世界には端がある
世界は毎日少しずつ削られていく

それは、誰もが世界を現実だと思っているから
自由でないフリをしているからに過ぎない

世界には端があり、しかし現実に端はない

Ever17ぴぐまりおん
                              ニーソ 



第14 月痕は闇の底に潜む


夕暮れは煙たいほど濃密な灰色に埋め尽くされ、輪郭を失った天井は遥か高みにあるように思える。
淡い光の幻影を見ている内に、そこが優宅の2階にある優の部屋であることがぼんやりと意識される。

布団は寝汗にまみれ、シャツやパンツがまとわりついてきて気持ち悪い。
だが、濡れそぼった身体を乾かしていく夕暮れの風が清々しい。
背中に当たるシーツは燃えるように熱い。
だが、手足を広げると透き通った冷たさが感じられて心地よい。

ただ右手だけはいつまでも汗が止まらない。
水浸しの右手に、その汗の冷たさの奥に、柔らかな温かさを感じる。

優は薄く開いたホクトの目を、まるでそれ以外何も見えていないかのように注視する。

「大丈夫..........?」

それはおそらく、もうずっと言いたくて言えなかった言葉に違いなかった。
ホクトは口元に、まるで今初めて笑うことを知ったかのような、不自然な笑みを浮かべる。

「うん。」
「うんって..........」

優は、自分の問いを愚問だったと感じていた。
突然床に倒れ伏して、そのまま7時間も意識が戻らなかったのに大丈夫なはずがない。
その証拠に、ホクトの目は自分を正確に捉えているようには見えない。どこか虚ろである。

「....................」
「....................」

優の目の前で、ホクトの意識は遥か遠くに飛んでいる。
夕暮れの薄暗さが醸し出す眠くなりそうな空気の所為か、ホクトの目は天井を、いや宇宙すらも貫いて、もはや自分の手の届かない高みを見ているように思える。

優は小さくため息を吐いて立ち上がり、部屋の明かりを点ける。
すると灰色の空気はたちまち白い光に一掃され、遠くぼやけていた世界が急に窮屈になる。
ホクトの目も、遠い世界から一緒に戻ってきたような気がした。

「とりあえず水持ってくるから、大人しく寝てなさいよ。」
「いや大丈夫だって。」
「んなわけないでしょ。7時間も寝てたんだよ?」
「な、..........」

そんなに寝ていたのだろうか。
何だか今日一日を無駄にした気がして憂鬱になる。

優は大きくため息を吐き、部屋を後にする。

一人になったホクトは、その寝ていた時間の3分の1は費やしたのではないかと思われる、彼との話を回想する。
今や現実に目を覚ましたホクトにとって、夢を思い出しているような、あるいはずっと昔の旅行のことを思い出しているかのような、そんな他人事のような記憶を回想する。

そもそも、あの世界は一体何だったのか。
今更ながらにその疑問に辿り着いた。
そしてまた、考えたところで答えが出ないことも嫌と言うほど理解していた。

パズルのピースのように断片化された無数の情報が頭の中をめまぐるしく駆け回っている。
まるで歴史の勉強をしているようだ。点と点は確かに繋がっているはずなのに、それを見出そうとして一つの破片を拾えば他の破片はパラパラと手から零れ落ちてしまう。

パズルのピースは既に揃っている気がするのに揃わない、そんなもどかしさに頭が沸騰する。

ただ、自分がこれから何をすべきか――――
それだけは、この騒々しい脳みその中で唯一つ確かであった。

真実は、この視界を覆う闇の底に潜んでいる。

体温が移り布団がすっかり熱くなっているのにも気付かずに、ホクトは決意を固める。

おそらく人生でこれほどの決意をすることは二度とないのではないか、そんな風にすら思える、ある一つの「覚悟」とも言うべきものがホクトの中にはあった。

不意に扉を開く音が聞こえ、意識が現実へと落っこちる。
優が小さなお盆に乗せた2杯の水を派手に溢しながら部屋に入ってくる。

「はい水。何か気分悪いとか、ある?」
ホクトは半身を起こし、首を振る。すっかり量が減った水を一気に飲み干して、
「..........あのさ、ぼくが寝てる間ずっと看ててくれたの?」
だとしたら心苦しくもある。
優は少しの間黙り込んで、
「ずっとってわけじゃないけど..........ホクトが起きたのを知らせてくれたのはココちゃんだし。」
「ココが..........?」

