きている。それが当然だし、未来永劫変わらないものだと信じていた。
 いや、信じていたって言うのは的確じゃない。俺は、あまりに無知だった。だから、盲信していた。生きていることは唯、それだけで素晴らしいと。何も知らず、そういうものだと思い込んでいた。
 だが、俺は見てしまった。生あるモノの、生への執着を。生無きモノの、生への葛藤を。死ぬことを許されぬモノの痛みを。
 知らないことは罪なんかじゃない。だが、知ろうとしないことは罪だ。だから、俺は見据えることにした。生命の行き着く先を。この身を以って、愛すべき伴侶と共に――。


全ての想いが辿り着く場所
第六章 飴色の幸せ
                             制作者 美綾  



 西暦二〇三五年四月十一日水曜日。
 朝ってやつは戦場だ。可愛い我が子に食事を摂らせ、学校に送り出す。それだけのことと言ってしまえば、それだけのことなのだが、こいつが一筋縄では行かない。特にうちの場合、半端ではなく寝覚めが悪いのが混じっているので、最前線の過激さと言っても差し支えないだろう。身を張って戦いに臨まなくてはいけない。
 と言っても、まずは様子見からだ。いきなり司令が死んでしまうような部隊は、長続きしない。故に俺は斥候を出すことにした。
「よし、ホクト。沙羅を起こしてこい!」
「お父さん。ぼくを捨て石にしようとしてない?」
「はっはっは。何を言う、愛しきマイサンよ。何処の世に血の繋がった息子を犠牲にしようなどと思う親が居るものか」
 厳密に表現するのであれば、斬り込み隊長の任を与えたといったところか。だが、語弊を招く物言いは、規律と士気に影響する。俺は涙を飲んで、その言葉も飲み込んだ。
「――今、ほんの一瞬、目逸らしたでしょ?」
 ちぃ! 何て洞察力だ。そう言えばホクトの奴、学校では演劇部に所属してるとか言っていた。この一年で色々成長しやがったな。
「分かった、妥協しよう。俺も一緒に行く。それでいいな?」
「最初から、そう言おうよ」
 考えてみれば、ここ数日、良く似た会話を繰り返しているような気もする。いかんいかん。いくらつぐみが入院して、朝の相手が、事実上ホクトしか居ないと言っても、マンネリはいかんぞ、マンネリは。
 そんなことを思いつつ、沙羅が眠る部屋の前に立ち尽くす。沙羅とホクトは同室だが、ホクトの起床時間は正確だ。そのため、ホクトの布団は既に片付けられ、中で寝ているのは沙羅だけだ。現状、沙羅は深緑色のパジャマを身に着け、鮪型抱き枕に両手両足を回している。トレードマークであるツインテールは降ろしてあるため、雰囲気は大分違うが、これはこれで味わい深いものがある。一方、ツクリモノの鮪が、沙羅の強烈な締め上げによって、苦悶の表情を見せているような気もするが、敢えてそこに触れるのは止めておくことにした。
 男として喜ばしい状況などと安易な感想は抱くなよ。俺とホクトは、この攻撃で、肋骨数本にヒビを入れたことがあるんだからな。
「さて、倉成二等兵。この場合、君ならどうするかね?」
「そうだね。二等兵って言うのは良く分からないけど、とりあえず匂いを使うかな。沙羅の好物を使って、遠距離から起こせる手段を模索してみる。近付くのはやっぱり危険だからね」
「流石だな。伊達に六十八回も闇雲に近付いて、肘やら首やらの関節を極められてはいないな」
 それだけ食らったのであれば、その前に学習しろという気もするが、俺も累計五十一回同じ轍を踏んだ手前、そう強気なことは言えない。
 バカと罵るのは簡単だ。しかし、この寝顔を見て色々と邪推をしない奴は男として、もはや終わりに近い。と言うより、反則だ。この、神さえも屠れそうな至高の寝顔は。
 親バカ&シスコンだな、という突っ込みは、敢えて見ざる言わざる聞かざるの境地で受け流させてもらう。
「と言うわけで、今回は最初っから用意しておいたぞ。沙羅の大好物、ちくわだ」
「それってこんな距離から匂いするの?」
 たしかに、ここから沙羅までの距離はざっと五メートルといったところ。鰻の蒲焼きや、焼き肉じゃあるまいし、眠りに就いている人間が知覚、意識できるものでは――。
「……みにゃ」
