心とは、何のために存在するのでしょう。 科学的、生物学的見地から説明することは出来ません。本来、生物が優先すべき行動は種の保存と個体の維持。即ち、子を成すことと、自分が生きることを第一事項とすべきであり、心はそのための補助に過ぎません。 恐怖は死の危険を知らせ、恋愛感情は生殖を促すためであり、幸福とは満たされている状態であることを教えてくれるだけのもののはずです。 ですが、人は心を満たすために生き続けます。ある者は恋を求め、ある者は贅を求め、ある者は野心のために邁進します。これは、人、特有のものなのでしょうか。 或いは、神が生物に与えた道標なのかも知れません。生きることを只の義務と化してしまわないために加えた、ちょっとした手心。だとすると、あの方が仰られた、人は恋をするために生きるという言葉は、とても合理的なものの様に思えます。 では、心とは何なのでしょうか。無数に絡み合う記憶と記憶の連結。現代科学においては、それが真実だとされています。とすると、私のそれも心なのでしょうか。 テラバイト単位の膨大な情報量。そしてそれらを繋ぐネットワークは一世代前の科学技術では到底、為し得ないような緻密さです。違いと言えば、信号を伝達する媒体が、有機物であるか否か。それだけです。 心とは、それだけの存在に過ぎないのでしょうか。 答は――ありません。 |
全ての想いが辿り着く場所 第七章 科学の巫女 制作者 美綾 |
西暦二〇三五年。四月十三日金曜日。 あれから、どれほどの時が流れたのでしょうか。私にとってそれは、刹那とも劫ともとれる程、曖昧で――唯、水面に漂う木の葉の様に日常を送っていました。 朝、日の出とほぼ同じ時間に目を覚まし、鳩鳴館女子大、ないしは間借りしている事務所に詰め、淡々と仕事をこなします。 違う点と言えば、少し、呆けてしまう時間があることでしょうか。何を考える訳でもなく、惰性で動く訳でもなく、何もしない空白の時間が存在するのです。 一昔前の私であれば、何らかの故障として処理し、原因を究明していたことでしょう。ですが、今は分かります。これは、私が心を持つ証なのだと。電子制御に依って動かされているのでは無く、倉成さんを心から――。 「――空」 ――はい? 「は、はい。何でしょうか」 不意に、自分の名を呼ばれているのに気付き、頓狂な声を返してしまいました。 「いや、何か、ぼ〜っとしてたから、大丈夫なのかなって。具合、悪いんだったら、帰っても良いわよ。後は私と涼権で、何とか処理できるし」 「い、いえ、大丈夫です。後少しですから、一気に片付けてしまいます」 「そう? 無理しない方が良いわよ。あんた、未だに肉体が無い頃の癖が抜けなくて、休み無しで働こうとするんだから」 たしかにそれは私の悪癖です。これも、三つ子の魂百までの諺に当て嵌めていいものでしょうか。 「本当に大丈夫です。お姉ちゃん」 「――分かったわよ。手伝ってあげるから、二人でとっとと終わらせましょう」 「はい」 私の産みの親は、ライプリヒ製薬のプロジェクトチーム。その中で、人格形成部分は田中優美清春香奈菜の父、田中陽一さんの手腕に依るものが大きく、私のお父さんと言っても差し支えない方です。 即ち、田中さんと私は姉妹の様なもので――何時からか、私は彼女のことをお姉ちゃんと呼ぶようになっていました。 私の肉体年齢は二十四。そしてお姉ちゃんは二十一なのにも関わらず、です。しかし、違和はありませんでした。これは私が子供っぽいことの証明なのかも知れませんね。 「空〜。何ニヤついてんの〜。気持ち悪いわよ」 「え、あ、はい?」 再び、頓狂な声を上げてしまいました。我がことながら、少し情けないです。 「にしても、あんたが笑ってるなんて、結構久々な気もするけど――何かあった訳?」 「――いえ。何もありません」 ある意味において、最も不自然な、完全なる否定。沈黙が針のように鋭く突き刺さり――私は、硬直したまま、何もすることが出来ませんでした。 「そ。なら良いんだけど。じゃ、お仕事、お仕事」 僅かな間の後、優しさを見せてくれる、お姉ちゃん。やはり、私は果報物なのかも知れません。ふと、そんなことを思いました。 「はい、お仕事終了。六時半っていうのは、金曜の夜としては中々見事な時間調整ってものよね」 夕闇に染まりかけてゆく部屋の中で、意気揚々と自分の机を片付けていきます。