血は何故赤い? ――命の意味を、見失わないため。 闇は何故暗い? ――夜明けの時を、至福のものとするため。 欲は何故深い? ――生の道標として、最も安易なものだから。 心は何故脆い? ――死に対し、臆病になるため。 力は何故儚い? ――無限なるモノは、存在し得ないから。 知は何故鋭い? ――唯一無二の、牙であるから。 風は何故優しい? ――心を、空へと還してくれるから。 月は何故切ない? ――等価なるモノを、持たないため。 海は何故青い? ――全てを包み込む、母であるから。 命は何故眩い? ――それが、有限のモノであるから。 |
全ての想いが辿り着く場所 第九章 宵闇の花嫁 制作者 美綾 |
西暦二〇三五年四月二十七日金曜日。 煙草は、嫌いだ。服にこびり付く独特の臭気も、咽を燻す感覚も、それがもたらす精神の変化も。全てが、今尚嫌いだ。 にも関わらず、私はそれを求めることがある。人間の心と肉体は、ここまで合致しないものなのか。或いは、人に非ざるモノと化した私だからこそなのか。 どちらでも良い。とにかく私は今、それを口にしている。後に残るのは、ささやかな自己嫌悪と、シャワーと着替えを望む自分だけなのに、ね。 せめて自宅であれば良いとも思うのだが、そうすると今度はユウがうるさい。となると最も良い選択は、着替えを用意した上で、構内のシャワーを借りることになるんだけど、衝動的な行動に、そこまで対応しておくのも、何だか悔しい。 結局のところ、放課まで我慢して過ごすのが最近の定例と化している。自堕落にも近いけど、楽は楽だ。どの道、死には直結しないし、人生の岐路でもないだろう。そんな自己弁護で落ち着かせることにしていた。第三視点研究者にはあるまじき考えだけどね。 「ふう――」 擬音にも似た呟きと共に白煙を吐き出すと、室内を見回した。鳩鳴館女子大学に宛がわせた教授室。落ち着いた自分を演出するため、茶褐色を基調とし、やや古風な家財を揃えている。ピンクやオレンジを前面に押し出して、まるでローティーンの様にファンシーな構成にしてみるのも悪くは無いんだけど、只でさえ色々と有名なので、止めておいている。沙羅やココが卒業した頃にまだ在籍してたら、やってみようかとも思うけど。 そんなことを思いつつ、再び、誰も居ない部屋に視線を這わせた。 静かだった。一人きりな上、放課から大分時間が経っているのだ。辺りは薄闇に覆われ始めており、何時しか手元のスタンドだけでは書類が読みづらくなってきていた。 「やれやれ、ね」 灰皿に煙草を圧し付け、火を消すと、室内灯を点すため立ち上がった。重力に逆らい身を上昇させる行為は、上半身の血液を不足させるけど、さほど不快でもなかった。 そんなに疲れてるわけでも無いみたいねと、家庭医学程度の知識で自分を安心させる。いずれにせよ、簡単には死ねないのだ。そう、真面目に考える必要も無いだろう。 「え――」 途端、視界が歪んだ。世界が、目覚めの時にも似た、曖昧なものへと変化する。 身体が大きく揺らぎ、机へ強かに打ち付けてしまうが、手を当て、何とか支えた。だが、その時、膝に全身の体重を受け止めるだけの力は残されておらず――私はその場に突っ伏すように倒れると、そのまま意識を失った。 仮に、何でも願いを叶えてくれる妖精がいたとする。それは御伽噺に出てくる悪魔や魔神の様に、言葉尻を取ったりはせず、本人が真に望むモノをそのままの形で具現化してくれる。だけどそれはたった一つ、具体的なものだけ。皆を幸せにしてほしい、なんてものは当然の如く却下。願いを二つ叶えて欲しいなんてのは論外。 そんなものが目の前に居たら、私は何を願うのだろう。 ユウの幸せ? 空や涼権の幸せ? それとも――。 ううん。私は多分、こう言うんでしょうね。 妖精さん、妖精さん。私はね――。 意識が覚醒した。まるで一速から六速へとギアチェンジさせたかの様な急激な変化は私の身体を戸惑わせ、興奮状態の証である動悸と小刻みな呼吸がそれを物語ってた。 視界に収まっているのは、白い天井と、真っ白な蛍光灯。どうでも良いけど、病院って奴はどうしてこうも無個性なのかしら。清潔感を出すためというのは分かるんだけど、それでも白一色というのは面白みに欠ける。女の子向けに花柄模様で壁を埋め尽くしてみたり、或いは木目調っていうのも日本人的で良いかもしれないわね。現実問題として、汚れが目立たないというのは、色々な意味で拙いんだけど。 