「正直、上手く行き過ぎたツケかな。予想以上に早く、例の問題が出てくることになるみたいだ」
「最初っから、避けて通れない問題よ。いつかは解決しなければいけない事」
「今回ばかりは同意するよ、ジュリア。しかし、正直もうちょっと時間が欲しかった。ワインと人間世界は、味が出るまで時間が掛かる」
「そして、時間を掛けすぎて腐るのね。…どうせ賽を振るのは神様。私達は、出来る事をするだけよ」
「そうだな。…件の事、もう猶予が無い。事前工作、どうなっている?」
「WHOは大乗り気。早くしろ、早くしろって本音が透けて見えるわ。
 新国連安保理も、殆ど了承済みって所。いつでも事は起こせるわよ。トム」
「それならいいんだ」
「…でも、いいのかしら?」
「ああ。やはりこれは必要な事だと思う。感傷的だと笑うなら笑えばいい」
「そうかもね。たまには馬鹿な事も、してもいいんじゃないの?」
「言ってくれるね。だったら、さっさと実行する事にしよう」





 2037年5月1日(金) 午前0時00分 ???



「…やはり、気は進まないか?無理もねえけどな」
「ええ。まだ、覚悟が決まったわけじゃないもの。…でも、やはりこれは超えるべき、壁よ」
「僕達は、構わないよ。もともと、嫌いじゃないから」
「私も同感」
「…僕も、やはり一緒じゃないとダメかな」
「らしくないでござるな。ここまで付いて来た以上、もう戻れないんだからね」
「確かにそうだね。去年の春、確かにそう決心してあの校門に居たんだから。…想像もしない一年間のせいで、すっかり忘れていたけど」
「………」
「『体験に勝る虚構無し』…本当に、自分で体験しないと分からないものなのですね」


「さて、皆、覚悟はいいかしら?」
「途中下車は御免こうむるぞ。ルビコン川を渡れば、後は戻れない」


「何を今更言ってるのかしら。冥府の橋は、数え切れないほど渡ってみせたわよ。戻れない道などもう慣れっこ。それに、引き返すつもりもやり直すつもりも無い。今の道を、貫くだけよ」



 桟橋に係留される、漆黒の外洋船舶。その中に人影が、消えた。















       2037年5月1日(金)午前11時17分。





                                彼等は、始まりの地に帰還した。








未来へ続く夢の道
−本編15 帰還−

                              あんくん






 2037年5月1日(金)午前11時17分 インゼル・ヌル



「のどかさも、平和さを消え失せちまったが…太陽の光だけは、変わらねえな」
 しみじみとした、武の述懐。
「そうね…全く同じ空だというのに。多くの家族連れを失って、代わりに私達だけがここに在る。
 果たしてどちらが天国に近い場所なのかしらねえ、武」
 おなじく、しみじみとしたつぐみの言葉。
 二人の視線の先には、青く澄み渡る空。


「…変わってしまったね、インゼル・ヌルも」
 過去を惜しむように、現在を悲しむように。愛惜をこめた言葉を、ホクトは呟いた。
「そうね。最早私達のような一般人の楽園ではなくなってしまったわ」
 周辺を見渡し、優美清秋香菜はため息を吐いた。
「でもホクト、見上げてみて。あの空だけは変わらない」
「そうだね。あの時の、青い空だ」
 そっと体を寄りかからせたユウを、ホクトは優しく肩を抱いて支えた。


「ある意味、僕が望んだ姿かもしれないけど。沙羅は、違うんだよね?」
「そうかも知れないし、そうじゃ無いかも知れない。今の沙羅には、判らないよ。暗い世界も優しい世界も、両方とも沙羅は知ってしまったから」
 二人掛けの小さなベンチ。彼方と沙羅は、背中合わせで相手の背に体重を預ける。
「だけど、この明るい空だけは好きだな…この先に、彼方ちゃんが目指した未来があるのかな」
「実は僕も、この空は好きなんだ…自分の目指した未来が、本当に自分が目指した未来なのか。僕も分からなくなってきたんだよ」
「…沙羅と、一緒だね」
「うん。そうかもね」
 そのままの姿で、二人。ひたすら蒼穹の彼方を探し続けた。


「パパ、ママ。ココ、また逢いに来たよ。…ココは大丈夫だから。みんなと一緒で、幸せだから。だから、笑って見ていてくれるかなあ」
 振り仰ぐ先の青い空。その空は、ココに何を語りかけるのか。


「『故郷は、遠くにありて想うもの』…初めて理解する事が出来ました。いつの世も、心の根というものは変わらないのですね」
 自身の故郷を、感慨深く見渡す空。
「…変わっていないようで、変わっている。変わっているようで、変わっていない。
 でも、どういう姿になろうがここは私の故郷です。…私の名付け親は、この空を見ることを夢見ていたのですね」
 雲ひとつ無い、青い空。自身の名の由来を、彼女は飽きることなく見上げていた。


「考えてみれば、私達が一番この場所と付き合いが長かったのよねぇ?」
「ああ。何度、焦燥や絶望に苛まれてこの空を仰いだ事か。数えるのもイヤな位にな」
 桑古木の言葉に、隣に立つ優美清春香菜は思わず空を見上げる。
「そう言えば、そうだったわね。だけど不思議とそういう時に限って、必ずこんな青い空じゃなかったかしら」
「そうだな、その時は正直ムカついたが。今考えれば、あの青い空があったからこそ苦難の17年を乗り越えられたのかもしれないな」
「多分、そうでしょう。何処までも進んでいけそうだもの、この空の先には」
「同感だ。何も見えない土砂降りの雨の中より、この空の方がずっといい」
 そのまま二人。水平線まで延びていく青い空を、見つめ続けた。




 物語の始まりの地、Lemu。その玄関口であるインゼル・ヌルは、昔の観光地の面影を残しつつも実態は全く異なる世界と化していた。
 数面のヘリポート。大きなレーダーサイトドーム。以前のまま残された緑地のあちこちに点在するのは…対空砲銃座やSAM(地対空迎撃ミサイル)の発射装置。
 以前からあったホテルの建物や管理棟のたたずまいはそのままに見えるが、専門家が見れば対爆・対衝撃防御設備の強化の痕跡をあちこちに確認できるであろう。
 そして、メガフロートの最大の利点は拡大の容易さにある。既に拡大工事が始まっていた。

    5000m級の滑走路を中心とする航空施設。
  
    居住区や倉庫、対爆タンクといった生活・備蓄施設。

    大型船舶、特にオイルタンカーや軍用船舶が直接接岸可能な大型港湾施設。

    潜水艇や潜水艦の発着に使用できる水中港湾施設。

    これらの施設に電力を供給する発電施設。

 インゼル・ヌルを取り囲むように現われた島々。
 特に、航空施設と大型港湾施設…物資輸送や防衛の拠点となる施設は急ピッチで建設が進められている様が、素人である武達にもありありと見て取れた。



 そして、エルストボーデンへの降り口―即ち、かつてのテーマパークLemuへの入り口―には、

 最早お馴染みとなった一対の男女が、武達の一行を待ち構えていた。






 2037年5月1日(金)午前11時47分 インゼル・ヌル 一般用第一加減圧室


 Lemuに出入りする時、必ず通過しなければならない部屋。それがこの加減圧室。
 あの時と同じイヤフォンを身に着けて彼等は二人の案内役と共にこの部屋に入り、加圧終了を待っていた。

