「よう、おはよう二人とも」
「おはよう、秋香菜、彼方」

 挨拶を受ける人物は、二人。

「…って、またあ?最近、ホクトってたるんでるわ。
 こんな可愛い彼女が迎えに来てやっているっていうのに、寝坊するなんて信じられない!」
「まあまあ、秋香菜さん、落ち着いて、ね?」
 膨れっ面のユウを宥める彼方。これではどちらが年上だか分からない。
 成長期の彼方は、けっこう背が伸びた。今では、ホクトよりも僅かだが背が高い。筋肉も付いて来たものの、あんまり外見のバランスは変わっていない。

「あ、おはよう…ごめん、ユウ。寝坊しちゃって」

 そこにやってくる、寝ぼけ眼でパジャマのままのホクト。

「って、遅ーい!マヨの寝坊が伝染したんじゃないの?」
 腰に手を当てて、ユウはホクトを真正面から睨みすえる。
「そういうわけじゃないんだけど…最近、朝、体が重くって」
 目をこすりこすり応じるホクト。
「問答無用!しゃきっとしなさい。ほら、さっさと顔洗って着替える着替える!」
「うん…わかった…」
 ユウの命令に従い、起き抜けの覚束無い足取りで洗面所に消えていくホクトであった。




未来へ続く夢の道
−幕間6 ある日常の光景−

                              あんくん





 2037年9月18日(金) 午前7時47分 倉成家リビングルーム





 真剣な眼差しが、ある一点を追い続ける。



「この一点に、全てを賭ける!」
「真の戦略とは、相手を利用する事なんだからね」
「その言葉、そのまま返させてもらうよ。利用させるふりして利用するのが、真の謀略だよ」
「素人ゆえに、真実に辿り着けることも多いんだよ。足元をよく見ることだね」
「策を持たないのも、立派な戦略よ」



 皆の灼熱の視線の先にある、運命の羅針盤。

 そして、未来への審判は、下された。


「くっ、何故だ、何故、勝てない!」
 がっくりと膝を突く彼方。
「彼方って、なぜかこういうのはダメなのよね」
「他は完璧超人なのに、何故なんだろうな。俺にもわからん」
「運っていうのは、天の時だから」
「そうだね。最後の一本が、いつも勝敗を決めてるよね。いい加減真ん中にこだわるの止めたほうがいいんじゃないかな、彼方君」
 皆の言葉は、冷淡。
「…結局ホクト先輩ですか、僕の道に立ちふさがっているのは。…狙ってやっているんですか?」
「ホクトがそんな頭持っているわけないじゃない。そういう星回りなのよ、彼方は」
 最後のトドメは、秋香菜。二人ほど刺されているが。


「という訳で恒例の『今日の沙羅起こし係指名あみだくじ競争』の結果、沙羅を起こす係は石原彼方君に決定しました!…ってことで、彼方、よろしくね」
 無責任なユウの言葉に送られ、渋々と、彼方は沙羅の部屋へと向かったのである。





 2037年9月18日(金) 午前7時50分 倉成家 沙羅の部屋



「沙羅、入るよ?」
 一応挨拶だけして、ドアを開ける。くじ引き当選者にもれなく貸与される合鍵を使用して。

 本来、女性の部屋に許可無く男性が立ち入る事はマナー違反である。これは当然の事。
 だが、物事には例外というものが存在する。

 余りの沙羅の寝起きの悪さに業を煮やしたつぐみは、ショック療法としてロシアンルーレット的な『沙羅起こし係をくじ引きで決める』制度を導入した。
 誰が起こしに来るか分からない。そんな状況なら少しはしゃんとするかと思われたのだが…実のところ効果なし。
 その上皆が沙羅の極悪の寝起きを知っているため、全員その役を拒否する有様。結果的に、公平にその役を決めるためのくじ引きのルールだけが残ってしまったのである。
 
 なぜか、くじ引きになると彼方は異常に勝負弱くなる。理由は分からない。結果的に、沙羅を起こす係は統計上の確率を無視する割合で彼方に回って来ていた。
 もちろん、大学の講義のある日だけのくじ引きなのだが。その8割が当たってしまうのでは、本人も最早笑うしかないであろう。

 極一部を除いて、整理整頓の行き届いた部屋。寝起きを良くすることは出来なかったが、副産物として沙羅は部屋を片付けるようになった。きっかけは…
「下着まで脱ぎ散らかしている方が、悪いと思うんだけど」
 この彼方の独白から、全てを察してください。


「起きろー!」
 ゆさゆさゆさ。
「むにゃむにゃ」
「起きろ。起きろー!」
 ゆさゆさゆさゆさゆさ。
「むにゃむにゃむにゃ」
「だーかーらー!起きろってばーーー!!!」
 ゆさゆさゆさゆさゆさゆさゆさ。
「むにゃむにゃむにゃ…ほえ?」
 沙羅の目が、僅かに開く。
「おーきーたー?」
「ねーてーるー…むにゃ」
 こてん。