そんな、取り留めの無い考えを巡らせつつ、首だけを動かして周囲を見渡す。窓の外が暗いってことは、そんなに時間は経ってないのかしら。いや、一眠りのつもりが十七年だった男の前例もあるし、楽観は出来ないわね。意識の明瞭さからして、数日以上眠っていたとも思えないけど、自分の身体にそんな常識が通用しないのは百も承知だ。とりあえず、現状を把握しないと――。 顔に手を当てつつ、もう一方の手を使って、ゆっくりと身を起こす。そこで気付いたのだが、上下とも、何やら白色の緩やかな服へと着替えさせられている。たしかベージュ色のスーツを着ていたはずなんだけど。まあ、寝かしつけるのには不適当だしね。看護師のほとんどは女性だから、気にすることでもないわね。 「よう。目、覚めたのか?」 聞き覚えのある声だった。男性としては軽めだが、よく通る声。弟のそれに似ているが、間違えるはずは無い。あいつの声だ。 私の心は一瞬の内に高揚してしまい、先程以上に鼓動が早くなるのを感じていた。 「倉成――」 想定外ではあった。論理的に考えて、今、ここに倉成がいるのは不自然だ。連絡が行くとすれば、先ず家族であるユウや空が先のはずであって、倉成は友人に過ぎないわけで。 と言うか、まさか、私を寝巻きに替えたのは倉成なんてオチじゃないでしょうね。 ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。いくら倉成が突っ込みも出来る天然ボケと言ったって、そんな分別の無いことをするわけが――。 極度の興奮による思考の暴走で、考えが纏まらなかった。 ああ、もう。私は何がしたいのよ。 「ん? 何、間の抜けた顔してんだよ」 「私の顔なんてどうでもいいでしょ。何で倉成がここに居るのよ?」 「聞かれたからにはお答えしよう。隣がつぐみの部屋だ」 「……」 物凄く分かりやすい理由だったわね。 「そっか。で、病状と言うか私の状態はどんな感じな訳?」 「又聞きで詳しいことは分からんのだが、大したこと無いらしいぞ。ちょっとした過労だそうだ」 「過労、ねぇ」 色々と疑問は残るが、何の資料も無いこの状況で思案しても、結論は出ようはずも無い。 あとでカルテでも見せてもらおうかしら。ドイツ語は得意分野だしね。 「どちらかって言うと、気が抜けたのが原因な気もするけどね。ほら、今月の頭に学会があったでしょ? あれが終わってから、特に何かしてたって訳じゃないから。講義と事務作業の繰り返しって感じね」 私には、泳ぎ続けなければ死んでしまう回遊魚みたいなところがある。単調な生活が肌に合わないわけではないのだが、それにしても意識的に変化をつけないと、自堕落になりかねない。 完全に、定年退職後に何の趣味も無く、無為に時間を過ごす人と化してるけど、そこには触れないでもらえると嬉しいわ。 「ま、明日からゴールデンウィークだしな。とりあえず休んで、元気になったら何かすれば良いんじゃないか?」 「そうね。どうせ予定も無いし、テーマパークにでも行ってみようかしら。倉成、付き合ってくれる? 今なら、空と涼権を付けるわよ」 「海洋だけは勘弁な」 苦笑してしまった。 「でも、俺は時間があるならつぐみについててやりたいからなぁ。この休みは、ここに通いつめるんだろうな」 「愛妻家なのね」 「当然の責務だろ」 さらりとその言葉を口にされ、やるせなくなる。 そう、よね。私や空がどんなに想おうとも、倉成にはつぐみがいる。考えることを放棄して関係を崩さないで来たけど、気持ちに気付いたからって、何も変えられない。私は今まで通り、二人を見守ることしか出来ないのよ。 『本当にそれで良いの?』 誰かが、囁いた。 良いのよ。私は、また仮面を被る。被り続けていれば、それはいつしか表情に変わってしまうものなんだから。 私はそう自答すると、微笑んだ。突然の破顔に倉成は面食らっていたけど、すぐさま呼応して、笑みを浮かべてくれた。 うん。こんな関係も悪くない。会う度にバカな話をして、時には一緒に遊びに行って、子供達のことで真剣に悩み合いあって――。 そんな関係も、悪くはない。 「おい、優。頭は打ってないよな?」 「どういう意味よ!」 怒った振りをして、枕を投げつけた。体勢が悪いから、あんま速くは無いけど、この至近だ。倉成の鼻先に直撃して、後方へと倒れ掛かった。 「お前なぁ!!」 膝元に落ちた枕を投げ返そうとするが、女に甘い上、とても優しい倉成だ。一応、病人である私を気遣い、一瞬、硬直してしまう。