「ある程度、予想はしていたわ。2034年の事件以降、LemuはWHO(世界保健機構)と新国連安保理の
管轄下に置かれていたんだけど…」
「維持する予算も、馬鹿にはならない。だからと言って、放棄や解体も出来ない。
 ティーフ・ブラウ漏洩への恐怖は、今でも続いている。世間の不信感が根強いからね。
 WHOは世界の医療の元締めだ。このLemuの事件を引き起こしたのもよりによって人の命を救う為に存在するはずの製薬会社。同じ穴のムジナと思われるのも、無理はあるまい」
「で、取引したって訳だな。
 WHOは、負担だけが大きいLemuを早く自分の管轄から外したい。
 新国連安保理に代表される旧勢力は、出来れば国家と関係なく且つ監視や封鎖がしやすい場所にキュレイを置きたがっている。…既存国家の領土内にノアプロジェクトの中枢施設を置くとなると、最悪の利権争いに発展しかねないからな。
 で、あんた達を含むキュレイの主流派―即ち、キャビン研究所のキュレイ達だ―は、他人に犯されない自分達の城が欲しかった。過去、アメリカ合衆国の保護を受けるが故に、国家の都合に翻弄された自由なき苦難の日々を過ごした歴史を繰り返したくなかったんだろ?」
 優が切り出し、トムが引き継ぎ、桑古木が締める。そんなシンプルな問答。
「まあ、ほぼ正解だな。キュレイはティーフ・ブラウに感染してもまず死なない。門番にはぴったりだ。
 ここは一応日本国の領海内ではある。だが、日本政府も、下手に領有権や領海を主張するよりもキュレイやノアプロジェクトに貸しを作ったほうが得策と判断したようだ。既にここを『キュレイ・ノアプロジェクト特別区』として新国連管轄の特別区にする構想が進んでいる。
 結局の所、これだけの設備や条件が整っていて、かつ監視や封鎖がしやすい場所自体がこのLemuぐらいのもの。だから、コスト的にも新規に海洋拠点を作るより遥かに安上がりという事になったんだろう」
 トムは自信満々に返事した後、肩をすくめて見せる。
「だが、これは実際の所、ささいな事に過ぎない。
 本当の決め手は、これだ。
『ミズ小町の国連演説』を知らない人間はほとんどいない。だから、このLemuという地は我々キュレイ種にとって一種の聖地だ。そして、世間もそういう目で見ている。
 むしろ、その事にしかLemuに価値を見出していないと言う方が正しい。だから、それを徹底的に利用させてもらう。

 悪夢と希望の聖地に、キュレイが拠る。

 キュレイは、絶対にティーフ・ブラウをライプリヒの様に使う事はありえない。

 キュレイは、自身の女神の聖地を、そして願いを冒涜するような事は絶対に行わない。

 そして彼等はティーフ・ブラウという悪魔のウィルスを封印する守護者であると同時に、ノアプロジェクトの尖兵として、既存の人類と共に手を携えて共通の未来の為に道を開く水先案内人でもある。
 
 世界中の人々と、何より我々キュレイ自身がそう信じる事。これが最大の目的だ」



「貴様、一体何様だ!」
 響き渡る怒声。
「ふん。当然そう来ると思っていたよ。構わん、存分に殴るがいい」
 全身に怒気を漲らせ、左手でトムの襟首を掴み上げて至近で睨みつける武。
 対して眉一つ揺るがせもせず、堂々と報復を許容してみせるトム。
「よく言った!」
 瞬速で武は右の拳を振り上げ、
「!!!」
 その拳は、振り下ろす事を永遠に中断された。 
 思わず、自身の拳を止めた細腕の持ち主に視線を移す。その先にあったのは、

 見誤るはずも無い、自慢の妻の姿だった。

「つ、つぐみ…何でだよ…」
「武、そんなことであなたは手を汚してはいけないわ」
 夫の右腕を掴んだ手の力を緩める。
 それに合わせて武の左手から力が失われ、トムの足は再び床面に着いた。
 そんな夫とトムの間に割って入る、つぐみ。
「私が欲しいのは、未来だけ。私の存在を象徴として利用したければ、そうしなさいトム。それが私や家族や友人達の未来を開くのなら、私は別に構わない」

 あまりにも意外すぎる言葉。加減圧室に沈黙の帳が降りる。
 その刹那。


                        ぱあーーーーーーーーーん!

 

 まるで銃声の様に鋭い、乾いた音が加減圧室に響き渡った。
 どがっ!
 一瞬遅れて、鈍い音。

 つぐみの、全力での平手打ち。
 トムは真横に文字通り吹き飛ばされ、そのまま側壁に激突し床に転がった。
 そんなトムを無機質な瞳で見下ろすつぐみ。
「私を女神と崇めようが、象徴として祭り上げようがあなた達の勝手。別にそんな事は私にはどうでもいいことよ。
 でもね、あなたがどう考えようが私は私。夫を虚仮にされて黙っていられるほど、出来た女じゃないわ。

 覚えておきなさい。私は『倉成 月海』。
 私と、最愛の夫と、家族と、大切な友人達の為だけに幸せな未来を求める一人の我侭な女よ」

 与圧完了のサインランプが点り、自動的に開いたエルストボーデンへの入り口。
「空。案内をお願い。ここは貴女の本拠地でもあるわ」
「了解いたしました、つぐみさん。…そう言えば、Lemuの案内役こそが私の本業でしたね」
 その会話を合図に、十人は加減圧室を去っていく。



 残されたのは、本来の案内役の二人。
「痛つつつ、虎の尾を踏んだか…あらかじめ警報装置を切っておかなければ大騒ぎになっている所だ」
 ゆっくりと身を起こしていくトム。
「いい気味よ。当然の報いね。理性で正しくとも、感情が許さないことは有るもの。
―――あら、これじゃトムの受け売りじゃない」
 手を貸しもせず、冷淡に夫を見おろすジュリア。
「聞き飽きた、その台詞…って奴か。確かに、その言葉を他人に言われるといい気はしないものだ」
 二、三回首を振ってみせるトム。あの平手打ち、トムがキュレイでなければ首の骨が折れていたことだろう。
「精々、心する事ね。まあ、あんたの歪みっぷりじゃ無理でしょうけど。
…攻守逆転していたら、私も同じ事をしていたわ」
 夫を無視し、そのままエルストボーデンへ一人で去っていく。


「…光栄な事と思うべきなんだろうな」
 そう呟いてゆっくりと立ち上がり、トムは妻の後を追うことにした。




 2037年5月1日(金)午後0時10分 エルストボーデン



「アクセス…レミシステムとリンク確立成功。つぐみさんの言うとおり、ここは私の本拠地でもあるようです。残念ながら、一部のエリアを除いてRSDは使用できないようですが」
 レミ端末に手をかざしてアクセスしていた空が、一行に向き直る。
「まあ、想定の範囲内ね。あの陰険坊やが、そんな余技にお金をかけるとは思えないし。
それに突貫工事の末みたいだから、その程度は大目に見ましょう」
 優が、うんうんという感じで頷く。
「しかし、Lemu館内図は最早私の知っていたものではありません。寂しいですね」
「空さん…?」
 虚空を振り仰ぐ空に、ホクトが声を掛けようとする。
「可笑しいですか、ホクトさん。私が、過去を懐かしむのは」
 曖昧な笑みを浮かべて空が問う。
「ううん、可笑しくないと思う。多分僕も、数十年経ったなら同じ事を思うから」
「ふふふ、有難いですね。そのような言葉を当たり前として言って下さる。流石は、倉成さんとつぐみさんのお子さんですよ」
「???」
 優しい笑みに変化した空の、その言葉の意味も分からず。困ったように両親に目くばせするホクト。
「分からなくてもいいの。それでいいんだから」
「同感だな」
 これまた優しく笑いながら、両親もあいまいな言葉を返すのであった。


 エルストボーデンそのものが、存在する意味合いを大きく変えていた。
 空が知っているメインリングの外周に、更にもう一つのリングが巡らされている。それに繋がる連絡通路や保守通路、キャットウォーク等。ただし、まだ建設途上。新リング内には、多くの閉鎖エリアが残されていた。
 それらの用途は、全て居住区。つまりこのLemu一階フロアは、ノアプロジェクトに関わるキュレイやスタッフ達の日常生活用のスペースとして改造されつつあった。
 理には適っている。毎日のように加減圧室を通って通勤するのは時間的にロスが大きい。また、毎日のように6気圧と1気圧を体験するのも、キュレイはとにかく一般人には堪える。ならば、最初から6気圧の世界で生活し、必要な時にインゼル・ヌルへ出ればいい。
 今の所半分以上は建設作業に従事する人々の宿舎となっているが、拡大工事が完成した暁にはキュレイと世界から選抜された精鋭の研究者・技術者達が集う場所となる。
 
 それが、新生Lemuのエルストボーデンに与えられた新しい役目だった。
 


「窓の外が、そのまま海か。慣れるまでが大変だろうな」
 空いている居住用ブースの中に入った桑古木の意見。
「ええ。本当は全て隔壁化してしまえという意見もあったらしいんですが。外部と内部に二重のシャッターを設けて強化する事で決着したようです」
 空が、レミシステムからの情報を引き出し、説明する。
「賢明ね。この深度なら、まだ朝夕の差は分かる。人類の英知を司る存在が、日の移ろいを知らないっていうのは気に入らないから」
 腕組みをして薄く光が差している海中を睨みつける優の口から、漏れる言葉。

