2035年10月7日 午後5時51分 茜ヶ崎家 



「空さーん、ただいまー!」
「お帰りなさい、ココちゃん」
 いつも元気なココちゃんが、いつもどおりに帰ってきました。
「頼まれたお買い物はしてきたよー。よいしょ、っと」
 ダイニングテーブルにスーパーの袋がちょこんと置いてあります。夕食の材料を、帰り際に買ってきて貰いま
した。
「ご苦労様です。お茶を入れますからちょっと待ってて下さいますか」
「うん、分かったよ。その間、テレビ見ててもいいかなー」
 リビングからココちゃんがスイッチを入れる音が聞こえます。

 お茶缶から茶葉を取り出し、ティーポットとケットル、カップを二つ用意します。
 そしてケットルに多めに水を入れ、電熱調理器にかけてお湯が沸くのを待ちます。 
 今では自動給茶器が一般的ですが、この家では昔ながらにケットルで沸かしたお湯で紅茶を入れます。
 私の古い記憶領域に残された、おいしい紅茶の入れ方。
 ココちゃんと一緒に住むことに決まって、引越ししてきたその日に紅茶を淹れて差し上げたとき、
『うわー、すごいすごいー。空さん、こんなことも出来るんだー。ココ、毎日これを飲めて、しあわせしあわせ
だなー』 
 と言って下さって以来、帰宅後のティータイムはこの家のお約束になりました。
「〜♪〜♪〜♪」
 テレビからは、最近人気の子供番組のテーマが流れてきます。ココちゃんのお気に入りです。
 倉成さんが「ココは永遠のお子様だ」なんて仰るのもあながち間違いではなさそうです。
「て、いけません。お湯が沸いてしまいました」
 沸いたお湯を、カップとポットに少量入れて暖めます。それから、改めてポットに茶葉とお湯をいれて、蒸ら
します。
 はい、これで大丈夫。お盆にポットとカップを置いてリビングへ向かいます。
「お待たせしました」
「ごくろうさまなのでした」
 リビングテーブルにカップを置いてお茶を注ぎます。
 半有機体のボディをもつ私は、今ではお茶くらいなら飲める様になりました。
 実は、ボディを維持するのに飲み物を摂取する事は絶対条件ではないのですが、
「空さーん、二人で飲んだほうが絶対に美味しいよ。ね、そうだよね、そうだよね」
 と仰るものですから、私も一緒に頂くようになりました。

 お茶を飲みながら過ごすゆったりとした時間。人間は、こういう時間が大事だと聞きました。
 今は理解できませんが、ココちゃんと一緒だと理解できるかもしれません。

「ねえ、空さーん、これコメっちょにつかえないかなあ」
 内部思考に入っていた私を、ココちゃんが現実へ引き戻しました。
「これって、何のことでしょうか」
「テレビだよー。きゃははは、この人すっごく変な顔ー」
 いつの間にか番組が変わりニュースの時間になっていました。
 そのままテレビを画面に眼を向けたとき、

 



 私の記憶領域を満たしたのは






 あの時の光景でした。





未来へ続く夢の道
 −本編1 空の下の空 −

                              あんくん





 2035年6月17日午後11時17分 新国連本部ビル34F 人権擁護局第1応接室(RF34-NUNDHR-G1)







「招待に応じてくれて感謝するよ」
 最低限まで照明を落とされた部屋でその男が挨拶する。流暢な日本語で。
「これのどこが招待かは疑問だけどね。
 新国連特別区までのファーストクラスの往復チケット、超一流ホテルの宿泊券に新国連の職員パスが二人分。
 とどめはこの手紙。悪趣味にもほどがあるわ。いったい何様のつもりなのかしら?」
 お世辞にも行儀がいいとは言いかねる姿勢で応接椅子に座った白衣の女性が何かを放る。

