人類が誕生するはるか昔から、一度も止まった事のない時計がある。

北天の大時計、大熊の尾、北斗七星

七曜の星は、北極星を指し示す道しるべとなる

Ever17ぴぐまりおん
                              ニーソ 



第10話 ヒンメルの地図


優宅を出て右手に五戸進むと、そこには周囲を広葉樹に囲まれた小規模な公園がある。

公園の中は、先の駅前とは対照的に静まり返っていて、喧騒の代わりに鳥のさえずりが耳をくすぐってくる。
街に散在するビルや広告などの近代的なデザインが機械的で淡白に思えるほどに、周囲は色鮮やかな花々と青々とした草木に囲まれている。
整えられた芝生が、あたり一面に敷き詰められている。
それほど小さくはない。2百メートルトラックほどの広さだ。

日中の鋭さを幾分か失った太陽が、その公園を低く白く照らし出す。

その公園の片隅の木陰に、二人はいた。

ココは、自身が4人は入れそうなほど太い木の幹を愛撫している。
そんな彼女の後姿をみつめたまま、ホクトは立ち尽くすばかりだった。

今日の午前中、春香菜から説明を受けたホクトは、その後でココから、この公園に来るように頼まれていた。
沙羅に小突き回されて駅前に霧散していった体力は未だ取り戻せてはいなかったが、ココに対するある種の緊張感がホクトの神経を研ぎ澄ませ、その疲れを忘れさせていた。

今のホクトにとって、ココという存在は具象化された神のようであった。
息の詰るような現状を打破する力があるとしたら、ココ以外に考えられなかった。

柔らかい風が凪ぐ。
風と共にココが振り返る。

「ホクたん...........」

低くなった太陽が背中を炙る。

「この前話したこと、覚えてる?」
「うん。」

ブリック・ヴィンケル...........
そして第3の眼と、優華――――――

それはイリュージョンのように、信じがたいことが、しかし実際に目の前で展開された時のあの衝撃。深く刻み込まれた感銘が再びホクトの意識の表層に上る。

ホクトは、渦巻く疑問のなかでその一つを取り出す。

「ココ...........何で、一度に全部を教えてくれないんだ?」

その問いに、きょとんとするココ。

「あれ?それはわかってるでしょ?」

ホクトは疲れたように頭を振る。

「わからないよ。」
「んーん。わかってるよ。LeMUの時と同じ。私は“彼”を刺激してるだけ。目覚めさせるのは君自身。」

ホクトは息が詰りそうな思いをする

「“彼”が、ぼくの中にいるの?」
「いるって表現は少し違うけど、今はそう思っててもいいよ。」

やはりワケが分からないが、とりあえずココはホクトの中の“彼” ...........BWを刺激しているらしい。
それは、あの日と同じように。

「でも、目覚める気配なんて」
「大丈夫だよ、心配しなくても。ちゃんとホクたんの中で“彼”は目を覚まし始めているから。」
「...........どうして分かるの?」
「私の中にも“彼”がいるから。私達は、“彼”で繋がっているから、だよ。」
「繋がってる...........?」
「そう。」

そう言うとココは、風のようにくるくると舞った。
少しずつホクトが『答え』に近づいていくのが...........“彼”が目覚め始めるのが嬉しいかのように...........

最後に一回りして、困惑の色に揺れるホクトの目を温かく見つめる。

「ホクたん、この世界はね...........“点”なんだよ。」
「て、点?」
「そう、点。3次元は点なの。...........ううん、3次元だけじゃない。1次元も2次元も、4次元だって...........点。」
「????」

点?
すべての次元が点?
ホクトの思考回路の方がそれこそ点になってしまいそうだった。

大量のゴミが一度に流れ込んでくると詰ってしまって逆に何も出てこないように、カレー粉が多ければ多いほど鍋をかき回しにくくなるように、圧倒的な情報の流入にホクトの脳は今や完全にその回転力を失っていた。

