Ever17ぴぐまりおん
                              ニーソ 



第16話 チェック


分かるというのは、分けることである。
こんな堅苦しい教科書口調では決してなかったが、優華が残した多くの言葉の中でもこの言葉がひときわ強い輝きを放っていた。

朝になり、夜の黒が水で薄められていく空を眺めながら、ホクトは久しぶりにそんなことを思い出していた。

色がつき始めて初めて空は存在し始める。色は地上をもみるみるうちに侵略し、分け隔てていく。

色が分ける。

だからホクトは夜が好きだったし、夜はエホバの目的にも符合していた。
だから彼らはその最後の地の象徴を月や星に見たのだ。
それを言い始めたのは誰だったか思い出せない。

時が経つにつれ色はその強さを増していき、世界はますます窮屈になっていった。

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世界が蘇る。

頬に咲く湿っぽい風と、反対の頬を固く拒絶する土の冷たさで、そのことを、その存在感を感じる。加えて、耳をかき回す街の喧騒が、感覚する世界に広がりを持たせる。
今はまだ、目蓋が創る黒の世界。
それでもそれは、はっきりとした“視覚”を感じさせる黒。
そこにはまだ、くすんだ夢の残骸を覗くことができた。

確か、夢について考える夢を見た気がする。

カタツムリのように鈍いまぶたをこじ開ける。

焦点の合わない視界にはほとんど色が無く、ぼやけて一体化している。
目はその事態を嫌うのか、闇に慣れるのよりもずっと早く光に適応する。

やはり朝はいい、とホクトは思う。夜は色が失せ、何もかも混じりあい区別がなくなってしまう。「恐ろしいもの」と隣り合わせになってしまう。それは例えば犯罪者だったり、幽霊だったり、虫だったりとか、そういうものだ。

夜は嫌いだ。何故だかそんなことを意識させる朝の訪れだった。

あれからホクトはまず公園に向かった。
LeMUという特殊施設以外でのサバイバル知識など欠片も無いホクトにとって、行方を隠しつつ眠れる場所は公園しか思いつかなかった。

なんとまあ安直な結論だった、と痛感する羽目になった。

真夏とはいえ夜はそれなりに冷え、土は予想以上に固く、虫は体を這いずり回り、車のエンジン音、人々の話し声は止むことを知らない。そして何よりも他人が隣り合わせにいるような錯覚、その緊張感が意識を鋭敏にしていた。
“家”というものの素晴らしさを初めて体感してしまった。

「うぐあ」

あくび。伸び。腕時計の確認。
7時10分。
アホな時間に起きてしまったものである。全然寝てないはずだが、眠気など悲しいほどに無かった。

ポケットにはカードケースがある。そこにある郵便局のキャッシュカード。まずはこれで金を調達するわけだが、自動預け払い機が利用可能になるまでまだまだ時間がある。

一気に手持ち無沙汰になってしまった。
暇人の使命として、朝の街並みに繰り出していく。

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不意に、ディスプレイに並ぶ文字が薄く白に溶け込んでいって朝の訪れに気付いたときは、夜でない夜が過ぎたような不思議な感覚があった。

ライプリヒとの一件以来のコネクションを以ってしても、警察連中にホクト捜索の本部を設置させるには春香菜個人にも多くの時間を必要とした。それに結局はそれほど大きく動かせるほどの繋がりでもない。今はようやく春香菜の側の作業は終わったところで、本格的に動き始めるにはまた数時間の辛抱が必要だった。
全身の筋肉は長い固定姿勢に張って血流を妨げ、目やら肩やら腰やら屈筋やら伸筋やらを痛めつけ、春香菜に節々の存在を自覚させる。

「はふぅぅ〜〜〜・・・・・・・・・」

数時間分の欠伸を力強く吐き出す。
8月19日の日の光が凍て付いた室内の時間を回し始め、全身の色濃い疲労が再生される。

今春香菜の後ろではココが作業を続けている。ココは何やら春香菜にも分からない“確認”を続けており、武とつぐみは自宅に戻って、春香菜の手が回らない間に“もう一つの”準備を進めている。

