本編11

「アルバイト？」
「ええ。悪いけど、お願いできないかな」
　平日の昼下がり。たまたま講義の間が空いていたホクトと沙羅を呼び出した優の第一声が、それだった。

「なんでまた？学生アルバイトくらい、募集すればいいんじゃねえか？」
　同席した武が、しごくまっとうな質問をする。
「それが、そうもいかないの。これ、見てよ」
　どさどさーっ
　履歴書の山がダンボールからデスクにぶちまけられる。

「どれどれ…T京大大学院修士課程卒…K都大卒S製薬勤務…こいつは大学生―――って飯田？あの飯田財閥の係累じゃねえかこいつ！」
　一部を手にとって斜め読みした武が、あきれたような声を立てる。
「これっていったい何なんだ」
「アルバイトの応募者の履歴書」
　頭が痛いという感じで、優がかぶりを振る。
「なんじゃそりゃ？飯田コンツェルンの幹部社員募集だってここまでの面子は集まらんぞ…どこぞの大富豪令嬢のお見合い相手選びか、これ」
　武は、お手上げというように手を振ってみせる。
「似たようなものね。キュレイ種やノアプロジェクトとの繋ぎを作りたくてうずうずしてるのよ、彼らも、彼らの黒幕も。雑用アルバイトだろうが、下働きだろうが、この研究所に出入りするきっかけが欲しいって訳。
　優秀な人材は欲しいけど、こんな下心丸出しの連中はさすがにね。今いる研究員たちにも悪いし」
　大人二人、顔を見合わせる。ホクトと沙羅は興味津々という按配で履歴書漁り。　
「かといって、これだけの面子を押しのけて一般アルバイトを採用するのも、難しいか」
「なまじっか公開募集したのが拙かったわ。考え、甘かったみたい」
「で、身内にお鉢が回ってきたって訳だ」
　納得したという風に、武がうなずく。
「そういうこと。身内で、しかもキュレイ種の一員だから。研究所に出入りしても不自然じゃないし、何か言われても小町法を盾に押し切れる。と言うわけで、お願い！ホクト、沙羅。バイト代弾むから、ね？」
　両手を合わせて拝み倒す優。

「うん、いいよ。お小遣いくらい自分で稼ぎたかったし」
　ホクトはむしろ喜んで応じる。
（これで、はばかりなくデートが出来る！）

「沙羅は構わないよ。その代わり中央電算制御室、使わせて？」
「いいわよ。むしろそっち方面をお願いしたかったから」
「やった！…今に見てなさい、彼方ちゃん。今度こそ完全無欠に叩きのめしてあげるんだから」
「「「…」」」　
　驚くべきことに二人の勝負は互角。コンピュータ勝負こそ沙羅の全勝だが、完勝したことがないのもまた事実。その他の勝負はやや彼方有利だったものの、これまたシャットアウトで勝敗がついたことがない。
　と言う訳で、強敵と書いて「とも」と読むような関係を二人は築きつつあった。

（やりすぎなきゃいいけどな…）
（もう、こうなったら止められないわよ。後始末、よろしく）
（優、それって卑怯じゃねえか？）
（あなたの娘でしょ！責任は持ちなさいよ）
　こそこそと不毛なひそひそ話を繰り広げる大人達を尻目にして、ホクトと沙羅のアルバイトは決まったのであった。

未来へ続く夢の道　－本編11　キュレイウィルス②－
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　あんくん

　当たり前の様に、沙羅はセントラルコンピュータを含む殆どのコンピュータのシステム構築やメンテナンスを担当する事になった。その中には「空システム」も含まれる。
　それに対して、ホクトは力仕事や雑用を主に担当する事になった。特に決まった配置があるわけではない。とりあえず、最初の内は桑古木について、いろいろ覚える事になる。