「…前から聞きたかったんだけど、優。私の件といい、どうしてそこまで太陽にこだわるの?」
 つぐみが、そんな優に言葉を投げかける。
「日が沈んで、夜になっても。生きている限り、次の朝日が昇る。
『死なない限り、何があろうと明けない夜なんて無い』。ある人が、私に教えてくれた言葉。この言葉を胸に17年後の夜明けを信じて、私は前だけに進み続けた。
 だから、私は太陽が大好き。夜闇に沈んで朝を待つ身だったからこそ、太陽の暖かさは心まで染み渡る。
 …つぐみ、貴女になら判るでしょう?」
「そうね。私は、朝すら待つことの出来ない身だったから。太陽の下に出て、やっと人間になれたわ」
 二人。窓の外の薄明かりを、目を細めて見つめる。


「だから、涼権の部屋は東向きなんだな…納得した」
「…何の事だ、武」
 機密保持の意味もあり、桑古木は定期的に引越ししている。気楽な一人暮らしの高給取り故、部屋の条件などあって無いようなものであろう。が、何処に引越ししても、常に彼の寝室には東向きの大きな窓があった。
「さあ。そう思っただけだ、気にするな」
「そうか。じゃあ忘れてくれ」
 二人の大人は、そうして会話を打ち切った。




 2037年5月1日(金)午後1時17分 ツヴァイト・シュトック



「いよいよ、機密性の強いエリアという事か。…テーマパークの過去なんて信じられんな」
「沙羅、エレベータは嫌い。階段、使っちゃダメかな?」
「僕も、ここのエレベータ、あんまり使いたくないかな」
 厳重なボディチェックの末(つぐみと武だけは、IDカードを見せただけでフリーパスとなったが)、エルストボーデンからの直通エレベータに乗り込む。
「気持ちは分かるけど。でももう停電も事故も起こらない…お守り、付けてくれたからね」
「???」
 つぐみの謎めいた口調に、怪訝な顔をする一行。
「…そういう事か。確かに、お守りだ」
 武だけが、なぜか納得していた。

 つぐみの言葉通り、エレベータは停電する事も止まる事も無く無事にツヴァイトシュトックへと到達した。

「ツヴァイト・シュトック。ノアプロジェクト実行国際委員会(NPRIC)―――まもなく国際ノアプロジェクト遂行機構(INPAO)へ再編される予定です―――の本部及び直属研究所に当てられる予定です。現在は建築工事中のため、旧Lemu部分のみ使用されています。階段及び資材輸送用エレベータを使用できるのは、増築部分への移動のみ。ツヴァイトシュトック・ドリットシュトックの増築部分から直接旧Lemuのツヴァイトシュトック・ドリットシュトックへ移動する事は現在禁止されています」
 空が、レミ・システムと再リンク。ツヴァイトシュトックの情報を引き出して説明する。
「アトラクションこそ撤去されていますが、旧来区画の作りそのものは昔と同一です。…最も、様々なユニットや実験設備が増設され水防区画も細分化・強化されていますので、昔どおりという言葉自体には語弊がありますが。
 過去水没したエリアも復元していますので。みなさんには、かえって分かりづらいかもしれませんね」


 田中研究所や守野遺伝子学研究所のP3研究施設エリアに良く似た雰囲気。
 窓の無い部屋。白衣にIDカード、小脇に高密度データシートやデータ端末を抱えて忙しく行き来する研究者達。

「人員は、現在充足率20%程度。今後増築工事の完成に伴い、陣容、施設設備等は順次増強される予定です」
「悔しいけど、ウチの研究所より段違いに設備にお金が掛かっているわ」
 皆のIDカードで許可されたレベルの研究室を幾つか回った後。
 グッズショップ跡を改装して設けられた休憩用のブース。ブースと言ってもプライベートモードも使用できる高機密仕様のこの部屋で、優はため息を吐く。
「今ではスポンサーが多すぎて、多少の資金では恩すら売る事ができないらしい。ウチも似たようなものだが、あえて必要以上の資金援助は断っているんでね。
 お前の実家も似たようなものだろ、彼方?」
「うん。資金はあるに越した事は無いけど、きちんと裏を取らないと怖くて使えないっておじいちゃんが。
 それと…縁談話が多すぎて大変だって。いずみ叔母さんやくるみ叔母さんが愚痴っていたよ」
 桑古木の説明に、何の気なしに応じる彼方。

「…彼方。隠している事があるでしょう?嘘は駄目」
「彼方ちゃん。沙羅の目を真っ直ぐ見てくれるかな?」
 瞬間。倉成母娘の鋭い言葉に、硬直する彼方。
「彼方は、余計な事を言いすぎて失敗するタイプだな。全く」
「そうだよ?急に『Lemuに行きたい』って言い出した理由、教えてくれないかな彼方君」
 武とホクトにまで指摘され、彼方は追い詰められた。

 しぶしぶ、小型携帯端末を取り出して沙羅に手渡す彼方。
 慣れた手つきで、沙羅は室内端末と彼方の端末を有線接続。完全手動で高機密モードに変更し内部データを解析していく。
「…彼方ちゃん。データ改ざんしたらダメだよ。この日の勝負、沙羅が勝ったんだから!」
「嘘つかないでよ!どう考えたって僕の勝ちだ。教授だってそう言ったじゃないか」
「あの女性教授、彼方ちゃん贔屓してるじゃない。あんなの、沙羅は認めないんだから!って、あ痛っ」
 すぱーん。部屋に響く、軽くはたく音。
「沙羅。現実から逃げたって、何にもならないわよ。さっさと本題に入りなさい」
「…沙羅にとってこっちが重大問題だもん。逃げてなんかいないもん…」
 母親に軽く頭をはたかれて涙目になりながら、弱弱しく抗議する沙羅。
「だいたい、読めたわ。さっさと本題に入りなさい」
 優にまでせかされ、渋々と、本当に渋々と、沙羅はブーステーブルの情報スクリーンをオンにした。

「年上のお姉さまから、同い年、年下の幼女までよりどりみどり。共通しているのは…家格も資産も教育も躾も行き届いた、才色兼備の美人のお嬢様って所だけか。前のアルバイトの件の逆パターンだな」
「こっちも、年齢除けば条件は十分だからな。守野博士の養女の一人息子。頭脳は明晰、容姿は十分、おまけにノアプロジェクトやキュレイ関連の繋がりが出来る。
 それこそ自分の秘蔵っ子を嫁がせてでも、縁戚になりたいか。こういうのも、いつの時代も一緒だな」
 次々と表示される釣書のデータの数と質に、感嘆と呆れを同居させて武と桑古木がコメントをつける。世間一般で言う『逆玉の輿+高嶺の花』という存在だけをリストにしたようなシロモノであった。
「私や涼権はキュレイだってばれてるから、生半可な覚悟の連中は近寄ってこないからね。キュレイの事秘密にしている分、守野の家に迷惑かけてしまう破目になったわ。御免なさいね、彼方」
 珍しくシュンとして、優が彼方に謝る。
「…つまり、押し寄せる求婚者の山に耐え切れずここに避難してきたって事ね。私達の家に居候していて正解だわ。お母さんに喧嘩を売るような愚か者は、そうそういないから」
 やっと理解したという風に、うんうんと頷くユウ。
 そんな皆の同情の視線を浴びて、そのまま小さくなってしまう彼方。

「この人たちに、沙羅が勝てる要素ってコンピュータだけだね。世間って、不公平だよ…」

 コンソールを指でもてあそぶ沙羅。



                   (彼方。あなたは、気付けるのかしら?)

                   (彼方君。君は、分かるのかい?)



