2036年11月10日(月) 午前9時00分 田中研究所3F 中央電算制御室



「沙羅、準備出来てる?」
 開口一番の、優の言葉はこれだった。
「OKでござる、優殿。…どうして沙羅はこっちなのかな?」
 不満げな表情の、沙羅。
 この中央電算制御室は、今では沙羅の根城と化していた。そんな定位置に居ながら、何故か沙羅は不機嫌であった。
「しょうがないわ。沙羅は隠し球だからね。晴れ舞台に出たいのは分かるけど、切り札ってのは最後まで取っておくものよ」
「まあ、言いたい事は分かりますけど」
「それに、これはセレモニーだから。こういうものはお偉方に押し付けとけばそれでいいの」
 優は、肩をすくめて、両手のひらを上に向けてみせた。
「理論や現状の開発度を知識として知ってはいるけど、流石に初物の実験台だけは御免だわ。だからこそ、バックアップって言うのは重要なのよ。判るでしょ、沙羅」




未来へ続く夢の道 
−本編14 RTS〜量子テレポーテーションシステム〜−

                              あんくん





 先週の世界中の主要週刊誌の一面は、まともな雑誌からゴジップ専門のそれまで含めて全く同じ記事であった。
『量子テレポーテーションシステム、実用化に成功。
 来る11月10日よりキュレイ3研究所及び新国連による遠隔地間の量子テレポーテーションシステムの継続的実用実証実験が行われる旨を、NUNCPCおよびノアプロジェクト実行国際委員会が発表した。
 このシステムは、ノアプロジェクトの一端を担うものであり…』
 この記事は、文字通り世界に驚愕の嵐を巻き起こした。元々のノアプロジェクトにおいても量子テレポーテーションの使用は明言されていたが、まさか計画発表後1年余りで実用型のシステムが実証実験まで漕ぎつけるとは、専門家になればなるほど想像できなかったのである。
 NUNCPCは、この事実を敢て隠蔽せず、全世界に声明という形で発表した。製造企業や詳しい技術を含む詳細は極秘とされたが、この手のものはいつまでも隠蔽できるものではない。そして、もう一つ。

『ミズ小町の魔法が効いているうちに、ノアプロジェクトを夢物語から実現可能な目標に変えなければならない。ノアプロジェクトが机上の空論になる時は、我々キュレイが滅びる時だ』
 トム・フェイブリンが、妻に語った言葉。これが彼の意図を雄弁に物語っていた。



「そういう訳で、沙羅には、RTSのバックアップと…水際作戦をお願いするわ」
「!」
 沙羅の表情に、さざなみが走る。
「今回はリミッター無しでいいからね。文字通り剣が峰よ、今日は。この実験が失敗したら私達の未来は失われると言っていい。他人の技術に命運を左右されるのは気に入らないけど、それしか方法が無いのなら守り抜くのに躊躇はしない」
「…出てくるんですね、世界最強クラスのクラッカーが」
 真剣な顔。『アンチクラッカー』としての沙羅が、再び表面に出る。
「分からない。でも組織のお抱えの中の最強は、間違いなく出てくる。キュレイに世界の注目を奪われる事を嫌う輩、選民思想に凝り固まった輩、単純にキュレイ種の存在そのものを嫌う輩。そういった者達にとっても、今日は分水嶺。
 この実験が成功し、RTSが現実に『使えるものだ』と分かってしまえば…ノアプロジェクトは止まらなくなる。RTSの多少の事故程度ではね。次の機会まで、かなりの時間を待たなければならなくなるの。
 だから、彼らは今日、事故を起こさなければならない。『量子テレポーテーションなど夢物語である』。その様に思わせるためには、今日じゃなければならないのよ」
 優の顔も、真剣。17年を生き抜いた、あの時の表情に戻っている。
「もしかして、彼方ちゃんが急に実家に帰ったのは…」
 沙羅の言葉に、
「その通り。守野遺伝子学研究所の防衛に回ってもらったの。あの子のコンピュータ技術、沙羅の仕込みだからね。最強クラスの相手にも、引けは取らないでしょう。システムそのものも空が再調整してあるみたいだし。
 残りの二箇所は…まあ、これは相手に任せましょう。新国連のものは今日は使用しないでしょうし。キャビン研究所については、あの陰険坊やがこの程度の事考えないとも、まして何の手を打たないなど想像もできないからね。
 でも、最強の手駒はあなたよ、沙羅。最悪の場合、他の研究所のシステムもあなたが防衛しなさい。回線を開いたままでの広域防衛戦。勝てる自信、あるかしら?」
 薄笑いを浮かべながら優が応じ、
「そんな飼犬程度に、沙羅が負けるとでも?どんなに強くても犬は狼には勝てないんですよ、優さん。
 ママとパパが、体を張って作ってくれた『優しい世界』。その程度の輩如きに汚させてたまるもんですか」
 灼熱の怒りと、冷徹な分析。その二つを同居させた沙羅が、峻烈な、しかし的確な比喩をもって話を締めくくった。
「上出来。もうすぐ、あなたの家族全員がここに来る。後はお願いするからね」




  2036年11月10日(月) 午前9時00分 田中研究所3F 危険物保管室



「…本気、なんだな」
「…ああ。冗談でこんな物、渡すかよ」
 武の表情は、今まで見たことの無いものだった。
 真剣でありながら、困惑。そんな武の視線の前にあるもの。
 ケブラー・ベスト。フェイスギア。簡易防弾ゴーグル。軍用ブーツ。ケブラー製ボディスーツ。ここいら当りはまだいい。正規ルートで手に入れれば、法には触れない。
 だが。
「アーミーナイフはともかく、この銃を使うのか?」
 テーブルに置いてあるのはFN/P90-2035r。FN社製の傑作サブマシンガンFN/P90の後継銃。完全な治安部隊専用銃である。その最大の特徴は…
「サーマルホーミング機能付。引き金を引くときの僅かなタイムラグを利用し、照準を微調整する。素人でも、銃口がある程度標的に向いてさえいれば命中するように自動的に銃口が動くんだ。まあ素人向きだし、メンテナンスが大変なんで皆使っていないんだがね」
「本当に使っていいのか、涼権?」
「新国連経由で特別許可は取ってある。この研究所は、世界においても重要な拠点なんだぜ?
 それにそいつは只のお守りだ、武」
 ずっとしかめっ面だった桑古木の顔に、いつもの表情が戻る。
「そいつを使わないようにするのが、俺や他の専門家共の役割だ。だが、最悪の場合、武が最終防衛線になる。ホクトにさせるつもりなど、毛頭無いんだろう?」
「当たり前だ。妻子を守れずして、何が父親だ」
「そういうことだ。取り扱いは、今まで説明したり訓練した通りだ。そいつを使わせないよう全力を尽くすが、最悪の場合は、頼む」



  2036年11月10日(月) 午前9時45分 田中研究所3F 所長室


 プシューッ。圧縮空気音と共に、ドアが開く。
「涼権、終わった?」
 入ってきた人物に、部屋の主が声を掛けた。
「ああ。表では一大イベントだが、裏では不正規戦の戦場だな」
「どっちも未来が掛かっている。情報統制が利いていて、敵の準備期間が短いのが救いね」
「まったくだ。…ところで、システムの正式名称、聞いたか?」
「ええ、全く舐めてるわ。よりによって『アルテミス・システム』とはね。つぐみに引っ掛けてるのよ、あの陰険坊やは」
 二人顔を見合わせ、なんともいえないあいまいな表情。
「で、月の女神の手には弓があり…」
「足元では、狼が牙を研いでいるって訳。全戦力を、投入しているらしいわ」
 お手上げという風に、優が虚空に目を泳がせる。
「『矢』と『狼』両方共って訳か。トムも本気だ。だったら、俺達は、ここだけ死守すればいいって事かな」
「そういう事。守野の方も万全みたい。唯一の穴も、彼方が埋めてくれたから」
「春の一件で、国内の連中は懲りているみたいだしな。それでも、用心はしすぎることは無い」
「同感だわ。狼を何匹か預かってるから、万が一の時は使って」
「了解した。表の事は頼んだからな、優」
「私を誰だと思っているの?あんたこそ、ぬかるんじゃないわよ」