その様はまるで新しい玩具を手に入れた子犬にも似ていて――私は小さく微笑んでしまいました。 「ね、空。私はこれから飲みに行くけど、付いてこない? あとは涼権に声掛けるくらいだけど」 「お付き合い致します」 「そうそう。たまには三姉弟で、のんびりしないとね」 言って、ハンドバッグから携帯電話を取り出すと、二度三度、指を押し当て、耳元へ添えました。お姉ちゃんが使っているのは、銀色の光沢を持つ、シンプルなデザインのものです。一時期流行った、大量の画像、動画処理や高速のネット配信能力を持つようなものではなく、通話機能を特化した電話そのものです。五十一時間もの連続通話が可能という代物なのですが、誰がそれだけ喋り続けるかという疑問は残ってしまいます。 「うん、そうそう。これから空と飲みに行くんだけど、あんたも来なさい。はぁ? うちの生徒は来ないわよ。あんたと一緒に飲ますなんて、ケダモノの檻に野ウサギを入れるみたいなもの――って言いたいとこだけど、あんた割かし人気あるからね〜。 実は産まれる時代、間違えたでしょ。え? 十歳くらいの差なら全然、守備範囲内? あのね。うちの生徒に手を出したら、問答無用で大手各紙とメディアにタレ込むからね。冗談って、聞こえる訳ないでしょ。女日照りが女子大の助手やってるんだから。 ま、いいわ。それじゃ駅前に七時ね。一分遅れる度、私と空にドリンク一杯ってことで」 一方的に話を終えると、回線を切ってしまいます。分かり合っているのか、マイペースなのか。恐らくは、両方なのだと思いますが。 「そう言えば、桑古木さん、今日は県外に出向いているのでは無かったのですか?」 今の今まで忘れていましたが、予定ではそうなっているはずです。 となると、三十分後に駅前というのは厳しいのですが――。 「大丈夫、大丈夫。あいつなら何とかするわよ。って言うか、大抵の任務は遂行できる様、色々と仕込んであるわ」 たしかに、お姉ちゃんと桑古木さんは、キャリアの身体能力を生かし、並の国家の諜報部員や工作員程度なら、なんら引けを取らない能力を保有しています。 ですが、それをこの平和な時代、それも飲み会の集合に遅れないために使用するというのは如何なものでしょうか。 「何なら賭ける? 涼権が時間までにやってくるかどうか」 「――分かりました。私は来ない方に賭けます」 「了解。じゃあ、負けた方は飲みの場で言うことを一つ聞くってことで」 嬉々としてハンドバッグを肩に掛けると、退室します。私はそんなお姉ちゃんの後を追い、部屋の電気を消すと、静かに扉を閉めました。 「ぜえ……ぜえ……ど、どうだ。電波時計で十九時、三十四秒前。何の文句もねえだろ」 息せき切りながら、左手首に嵌められた時計を指し示します。 キャリアである桑古木さんが、これほど息を乱すとは、一体、どのような手段を用いてここまで来たのでしょう。 「私の勝ちね、空。男って奴は、女に良いところを見せるためだけに生きてるみたいなもんだってことを計算してなかったわね」 「はぁ」 そういうものなのでしょうか。 「ちょっと待て!! お前、空とも賭けてやがったのか!? しかも俺のとは逆って、どっちみち得する算段じゃねえか! つうか、こっちは俺の勝ちなんだろうな!?」 「何、言ってるの? 男が女を待たせるなんて、そんな情けないこと出来ないわよね〜。だから、これは賭けと言うより、只の罰則よ」 「……月の無い夜道は気を付けろよ」 「経費でSP雇うの、検討しようかしら」 あまりにバカバカしい台詞の応酬。そんな、分かり合っている二人の姿に、私は思わず苦笑してしまいました。 「それじゃ、行くわよ。もちろん、涼権が奢ってくれるのよね?」 「――絶対、偉くなってやる」 再び、苦笑してしまいました。 「う〜ん。ビールが美味しい。高校の時はこんな苦いものの何が良いのか分かんなかったけど、気苦労が増えてきて、ようやく真の価値が見えてきたわ」 「お嬢様学校じゃなかったのか? 鳩鳴館女子高ってのは――」 「それは男の作った幻想。結構、好き放題やってるものよ、みんなね」 「まあ、こんなのが大学部の教授やってるくらいだもんな」 たしかに――お姉ちゃんが最近、新入生を飲み会に連れて行き、急性アルコール中毒寸前まで飲ませ、それを揉み消すために奔走した事件は、しばらく生々しい思い出として、心に刻まれていそうです。 