Ever17ぴぐまりおん
                              ニーソ 



第13 終幕(後編)


今までうやむや五里霧中だったものが眼前に突きつけられる。

なぜあの日、自分には第3の眼があったのか。
いや、あの日に限らず、今猶自分の中で眠りについているのかもしれないその眼は、一体どこで拾ってきたのだろうか。

そもそも、第3の眼とは何か。
第3視点とは、
4次元とは何か――――

計画の成功とその先にある幸福のために知らず知らずのうちに眼を背けてきた事々が、逃れようのない現実となってホクトの目の前に姿を現す。

オリジナルの眼――――LeMMIH

あの日、2017年..........
LeMUで何が起きていたのか、自分はまだその一部分しか見えていないのかもしれない。
そんな底の抜けたような冷たい恐怖心にホクトは震える。

「――――世界は今でも神を捜してる。正確には捕捉空間を、だ。ライプリヒは消滅後もその事実だけは守り抜き、そして今は俺達エホバが所持している。エホバの存在は誰も知らない。」
「ライプリヒが消滅..........?」
思わず顔を上げるホクト。
「ああ、てか、お前らの世界でも消えてるだろ?」
「でも、それは春香菜さんがリークしたからで..........」
イシュクルの世界の優美清春香菜は2017年時点で死んでいるはずだ。
イシュクルは意外そうな顔をして、
「お、田中センセがLeMUで亡くなったこと覚えてたか。意外とエアの話聞いてたんだな。うむ、だがな、俺達のほうのライプリヒは個人の内部告発で潰れたわけじゃない。」
「それじゃ一体..........」
「んむ....................」

それまで、ある時は退屈そうに、ある時は実に楽しそうに話していたイシュクルの目がどこか遠くに投げやられる。

ライプリヒ消滅..........そこにある重みにイシュクルの口はなかなか開かない。

視線は相変わらず彼方に向けられたまま、イシュクルはようやく話し始めた。

「..........ライプリヒ消滅の根底にあったのがTBであることは、お前らのと変わりない。」
「ティーフ・ブラウ..........」
ライプリヒの監視下、言い換えれば保護下にあったホクトにとって、遠い話でしかない暗黒の風。
「ただ、その猛威っぷりはお前らの世界とは段違いだった。ほんの数年そこらで、死者数は記録の上だけでも3億以上、実数は掴みきれていない。」
「さ、3億人、ですか..........?」
数字が大きすぎて現実味が全く感じられない。
「どうしてそこまで..........」
「隠蔽工作だ。とんでもなく気違いのな。」
「隠蔽工作..........?」
ワケが分からない。TB漏洩との関連を覆い隠すためなら、むしろ一刻も早くすべてのTBを葬り去ろうとするのではないか。

だが、そこにはまさしく気違いのシナリオがあった。

「TBは飛沫感染、空気感染は特定気圧下以外では不可。しかも潜伏期間が短く発症すればほぼ確実に宿主を殺す。..........てことはつまりだ、感染時期の推定が容易で、それゆえに感染経路の特定もできることになる。発生源がある程度広範に渡るならともかく、全ての起点はたった一つ、LeMUでしかない。感染時期の推定により『初期の感染者』をあぶり出せば、感染はLeMUを最初期点として広がっていっていることが分かる可能性は高い。」
「それで、隠蔽工作を..........?」
イシュクルは無言でうなずき、
「..........TBはRev.17の時点で既に世界中に売り回されていた。持っている奴にしてみれば兵器は一度は実験してみにゃならんだろう。ライプリヒはそこを突いた。ライプリヒが率先して、世界中にTBを散布し始めたんだ。」
ホクトは言葉を失う。
「作戦は“風船配り”。カプセルで保護したウィルスを風船に詰め込み、そ知らぬ顔で街中に配る。風船の持ち主がウィルスを洩らしながらそれなりの範囲を歩き回ってくれる。あとはTBの感染力に任せて“それなりの範囲”は何倍にも膨れ上がる。世界中はパニック、ライプリヒからTBウィルスを貰ってた奴らはいい機会だと思い早速実験を始める。..........世界はこう思うだろう、世界の至る所で突如として発生したと。そうなれば感染経路の特定など意味がなくなる。そうしてTBは、繰り返される実験の元で世界中を死に至らしめたってワケだ。」
「そんな..........」
「ひどい有様だった。誰もがいつ死ぬかもしれない恐怖に締め付けられていた。犯罪や自殺者は何十倍にも増した。経済はとんでもない不況に晒され、企業犯罪は横行した。何よりも重大だったのは生気の著しい低下だった。働いている意味すら見出せなくなり、警察消防は怠慢化、インフラは江戸時代並みだ。治安を維持してるのはむしろヤっちゃん共だったな。特に人口の激しい中国は最悪の状態だった。病院は当然のようにパンクし、結局は患者をすべて殺害するに至った。『北京虐殺』って呼ばれてる。虐殺って表現は正しくないが、死者数がとんでもなかったし、殺害方法は明らかにはされていないが病院側も手段を選ぶ余裕はなかったろう、そういう意味じゃ虐殺くらいの表現をしてもいいのかもしれん。」
「――――。」