その隙を逃さず、薄手の掛け布団を引っぺがすと、倉成に被せてしまう。 「もごっ!?」 古典的な声を上げ、もがく様にして白布を剥ぎ取ろうとする。だけどその行為は蟻地獄に嵌った様にも似ていて、暴れれば暴れるほど纏わりつき、ついには身動きも取れないまま、その場に転がってしまった。 そしてそのまま、挙動を停止してしまう。 「すいません、田中様。宜しければ、この哀れな子羊に愛の手を」 羽化直前の蚕のような姿のまま懇願してきた。うん。面白かったので良し。 私は床に身を降ろすと、布団の裾に手を掛けた。 「ねえ。テーブルクロスを抜き取る宴会芸みたいに、一気に束縛を解いていい?」 「出来ましたら、もう少し穏やかな方法でお願いします」 残念。飲み会のための練習になればと思ったのに。 愚にもつかないことを考えつつ、複雑な絡み合いを解きに掛かる。 ん〜。しかし、良くもここまで奇怪な巻きつき方をしたわね。流石、天性の芸人は違うわ。自ら笑いを取るだけじゃなくて、笑いの方から寄ってくるんだから。 「ぐが――ぐ、ぐびがじまる」 「え? 優ってば、何て美人なのですって? そんな解りきったこと言われてもね〜」 「何処をどう聞いたら、そうなるんだよ!?」 「女の子の脳内補完をナメないで欲しいわね」 バカな台詞に、バカな応答。やはり、心地悪いことはない。 「はい、何とか頭は出てきたわよ」 「ぷはっ!? はぁ……はぁ。く、空気が旨い。ま、まさか、陸の上で酸欠になるとは思わんかった」 中々、深い台詞を吐いてくれた。 「……」 途端、動きを止めてしまった。今、私の目の前にあるのは、艶やかな黒髪。眼下には長い睫毛に、澄んだ瞳。そして、その先には――。 「お〜い、優。早く続きを頼む」 何かが、聞こえた気がした。だけどそれはまるで対岸の火事の如く遠くに感じられ――私の血流は、自我では制御することが出来ないまま上昇していった。 意識が、朦朧とする。自身が、誰であるのかさえ曖昧になる。それは第三視点を発現させてた時のそれに似ているのか、否か。 「――ん」 次に知覚したのは、唇の柔らかな感触。私は身を屈め、倉成の頭を抱える様にして、口先を押し付けていた。 鼻息が掛かり、しっかりと見据えられている様は、傍から見れば滑稽だろう。だけど私にとっては何物にも代え難い至福の一時で――陶酔しきったまま、その柔らかな海に身を委ねてしまっていた。 「――!」 不意に、理性が覚醒した。 衝動的に倉成を突き飛ばすと、呆然としたまま立ち尽くした。 私は、何をした。 記憶は、生々しいほど鮮明に残っている。だけど、あれは本当に私なの。まるで、私の身体を、別の誰かが操っていた様だった。 あれが、私の本性だとでも言うの。それとも、自覚症状が無い二重人格なんて荒唐無稽な――。 「ゆ、優……?」 呆けた表情のまま、倉成はこちらを見遣っていた。 真摯な双眸に見据えられ、また、顔が上気する。だけど、逆流してきた血液は何故だか循環型冷却水の様に私の精神を落ち着かせ、意識が、明晰になってゆく。 ううん、これは違う。頭が冴えてくると言うよりは、心が澄んでゆく。そうね。倉成から伝染するものは、その芸人根性だけじゃない。彼には、他者の心を解き放つ力がある。だからつぐみも素直になれたんだし、空も人として生きていくことを決めたのだ。 私もきっと、ね。 「ねえ、倉成」 軽やかな声が口をついて出た。今のユウにそっくりな、明るい女の子の声。何時しか、私の口調も、十八年前のそれへと還ってゆくようだった。 「私ね。ずっと言えなかったんだけど、倉成のこと――」 とても、懐かしかった。この喋り方もそうだけど、この言葉も何処かで口にしたような。 そんなこと、ありえるはずないのにね。 「初めて会ったときから、好きだったんだ」 もしも目の前に、何でも願いを叶えてくれる妖精がいたとする。 私はきっと、こんな望みを口にするんだと思う。 妖精さん、妖精さん。私はね。あなたに自由になって欲しいんだ。 その力をね。自分の為だけに使って良いんだよ。 つづく |
Mail Address:miaya017@mail.goo.ne.jp Home Page URL:http://miaya017.fc2web.com/top.htm |
/ TOP / BBS / 感想BBS / |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||