埋め合わせ
                              sin



 はじめまして、と挨拶をすると目の前の女性は780円の時給にしか興味のないコンビニのバイトのように曖昧なほほえみを浮かべ、完璧なまでに抑揚のない声ではじめましてと挨拶を返してきた。私が何をしに来たのか判断がつかず、だからといって問いただすでもなく彼女は作り損ねた営業スマイルを浮かべていた。もっとも、鏡に映せば私も似たような表情なのかもしれない。
 顔を見たらなにかとんでもないことを口走ってしまうのではないかと不安だったから、武についてきてもらおうかと考えたりもしてみた。が、実際にこうやって顔を見るとそんな心配は全くの杞憂だったのだとわかる。おそらくは、彼女は私と同じ気持ちを味わうことになるのだという罪悪感にも似た優越感がそうさせてくれたのだろう。自分でも驚くほど素直な言葉が口に出た。
 「あの子を、今までありがとうございました。」
 気がつくと、いつの間にか頭を下げてしまっていた。
 妹思いの優しい子、激情をうちに秘めながら普段はけして他人を責めない賢い子。どんな思惑があったにせよ、この女性があの子をそう育ててくれたのだ。
 そして、その優しく賢い子を突然現れた若い娘が、息子と変わらない年にしか見えない女が奪い取っていく。10年以上も姿を見せなかった「母」に。彼が最も必要としたときそばにいなかった女に。だからその大役を彼女が務めてきたというのに。そして、彼女は息子を失ってしまった。かつての私と同じように。おそらく、いや間違いなく永遠に。私はあの子をを再び手放す気はないのだから。絶対に。
「つぐみさん、でしたね。お顔をあげてください。おわかりだと思いますが、私には、お礼を言われる資格も筋合いもないんです。それどころか・・・。」
 頬にたるみが始まり、いくら気を遣っても隠せないだろう年齢に達したことに加えて、ろくに手入れもしていないためにはっきりと小じわが浮き出てしまったくすんだ肌の女性は、そこまで口にするのがやっとだったようだ。これまでの人生の中で、もし彼女が涙を流す心を売り渡しながら生きてきたのでなければ、きっと昼の1時半からのドラマのように泣き崩れていたのだろう。だが、朝の8時15分から始まる国営放送の偽善ドラマとはほど遠いとりまく現実が生み出す生活は、彼女に安っぽい謝罪を口にする贅沢すら許さないようだ。
 だからこそ、私は寛大になれた。
「いえ、お礼を言わせてください。あなたのおかげで、私はあの子と暮らすことができます。私とあの子と、あの子の双子の妹と、それにあの子の父親、ええ私の夫と一緒です。家族4人で暮らしているんです。」
 そこで言葉を切ると、軽く息を吸い込みはっきりと言葉を句切るように続きを言った。
「今、あの子は幸せです。」
 きっと、私は楽しそうに笑っているはずだ。実験室で連中がチャミと猫を同じケースに放り込んだ時のことを思い出す。小さな体をいっぱいに震わせて、何度も何度も悲鳴をあげたチャミ。あのとき、猫はとても楽しそうに笑っていた。武が一緒でなくて良かった。
 彼女は、一瞬だけ目を大きく開き、それから右下に目をそらした。そして一呼吸おいたあとは嬉しそうに、本当に心から嬉しそうに微笑んだ。右の目の端が少し光っていた。
「よかった。本当に良かった。ありがとうございます、つぐみさん。」
 ひたむきに汚れない言葉が、先生から紙製の一等賞メダルをもらった幼稚園児のように純粋な感謝の言葉が彼女の口から流れたのを聞いたとき、私は体が震えるのがわかった。こんな仕返しはあんまりだと思うのは身勝手だろうか。
「あの、これをあの子に。」そういって彼女は小さな紙箱を差し出した。通帳と印鑑が入っていた。鼻で笑うことだけは理性で押さえつけて、国語の教科書に載るぐらい完璧に礼儀正しい謙譲表現の敬語で慇懃に突き返す。返そうとした。その私の手は、驚くほど強く押さえつけられた。なおも突き返そうとして、右手が全く動かせない事に気づく。この忌まわしいウィルスの作り出す力を上回る力が、筋肉の収縮活動が作りだす物理的な力ではない何かが、その皺の目立ち始めた女性の手には込められていた。
「お金があってホクトが、、、あの子が困ることはありません。そして、あなた達にはこれが必要なはずです。お願いします、お母さん。」
 彼女は無意識の復讐に成功した。さっきまで私の中にあった醜い高揚感はもう何も残されていなかった。
 引き戻した私の手に残った通帳には人生を売り渡すには安すぎるが、人並みの結婚式を4、5回ぐらいは行えてしまう額が記されていた。思わず見返すと、髪に白い物が混じり始めた中年の女性は悪戯っぽく笑った。
「ライプリヒからのお金、全部そこに入れてたんです。それ以外にも、あれこれと。」
 私は、不覚にも、その顔を美しいと思ってしまう。
「今度、」
私の口は私の意志を裏切って勝手に言葉を紡ぐ。
「今度、ホクトが遊びに来ると思います。かわいい彼女を自慢しに。すごく元気で明るい子なんですよ、そのお嬢さん。」
 今度は、たぶん私も素直に笑えたと思う。やはり武を連れてこなくて良かった。きっと、帰り道にからかわれただろう。
「油断していると、私たちおばあちゃんになっちゃいますよ。」
 彼女は、しばらくだらしなく口を開けていた。「ポカンと口を開ける」という手あかの付いた決まり文句は、本当にあったのだとどうでもいいことを考えてしまう。それから、いきなり彼女は大声で笑い出した。明るい、影のない朗らかな笑い声。武の笑い方と一緒だ、と思ったときにはつられて私も笑っていた。私たちは少しの間笑いあった。笑い声が消えたとき、彼女は私の手にすがって泣いていた。ホクトをお願いします、何度も何度もただそれだけをいいながら。私は、子どもをあやすように彼女の背中をさすっていた。
 そのとき、ああ「あの子」は「ホクト」なのだと、私の赤ちゃんは、今ではホクトという優しく賢い青年に育ってしまっていたという事実をようやく受け入れることができた。
 帰り際に、彼女は一枚のメモリーディスクを渡した。ホクトの成長の記録や写真、好物のレシピなどが入っているのだという。私は、やっぱり彼女を嫌ってもいいかな、と思いながら礼を言った。