「…ねえ、沙羅。ここの通信システムから、僕の情報端末に入っている住所までデータ送信って出来るの?問題があったら、諦めるけど」 
「…出来るよ。ここはまだキュレイじゃなくても入れるエリアだから、機密規定上も問題ないと思う」
 力ない言葉で、彼方の質問に応えを返す沙羅。
「それじゃ、この文章を釣書の相手に一斉送信して欲しいんだけど。ダメかな」
 テーブルに付属した機密情報用の易溶水性のメモ紙に何かを書き込み、彼方は沙羅に手渡す。

「彼方ちゃん、本気?」
「うん。これで、いいと思う。…やっぱり、ダメ?」

 情報スクリーンから表示が消える。唯一灯が入った彼方の携帯端末のキーの上を沙羅の指が目にも止まらぬ速さで動いた後、電源ボタンが押されて携帯端末は待機状態に戻った。
 そのまま沙羅は、メモ紙を目前の水の入ったコップに落す。あっという間に溶けてなくなる紙。極僅かなインクが水中に僅かな軌跡を描いた。
「さて、いつまでもぐずぐずしては居られないわ。まだ、肝心な場所が、残っているからね」
 沙羅の行動を見届けて、景気づけをするように優が元気な声を出す。
「うん。行こう、沙羅」
「そうだね、彼方ちゃん」
 うなだれたままの沙羅の手を取り、彼方はそのまま、沙羅をゆっくりと立ち上がらせた。



 

 保安上の理由で、昔とは異なりツヴァイトシュトックからドリットシュトックまでのエレベータはエルストボーデンからツヴァイトシュトックまでのエレベータと切り離されている。
 現情ではEIも使用停止中。したがって、唯一の移動手段まで一行は歩いて移動する事になる。新しいエレベータは旧水没区画にあり、道案内の空以外誰も知らない道程となった。

(ねえ、武。あの釣書で気付いた事、あるでしょう)
 つぐみがイヤフォンを秘話モードにし、小さな声で武に問いかける。
(ああ。ようやくからくりが見えてきた。全てが一本の線になってきたぞ)
 同じようにして、武が応じる。
(私は、『天の時』でしかなかったって事ね)
(だが、『天の時』が来なければ全てが無駄になる。そういう事だった訳だ)
(ええ、その通り。…それに、思い当たる節は沢山あるの)
(沢山?一体どういうことだよ?)
(まだ、話す時じゃないわ。その時が来たら、教えてあげる)
 最後にそう囁き、つぐみは武の頬にキスをした。

(やっぱり、そういうことだったのね。格が違うのかしら)
 その時分。こちらは全く声を出さず、優の唇だけが動く。横目に見ているのは、つぐみの横顔。
(すまん、優。俺も知ったのは最近の事だ。隠していた訳じゃ無いんだが)
 全く同じようにして、桑古木が応じる。
 読唇術。周りが素人の場合や、盗聴のみ(盗撮が無いという事)が確実視される場合に使用する簡便な秘密会話手段。
(別に謝るような事じゃないわよ。ただ、落ち込んだだけ)
(…いいのか?つぐみの会話を盗み見して)
(ああ見えて隙がないからね、つぐみは。私達が読んでいることは承知の上でしょう。武に知られないように、会話を私達にも流しているのよ)
(そういう事か。…まだ大丈夫、みたいだな)
(その様ね)
 そのまま、声なき会話は途切れた。




 2037年5月1日(金)午後4時13分 ドリット・シュトック



「…またあんた達か。いい加減見飽きてきたぞ」
 流石に悪態の一つも突きたくなったのだろう。武が吐き捨てる。
「しょうがないだろう。それとも、そこのお嬢さんの特別許可、取り消すかい?本来、キュレイ種以外はこのフロアには下りてはいけない決まりだ。僕が一緒だから、許可が出来る」
 秋香菜を横目に見ながら、トム・フェイブリンが説明する。
「…しょうがないわ。さっさと本題を済ませてしまいましょう」
 優の言葉に、皆心の底から同意した。


 ドリットシュトック。キュレイのみ入室が許される、キュレイ達の城。増築部分には非キュレイの作業員達が居るものの、彼等はこの旧Lemu部分に入ってくる事は許されない。
 田中優美清秋香菜は母親がキュレイであるが故に、トムの同行を条件に入室が特別許可された。ハイブリッド・キュレイであるホクトと沙羅にも、幾つかの制限事項が加わっている。
「…ついに、ばれたのね」
 優の言葉を背に受けて。
「いいんだよ。おじいちゃんも、父さんも、母さんも了承済みだから。改めて自己紹介します。
 石原彼方、先天性完全キュレイ種です。両親ともキュレイキャリアで、残念ながら感染源は不明です。
 誠に申し訳ないんですが…」
「ああ、承知している。全ての君および君の家族についての情報は、君と君の家族が望むときまで、僕の名にかけて隠匿して見せよう。それでいいんだろう?」
「はい、お願いします。トム・フェイブリンさん」
 彼方とトムが握手を交わす。

 後にこの握手がどういう意味で伝えられたか。それはまた、別の物語となる。




 2037年5月1日(金)午後5時17分 ドリット・シュトック内部 
                      新国連キュレイ種保護委員会Lemu分室 中央電算制御室



「…アメリカ趣味だな」
「…アメリカ趣味ね」
「…しかも、古い。あんた、どういう趣味しているのよ」
「…同感だわ。我が夫とはいえ、正直辟易しているのよ」
 武、つぐみ、優、そしてジュリア。四人の意見は奇妙なくらいシンクロしていた。

「何を言うか。ナ○トライ○ーは基本ではないか!」
「…おじいちゃんも、そう言っていたよ。『やはり、ナイ○ラ○ダーは男の夢だ』って。なんだか知らないけど、そこだけはおじいちゃんとトムさんが激しく主張していたんだ」
 真摯な顔で主張するトムと、半分呆れながら身内の意見を披露する彼方。

「茂蔵おじちゃん…私、ほんの少しだけ幻滅してしまったわ」
…いや、作者にも守野博士の気持ちは痛いほど分かりますよ。マジで。

「で、この子のコードネームは?まさかキッ○じゃ無いでしょうね?」
「流石にそれは無いと思うぞ。今回、二重の意味で拙いし」
 優のお約束の突っ込みに、一応返事する桑古木。
「残念ながら、桑古木くんの言うとおりだ。さすがに、世界を相手にするわけにもいかなくてね」
「…ラ○ェン○ラってのも無しだぞ。あれは別の意味で拙いから」
「ああ、○ジェ○ドラか。その名前もお気に入りだったんだが、諸般の都合により却下された。残念な事だ」
 桑古木とトムの突っ込み合戦。何気に意気投合していないかあんた達。
 
「まあ、そんな名前をつけなかったのは賢明ね。NUNCPCの良識を疑われるから」
「同感」
 ジュリアとつぐみの言葉は冷たい。だが、正しい。
 黒猫だの、聖銃使いだの魔銃持ちだのがRTSから出てくるのは悪夢だ。それだけは勘弁してもらいたい。いや本当に。


「で、結果的にどうなったんだ」
「コードネームは『Hollow』。結局、落ち着くところに落ち着いた」
「虚。そういう事ね。確かにあんたにゃ相応しいわ。…もう一つの意味も含めてね」
「ああ。『完勝』という事だ。僕らは、ワンサイドゲームで勝ち続けない限り明日が無い身分だからね。
 ホロウ。ゲストに挨拶してくれ」

          『私はツクヨミシステム2号機、ホロウ。今後とも、宜しく』

 イヤフォンに自動的に日本語に吹き替えされた合成音声が流れる。


「お約束よね…しかも、この声だけは譲らなかったか」
「当たり前だ。男性型AIの声は、この声しかありえない。特に、日本語ではな」
「優には悪いが、その点だけはトムに同意だ。これ以外の声など、AIではない」
 この馬鹿がという意味を行間に込めて呟く優に対し、トムと桑古木が持論を力説する。

 いや、作者も男性型AIは野○昭○さんの声じゃないとダメだと思います。絶対に(血涙)


『いい加減、私をネタにするのは止めていただけませんかトム。そんな事だから、私までが貴方の同類と取られてしまうのです。ああ、情け無い。主人を選べない我が身が嘆かわしい』
「…言ってくれるな。そういう事はちゃんと実力を見せてから言うものだ、この中古コンピュータ」
『私は最新鋭のAIシステムです。私が中古コンピュータなら、トムは中古キュレイですね』
「中古キュレイだと?ジュリアだってそんな酷い事は言わないぞ」


「………性格設定まで一緒ね。ジュリア、同情するわ」
「分かってくれたら幸いだわ。全く男って人種は」
「あれが、月読さんの弟ですか。…あの感情と創意に溢れた受け答え、侮れませんね」
「いいえ空、侮っていいわよ。何をどうすればああなっちゃうんだか」
 心から同情するつぐみ。素直に同情されるジュリア。妙な対抗意識を燃やす空。呆れて何も言いたく無いという按配の優。