「・・・・・・・・・コーヒー」
「えっ!?ああ、うん・・・・・・・・・」

突然の独り言にお化けでも見たかのような反応を返すココに横目をくれる余裕すらなく、春香菜は一階のリビングへ下りていった。

久しぶりの開けた空間に自宅とは思えぬ新鮮さを覚える。風通しの良い空気を味わいながら熱いコーヒーを淹れる。

疲労を形にして表したような黒々しい液体をすすりながら、春香菜は考える。

ホクトがこれからどう動くか。

考えた結果、『とっくに分かってる』という答えが返ってきた。

ものの数秒で思考を終わらせ、気分を一仕事の後のモーニング・コーヒーに切り替える。

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優の部屋の時間は停止し、主を待つ眠りの森となっていた。
無数の影だけが日の動きに合わせて整然と蠢く。
主の不在と共に切り離されて外部と何の干渉もなくなったように見えるその部屋には影の群れが床や壁に焼け付いている。

主人はどこにいったのだろう。

時を戻し、昨晩のこと。
場所は鳩鳴館女子高等学校。

沙羅は学校側に「研究したいことがある」と嘯いて夏休みの間だけハッキング同好会の持つ教室を占領することに成功した。本来なら一生徒ができることではないが、何しろ天才特待生・松永沙羅が研究したいと言えば教室を借りる位のことは通るのだった。

更に驚くべきことには、その部屋の窓のすぐ外には化け物のようなバイクが2台並んでいる。優が“機動力”と称して用意したものだ。

作業を始める前に、沙羅には聞いておくべきことがあった。

「先輩」
「ん?」
「先輩の力って何です?警察みたいな手ごまでもあるんですか?」

そういったものが無ければ春香菜とは到底やり合えまい、という意味を込めて問う。
優は鼻を鳴らして何やら不敵な笑みを浮かべる。思わずたじろぐ沙羅。

「あるよ。警察ほどじゃ全然ないけど、結束力ならどこにも負けない連中がね」

そこまで聞いて、沙羅にもすぐに思い至る。思い至って思わずため息。

「あー、あの人たちですか・・・・・・・・・」
「そうそう」

何だか嬉しそうな先輩を横目にまた溜め息の出てしまう沙羅。

先輩は、本気だった。

すべてのシステムを準備し終えるには明日を待たねばならなかったが、日付が変わる前に眠れた点からして春香菜たちと比べればずっと幸せ者だった。

そして彼女らにも始まりの朝が明ける。
外の部活動が最初の小休憩に入る頃には作業は全て終わっており、後は向こうの出方を待つだけだった。

二人は床にケツを預けて向かい合い、遅めの朝食を済ませている。

「チェスというのは、」
沙羅は鼻先にわざとらしく人差し指を立てて、
「まず相手がなにをしたいのかを考え、それをさせないようにするのが基本中の基本なワケです」
「うん、まあチェスに限らずね・・・・・・・・・」
優は食べ終わった3色サンドの包みを弄くりながら、それなりの反応で返す。
「相手のしたいことを読めなければ絶対に勝てません。そしてそれを読んだ上で、基本はそれを邪魔すること、理想的なのはそれを利用することです」
「うんうん」
包みを捨てる。
「・・・・・・・・・ちうワケですよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
優は一瞬反応に困るが、すぐに気を取り直して、
「ホクトの打つ手が読めてるってこと?」
「それは当然過ぎる・・・・・・・・・それもまあ一つですが、」
「ひとつって?」
「春香菜さんの手も読めなくもない、ということです」
今度は息が詰って反応が出来ずに、だがすぐに息を整えて、
「ほ、ほんとに?」
「はい。6つくらいしか手はないと思うので、それに対応するようにしていけば絶対にイケます。状況は圧倒的にこちらが有利ですからね」

優は朝日を受けて輝く沙羅の顔を尊ぶように眺めながら、ゾンビのごとき動きでゆっくりと沙羅の肩を両手で掴む。

「痛いッス・・・・・・・・・」
「マヨ〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
朝独特の締め付けられるような暑さの中、沙羅は優に全身で締め付けられる。
「ぬおぉぉぉぉっ・・・・・・・・・」
「マヨがいてホントに良かったよ〜!アリガト〜〜〜!!」
「忍者と忍耐は関係ない、か・・・・・・・・・」

それぞれの朝は進み、時計は9時を指す。

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経済学における「信用」の重要性を示す例として、「レモン市場」という議論がある。
ここで言うレモンとは果物のことではなく、アメリカの隠語で隠された欠陥のある中古車のことだ。

売り手はその車に欠陥があることが分かっているが、買い手はそれを見分けられない。
買い手はお互いの情報にそういった差異があることを認識しているので、問題がある可能性を考慮に入れて値段の交渉をする。
そのため、売買される車はレモンであれば売り手の利益になるが、そうでなければ儲けが小さくなってしまう。

