降臨の日より二千年
うお座の時代..........高次なる存在による啓示の時代は終わる

終末の日
主は再び雲間より現れる

Ever17ぴぐまりおん
                              ニーソ 



第9話 月隠れ星現れる時


じくじくと火照った背中にのしかかってくるかのような分厚く低い灰色の空が、晩夏の太陽の斜光をことごとく散乱させている。

その先は森に至る名も無い川のほとり。イシュクルはボトルに入っていたビタミン剤の最後の一粒を飲み込んで、雑草の中に疲れて憔悴しきったその身を埋めていた。

「ぁふ..........」

欠伸をしてみる。
見上げた天は、限りなく低く見えた。

イシュクルは、カルディアはおろかエホバの中でも一際背の高い男で、屈強そうに見えるせいか度々激務を任されていた。
もうずっと碌なものを食べていないし、風呂にも1週間は入っておらず、痩せこけて無精ひげだらけのその顔には、奥深い疲労とすっかり図太くなった神経の気色が刻まれていた。

おそらくあの雲の向こう側で変わりなく照っているのであろう太陽が、ミイラのような体を情け容赦なく焼いていく。

その熱気に追われるようにして、イシュクルは仕事場へと戻っていった。

激化の一途を辿るスコーピオの最中、一箇所に一週間以上滞在するような者は誰もいない。居場所が割れるようなことがあれば、一週間後の太陽は見られないかもしれない。処理を下すのは数日前までは行動を共にしていた者達だ。それに、正確な情報は自分の目で確かめるしかないし、郵送というシステムも機能していないのだから、旅を止めるわけにはいかない。アーチャーもある程度情報を公開してはいるが、そこには無限に等しい偽造と偽装がなされているのは誰の目にも明らかだった。アーチャーが唯一役に立つ仕事をしているとしたら、交通機関の整備くらいだろう。だがそれも何度も事件現場となるし、非公開の物資輸送のために度々利用できなくなってしまう。

ニュースはおろか、天気も、日本列島という島々が元の形のままあるのかということすらも定かではなかった。

食べ物のほとんどはビタミン類であった。舌にまともに訴えかけるものなど世界にはほとんど残されていない。つい数年前まで掃いて捨てていたはずの全ては宝石に様変わりした。

食糧と情報..........それらを確実に得るためには、誰もが何らかの組織に所属せざるを得なかった。組織に加わればある程度安定した食料と情報は確保されるが、しかしその代わりにメンバーにも居場所の情報の保守は課せられる。無数の組織は複雑な勢力図を描いており、潰されないためには居場所の情報の保守は何よりも優先された。

そんな混乱の最中にあって、エホバだけは、もう十年以上同じ地にあり続けている。

誰にもその存在をしられていないこの組織にある3つの機関、イシュクルは、その中のひとつ『レム』のメンバーであった。イシュクルという名はもちろん偽名である。

「ただいま。」
ケーブルの這いずり回る床と、やはりケーブルやその先端にくっついた機器類で埋め尽くされた4つの横長の机が整然と並ぶ狭いオフィスで、一人の女性がイシュクルの登場に気付く。その女性の着ている紺の擦り切れたスーツの裾には、『Cha/Le/Uranus:Ea』と書かれたネームプレートが付けられている。
「イシュクル..........疲れてるみたいね。」
気のない言葉が、疲弊しきった空気の中に霧散していく。
「お互い様。」
一言そういって、イシュクルは黄色いスポンジのはみ出た自分の席に着く。
彼が背伸びをすると、背もたれと座の接合部分が悲鳴のように軋んだ。

「他の連中は?」
「仕事。」
「..........また?てっきりこれから夏休みかと..........」
「アポストロは夏休みらしいけど。」
「あそ。ま、俺らのが終わるまで計画は進まんしな。てか暇なら茶くらい注ぎに来いよなぁ」
「暇じゃないよ。カルディアの仕事から外れてるだけみたいだし。アーチャーとシカーダがソードライン近辺で動いてるらしいのよ。」