 まるで小猫のような声を上げ、沙羅が目を覚ました。と言っても、開いたのは片目だけ。もう一方は薄目で、開いている方も焦点が合っているのだろうか。
 見えているのか、いないのか。沙羅は俺の方に向かってよろよろと歩み寄ってきた。
「中々、古典的だな」
「そんな呑気なことで良いの?」
「ちょうど良い。このままリビングまで連れてくぞ」
 猫を飼ったことがある人なら分かると思うのだが、あいつらは紐なり、猫じゃらしなりが怪しく動いているのを見ると、飛びついてくる。それを応用すると、あいつらが飽きるまで、どこまででも誘導することが可能だ。
 今の沙羅はまさしくその状態で、俺の右手に握られたちくわ目掛けて、のそのそと歩を進めている。決定的に違うのは、沙羅の歩みが、どこぞの映画で見た、ゾンビかミイラのように摺り足のため、かなり凄みがあるという点だ。
「俺、昔、こんなゲームしたことあるぞ。たしか、何かの実験が失敗して、人外に成り果てて襲ってくるのを、銃で蹴散らすってやつ」
「奇遇だね。ぼくもそれ、やったことあるよ。何年か前、復刻版が出たんだ」
 父子の微笑ましい会話はさて置き。
 俺は、沙羅を何とか椅子まで誘引することに成功した。ここまで来れば、勝利したも同然だ。後は、眼前に差し出された食事を、まるで自動書記の如く平らげてくれる。
 ベーコンエッグの横に添えられたちくわが不自然極まりないが、この際、目を瞑ってくれると有り難い。
「ふう。これで朝の仕事の七割は終わったな」
「まだ着替えが残ってるよ」
「その点も抜かりは無い」
 以前、寝惚けたままの沙羅を部屋に放り込んだところ、十分経っても出てくる気配が無かったことがある。寝直したのかと思い、覗いてみると、上半身をはだけさせたまま、動きを停止していた。
 しかし、女性の防衛本能を甘く見ては行けない。八割方夢の世界に迷い込んでいたはずなのに、手近にあるものを投げ付けてきたのだ。鮪型抱き枕なんぞの内は可愛いもので、刃の出たカッターや、棒手裏剣が飛んできた時には、思わず感心してしまったものだ。
 しかし沙羅の奴、しばらく見ないうちに色々と成長していたな――。
 その数分後、つぐみにとんでもない目に遭わされたのは良い思い出にしておくとして。
「ここに、沙羅の制服がある」
「まるでテレビショッピングみたいに、さも当然のように言うのはどうかと思うけど」
「テレビでは売れんな〜。言うなれば、公開犯罪だからな」
「それはいいから」
 ノリの悪い奴である。俺の血を継いでいる以上、死地に於いてもボケ倒す気質の持ち主であるはずだが、未だ覚醒しきっていない様だ。暇を見て鍛え直さなくてはいかんな。
「俺らが着替えさせるという案は当然のことながら却下だ。男として、やってみたいのは山々だが、倫理面、教育面、多方向において問題が山積しているからな」
「言うまでもないことだね」
「そこで本来であれば、つぐみの出番なのだが、今、ここには居ない。とするとどうすれば良い?」
「別の女性に頼む、かな?」
「その通り」
 単純明解にして、究極の回答である。
「でも、現実的じゃないでしょ? 近所の人に頼むにしても、今後の付き合いを考えれば、あまり迷惑を掛けるっていうのもまずいし」
「ふふふ、ホクトよ。まだまだ若いな」
「実年齢は四つしか違わないけどね」
 口だけは達者な奴だ。
「抜かりは無いと言ったであろう。ちゃんと手は打ってある」
 途端、呼び鈴が鳴った。良いタイミングだ。まるで、事前に打ち合わせを欠かさないバラエティ番組のようだな。
「ああ、悪いな。朝早くから呼び付けたりなんかして」
「いえいえ。私、倉成先輩のためでしたら、飛脚で早馬でメッセンジャーの如く飛んできますから」
「……」
 やってきたのは、俺の肩ほどまでしか無い小柄な少女だ。その姿を見た途端、ホクトが良い感じで、凍り付きやがった。人生経験の少ない奴は、予想外の事態に対応しきれないという、良い見本だな。
「改めて紹介するまでも無いが、お前らの後輩、笹山七草(ささやまなぐさ)君だ」
「倉成先輩、沙羅先輩、おっはようございま〜す」
「……うん。おはよう」
 まだ夢から覚めやらぬのか、ホクトの表情は、ぎこちないままだ。