  2036年11月10日(月) 午前11時17分 田中研究所RTS棟 中央制御室



 RTSの為にのみ用意された建物。最初は、P3対応の細菌研究施設及びレーザー通信システム用というカモフラージュの元で設計・建設された建物である。
 そのRTS専用棟の一部に、小型のRTSユニットが設置された。広大な空間の隅にブースを区切り、ちょこんとした感じで置かれている。
 そんな空間を一望できる位置にある、中央制御室。最新鋭の機材類が設置されたその部屋に、優はいた。
 制御室の空いたスペースに設けられた貴賓席。そこには、文部科学省の大臣を始めとしたテクノラート(技術官僚)達や、日本一の座を争っている大学の学部長クラス、超一流を謳われる研究者達及び報道関係者がすし詰めになって、眼下の光景や監視カメラの映像に見入っている。
「今回の実験の主眼は、長距離転送の安定性確認にあります。研究室レベル及び近距離転送は既に実証実験は完了しており、1000トンを超える質量であっても問題なく転送できる事が実証されております…」
 優が、NUNCPCから送られてきた説明文を、そのまま読み上げていく。凛としたその姿は、優の持つ大人な美貌を引き立て、その質問文に対する疑問を封じていく。
(でも、『百聞は一見に如かず』。ここで失敗したら、密室実験の過去も只の偽情報としか思われなくなってしまう)
 そんな内心の不安を押し隠し、優はこの場の責務だけを果たしていった。




  2036年11月10日(月) 午前10時00分 田中研究所3F 中央電算制御室



…時間は、遡る。表においては何も始まっていないが、この時点で、既に戦争は始まっていた。
「やっぱり、前の時のクラッカーとは格が違う。そう思わない、ママ?」
「…私程度じゃ、圧倒されるかも。システムサポートを受けて、やっと互角ね」
 沙羅とつぐみの会話が、現状を物語っていた。
『前夜祭』
 最初のサイバー戦の序盤を、沙羅が表現した言葉。正にその通り。
 あの時とは比べ物にならない激烈なサイバースペースの戦争が、展開されていた。
「しかも、優さん、狸。何が『RTSのバックアップ』なのよ!管理者権限、全部こっちに回ってるじゃない」
 

 そう。あのRTS中央制御室そのものが、現状では張子の虎。大規模な『トロイの木馬』なのだ。
 いかなるルートを経由しようとも、RTS管理棟ネットワークシステムにアクセスしてくる情報は全て敵性情報としてインタセプト。RTS中央制御室で処理されたデータは、直結回線で中央電算制御室に送られる。
 つまり、RTS中央制御室には外部に接続する回線は中央電算制御室への直結回線しかない。更にRTS中央制御室には、

『茜ヶ崎 空』がいる。

 この日に限定して空システムはRTS中央制御室のメインコンピュータに直結され、他の研究所全システムからは切り離された。彼女の能力は、全てRTS中央制御室のコンピュータの管理とセキュリティに向けられている。そんな彼女の目をかいくぐり、オペレータが敵性行為を行うなど不可能。
 今回に限り、制御室やRTS装置への直接的な破壊工作は無いと考えてよい。敵組織にとって、RTS実験の失敗は『テロ的妨害行為の結果』ではなく『RTSそのものの欠陥の結果』でなければならないのだ。
『テロ的妨害行為の結果』となれば、文字通り世界を敵に回すことになる。故に、それは無い。


 そういう訳で、緒戦はこちらが圧勝。RTS中央制御室への攻撃は、逆に敵にとって特定と殲滅のための情報提供にしかなっていなかった。だが…
「流石ね。たった1時間足らずで戦術を統一して、中央電算制御室に戦力、集中してきた」
 今回の攻撃側の強みは、『只の破壊工作』で目的が統一されている事である。情報奪取なら、クラッカー同士も敵。だが、今回は攻撃側が全員協調する事が可能。もっとも意思の疎通もなく、元来コミュニケーション能力を欠いた者同士の連携であるからたかが知れてはいるが、それでも『共食い』が無いだけでも脅威度は段違いに高まる。
「正直、正しいってことは分かってるのよ。優さんの手段が。だけど、こっちの身にもなって欲しいんだよね」
 こんな協調攻撃を、経験値が全く無いRTS中央制御室のメインコンピュータが沙羅のサポート無しで受ければ、とてもたまったものではなかっただろう。だから、主戦場を中央電算制御室に限定した優の判断は正しい。
 しかし、それによる反作用もまた強烈だった。
 空と沙羅が協力して組んだシステムだから、保っている。並みのシステムだったら、とっくにクラッシュアウトしていてもおかしくない。特に通信制御システムは量子テレポーテーションに必要な大量の情報を送受信するために回線を空けておかなければならない故に、敵の攻撃を甘んじて受けなければならない。それでも必要な回線の太さは確保しないといけない。
 各研究所を結ぶ専用回線。これに繋がるどこかの研究所のセントラルコンピュータが陥落すれば、全てが終わる。大量のノイズデータを流され、量子テレポーテーションは失敗するであろう。
 回線を閉じれば、攻撃を遮断できる代わりに量子テレポーテーションが不可能になる。そういうジレンマに耐えながら、沙羅とつぐみは必死に防戦を続けていた。
 正直他の研究所も心配だが、相手を信じるしかない。とてもそこまで配慮する余裕が無い。
 全手段解禁で沙羅という最強の人材をもってしても、戦況はそういう状況だった。




  2036年11月10日(月) 午前10時00分 守野遺伝子学研究所 中央電算制御室



「ねえ、いずみ叔母さん。多分、沙羅怒るよね?」
「ええ、そうでしょうね。真実を知ったら」
 激戦を展開している田中研究所の中央電算制御室とは全く異なる光景。
 インターネットに繋がる回線は全て遮断。辛うじてLAN網は生きているものの、これまた全端末を管理者権限で外部接続禁止のセットアップにした挙句、外部接続用のネットワークサーバまで切断している徹底振り。完全にEMCON状態(通信封鎖。アクティブ系の情報手段全てを封鎖した状態)になっている。携帯電話や携帯情報端末も使用不能。電話にしても、モデム全てが物理的に撤去されていた。(もっともこの時代、ナローバンド用のモデムなどほとんど残っていなかったが)
 そういう開店休業状態の中央電算制御室で、石原彼方と守野いずみはお茶をすすり、お茶菓子をつまんでいた。
「もっとも、ここ自体が後方支援。本当の意味でメイデイが来たら、沙羅ちゃんを全力で助けてあげてね」
「当然だよ。でも、沙羅だからそうならないよ絶対。この僕が唯一勝てない相手だから、コンピュータじゃ」
「ふふふ。羨ましい。沙羅ちゃんの事、何の疑いもなく信頼しているのね?」
「…信じているのは、沙羅の実力だよ」
 痛いところを突かれ、歯切れの悪い返事をする彼方。
「とにかく、一回目さえ成功すれば、それでいいんだよね?」
 無理やり、話題を切り替える。
「ええ。プログラムでは最初にキャビン研究所から田中研究所への転送となっているから。その後、田中研究所からウチ、ウチからキャビン研究所の順番。
 敵さんの目的から言って、一回目が成功してしまえば妨害する価値は失われてしまう。こっちも、一回目さえ成功すれば、あとはじっくり準備する余裕が出るわよね。
 だから、通信封鎖解除は一回目が終わってからの予定。そこまでは、沙羅ちゃんに頑張ってもらわないとね」
 にこにこしながら、いずみが返事する。
「…やけに余裕だよね、いずみ叔母さん。なんだか、どっちでも構わないって顔しているよ」
「…分かっちゃった?やっぱり」
 悪戯っぽく舌を出す。希に彼方の母親が見せる仕草。血を感じさせる、そんな仕草。
「うん。できれば種明かし、してほしいな」



「だって、一回目を失敗しても、二回目が直後に必ず成功するんだから。どっちに転んでもいいのよ、大局的には。もちろん、一回目が失敗するのはイヤだけど」





  2036年11月10日(月) 午前10時37分 田中研究所2F 中央警備室



「…ネズミは、既に籠の中です」
 完全な屋内戦装備に身を固めた男が、桑古木に直接報告した。
「今回は、あんた達のボスの情報統制に感謝だな。敵さんの準備期間が短かったから、ここまで教科書どおりに上手く行った。…一箇所だけ空けた穴の中にあっさり入ってくれたよ」
「恐縮です」
 桑古木の賛辞に、男は短く答え、そのまま質問を返す。
「狙撃兵の配備は不要なのですか?」
「…不要だ。今の時間帯に野外待機しているようなボンクラ相手に人員を割く必要は無い。それに、掃除はまめにしているしな」
「愚問でした。忘れてください」
 うっそりと、男が頭を下げる。そんな男を一瞥し
「気にするな。さて…籠の中を綺麗にするぞ。ぼやぼやしていると、檻を壊される。視界にエサが見えているからな」
 桑古木は昼食のメニューを注文するような口調で男に命令し、
「承知しました。20分待って下さい」
 男はそのまま、中央警備室を出て行った。