突如として彼女の、忘れてはならない彼女の顔が全ての思考を吹き払って意識の表層に浮上する。
イシュクルとココ、二人の言葉はところどころ噛み合わない。それにイシュクルはココについては何一つ話さなかった。まるでココのことを知らないかのように。
そしてこの夏から始まったココの異変..........

パズルには、それが起点となって次々と他のピースを当てはめ始めることができるような、そんな重要な役割をもったピースがある。
どれほどの大きさになるのかすら分からないパズルの中で、ココがそのピースのいくらかを握っていることは間違いないように思う。

ホクトは優のほうに振り返り、
「ってことは、ココが看ててくれてたの?」
すると優は顔をしかめて、
「う〜ん、そうなのかなぁ..........。そういう風には見えなかったけど..........」
「?」
優にしては珍しく要領を得ない。
「ココちゃんがずっと君を看てたってことはないと思うんだけど..........だって彼女、大体はリビングにいたし。でも起きたのを知らせてくれたって事は、そのときは看てたって事だよね..........」
「そういうことになるね。偶然ココが部屋に入ってきたときに目が覚め始めてたのかも。」
「う〜ん、でも、ずっと私達と一緒にいたと思うし..........。それにココちゃんに知らされて私が部屋に戻ったときは、ホクト全然起きてなかったんだよ?目ェ覚め始めてもなかったし。」
「そう、なの..........?」
「まあ、実際その後30分位したら起きたんだけどね。」

だとしたら、ココはどうやってホクトが目を覚ますことがわかったのだろうか。

二人が赤い目の少女に考えを巡らせていると、更に二人の女性が部屋に入ってきた。
ココと春香菜だった。

春香菜は、つぐみとさして変わらない、温かな母親の表情でホクトを見ながら、
「どう?元気になった?突然倒れたっていうからビックリしたけど..........」
「はい。心配かけてスイマセン。」
「ま、も少しゆっくりしてった方がいいかもね。起きたことはもう武たちに連絡してあるから。もうすぐ来ると思うよ。」
「ありがとうございます。」

優しく微笑む春香菜の隣で、一人の少女が表情も変えずにホクトをじっと見つめている。
ホクトはいつの間にか固まっていた口をこじ開けて、
「あ、ココ..........」

それ以上の言葉が出ない。ホクトの中の何かが声を出させない。

「ホクたん、おはよ。」
「う、うん..........」

たったそれだけ言葉を交わし、再び二人の間に重苦しく息が詰る沈黙が影を落とす。
その異様な雰囲気に圧される優母子。

「それじゃホクト君、何か欲しいものがあったら言ってね。」
「はい。」
優がそれに続いて、
「ちゃんと寝てなさいよ。」
「うん。」

二人に続き、ココも扉へと向かう。

「じゃね、ホクたん。」
「うん..........」

電灯の光を散らすように軽やかに踵を返すココ。
突然に焦燥感が募る。

言わなければ..........

何を言うのかもよく分からないまま、そんな胃がよじれるような強い決断がなされる。
視野狭窄の所為か、普段より大きく見える彼女の背中に思い切って声をかける。

「ココ..........っ!」
「ん?」

赤い目が流れ、再びホクトを捉える。
ホクトは思わず息を呑む。

言わなければ―――――

何を言うのかもよく分からないまま、

だが、
ココの目に捉えられ、うやむやだった思いは強く凝固する。

「..........ぼくにとっての真実は、ぼく自身で見つけ出すから。」
「..........」

ココは一瞬目を曇らせ、しかしすぐにいつもの笑顔を取り繕う。
「強くなったね。」

こもった音と共に扉は閉じられた。

部屋には、締め付けられるような静けさだけが垂れ込める。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ココは深くため息を吐き、閉じられた扉に背中を預ける。
前を歩く優たちは、薄暗さの所為でどこまでも続くように見える廊下の先に消えていく。