 応接テーブルに投げ出される便箋紙。新国連の公式書簡にも使用される厚く立派な紙には短く、

『キュレイの件で話がある。未来が欲しいなら来てもらおう』

 と日本語でタイプされている。その裏に走り書きで『06/17/2035 23:00-  RF34-NUNDHR-G1』

「ふふふ、これは紛れも無く招待だ。必要経費はこっち持ちだしね」
「まあ、確かにうちの持ち出しはないけど」
「それに、貴女達はこうやってここに居る。招待云々を話すのは無意味だと思うけどね」
「せいぜい言ってなさいな。…それにしても、大掛かりな仕掛けをしたものね」
「僕の私邸に招待しても良かったんだけど。でも、そうしたら貴女達は絶対に招待には応じてくれなかった」
「当然よ。新国連の封蝋つきの封筒に徽章入り便箋、そして指定場所がここじゃなけりゃとても来ようとは思わ
なかった」
「それでも来てくれたってことは話を信用してくれるのかな。ありがたい事だ」
「話が冗談じゃないってことだけよ、信用したのは」
「そりゃどうも」
 共に表情一つ変えない、不毛な応酬。
 先に折れたのは、女性の方だった。
「で、どこまで社交儀礼をすればいいのかしら」
「ふむ、確かに時間は有限だ。貴女の望みどおり社交儀礼は終わりにしよう。私はレビン・フォティム」
「田中優美清春香菜。握手をする気はないわ」
「イヴ・レイモンドよ。立会人みたいなものだから気にしないで」
 男の後ろ、照明の外から女性の声。暗くて姿は見えない。
 そして…

「茜ヶ崎、空です」






 微かな照明に影が揺らめく。
 永遠とも思える、しかし実際は僅かな沈黙の後、
「茜ヶ崎さん…いや『Lemuの空』と言うべきか。こいつを視てもらえるかな」
 カタッ。
 軽い音を立てて、それは応接デスクの上に置かれた。
 光磁気式リムーバブルディスク(MO)。既に使われない化石のような記憶媒体。2035年のコンピュータには対
応スロットはとにかく対応アプリケーションはまず100%搭載されていない。
「君ならこれが読める。…心配は無用だ。こんな旧式で低容量の媒体に、君に害をなせるようなウィルスなど仕
込めない」
「………」
 男の言うことは正しい。開発開始が20世紀にまで遡る空システムにはこのMOに対応するアプリケーションが有
り、空のボディには対応可能な多機能外部接続スロットが付いている。 
(それに、ウィルスを仕込むつもりならテラバイトディスクを使えばいいこと。わざわざこういう旧式媒体を使
用している理由は、むしろ新国連の職員や各国の外交官に対する用心と考えたほうがいいわ)
「田中先生―――」
「―――いいわ、あんたの土俵に乗ってあげる。空、こっち向きなさい」
 服のポケットに偽装された多機能外部接続スロットにMOを押し込む。僅かなサージ音の後、わずか数秒でMOは
イジェクトされた。
 
 媒体読み込みの時間の、ざっと数十倍の沈黙の後…
「…ミスター・フォティム。これは、嘘ではないのですね」
「ああ、君を騙したところで何の得にもならない。ミス・タナカにも伝えてくれ。君に与えた情報の意味を」
「! どういう、こと?―――答えて空!」
「『「キュレイ種及びキュレイ周辺種の人権の保障及び差別の禁止、情報及び生活の保護に関する新国連憲章」
及び「キュレイウィルス及びキュレイ種及びキュレイ周辺種の軍事利用及び人体実験の禁止に関する国際条約」
草案』。共同提案者は新国連人権擁護局長及び―――アメリカ合衆国政府です」