  2036年11月10日(月) 午前10時52分 田中研究所敷地内地下某所



「レイピア7、通信途絶!」
「レッドチーム、バイタルコール途絶えました…隊長、指示を!」

 正規治安部隊を相手にゲリラ戦で己を鍛えた百戦錬磨の隊長が、言葉を失っている。
(だから、俺は反対だったんだ!)
 現在、彼らが潜っているのは、田中研究所の下水溝からキャットウォークを上がったところにある、統合通信ケーブルを収納した大型配管の中。それほど厚くない鉄板の下には、重要な通信ケーブルが敷設されている。
 今回の任務は、二正面作戦だった。田中研究所機密ブロック、特に中央電算制御室の制圧を行う事。そして、通信ケーブルに対し破壊工作を行う事である。
 この作戦で重要であったのは、時間である。RTSによる転送が行われる時間に、きっかり合わせなければならない。早ければ、テロ行為の有様が世界中に流され、遅ければRTSによる転送が成功する。
 組織の情報部門はきちんと仕事をした。田中研究所の地下配管の敷設図を手に入れ、RTSへの直結回線を特定、更にその部分へ到達し、かつ警備システムに捕捉されない待機位置までも割り出した…はずだった。

 だが、現実は残酷だった。こちらの意図を見透かしたかのように、研究所側の警備部隊に急襲を受けたのだ。作戦開始を目前にし、ちょうど部隊が二つに分かれた瞬間を狙いすまして。
 それだけなら、まだ良かった。こちらとて、寄り合い所帯とは言え場数を踏んだ精鋭部隊。その程度の危機は何度もくぐっている。しかし、敵の戦術は、予想を遥かに超えていた。
 大型配管とはいえ埋設配管である以上、狭い。更に重要な通信ケーブルが埋設されているのだ。そんな中で、防衛部隊が重火器を使用することはありえない。巻き添えで通信設備を損傷すれば、困るのは彼らなのだ。
 だが、彼らはそんなことを頓着すらしなかった。
 いきなり部隊の前中後三箇所の通信配管を爆破、崩落させ、二つの部隊を分断。手榴弾や無反動砲、グレネードランチャーといった携帯型爆圧兵器、M16A2やFN/P90といった高貫通性のライフル弾を使用した銃器による圧倒的火力による殲滅戦に出てきたのだ。
 退路を失い戦力を分断された挙句、本来使用されるはずの無い重火器で攻撃された部隊は、寄せ集めの部隊の脆さを露わにし、まともな組織的抵抗も出来ないまま瞬く間に掃討されていった。
 そして、もはや本部小隊を除く指揮下兵力は全て喪失または分断され、退路も既に絶たれている。こうなった以上、ゲリラ戦の指揮官のやる事は、一つ。
「俺が退路を開く。お前達は生き延びて、報告をしてこい。…復讐の機会は生きていなければ巡ってこないんだ」
 そう言い置き、自身の体にケーブルに巻くはずだった爆薬を巻きつける。そして、臨時のバリゲードを出ようとした途端。
 一発の弾丸が、隊長の眉間から頭蓋骨を貫通し、脳髄をかき乱した。

「た、たいちょおーーー、うわーーーーっ!!!」
 その姿を見て絶叫した本部小隊の兵士は、その瞬間、隊長と同じ運命を辿り。
 残りの兵士達も、30秒も経たずして運命を共にした。




「掃討対象エリア、敵性体のバイタルサイン、全消失。当方の人的被害は軽微。戦力の低下はありません」
 本部小隊の情報通信兵が、無機質な声で告げる。
「…相変わらず見事な腕ですね、隊長」
 別の兵士が、感嘆したように自身の指揮官を見やる。
「これしか能がないからな。…俺みたいなのでも、月の女神様の役に立てるんだ。こんなに幸せな事はない」
「隊長…」
「好きでこうなった訳ではないが、結果的に俺は闇の中でしか生きられない。だが、そんな俺にあの御方は未来の可能性を与えてくれた。あの御方と俺達の未来の為なら、幾らでも血と硝煙に染まってやる。例え、その足元にいる狼にしかなれないとしても。
………無駄話が過ぎた。撤収するぞ。一応配慮はしたが、これだけ派手にやればいつ崩れるか知れたものではないからな」
 
 その声と共に、兵士達の一団は訓練の行き届いた俊敏な動きで、その場を後にした。




  2036年11月10日(月) 午前10時57分 田中研究所2F 中央警備室



「流石に本職は手際が違うな。百戦錬磨のテロリスト共も、赤子扱いか」
 迎撃部隊の隊長よりの作戦成功の連絡通信を受けて、桑古木が呟く。警備室の要員から上がる歓声。
「まだ油断はするな。何があっても、機密ブロックにはネズミ一匹近寄らせるんじゃねえぞ」
 指揮官の声に、警備室には再び緊張した空気が戻る。
(しっかし、優も大盤振る舞いだ。補償相手が決まっていると気楽に無茶やりやがるから、あいつは)

 漏洩した図面には嘘は無い。あの配管内のケーブルは本当にRTS用のデータリンクシステム回線のケーブルだったのだ。
 しかし、今回は、これもまた「トロイの木馬」であった。データは元々の研究所間の直結回線を利用してやり取りしている。RTS用データリンクシステム回線に流されていたのは只の欺瞞用データであったのだ。
 それゆえ、このケーブル配管を破壊した所で今回の量子テレポーテーションにおいて何の支障もない。迎撃部隊が周辺損害無視の殲滅戦という無茶を出来たのもこのせいである。
 更に、敵方は厄介な証拠まで残してしまった。兵士の死体と装備である。
 敵とて素人とは程遠い精鋭部隊。任務実行不可と見れば、即座に撤退したであろう。撤退戦に集中したゲリラ部隊ほどしぶといものは無く、ケーブルに配慮しながらの迎撃戦では全員を抑える事は不可能であろうし、戦死者の身元の証拠も消されてしまったであろう。
 だが、いきなり配管を爆破するという無茶は敵は想定できなかった。退路を遮断された上、捕虜を想定しない激烈な重火器の弾幕の前に撤退すら叶わず、文字通り敵は全滅。
 自身の身元を特定できる証拠を消しての自爆を出来た者も多くはなく。文字通り、テロの証拠+関与組織の証拠を大量に残してしまったのである。
 総指揮官の思い切った決断と現場指揮官の苛烈で的確な戦術により、今回の不正規戦闘は研究所側の完全勝利で幕を閉じた。
 あくまで、硝煙の匂いと流血と命のやり取りが伴う戦闘は。




  2036年11月10日(月) 午前11時50分 田中研究所3F 中央電算制御室



「もうちょっと、もうちょっとなのにっ!この期に及んで原始的手段に出てこないでくれるかなあ」
「…『質量兵器は、防御不能』か。サブシステムは限界ね」
 肝心の主戦場は、防御側圧倒的不利の状況に変化しつつあった。
『因果応報』。例の『ジェノサイド・マンデー』で壊滅的損害を受けたクラッカー達が、復讐戦に打って出てきたのである。しかもよりによって、DOS攻撃で。
 敵のクラッカーの足も引っ張る結果とはなっているが、RTS制御及びサイバー戦に領域を食われて稼働率が上がっているセントラルコンピュータには堪えた。
「後、10分。それだけ持ちこたえれば、回線カットだの逆攻撃だの出来るのに!」
「沙羅、弱音は吐かないの!」 
 だが、現実は残酷。機密回線保護のファイアウォールの稼働率は80%を超えようとしている。文字通り、圧壊寸前の状態。
 そんな危機の中にある、中央電算制御室の室内に、





「じゃじゃじゃーーーん!真打は遅れて登場するものなのですぅ!!!」





 雰囲気にそぐわなさ過ぎる脳天気な声が、響き渡ったのである。








  2036年11月10日(月) 午後 0時00分 田中研究所RTS棟 中央制御室



「RTSデータリンクフルコンタクト。量子密度、実用臨界。キャビン研究所よりの転送データ展開終了!
オールシステムグリーン!
量子テレポーテーション準備完了…所長、転送命令を!」
 空の報告が終了した瞬間。
「量子テレポーテーション、実行!!!」
 優は満場の注視の中、目前のワーニングレッドに彩られたボタンを押し込んだ。