戦慄が走る。これまでどんな「怖い話」も怖いと思ったことはない、だがリアルに起こったという絶対的なリアリティが、そんなホクトの腸を握り締める。

イシュクルの窪んだ頬と無精ひげに、さっきまでとは質の異なる濃密な威光が感じられた。

「それが、スコーピオ..........なんですか?」

だとしたら、これのどこが真の幸福だと言うのか。
だがイシュクルは首を振る。

「スコーピオの始まりはライプリヒ消滅にある。」
「あ..........」

欠伸が出るほど平穏だったさっきまでの話を思い返す。
イシュクルの世界でもやはり、ライプリヒは消滅している。
混乱の極みにある世界で唯一防御法を知っており、更に世界に対して絶大な力を持っている組織が、なぜ消滅したのだろうか。思えば不思議なことだった。

イシュクルは問われずとも答える。

「TBが世界的に猛威を振るっているのを世界はただ傍観していたわけじゃない。WHOはその正体不明のウィルスについての調査組織『クリムソン』を立ち上げた。――――俺はそこに所属していた。」
「――――。か、科学者だったんですか?」
少し意外だ、と思う。
「まあな。古生物学者だ。クリムソンにはありとあらゆる専門家が集められた。そりゃ明らかに必要ない学もたくさんあったが、その学にはその学の独特の思考回路みたいなもんがあったり、いくつかの学を組み合わせることで新しい視点が生まれたりもするからな。とにかく、全人類全精力をもって立ち向かうしかなかったわけだ。」
「それで、クリムソンがライプリヒを..........?」

聞きながら、ホクトはこの話がそんな単純なものではないことを感じてもいた。
これほど大規模な工作をするくらいなら、奴らはもはや砂一粒ほどの手がかりにも手を回しているに違いない。国連が動いたところで偽装の布が取り払われることはないだろう。

だが、イシュクルの言葉は予想を外れていた。

「ライプリヒを消したのは確かにクリムソンだ。――――この世界じゃ知らないものはいない事件、『クリムソン報告』は、今思えば歴史の転機だったんだな。」

イシュクルの声は思いを詰らせていて、ふとすれば泣き声を堪えているかのようにも聞こえた。

「クリムソンは世界中に溢れるほどあるサンプルを手に研究を進め、TBウィルスがある特殊な環境下で繁殖されやすくなることを知った。それからは、その条件の当てはまる地点の捜索だった。世界中探し回ったが、そんな場所は全く見つからなかった。もう途方にくれていた、そんな時だ..........俺は、エア――――うんにゃ、優美清秋香菜に会った。」