「なん、ですって――――」
 田中優美清春香菜は、文字通り『言葉を失った』






――キュレイウィルスの研究が最も進んでいるのは、ライプリヒを有した日本である。ライプリヒの本社はドイ
ツであったが彼らはキュレイ種のサンプルを得ることが出来ず、事実上日本本社及びその傘下にあるアメリカ合
衆国の研究所が情報を独占していた。優が知る限り、ドイツ本社のデータバンクには、欺瞞されたダミーデータ
しか残されていないはずである。
 対して、もうひとつのキュレイ、すなわちキュレイシンドロームの研究は事実上一人の化学者が独占している。
そもそも、キュレイウィルスの存在が学会に漏れたのは、キュレイシンドロームの命名者ケビン博士がジュリア
の遺伝子異常を報告したからであり、ウィルスの分離の成功を報告したからである。
 いかなる理由か明らかではないが、ケビン博士はキュレイウィルスについては詳細なデータを示さなかった。
ただ「遺伝子異常の原因となるウィルスを発見、分離した。このウィルスをCウィルスと名づける」とし、RNA
領域の総分子量が約58kDaのレトロウィルスである旨を公表したに止まった。
 ゼロ・キュレイ、すなわちキュレイシンドロームのきっかけとなった少年「トム・フェイブリン」及び初めて
のキュレイ患者「ジュリア(ファミリーネームは公開されていない)」を含めたキュレイキャリアはケビン研究
所に保護されていた。ジュリアの遺伝子異常及びキュレイウィルスの分離の成功が知られたことにより、研究所
は軍事利用を狙う勢力より硬柔さまざまな圧力を受けることになる。
 それに対し、ケビン博士は毅然と対応した。とはいえ、所詮小さな一研究所。経済的な圧力をかければ程なく
屈服するであろうと思われたのだが…
 アメリカ合衆国政府がケビン研究所に対し保護を行う旨を公表したことにより研究所をめぐる騒動は終結した。
しかも、驚くべきことにその保護の為に結んだ契約書は報道各社に公開され、その中には『援助に関し、合衆国
政府はキュレイに関するいかなる情報も要求しない』旨が明記されていたのだ。
 合衆国政府は、ただ、キュレイの情報とキュレイキャリアの流出を防ぐためだけにケビン研究所の保護を行っ
た。このことがキュレイの神秘性に拍車をかけた反面、キュレイシンドローム及びキュレイウィルスの研究は長
らく停滞を余儀なくされることとなったのである―――




「8月に行われる新国連定期総会にこの草案を提案するため、現在水面下で調整が進んでいる。内容から、限ら
れた一部の人間による秘密折衝をせざるを得ないので難航していたが、アメリカ合衆国政府が後ろ盾に付いてか
なり交渉に進展がみられる」
 優を衝撃から立ち直らせたのは、無機質なレビンの説明だった。
「だが、現状において採決に持ち込んだ場合非常に微妙な情勢…いや、隠し事は無しだ。
 現状ではほとんど可決の見通しが立っていない。合衆国政府も、8月の総会に草案提出できなければ共同提案
から降りると言ってきている」
「あきれたわ。勝算も無しに賭けに出たって事?はっきり言って迷惑ね」
 肩をすくめ、両手の平を上に向けてみせる優。
「違うと言いたいが、全くもってその通り。我々は最後の切り札、一回しか使えないカードを切らざるを得なく
なった」
「ふん。やっぱり隠し札があるってことか…ってまさか!!」
「やっと理解したようだな。察しの通り、そのカードは僕の手には無い。事実上貴女が持っているようなものだ」
「嫌、絶対嫌!それだけは御免だわ。友人として、いや、人間としてそれだけは出来ない!!!」
「ここまで聞いておいて、逃げを打つのはやめてもらう。僕は、この為に貴女を招待した」
「いやよ、いや…」