そんな日々が続く中。

　　　　午後1時50分　田中研究所３Ｆ所長室

「ねえ、桑古木さん」
「ん？なんだ、ホクト？」

　この日、優は不在。桑古木は決裁書類や高密度圧縮データシートの山に埋もれて、所長業務の代行をしていた。
　今日のホクトの仕事は、そんな桑古木のサポートだった。決裁された書類やデータシートを、各々の部署に持っていく仕事。
　何回か往復して、書類の量も減ってきた頃、ホクトの口から意外な言葉が漏れた。

「僕たちサピエンスキュレイ種って、いったい何者なの？」

　無意識の内の言葉。ホクトは言ってしまってから、その意味に気付く。あわてて、
「御免なさい。こんな事、聞いちゃだめだよね？」
　謝った。しかし………

「そろそろ、そういう時期だと思っていたさ…こっちに来い、ホクト」

　ホクトの腕を取り、所長室の隣の部屋―副所長室に連れて行く。
そのまま、デスクの前に椅子を持ってきて、ホクトを座らせる。

　桑古木はデスクに付き、部屋に付属している情報ディスプレイのスイッチを入れる。
『どうされました、桑古木さん？』
　ディスプレイに、空のバストショットが表示された。
「ボディメンテナンスの最中に済まないが、この部屋と所長室の防諜システムの強度を上げてくれ。俺とホクトは所長室で決裁書類の山と格闘している。そういうことだ」
『了解しました。ボディメンテナンス中は私はコンピュータネットワークの中にしか居られませんので、いい暇つぶしになります。強度はデフコン４で宜しいですね？桑古木さん』
「ああ。あと出来たらでいいんだが、この事は優には内緒にしてくれないか？余計な心配を掛けさせたくない」
『心得ています。最大防諜可能時間は77分間。誤差は±17分です。その間に、終わらせてください』
「ああ、感謝するよ空…それじゃ、よろしく」
　ディスプレイの電源が切れる。

「…さて、それじゃ話してやるよ。時間的に一度しか話せないから、そのつもりで聞いてくれ」

「サピエンスキュレイ種の話をする前に、まず、減数分裂の話をしなければならないな」
「減数分裂？」
　ホクトが怪訝そうに首を傾げる。
「まあ、分かりやすい表現をすれば、子孫を作るためのメカニズムだ」
　頭の中にある想像が浮かび、真っ赤になるホクト。
「…思春期だねえ。まあいい。ヒトの染色体は全部で22対+性染色体1対。合計46本でできてるってのは知ってるよな」
「うん」
「細かいメカニズムは省くが、最終的に生殖細胞は減数分裂の結果、おのおのの対の一本だけを受け継ぐ。だから、染色体の本数は22本+ＸかＹの性染色体1本になる。ここまでは、分かるよな」
　ホクトは頷く。
「一本の染色体につき一本だけのDNAが入っているわけだから、DNAの本数も23本になるわけだが…
　このＤＮＡは、親が持っていた2本の元DNAの内のどちらかだ。だから、親のＤＮＡ2本の内の一本の遺伝子を必ず完全に受け継ぐ。これは、当然だよな」
「うん、そう思うよ」
　桑古木、ニヤリと笑う。
「残念ながら、不正解だ」　

「ええっ、なんで？」
驚くホクト。
「『乗換』って言ってな、対になる染色体同士、情報交換をするんだ。その際、情報が置き換わる場合がある。だから、必ず一致するとは限らない。
遺伝子学では常識なんだが、世間じゃあんまり知られていないんだよ、こいつは」
「ふうーん。結構、奥が深いんだね」
「…先を続けるぞ。本来『乗換』ってのは文字通り、情報を入れ替えることなんだ。だから、2つの染色体を合わせれば、遺伝子自体は変化しない。異なる遺伝子がある部位で『乗換』が起こっても、結果として同じ遺伝子2つに置き換わるって事はないんだ」
「ふむふむ」
「ところが、例外が一つだけある…キュレイ種のCp53-とCp1700だ」