このように、買い手が売り手の言葉を全く信用せずに値段を交渉しようというなら、当然売り手は安上がりなレモンの方を売りつけようとする。そうなると、買い手はレモンを掴まされる可能性をより重視し、ますます安い値段で買おうとする。
結果、中古車市場にはレモンが蔓延し、売買は成立しにくくなっていく。

この「レモン市場」の問題はビジネスの場面だけでなく日常に溢れている。

もし誰も信用しないというのなら、保身だけで莫大な労力と時間を費やすことになり、生産的な活動が大幅に制限されてしまう。

改めて述べるまでもない常識として、信用は必要不可欠であり、同時に巨大な危険性を孕む概念だ。

そして、世界はその危険性に陥れられた。

世界は回っている。
バスの座席にこびりついた独特の温もりと適度な揺れと上空のヘリの長閑なローター音に意識が沈み込む。窓の向こう側の景色は視点の奥を中心とした円盤の上を回っている。
近いものは速く、遠いものは遅く。それどころか、視点を引き寄せると遠くの景色はこちらと競走しているようにすら見える。
だからそれは、円盤のように見える。近いものは左から右へ、遠いものは右から左へ。だが、その円盤の中心を見ることは出来ない。中心は常に視点の奥にある。それを追いかけると、遠い景色は逆行をやめてしまう。
だが円盤は消えない。無限遠点にある中心が今のホクトには見える気がした。

世界は無限とゼロに満ちている。
遠近法は無限の量の景色をゼロ点に収束する手法であり、これが最も人間の視覚に近い。
積分は無限個のゼロを足し合わせる計算であり、量の実態である。

ゼロと無限は信じられることをその存在の基礎にしている。
かつて、ゼロも無限も存在しなかった。鹿の骨0本は無く、西暦0年は無かった。数字として認められなかった。無限はピュタゴラスとアリストテレスによって長らく禁忌とされていた。

世界はゼロと無限に満ちている。

重大な“裏切り”と共に世界は混乱した。何も信用できなくなった時にどうすればいいのか誰も判らなかったのだ。
信用が意味を失いかけ、社会において信用を勝ち取る必要性が希薄になると、誰もが他者も自分の将来も省みなくなった。

世界は荒れた。だが、これはスコーピオではなかった。そのきっかけに過ぎなかった。

世界は暗闇のなかを行くあてもなくさ迷い歩いたが、数ヶ月後、世界は再び一つの方向性を得ることになった。
その事件はアイザック演説と呼ばれている。
アイザックという人物は「理の流通」という考え方を持ち込むことで、恒久的な「信用」の存在の可能性を見出した。

そもそも、何故信用は裏切られたのだろうか・・・・・・・・彼の話はそこから始まった。

ホクトの頭の中で再生されていたかつての話は一旦ストップさせられる。
ホクトは目だけで周囲を見渡してみる。
老若男女、多くの人々が微妙に視線をずらし合いながらそこにある。全員が全員を信頼している。そうでなければこんな密室にいられるはずがない。

何故信頼するのか。
信頼しなければ不便だからだ。信頼を社会に常駐させるために、「オレはお前を信頼してやるから、お前もオレを信頼しろ」という取引をする。双方ともに信頼という概念を心地よく思っているという前提が常にあることを信じているからだ。

信頼の取引には安心という媒介物がある。あえてセキュリティと呼ぼう。
例えば、嘘を吐けば心臓が止まるクスリを飲まされた者の話は信用に値する。このクスリがセキュリティである。
相手が自分を騙すことの意味がほとんど無かったり、その行為について高いリスクを背負っていたりする場合に、人はその相手を信用しやすい。そしていつもは「互いに信頼しあわないことのリスクや無利益性」をセキュリティとして信頼の取引をしている。

ならば、何故信頼できないことが多いのか。

それは“分ける”行為のせいだ、と彼は言った。その行為を彼は「言語化」と呼んだ。

誰もがわかっていたのだ。元々どうしようもないことに。単なる葦に過ぎないことに。だから彼らは死に、死なせ、走り、そして空っぽになっていった。
全ては色のせいだとも彼は言った。色に固執した所為で“それ”が見えなくなったのだ。

色のないほど身近すぎた“唯一”に気づけなくなった。
世界はその為に長い長い混乱に陥れられた。

そして、スコーピオは起こった。

彼はこうも言った。
石を削ることを覚えたとき、土地を耕すことを覚えたとき、機械を覚えたとき、人はいままで考える必要のなかったことのために混乱し、同じ事をしたに違いない。この混乱はそれと同じ、過渡期という混乱。

