誰もが、自分のことを全て知っているわけではない。
無意識のうちに起こしている行動は、日常の中であまりにも多い。

そして、『本当の自分』とは決まって無意識の領域にあるものだ。

Ever17ぴぐまりおん
                              ニーソ 



第7話 二人に架ける虹



ホクトは死んだ。

肉は削げ落ち黄ばんだ肌越しに骨格が露出し、思考はほとんど停止していた。
上がらないまぶたは、ホクトの目に殺気をみなぎらせていた。
かつてあれほど鮮やかだった瞳も、今では黒い光がギラついている。

優華がいなくなった9日の夜から、ホクトはもう5日も誰もいない夜の林に向かい続けた。

そして、日に日に壊れていった。

ホクトは、時計を憎んだ。

優華の声も、優華の瞳も、長い黒髪も、笑顔も、温もりも――――
すべてを奪っていく時計を。

ホクトの頭からは、あの夜の記憶は確実に薄れ始めていた。

あの日、あの時、あの場所で感じたこと――――

忘れてしまいそうだった。
そして、忘れまいと必死だった。
もし忘れてしまったら、今度こそ自分は全てから見捨てられてしまうような気がした。

今のホクトを生かしていたのは、今は闇に沈み行く遠い記憶だった。
そしてそれすらも、今は消えようとしている。

ホクトは、何かに生かされていた。

あの夜の記憶と直結した得体の知れぬ『何か』が、意識の底から這い出して、死体同然と化したホクトの肢体をあやつり、夜の林に連れ込むのだった。
ホクトの心も体も、奴隷のように酷使されていった。

ホクトは、あらゆる光あるものを憎んだ。

ホクトの意識は闇をさまよい続け、そこに一切の光は存在しなかった。
ホクトは、いつしか闇に包まれることで生き続ける亡霊となっていた。

夜の世界からベッドに戻るたび、抜け殻の身にわずかに残る心で、心の中で、ひたすら泣き続けるのだった。

黒の呪縛が、内側からじわじわと蝕んでいく。
光を食い荒らしていく。

どうすればいい?どうすれば..........

何の救いもないこの孤独な世界で、
夜になるたび駆り出されて、
ベッドに戻るたびに、意識の底で泣き続けて............

何故消えてしまったのか。
何故あの日、彼女は来てくれなかったのか。

あの声を聞きたい。あの笑顔がみたい。

もう一度、彼女を感じていたい――――

その思いは、意識の深奥からせりあがってくるようにして、
ホクトの心を支配していった。

この闇の世界に、また再び彼女が現れぬ限り、

ホクトは、永遠に孤独なままであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

武とつぐみは、もうずっと前から考えていたことの決断を迫られていた。

この数日間、武やつぐみや沙羅が、その急激な変調について何を訊いても、ホクトは答えてはくれなかった。
その様子から、精神的な病みだということはうかがい知ることができた。

病院に連れて行ったほうがいいんじゃないだろうか?

ホクトの、この数日の急激な壊れようは、それだけの覚悟が必要に思えた。

しかし今まで決断できずにいたのは、精神的な病みを心配されたホクトが、そのことで傷ついてしまわないかという懸念だった。

そして今日、8月14日。

もう、そんなことを言っていられるような状況ではなくなった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

絶望と憎悪の塊と化したホクトは、昼の街へと出かけていった。

心は闇を欲し、体は光を欲した。

その決定的な矛盾の中で、ホクトは、深夜と正午に動き、極めて断片的な睡眠を余儀なくされていた。
食事のたびに起きて、寝て、昼にまた起きて、寝て、風呂の時間に起きて、湯船の中で寝て..........

毎日が、その繰り返しだった

街中で、ホクトはあらゆる人に避けられ続けた。

歩いてゆくその姿は、行きかう人々に『クスリでも使ってるのか』と思わせるのに十分で、だれも関わりあおうとはしなかった。

そして、それ以上に、

体のそこから湧き上がってくるような、殺気に満ちた黒い気配が、白の光の只中でその場だけを黒く歪めているのを、だれもまともに見ることができなかった。

歩き始めて、20分ほどたった頃からだろうか。

両足の感覚は失せていた。
思うように動かない。
ホクトは、昼の路上を千鳥足で歩いていた。

突然、両足は完全に脱力し、こんにゃくのように萎えた。
体重を支えきれずに、灼熱のアスファルトの上へ崩れ落ちる。
地をついた両腕にも、すでに感覚が失せているのに気がついた。
たちまち両腕も支えきれなくなり、崩れる。

世界が、回転していく。

あらゆる物理法則に逆らって、ビルが、電柱が、地面そのものが、シーソーのように傾いていく。

五感の連携はすべてそのバランスを失い、昼食べたチャーハンを胃の中で逆流させる。
せりあがってくる不快感に、消化器系統は震え始める。
飲み込めなくなった唾液が、必死に気管を開こうと開け放たれていた口元から、おそろしくゆっくりと流れ落ちていく。