それが比喩なのかどうかすら分からない。
現実味が到底感じられなくなって、ついに夏の太陽の光刃すらホクトの脳を通り抜けることができなくなった。

一方で、ココはますます嬉しそうに笑っている。
実に対照的な絵がそこにはあった。

「ホクたん。タイムマシンってできると思う?」
「え...........?」

一瞬、質問についていけなかった。

「...........できない。」
「どーして?」
「タイムマシンができるなら、未来人が旅行に来てるはずだから。」

なぜこんな質問をするのか、という疑問が後から湧く。
しかしすぐにどうでも良くなった。
神の問いかけにどれほどの意味があるかなど、どうせ人間に推し量れるものではないのだ。

ココはまた、さっきより一層嬉しそうに舞う。

「あのね、ホクたん。タイムマシンができようができまいが、未来の人たちは居るわけないんだよ。」
「な、なんで?」
「だって、この世界は箱じゃないでしょ?」
「はこ...........?」
「世界は箱じゃない。箱だとしたら、その箱は何だってことになるでしょ?その箱自体が私達じゃん。ね?」
「......................」

『ね?』と言われても困る。
箱という表現が何を意味するのかすら分からない。

箱、世界は、箱、ではない...........

錆だらけになった思考の歯車を必死に回そうとする。
しかしココの次の一言で、ホクトはそんな涙ぐましい努力から救われた。

「悩まなくてもいいよ。前にも言ったけど、いつかは分かるときが来るから。今ホクたんが考えるべきことは別にあるでしょ?」
「え?えっと...........」
「ホクたん、好きな人、いる?」

アブラゼミの鳴き声の雨がホクトの耳から遠のいていく。
同時に、ココの声が奇妙なほどはっきりと耳に残る。

『好きな人、いる?』

ホクトの脳裏に、レモンイエローの髪が踊る。春の太陽の光が垂れ込んでくる。

「...........それが、今のぼくの考えるべきこと?」
「そうだよ。」
「でも、今は第3の眼が」
「“彼”を目覚めさせるためにも、必要なことなんだよ。」

ココは再び舞う。
嬉しそうに笑って...........
それを見ていると、心が軽くなっていくのを感じた。
ホクトの耳に鳥のさえずりが戻ってくる。

ココは言う。嬉しそうに語る。

「ホクたんが思ってること、感じてること...........それを純粋に吐き出せばいい。今のホクたんにとって何が真実なのかは、ホクたんが決めることだよ。」
「ぼくが、思ってること...........」

つぶやく。自分に対して改めて問いただすように。

自分の中で今何が起こっているのか。
わからなくてもいい。詮索する必要は無い。
ただ、今感じていることだけが真実なのだ。少なくとも今はそれだけが頼りなのだ。

ならば―――――

「ぼくは...........」
「......................」

自分の心に向き合い始めたホクトを、ココは視線で優しく包み込む。

太陽はさっきよりも少しだけ低くなり、少しだけ柔らかくなった光を二人に投げかけている。
風は緩く流れ、頬が羽毛で撫でられているかのように感じられる。

ココが突然回れ右をする。
「それじゃ、ココもう帰るね。」
「え...........あ...........」

思考の渦中にあったホクトは、世にも情けない声を上げてしまった。

ココの背中が小さくなっていく。
ホクトの中に現実が戻ってくる。

しばらくの間、ただ呆然と立ち尽くしていた。

『好きな人、いる?』

ココの一言に、ホクトの中で真っ先に現れた光...........
レモンイエローの輝き。
それは、春の太陽の匂いを身にまとっていた。

今、自分が思っていること、感じていること...........

立ち尽くす。
沈み行く真夏の太陽の中に。どこまでも優しく危うい風の中に。

いつの間にか、蝉の鳴き声は止んでいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日はすっかり沈み、街は色を失い始めていた。
キッチンからは包丁が、鍋の沸騰の音と合わせて軽快に踊っている。
紺碧の空気は家の中にも垂れ込んできており、その中でキッチンが異様に浮かび上がっている。