「まあ、お前にしてみれば青天の霹靂もいいところだろう。何故、俺と彼女が知り合いであるかと言うとだな――」
「この前、私、学生証を落としちゃったんです。それを拾ってくれたのが倉成さんで――物凄い偶然ですけど、運命かも知れません」
「七草ちゃん、必然論者じゃなかった?」
「乙女の心は、御都合主義なんです」
 ノリが良くて、ついつい話し込んでしまう魅力が彼女にはある。こんな子が娘っていうのも悪くなかったかも知れないな。
「ところで倉成さん。お父さんって呼んでも良いですか?」
「ははは。この年で四児の父は勘弁かもな」
 唯、時たま、理解に苦しむ発言をするのは御愛敬だろう。
「では、沙羅先輩を着替えさせてきますね。お約束で古典的でアナクロですけど、覗いたりなんかしないで下さいよ」
「心配すんな。俺らだって、長生きはしたい」
 放っておいても、簡単には死なないのだが、それはそれで置いておこう。
「中々良い娘じゃないか」
「一応言っておくけど、先輩後輩以上のなにものでもないよ。ぼくだって、それなりに長生きはしたいし」
「そういや、秋香菜とはどうなってんだ?」
「どうって、それは――」
 視線を逸らし、顔を赤らめた。
 うむうむ、初々しい奴だ。俺にその趣味は無いが、その手の世界に紛れ込んだら、きっとかなりの人気を得ることだろう。本人が嬉しいかどうかはさておいて。
「完成です!」
 部屋から出てきた沙羅は、浅川高校の制服である、灰色のブレザーにスカート、白のブラウスに青の棒ネクタイを身に付けていた。両のお下げを他人に結わえられて尚、目がトロけるようにして焦点が合わないのは、凄いと言うか何と言うか。
「うー。まだ眠たいでござる〜。食欲も無いでござるよ〜」
 どうやら、先ほど朝食を摂ったことは、記憶していないらしい。
「まだ時間あるな。笹山。少し話でもしてくか? 礼も兼ねて、コーヒーくらい出すぞ」
「良いんですか? 私、遠慮しませんよ」
「遠慮するガキなんてロクなもんじゃない」
 冗談半分、本音半分で返答した。
「しかし、倉成さんって本当にお若いですよね。お二人の父親だなんて、最初は信じられませんでしたよ」
「実を言うと俺もだ。知り合いにDNA鑑定書を突き付けられて、それでも尚、数ヶ月は抵抗してたからな」
「はは。その冗談、面白いですね」
「だろ?」
 この際、笑い話にでもしなければ、脳内経路に一つの決着を付けることなんて出来やしないのだ。
「ほら、ホクト。さっきから、なに黙ってやがんだ。本来なら取持ち役はお前がすべきなんだぞ」
「う、うん。分かってるんだけど、ちょっと不思議で――」
「不思議って、何がだよ?」
 いきなり妙な単語を口にされ、鸚鵡返しに問い返した。
「何て言うのか、お父さんは家で会う人で、七草ちゃんは学校で会う人だから、その二人が一緒に居て、楽しく喋ってるっていうのが、新鮮な感じがするんだよ」
「やっぱり子供だな、お前は」
 少し呆れ、嘲りにも似た声を上げてしまった。
「だから四つしか違わないってさっきも――」
「四つ、ですか?」
「ああ〜〜、七草ちゃん。何でも無いから」
「はぁ」
 あまりに分かり易い墓穴を掘るホクトを無視して、俺は喋る順序を纏めるため、思考を巡らせた。
「あのな。公私の別を付けるって観点で言えば、お前の言ってることにも一理ある。どこでも開けっ広げの自分自身でいたんじゃ、周りの奴は疲れるし、迷惑を掛ける場合もあるだろう。だけど、お前の場合、それは唯単に世界を複数作ってるだけなんだ」
「世界を複数?」
「ああ。俺に対するホクト。沙羅に対するホクト。つぐみに対するホクト。笹山に対するホクト。それぞれに、それぞれの自分と世界があるから違和を覚えるんだ」
「ちょ、ちょっと話が難しいんだけど――」
 頭の回転の悪い奴だ。こんなの、空の多次元論に比べればどうってことないだろ。
「つまり、倉成先輩は他人と接する時、少なからず演技をして自分を作っていると言いたいんですよね?」
「まあ、概ねそんなとこだな。そりゃ、人間、誰だってそれなりに演技はするだろうが、その演技と演技の間に壁を作ってるってことだよ」
 対する相手が変わる度、壁を越えて世界をも変える。そんな状態で、別の世界の人間が出会っているのを目の当たりにすれば、それこそ別世界のことに思えてしまうだろう。