「…あの、馬鹿は。人の苦労を何だと思っているのよ」
 優の、力ない悪態。




 眼下のRTSの転送エリアから出てきて手を振る人物。
 新国連キュレイ種保護委員会及びノアプロジェクト実行国際委員会の委員長を兼任する、VIP。
 トム・フェイブリンとその妻のジュリアの姿が、そこにあった。

 驚愕と歓喜。貴賓席に居並ぶVIP達は、人類における記念的な瞬間に立ち会った。そして、自身を最初の実験台としてみせたフェイブリン夫妻の勇気に対して惜しみない賞賛を浴びせたのである。
 


 こうして、RTSの公開実証実験は最高の形で成功を収めた。この結果のニュースはネットワークを通じて瞬く間に世界に広がり、一気にノアプロジェクトに対する評価は上昇。
…後日の事となるが、技術協力参加や資金提供を申し出る個人・企業・国家は引きもきらず、ノアプロジェクトは人類の共栄と未来を象徴する世界の最優先プロジェクトの一つになっていく。



 そして、もう一つ。クラッカー達への報復も以前に数倍するものとなった。容赦の無い反撃が再び彼らを襲い、彼らにとっての悲劇が再び繰り返された。
 そればかりではない。彼らの所業はログの証拠付で全世界に公開された。ちょうどノアプロジェクトに対する世間の期待が高まった時期に合わせて。
 もともと世間一般的に好意的な目で見られない彼らだが、今回は極め付けであった。
 全人類世界に対する挑戦者・悪の権化として捉えられ、彼らは文字通り人間社会から抹殺される末路を辿る。それまで彼らを利用してきた情報企業も世間の目に怯え、彼らを雇う事はもちろん短期的に便利使いする事すら控えるようになった。
 もともと、ほとんどが日常生活の能力に欠けた者たちである。彼らは生活の糧を得る術を失い、コンピュータネットワークからは追放され、殆どがホームレスへと身をやつしていく。
 ホームレスの救済を行う団体も彼らを白眼視し、援助の優先順位の一番下に位置づけた。ノアプロジェクト実行国際委員会が、ノアプロジェクト関連企業を経由してホームレスの一部を関連事業の下部労働者として雇うという弱者救済策を提案した事も、この方向性を加速した。
 …後は、語る必要はあるまい。そういう結末を、彼らは迎える事となった。

 もちろん残念な事に、違法行為の需要がある以上空白は誰かが埋めてしまう。だが、この一連の恐怖を生み出した元凶、田中研究所及びキュレイ関連施設に対してサイバー攻撃を仕掛ける事はクラッカーにとって最大の禁忌となった。
 そんな田中研究所を守護する強力無比な守護者達。誰もその正体を知らない世界最強クラスのコンピュータ技術者達の事を世間の人は『最強のアンチクラッカー』と讃え、クラッカー達は『慈悲なき死神』と呼んで恐れるようになる。そして、その正体が明らかになるまでには、まだ暫くの時間が必要となる。


 だが、そんな未来の話はさて置いて。時間流は再びこの一日へ回帰する。







  2036年11月10日(月) 午後 0時17分 田中研究所3F 中央電算制御室



 サイバー戦も、この時点でほぼ終結した。
 全世界に『量子テレポーテーション公開実証実験成功。フェイブリン夫妻、自らを実験台とし安全性を誇示』というニュースが駆け回り、敵も作戦失敗を悟ってポジションを解消しに掛かった。そんなクラッカー達に対し、

「絶対に、逃がさない。私の未来、二度と手離すものですか!!!」
「今度こそ、終わらせるの。『優しい世界』は沙羅が絶対に守る!!!」
「さんざんウチの子を苛めてくれたから、容赦はしませんの!!!」

 女神達の報復の矢が、容赦なく彼らの元へと放たれた。
 目には見えない、電子の矢。しかし、命中した先では女神の天罰が下っているに違いない。

 うるさい電子警告音やワーニングメッセージが全て消え、静かな静電音のみの姿に戻った中央電算制御室。

「やっと、逢えたね。…ボディ、貰ったんだ」
「うん。やっと逢えました、沙羅お姉さま。待ってたんですよぉ、私は」

「さっきから気になっていたんだが。一体、誰なんだ?あの娘」
「さっぱり判らないけど。でも沙羅は知っているみたいだね」
 サイバー戦の間ずっと家族を守護していた武と、そんな家族を身じろぎ一つせず見守っていたホクトも、眼前の光景に疑問符乱舞状態であった。

 満面の笑みで沙羅に抱きついている一人の少女。身長は僅かに沙羅よりも高い程度。
 くせっ毛のセミロングの髪も、大き目の瞳も共に黒。半袖のブラウスと絶対領域に守られたミニスカート、白いソックスとローファーを履いた高校生くらいの女の子。
 体のスタイルは…沙羅以上、空未満。未成熟な、大人と子供の狭間で揺れる青さを感じさせる体躯である。
 顔は、…日本人的「可愛い」顔。ココの持つ愛らしさをより綺麗にしたような顔立ち。
「…なんだか、ココを大人にしたような感じね」
 つぐみの言葉が、正鵠を得ていた。


 皆の注視の中、やっと沙羅から身を離した少女は、くるりと身を翻す。
「自己紹介が遅れましたぁ。私、LM-RSDS-4913A-T35K『茜ヶ崎 久遠』です。空お姉さま共々、宜しくお願いします!」
 ぺこりと一礼し、そのままにこにこと笑っている少女。

「あかねがさき くおん?…もしかして、空の、妹か?」
「はい。空お姉さまが一号機で私が二号機なんですよ、これが。私が量産型のプロトタイプなんですよ、えっへん」
 胸を張って武の質問に答える久遠。
「ってことは、AIなんだよね?」
「そうだよ〜♪。お姉さまと違っていろんな所から技術を貰って育ったエリートなのです、久遠は。妹に勝てる姉など存在しないのですよ」
 ホクトの質問に、更に胸を張る久遠。
「…でも、生粋のお姉ちゃんっ子」
「沙羅お姉さま〜、それは言わない約束じゃないですかあ〜!」
 容赦ない沙羅の突っ込みに、今度は子供っぽく膨れてみせる久遠。

(なんだか、空と似ても似つかない妹ねえ(だな)(だよね))
 沙羅を除く三人の感想は、計ったように同じであった。




  2036年11月10日(月) 午後3時17分 田中研究所3F 所長室


「全く。こっちの苦労くらい考えてほしかったわ。記者会見のセッテイングの変更が大変だって位解るでしょうに」
「ふん。その手間を省くために要人テロの可能性まで引き起こす訳か。この程度の変更、想定の範囲内だろう?」
 文字通り犬猿の仲。トム・フェイブリンと田中優美清春香菜は、テーブルを挟んで対峙する。
 随員は空とジュリア。あの発端の日と同じ組み合わせ。違うのは、本拠地側が入れ替わった事だけ。

 お茶すら出ない待遇の下。まず口火を切ったのは優だった。
「さて、魂胆を説明してもらおうかしら。言っとくけど、お題目とプレスリリースはお断りだからね」
「お題目で十分だろう。トップ自らが安全性を誇示。この政治的効果だけでも僕がここに来る価値は十二分だ。違うかい?」
 うそぶくトム。確かに、その言葉に偽りは無いだろう…
「トム。身内すら騙せない嘘は止めなさいな。私達が圧倒的借りなんだから、そういう駆け引きしたって嫌味なだけよ」
 ジュリアがピシャリと言い捨てる。その口調に、優が僅かに眉をひそめる。
「…ミセス・フェイブリン。こっちの味方をしてくれるのは有難いけど、何企んでるの?」
「ジュリアでいいわ。その代わりこっちも優って呼び捨てにさせてもらうから。
 別にどっちの味方をしているわけでも無いわ。お互いの切り札が、無意味と言いたいのよ私は。
 このカードは二枚揃って場に出ないと最強にならないからね。一枚あっても、意味はないの。
 そんな札を巡って腹の探りあいなんて御免よ。さっさと終わらせて頂戴、トム」
 辛らつな表現。そこいらの女優など束になっても敵わない美女が発する発言としては、余りにもイメージが違いすぎた。
「全く、せっかちなのは相変わらずだね、ジュリア。…しょうがない。好みじゃないが単刀直入に行こう」
 妻にやり込められお手上げという風体でおどけて、トムは言葉を継いだ。
「君たちの実験を見物に来た。それだけだ」