夕飯の時間を察知して、ホクトが降りてきた。
青黒いリビングに、青白い光が明滅している。その明滅にあわせて、うつ伏せた沙羅の後頭部が不規則に存滅を繰り返していた。

テレビを消す。
よほど疲れたのだろう。今日の沙羅は、明らかにいつもよりも元気すぎた。無理していたようにすら思える。

「あ...........ゴメン、テレビ点けっ放しだった...........」

テレビが消えたことを夢の世界ででも察知したのか、突然目を覚ました沙羅。

「こんなとこで寝てると風邪引くぞ。」

寝起きで重そうな沙羅の頭に、お決まりの台詞を投げかけるホクト。
寝起きとはいえ、朝のそれとは明らかに違うのだが。朝、沙羅の周囲5メートルに安全圏はない。

「うん...........よっと。」

一声自分に活を入れて、のっそりと立ちあがる沙羅。
声を出さずに全身で伸びをする。

「じゃおやすみぃ」

邪魔が入ったリビングは諦めて、どうやら部屋で寝る気らしい。

「もうすぐご飯だよ。起きてなって。」

リビングの明かりを点ける。
途端、周囲がその色を取り戻し、像を得た。

沙羅は、まだ歩き始めたばかりの赤子のような足取りで洗面台へと向かっていった。

ホクトはいつもの席に着く。

今日は色々なことがあった。
全てを振り返る勇気がなかなか湧いてこない。
今日という日は過ぎていく。
音も無く、何も残すことなく...........
それでいいのだろうか?ある日唐突にそう思っても、振り返った過去はもう戻ってはこない。

時とともに、夢は一つずつ潰えていく。
それはどうしようもないことなのだが、それを振り返るたびに、その胸に鉄の酸味が広がるのだった。

沙羅の言葉が、混濁した記憶のなかからポトリと落ちてくる。

『今は目の前にいるのかもしれないけど、今ちゃんと捕まえておかないと、いつお兄ちゃんの手の届かないところに行っちゃうかわかんないよ?』

「......................」

何かをしなければならない。
そんな焦燥に駆られる一方で、何をすべきか分からない。
ただ焦りだけが、無闇にホクトを急き立てる。

突然目の前で、重く鈍い音がした。

武がいた。
今日の夕飯は武の番だった。冷奴を配膳しにきたらしい。

「どしたい?そこに妖精でもいるのか?」
「ちょっと青春の悩み事を...........」
「ほおおお〜。それは興味深いな。」

そう言うと武は、まだ飯を作り終えていないのに、興味津々な眼差しでホクトの正面の席に座った。
ホクトは視線を外す。

「春の過ぎたおっさんには分かんないよ。」
「何!?確かに俺は設定上37だが、身も心もまだ二十歳だ!つぐみと一緒にしてもらっては困るっ!」
生憎その場につぐみはいなかった。
「いいからさあ、飯の準備しなよ。それとも手伝おうか?」

武は自分の顔の前で“必要ない”とばかりに手首を振る。

「飯はもう出来るから大丈夫だ。それより、何か悩みでもあるんなら話しちまった方がいいぞ?」
「......................」

うつむいてしまったホクト。
武はため息を吐く。

「...........まあいいや。じゃあこの話は一旦打ち切ろう。これとは全く関係なく、一つだけ言っときたいことがある。」

武はホクトの鼻先で人差し指をビシッと立てる。

「な、何...........?」
「ホクトはなぁ、そうだな...........もっとだな、素の自分を感じてみろ。」
「...........素の自分?」
「そうだ。自分をいちいち言葉に置き換えようとしすぎなんだよ。大切なときほど、言葉なんて選ぶ必要ないんだ。自分の中で具象化できるものなんて実際大したもんじゃない。曖昧なままの素の自分こそ真実だろ?」
「......................」

素の自分、真実...........
偉大なる父の言葉が胸に響く。

「そういうわけだ。ちと説教っぽくなっちったな。悪かった。」
「ううん。ありがとう。少し楽になったよ。」
「そか。良かった良かった。」

ホクトの頭をくしゃくしゃに撫でて、武はキッチンへと戻っていった。

また一人になった。
目の前に、しょうがを乗せた真っ白な冷奴が鎮座している。

どうすればいいのか分からなかった。
だが今は分かる。
いや、分かる気がする。

沙羅の、ココの、そして尊敬すべき父の言葉が道しるべとなってくれた。
自分の中にある真実。
曖昧な真実。

ホクトは、ようやくそこに辿りつくことができた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

壁掛けの時計は、もう9時を過ぎていた。

自分のなかで疼きながらも、手にしたワイヤレスの受話器をなかなかダイヤルすることができなかった。
明日でもいい。
そんな言葉が脳裏をよぎる。
それをその都度切り捨てていくのは、かなりの難儀であった。