もう眠りたいが、眠るわけにはいかない。自分におかまいなく、事態は次から次へと進展していく。

疲れていても、考えを止めるわけにはいかない。

雷神との接触を終えたホクトの目に宿る強い光の正体は何か。
ホクトは何をしようとしているのか。

『お前は神を捜せ――――』

雷神の最後の言葉が何を意味するのか、一刻も早く見出さねばならない。
奴らに先を越されるわけにはいかない。まだ、もう少しだけ生きていたいから。

ココは自嘲する。

大切な人を守るために海中に身を投げ出した武とは比べるべくもない。この世界が例えどんな危機を向かえようとも、自分は、自分の命を危険に晒すようなことは永遠にできないのかもしれない。

何故、自分は生きているのか。

それは、この世界が好きだから。

だから、裁きの時を出来る限り延ばしていたかった。その瞬間は必ず訪れるとしても、自分が愛したこの世界と少しでも長く共にありたい。

弱い自分。そう言われても、この切なる思いは一向に消えようとはしないのだった。

ココは自己嫌悪を振り払い、再び思考の海に沈みこむ。

雷神の話は嘘が混じっているに決まっている。その前提をもって考えねばなるまい。

問題は、アーチャーとエホバ、それぞれの目指すところだった。
そんな最も重要な事に未だに手が届かない。
 “理想郷たる新世界『カナーン』をこの地に創造し、そうしてこの世界を救うこと”とはどういうことなのか。
カナーンの姿は全く見えてこない。
おそらくホクトの与えられた役割はカナーンというものの創造に大きく寄与することになろう。
ゆえにカナーンというものの正体を突き止めること、そこにこそ解決の鍵が隠されているように思う。

「....................」

カナーン..........
雷神の話では、天川ゆきえが提唱したというその理想論。
初めて耳にする単語ではなかった。

“街は2つ。一つは私、一つはまどろみ。私は私を見つけ出し、私を手に取りまどろみに生きる。一つはゼロ、一つは無際限。小さな街は小さくなっていく。大きな街は小さな街をも呑み込んで、小さな街の見えない力で大きな一つになっていく。自由になりたいなら、大きな街に行けばいい。なのに、人は小さな街を愛するフリをする。小さな街を大きくしているフリをする。その実、愛しているのも大きくしているのも、大きな街の方であることに気付かぬフリをして”

天川ゆきえの残したその言葉が、ココの頭の中に焼きついてくすぶっている。
この言葉の意味を見出すこと、そこにこそ、彼女の提唱したカナーンの姿が見えてくるはずだ。

ココの考えでは提唱者は他に複数いて、その中には“あの男”の影も見え隠れしている。

ある日、ラコニアの鍵を残し突如として姿を消した天才「天川ゆきえ」の事業を引き継ぎ、そしてカルディアの現行のリーダーでもあるその男。

「アヌ..........」

思わず口を突いて出たその名の音に、腹の底で熱い怒りの炎が閃く。

(何もかもお前の思い通りになると思ったら大間違い..........)

アヌが引き継いだ事業がいかなるものかをココは知らない。だが、アヌの行為がココの愛するものを破滅に導くことだけは、頭痛がするほどはっきりとしていた

要点はホクトにある。いかにホクトの信頼を勝ち取り、彼を引き入れるか。
信頼なら自分の方が遥かに高いという油断があったことは認めざるを得ない。エアと雷神のアプローチによって、今や彼はむしろ自分の方を疑い始めているだろう。

だが、ホクトがどちらを信じるにせよ、勝つのは自分に決まっていた。
サイファーが再び降りる日は決して来ない。

「ふぅ..........」

ため息を吐く。
脱力のためではない、むしろ覚悟の一呼吸。

裁きの時は迫る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜が近づいてくる。
この時間にニュースをやっているのは民放ではない、全国区のキャスターがどこか暢気なニュースを一方的にまくしたてていき、自己満足なスポーツ情報が終わり、新たに天気予報に切り替わる。