資本主義、社会主義・・・・・・・・物質主義。そういった近代以前の体系から今まさに革命され、今はその過渡期ゆえの混乱だという。

そして、蠍はすべてを終わらせるために動く。

この目で確認することのできない、誰かに信じられることによってのみ成り立つ概念。
世界に満ちていて目に見えないそれこそが数学を生み科学を生み新たな常識を生んだ。

ホクトは一歩を踏み出す。

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春香菜は二杯目のコーヒーを片手に、四角い窓の深奥の青に広がるヘリのローター音に耳を傾けている。

春香菜が実際に動けるようになったのは9時を30分ほど回ってからで、規模も予想以上に小さかった。

時間的にホクトはもう資金調達も済ませたに違いなく、しかし移動するにはまだそれほど時間は経っていない。

ホクトにできることなど、たった一つしかない。

春香菜はディスプレイ上の「通話」をクリックし、回線を繋ぐ。

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将棋で言う王手を、チェスではチェックという。
そしてチェックとは王手ではなく、「阻止」という意味がある。

チェックを繰り返すことで相手の攻撃行動を阻止し防御に回らせて陣形を崩す。意図的に隙を作りそこに攻め込みチェックメイトする。

まずは阻止すること。
やることが決まっている、沙羅の頭脳にとってはまったく面白味のない、凡人でも勝てる勝ちゲームが始まる。

同じ頃、沙羅もまた「カイセン」を繋ぐ。

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高石典明・54歳は、自分が運転手を始めてからずっと衰退の一途を辿るバス業界を憂い、「日本バス愛好会」のこの春唯一の貴重な新人となった男である。

今朝の職場は警察が介入してきたということで異様な空気に包まれ、彼の頭には配布されたマイク付ヘッドホンが装備されており、ポケットにはやはり今朝配られた一人の少年の顔写真が詰め込まれている。

今まで実に味気ない人生を歩んできた彼にとって、まさかこんな平々凡々たる自分の運転するバスにその少年が乗り込んでくるとは思いもよらなかった。

高石は数十秒ごとにミラー越しにその姿を確認する。

少年は最後部の席に座っている。

他に乗客は女性が3人と男性が一人。誰もが磐石たる日常の始まりに乾いたため息を吐く中で、彼一人が緊張と興奮に胸を高鳴らせていた。

すでに連絡はしてある。後は指示に従うだけだった。

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9時38分、予想以上に早くその連絡が春香菜に届いた。
やはりホクトは「電車はまずい」以上の事は何も考えていない。10時まで見つからなかったら街頭に顔を張り出しメディアを使おうと思っていたが、それも必要なさそうだった。

問題は、ホクトの理性ではなく運動能力だった。

十分な準備無しに取り押さえるのは危険すぎる。それで警戒されてしまったら少々厳しくなるかもしれない。それが春香菜にとってのチョークのカス程の懸念だった。

確実に押さえるには、相応の準備が要る。

「そのバスをそのまま下寺署に向わせてください。署の方々はあらかじめ指示しておいた通りに準備しておいてください」
『通りを外れますが?』
「毎日利用しているのならまずいですが、彼は私の記憶ではほとんどバスなど使いません。まずバレないでしょう。・・・・・・・まあ、一応覆面一台送って追わせておいて下さ。後で私もそちらに向います」
『了解しました』

回線を切る。

蝉は何事もなく鳴いている。

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『今ケーサツから連絡来たけど、さりげなく下寺署向えだと。・・・・・・・場所分かるよな?』
「(小声)分かるけど・・・・・・・・他の客もいるんだけど」
『そんなん着いた後で説明すりゃ大丈夫だろ。あんまテンパるなよ』
「(小声)・・・・・・・了解」

おそらく最後と思しき連絡が切れる。
この連絡が来るまでに無数の妄想が彼の頭の中を吹きすさび、今では少年が「何かの犯人」というのは確定で、何の罪を犯したのかが目下最大のテーマだった。

となれば、ここから先は「犯人護送」である。

両手に自然と力がこもる。

そうしてようやく、その“異常”が顕著になってきた。

(んだよあの車・・・・・・・)