「まず、Cp53-だが…結論だけ言うと、『乗換』の結果、全部、Cp53+になってしまう」
「ええっ、なんで？」
「意外と、理由は単純なんだな。もともとCp53+とCp53-の違いは、繋がっている環が逆なだけなんだよ。
　『乗換』の時、乗り換える遺伝子は一度DNAから切り離されて、移動した後、もう一方のDNAにつなぎ合わされる。だから…」
「あっ、そっか。そのとき、Cp53+はそのまま繋がるけど、Cｐ53-は繋ぎ方が逆になるんだね！！！」
ぽん！っと手を叩き、ホクトが嬉しそうに答える。
「そういうこった。裏の裏だから表になる。逆に繋がっちまったものをもう一回逆に繋ぐから、元に戻っちまうんだ」
「へえ、面白いんだね」
「さて、次に、Cp1700なんだが…」
そこで、桑古木は言葉を切った。
「？」

「ホクト、お前、漢の約束、守れるな？」
「えっ？どういう、事、なの？」
「漢として約束しろ。これから言う事、見せる事、全て誰にも言うな。優だろうが、ユウだろうが、つぐみだろうが、沙羅だろうが…武だろうが関係ない。俺がいいと言わない限り、一生黙りとおせ。いいか？」
真剣な表情。
「うん、分かった。桑古木さんが、お父さんにさえ言うなって言うくらいだから。本当に大切なことなんだね。倉成ホクトが、漢として約束する。絶対に誰にも言わない」
「ああ、それでいい。…空、聞いているんだろ？」
『はい、その通りです』
モニターに再び空のバストショットが写る。
「TuK17pｃ-34、HK17ｓｃ-34、SK17ｓｃ-34の画像を出力してくれ。管理者権限、この件について全てのログは強制消去だ。空、お前さんのメモリーログまで含めてな」
『桑古木さん、本気ですか！！！』
　取り乱す空。ホクトは、ここまで取り乱す空を初めて見た。
「ああ、本気だとも。ホクトは、知りたいと望んだ。そして、当事者のホクトには知る権利がある」
『優さんに知られたら、ただじゃ済まないんですよ！考え直してください、桑古木さん！』
「知った事か！ホクトは漢として約束した。だから、俺も漢として約束を守る。…頼む、空。俺は、空に強制コードで命令したくない」
『そこまで…分かりました。ただし、今回だけです。次はありません』
「―感謝する、空」

…モニターに、三枚の写真が投影される。理科の教科書に出てくる電子顕微鏡写真によく似ている。
　一番左の一枚には2本、他の2枚には1本の白い背景に囲われた細い棒がある。その棒はほぼ全面が黒く、僅か数箇所が白くなっているだけである。
「桑古木さん、これって…」
「ホクト。この4本、同じに見えるか」
「…ううん。4本とも、白い部分の、数と場所が違うね―――もしかして、これ…」
「―――そうだ。左から、つぐみ、ホクト、沙羅のCp1700の特殊電子顕微鏡写真だ。つぐみは正キュレイだからCp1700は二本ある」
「何で…どうして？桑古木さん言ったよね？『乗換』じゃ、入れ替る事はあっても内容が変わることはないって」
「そうだ。だが、Cp1700だけは違う。…その白い部分な、それがCp17。キュレイウイルスCvp17によって書き換えられた部分だ。―――見ての通り、親子ですらその塩基配列は一致は愚か配列法則すら見出せない。
　呆れたことにCp17を含めたCp1700部分は『乗換』の時にすら活性を持って、どさくさ紛れでCp1700を書き換える」
　ホクトは、口をぱくぱくと開閉する。言葉を発したいのに、発する言葉も見つけられない。
「前、優が言ったよな。『Cp1700は「キュレイ種のアルゴリズムの鍵」だ』と。その推論にダメを押したのが、こいつなんだよ。
　減数分裂は2段階に分かれているが、最終的に染色体数が半分になったときの組み合わせが何時決まっているのか実は分かっていない。だが、少なくともCｐ1700を持っている場合、『乗換』の段階で決まっていると見ていい。でないと、アルゴリズムが確定できないだろうからな。
…済まなかった空。もう消してもいいぞ」
　画面がブラックアウトする。
「実際に見てもらったほうがいいと思ったから、見せた。こうなったら、もう隠し事をする必要も無い。
　極秘裏に、先天性キュレイ種―両親とも正キュレイ種だ―の情報の提供も受けている。その子のCp1700も両親のCp1700とは似ても似つかない塩基構成だったし、ｐ53が両方ともCp53+に変わっていたよ。
　今まで話した事がブラフじゃないって事、分かって貰えたよな？」
　首肯するホクト。言葉は、無い。