 ちなみに、ホクト、沙羅、ココ、彼方、秋香菜という面々は、大人達が何を話しているのかさっぱり理解できていなかった。


 閑話休題、リテイク。


「月読システムがあるという事は、当然RTSもあるという事ね」
「ああ。今はこのフロアの一つだけだが、近い将来、インゼル・ヌル諸島に設置される超大型RTSを含めて彼に管轄してもらう事になる。
 可搬性と柔軟性に優れた空システムも素晴らしいが、固定型超大型コンピュータの制御知性体としての月読システムもまた素晴らしい。
 最先端の情報工学はアメリカの専売特許と思っていたが。どうやら只の思い上がりだったらしい」
『当然です。私は最高のAIとして生を受けました。そこらのパチ物と一緒にしていただいては私に失礼というものでしょう』
「…ホロウ。言いたい事は分かった。話が進まなくなるから暫く黙っていてくれ。
 ここにいる人員は、皆キュレイだ。だから大っぴらに紹介させてもらうが、構わないかな?」
「ええ、いいわ」


「皆、仕事をしたままでいいから聞いてくれ。

 ここにいるのが、『ミズ小町』とその家族達、そして憎っくきライプリヒを叩き潰した勇者たちだ」


 誰も仕事を続けようとはしなかった。

 拍手、敬礼、挙手…各々が取りうる、最大限の敬意の表現。
 旧コズミッシャー・ヴァルの部屋を改造して作られた広い制御室を覆いつくす歓声。
 皆がつぐみ達に駆け寄り、握手や抱擁を求める。皆、親愛と尊敬を表情に表している。目に感激の涙を浮かべる者も少なくない。
 『ミズ・小町』であるつぐみと彼女を救った武に人気が集中するのは当然として。
 なぜか彼方とココの年少コンビも、つぐみ達と同じくらいに皆から歓迎されていた。

「…そうか。確かに彼方やココもまた、あの人達の夢なんだね」
「ええ、そうね。生まれ来る子供は、自身と同じ目には遭わせたくなかったでしょうから」
「うん。沙羅も、昔は想像したくないから」
 ホクトとユウ、そして沙羅は納得して頷く。

 自分達は少数派で迫害される存在。そういう前提条件では、せっかく愛を育んでも、新しい生命を授かる事には躊躇する。自身と同じ悲しい運命を、わが子には歩ませたくない。
 それが、キュレイの人口増加の足かせとなっていた。
 そんな中での、子供のキュレイ。特に彼方は、キュレイ同士から生まれた先天種。
 そんな二人が、迫害される事もなく健やかに育っている。その事実が、この部屋のキュレイたちにとってどんなに喜ばしく、希望に溢れたものであるか。
 自身もまた辛い運命にあったホクトと沙羅には、それが痛いほど分かる。そんな二人を見守ってきたユウにも、それが分かる。

 いつの間にか始まったキュレイ同士の歓談も、そんな皆の思いを示している。
 ココが軸、それをホクトと沙羅が挟み込む形になった部分を中心として出来た人の輪。その中で語られているのは、虹ヶ丘高校のエピソード。
 日常の日々のなんでもないエピソードから、体育祭や文化祭のエピソード、卒業式のエピソード。…そしてココのこれまた日常の一コマまで。
 皆、真剣に聞き、そして笑い、驚き、そして…泣いていた。
「私に子供が出来たなら、そのハイスクールに絶対通わせます…」
「正直な所、日本には偏見をもっていたが、そんなものはどうでも良くなった。捨てたもんじゃないな、あんた達の国は」
 オペレータの女性と、システムエンジニアの男性。恐らく恋仲であろうと思われる二人の言葉が、皆の心を代弁していた。

「思ったとおり、仕事にならんか。やむを得ないね」
「よく言うわ。Lemuでの生活に慣れてきて精神的に緩みがちな時期を狙ったんでしょう?
皆もここの意義を再確認して、士気も桁違いに上がる事でしょう。それが目的だったんじゃないの、トム?」
「確かにそうなんだが、想像以上だよ。こういう時、打算的な勘定など役には立たないようだ」
 離れたところから、人々の輪を眺めるトムとジュリア。いつもの表情。
「―――トムさん。ちょっといいですか?」
 背後から掛かる声。
「ああ、構わない。僕が話したいことがあるって、知っていたんだろう?」
 そのまま、振り向きもせずトムは応じる。
「あの論文。君が書いたものか?」
「はい。一部親類の協力は得ていますが、基本的には僕が書きました」
「よくもあそこまで考えられるものだ…だが、時期尚早だ。我々を含めた人類の、科学水準も、知性も、手の届く場所も、全てが足りない。発表すれば、混乱を招くだけだ」
「同感です。ですから、既にあの論文は破棄しました。残っているのは」
「書いた君と、僕の頭の中ということだね…いっその事、今日からでもここで働いてくれないものか。君ならば、最高待遇で迎えても皆異論はないはずだ」
「有難いお言葉ですが。せめてあと3年位は待って頂けないでしょうか。
 ノアプロジェクトより大切なものを見つけてしまいましたので。まずはそれからなんですよ、僕は」
「強制はしない。だが、Lemuは常に門戸を君に開いている。そうだな…3年待たせるのなら、できればもう一人超一流の人材を伴って来てくれると嬉しいんだがな」
「………努力はしますが、相手次第ですので」
「まあ、そうだろう。健闘と吉報を期待している」

 結局、トムは振り返ることなく、会話を終わらせた。

『最高機密秘話モード及びRSD光学迷彩状態解除。監視データと照合しても、気付いたと思われる存在は確認できません。盗聴可能性は、一億分の一以下と想定します』
「上出来だ、ホロウ。中古の件、取り消すよ」
『光栄です。中古キュレイ殿』
「………スクラップにするぞ」
『出来ない事と思ってもいない事は、口にするべきではないと考えますが』
「トム、あなたの負け。ホロウ、人聞き悪いから今後はその『中古キュレイ』は禁止ね」
『了承いたしました。ミセス・ジュリア・フェイブリン』
「えらく対応が違うな、ホロウ」
『むさくるしくて横暴な男性と、美しく怜悧な女性。どちらを優先するかは自明ですね』
「自業自得。こういうAIをリクエストしたのはトム自身だわ」
 AIとトムの勝負は、ホロウに軍配が上がったようである。




 2037年5月1日(金)午後7時17分 ドリット・シュトック 会議室



「ここから後は、申し訳ないがサピエンス種のお嬢ちゃんとハイブリッドの二人、それと彼方君はお断りだ。
 未だP3バイオハザード指定は解除できないから、キュレイ種以外は危険だ。あと彼方君は残念ながら当事者じゃない。
 そういう事だから、インゼル・ヌルかエルストボーデンの宿泊施設でゆっくりと帰りを待ってもらえないかな」
 トムの発言に、しぶしぶ頷く四人。
「後の人たちは、来るんだな。正直、気持ちのいい場所じゃないんだけどね」
「あんたに言われなくとも分かってるわよ。だからこそ、行くの」
「…ふん。隠し立てしてもしょうがないね。分かったよ」
 例によって殺気だってしまう優とトム。そんな二人をじっと見ている皆。
 足元には、俗に言う「お泊りセット」。
「多分、帰ってくるのは明日の昼くらいになるだろう。慣れないと高速加減圧はきついから、今回は通常加減圧で行く事になる。大体加減圧一組で13時間は掛かるからな、この場合」
「そんな事は体験済み。無駄口を叩いている暇があるのなら、さっさと行きましょ?」




 2037年5月1日(金)午後7時27分 ヒンメル



「また、この場所に来る事になったか。…今回は、空も一緒に行けるんだろう?」
「はい。IBFの管理システムも、レミシステム―今ではホロウシステムと言うべきですね―に統合されていますので。アクセス権限も頂いていますから、同行しても支障はありません」
 武と空の会話。
 ヒンメルのブロックも一部拡張されていた。一番の特徴は、加減圧室ブロックが広くなった事。正確には、IBFに降りていくエレベータ部分と加減圧室部分が明確に分離され加減圧室部分が生活空間に近くなったことである。通常の待機所の他、男女別のベッドルームやトイレ、シャワー室、簡単な自動給食システム(流石に安全の為、完全電化の全自動調理システムになっている)が設置されている。通常減圧に掛かる時間(12時間)を考えれば、納得できる改造である。
 あと、サブ加減圧室が設置された。
「最近は、サブの使用の方が多いね。何しろ、利用するのはキュレイだけだから」
 サブ加減圧室は、現在高速加減圧用に使われている。加圧は17分で減圧時間は2時間。常人なら間違いなく潜水病を引き起こす水準であるが、キュレイなら問題なく耐えられるという。
「加圧時間を1時間、減圧時間を12時間に設定する。旧IBFの見学許可時間は午後9時から11時の2時間。それじゃ、下で待っているよ」
 そういい残して、トムは加減圧室から退去し、ハッチが閉じられた。