2台先の車が妙に遅い。3台向こうの車との距離が少しずつ開いていく。その遅い車とバスとの間で4〜5台のバイクが挟まれていた。

車はみるみるうちに遅くなっていく。自転車よりも遅いんじゃないかというほどのスピードである。そのノロさが胸の内の興奮と摩擦して頭が重くなるようなイライラが募る。後ろではクラクションの合奏が盛り上がっている。

スピードが意識されすぎて、スピード以外の“異常”にはなかなか気づけなかった。

クラクションが溶けるように消えていくことに気づく。その違和感に初めて辺りを見回してみる。

バスは10台以上のバイクに取り囲まれていた。

どうれもこれも、どう見ても改造済みの怪物バイクである。

そして大き目の十字路をバス一台分過ぎたところで、前方の車は完全に停止した。

怪物バイクの群れが唸り声を上げてバスを取り囲んでいる。高石の興奮も緊張もその唸りに一気に押し流され、嫌な汗が背筋を撫でる。

乗客はみんな声をあげることもできずに、狼に囲まれた獲物と化して硬直している。例の少年も例外ではない。

高石はさりげないとは言い難い動きで回線を繋いだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

端々に混乱の空気が感じられる張り詰めた回線を一度切る。

信じがたい展開に、春香菜は静かになったディスプレイを無表情に眺めている。
何が何だか分からずに、とにかく指示するまでもない指示をするしかない。

もう一度回線を繋ぐ。

「具体的な状況はわかりましたか?」
『とりあえず、バイクが15台ほどと、あと普通車が2台・・・・・・・』
「ひとまず現場に応援を―――――」
『今度は何だッ!?・・・・・・・すいません一度切ります。何か連中がバスに乗り込んだとか・・・・・・・・・』
「・・・・・・・・・どういうことですか?」
『事情が分かり次第もう一度かけます』

回線は、無残にも切られた。

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「一応」でバスを追跡していた鏑木(カブラキ)涼二31歳は目の前の意味不明な事態に目を丸くしながら、隣で寝ている下水流(シモズル)啓二21歳の足を踏みつけた。

「いてぇ!何スかいきなし〜・・・・・・・・。うわ、なにあれ!?てか何すかあれ!?」
「知るか。はぁ〜・・・・・・・・・もうワケ分からん。ほら、マイク」
「俺やるんすか!?・・・・・・・・いやまあいいですけど。」

下水流はもう一度目の前のカオスを確認して顔をしかめながらマイクを用意する。

『おぉ〜い、何やってんだテメェラァーッ!邪魔だっつーのがわかんね?なあオイ!?』
「何でケンカ売ってんだよ・・・・・・・」
『こっちゃ警察だ公権なめてっとお前らすぐにも―――――』

そのとき、周囲の全てを塗りつぶす巨大な“音”が弾けた。

近くにいた見物人の一人は、そのときの音を「目の前で雷でも落ちたかと思った」と後に語っている。

鼓膜をつんざく凄まじい音が一瞬に弾け、その常識外れの音に、まさかそれがバスのガラスの砕かれる音だったとは誰にも思えなかった。

音の残響が全てを静止させている世界で、連中のうちの5人がバイクを捨ててフルフェイスヘルメットのままでバスに乗り込んでいく。車内も外と変わらず凍り付いており、その5人のうちの3人が真っ直ぐに車内を突き進んでいく。あとの2人は心臓の止まった運転手をバスから引き摺り下ろし、突き進む3人は一人の少年の見開かれた両目を真っ直ぐに捉えている。

「乗客はみんな降りてください」

3人のなかの一人が車内を見回しながらそう言い放つ。

「降りてください」

二度目の宣告で、少年以外の全ての乗客が弾かれるように車外へと逃げていった。
2人の方のうちの一人が3人に加わって、4人が4人ともヘルメット越しに真っ直ぐ少年の目を捉えている。

3人が体勢を整え、1人がゆっくりと前へと踏み出していく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まるでドラマの世界に踊りこんだようだった。

“現実味”という名の引っかかりは完全にかき消されて、別世界に吹っ飛ばされたような真っ白な感覚がホクトの脳天を突き抜けた。
それ以外の世界は消えてしまったに違いないバスの車内で、フルフェイスヘルメットの化け物がゆっくりと、狙いを定めた獣のように近づいてくる。