 優と、空の表情は、完全に凍った。

「あんた、一体何処まで知っているの」
 優の言葉は、かすかな震えを抑える事ができない。
「別に、何も知らないさ。想像しただけの話だ。それにタダでとは言わない。
 どうせ、そっちの方も似たような状態の筈だ。お互い、手の内は読めていて確証が欲しいだけだろう?」
 こちらはすっかり平静を取り戻したトム。余裕の表情で優を見ている。
「…認めたくないけどね。あんたが口火切ったんだから、対価もあんたから払いなさい」
 優の表情も、ポーカーフェイスに戻る。桑古木が居たらこう言うであろう。
『最初から、そうやって居直っとけばいいんだよ』と。
「ああ、借金は嫌いでね。今回だけで完済できそうに無いのが悔しいんだか。
 そっちの聞きたいことは解っている。RTSの事だろう?」
「ええ。その通りよ。あれは量子テレポーテーションであって量子テレポーテーションではない。あんな簡単に人間を転送できるなど、今までの理論の量子テレポーテーションではありえないから。
 答えなさい。RTSは、オーパーツ…違うかしら」

「全く、貴女という人は、からかい甲斐がないね。そう簡単に答えられると楽しみが無いよ。
 正解だ。このRTSは既存の理論の枠外だ。その理由は、当然理解しているだろう?」
「ええ。このシステムの量子発生装置は全くのダミー。データリンクシステムを利用して遠隔地でありながら常時双子の量子を生成できるなんて銘打っているけど、中身は張子の虎ね」
「でも、常時双子の量子は発生している。嘘はついていないだろ」
「まあね。僅かな微量の量子線が常に生成されている。もっとも暗号通信用でしょ、これ。FTL(超高速通信)用じゃないのかしら、本来の用途は。…それにこの量子、文字通り虚空から発生している。『量子発生装置』とは全く関係なくね」 
 剥き身の刃の応酬の中の、優の言葉。対して、トムはニヤリと笑って見せた。

「カマをかけても無駄だよ。君自身、あの装置が『張子の虎』だって思っても居ないくせに」
「あら残念。この程度に引っかかるなんて思ってもいないから。本当にあんたの台詞は聞き飽きるわ。ジュリアに同情ね」
 お互い、含み笑い。しかし目は笑っていない。
「同情するならさっさと済ませてほしいわ。ほら、とっとと種明かしをしなさい、トム」
 その含み笑いをシニカルなものに代えていくトム。

「このシステム、根本的には量子テレポーテーションと言えなくないがね。だが、実際の所、超えるのは距離じゃない。もっとも、2011年の事を知っている貴女には想定の範囲内だろう。

 こいつが超えるのは、『世界』だ」
 
 トムの放った言葉。その瞬間に静まる室内。だが、それは一瞬。

「ふふっ、笑っちゃう。余りにストライクゾーンど真ん中ね。そう考えると、線が一本になるわ。…あなた、元々はこの世界の『トム・フェイブリン』じゃないでしょう?でも、同時に完膚なきまでにこの世界の『トム・フェイブリン』。そうでしょう?」
「そうだな。どっちとも言えるね。何回実験台になったかなど、数えていない。でも、貴女の言うとおりだ。どっちでも、一緒なんだよ。何しろ僕が移動し続けた世界は」

「「みんな、同じなんだから」」

 優とジュリア、二人でハモってみせる。

「トムのは判り易すぎるのよ。いい加減、突っ込むのも疲れるわ」
「そんなもの、ノアプロジェクトの事を考えたら先刻承知。判りきった事をもったいぶられても、不快なだけ」
 女性二人の温かみも容赦も無い凍れる言葉。

「ジュリア。今日はいつもの意趣返しかい?まあいいさ。その分説明が楽で助かる。
 その通り。このシステムは、平行世界の壁を越えられる。それに比べれば時間軸と空間軸を移動するのは遥かに容易。
 だが、超えられるという事と世界の復元力を免れるという事は別問題だ。サトル・ユウキドウは、そこが理解できていなかったようだな。舞台と小道具を与えられて、自分なら出来ると思い込んだ。だからあんなバカをやらかす。…もっとも、かく言う僕も、詳細は知らないんだがね。
 だが、失敗する先達が居るから、僕らも学べる。
 このRTSは時間軸の移動を封印してある。そしてもう一つ。転送する平行世界に制限を付けた。
 君らの言うとおり『全く同じ平行世界』にしか、跳べない。だから、世界は敵にならない。タイムパラドクスも無いし、異物として世界に押しつぶされる事も無い。
 僕らには、それで十分だ。時空を自在に駆ける翼は要らない。キュレイがこの世界でつつましく生きていければそれでいいのさ。

…さて、じゃあ簡潔に説明する。このシステムは、相手の平行世界に対してしか作用しない。双子の量子を新たに作る必要など無い。なにしろ、対の量子は『この世界と完全に同一な平行世界』に元から存在する。特定も容易。居場所も時間も全く同一なんだから。
 だが、これだけでは片手落ちだ。この対の量子を入れ替えた所で、何も変わりはしない。変わったと思い込むのは、転送された本人だけだからな。なにしろ」
「完全に同じ時間に同じ場所にいる同一人物を入れ替えた所で、外見上はまったく変化していない訳だからね」
「そういう事だ。だから、入れ替えるんじゃないんだ。このシステムの場合。
 入れ替えるんではなく、お互いが一方的に転送対象を送りつける。完全に同一の平行世界だからこそ出来る荒業だ。世界の復元力を、逆利用するんだよ」
「…予想していたとは言え、実際に種を明かされると目茶苦茶だわ。こういうことでしょ。
 この世界をAとし、相手の世界をA'とする。キャビン研究所をα、ここをβと呼称するわ。
 この世界のRTSは、あんた達をAαから、A'βへ強制的に送りつける。本来だったら、二人の同一人物が同一世界に存在する事になるから、相手の平行世界が復元力を働かせて異物の方を排除しようとするはず。だけど」
「そう。当の相手の平行世界の僕達は、全く同じ時間軸で、A’αからAβへ送りつけられているからね。かえって復元しようとする方が大変だ。異物を弾き出し、さらに他の平行世界に影響力を行使する破目になる。
 それよりは、転送された異物をそのまま世界に取り込んだほうが早い。なにしろ、完全に同じ世界から来た存在だ。多少の空間軸の移動は大目に見るだろう。時間軸さえ歪まなければ、間違いなく復元力は発動しない。少なくとも、僕の場合は今まではそうだった」
「…なんとまあ、呆れた話。空間の移動は、平行世界移動のおまけで世界のお目こぼしってわけね。
だけど、やっぱり穴はあるわけだ」
 優が、猫のように笑ってみせる。
「まあ、そういう事になるな。
 このRTSの転移には、灯台が要る。転移先を示すビーコンが要るんだ。それに向かって、RTSが転送対象を送り出す。その為に、転移元と転移先が情報を交換する必要が有るんだ。
 AαとA'α、AβとA'βの間では全く同じ情報が共有できる。「全く同じ平行世界」だから。 だか、肝心の転移元と転移先…すなわちAαとA’β、A’αとAβとで直接情報がやり取りできないんだ。どうやっても、同一世界のαからβに一度情報を送ることでしか転移元と転移先が情報をやりとりすることが出来ない。
 そして、FTL技術がまだ存在しない現在では、このRTSをもってしても光速の壁は越えられない。αとβの間で光速を超えて情報を送る手段が無いんだ。量子通信以外では。
 そして、デコードできない。量子は二つの状態の内一つしか知ることが出来ないから、情報の送り主と受け主はその解析アルゴリズムを共有しないといけない。が、刻々と変化するアルゴリズムパターンは、互いの情報交換無しでは維持できない。
 維持できたとしても簡単に妨害を許す。第3のRTSからノイズの量子を送り込まれれば終わりだ。一度決めたら変更できない暗号ブックなど、妨害してくれと言っているようなものだからね。
 
 だから、今回のように光速でデータリンクしても間に合うような距離ならRTSは使用できるが、恒星間宇宙船との往還手段にはRTSは使えない」
 一気に言い切ってしまい、トムは息を継ぐ。