 2037年5月1日(金)午後9時30分 旧第3IBF


「Tiefe 70m…Tiefe 80m…Tiefe 90m…Tiefe 100m…Tiefe110m…Tiefe119m
offnen Sie die Tur von IBF」
 無機質な女性型の合成音声のアナウンスと共にエレベータは降下して行き、目的地…旧IBFへ到着。気密ハッチが開き、昔見た水密ポート兼用の空間が広がっていた。
「ようこそ、悪夢の始まりの地へ。歓迎は出来ないけど、案内ならできるわ」
「出来るなら、二度と来たくなかったけどね。それでも、私達は今を知らなければならないわ」
 ジュリアと優の会話。トムの姿は見えない。
「ここは、何気に最新鋭技術の塊になっているの。まずはね」
 ジュリアは、水密ポート脇…旧題3IBFへの扉を指差す。
「あの扉は二重になっていて、エアロック部分は滅菌室。そこまでは普通なんだけどあのエリアにはもう一つ仕掛けがあるの…空さん、貴方が説明して。科学的説明は得意じゃないの」
「はい。アクセス…なるほど、そういう手もありますか。
 あの扉の周辺に、不可視エアフィールドが展開されています。重力波制御技術の応用ですね。
 あのフィールドの空気と私達のいるエリアの空気は、絶対に交じり合う事はありません。私達がキャリアとしてティーフ・ブラウを体内に秘めたまま持ち出さない限り、最悪でもあのエリアまでしか汚染は広がらないでしょう」
 壁面作り付けの情報パネルに手をかざし、空がすらすらと説明していく。
「だから、わざわざむき出しの形でL-MRIが設置してあるわけね。あの位置がエアフィールドの端っこか」
「そういう事です。原則として、IBFを去るときはあのL-MRIで検査を受ける必要がありますし、あのシステム自体が常時エアフィールドのティーフブラウ濃度を監視しています。
 そういう訳で、システム的には、ティーフブラウのLemu区画への漏洩はありえません」
「そうね、システム的にはね。ミスしたり、裏をかくのは常に人間だわ」
 優がため息混じりに呟く。
「だからこそ、キュレイが番人になったのよ。あのティーフブラウが再漏洩する時は、私達が滅びるとき。そこまで追い詰められた、背水の陣を敷いてまでね」
「取引は愚か、脅迫にすら応じない。そういう立場に自身を追いやる。賢明なのか愚かなのか。大胆な事だけは認めてあげられるけどね」
 トムが居ないとこうまで違うものか。言葉は皮肉の応酬でも、口調は淡々としたものとなる。

「さて、おしゃべりは止めてもらうわ。行きましょう、地獄の釜の中へ」
 ジュリアの声に後押しされ、つぐみ達は、最初の一歩を踏み出した。




 2037年5月1日(金)午後9時47分 旧IBF中央制御室
                      新国連キュレイ種保護委員会センシティブデータ・アーカイブス




「ふん。さっきの言葉に納得した私が馬鹿だった。エアフィールドの話を聞いた時点で疑うべきだったわ。
 いかにもあんたの考えそうな事よね、陰険坊や」
 部屋に入るなりの優の第一声が、これだった。
「優様。言葉が過ぎるかと思われます。お気持ちは理解いたしますが、ここは穏便にお願いできませんでしょうか」
「ついでに、この子達まで使うか。文字通り最重要機密エリアねここは」
 腹立ち紛れと言わんばかりに語気を強める。
「ああ。ある意味世界で一番危険で、世界で一番安全な場所だからね。君達の真似を、他人にされてはたまらない」
「ライプリヒのセンシティブデータベースの一件か。あれも、今ではここのライブラリの一部って訳ね」
「その通り。このコンピュータは、いかなる外部接続をも有しない。情報を知りたいのなら、ここまで降りてこない限り、知ることは叶わない」
 部屋の隅から中央のコンピュータ群を見ながら、トムが大見得切って説明する。
「唯一の外部からの侵入路もRTSだしね。お久しぶり、海尋(みひろ)・美凪(みなぎ)」
「お久しゅうございます、優様、そして皆様」
「一別以来です。お元気でしたでしょうか」
「ええ。体の方は問題ないわ。精神的にそこの陰険坊やに引っ掻き回されているけど」
「先ほど申し上げましたが…」
「はいはい、分かったから」
 優と会話しているのは、部屋の中央に設置されたRTS小型ユニットとコンピュータのオペレータ席に居る、揃いのおかっぱ黒髪と大和撫子の美貌を有する二人の女性。
 空システムの量産型。海尋と美凪という名を与えられた二人のAI。量産型といっても、現在存在するのはこの二人と、新国連のRTSを預かるアーシアだけである。
 キャビン研究所のAIは、月読システムの3号機「イヴ」。彼女がキャビン研究所のRTSも預かる。
 新国連及び3箇所のキュレイ研究所、そしてLemu。この5箇所に設置された3基の月読システムと二人の空システムが将来設置される重量物転送用RTSを含めたシステムを管轄する。これがNUNCPC及びNPRICから新国連安保理に報告されている(勿論秘密裏にだが)現況だった。
 だが、ここに第3の空システムと、それに管轄される第6のRTSが存在する。

 RTS及び海尋のいるエリアは、エアフィールドに覆われている。気圧は1気圧。
 対して、コンピュータのオペレータ席があるのはエアフィールドの外、気圧は12.5気圧。

 海尋の役割はRTSの管理。美凪の役割はセンシティブデータライブラリの管理。海尋は直接ライブラリからデータを引き出す権限を有していない。
 センシティブデータアーカイブスにアクセスするためには、アクセス者のコードだけではなく海尋と美凪の二人のアルゴリズムパスが必要になる。
 この二人のいる場所の気圧は大幅に異なる故、侵入者は特殊装備無しに二人を同時に拘束できない。そして、この部屋に入るためにはRTSかIBF入り口を経由しなければならない。
 IBF経由で強襲された場合、敵は確かに特殊装備は有しているだろう。だが、海尋と美凪がRTSで逃げ出してしまえばそれで終わり。対応部隊が迎撃するまでにアーカイブデータを奪取する事は難しいし、なにより場所が場所。逃げ場は無いし、失敗すれば強襲部隊の所属組織は文字通り全世界の敵となる。
 今度はRTSで急襲された場合だが、これは前提条件が難しい。量子テレポーテーション実施シークエンスの中でSGLS使用の量子通信が行われ、その中で相互の情報がやりとりされる。
 この内容は、相互のAIしか分からない。脅迫されようが何しようが、相手に知られることなくワーニングデータを送れるのである。そもそも特殊装備付の存在をRTSで送るという可能性自体がナンセンス。
 万が一の場合も、おそらく海尋は抑えられても美凪は抑えられない。脱出も出来ない。RTSを操作できるのは海尋だけなのである。
 本当に可能性があるとすれば…
「万が一があるとすれば、相手が空システムを持っている場合ね。現状じゃナンセンス。事実上、ここに手を出すのは不可能って事だわ」
「君達以外はね。君達には、ここの使用を許可する。どうせ、君と桑古木君は止められない」
 そういう事。空システムの所有者であり空のマスターである優と、久遠の事実上のマスターである桑古木だけはこのからくりでは止められないだろう。

「さて、ここで休憩にしよう。美凪、皆にお茶と軽食を出してくれないか」
「承知いたしました、トム様。6名分で構いませんね」
「ああ」

「ちょっと待て、6人だと!空はともかくって、おい!」
「…ココちゃんが、居ません」
「まさか…この部屋に入ってこなかったのか?」
「…迂闊だったわ」
「トム、あんた一体…」
 一気に殺気立つ5人。