ついに限界に達して、半ば消化されていた炭水化物が、大量の濁流となってホクトの口から吐き出された。
喉は焼け付き、口は残った粘着質の固体やら液体やらに侵されて、その強い酸味に喘いだ。
目に映る色彩は、その全てが渦となって、一切の分け隔てなく混濁していく。
やがて、すべての色は黒に収束していき、

ホクトの意識は、闇に堕ちた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全ての五感を停止させていたホクトは、その意識を失ったあとで、とても、とても深いところに佇んでいた。

この世の色という色が一緒くたに混じり合い、溶け合っている。

ホクトは、その渦の只中にいた。

足元に支えがなく、上も下もわからないまま、
ホクトは漂っていた。

混色の渦は、やがて少しずつ本来の形を取り戻していく。

その映像はひどく滲んで不鮮明だったが、概形だけは推して知ることができた。

そこには、草と、海と、夜空が広がっていた。
風に揺れる草にも、空と海にも境界はなく、瑠璃色の中にただぼんやりと佇んでいる。

そこは、LeMUの浮島を想起させる場所だった。

ホクトには、自分が今どこにいるのかわからなかった。
わかるのは、あの浮島に似てはいても、そことは違う場所だということ。
そして今、自分は確かに、何か懐かしさを感じていることだった。

それはまるでデジャブのように、虚ろな幻影だけが心に影っていて、想い出と呼べるほど確かなものは何一つ現れることはなかった。
ここには以前、確かに来たことがあるという記憶だけがある。
ホクトは、そんな奇妙な感覚に陥っていた。

ここが、この場所こそが、今まで待ち焦がれていた場所なのだと、
心の中で、誰かのそんな声が聞こえるようだった。

滲んでいた景色は、徐々にその形を取り戻し始めた。

紺碧の風の向こう―――――

そこに、男女が肩を並べて座っていた。
誰かはわからない。にもかかわらず、知らない人だとは思えなかった。

会いたかった..........

ホクトの中には、そんな気持ちすら芽生えていた。

聞こえてくる波の音も、その身をやさしく包み込んでいく暖かな光も、
そのすべてがホクトの心を、深いところから満たしていく。

『長弓背負いし月の精―――――』

(―――――!?)

ふいに、あの子守唄が聞こえてきた。
唄っているのは、男の方だった。
『月と海の子守唄』が、はるかに広がる海と空に、風と共に伝わっていく。

やがて――――

ホクトは、いつのまにか、その男に成り変っていた。
隣には、少女が座っている。
今は自分が唄っているのであろう子守唄が、聞こえる..........





波の音が聞こえる。

暖かな風に包まれていく。

すぐ近くで、誰かの声が聞こえた。
振り返ると、すぐ隣に声の主は座っていた。
滲んでいて、その顔はよく見えない。
しかし、徐々にその色は形を取り戻しつつあった。

そこにあったのは、

長く滑らかな黒髪と、

どこまでも奥深く黒い瞳で――――





『それ』を知覚したのとほぼ同時に、周囲の景色は急速に混濁していった。

目に映る色彩は、その全てが渦となって、一切のわけ隔てなく混濁していく。
やがて、すべての色は黒に収束していき、

ホクトは再び闇に呑まれた。

何も見えない。何も感じない。
一瞬、闇にその身を預けようかと思う。
だが、ぎりぎりのところでホクトは意識をつなぎとめ、

もがきはじめた。

何も見えず、何も感じないこの闇の中で、

自分すら見失いそうになるのを恐れて、

ホクトは、必死に闇に抗っていた。
闇の中でもがき続ける。
冷たく深い闇が、自分を呑み込み、支配していくのを感じた。

冷たい闇の底で、

ホクトは、徐々に体温を失っていった。

ホクトは死を予感して、さらに一層つよい力でもがき始めた。

無音の闇の中で、上も下もわからずに――――



ふいに、温度を感じた。

冷え切っていた手足に、血がめぐり始める。
体温が戻っていく。

それは、とてもあたたかな、白い光だった。

闇を切り裂く、白い光刃。

ホクトはそこに向かって、闇の中を泳ぎ始めた。
その光は強く優しく、ホクトを、そして周囲の闇さえも包み込んでいく。

やがてホクトは、一面が白い光だけの世界に、漂い始めた。

その光は、そっと、慎重に、少しずつ、ホクトに体温を与えていく。

それは、まるで春の太陽のように優しく、愛おしく、

ホクトを包み込んでいく―――――

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自室のベッドの上で、ホクトはゆっくりと目を覚ました。
頭上には、白一色の無機質な天井が見える。