「ご高説感謝するわ。残念だけど、私は何にも助けてあげられない。せいぜいご自慢の権力を使って解決策を見つけることね」
 対して、冷たく言い捨てる優。
「ふふふ、初めて本気でとぼけたわね。残念だけどあなたの味方はさっきまででお終い。
 感情では言いたくないでしょうけど。でも、優は未来を感情で失うほど馬鹿じゃないわよね?」
 青く凍てつく瞳で、優を見据えるジュリア。

 絶対零度の視線の矢をぶつけ合う二人の美女。吹雪舞う夜闇に立つ雪女二人。

「…所詮、陰険坊やの連れ合いか。トム、ジュリアを連れてきた理由がこれでしょう?」
「ご名答。僕はしょせん男だからね。女同士の感情戦が得意なのを連れてきたわけだ」
 優の当てつけに、苦笑いの混じった言葉で答えるトム。

「ふん。悔しいけどジュリアが正しい。私のカード、一枚じゃ価値無いわ。デュエルの相手があんた達なら伏せとくんだけど、生憎と敵は私達の未来を塞ぐ壁だからね。さっさと二枚揃えてしまいましょう。
 嫌な思いは、全部まとめて同じ日にする。後日同じ話はしたくないしね」
 優が、しょうがないな〜という顔をしてみせる。
「正直、そんな事の為にあの子達の未来を使いたくはなかったけど、当の本人達が納得してるんだから。私からはせいぜい大切にしてやってとしか言いようが無いわね」
 母親の顔。優の顔は、子供達を心配する親のそれ。

「ああ、そうさせてもらう。解決策は意外と単純でね。
 要は、最初から常用の灯台を用意してしまえばいい。情報のやり取りをすることなく、常にビーコンを発する存在を。

           『ソウル・ジェミニ』…魂の双子。

 そういう存在を、両方のRTSに組み込んでしまえばそれでいいんだ。だが、人間そのものをRTSに組み込むことは不可能。
 だからこそ…ボディも持てればシステムの中にも入れる、そして『ソウル・ジェミニ』になりうる。そんな存在がいれば、あらゆる点でRTSの欠点は消える。
 …最悪の場合、RTS以外の場所でビーコンになってもらって、緊急の片道転移なんて無理をすることすら可能になる。恒星間宇宙船の生存率は、大幅に向上するだろう」

「その役割を、空と、その妹達や姪っ子達が担うわけね。量子通信も、あの子たちなら可能でしょう。一番ネックのアルゴリズム保守も、あの子達が定期的に役割交代したり、量子通信経由以外で情報交換すれば十分実用に耐えられる。
 最低な女ね、私は。最大の親友を、自分の未来の為に手放すんだから…御免ね、空。後で、久遠にも謝っておくから」

 誇らしげに胸を張るトム。対照的に表情を歪める優。

「『最大の親友』という言葉だけで十分ですよ、優さん。ずっと、優さんは私を人間として扱って下さいました。だから、私はこの役目を受けたんです。大切な親友の、未来の為に」
 空が、暖かい笑みを浮かべて、優の肩に優しく手を置く。
「空…私を親友って、言ってくれるんだ」
 瞳に涙を溜めた目で空を見上げる。そんな優を見ながら… 



「ふふふ。それにこれは野望への第一歩ですから。『ノア』の船内にまで、優さんやつぐみさんの目は届きませんからね。…トムさん。あの日の言葉、まさか忘れたなんて仰りませんよね?」
 突然豹変する空の笑顔。それに呼応して、不敵な笑みを浮かべるトム。
「当然、覚えているよ。キャビン研究所の皆も、タケシ・クラナリに対して尊敬の念を抱いている。本人が望むなら、ぜひとも来てもらうつもりだよ。『ノア』の常勤クルーは無理でも、ゲストとしてたまに来てもらうだけでクルーの士気が段違いに高まるだろう」

「あ、あんたらねえ―――!!!」

「ですが、もしかしたら倉成さんが『ノア』を訪れた直後に、一時的にRTSが不安定になって使用できなくなるかもしれませんよ?」
「まあ、新技術に不調は付物だ。原因を究明し、安定を取り戻すまで一定期間の運用停止もありうる。その結果信頼性が高まるのだから、技術の進歩には必要な事だ。別に悪い事ではない」

「一体、何を企んでるのよ!!!」

「私は忘却という言葉を知りませんが。それでもよろしいのですか?」
「僕は忘れっぽいからね。貴女が覚えているのなら、多分それは僕が忘れてしまった真実だろう」
 完全に軍師と謀臣の会話。…いや、お代官様と越後屋の会話だろうかこの場合。

 優の怒声をバックにして、トム・フェイブリンNUNCPC及びNPRIC(Noar Project Runnig International Community ノアプロジェクト実行国際委員会の略称)委員長と、LM-RSDS-4913A 茜ヶ崎 空の心温まる悪巧みが暫く続いたのであった。




  2036年11月10日(月) 午後 8時00分 田中研究所RTS棟RTSユニットルーム 



 ひっきり無しのマスコミ取材の嵐や、サイバー戦後のセントラルコンピュータの再チェック。それをこなして疲れきった表情の面々が、この部屋に集まっていた。
 桑古木はこの部屋にはいない。この時間に至っても、後始末はまだ終わっていない。マスコミの対応、不正規戦の後始末から、不届きな輩の特定・拘束、RTS棟周辺の警備etc.…こういった後始末の才能においては、桑古木に比肩できる存在はこの研究所には居なかった。
 そういう存在を多く知るトムやジュリアですら、正直に桑古木の仕事ぶりを賞賛して見せたくらいである。
 RTSユニット横に設えられた、簡素なサブコントロールシステム。接触式データリンクパネルに手をかざしているのは…久遠。
「RTSユニット及びサブコントロールユニット、チェック完了。システムオールグリーン、ウィルス感染確認できず。
 全外部接続システム、カットオフ。SGLS、プライマリドライバ起動…初期量子通信…コンプリート…セカンダリドライバ起動…情報セットアップ、開始…」

「SGLS?」
「『Soul Gemini's Link Systemの略。『魂の双子』を同期させる為の感応補助システム。
 精神を有する存在でありながら、コンピュータに直接入り込む事ができるコンピュータプログラムでもある。そんな空や久遠だからこそ使えるシステム。
 あんたの言う『灯台』を設える為のソフトウェアと量子通信のパッケージ。…そう遠くないうちにバレるとは思っていたけど、いきなり最初っからとはね。茂蔵おじちゃんに合わせる顔がないわよ」

「SGLSリンケージ、確立成功。『ソウル・ジェミニ』完全同期…空お姉さま、準備完了でーす。いつでも行けまーす!」
「ご苦労様、久遠」
「えへへ、ほめてほめて〜♪」
 妹の頭を撫でる空と、それにご満悦の久遠。

「さて、姉妹のふれあいもいいけれど、とっとと済ませるわ。空、久遠、頼むわよ」
「了解しました、優さん」

 空が、懐から二枚のテラバイトディスクを取り出す。現用型の一世代前の物。ただし容量は現用型と殆ど変わらないタイプ。
「さて。本当は見せたくないんだけどね。沙羅、頼んだもの持って来てくれた?」
「これの事でござるか?ご希望通り、カスタムして旧型・現行型両方とも同じ読み取り装置で使えるようにしてあるよ」
 沙羅が重そうに持っていたキャリングバッグを開く。出てきたのは携帯型のラップトップパソコン。
「…」
 空がそのパソコンの電源を入れる。そして起動後、テラバイトディスクリーダーユニットにテラバイトディスクを挿入し、エディタを開く。
「Sora System Ver.LM-RSDS-4913A-T35K 00:00/10/11/2036」
 その後に続く、書き込み禁止や情報保護に関する警告メッセージ。
 もう一つのディスクを読み取らせた時の表示も、一緒だった。

「見ての通り、この2枚のディスクは久遠のフルシステムバックアップ。圧縮変調がかけてあるけど中身は一緒。久遠の、全てといっていいわ。…言っとくけど、沙羅と空と久遠自体がプロテクトしているから。 妙な考えを起こさないでよ、陰険坊や」
「どうせ、見たってわからんさ。貴女を敵に回してまで行動するメリットはないね」
「無駄な心配は不要よ。それより、早く終わらせましょう」
「同感ね。それじゃ始めるわ」