イシュクルが、腹のそこから疲れを押し出すように深々と溜息をつく。

「また蝉か..........あいつらもそろそろ終わりかな。期待してたんだが。」
「してたんだ?」
「してたね。あの大胆さは今の世界に一番欠けてるやつだからな。だがま、そこを褒められすぎて図に乗ったか..........大胆と無謀を間違えるなっての。アッシリアに敵うかよ。」
「アッシリアって..........」
「アーチャーのこと。」
その例えにエアは苦笑する。それは、久しぶりの笑みであった。
「私達とは宿命のライバルってこと?」
「まぁ、そんなとこ。つーか奴らを淘汰できるとしたら俺達しかいないっていう意味。」

エアは少し思案してみる。
「..........それならティアマトとマルドゥークの方が近いよね。」
「そんじゃ、お前が奴の夫を殺したってことか。ティアマト怒らすなよなぁ。」

“奴の夫”がアプスを指していることに、エアはすぐには気付けなかった。
そうすると、このチームの生みの親が自分という事態にまで発展する。

「そうするとアプスはライプリヒってとこかな。でもそれなら、エア役は優華ちゃんだよね。ある意味。」
「う〜ん..........ワケわかんなくなってきた。」

イシュクルが後頭部を掻くと、白いふけが粉雪のように舞い落ちた。
二人で、ほんの少しだけ笑みを作ってみせる。

「ま、アーチャーにケンカ売りたい気持ちも分かるが、少なくとも蝉にゃ無理だ。」
「でも蝉は死なないんでしょ?」
「どーだか。あいつらシカーダって言うよりただの蝉っぽいんだけど。散々鳴いて散ってゆけ。」
「..........私達も蝉かもね。」
「....................」

イシュクルは、壁紙が所々剥がれ落ちた薄白い天井をぼんやりと見つめながら、その言葉の意味を慎重に咀嚼していた。

全ては、ただの見果てぬ夢なのかもしれない。
計画が成功するという保障は何もない。結局は自分達も蝉のように、ただむやみに鳴き続けて、やがて朽ちていくだけなのかもしれない。

スコーピオが始まって、もう何年経つのだろう。
いつ死ぬかも分からない、生きていてもその先には破滅しかないこの世界で、ようやく見つけた一縷の希望。
カナーン計画。
そこにすがるしかなかった。それが成功すると信じるしかなかった。何かを信じなければ、生きていくことすらできなかった。

天井の中央を貫く細いひび割れが、イシュクルに停止を許さない呪詛のように見える。

やつれ果てたイシュクルの腹に、悲しい決意が再び宿る。

「で、仕事ってのは?」
「ラコニアとアーサをもう一度接触させる。」
「なんで?」
「ホクト君の方の調子がおかしいのよ。なんていうか..........このままじゃ二人が別れ別れになっちゃう危機、というか..........」
イシュクルは苦笑する。
「ま、UMAにも好きな奴くらいいるだろ。」
「?どーゆー意味?」

さあね。

そう言ってイシュクルは、おぼつかぬ足取りで仮眠室へと向かっていった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

太陽をかき消す頭上のパラソルと、たった今口にしたアイスクリームが、分厚く高濃度な夏の熱気から一瞬だけ解放してくれる。

つくづく思う。
人はどうにもこうにも“気休め”の呪縛から逃れることができないようだ。
これほどの群衆のなかでは、アイスも日陰もさしたる効果はない。アイスが溶けるのと共に汗も滴り落ちてくる。全身が炎のように燃え上がっている気がする。