「あれはあの娘が悪いのよ。『え〜。私、お酒なんて飲んだこと無いです〜』なんて、明らかにぶりっ子っぽい仕草してれば、演技だって思うでしょうが」 「それは偏った認識だ」 桑古木さんに同意です。 「む〜。二人して私をおイジめになられるとは、仲が宜しくて、本当に結構ですわね」 言って、肴に頼んだ冷奴を箸で掬い取り、口へと運びました。 ここは、場末と呼んでも差し支えない庶民的な居酒屋。店内は週末に向け、意気が上がる人々でごった返しています。溢れるものは喧燥と種々の熱気。目の前に並べられるものは、安価な材料を用いた、お酒やご飯に合う、若干味付けの濃い料理。 私達には、似合いの場所なのかも知れません。 「分かったわ。涼権、あんた白い御飯の刑。丼に盛られた御飯以外、口にしちゃダメ」 「意味、分かんねえよ」 いつも通りの会話でした。この十八年、変わることの無かった、普段通りの掛け合い。 ――あれ? 「今、涼権、って」 あまりに自然な流れだったため気付きませんでした。お姉ちゃんは、同性は名、そして異性に対しては姓で呼ぶ癖があります。例外として、かなり年下の少年に対して、名に君付けをする程度で、桑古木さんはその例外には当て嵌まらないはずです。 「何、今頃気付いた訳?」 「今頃?」 慌てて、ここ数日の会話を検索してみました。たしかに、今週に入って以来、お姉ちゃんは桑古木さんのことを、涼権、と呼んでいます。 でも、何故――。 「まあ、何て言うのか、気分? そろそろ桑古木なんて珍しい名前で呼ぶのも飽きてきたし、もう一つの珍名で呼んであげるのも面白いかな、って」 「ほう。するってえと、俺も常に本名で呼んでやろうか、優美清春香菜教授?」 「噛まない自信があるなら、いくらでもどうぞ」 役者は、お姉ちゃんの方が一枚上のようです。 「でしたら、私も、涼権さん、とお呼びして宜しいですか?」 「は?」 「いえ。何となく仲間外れが嫌でしたので」 口をついて出たのは、とても子供っぽい理由でした。ですが、そんな言葉を臆面も無く出せるこの場所と自分を、私は気に入っていました。 「空〜。何なら、子供っぽい声で『涼ちゃん』って、言ってあげてもいいんじゃない?」 「それは遠慮させていただきます」 「即答かよ!?」 「その役はお姉ちゃんにお譲りします」 「私も遠慮するわ」 「お前もかい!」 中々、質の高い漫才でした。 「良かった。空、ちゃんと笑えてる」 ――え? 「お姉ちゃん?」 不意に放たれた言葉に対する私の反応はとても陳腐で――少し、呆けたような表情をしていたのかも知れません。 「空――生きてれば、色んなことがあるわ。楽しいことも、切ないことも、辛いことも」 何故だか、お姉ちゃんの瞳は少し、遠くを見ているように思えました。 「でもね、そんな時、帰って来れる場所があるって、とても幸せなことだって忘れちゃダメよ。私も頑張るから、ね」 言葉の端々に、温かさを感じました。この世に産まれ出た時より、一つの場所しか知らなかった私が得た、家族という名の温もり。 血の関わりは、人と人との関わりの一つに過ぎないのだと思い知らされました。 「そうだ。今度、ユウやココも連れてきましょうよ。もうちょっとだけ良いとこで、パ〜ッとさ」 「コラコラ。二人共、未成年だぞ」 「気にしない、気にしない。あんたなんて、戸籍、捏造品なのよ」 「またしても意味、分かんねえし」 「そうそう。空、さっきの賭け、内容決めたわ。今日一杯、私の味方をしなさい。姉二人で、弟を玩具にしましょう」 「極悪人か、あんたは」 「面白そうなので、乗らせて頂きます」 「茜ヶ崎。お前もか!?」 笑い合えるということは、とても幸せなことです。何故なら、人は一人で笑い合うことは出来ないのですから。 そして人は、価値観が違い、持つ世界が違い、生きてきた道筋が違っても、同じ時を共有しようとします。不完全な存在であるが故に、補完を求めて触れ合い続ける人という生き物。心とは、そのための架け橋なのかも知れません。 今尚、端から見れば程度の低い、どうでもいいような会話を続ける姉と弟。 私は、そんな二人を微笑ましく思うと、小さく口の端を歪めました。 つづく |
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