予報の冒頭は、こうだ。

『8月も半ばを過ぎましたが、暑さは益々厳しくなります。というのも今年の太平洋高気圧は―――――』

真夏の夕暮れは急速に色を失っていく。日が沈むほどに、明かりが点いたままの優の部屋はその輪郭を目が痛むほど押し付けてくる。

ホクトはポケットをまさぐり、すっかり体温が移って気色の悪い温かさを纏うカードサイズの手帳のようなものを取り出した。

朝からずっと仕舞ってあったカードケース。

スタンプが一つのままで期限切れになった床屋のポイントカード、もうルールすら記憶にない一度きりのボーリングの時作ってもらったカード、3枚もあるテレカ、学校で配られた児童相談所のカード、学生証、郵便貯金のキャッシュカード、レンタルビデオ屋のカード、毎日閑古鳥が鳴いている市立図書館の利用者カード..........

これまでの日常が詰ったそれは、まるで小さなアルバムのようであった。
別に特別感慨が湧くわけでもない、だが不思議とそこから目が離せない。

あの一瞬のココの表情が脳裏をよぎる。

『ぼくにとっての真実は、ぼく自身で見つけ出すから。』

あんな事を言えたことが、我が事ながら奇跡のように思える。

それは、もうほんの数分前に決意したことだった。
決意から行動まで――――その覚悟の時は、ほんの数分のこと。
「一大決心」というものは意外とこういうものなのかも知れない、そんな風にホクトは思う。

不安で塗りつぶされそうな気もするが、しかし自然と笑みがこぼれてくる。
不安は確かにある、だがそれ以上の何か―――――
いつの間にか勝手に設定されていた世界の“端”を踏み越える、その足の裏から這い登るある種のマゾヒストな快楽感に総身が震える。

階下からそよ風のように聞こえてくる優たちの声が、身体を押さえつけてくる。
だがホクトは揺るがない。ベッドを蹴飛ばすようにして跳び上がり、青黒く塗られた窓へと駆け寄っていく。

外は既に夜の色を孕んでいて、部屋との明度の差に一瞬視力を失ったかのような感覚に襲われる。
虚ろな視界は徐々に晴れていき、やがてその中に青白い光点が現れる。


月が、そこにあった。


今日という日に輝くその月は、至上の美しさを放っているように見えた。
それ以外何も見えなくなるほどの美しさに、むしろそれに触れたいという思いは遠のいていく。

ただ、どこまでも近くで見ていたい。まるで月の狂信者のような、そんな思いにホクトは駆られる。

両手を窓枠に乗せ、両腕で体重を支えながら、右足、左足と順々に枠へと乗せていく。
視線は自然と下を向く。部屋の明かりだけが頼りの夜の闇の所為か優宅が大きいのか、2階にしては寒気が走るほど高い。
うんこ座りの姿勢から、ホクトは両手を開け放ち立ち上がる。


視界には、月だけが輝く。


靴下に覆われた土踏まずはすぐにそのグリップを失い、窓枠の鋭く固い感じは踵へと退いていく。
全ての感覚が背後へと流れ去り、身体は突如として重力を失う。

ホクトはそのことに気付いていないかもしれない、視界の月は、彼と共に流れていく..........――――

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ホクト君は大丈夫――――

春香菜の言葉を疑う余地はない。昼間の、寝ている間のホクトの顔は実に清々しかったからだ。
それはもう、憎たらしいほどに。

そう思いつつ、いつの間にか武もつぐみも沙羅も走っていた。
別に急ぐ必要はない、そんな風に自分を諌めながらも、その足は止まる一向に気配を見せない。
パタパタと街中を鳴り響く自分達の足音がいかにもバカらしい。

春香菜の家が見えてくると、自分の中でくすぶっていた焦燥感が途端に意識された。
さっきまでの考えは嘘のように払拭され、頭にはただ6時間も目を覚まさなかったことに対する不安感が募る。
優宅は中々近づいてこない。