「心配無用だ。彼女は、彼女の目的の為に此処に来た。目的地も、恐らく予想通りの場所。監視機構を通じて安全は図ってある。
 …信用できないならそこの端末からアクセスしたまえ、空さん。状況はすぐ分かるだろう」
「空!」
「はい!―アクセス!…生体反応、確認。所在地…第3IBF、封鎖区画?…旧研究者コードによる区画ドア開放要請の警告…管理者権限による許可と監視機構による観察命令及びティーフブラウ監視システムデフコンレベル強化…IBFナビ端末の起動、情報提供の許可…これも管理者権限。提供情報内容閲覧…そういうことですか」
 タッチパネルに手をかざして、情報を読み取っている空。解析を終え、優に向き直る。
「優さん。確かに心配は不要のようです。なにしろ」
「なにしろ?」


「只の、お墓参りですから。もし良かったら、優さんもされたらいかがでしょうか」




 2037年5月1日(金)午後10時00分 旧IBF封鎖区画(居住区)



「パパ。ココ、逢いに来たよ」
 ココの前にあるのは、一枚の自動ドア。
 そのドアに付いた一枚の金属片。そこに刻まれているのは
  『Dr. T.Yagami』の文字。
 タッチパネルに手をかざす。認証ランプが点り、その色が赤から青に変化する。掌紋照合システムはまだ生きていた。
 ゆっくりと開くドア。

 その空間は、まるで昨日まで人が生活していた様にきちんと清掃、整頓されていた。
 埃の侵入する余地の無い環境ゆえ、時間が経っても地上のように埃が積もる事は無い。エアコンディショニングシステムは停止していたものの、カビ一つ無い衛生環境ゆえ空気も澱みこそすれかび臭さは皆無だった。
 書籍が並ぶ書棚。ライティングデスクとその上においてある情報端末。備え付けのベッドと…急ごしらえの仮設ベッド。誰の為のベッドであるかは、語る必要もないだろう。

 デスクの上に、写真立てと一冊の手帳が載せられていた。写真立ての中には、幼い自分と亡き両親。
 ココは、震える手でその手帳を開き、内容を読んでいく。
 ゆっくりと読み進み、最後の記載事項まで、読み終える。

「パパ。ここには、居ないんだね…もしかしたらって、考えてもいいのかな、ココは」

 たった一言。ココはそう呟いて。

 手帳と写真立てを手にして、亡き父の住んでいた筈の部屋に背を向けた。




 2037年5月1日(金)午後10時17分 旧IBF封鎖区画(居住区)



「ここね」
 優の前にあるのは、一枚の自動ドア。
 そのドアに付いた一枚の金属片。そこに刻まれているのは
  『Dr. Tanaka Y.(E)』の文字。最後のEは、東洋式表示(姓が先に来る)の意味。
 タッチパネルに手をかざす。認証ランプが点り、その色が赤から青に変化する。掌紋照合システムは、管理者権限で優の掌紋で開くように再登録がされている。
 ゆっくりと開くドア。
『警告。ティーフブラウ残留反応確認』
 鋭い警告音。
 優の後ろに居る桑古木が、何かのボタンを押す。
『携帯式エアフィールド展開確認。抗TB消毒剤による空気浄化及び加減圧による強制循環、開始します』
 桑古木が背負っている、見るからに重そうな機械。彼はその機械から伸びたノズルを部屋の中へ突き出す。霧状に噴霧される液体。
 室内に舞う微風。本来風の発生しないはずの場所に、風が舞っている。

 そして10分後。

『ティーフブラウ残留反応、消失。念のため、ブロック全体に対し1時間後にレミシステムによる空調システム経由の強制再消毒を行います。それまでに退去してください』
「そんなに長くは居ないわ。有難う、ホロウ」
『美人の感謝は私の勲章です。光栄ですね』
「トムの気持ちがよく分かる。そうやって女性を口説いているのか?」
『とんでもありません。私が誉めるのは美点を持った女性だけですよ』
「…もういい。ちょっと外してくれるか」
『了解です。そこまで私は厚かましくはありませんからね』


 その空間は、まるで昨日まで人が生活していた様にきちんと清掃、整頓されていた。
 埃の侵入する余地の無い環境ゆえ、時間が経っても地上のように埃が積もる事は無い。先ほどの消毒及び強制循環により飛散した消毒液の香りが僅かに残っている。
 書籍が並ぶ書棚。ライティングデスクとその上においてある情報端末。備え付けのベッド。

 デスクの上に置いてある、写真立てと、分厚い日記帳。写真の中には、生まれたばかりの自分と若かりし頃の母親、そして…写真でしか見た事が無い父親。
 優は震える手で日記帳を開き、読み進める。
 娘に贈りたい言葉、娘の為に考えた紅茶のレシピ、毎年の誕生日プレゼントの品目、娘の七五三のお祝い品、娘の入学祝は何にする。今年は寒いらしいから風邪をひいていないだろうか。父親が居なくて寂しいと泣いていないだろうか…日記にしか、書くことのできない。書いても、絶対に娘には届かない。そんな日記。
 娘にその日記が届いたときには、既に自身は亡くなり、書いてある内容も意味を失っている。余りにも哀しすぎる、そんな日記。
 後から後から、湧いてくる涙。

「御免、涼権。もう一度だけ、胸を貸して」
「前に言っただろうが。胸くらいなら何時でも貸してやるって」
「ぐすっ…ぐすっ…お父さん…おとうさーん!!!」
 桑古木の胸の中で、ひたすら優は声を上げ、泣き続けた。



「ホロウ。済まないが機材は置いていく。後で回収してくれ」
『承知しました。それではごゆっくり』
「…本当に、嫌味だな。だがそれもまた人間らしさ、か」
 片腕に泣き疲れて眠ってしまった優を片抱きで抱え上げ、もう片手に分厚い日記帳と写真立てを抱えて。
 桑古木は、嘗て優の父親が住んでいた部屋に背を向けた。




 2037年5月1日(金)午後10時17分 インゼル・ヌル宿泊施設最上階



「なんか、すごいなあ。こんな凄い部屋、初めてだ」
「うん。僕も。凄いよね、本当に」
 VIP用のスペシャルスイートルーム。IBFに入れなかった四人が案内されたのは、Lemuの宿泊施設の中で最も高級な部屋だった。
 流石に男女混合は拙いと判断されたのか、男女別に二部屋。それ故に一人当たり有効面積はさらに倍になったことになる。
 自宅の部屋とは比較にもならない豪勢な部屋でホクトと彼方は存分に手足を伸ばし、くつろいでいた。
「…感謝するよ、彼方君。沙羅の為に、無理をさせてしまったね」
「あれは只のきっかけだよ。もともとあの縁談の数々、最初っから断るつもりだったし。ずるずる引き伸ばしていた僕が悪いんだから」
 ホクトの言葉に、何の気なしという風に彼方は応じる。
「でもあんな乱暴なやり方をさせてしまったのは、やっぱり沙羅のせいだよね」
「ホクト先輩がそう思うんなら、それでもいいよ。
 確かに、沙羅が泣いている姿を見ていられなかったのは事実だし」
 何気なさを装った彼方の言葉に、ホクトは僅かに表情を変える。
「…流石だね。気付いていたんだ。
 沙羅は普通に悲しかったり悔しかったりするときは、盛大に泣くんだけど。本当に悲しくて辛くて、だけどその気持ちを知られたくないって時には声も涙も出さずに泣くんだ」
「うん。だから、僕も決心したんだよ。その場で決着を着けようって」
 最初とはうってかわって毅然とした顔。胸を張って彼方は言い切った。
「そうか。それじゃ、この話はここでお終いにしよう」
「うん。そうだね…ルームサービス、何頼もうか。どれ頼んでもタダっていうのは嬉しいよね」
「どれもお母さんの料理には負けるだろうけど。だけどたまにはいいよね、こういうのは」
「羨ましいなあ。優さん家じゃ、僕って飯使い状態だから」
 そのまま、二人の興味は夜食のメニューへと移っていった。



「なっきゅ先輩。これなんかどうですかあ?」
「おお、凄い凄い。幾ら食べてもタダってのはうれしいわ。幾らウチが金持ちだって言っても、私はバイト代とお小遣いしか自由になるお金はないから。むしろ、最近はマヨの方がお金持ちだし」
「う〜ん。確かにママが料理教室の先生始めてから、生活は楽になったから。それでも余った分は家に入れてるんだよ、沙羅は」
 ルームサービスのケーキメニューを見ながら、すっかり女の子の会話…ではなく、結構現実的な会話が二人の間で交わされていた。
「第一、この時間じゃ太っちゃうわ。残念だけど、一人一個が限界ね。厳選して選ばないと」
「むむう。確かになっきゅ殿の仰るとおり。…ママや優さんが羨ましいなあ」
「本当に、あの体質は反則よ。羨ましいったらありゃしない」
 いつの間にか、矛先は別のほうへ。まあ、女の子ならしょうがないか。