エア――――
ホクトの中で、無数の情報のパーツが繋がっていく。

「あいつはクリムソンに小さな電子犬を持ってきた。そいつは2017年5月7日のインゼル・ヌルで田中ゆきえが拾ったやつだった。」
2017年のLeMUに話が立ち返り、唐突にはっきりとした像が浮かぶ。
「それってまさか..........ピピですか?」
イシュクルはうなずく。
「そうだ。..........田中ゆきえは、娘が事故の起きたLeMUで働いていることを当然知っていた。どうしても自らの足でLeMUに行きたかっただろう。しかも彼女はライプリヒ所属でしかもレミ開発担当の田中陽一とは婚姻関係にある。下っ端連中を介するなり何なり、LeMUに上陸するだけなら上層部の目をすり抜けられる穴はあっただろう。そして彼女は、5月7日の浮島にもいた。そこでびしょ濡れのピピを拾ったんだ。」
「....................」
もうその先の話は、ホクトにも想像がついた。
敢えて何も言わずに、イシュクルの話に黙って耳を傾ける。
「田中ゆきえは、俺の見解からすれば当時は“ある事情”でかなり不自由な状況にあったと思われる。エアは物心付いたときには既に施設にいたらしい。そこにはピピもいた。――――そして数年後、エアは自分の母親探しを始め、その過程で自身のクローン出産の事実、そして田中センセのことを知った。彼女が最後にLeMUでバイトしていたこと、そしてピピはそのLeMUで拾われたこと..........点がつながる。そうしてエアは、ピピに何年も昔の映像記録が残されていることに気付いたんだ。」

もうホクトの中でその先の物語は見えていた。

間違いない、その映像は、2017年5月1日に始まる『LeMU圧潰事件』
その7日間の記録であろう。

ライプリヒが回収しきれず、なおかつ最大の手がかりとなるもの。

「八神ココは事件に巻き込まれたその日から、ホームビデオ程度のノリで撮影を始めた。就寝時間中なんかはカットされてるが、彼女が操作できなくなってから以降、つまりTBが発症した5月6日以降はデータが一杯になるまで撮影し続けていた。――――それが鍵となった。クリムソンはTBウィルス拡散元をLeMUに特定、更にIBFの存在も明るみに出た。その地点の非公式の探査、熱水噴出口の発見..........クリムソンは数ヶ月かけて準備を整え、ライプリヒを落としにかかったってワケだ。」
「....................」

ココ、ピピ、そしてLeMU..........
最初は途方もなく広大な話だったはずなのに、その核心があまりにも身近なものであった事が何だか奇妙で、自分以外誰も登校していないクラスで一人席についているようなくすぐったさがある。

結局、何もかもあの事件を母として巻き起こっているのだと思う。
心底から思う。

イシュクルは腹の底から押し出すようなため息を吐く。
ホクトはそのため息の中に話を終わらせようとしているような雰囲気を感じ取る。

まだ終わっていないではないか。

「..........それで、スコーピオって一体?」
どこか虚ろだったイシュクルの目が我に返ったかのように色を取り戻す。
「ん、ああ、スマンスマン。ちと疲れてた。だがま、ボーっとしとる場合じゃないやな。」

胴体がちぎれそうなほど大きく伸びるイシュクル。

「あ、あの、疲れてるんなら少し休みませんか?雑談とかしたいし。」
その提案は決して気を遣ってのものではなく、ホクトの、彼と色々な話をしてみたいという紛れもない願望から出たものだった。
だがイシュクルは首を振る。
「気遣い結構。悪いが休んでいるわけにはいかない。できるだけ多くの事をできるだけ早くお前に伝えにゃならん。」
「そ、そうなんですか?」
「そう。話を戻すぞ、スコーピオのことだったな。」
「あ、はい..........」

ゆっくりと話ができないことが確認され、ホクトは少し残念に思う。

イシュクルは構わず話を進める。

「クリムソン報告によって、TBを連結部としたライプリヒと他組織との繋がりが暴かれ、TBの拡散は終息、それから6年程でTBウィルスは地上から根絶した。だが、その6年間はただ過ぎたわけじゃない。まず、クリムソンは即時解体された。そして未だ混乱の極みにあった世界にとって強力な指導者は必要だったわけで、ライプリヒ打倒に漕ぎ付けた国連はもう神扱い同然だ、」
「あ、あの..........!」

イシュクルが水をかけられたような顔でホクトを見る。
明らかに納得のいかない点がある。

「クリムソン即時解体って..........一番の英雄は彼らじゃないですか。一体どうして..........」
「いい所に気が付いたな。いや、気が付いてしまったというべきか。」
イシュクルは「ふむ、」とつぶやいて、
「悪いが、このことについてはこれ以上お前に話すことはできない。すまんな、ここまで話しておいて。」
「は、はあ、そうなんですか..........」