 「それで今日はグラタンなんだな」
 実年齢よりは比べものにならないほど若々しいとはいえ、家長としてオレは実に重々しく感想を述べた。もっとも、誰の目にもそうは映らなかったようなのは残念なことだ。いや、まあそんなことはどうでもいい。問題はほかにあるのだ。単純な線で構成されている黄色い服を着た、大昔はうさこちゃんとよばれていたらしい可愛いいウサギの描かれた厚手のミトンで、熱く焼けた深皿をとりながらきわめて重要に思える問題について深く思考する。う〜ん、焦げ目が少したりないかも、このオーブン、次は少しだけ長く設定する必要があるな。そう、問題は、だ。問題は、それを何でオレが作っているのかってことだよな。そもそもこのレシピを具体化する作業は誰が行うべきかといえば、当然それを持ち帰った人物がなすべきであり、それが筋というものではなかろうか。そして持ち帰ってきたのは誰かといえば。無意識にその当人の方を見てしまっていた。愛しき妻と目があう。当然でしょ、とかすれるような声でつぐみがささやく。まさかキュレイってのはテレパシーまで使えるようになるのだろうか。などと思考を再び宙に漂わせると、倉成家の実権を握る人物はまことにうるわしく微笑んだ。
「意味のない質問には答えないことにしてるの。グラタン、冷めるわよ」
そして、わが子の声が追い打ちをかけるように重なる。
「あ〜、また二人の世界に入っているでござる〜。このこのぉ。」
「ねえ、お父さん、グラタンまだぁ、おなか減ったよぉ。」

 こうして倉成家のつつましくにぎやかな夜は更けていくのであった。







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