「それじゃ、本題だ。サピエンスキュレイの特徴、教えてやる。…まずは、キュレイウィルスについてだ。大きく分けて、二つある。『なぜ、キュレイウィルスを持っていないか』と、『なんでキュレイウィルスに感染しないか』だが…先天性キュレイ種と共通の理由なんだ」
　桑古木は、ホクトを真正面から見据える。
「サピエンスキュレイ種は、Cp1700とCp53+を持つ17番染色体とジャンク遺伝子ｐ1700とｐ53を持つ17番染色体を一つずつ持っている。これは理解できるだろ？」
「うん」
「先天性キュレイ種は、Cp1700とCp53+を持つ17番染色体を二つ持っている」
「うん」
「さて、両者には共通していて、後天性キュレイ種―つまり、俺や優、武やつぐみだな―とは違う点というのは何だと思う？ホクト」
「うーん…」
　首を傾げて考え込むホクト。暫くそうしていたが、急にぽん、っと手を打つ。
「分かったよ、桑古木さん。…Cp53-が無いんだ、僕たちは！」
「正解だ。Cp53-を持たない細胞は、どちらのキュレイウィルスも生成する事は出来ない。ここから先は推測なんだが…Cp53-は『キュレイウィルスの生成を司る遺伝子』じゃないかと考えられている。
　こいつをサピエンスキュレイ種と先天性キュレイ種はもともと欠いている。最初に説明したろ？親が持つCp53-は全て『乗換』の段階でCp53+に変わっちまうから、Cp53-は世代を超えて遺伝する事は無いんだ。これが、サピエンスキュレイ種がキュレイウィルスを持たない理由だ」
「うん、よく分かるよ。桑古木さん、何気に説明、上手いんだね」
　ホクトが目を輝かせる。
「茶化したって、何も出んぞ？時間が無いから、先続けるな。次に『なんでキュレイウィルスに感染しないか』だ。
　キュレイウィルスは2種類あり、殆どの場合、Cvp53が感染した後、Cvp17が感染する。ここで言いたいことは2つある。
　まず、一つ目。同時に感染することは無い。その事が意味するのは…Cp1700とCp53+乃至Cp53-が、同時に書き換えられる訳ではない、という事だ。
　二つ目。言っていなかったが、極希にCvp53に感染していない細胞にCvp17が感染する場合があるが、この場合、その細胞は速やかにアポトーシスを引き起こす。つまり、キュレイ化のメカニズムにおいてはCvp53→Cvp17という感染順番は絶対条件なんだ。」
　一度、言葉を切る。
「さっき言ったことが意味する事は、こういうことだ。Cvp17が感染したとしても、ｐ53が存在するとアポトーシスが起こる。
　ホクト。ｐ53とCp53+の優劣関係くらいなら分かるだろ？」
「うん。キュレイ種って劣性遺伝だって聞いたから。ｐ53が優性でCp53+が劣性だよね？」
「分かってきたじゃないか。だから、サピエンスキュレイ種にCvp17が感染したとしても速やかにアポトーシスが起きるし、万が一それが出来なかったとしてもCｐ53-を欠く細胞ではCvp17は増殖できないから、他の細胞に伝染が拡大する事は無い。だから、Cvp17が先に感染するパターンは外せる」
「ふむふむ」