  2036年11月10日(月) 午後 8時16分 守野遺伝子学研究所 RTS室



「あらあら、いきなりばれちゃったみたいね」
「まあ相手が相手だけにしょうがないんじゃないかな。それに敵じゃ無いんだから、構わないんじゃない?」
 サブコントロールユニットに表示されるデータ文を覗き込みながら、いずみと彼方は顔を見合わせる。
「ええ、この件を打ち合わせた時、優春も全く同じ事を言ってたわ。凄く不機嫌そうに、だけど」
「で、どうするの?」
「予定通りでいいわよ。その時は、こっちのカードもばらしちゃっていいって事になってるから」
「うん。SGLS、オールグリーン。後は実行待ちになってる。いずみ叔母さん、そっちの方はお願いするね」
「ええ」
 ユニットに歩み寄りながら、いずみは2枚のテラバイトディスクを取り出す。
 現行型のテラバイトディスク。その内の一枚を、いずみは転送領域に置いた。
「それじゃいずみ叔母さん、ちょっと離れてて。転送実行は一分後、インターバルは3分の予定だから」
「OKよ、彼方ちゃん」




  2036年11月10日(月) 午後 8時17分 田中研究所RTS棟RTSユニットルーム 



「転送実行、終了。システム異常なし。予定変更、要らないと思うんだけどどうですかあ、所長さん?」
「それでいいわよ、久遠」

 転送領域に、一枚のテラバイトディスクが忽然と現われた。現行型の、テラバイトディスク。
 優はRTSユニットに歩み寄り、そのディスクを拾い上げる。そして、同じ場所に、久遠のデータの入ったテラバイトディスクを置いて、皆の所へ引き返す。

「OK、久遠。システムのカウントダウン開始して」
「了解ですう。RTS転移シークエンス、再開。転移までのカウントダウン、124秒、123…」

 室内に、カウントの声だけが響き渡る。

「3、2、1、転移実行…終了。システム異常なし。転送確認コール来ました。転移実験の一回目、終わりましたよぉ〜♪」
 脳天気な久遠の声と共に、転送装置上のテラバイトディスクが消えうせた。


「さて、それじゃ確認をするわね」
 優が、先ほど送られてきた現行型のテラバイトディスクをパソコンに入れる。ディスクシーク音が低く響き、画面が起動した。

「『月読』システム Ver.11/2036 メインフレームフルバックアップディスク
 作成年月日 00:00/10/11/2036」

「つきよみ?なんなんですか、それ?」
 ホクトの質問に、
「ホクト、あんた本当に考古学者の卵?日本の神話くらい基礎でしょうが!
『つくよみ』って読むの。日本の神話に出てくる、黄泉比良坂の先に居る冥界の女神よ」
 あきれかえった表情で、優が説明する。
「なるほど、それが守野のAIという訳か」
 トムが納得したように頷いてみせる。
「…そうよ。バレたら教えてもいいって言われているからね、向こうのボスに。
 『空システム』をベースとしてはいるけれども、発達過程で全く別物になったAIよ。仕組みも目的も異なるけれども、精神が宿る所まで進化したという点では空や久遠と一緒。多分、規模や知性の点では『空システム』よりは上のはずよ…私もそこまでしか知らないけど。
 さて、無駄話はここまで。もう一つ、実験しないといけない事があるからね」



  2036年11月10日(月) 午後 8時30分 田中研究所RTS棟RTSユニットルーム 
  2036年11月10日(月) 午後 8時30分 守野遺伝子学研究所 RTS室



「久遠、テラバイトディスクは置いたから。後はお願いね」
 二枚目の旧型テラバイトディスクが転送領域に置かれる。
「お願いされましたぁ」

「彼方ちゃん、テラバイトディスクは置いたわよ。後はお願いね」
 二枚目の現行型テラバイトディスクが転送領域に置かれる。
「うん、分かった。月読さん、お願いします」
『了承致しました』


「SGLSデータ同期開始、同時転移シークエンスプログラム展開。プライマリ・ドライバ起動…コンプリート…セカンダリ・ドライバ起動…データ展開、開始します」

「SGLSデータ同期開始サイン受信。当方も同期を開始。同時転移シークエンスプログラム展開。プライマリ・ドライバ及びセカンダリ・ドライバ起動…コンプリート。量子通信によるデータ展開、開始します」


「転送準備データ展開終了。同時転移開始準備完了。転送開始キーは当方より発信。…所長さん、転移開始していいですかぁ?」
「いいわよ、ちゃっちゃとやっちゃいましょう」

「転送準備データ展開終了。同時転移開始準備完了。転送開始キーは先方より発信。…彼方さん、それでよろしいですか?」
「優さんなら大丈夫。その線でお願いするよ」




「転送、開始!」
「はいっ!…ぽちっとな」
 あまりに有名な台詞と仕草と表情と共に、久遠がボタンを押し込んだ瞬間



 旧型のテラバイトディスクが、現行型のテラバイトディスクになった。

 現行型のテラバイトディスクが、旧型のテラバイトディスクになった。




  2036年11月10日(月) 午後 8時40分 田中研究所RTS棟RTSユニットルーム 



 黙って現行型のテラバイトディスクを取り上げた優が、無言のまま、パソコンにそれを入れる。静かなシーク音の後、画面が起動する。

「Sora System Ver.LM-RSDS-4913A-T35K 00:00/10/11/2036」

 画面には、確かにそう、表示されていた。
「久遠。念のためチェックお願い」
 イジェクトされたテラバイトディスクを久遠に渡す。
「はいはーい。データ整合性チェック開始…データ展開…はい、OKでーす。
 所長さん、確かにこのテラバイトディスクの内容は、久遠です。間違い、ないっ!」
「…ごくろうさま」

「…これが、『人格交換』か。話には聞いていたが、実際に見るのは初めてだ」
 流石のトムが、表情を凍らせている。
「そして、この子達が私達と同じ存在である事の証。心と精神と…魂があるって事よ。分かったかしら。これ以降、この子達を人形呼ばわりしたら本気で怒るからね」
 胸を張り、堂々とした笑顔で言い放つ優。
「分かったわよ。確かに、貴女の言うとおり。今後は、名前で呼ばせてもらうわ。
『空』さんと『久遠』さん」
 即座にジュリアが同意。言葉を封じられたトムが恨めしそうに二人を見やる。

「通常回線を経由する情報伝達が不要な超光速量子通信、『魂の双子』であるコンピュータプログラム、そして平行世界の壁を超える転送システム。
 これで、建設基地や恒星間宇宙船の通信、移動、補給手段に関する問題は全て解消したわ。さぞ満足でしょう、トム。
 聞いてみたいわ、貴方の書いた壮大な夢物語が『人類の夢』から『人類の目的』へ変わった感想をね」
 ジュリアが、夫に対して問いかける。

「最高だ。これで、また前へ進める…と言いたいところだが、正直予想以上に事が進みすぎだ。こういう時、大抵何かに足元をすくわれるものだ。
 『好事魔多し』
 心するよ。あなた達の努力を、無にしないためにも。あとは僕達の仕事だ。せいぜい見物していてくれ。
 さて、公演も終わったようだし。僕達は帰ることにする。新型RTSの転送心地を試させてもらうよ」
「思いっきり荒っぽくしてあげるわ。…久遠、転送準備。さっさとこんな陰険夫婦、あっちの世界に追い出してしまいなさい」
「りょーかいしましたぁ!
 RTSシステム待機状態解除、SGLS同期再調整。…転送先システム調整状態レベル不足、転送開始時間、遅延します。転送予定時刻は日本時間午後8時57分を想定。誤差は+17分。
 すみませんけどぉ、その間にデータ測定済ましちゃいますんで。お客様はお席にお座り下さい」



 若干、手違いはあったものの。午後8時57分、フェイブリン夫妻は無事に守野遺伝子学研究所に到達した。
 そこでもいろいろな出来事はあったと思われるが、ここでは語らない事にしよう。