わけがわからないが、話したくないというのなら詮索することもないだろう。

「だが、詳しく話すわけにはいかないが、スコーピオの近因がそこにあるのは確かだ。」
イシュクルは言葉を選ぶように、視線を宙に彷徨わせる。
「まず、クリムソンはライプリヒとの繋がりがほとんど無かった。そして国家連中はTB危機で脆弱になった国を立て直すために力が必要だった。..........そんなこんなでクリムソンは解体、そして国家は裏でライプリヒと繋がり続けた。だが“ある出来事”のせいで、それが世界中にばれちまった。そりゃもう激怒さ。あれほどの危機の首謀者と手を繋いでるんだからな。権力がある限り秘密があり、その下にいる大多数はコショウを知らずに生きていくことになる、世界はそう考えた。権力階層はことごとく崩壊し、世界は再び、今度は誰の目にも人的な危機に直面しようとしていた。..........そしてアイザック演説。奴は「思想を基盤とした自由帰依」を世界に提唱し、世界中がそれに賛同した。権力階層が崩壊した後も、人々は何らかによって守られなければならない。何に守られるか、つまりどんな法に、道徳に守られるか、それを個々人で選択することが「真のコウフク」の為には必須だとした。..........となれば、当然「奪うこと」を正義とする者もたくさんいるわけで、「思想」が支配の核という緩いチームがそういった者達から生き残るためには“移動”が不可欠だった。強奪連中はどれも超少数集団ばかりで、多くの集団で結託さえされなければそれほど怖くもない。ただ同じ場所にいつまでもいると“呼びかけ”で結託され襲撃の準備をされる恐れがある。そうして世界中はバラバラうやむやになった。バラバラであればあるほど、それに比例して人は利己的になっていく。しかもチーム一つ一つは小さいから、生き残るための資源なり何なりはかなり少なくなっても生きていける。つまり、彼らは何もかも手遅れになるほど地球が枯渇するまで旅を止めないんだ。――――そういう、“定住”ではなく“移動”こそが世界の常識になることで起きた危機、それを俺達は「スコーピオ」と呼んでいる。」
「スコーピオ..........」

長く、長く引きずってきた主題の出現に、思わず復唱してしまうホクト。
それでも猶、ホクトにはそれが真のコウフクなのかもしれないという見方は理解できなかった。
自分に止める力があるなら是非止めたいと思う、そんなツンとした破滅の臭いだけが感じ取れる。

そこでホクトは思う、
「誰か、止めようとする人は他にいないんですか?」
「いや、いる。アーチャーと呼ばれる組織だ。」
「アーチャー..........射手座?」
さそり座のスコーピオを意識しているとしか思えないネーミング。
「そう、射手座だ。バラバラになった世界を一度一つにまとめ上げ、全員で全員の幸福を構築することを謳い文句に世界の統一化を目指している。中身はかつての有力者達の集まり。それだけに今世界で最も“力”のある組織だ。」
「じゃあ何で止められないんですか?」
最も“力”があるというのに、おかしな話である。
イシュクルはふいに冷ややかな笑みを浮かべて、
「簡単な話だ。アーチャー自体がすでにバラバラなんだから、世界を統一なんてできるわきゃない。」
「ど、どういう意味ですか..........?」
「内輪もめさ。誰が主導権を握るか、統一完了後のアーチャーの戦力や資金なんかはどうするのか。ケンカがそこらじゅうで始まり、派閥みたいなもんがたくさんできて、時が経つにつれ溝はマリアナ海溝よりも深くなるばかり、情報は個人が独占し秘密で塗り固められ、アーチャー内部で共有されている情報なんて本当に初期のものだけだ。」
「....................」

正直、何を言っているのかさっぱりわからなかった。

世界の危機に直面していると言うのに、それなのに、お互いでケンカを繰り返していると言うのか。

「世界は、アーチャーは、世界が危機に瀕してるのにお互いでケンカしてるんですか?」
「そうだ。」
何を。
「本当に、本当にそんな馬鹿なことをしてるんですか?」
「ああ。..........人類は、例え世界が滅亡の危機に瀕したとしても結局協力しあうことができなかった。」