完全に聴衆モードに入っているホクト。
「次に、Cvp53なんだが…前、優がキュレイウィルスの説明をした時に「Cvp53-ｐ1」って蛋白質の話、しただろう？」
「えっと、確か、
『Cp53+及びCp53-を鋳型とするRNAから合成される蛋白質の一種Cp53-p1が周辺の非キュレイ化細胞の分裂を高度に抑制することが分かっている。また、Cp53-p1にはCvp53の感染誘導性が確認されており、Cp53-p1の細胞内量が多いほどCvp53に感染しやすい。キュレイ化の促進にかかわっていると考えられている』
だったよね」
「相変わらず、ホクトの記憶力はいいな。羨ましい。優もこれ位だったら…って、話が逸れたな。確かにホクトの言ったとおりなんだが、抜けている要素がある」
「？」
「Cvp53-p1は、確かに細胞膜を透過して他のサピエンス細胞に入り込むし、サピエンス細胞のCvp53-p1の濃度とCvp53の感染誘導性は比例している。
　が、肝心のキュレイ細胞のCvp53-p1の濃度について説明は受けていないだろう？」
「あ、そういえば…」
「あともう一つ。そもそも何で『Cvp53-p「1」』なんだ？」
「って、もしかして『Cvp53-p2』が…」
「正解。有るんだよ、『Cvp53-p2』が。
　こいつはCvp53のカウンター蛋白質。…Cvp53のキュレイ細胞およびサピエンスキュレイ細胞への感染能力を完全に奪ってしまう。詳しい事は分かっていないが、どうもCvp53のエンベローブを変化させ、分解できないようにするみたいだ。今までの観測では、そうなった後17時間程度でCvp53はヌクレチオド（核酸の元物質。これを元にDNA・RNAが合成される）に完全に分解されてしまう。それもあって、Cvp53-p2の含有量が多い細胞にはCvp53自体が近寄らないんだよ、これが。
　先天的キュレイ細胞、後天的キュレイ細胞、サピエンスキュレイ細胞全てでCvp53-p2の生成が認められている。このことから、Cvp53-p2は、どうやらCvp53+をベースに合成されていると考えられている。しかもこのCvp53-p2はCvp53-p1より優性で、細胞内にあるCvp53-p1を細胞膜の外に追い出すんだ。だから、キュレイ系の細胞のCvp53-p1濃度はとても低い。
　これが、先天的キュレイ種やサピエンスキュレイ種がキュレイウィルスに感染しない理由だ」
「ふう～ん…って、待ってよ、それだったらCvp53-ｐ2ってキュレイウィルスに対するワクチンになるんじゃないの？桑古木さん？」
　勢い込んで、ホクトが桑古木に詰め寄る。
「―――ふっ、そこまで甘くは無いぞ、ホクト。このCvp53-p2ってのは、サピエンス細胞にとっては異物なんだ。実験してみたが、片っ端からp53の作用で分解されて30分も持たずに計測限界以下に数を減らししちまった」
「―――残念だなあ」
　落胆するホクト。
「そういうわけで、キュレイウィルスによる生物種変更は『サピエンス種から後天性キュレイ種』の一パターンしかないと言うわけだ。理解できたか？」
「…うん、なんとか」
　ホクトは頷く。