 すでに、このやり取りも3クール目。最近の傾向として、目が開く→寝るの永久コンボ状態が継続する事が挙げられる。以前に比べて改善した点といえば、抱きつき癖が無くなったことくらい。

 既にタイムリミット直前。
「…しょうがないね。いつもの手段で、行くしかないか―――副作用が怖いけど」
 ついに、彼方決意。
 大きく息を吸って、沙羅の耳元へ唇を近づけていく。
「こn…」
「彼方ちゃんの、馬鹿ぁーーーーーーーーーー!!!」
 至近距離からの、大音声。
「わ、わあっ!痛、痛いっ!耳が、耳がーーーっ!」
 ごろごろごろ。
 鼓膜を破らんばかりの沙羅の声に、片耳を押さえてのたうち回る彼方。
 そんな彼方を、半分閉じた目蓋の間から眺める沙羅。
「ついに、ついに、カウンターに成功したの、沙羅は。いつまでも、同じ手に引っかかかるわけにはいかないんだからあ…じゃあ、おやすみぃ…」
 また閉じかける目蓋の隙間の片隅に。
「いい度胸ね。ここまでしたのなら、相応の覚悟は出来ているでしょう、沙羅」
 あの夏の夜の母の顔が目に入り、沙羅の脳は緊急最大出力で覚醒したのだった。





 2037年9月18日(金) 午前8時20分 倉成家 ダイニングルーム



「全く、マヨって時々凄いんだか馬鹿なんだか分からない時があるわよね。むぐむぐ」
「うん。寝たままでカウンターのタイミングを計るなんて、普通しないよね。もぐもぐ」
「秋香菜、ホクト。お行儀悪い真似は止めなさい」
 食事しながら会話する二人をたしなめる、つぐみ。
 最近優が忙しい事もあり、大学のある日はユウや彼方を交えて朝食を取るのが通例になりつつある倉成家。なお、食費はしっかりと優から貰っているところが抜け目無い。
 勿論、倉成家・鉄の掟食卓編第一条「朝食は全員揃って食べる」は未だ健在であり、食卓には沙羅も含めた全員が揃っていた。
 埋まっている椅子は6脚。食器は5膳分。
「あのね、ママ…」
「問答無用。ただ起きないだけならまだしも、せっかく起こしに来た彼方に一方的に害を加えるなんて論外よ。
 罰として今日は朝ごはんは抜きよ、沙羅。お昼まで、我慢なさい」
 上目遣いの涙目で見上げてくる沙羅の意図を、文字通り一蹴するエプロン姿のつぐみ。妹系最大の必殺技も、最強の母親には通用しないのであった。




 2037年9月18日(金) 午前8時30分 倉成家 外玄関



「それじゃ、つぐみ。行ってくるよ」
「うん。いってらっしゃい」

 妻と軽くフレンチ・キスを交わした後、玄関から飛び出していく武。
 そして夫の後ろ姿に対して、エプロンをつけたままの姿、長い黒髪をうなじの後ろでスカーフで結び片手に竹箒を持ったつぐみが手を振る。
 当然、白地のエプロンの胸元の絵柄はアレである。

「…いつもの事とはいえ、あてられちゃうわ。それじゃ行くわよ、ホクト」
「うん。それじゃ行ってきます、お母さん」
「いってらっしゃい、二人とも」
 ユウに文字通り手を引っ張られて先導されながら、ホクトが母親と挨拶を交わし外玄関を出て行く。

「それじゃ、僕達も行こうか。沙羅」
「しょうがないでござる。それでは行ってくるからね、ママ。
 あと、彼方ちゃん。誤解招くから複数形は止めてほしいんだけど」
「いってらっしゃいな。二人とも喧嘩はしたらダメよ」
 こちらは二人並んだ状態で、外玄関を出て行く彼方と沙羅。こうやって少しだけ遅れて出て、バス停で四人合流するのがいつもの習慣。


 こうして、いつもと変わらぬ倉成家の玄関先の光景が、この日も繰り返されたのであった。




 2037年9月18日(金) 午前8時55分 田中研究所3F 所長室(とその付近)



「いい加減、目を覚ましなさい久遠!!!」
「寝言は寝てるときだけ言うものですよぅ、所長さんっ!!!」
 所長室近辺に遠慮無しに響く大声。

「おお、もうそろそろ9時だな」
「あれを聞かないと、仕事が始まる気がしないわね」
 最初の頃はいろいろ動じていた研究員達にも、このやりとりは既に日常の一コマとして受け入れられていた。

 午前9時からの全体朝礼(といっても、データ回線を通じて所長乃至副所長の業務連絡が流れるだけだが)を前に行われる、トップ二人の簡単な打ち合わせ。
 参加者は当事者二人と、その秘書兼副官。要するに、優と桑古木及び空と久遠のAI姉妹である。
 だが、今では全員、この短い時間を「打ち合わせ」と呼ぶことは無い。