やがて玄関に辿り着くと、奥の庭で何か妙な音がした。
木が揺さぶられる音と、何か重いものが何か柔らかい、腐葉土のような物に落ちる音。

日常では普通聞かれない音だけに一瞬意識が奪われる。
だが確認している余裕はない。武たちはすぐさま意識の矛先を切り替えて玄関を開け放つ。

「優ッ!」

よほど動転しているのか、それ以外の言葉が出てこない。優宅に着いて初めて走ってきた疲れが意識される。

春香菜が呆れた表情で出迎える。

「だから、大丈夫だって言ったでしょ?何走って来てんのよ..........」
「いやまあ、確かにそうなんだが..........」

武は今更ながらに恥ずかしくなる。
だが沙羅は止まらない。

「あの、どこにいるんですか!?」
春香菜は笑顔で答える。
「ユウの部屋よ。今また寝てるかもだから、入るときは静かにね。」
「はい!」

そう言うと沙羅は聞いていたのかいないのか、優の部屋へと猪突猛進向かっていく。
武とつぐみはことさらにゆっくりとリビングにあがる。

つぐみは、武と沙羅に比べて実に整った息づかいで言う。

「なんで倒れちゃったのかしら..........」

春香菜が返答に困ると、2017年組の3人は揃って頭を抱える。
とりわけ倉成一家にとっては、この夏ずっとおかしくて最近ようやく戻ってきていたホクトの容態だけに、心配も一入だった。

武は顔を上げて、
「ま、考えてても仕方ないな。とにかく奴のツラぁ見に行ってやるか。」

武の一声に、つぐみも春香菜もあの日と変わらない笑顔でうなずく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

走ってきた沙羅は扉の前まできて、春香菜の言っていたことを思い出す。

(あぶないアブナイ..........)

もう十分に騒がしくしたのだが、そんなことは既に沙羅の頭からはリダウトされている。
一度は扉のハンドルに手をかけ、しかし扉が細く開いたままであることに気付く。
その隙間に手を差し入れて、慎重に開く。

優の背中が一番に目に飛び込んでくる。
沙羅はすぐに気付く。
何か様子がおかしい。

まるでヤクザに声をかけるかのように細々と、
「あの、センパイ..........?」
優は、まるでマネキンと化したかのように身動き一つしない。ただ、開け放たれた窓から流れ込んでくる湿った夜風が、沙羅がずっと見惚れてきた彼女の鮮やかな髪をなびかせる。

優の影からベッドの位置を覗き込む。

そこには、空っぽのベッドが黙って横たわっていた。
掛け布団であろうタオルケットは乱雑に跳ね飛ばされ、そしてそこには誰の姿もない。
そこにいるはずの兄の姿は、幻影にしろ見当たらない。

沙羅は顔をしかめて、
「あの..........お兄ちゃんは?」

優の中でその言葉は何の意味もなさずに、ただ真っ黒な不安だけを残して消えていく。

誰もいないベッド、開け放たれた窓――――
ありえない光景に優の目が耳が肌がそこから背けられない。

「ホクト..........」

弱弱しい声が漏れ、夜風にかき消されていく。
風の吹く場所に視線を動かす。


そこには、月が出ていた―――――

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

父たちが家の中に入ってから30秒数えることに決めた。

人生でこれほど長い30秒を経験したことはかつてない。一つ数えるごとに胸が高鳴っていくのがわかる。

30。

ホクトは忍者になったかのような心持で慎重に玄関の扉へと近づいていく。重要なセクションに差し掛かると、まずは扉に耳を当てて音で確認、そして最大級の慎重さをもって扉を開いていく、開いていく..........
その後は猫のように素早かった、乱雑に散らかった無数の靴の中から一秒で自分の物を探り当て手繰り寄せる。扉をどうしようか迷ったが、閉じる音の危険性を考慮してそのままにしておいた。
走り去る音にも気をつけて、今度はコソドロのような心持で夜の世界を走る。静けさに対して自分の鼓動が嫌になるほど強く聞こえてくる。