  2036年11月10日(月) 午後9時17分 田中研究所3F 所長室


 人数分の紅茶の香りが、室内に快く広がる。当然、淹れたのは空。
「はあ。あの陰険坊やの相手は疲れるのよ!本当にあいつは『魂の敵』よ、全く」
「多分、向こうもそう思ってるんじゃねえか?」
 親しいもの達だけ故、地に戻る優とそれに突っ込み入れる武。
「やっといつもの世界に戻ってきた、って気がするわね。空の紅茶を飲んでいると。
 とっとと解散して休みましょうと言いたいところだけど、久遠。
 とりあえずあなたにはRTS制御以外でも働いてもらいたいの。カモフラージュしないと、RTSの件に気付く連中が出てくる可能性があるから。といってもこの研究所からは暫く出れないわ。さすがに遠隔型のRTS管理システムは未開発だし、情報漏洩の危険性もあるから。
…常識的に考えて、ウチの副所長付ってのが一番無難だと思うんだけど。不満なら断ってもいいのよ、久遠?あんな馬鹿の相手させるの、私だって心苦しいんだから」
「y…」
「s…」
「了承、ですっ!所長さん、女に二言はありませんよねっ!、ねっ!!!」
 何の気なしの優の提案に、大慌てで割り込もうとする空と沙羅。それに対して有効反応時間0.01秒で了承してしまう久遠。即答とはこの事か。
「何慌ててるの、空も沙羅も?別にいいじゃない。あんな馬鹿でも秘密保持だのなんだのは弁えてるんだし。それじゃ、今から貴女は桑古木副所長付の秘書兼副官よ、久遠。涼権共々こき使ってあげるから、覚悟する事ね」
 不思議そうな顔をしながら話を継続する優。
 頭を抱えて、俯いてしまう空。宙を仰ぎ、ため息を吐く沙羅。
 そして…


「ふい〜〜〜!終わった終わった。全く、祭りの後ってはどうしてこう後始末が大変なんだよ………」
 疲れきった表情で、頭を掻きながら隣の副所長室から入ってくる桑古木に、



「涼権さまーーーーーーーーーーーーーー!!!」

 いきなり猛ダッシュで飛び込んでいく人影一つ。
「う、うわっ!何だ、何だっ!!!」
「涼権さま、涼権さま。久遠はずっと逢いたかったですっ!」
 桑古木の首に両手を回し、猫のように身を擦り付ける…久遠。


「りょ、りょうご…?」
「「「さまぁーーーーーーーーーーーーー???」」」
 あまりの予想外の出来事に驚愕の声を上げる、優、つぐみ、ホクト。
「あっちゃ〜。空、あの事を優さんに言ってなかったんだ…」
「申し訳ありません。私の、不始末です」
 咎めるように空を見る沙羅と、誤魔化すように視線を宙に泳がせ頭を掻く空。
 
「今まであんな鬼所長さんのお守り、ご苦労様でした。
でも、安心してくださいっ!!!今後は、久遠が涼権さまの面倒を見て差し上げます!あんな無理難題の山を押し付けるなんて狼藉、神様やお姉さまが許してもこの久遠が許しませんのっ!!!」
 すりすり、すりすり。
「だ、だから一体何なんだ!何なんだよ!!!」
 じたばた、じたばた。
 
「―――空。言いたい事があるでしょう?」
 ぎぎぎぎっという音がしそうな仕草で首を向け、空に問う優。表情は笑顔…
「実は育成の間、久遠は研究所のコンピュータ網の中に居たんです。研究員達や出入りの人々を見せて、人間というものを学んでもらおうと思ったんです。そうしたら、何故か桑古木さんに興味を持ち始めまして。何度もダメだって教えたんですが…」
「それって逆効果だよ、空。私達の年頃って『ダメ』って言われると、余計気になるものなんだよ?」
 こめかみに指を当ててあきれ果てたようなため息を吐きながら、沙羅が補足する。
「…それだけじゃ無いでしょう?空、久遠にどういう体験談を、吹き込んだの?」
「そ、それは………」
 怯えて思わず一歩下がる、空。
「どうせ、武とあなたの悲恋物語を思いっきり凝った脚色と演出を付けて語ったんでしょうが!なんて事してくれたのよ!!!」
 視線を虚空に逸らす空。その仕草が、返事。

 顔に笑顔の残骸を貼り付けたまま、ゆっくりと桑古木と久遠の方へ向き直る優。その視線の先では…


「こら、離せっ!いったい君は何者なんだ?君、俺に会った事無いだろう?」
 何とか久遠を引き剥がし、真正面に向かせた桑古木に対し、
「久遠の事は、二人っきりでじっくりと教えてあげるね……」
 そのまま真正面から、久遠は桑古木の目を覗き込み、


 ある言葉を、呟いた。





                   「ごしゅじんさまっ♪」









  2036年11月10日(月) 午後9時30分 田中研究所3F 所長室


 ぷしゅーっ。所長室のドアが開く。
「やっほー!みんなお疲れ様〜♪差し入れ持ってきたわよーーー!」
「空さーん。迎えに来たよ〜♪」
 脳天気な声と共に入ってきたユウとココの目前で、

「な、何やってるのよ!お母さん?!」
「ずるいよ優さん。一人でいもむーごっこして」
「ユウ。悪い事言わないから、今は近寄らないほうがいいよ」
「…ココ、無意識だって事は分かってるが。頼むから大火に油注ぐのは止めてくれるか?」



「そこに直りなさい、久遠。人間の礼儀と常識というものをたっぷりと教えてあげるわ!!!」
 どたばた、どたばた。
「そういう事は、涼権さまの人権を認めてから言うことですよぉ、所長さん!!!」
 どたばた、どたばた。
「あいつをこき使うのは、私の権利なんだから!久遠如きに指図される謂れはないわよ!!!」
 どすばき、どすばき。
「それは只の甘えじゃないですか!デレの無いツンだけの女性は、涼権さまには相応しくありまっせーん!!!」
 どすばき、どすばき。
「若けりゃいいってもんじゃないわよ!久遠みたいな乳臭い小娘じゃ、女の魅力なんて出せないわ
!!!」
 ばきぐしゃ、ばきぐしゃ。
「涼権さまの好みのタイプは、久遠なんですぅ!賞味期限切れの所長さんに、出番はありませんですの!!!」
 ばきぐしゃ。ばきぐしゃ。



 最早、周りの備品類は壊滅状態。
 床の上に転がって子供の様に取っ組み合いをする、髪の長い大人の美女と癖っ毛のセミロングの髪の愛らしい少女。そんな姿を、呆然として見ている桑古木。

(でも、これってさあ、沙羅)
(うん、お兄ちゃん。意外と、面白かったりして)
(案外、いいきっかけかもね。そう思わない、武?)
(お前達は面白がっていればいいけどな。俺は仕事に跳ね返って来るんだよ)
 ぼそぼそと小声で会話しながら、そんな三人を呆れと諦めと興味の表情で見ている倉成一家。

「とりあえず、隣の部屋でご飯にしましょう、ホクト。その内飽きると思うし」
「そうだな」
「そうね」
「そうでござるな」
「うん、そうするよ」
「ココも賛成だよ。空さんは、どうするの?」
「そうですねえ。私もご一緒させて頂きます」
 小さく手を振り、部屋を出る新参組+倉成一家+空。



「俺にどうしろって言うんだよ………」
 ライプリヒやテロ組織とやりあった経験はこういう場では役に立たず。
 桑古木は、文字通り途方に暮れて立ち尽くすのであった。




                              ― To Be Continue Next Story ―
後 書

 今回は自分で言うのもなんですが、難しい上にトンデモ解釈になってます。
 しかし、これくらいぶっ飛んだ解釈しないとR11の量子テレポーテーションって整合性が全然取れないんですよ。(実は、これでも取りきれてなかったりします。そこら当たりは『世界の意思』ということで(爆))


 大暴走猪突猛進機関車娘、茜ヶ崎久遠。実は裏設定だけの冗談キャラのはずでした。それこそエピローグだけちょこっと出てくるかも的な。
 しかし、『サマータイムデイドリームス』を書く際に、きちんと量子テレポーテーションを調べた時出てきた一文。

「量子テレポーテーションは、単独では光速を超えられない」

 ががーん!(ネガポジ反転) 「うそや…」

 そりゃ焦りました。ノアプロジェクトの根幹を揺るがす大事件。どうしよう、どうしよう!って大弱り。慌てて、説明文を読んでみる。どうやら、量子転移を通知する手段が別になるからというのが理由。
 そこで閃いたのが今回の解釈の原型。
 そういう訳で、冗談キャラで伏線だけ張っておいた久遠がめでたく正規オリキャラとして登場する事になりました。文字通り、結果オーライ。


 さて、気を取り直して。この物語の本編エピソードも、もう幾つかしか残っていません。結構エピローグの数やら幕間(本編とエピローグの間で書きたいのが結構あります)が多いので、完結には程遠いのですが。そこまで辿り着けるよう頑張りますので、教育的指導とか貰えると嬉しいです。

 それでは、ここまで読んでいただいて有難うございました。

2006年5月25日  あんくん


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