「新国連総会で…」

「お願い、その先を…」



「参考人として…」

「…言わないで…」



「貴女の友人である…」

「言わないでって、言ってるでしょうが!!!!!!!」



 全ては一瞬。
 優がレビンに掴み掛かる。
 キュレイのスピード。常人には反応できるはずなど無い…

「え、っ―――」
 彼女の首に入る手刀。
 一瞬眼がくらみ、
 優の手は空を切り、

 当然の結果として、彼女は前のめりに床に転がることとなった。



「やれやれ、こういう荒事は僕は好きではないんだけど」
 涼しい顔のレビンを横目に、空は優に駆け寄った。
「大丈夫、ですか?」
「あつつっ、あんた、何者よ?」
「そんなことはどうでもいいよ」
「なんですって!!!」
「冷静になってほしい。君はいったい何人の努力を無駄にするつもりなのかい?」
「えっ」
 優が眼を丸くする。その発言に、なによりも先ほどと全く異なるレビンの口調に。
「この草案を形にするのに、多くの仲間の努力と、多くの資金と、多くの時間がかかっているんだ。そして、や
っとここまで来た。
 君がツグミを想う気持ちは分かる。僕も、本当はツグミを巻き込みたくはなかった。だけど、この法案にはキ
ュレイの未来が掛かっているんだ。
 もう、僕の持っている力では無理なんだ。だから、恥を承知で頼む。
 8月の新国連総会で、参考人として『小町月海』に発言してもらえないだろうか。過去を語ってほしい。望む
未来を語ってほしい。
 もはや、理性や打算で動くモノは全て動かした。後は、ツグミに、感情を、世論を動かしてもらうしか見込み
は無いんだよ」






 永遠とも思える時間。
 その果てに、優は…





「分かったわよ。
 ただし、私はつぐみに伝えるだけ。決めるのはつぐみよ。もし上手くいかなかったからって、私を恨まないで
よ?」
「ああ、それでいい。連絡先はさっき空にMOで与えたデータの中に入っている。新国連の工作は任してくれ。朗
報を期待している」
「…一つだけ教えて欲しいことがあるの」
「構わない。とりあえずこちらが一つ借りだ。借金は早く返しておきたい」

優はゆっくりと呼吸を整える。

「教えなさい、あなたがこの草稿をねじ込む時に使ったカードを。ケビン研究所の件といい、今回の共同提案の
件といい、あまりにも不自然極まりないの。
 有る筈よ。『キュレイが世界的に保護されることにより合衆国が得をする、あるいはそう思い込む』何かが。
 有る筈よ。『キュレイが友好的に存在することが、自国や世界の利益になると各国首脳が思い込む』何かが。
 それが形になったから、今、この草案がある。
 一番重要なのはね、天の時なのよ。時を”2035年8月”に選んだ理由が、それなんでしょう?それを教えて貰
わない限り、私はつぐみを説得できない」

「……………」 

「……………」

「……………」

「……………ふ、はは、はは、はははははは!!!流石は徒手空拳で天下のライブリヒを叩き潰した人だ。お見
事、良く分かったね」
「誉められても、全然嬉しくない事ってあるものなのね」
「でも、聞いたら引き返せないかもしれない。それでもいいのかい?」
「そんなもの、2017年にとっくに引き返せなくなってるわよ」
「…いいだろう。察しの通り、この草案が形になったのはあるプロジェクトにキュレイ種が必要になったからだ。
しかも、平和的に、友好的に。強制的に参加させても、このプロジェクトは成功しない。しかも、これは等価な
取引ですらない。事実上キュレイ種にとってテイクアンドテイク(総取り)と言ってもいいものだ。千載一遇の
チャンスだったんだ」
「能書きは結構よ。結果だけ言いなさい」
「ああ、長い話になるから、出来るだけ手短にまとめよう。その計画のコードネームは」




「『ノア』だ」





                                   ―to be continue next half―
今回、作者初の前後編です。(これは前編に当たります)

 詳しい後書は後編にて書く予定です。

 できれば、後編も読んでいただけるとうれしいです。

 それでは、今回はこれにて。



2006年3月18日 あんくん             


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