だがもう迷っている時間はない。
胃が濡れているような感覚を味わいながら、ホクトはゆっくりとダイヤルしていく。
気の抜けたプッシュ音がカウントダウンになる。

回線が繋がる。

『もしもし。』
実際よりも幾分かすれた優の声に、ますます胸が踊る。
「あ、ホクトですけど...........」
つい丁寧語になってしまう自分が腹立たしい。
『どうしたの?』
優の言葉が異様に短く思える。
「夜遅くにゴメン...........でも、どうしても、会って、話したいことがあって...........」
“会って”の部分を言えたのは奇跡に近かった。それだけで何かを成し遂げたかのような気分に浸るホクト。
『...........』
沈黙が苦しかった。
「あの、無理だったらいいんだけど...........」
さっきから“あの”が多すぎる気がしてくる。
『ううん、いいよ別に。どこで?』
別に。
その一言が異様に耳に残る。
「近くにある林...........ほら、前案内してくれたとき最後に入ったあの林...........覚えてる?」
再び沈黙が流れる。
『...........うん。』
「あの林の川辺で...........」
『わかった。すぐ行くね。じゃあね』
「う、うん...........」

回線は切られた。

まだ高鳴っている心臓をどうにか押さえつける。

やってしまった。
最初に感じたのはそんな思いだった。

もう取り返しがつかない。
もっと悩むべきではなかったのか。慎重に選択すべきだったのでは。会って一体何をするのか。何になるのか。
後から後からそんな言葉が湧いてくる。

『素の自分を感じてみろ。』

言葉の鎖を断ち切ってくれたのは、父の一声だった。

立ち上がる。
あの日、あの夜のことを思い出す。

部屋を出て、リビングを走り抜けていく。

「ちょっと出かけてくるっ!」

背後につぐみ達の声を置き去りにして、ホクトは夜の林へと向かっていった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あの日よりも少しだけ背の伸びた雑草たちを掻き分け、瑠璃色の空気の中を進んでいく。
やがて、川のささやきが耳をくすぐり始めた。

前方に、川辺でうずくまる人影がある。

「優...........」

ホクトもかなり早く家を出たはずだが、彼女はそれより早く来ていた。
歩いて慎重に距離を詰め、優の左隣に座る。

「ごめん、遅くなったかな。」
「ううん。」

一言。
視線は足元の川に向けられている。

自分から始めなくては。
だがホクトには、不思議と焦りは無かった。
心が広々としている。何にも縛られていない。解き放たれている。今ならきっと空をも飛べた。

ここが、散々悩んだ結果として辿りついた場所だったから。

ホクトは天を見上げる。

「星座、どれくらい知ってる?」
「え...........?」

明らかに虚を衝かれたようだった。
それが少し微笑ましく思える。

「星座の発祥の地って、どこかわかる?」
「...........カルディア?」

思わず笑ってしまう。

「沙羅もおんなじこと言ってた。でもハズレ。」
「...........」
「優も星座の本とか見るんだ?」
「う〜ん...........まあ、ね...........」
「占星術を論破するために?」
「それは少し違う...........でも、私はカルディアって聞いたけど...........」
「その勘違いが生まれた原因は色々考えられるけど、一つにはTHE EXCRUSIONっていうイギリスの詩がある。そこには北極星を頼りに砂漠を旅するカルディアの羊飼いが惑星を神の使者と考え、その動きを夜観察していたと書かれているんだ。それが日本での勘違いの蔓延のベースになったんだと思う。」
「ふ〜ん...........」

ホクトは、頭上の黒に目を凝らす。

ここからでは葉々に星が見え隠れしていて、星座を読み取ることができない。
ホクトは諦めて、話すこと集中する。

「でも、星座とカルディアの関係は深い。カルディア以前と以後では、天文学の計算精度はまるで違う。それにカルディア王国になってからバビロンは自由になって、星祭や占いや天文学が盛んになったんだ。ギリシャでカルディア人と言えばメソポタミアから来た天文学者だったし、今でもたまに天文学者をカルディアンと呼んだりする。黄道12宮ができたのはカルディアの直後の時代だとも言われてる。」

カルディア...........