ついに自分の頭すら支えきれなくなったホクトは、左の頬を白いテーブルに押し付ける。
プラスチックのひんやりとした感触が、今のホクトには天国のようだった。

「はあ..........情けないねえ..........」

沙羅が、傾いだ世界の先で深々とため息を吐いている。
しかしホクトには、もうその冷めた目に言い返す余裕もない。

8月も半ばを通り過ぎてようやく、ホクトにも今年の夏の殺人的な暑さが身にしみてきていた。

ずっと夜の世界に生きていた身には、もう体力は残されていなかった。
ほんの少し歩いただけでも、いや立っているだけでもバテてしまう。

思えば、優宅に辿り着く頃にはすでに身も心も溶けていた気がする。

太陽が、遥か1億5千万キロメートルの彼方から体の芯まで真っ白な光を突き刺してくる。
風が、粘土のような夏の熱気を体にぶつけてくる。

8月17日―――――

今日という日は、そんな茹だるような暑さの中始まった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

およそ朝のワイドショーが始まるような頃合、二人は優宅に向かっていた。
なんでも、ここから少し離れたところにある元ライプリヒ所有の研究所での警察の管理体制が先月の初めに終了しており、その所有権が今日までに正式に春香菜に渡るにあたって、その研究所で当面行われる予定であるキュレイ種の改善あるいは治療目的での研究についての説明をようやく今日、ホクトと沙羅に伝えることになったのである。
なぜ倉成家ではなく優宅かというと、単純に倉成家にはパソコンが無いからだ。
そしてまた、そこが武の就職先となった。彼は、その研究所で働くことにしたのである。
春香菜は私情でまだ向こうには行けないため、当面は研究所には空だけが居ることになった。

ホクトにとって、昼の陽光を“まともに”受けたのは久方ぶりであった。

陽光が、これほどまでの眩しいものだったとは
風が、これほどまでに優しいものだったとは
空が、これほどまでに高いものだったとは―――――

かつて当たり前のように感じていた全ての美しさを、ホクトは改めて自覚していた。

そして同時に、ずっと眠り続けていた体には、例え5分の道のりも、まるで果てない砂漠を歩いているかのように痛烈であった。


優宅の玄関前では、ココが待ち構えていた。
実はココは8日から今まで優の家で寝泊りしていたのだ。その知らせは、倉成家には当日の夜に電話越しに突然届いた。というのも、8日から泊まらせてほしいと春香菜に連絡があったのも当日の朝になってからだったのだ。
本当に泊まるだけで、寝るとき以外はほとんどどこか外へ行っていたのだが。
ココの父親はIBFで死亡し、母親は行方がわかっていない。しかも眠っていた17年というギャップがココを社会から切り離してしまっているため、公にはしない形で政府からの生活支援を受けながら今日まで生活してきていた。
どうも何かの事情があって突然こちらに来なければならなくなったようであるが、当の本人はそのことについてはまだ明かせないと言っている。

だが、ホクトはその事情について、その表面だけは聞き及んでいる。

『私の用は、ホクたんの質問に答えること』

そう、彼女はホクトに会いに来たのだ。
あれは、優華が林から姿を消した、その日の昼間の出来事だった。

優宅に入ると、エアコンなどは点いていないようであるのに、空気が軽いと思えるような爽快な涼しさが感じられた。
溜め込んできた高密度な熱が軽く広々とした空気の中に霧散していくのがあまりにも気持ちよくて、ホクトは知らぬ間にニヤけてしまっていた。

ホクトは気付いていないが、沙羅が今日の兄のだらしなさに呆れ始めたのは実はここからだった。

「お待たせ〜」

最初に用意されたアイスコーヒーを一分足らずで飲み干してリビングで溶けていると、しばらくして春香菜が腕いっぱいのA4サイズの書類を抱きかかえながらやってきた。
ホクトはその珍妙な姿を見ながら、漫画やアニメなら今頃紙の束が宙を舞って大惨事であったろうなどと想像していた。


説明の方は、二人が覚悟していたよりも随分と簡潔に終わった。
キュレイの最大の特徴が発現していない以上、当面は研究対象になる予定は無いのだ。
ただ研究の進行具合によっては、という仮定の話が含まれているばかりで、その段に至った際により詳細な説明がなされることになった。