イシュクルの言葉は理解できても、到底納得がいかなかった。
このままでは滅びる、ただそれだけで、無条件に手を組む以外の選択肢はないはずだ。

イシュクルは口元に浮かべた冷笑を解こうとはしないまま、
「受験が迫ってきたとき出来うる限りを勉強に注ぎ込むことのできるやつってのは、元々受験に限らず学校の試験程度の動機でも十分勉強の出来るやつだったってことだろう。逆に学校の試験をこなせないような奴は、受験に瀕しても勉強なんかできないってわけだ。それと同じさ。スコーピオ打開のために一致団結できるなら、初めから人類皆仲良くやってたはずなんだよ。」

せせら笑うイシュクル。ホクトにはただ真っ黒な感情だけがくすぶる。

「そして、アーチャーの目標はエホバと同じだから俺達としてはますます邪魔クソな存在なワケだ。」
世界の目的、世界が捜しているもの。
「..........神捜し、ですか。」
「カナーン計画――――」

イシュクルは「力の向き」無しのフレミング左手の法則のような手つきで、いつの間にか暮れなずみ色を失いかけていた空の彼方を指差す。

「理想郷たる新世界『カナーン』をこの地に創造し、そうしてこの世界を救うこと..........それがエホバの最終目標であり、アーチャーの目標とも重なるところだ。アーチャーはその前に一度世界を一つにすることも考えているけどな。」
「つまり、アーチャーも捕捉空間の存在を知ってるってことですか?」
「ああ。だが奴らが知ってるのは浮浪世界を完全なものにする何かをライプリヒが開発していたことってだけだ。ライプリヒはエホバを切り離し独立させて、レミと眼の情報を守り抜いた。」
エホバを切り離し..........?
「あの、エホバはライプリヒの一機関だったんですか?」
何となくわかっていたことではあるが、一応確認しておく。
「そう。当時のエホバには今はアポストロを名乗ってる連中13人しかいなかった。エホバにカナーン計画遂行の専務機関カルディアができたのはライプリヒ消滅のすぐ後の話だ。ちなみに俺が所属してるのはカルディアのレムで、捕捉空間云々を取り扱ってる。」

レム..........月着陸船のことだろうか。
それにしても、
「星に関わるネーミングが多いですね。」

カルディア、レム、ウラヌス、スコーピオ、アーチャー、ラコニア..........
さらにイシュクルやエアはバビロンの神で、バビロンは星に関して非常に高い知識を持っており、神と星とはかなり深い関係にある。

「そうだな。実はこれには理由がある。捕捉空間の理論とカナーン計画、どちらもある一人の女性によって提唱されたんだが、彼女は常々カナーンのことを北極星と呼んでいたらしい。星は、昔の人々にとっては幻想の対象だったろう。今で言う本やゲームみたいな。そして北極星は地平線に消えることなくいつでもそこにある。そういう意味で彼女は、理想郷を北極星に例えたんだろうな。」

北極星云々は実にロマンティックな話だが、ホクトの意識は全くつまらない、リアリスティックな方向に向く。

向かざるを得なかった。

「あ、あの、その女性って一体..........」
「ああー..........」
イシュクルは雑木林のような後頭部を引っ掻き回し、
「..........正直、聞かないほうがいいと思うぞ。」
「何でですか?」
「うんまあ、お前にとってはちょっとショックかもしれん。」
いやに歯切れが悪い。それがむしろホクトの好奇心を煽り立てる。
「大丈夫です。聞かせてください。」
「う、うむ。その女性の名は、だな..........」
わざとらしく咳払いをする。その隣でホクトの眼が執拗に催促する。
「..........天川、」
「――――、」
「天川ゆきえ。優華の母親だ。」