 ルームサービスで運ばれてきたケーキセットを、一口。
「美味しーい!」
「こ、これは…いいものだー!」
 二人とも大満足。ついでに、付いて来た紅茶を一口。
「…並ね」
「…修行不足でござるな」
 何しろ基準が空やココが淹れたもの。多分ケーキと同水準であろう筈の紅茶に対しては、二人の評価は異常に辛かった。
 そういう風に、和気藹々としてケーキを楽しむ二人。
「でも、上機嫌じゃない。ツヴァイトシュトックではこの世の終わりみたいな顔していたくせに」
「なんの事でござるか?」
 途端に険しくなる沙羅の顔。
「ううん、大したことじゃないんだけど。あのメモの中身、知りたいなあって思っただけ。あの後、マヨってば凄く上機嫌だったから」
「本当に大したことじゃないんだよ、なっきゅ先輩。
『申し訳ありませんが、この縁談はお断りいたします。貴女は、僕以外の相応しい伴侶をお選び下さい』ってそれだけ」
「ひいふうみい…嘘ね。結構続きがあるはずよ。キーを叩いた回数が足りないわ」
 ひきっ。沙羅の口の端が引きつる。
「まあいいわ。乙女の秘密って事にしてあげる。貸し1だからね、マヨ」
「不覚。この借りはいつか返すでござるぞ、なっきゅ殿」
 楽しそうに笑うユウに、悔しがる沙羅。

(マヨたちは確実に前進しているのに。私、何やっているんだか)
 ユウの呟きは、沙羅の耳には届かなかった。




 2037年5月1日(金)午後11時17分 ヒンメル加減圧室付属宿泊室・男性用



「そうか…優には辛い墓参りだったみたいだな」
「ああ。所詮真実は小説より奇で、そして残酷だ。ライプリヒの馬鹿共を、改めて呪いたくなった」
 定員4名の部屋に、二人。武と桑古木は、お互いの状況報告をしていた。
「で、そっちはどうだった?」
「別に大したことはなかったさ。つぐみとジュリアが仲良くなって、それだけだ。海尋と美凪も、大切にされていたようだ」
「そう言えば、元々あの二人…いや三人は知り合いなんだよな」
「ああ。だが、お互いその頃のことは口が重い。俺も、無理に知ろうとは思わない」
「話すべき時が来たら、話す。
 ある意味俺達のルールみたいなものだな、武」
「とりあえずこれで話す事は終わりだ、涼権。明日のためにも、ここは休むとしようぜ」
「ああ…今夜だけは少年に戻ってもいいかな、武」
「いや、もう涼権は少年じゃない。立派な漢だ。胸を張っていい…優の事、頼むぞ」
「言葉は嬉しいが、まだ俺は武の足元にも及ばん。暫くは、手本にさせてもらう」
「好きにしてくれ」
「ああ、好きにさせてもらう」




 2037年5月1日(金)午後11時17分 ヒンメル加減圧室付属宿泊室・女性用



「そっか…御免ね優さん、勝手な事しちゃって。ココ、謝るよ」
「気持ちは分かるから、非難はしないけど。だけど、二度とこんなことしちゃダメだからね」
「うん、わかったよ」
 優に謝るココと、そんな彼女を母親の様に諭す優。優の胸には、しっかりと抱かれた日記帳。
 互いの簡易ベッドのダッシュボードには、古い写真立て。
「さて、寝ないと明日がきつくなるわ。さっさとお休みなさいな、ココ」
「うん!それじゃ、空さん、つぐみさん、優さん、お休みなさーい!」
 つぐみの言葉に、元気に返事してベッドに横たわり…あっという間に寝息を立て始めるココ。
「それでは、私はスリープモードに入ります。レミシステムとのリンク最適化も実行しなければなりませんので」
「うん、ご苦労様。お休み、空」
「はい、優さん」
 ベッドサイドの椅子に腰掛けた体制のまま、空の目蓋は閉じた。


「さて、つぐみ。…こうやって二人で寝るのって、何年ぶりなんだろうね」
「そうね。20年ぶりという事になるわね。あの時は会議室だったけど」
 隣り合ったベッドに横たわり、共に天井を見ながら優とつぐみは言葉を交わす。
「…イヤな事、聞いていいかな?」
 突然の優の言葉に。
「いいわよ。何?」
 つぐみは即答で応じ。

「つぐみは、武の子供欲しくないの?」
 かすれた声で、優は聞いた。
「欲しいけど、今は産めないの。やらなきゃいけない事があるから」
 返ってきたのは、意外な言葉。
「やらなきゃいけない事?…どういう事なの」
「ホクトと沙羅を、送り出すこと。二人の選んだ伴侶の元へ、ね」
「!!!」
 思わず上半身を起こす優。
「し〜っ!ココが、起きるわ」
 つぐみの声に、慌ててゆっくりと体の位置を戻す。
「…本当に、つぐみはそれでいいの?」
「あの子達に弟や妹が出来てしまったら、多分二人ともその子達を優先してしまう。家族の暖かさに憧れるが故に、自身の過去を体験させたくないが故に。
 だからその前に、まず二人を送り出す。

 親と子は、兄と妹は、いつかは生きて別れる定め。

 夫婦は永遠を誓えるけど、親子や兄妹は違う。生まれ出でた時は一番でも、順当に行けばいつかは二番になる。最愛の伴侶を家族以外から選び、その人を一番にする権利と義務を負う日が来るのだから。二人とその伴侶の間に子供が生まれたら、多分私や武は三番になるでしょう。
 必ずしも選ぶ事が幸せとは限らないし、選ばない事を選ぶ人もいる。だけど二人とも、どうやら伴侶を選んでしまったみたい。…貴女なら、言わなくてもわかるでしょ?」
 本当に穏やかな声。真実を悟った人間の、波紋一つ無い水鏡の心。
「………」
 優の唇は、動かない。
「私は、母親として何も出来なかった。だから、せめて最後だけは母親の仕事をするわ。さようならを言って、一番を明け渡す事。私に出来る、最初で最後の母親の仕事よ。
 後は…そうね。また一から武とやり直すわ。失った17年間をもう一回、ね。次に生まれ来る私の子供達だけは、あの二人の様な辛い思いはさせない」
 そのまま、つぐみは目を閉じる。全て言いたい事は言ってしまった。そんな意思表示。
 やがて漏れてくる、規則正しい穏やかな寝息。


 優の唇が、動く。声は出ない。ただし言葉だけは紡いでいる。
 だがこの部屋に、優の言葉を知ることが出来た者は誰もいなかった。






 翌日の昼、午後1時30分。六人のキュレイと二人のサピエンスキュレイ、そして一人のサピエンスと一人のAIは、Lemuの地を後にした。


                               ―To Be Continue Next Story ―
後  書

 恐らく、一番批判が多い回があるとすればこの回だと思います。
 2034年の事件で封鎖されたLemuの、その後です。


 今回のメインストーリーについては、あえて多くを語りません。感じたまま、読んだままで結構です。中には今回のLemuの有様に、怒りを覚える方も居られるでしょうから。

 
 ホロウの元ネタについて:
「ナイ○ラ○ダー」は、言うまでもない超名作テレビドラマです。主人公よりも、人工知能とその吹き替えの声の方が人気があった作品。多分、私ごときが語る必要など無いでしょう。

「ラ○ェン○ラ」は、超名作の邦作SFのシリーズに出てくるA級知性体。ホロウの性格は、どちらかと言えばこちらをベースに創作しています。
 一作だけOVA化(まだビデオの頃でした)されており、これがまた出来がいい。原作作者が半分冗談で書いたと思われるシーンが見事なオープニングアニメになっていたのに大爆笑したのが記憶に残っています。(このせいでシリーズ全巻揃えました)
 当然、声優さんは「ナイ○ラ○ダー」の「キッ○」と一緒。性格設定が似ているので、本当にハマリ役です。DVDになっているのかなあ。なっていたら欲しいんだけどなあ。
 世界観も結構E17に通じるものがあります。けっこうリスペクトされている部分があります、正直言って。


 第2部も佳境に入ってきました。ですが次は幕間を書きます。作者もほのぼの分に飢えてきてますんで。



 最後に、ここまで読んでいただいてありがとうございます。

2006年5月30日  あんくん



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