そして、優宅に来るといつものことなのだが、沙羅はパソコンを弄りに春香菜の自室に向かった。

ホクトは、沙羅が遊んでいる間、新しく注いでもらったアイスコーヒーを今度は慎重に振り分けながら飲んでいると、ふいにココが話しかけてきた。

「ホクたん。」
「ん?」

ホクトは、ココに対して反射的に身構えている自分がいるのに気が付いた。

「あのね..........」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

優宅を出た後、ホクトは直ちに帰ることを希望したのだが、まだ時間は早いということで沙羅によって否決され、駅前まで出向くことになった。

街は生きていた。

全く衰えをみせぬ夏の烈火に並行して、人も蝉も道もビルも小さな公園の小さな遊具も、全てが協奏曲のように、地を、大気を震わせていた。

それは、手を伸ばせばどこにでもあると信じていた、ごくありふれた日常の片鱗であった。

全てがホクトのなかで再度インプットされていく。
かつて、いつの間にか自分の中で当たり前になっていた全てを、もう一度認識していく。
何もかもが新鮮に感じられた。そして、またいつかはそれらに慣れて退屈になってしまうことが恐ろしくもあった。


活気漲る街中を小突き回されたホクトはついに果てて、目の端をよぎったオープンカフェの喫茶店で、アイスを奢る代わりに帰らせていただけることになった。
当然ホクトは店内を希望したのだが、目線で却下され、テラスにて夏に晒されながらの最後の一仕事となった。

「も〜頭上げてよぉ〜!一応確認しとくけどここ外なんだからぁ」
「はぁ..........ふぅ..........うん..........」

人目が気になるなら最初から中にしとけば良かったのに、と思いつつ、素直に頭を持ち上げるホクト。
突然の上下動に視界がうっすらと青く染まる。

(高校生になってまだ一緒に歩いてる兄妹なんていないだろ..........)

まあ、それは十分に兄弟姉妹としての時間を共有した者達にとっての話なのだろうが。

「あのさ、お兄ちゃん。」
「ん?」
「私達双子じゃん?」
「そりゃ、まあ..........公式設定では。」
「..........なにそれ。」
「別に。」

自分だけ髪や目がこれほどまでに違えば、疑いたくもなる。
沙羅は特に何も気に留めた様子はなく、話を続ける。

「じゃあさ、私達ってさ、遠く離れてても同じ行動したりするのかな?」
つまり沙羅は『シンクロ現象』のことを言いたいらしい。
しかし、
「あれって一卵性双生児の特徴って聞いたけど。」
「あれ?そーなの?」
「二卵性だと稀。」
「なーんだ。」

大したことではないのに、顎をテーブルに乗せて大袈裟に落胆してみせる沙羅。
さっきまでのホクトと似たようなことをしている。

「..........一応確認しとくけどここ外だからな。」
したり顔のホクト。
「む..........」
沙羅は別段不機嫌な様子もなく頭を上げる。
得意げな兄に向かって、
「シンクロ現象?」
「絶対違う。」
「そんなの分かんないじゃん!」
「公式設定では違うってことで。」
「..........なにそれ。」
「別に。」

すっかりぬるくなった御冷を飲み干すホクト。
体力は回復の兆しを見せ始めていた。

兄がようやく飲み干した御冷のカップを見て、沙羅がつぶやく。

「私達って何座だっけ。」
「水瓶座。」

沙羅にもホクトにも全く自覚はなかったが、これはホクトに水瓶座と答えさせるように仕組まれた会話だった。

水の入っていたカップを見て沙羅は直感的に自身の星座である『水瓶座』を連想し、そして兄もまた“自分と同じこと”を考えているであろう、あるいはそこまでいかなくとも自分の次の問いに対して必ず『水瓶座』と答えるであろうことを自覚なく予感していたのだ。
そしてその予感を確認するかのように無自覚に相手に問いかける。予感があっていることを確認することで、自分達の親しさを味わいたいのかもしれない。

親しい間柄ではこういった会話が度々見られる。
たった今この現象が起こったことに真っ先にホクトが気付き、特に意味もなく自分と沙羅との関係の近さを再認識するのだった。

同時に、その現象に見事にはまってしまったことが悔しくもなってきてもいた。

「12宮ならね。」
「へ?」

唐突な言葉にポカンとする沙羅。

「13宮なら山羊座かな、確か。」
「ふ〜ん..........」
沙羅は明らかに興味がなさそうだったが、その一方でホクトは話し続ける。
「占星術の予言だと、数十年前にうお座の時代が終わって、今は水瓶座の時代らしいよ」
「予言?」
「そう。うお座の時代は、より高次な存在が色々教えてくれる時代で、今の時代は自分達で真理を見出すことができるんだって。うお座の時代の転換期を『終末の日』とも言うけど、たくさんの宗教が述べてる終末論とは違う。単なる時代の切り替わり。」