「それじゃ、ラストレッスン。サピエンスキュレイの単独特徴だ」
　一息入れてから、桑古木は口を開く。
「気付いていないようだがな。さっきの話の中には、矛盾がある」
「えっ？どこが！！！」
　驚くホクト
「二つ、だな。
　まず、一つ目。p53がCp53+より優性なのに、サピエンスキュレイ種のCvp53-p2は何で分解されないんだ？」
「あっ！そういえば、そうだ」
「二つ目。ホクトと沙羅のインフラビジョンはどう説明する？Cp1700も劣性、Cvp53+も劣性じゃインフラビジョンは継承できないぞ？」
「むむーう。確かに、言われてみるとそうだね」
　ホクト、大混乱。

「ここで、根本的な考え違いが説明できるんだ」
「？」
「普通、遺伝子1個に乗っている遺伝情報は1つだけ。これを仮に『単一情報遺伝子』とでも呼ぼうか。
対して、一つの遺伝子に大量の遺伝情報が載っている場合がある。こいつを仮に『複数情報遺伝子』と呼ぶ。
　単一情報遺伝子なら、そのまま優性・劣性が遺伝子全体で論じられる。
　複数情報遺伝子も、普通は遺伝子全体で優性・劣性が論じられるんだが…Cp53+、Cp1700はちょっと違う。
　劣性遺伝にも、いろんな形式が考えられるんだよ。こんなふうにな」
　モニターに、「単純劣性」「抑制」「賦活」の文字が示される。

「こいつは説明しやすいように単純化した名称だ。正式な用語じゃねえからそのつもりでな。
『単純劣性』は文字通り、二つ揃わないと遺伝子活性そのものが生まれないタイプだ。単純だろ？
『抑制』は、相手側の遺伝子の力のほうが強くて力負けし、こちらの遺伝特性が消されてしまうタイプ。
『賦活』は逆で、こちらの遺伝子が相手の遺伝子を強化してしまって、結果的に相手の遺伝特性のみが出てしまうタイプ。
　さて、後者二つと最初との違い、分かるか？」
「えっ、えっ、えっ？」
　混乱に滑車が掛かる。
「―――時間ねえのに。しょうがないな。
　簡単なんだ。前者は遺伝子自体一つじゃ働かない。後者二つは、劣性遺伝子そのものは一つでも働いている。ただ、力関係で負けているだけ。分かったか？」
「あ、そういうことなんだ。そう言われると、そうだね」
　ホクト、納得。
「…続けるぞ。
　p53とCp53+、及びp53とCp1700は後者の関係なんだ。だから、Cp53+とCp1700の特性は殆ど消されちまっているが、僅かに『抑制』も『賦活』も起こらない遺伝特性も例外的に生まれる余地が出てくる。
　Cp53-p2はその数少ない例外なんだ。
　インフラビジョンも、そうなるか。こいつはCp1700の管轄だから、個人差ってものがある。
　優が言っていたろ。『過去、経験していない事は遺伝情報として書き込めない』ってな。つぐみの先祖の中にはインフラビジョンを持つものがいて、その遺伝情報が残っていた。俺たちはそういう祖先がいなかったか、他の情報が上書きされて消えちまったか…まあ、そういうことだな。
　殆どのキュレイ種特徴は消えちまうが、ｐ53との力関係やCｐ1700の引き出す情報により、サピエンス種と一部違う特性が生まれる。これがサピエンスキュレイ種の特徴だ。分かったな？」
　一気に説明してしまう桑古木。
「へー。僕、考え違いしていたよ。正しいのは『優性・劣性って遺伝子単位じゃなくて遺伝情報単位で判断される』ってことなんだね」
「ほう。武と一緒で、肝心な事になると理解が早い。そういうことだ」
　桑古木が話をまとめに掛かる。

「って、ちょっと待って！」
　ホクトが、突然話をさえぎる
「『p53とCp1700』ってどういう事？それって、対じゃないよね？」
「―――ちぇっ、気付いたな。まあ、カマかけた俺も悪いか」
　桑古木が頭を掻く。
「サピエンスキュレイ種のCp1700は不安定なんだ…ぶっちゃげた話、こいつはもう一方のジャンク遺伝子ｐ1700に常にちょっかいを掛け続けている。
　それに対してp53が遺伝子回復機能を総動員して応戦している。そういう関係だ。その中でCp1700の遺伝特性を消している。ｐ53とCp1700はそういう関係なんだよ」

　言葉を切り、まじまじとホクトのほうを見る。
　今までの「真剣な顔」が腑抜け面に見えるほど、切羽詰った表情。
　ホクトは、そんな桑古木を初めて見た。あの「漢の約束」の時ですら、こんな表情は見せなかった。