通称『新バビロニア王国』の首都バビロンは、地上の楽園であった。
天文台という説もある、その7層それぞれが土、木、火、日、金、水、月の7つ星の色で塗り分けられた『ジッグラート』、通称『バベルの塔』、来るものを圧倒したといわれる巨大な『イシュタル門』...........

そこには、古き天文の知恵や伝説が今尚眠りについている。

だが、その栄華が続いたのはわずか50年と、極めて短かった。
にもかかわらず、メソポタミアを代表する名前として今でも言い伝えられているのだから、その影響力たるや凄まじいものがあったのだろう。


「......................」
「......................」

夜空を追いかけた先人の話は長くは続かず、川辺には緩やかな静寂が流れていた。

ホクトは、別段言葉を探そうとはしなかった。
夜風が草木を撫でる波の音、耳をくすぐる川の流れに耳を澄ます。
今の沈黙が、なんだかとてもさわやかなものに感じられた。

だが、優は違った。
あるいは、ホクトが必死に言葉を紡ぎだそうとしていると勘違いしていたのかもしれない。

佇む沈黙が、あの日の記憶を呼び起こす。
何を言っても相手にされずに、目を合わせずに、自分の言葉はことごとく夏の粘ついた風のなかに霧散していったあの日―――――

なぜあの日、ホクトは何も話しかけてきてくれなかったのか。
何を聞いても『ゴメン』としか答えてくれなかったのか。
悲しみの影が再び優の心に忍び寄る。

沈黙に耐え切れなかった。

張り詰めていた糸は、音も無く切れた。

「ホクト........無理、しなくていいよ........」
「........無理?」

そういうと、優はうつむいてしまった。
わずかに漏れてくる月明かりに隠れた顔には、両目の奥を強烈に叩く何かを必死にこらえた、ぎりぎりの表情が伺えた。

「私と、話したくないんでしょ........?一緒にいたくないんでしょ........?」
「優........」
「なんで、うそばっかりつくの?嫌いなら嫌いって、はっきり言えばいいじゃない。適当に誤魔化されてるだけの方が、よっぽど傷つくよ........」
「優................」

夜の世界に現れた優の思いが、あの日の光景をホクトにも鮮明に思い出させる。

あの日―――――

十字路に優を置き去りにして帰ってしまったあの日のことが思い出される。

優華が消えてしまったことで壊れた自分は、優を執拗に拒絶し、彼女を傷つけていた。

あの日に帰りたかった。帰って、立ち尽くす優と話をしたかった。

優のことが嫌いなんじゃない........
そんなんじゃない........
そう言ってしまいたかったが、言葉は出なかった。
そんなことを言っても無意味だと思ったから。
今の優の危うさに、ホクトの緊張は高まる。

「優........少しだけ、話したいことがあるんだ。」

決意を固める。
夜の記憶と決別するために。
もう終わらせなければならなかった。自分のなかで、今の自分の真実はもう見えたのだから。

何度も胸につかえる言葉を、勇気をもって前に押し出す。

月明かりに揺れる優の瞳をじっと見つめながら、ゆっくりと、慎重に、川の流れのように話し始めた。

「........8月の始め頃、ぼくは、ひとりの少女に出会ったんだ。優華って名前の、同い年くらいの女の子だった。」

ホクトは、古びて脆弱になったアルバムを、崩れないように慎重にめくっていくかのように、ゆっくりとゆっくりと話し続けた。

ホクトには、もう“それ”を語る勇気が芽生えていた。

それは、月明かりの昔話―――――

すべては、あの日から始まったように思う。

「彼女とぼくは、毎日のように会って、二人で話していた。」

夢のような時間だった。
甘くかぐわしく、心の奥の方を惹きつけてくる、夜の世界が広がっていた。
その世界に溺れ、浸っていた。

だが、ある日――――
ホクトは、彼女が監視されていることを知った。

「彼女は、ぼくを頼ってくれていた。それでぼくは、優華のことを好きでいたい、好きでいてあげたいと思ったのかもしれない。」

それは、少し嘘であった。
優華のことを好きであったのは、真実だった。
だがそれは、今のホクトにとっては真実でない。

自分の中に眠る、別人の自分........