右手に、温もりを感じた。

それは、ついさっきまで、自身の全てを包み込んでいたような――――

そんな気がして―――――

ゆっくりと、暖かな香りのする方へと振り向いた。
そこには、優が、心配そうにホクトの顔を見つめていた。

窓から吹き込んでくる夏の午後の爽やかな風が、レモンイエローの前髪を揺らし、いまにも泣き出しそうな瞳を覗かせる。

優のそばを通り過ぎていくその風は、ホクトの鼻腔に春の太陽の匂いを運んでいた。

「ホクト..........」
それだけ言って、優は唇を噛みうつむいてしまった。

そんな優の傍らで、ホクトは奇妙な感覚に陥っていた。

ひとつは、この上ない安堵感であった。
これほど心が安らいだことが、かつて一度でもあっただろうか。
光に満ちている。もう闇などどこにもない。

そしてまた、ホクトは自分が二人いるような気がしていた。
一人は、今、光のなかで心地よくまどろんでいる自分。
もう一人は、いままでずっと、夜を..........優華を、追いかけていた自分。
今の自分にしてみれば、夜を追いかけていた頃の自分は、まるで同一人物とは思えなかった。
ただあの時は、自分の中の強烈な『何か』が、この体と心を操って、あの林に向かわせていたような気がする。

その感覚は、あの日、“彼”が自分のなかで目を覚ましているときに似ていた。
自分でない自分がいる。そしてそれは、もうほとんど自分と一体化してしまっている。だが、あくまで別人である。
そんな奇妙な感覚。

そして、今の自分は..........

「....................」

ホクトは、傍らの優に視線を向ける。
右手越しに感じる彼女の体温に、ホクトは確かに癒されていた。

今、自分の中に溢れる光..........

それは、きっと..........

ホクトが黙っていると、優の方が唐突に立ち上がった。
「よかったね。何ともなくて..........」
「優..........」

彼女の顔には、深い悲しみの影が覆いかぶさっている。

「じゃあ、もう私、帰るから..........」
「え..........?」
「ホクトの目が覚めたことは、私の方から伝えとくね。」

それだけ言うと、優はきびすを返して、扉へと歩いていく。

ホクトはベッドから半身を上げて優の背中を見つめながら、強い感情が、その胸を縛るのを感じていた。

優に、一言だけでも、声をかけたい。
何でもいい。言葉が出てきてほしい。

そんな焦燥感に、ホクトは苛まれていた。

「ゆ、優..........!」
「え..........?」

優が、ドアノブに手をかけたまま振り返る。

声は出た。だが..........
結局、言葉が出てくることはなかった。

「....................」
「どうかした?」
「....................」
「..........なんでもないんなら、もう帰るね。」

優は、再びホクトに背を向け、扉を開ける。

どうすればいい..........
言葉は胸につかえたまま出てくることは無く、ただ焦りだけが募る。

「じゃあ、ね..........」

そして..........

木材のぶつかり合うこもった音と共に、優の姿は見えなくなった。

ホクトは、正体の知れぬ悲しみに胸を濡らしながら、再びベッドに全身を預けた。

白い天井が、黄色い夕暮れに染まっている。
その色は、かつて一度、見たことがあるような気がした。

そう、それは、あの浮島の上で..........
優と一緒に、肩を並べて、5月7日の朝日にその身を染めていたとき。
別の歴史の二人。
彼らはあの7日間で、確かな感情を共有していた。

(優..........)

今、この胸を縛るものは、一体なんだろう..........?

彼女の高く澄んだ声が、ホクトの胸の内で響き渡る。
あの、3ヶ月前の事件が、共にすごした1週間が、茜色の垂れ込む部屋のなかで、鮮明に思い出される。

自分は今、一体何を失おうとしているのか.........?

「ゆ、う.........」

かすれた声は誰にも届くことなく、吹き込んでくる夕暮れの風の中に消えていく。
頬に、冷たい感触が流れる。

自分にとっての真実とは、何だろう.........?

『今はわからないかもしれないけど、いつかはわかるときが来るから.......絶対に、自分に嘘をついちゃだめだよ。』

「ココ.......」

(教えてくれ.......)

今、自分は何をすべきなのか。なにが真実で、なにが嘘なのか.......

「..................」

ホクトは、ゆっくりと両目を閉じた。

今はもう、疲れていた。
考えることを止め、眠ってしまいたかった。


外では、静かな街並みに、夕暮れの色だけが物憂げに垂れ込めている。
8月の半分が、今終わりを迎えようとしている。


15日の日が沈んだとき、




ホクトは、春のまどろみの中にいた―――――






(第7話 終)











あとがき

というわけで、『第7話 二人に架ける虹』でした。
ごきげんようニーソです。

はてさて、作中の日付で、ようやく8月を折り返しました。第7話終了時点で8月15日、です。
謎に満ちた前半戦を折り返し、そして8月後半には何が起こるのくわぁ〜〜〜?!?≡≡ヘ( ´Д`)ノ

.......ふぅ。

ぱっと見では二股状態のホクたんですが、実際にはそんなじゃないですので、軽蔑の目で見るのは止めたげて下さい。
これからしばらくは、こんなのほほんな展開が続きます。平和すぎます。10話以降のことを考えると軽く(鬱).......

それでは〜


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