ポカンとしている沙羅。
自慢げに話してしまったかもしれない、と今更ながらに恥ずかしくなるホクト。
すると突然、今度は沙羅が話し始める。

「じゃあ私からも一つ。うお座を象徴するタロットカード、知ってる?」
「タロット?」
「『18 THE MOON』。月のカード。正位置だと予感とか胸騒ぎとかで、逆位置だと真実が見えてきたこと、夜明けを待つことを表すんだって。」
「....................」
「それから水瓶座を象徴するカードは『17 THE STAR』。星のカード。それからそれからぁ、水瓶座の守護惑星は天王星で、象徴するカードは『0 THE FOOL』。愚者のカード。」
「....................」
「愚者って謎に満ちたカードなんだよね。花を持った青年が崖っぷちでへらへら笑ってたり。太陽が照ってたり。太陽って言えば『19 THE SUN』なんだけどさ、」
「....................」
「..........な、何?」
「占いとか好きなんだ?」
「べ、別に。星が好きなだけ。タロットと星座だからって何でも占いにしないでよね。」
「星座好きなんだ?」
「う、うん。」
「..........星座発祥の地は?」
「、カルデア。ん?カルディア、だっけ」
「..........それ嘘だよ。」
「えっ!?そーなの?」

ため息を吐くホクト。
ちゃちな星座の本なんかには、未だにカルディアと書いてある。

星座好きとしてのプライドを密かに傷つけられた沙羅は、仕返しに兄の急所をついて、
「ところでさ、なっきゅ先輩とはどーなってんの?ケンカしてない?」

硬直するホクト。
あまりにも予想通りの反応を横目で流す沙羅。

「..........お母さんにも言われた。」
「ほほう。やっぱりお母さんスゴイねぇ〜見抜いてるんだ?」
「らしいよ。」

あまりにも隙だらけの兄に思わず拍子抜けしてしまう。
『見抜いてるんだ?』
『らしいよ。』
まんまではないか。簡単に暴露してしまっている。

だがもちろん沙羅も、その急所が今の兄にとってどれほど痛烈なものかは分かっていた。
分かっていて、あえて突いたのだ。

それは、他人の悩みを穿り出して汚い空気に触れさせるような醜悪な好奇心とは違った。
ともすれば、単なるエゴイストな思いやりなのかも知れなかった。

沙羅は心配だったのだ。
どこか調子の抜けた兄から、いつの間にか先輩が離れて行ってしまうことが。

「あのさ、その、まあ、私にとやかく言う権利なんてないんだろうけどさ、」

沙羅は勇気を振り絞る。
その一言で兄に嫌われてしまうかもしれない。他人の心に踏み込むというのは必然としてそういう危険を孕んでいるのだ。
冒険だった。
怖かった。怖かったが、それでも沙羅は、その旅を止めようとはしなかった。

沙羅は信じていたから。
二人がとても深いところで確かにつながりあっているということを、妹と後輩の立場で見てきて、信じていたからこそ勇気を持てた。
次の一歩が踏み出せた。

「今は目の前にいるのかもしれないけど、今ちゃんと捕まえておかないと、いつお兄ちゃんの手の届かないところに行っちゃうかわかんないよ?だから、その、えと、」
「うん..........」

沙羅は、ホクトの目を見ることができなかった。

一方でホクトは、沙羅の言葉が、いや、その言葉に乗せられた思いが、自分の胸にじんわりと優しく染み込んでいくのを感じていた。

「ありがとう。」

ホクトの口から、不意にそんな言葉が漏れる。

「な、何が?」
「ん?..........別に。」

少し照れ臭くなって、音を立てて席を立つホクト。
追いすがる沙羅。




それは、あまりにも幸せな、そしてごく当たり前なはずの日常の欠片であった―――――






(第9話 終)




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