もう数ミリでも近づいたらその細い喉を握りつぶしてやる。

ホクトにはもう後ろの3人は見えていない。
だが丁度そう思ったところで、近づいてきた1人は突然足を止め、ヘルメットに手を掛けた。

ヘルメットの陰が全て取り払われたとき、その向こうから朝日に溶ける鮮やかな山吹色が流れた。

再び空気は一変する。

「優・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・」

ホクトは驚きに呑み込まれながら、何も答えない瞳を見つめ続ける。
いつまでも着かないバス停、クラクション、バイク、ケーサツ・・・・・・・・

不思議なほど硬直していた理性にそれらが浸透していく。

“驚き”に“安堵”が混じり始める。

その瞬間、遠くに行っていた“現実味”が一挙に降り注いできて、またひどく味気ない世界に戻ってきて、ホクトは口の端に場違いな笑みを浮かべる。

「連れ戻しに来たの?」
優は強く首を横に振り、
「助けに来た」

ホクトがその言葉に反応するのを遮るように、優は右のポケットに仕舞ってあったバータイプの携帯電話のような端末を一度だけ操作して、装着しているマイク付ヘッドホンに注意を向ける。

「今バスの中。上にヘリがいるんだけど・・・・・・・・」
『ヘリですか?・・・・・・・・だとしても、春香菜さんも警察も、ヘリと交信してるなんてことはないと断言できます。今のところは』
「じゃあとりあえず出発するね」
『どうぞ〜。ヘリと交信してる形跡があればすぐに連絡します』
「うん、わかった」

優はもう一度端末を操作して、再びホクトに目を向けた。
それだけでホクトは何故か軽い圧迫感を感じる。

ホクトは口を開きかけ、
「――――ぅ、」

言葉が出るか出ないかのところで、突然ホクトは背もたれに強く押し付けられ、4人も大きく体勢を崩した。

バスが急発進したのだ。
さっきまで獣の群れだったバイク達は、いつの間にか花道のようになっている。

警察の怒声も場に立ち込めた異様な空気も外側の野次馬の喚声も、すべてを置き去りにしてバスは走り去る。

まるで、現実を通り過ぎていくかのようだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「とりあえず現場を直接こっちに繋いでください」

春香菜はマイクに食いついている。急転する事態に思考の整理が追いつかない。
永遠にも思える1秒が経って回線が現場に繋がる。

「バスを追いかけてください。不可能ならバイクの一台でも。応援もすぐに――――」
『それが・・・・・・・』
「はい?」
『わき道からトラックが・・・・・・・・・。そのためにここで止めたとしか・・・・・・・・・トラックで見えませんが、音からしてバイクはもう走り去ってしまったようで・・・・・・・・・』
「・・・・・・・・それならトラックを追うしかありません」
『いえ、トラックの運転手も・・・・・・・・・もういません・・・・・・・・・バスに乗り込んだ連中の置いていったバイクに乗って逃げたかと・・・・・・・・』
「・・・・・・・・・・・・・」

動転する脳みそが少しずつ冷えていく。
すぐ後ろで聞いていたココが肩越しに言う。

「なんか、大変なことになってる・・・・・・・・?」
「そうみたい」
「ラッキーだったね」

春香菜はその言葉の意味をやや時間をかけて飲み込んでから、少しだけ笑んだ。

窓から白く食い込んでくる夏の光の源泉で、今だに波紋を広げ続けているヘリの音に春香菜はまた目を向ける。

チェスとはチェックよりも、盤の支配率がまず重要である。
あまりにも打つ手が多すぎて、一つの手が読まれていても全てが読まれることはまずない。

こうなった以上、ココの言うとおり、“ああして”おいたことは春香菜にとって幸運なことだったということになる。

ほとんど間も空くことなく、春香菜に再び回線が巡ってくる。

“もう一つの”回線が繋がる。

春香菜は折りたたんであった携帯電話を開ける。

「はいはい」
『まだ完全じゃないが、そっちが緊急らしいからな。とりあえず現状だけ言っておく』
「お疲れ様」

全ての者の耳にその音が届く。




それぞれの物語が始まる―――――









(第16話 終)
あとがき

というわけで、『第16話 チェック』でした。
ども、ニーソです。

はてさて、タイトルを”チェック”としながら、チェスはあんまし関係ないお話、いかがだったでしょうか〜、と。
今回は、私が個人的にチェスが好きだというだけでこう付けました。みんな将棋ばっかでチェス知らないんですよね・・・

まあいいとして。

今回は書くのに大分苦労しましたが、結果はそれほどでも、という感じですね・・・こういうお話は本当に書きにくい・・・(汗

ところで、ホクトと優が合流という点で、このSS全体の意図としての大きな転機となりましたね、今回は。
あくまでホクトと、それから優秋ですから!ですから!

それでは〜



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