100mほど進んで、詰めていた息を一気に解き放つ。
全身に開放感が広がる。

肺に夜を満たす。

少しの間だけ歩く。一歩一歩慎重に踏みしめるようにして歩いていく。

もう頭が分かりきっていた。
意識せずとも顔は右を向く。

まるで夜の闇にそびえ立つ城のようなその林が、高鳴っていたホクトの心臓を圧倒する。
思わず立ち止まり仰ぎ見る。

もう何年も昔のことのように思える。黒髪の少女はそこに佇んでいた。
新たな扉を開く鍵を握りながら。

『ねぇ、七夕伝説って............知ってる?』

思い出す、まだ何も知らなかった、ありふれた時間はいつまでも流れ続けると信じて疑わなかったあの夜の日々。

優華はなぜ七夕伝説の話をしたのだろうか。
そんな何でもないような疑問が、ひと夏の間特に意識もされずにくすぶり続けていた。
あの話は実は、彼女の切実な思いを秘めたものだったのではないか。ホクトは深く輝く黒の中にそんな可能性を見ている。
優華がスコーピオの最中にいるなら............
助けを求めていたのではないか。
根拠は何もない、彼女はただ単に七夕伝説が好きだっただけかもしれないし、そうでなくともホクトに助けを求めること事態考えにくい。

だがそれでも............

“牽牛と分かれた織姫は世界の為に錦を織り続け、しかし織姫の幸福はどうなるか――――”

意識の奥底から『何か』がそう叫び続けるのを、ホクトは確かに感じていた。

「........................」

そう、『何か』が叫び続けている。
この夏、自分の中に眠るこの『何か』は、一体何なのだろうか。
いや、一体“誰”なのか。

今はまだ分からない。だが、遥かに遠いこの旅の果てに必ず全ての答えはある。
やはり根拠は何もないが、それだけは何故だか確信できていた。

ホクトは、全ての始まりに背を向ける瞬間を意識する。
視線を自宅方向に転ずる。


そして、ホクトの目には、もうそれしか映らなかった。

この道を、もう何度進んだことだろう。
まるでホクトの記憶を、想い出を、そのまま道にして指し示したかのような、

光り輝く道。

あの日を髣髴とさせる、青白い輝きを放っているその道
星座を繋ぐ見えない線が具現化したかのような光の帯
それは月明かりなのか、あるいは死にゆく夏の太陽の名残なのか
定かではないほのかな光を放つその道しか見えなかった。

極度の視野狭窄のなか、道しるべのような光の帯の上をひた走る。
ガラスのような夜の世界を泳いでいく。
嫌な笑いが顔を満たしてゆく。今にも踊りだしてしまいそうな気持ちをギリギリのところで食い止める。


それは、16歳の夏のこと..........


夏休みなど始まる前までが楽しみで、後は存外記憶に残らないものだった。

だが今年の夏は違う。
永遠に自分の記憶に刻み込まれるだろう。
写真もビデオも全く必要ない。

この夏に何か名前を付けようか。そんなことを考え一人苦笑する。

生ぬるい空気を切り裂きながら、ホクトはゆっくりと顔を上げる。

広大で深遠な夜空が、遥か彼方まで弧を描いている。

まるで巨大なレンズの中に入り込んだかのような、爽快で壮絶な錯覚。
狭苦しく薄汚い下界に比べたら、夜空はどこまでも巨大であった。月は、どこまでも美しく輝いていた。




今ここに、真実を巡る旅が始まる―――――






(第14話 終)









あとがき

というわけで、『十八番目の月』でした。
・・・。ニーソです。

というわけで、あとがき〜

はてさて、物語はようやく佳境を迎えました。退屈だった物語はこの後一気に加速していきます。
今回は物語的に盛り上げるために現実性よりも幻想さをイメージしていますので、色々と不自然な点があるかもです。
それから、話の途中でニュース番組が入りましたが、あのシーンを見て『あれ?コレってどっかで...』と思っていただけたら、大変嬉しいですねw
まあかなり細かい点なので、望むべくもないのですが・・・
でももし気付かれた方がおりましたら、そっと胸に内に仕舞っておいてください。このシーンは後々また・・・ですので。

それでは〜


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