彼は、優華を純粋に好きであった。
だが........

ある日突然、彼女は姿を消した。
彼女を守ると決意したその日に........

それからのホクトは、闇に蝕まれていた。
優と会ったのは、そんな折の出来事だった。

「優に会ったとき、ぼくは怖れていたんだと思う。」
「怖れてた........?」

ホクトはうなずく。

今日の夜は、ただ静かにそこにあった。
川のせせらぎが、風が林を凪ぐ音が、ホクトを終点まで促していく。

「ぼくは、優華のことを好きでありたいと願っていた。願っていながら、それでも........ぼくは、優のことが........」

一瞬、声を詰まらせながら―――――

「優のことが........忘れられなかったんだ........優華のことを好きでありたいのに、優の存在は、ぼくのなかで大きすぎたから........」
「................」

夜が、ただ黙ってそこに鎮座していた。
風はいつの間にか止み、川の細く流れる音だけが二人を現実に繋ぎとめる。

その音すらも聞こえなくなりそうだった。

林の中には、現実から切り離された時間が緩やかに流れていた。

終わったのだ、とホクトは思う。
夜の思い出の鎖は断ち切られた。
今は春の太陽の光だけが、胸に満ちていく。

「ほんとに........?」

傍らで、今にも消え去りそうな声で優が呟く。

「信じていいの........?」
「信じてくれるかどうかは、優が決めることだよ。」
「................」

軽やかな、透き通った静寂が流れる。

言うべき事は言い切った。
ホクトは、長い、とても長い道を、今ついに歩き終えたような、そんな壮大な安堵感を感じていた。
今の自分に、これ以上の真実はない。
それを優に伝えられたことが、とても嬉しかった。

「じゃあ........」

不意に優が声をあげる。

「信じる。」
「え........?」

安堵感に浸りすぎていて、一瞬何のことかわからなかった。

「信じてるから。」
「あ........うん........ありがとう........」
「な、何よその反応........」

夜の闇にぼんやりと浮かび上がる優の光が、少しだけ強くなる。

突然、ホクトは重力を失った。
背中が強く打ち付けられる。
そのまま川の中へと転がっていった。

「う、げふっ!ごふっ!」

たまらず咳き込む。
川の中から頭だけ上げて空気を確保する。

優の体が密着している。
優は、ずぶ濡れになった上体を持ち上げる。
毛先から滴り落ちる水滴と、その奥で輝く瞳がホクトの顔に鮮やかに落ちてくる。

優は、微笑んでいるように見えた。

「信じてるからね。ずっと、信じてるから........」
「うん........ありがとう。ぼくも、もう絶対に裏切らないから........」

再び優が覆いかぶさってくる。
途端、ホクトの口元に水が流れ込む。

二人は転がって川岸に上がり、びしょぬれのままで互いを抱きしめ合った。

時が止まったかと思える瞬間だった。

ホクトは優の体重を感じながら、その一方で予感してもいた。
幸せな時は、長くは続かないのだと。

なぜココは、“彼”を目覚めさせようとしているのか。

何かが始まろうとしている。
まだ目に見えないところで、この世界を破壊するほどの強大な力が蠢いている。

それでも、今だけは―――――

優の肩を、強く強く抱き寄せる。

今ここに彼女がいる。
自分の中に光をくれる。

それだけで、現実のしがらみの全てから救われる。




今このときだけは、何も考えずに、目の前の幸せを素直に感じていたかった―――――






(第10話 終)











あとがき

というわけで、『第9話 月隠れ星現れる時』&『第10話 ヒンメルの地図』でした。
やってきましたニーソです。

というわけで、あとがき〜

長かった........
8月17日のお話だけで2話分に及んでしまいました........
これにて話は一つの区切りを迎えたわけで、これからはようやく核心へと直行していきます。もうしばらくのご辛抱を。

波乱は目と鼻の先まで迫ってきました........

それでは〜


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