「最後に、これだけ言っておく。

　キュレイウィルスってのは、ご都合主義の塊だ。

　殆ど血液中にしか存在しない上嫌気性で淡水に弱いから、排出されたウィルスは速やかに死滅する。故に自然に感染することはなく、そのくせ全てのサピエンス細胞に感染でき、キュレイ周辺種には感染しない。宿主を殺すような増殖もせず、造血細胞を除きウィルス生産細胞化することなく、ウィルス増殖機能は遺伝しない。
　これは、まるで特定の人間をキュレイ種化することだけが目的としか思えねえ。その上ウィルス自体に自己保存本能が皆無じゃねえか。違うか、ホクト？」
「う、うん」
圧倒されるホクト。
「希に、こういった『あらゆる条件が現状において目的に対し有利に働く』状態ってのがある。
　そういう状態を普通こう呼ぶんだ。『ｋ…」

『桑古木さん！欺瞞時間が限界です！現在経過時間67分。あと1分強しか持ちません！』
　その時モニターに空が強制介入。
「って、もうかよ！すまん、ホクト。話はここまでだ。所長室に戻るぞ！」
「う、うん！」
　大慌てで所長室に駆け戻り、二人は元の作業を再開した。

午後5時00分　田中研究所３Ｆ所長室

　その後丁度2時間が過ぎ、終業時間となった。二人とも作業は上の空。全く進まない。
「御免なさい。あんまりお手伝いできなかったよ」
「あの後だ。俺も悪い。気にするな」
　あいさつもそこそこに、お互い部屋を出る。廊下の突き当たりで、無言で二手に分かれた。

　後に、ホクトはこのときの桑古木の表情の意味を、知る事になる。

午後5時00分　田中研究所３Ｆ　空システム調整制御室前

「あーっ！空さん、空さん！」
八神ココが、ドアから出てきた人物に手を振る。
「ココちゃん。迎えに来てくれたんですか？」
「うん！！！２日ぶりだもん。早く逢いたかったから」
「ふふふ、有難うございます。メンテナンス自体は終わっていたんですが。体の慣らしに3時間半くらい掛かるんです。その間は無理が出来ませんから」
「そうなんだー。まあいっか。帰ろ、空さん」
「ええ」

　　―　To Be Continue　―

後　　書

　序章から数えて記念すべき17作目になりました。それ故、E17に直結する題材で攻めてみたのですが。
　書いていて、自分でも訳が分からなくなりかけたあんくんです。
　一番の難題を自分的に解決してほっとしております。（まあ、俺設定なんですがね）

　生化学的に考察した場合、一番考察の幅を狭めているのがキュレイ種の遺伝チャート。
　サピエンスキュレイ（ハイブリッドキュレイ）種同士なら1/4でサピエンス種とキュレイ種、1/2でサピエンスキュレイ種っていうことは…厳密にやるならｐ53遺伝子一つのみで、少々無理してもヒト17番染色体のみでキュレイ現象を説明しないといけない。全遺伝情報の3％も無いんだぞ？
　キュレイウィルスに感染しない件にプロウィルス細胞の件に（基本的に、レトロウィルス感染細胞は死ぬまでウィルスを産生し続けます）、極端に低い他個体感染性に、極端に高い分化細胞感染性に、紫外線の件に、インフラビジョンの件に、制御された癌性増殖の件に…
　そして、挙句に物語的伏線まで張らなきゃいけないと？無茶だよそれっ！！！

　といった諸問題を解決するべく努力したのがこの考察。
　はっきり言ってあちこち反則技使ってますが、私の頭では、これが精一杯の生化学寄りの考察になります。Ｃｐ1700なんて、生化学的には超反則技ですからね。

　次回は、頭を切り替えてほのぼの話（の予定）。そういえば、優春の誕生日って過ぎてるし！あああ、お誕生日ＳＳも考えていたのにっ！

…最後に、ここまで読んでいただいて有難うございました。

2006年4月8日　　あんくん

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