まるで優の右がボディに決まったときのような、全身が痙攣するような衝撃に息が詰る。

天川――――
その二文字にどれほどのものが秘められているのか全く想像がつかない。まるで太平洋のど真ん中に放り込まれたような虚無感に打ちのめされる。

聞きたいことは山ほどあるような気もするが、頭には何の言葉もつむぎだされることはなかった。
ただ、その巨大な事実だけが脳みそをパンクさせている。

「..........ほらな、ショックだったろ?」
「え..........」

イシュクルの口調に違和感を覚える。
ショック?
確かにショックだったが、普通「ショックだった」というときのショックとは質がかなり異なる。

「だがなホクト、まだそうと決まったわけじゃない。そこらへんははっきりとしないんだ。」
またよくわからないことを言っている。
「は..........?ど、どういうことですか?優華の母親じゃないかも、ってことですか?」
「いや、それは間違いない。」
「????」

話が噛み合わない、といった風なもどかしい空気が感じられる。
二人は見つめあったまましばし硬直して、ようやくイシュクルはどこで糸がもつれているのかがわかった。

「..........なあお前、天川はともかく、ゆきえの部分は気にならんのか?お前の彼女の母親、つーかおばあちゃんの名前だろ?」
「はあ..........。それはまあ、多少は..........」
「多少っておま..........」
「だって、ゆきえなんて名前ありふれてるじゃないですか。」

健太郎という名前の人は、たとえ同じクラスに健太郎がいたとしてほとんど意識しないだろう。
同様に、ゆきえなどありふれている。

だが、それはいわばホクトの自分に対する理由付けであり、その根底には「そんなはずはない、信じない」という心理があった。

イシュクルは顔をしかめる。
「..........まあ確かにな。だが、俺は田中ゆきえと天川ゆきえが同一人物であると考えてる。」
その発言に、反発的な心理が芽生える。
「..........どういうことですか?」
「実はな、天川ゆきえの所在はずぅっと昔から分かっていないんだ。もう死んでると言われてるが..........」
「それでどうだって言うんですか?」
「うむ、つまりだ。天川ゆきえは提唱者としてかなり不自由で危険な立場にあったとだろうと思う。だがそんななかでレミ開発に携わっていた一人の男性、田中陽一を愛してしまった。そこで彼女は、彼に危害が及ばぬように、彼と結婚した「田中ゆきえ」を自身とは切り離して別人に仕立て上げた。..........あくまで推測だが、穴はないと思う。」

ホクトにしてみれば穴だらけの推論だった。その行動の動機として根幹にある「不自由で危機的状況にあった」という点自体が推測なのだから。

「そう考える根拠は?」
イシュクルは即答する。
「ひとつには、エアを施設に預けた、という点だ。当時はTB危機の真っ只中で、他人が信用できる状況じゃ全くなかった。そんな中で何故預けたのか?田中ゆきえは、ライプリヒからかなりの経済援助を受けていた。田中陽一は作業中に死んだことになってたからな。ますますもって目の届かない場所に預ける理由がわからんわけだ。更にその施設についても実は全く実態がつかめない。謎の施設なんだよ。――――そこでこんな仮説が成り立つ。田中ゆきえは何らかの事情でエアを育てるのに不利な状況に置かれて、施設を田中ゆきえが本人で秘密裏に設立した。そんな施設を秘密裏に建てられるだけの「力」を田中ゆきえが持っていたとは到底思えない。そして“何らかの事情”ってやつ、更に田中ゆきえもライプリヒに所属していたこと、レミに携わっていた男性と知り合える位置にいたこと..........これらを加味すると、天川ゆきえという可能性に辿り着くわけだ。」
「....................」

確かに理にかなっているように思える。
だが、ホクトの中では全く整理しきれなかった。

そんなわけがない――――そう信じていたい自分がいることを、ホクトは今やはっきりと感じ取っていた。

「..........さて。よっこらしょっと。」
イシュクルはおもむろに腰を上げる。身体を回し、全身に溜まりきった鈍い痛みを解きほぐしていく。
「あ..........」