「ま、世の中、そーいう奴も多いからな。でも、俺個人としては、自分をしっかり持ってりゃ対応できるもんだと思うんだがな。俺は俺。ホクトはホクトだ」
 何とはなしに吐いた台詞だった。意図も作意も、何も無く。
 だが、その言葉を口にした途端、子供達の目付きが変わったのだ。笹山は、一昔前の少女漫画の如く目を輝かせ、ホクトは呆然とし、沙羅は――相変わらず寝惚けてるが。
 とにかく、俺を見る目が変わったと表現しても良いだろう。
「凄いです、倉成さん! そんなに深い台詞をさらりと口に出来るなんて!」
「お父さんが、そんな風にちゃんとモノを考えてるなんて知らなかったよ」
 さりげなくひどいことを言われたような気もする。だが、持ち上げられるのも、悪くはない。
「ふはは。大人の余裕というやつだな」
 ここで無意味に歯を煌かせてみたいところだが、現実問題として電灯の位置と反射角の都合で、実行不可能なのがもどかしい。
「ん。そろそろ時間だな。それじゃお勤めと参りますか」
「あ、そうですね。コーヒー、ご馳走様でした」
 子供のくせに、こましゃくれた挨拶をする。いや、恐らく元々そういう気質なのだろう。他者に対し、気を遣っているわけでは無いのだが、気配りを忘れない。女性特有と言ったら、女権論者に怒られるかな。
「沙羅とホクトのこと、宜しく頼むな」
「はい。任せて下さい!」
 元気一杯に返答する。やっぱり、かなり良い娘だ。二人共、友人運は悪くないらしい。
「みゃー。学校でござるかー。拙者、学校にもフレックス制の導入を提言するでござるー」
「ほら、いつまでも寝てんな。後輩が折角、手伝いに来てくれたんだぞ」
「ふに? ナナではござらんかー。いつ来たのでござるかー?」
 もしかすると、とんでもない大物なのかもしれない。
「ねえ、お父さん。出掛けにこんなこと言うのもあれなんだけど――」
「んあ?」
 靴べらで踵を整えつつ、スニーカーの紐を結び直しているホクトを見下ろした。
「お父さん、今、楽しい?」
「そりゃ、幸せかどうかってことか?」
「うん。それに近いかな」
 不意に、妙なことを聞いてくるな。だがまあ、そういうのも面白いと言えば、面白い。
「難しい質問だな。幸せなんて、定義も何も無いし、幻想だって説もあるらしいからな」
「そ、そうなの?」
「現実なんて所詮、脳に対する刺激が産み出す虚構だろ? だからそんなもんに良い状態も悪い状態も無いって考え方だな」
 唯物論として、極端過ぎるきらいもあるけどな。多分、恋なんかしたことの無い奴の考え方だろう。
「でもまあ、悪かぁないぞ。今までよりは、な」
「??」
 顔に疑問符を浮かべ、呆けたような表情を作る。そんな我が子を、少し愛しく思うと、俺は笑みを浮かべつつ、言葉を続けた。
「今日は今日出来る精一杯を尽くして、明日が今日より、ほんのちょっとでも良い日なら――人生はきっと、素晴らしいものになるってことだよ」
 何処かで聞いた、安っぽい詩のような台詞。だが、俺は結構、気に入っていたりする。結局のところ、それしか出来ることなんか無いのだから。
「だから、今、幸せかどうかなんて考える必要は無いと思う。まだまだ若いんだから、突っ走るだけ突っ走っちまいな」
「うん。分かった」
 言って踵を返すと、そのまま外に出ようとした。
「こらホクト! 挨拶はどうした、挨拶は」
「あ、はい。行ってきま〜す」
「お邪魔しました〜」
 重なり合う、異質だが、何処か似た二人の声。
 あいつらが付き合い出したら、それはそれで面白そうだななどと不謹慎なことを思いつつ、俺はぼんやりとさっきの言葉を思い出していた。
「今日を精一杯生きて、明日をもっと良い日にする、か」
 ま、そういうのも悪くないだろ。幸せの意味について考えるのに、俺はあまりに若すぎる――つもりだ。
 自嘲気味に苦笑すると、扉を開けた。
 うん。いい天気だ。お天道様も気持ちが良い。
 さて、それじゃ今日も一日、頑張るとしますか。

                                    つづく




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