思わず声が漏れる。
日が沈み当たりに満たされた灰色の空気が、彼の巨体を幻想的に滲ませている。

素の感情というのは何もかも、終わった後でようやく知れるものだった。

ホクトは、いつの間にか自分が彼に強い親しみを抱いていたことに気が付いた。

「じゃあ、もうそろそろ行かにゃならん。最後に何か聞きたいことはあるか?」

汗が吹き出るような、突然の焦燥に焼かれる。
言葉は闇雲に掻き回され、何一つとして外に出てこない。

「あ、あの――――」

初めに零れ落ちてきた言葉をそのまま口に出す。

「お母さんは..........そっちの世界ではどうしてますか?」
イシュクルの世界では、2017年の事件で彼女は一人だけ生き残った。そのことが今日一日ずっと引っかかっていたのだ。
「..........お前のお母さんはお前の世界にしかいないだろ、こっちのその人は誰の母親でもない。」
エアもそうだったが、彼らはそういうことにこだわるようだ。ホクトはイラつきながら、
「そういうことじゃなくて..........」
「元気にしてるよ。ただ、彼女には事件以前の記憶がない。それだけ教えといてやる。」

思わず全身が脱力する。
彼らの世界の彼女には、事件の記憶がない..........そのことが何故か、とても悲しいことに思えた。

「..........なあホクト。」
「え..........」
イシュクルの声に顔を上げる。
「お前、自分の名前について何か感じたことはないか?妹が松永沙羅で、自分はホクト..........そのホクトという名前、誰が名づけたか知ってるか?」
「..........いえ。」

思えば、確かにとんでもなく奇妙な名前なのかもしれない。
今まで意識していなかったことが不自然に思える。
いや、意識していなかったと言うよりもむしろ、その名前で納得していた..........
自分は確かにホクトなのだという「理解」が初めから植えつけられていたような、自ら「ホクト」という名を選んだような、そんな感じさえする。

考え込むホクトのつむじに、イシュクルは話しかける。
「北極星を探すのに使う星、知ってるか?」
彼の一言だけで、ホクトの思考は途切れる。
イシュクルは自分で答える。
「北斗七星、あるいはカシオペア座だ。」

そう言って、イシュクルはその大きな手をホクトの頭に被せる。
その手は、暖かかった。

「ホクト、最後に言っておくことがある。..........お前は神を捜せ。お前なら見つけられる。お前は、いや、お前の眼はもう何もかもわかってる。神を見つければお前の眼はもう覚醒する。スコーピオから世界を救うには、お前の力はどうしても必要なんだ。」

イシュクルはそっと手を離す。

「じゃあな。」

彼の言葉と共に像は急速に混じりあっていく。水中にいるかのような無力感に襲われる。
だが不安はない。

緩やかに混濁していく景色を、ホクトはただ呆然と眺めている。
イシュクルの言葉をしっかりと胸に秘めて漂う。

不意に、糸で引っ張られるのを感じた。
それが重力であることが、くすぐったい程温かな感触と共に意識される。

混濁した景色はいつの間にか退いて、触れれば切れそうなほど明確な線をもった世界が目に飛び込んでくる。

そこにあるのは夢か現実か。

定かではない波の狭間を漂っている――――ホクトには世界が、そんな風に思われた。


退屈なほどゆっくりと意識を浮上させながら、ホクトは直感する。




今ここから、ただ全てを終わらせる、終幕の時が始まることを――――






(第13話 終)









あとがき

というわけで、『第13話 終幕』でした。
はふぅ・・・・ニーソです。

というわけで、あとがき〜

ナガカター´Д`;)
覚悟はしていたのですが、結局前後編になってしまいました・・・・長すぎてしまって、なんだか申し訳ないです・・・・
それからタイトル見て「やっと終わりかな?」と思われたかもですが、まだまだなのです。てかまだ半分くらい・・・・(汗

とにかく長いですがー最後までお付き合いくだされば幸いです

それから、長いついでにちょっと裏設定なんかもこの場でちまちま公開していこうかな、ということに。
はてさて、スコーピオの語源ですが、作中に出てきたとおりサソリ座のことです。
さそり座を象徴するタロットカード『]V DEATH (死に神)』は、古きものの消滅と新しいものの芽生えを意味します。
さらにサソリ座の守護惑星・冥王星を象徴するタロットカード『]] THE JUDGEMENT(審判)』は、神による選別、審判の時が訪れたことを示すのです。
ちうわけで、まあピッタリかなと。

長くなりましたが、それでは!


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