 2037年9月18日(金) 午前8時55分 田中研究所1F 事務室



「しかし、久遠ちゃんも変わった趣味してると思いませんか?倉成総務主任」
 事務室に購入伺いを持ってやって来た研究員の一言に、
「俺にはコメントできないな。どっちの肩を持っても、とばっちりが来る」
 書類を一瞥し承認印を押しながら、武は苦笑した。
「まああの所長を相手に一歩も引かないのは、正直凄いと感心しますけどね」
「副所長殿も災難だ。もっとも、ちゃんと世間体は心得ているからまだましなんだが」
「二人とも、副所長以外を騒ぎには巻き込みませんから。ああいう所は流石です」
 世間話をしながら武は慣れた手つきで購入伺い内容をデータ端末に打ち込み、出てきたカードを研究員に渡す。
「いつも不思議に思っていたんですが。どうして事務室だけ、この時間だけ所長室との音声回線がオープンになっているんですか?」
 カードの内容を確認しながら、研究員は何気なく問う。スピーカーから流れるのは、3階廊下に響いた声と同じもの。
「さあ?俺にはお偉方の考える事はわからんぜ」
「そうですか。それでは失礼します」
 武のそっけない返答を背に受けながら、用の終わった研究員は事務室を後にする。

(空の仕業、なんだろうな。やっぱり姉妹は姉妹だ)
 皆に分からぬよう、小さいため息を吐く武であった。




 2037年9月18日(金) 午前11時17分 田中研究所3F 所長室



「全く。所長の仕事だけでも忙しいって言うのに、空の妹のお守りまでしなけりゃならないなんて。何をどうすれば、空のメインフレームからあんな妹が生まれてくるのよ!」
 午前中の所内見回り及び必要な直接指示を終えて所長室に戻ってきた優は、今度は書類の山と格闘していた。
 桑古木と久遠は、大質量転送用RTSの設置の為RTS棟で陣頭指揮を取っている。RTSは久遠の管轄だから、当然といえば当然。
 朝揉めたのは、指揮を優と桑古木のどちらかがするかという事。結局、桑古木が行う事になったし、実際彼が適任であるのは紛れも無い事実なのだが。この件で久遠が優を挑発して子供のように優が噛み付いた次第。毎日の様に繰り返される儀式みたいなものだった。
「精神というものはいろいろな側面を持っていると、いずみさんが言っておられました。元は同一でも、生まれ育った環境によって主体となる側面が別になると。
 『その能力が高すぎたり歪んでしまうとDIDのような精神病の側面が出てくるけど、そうでないならそれはその精神の個性。むしろあなた達に魂がある証拠みたいなものと考えたらどうかしら』
 このお言葉は、とても嬉しかったです。私も、久遠も」
 にこにこと笑いながら、てきぱきと優の仕事をサポートする空。見るからに上機嫌。
「…そういうものなの?まあ、久遠にはあなたと別の精神制御ギミックもいくつか使用されているらしいし。そういう意味では違っていても当然か」
 渋い顔をしながら、書類処理を進める優。
 そんな主の横顔を、空は見つめる。

(こういう事って、本人は気付かないものなんですね)
 当の本人と、もしかしたら副所長以外は全員気付いていて、そして誰もあえて指摘しない事。
 久遠が現われて以来、優はぐっと綺麗になった。元々どこに出しても恥ずかしく無い美人である優だが、最近はそれに変化がある。
 化粧そのものが最低限という事は変わっていない。だが、その技量は劇的に上がっている。わずかな化粧で、いかにして自分の利点を引き出すか。化粧の本質を無意識に弁えているのだ。
 ファッションも、例外ではない。研究所という場所柄を弁えたものであるのは事実だが、以前と異なり無頓着ではない。いかにして自身の欠点を補い利点を引き立たせるかを考えた、大人の装いに変わっている。
 ごく僅かな変化。だが、決定的な変化。

(姉としては、妹を応援してあげたい所なんですが。相手が悪いみたいですね)

 喜んでいいのか、悔しがればいいのか。好悪入り混じる複雑な感情を思考領域の一部に展開させながら、空は仕事を続ける。




 2037年9月18日(金) 午前11時17分 田中研究所1F 事務室



…抜擢人事は、それなりの責任を伴う。

 勤務4年目にして、倉成武は総務主任になった。研究所の規模から言って事務長が存在するべきなのだが、田中研究所の場合事務長は副所長兼務。
 事実上、武は総務のトップに等しい状態。当然の如く、事務や雑用の全ては彼が管掌する事になる。


 かくして、書類の山を相手に年少の事務員達と格闘する武の姿が事務室にあった。


 武の人格を疑う人間は、この研究所には居ない。総務の様な裏方部門の責任者は、能力もだがそれ以上に信頼される誠実な性格が絶対条件である。
 おちゃらけた部分こそあるものの、根が熱血漢で正義漢。更につぐみの件で見せた度量や漢らしさは桑古木のみならず多くの研究所員の尊敬を集めていたから、人事自体に異論は出なかった。
 だが、事務能力はまた別の問題。お世辞にも器用な人間と言いかねる武であったから、この点は苦労していた。
(正直、昔の俺じゃ、無理だろうな。とてもじゃねえが、やってられねえよ)
 懸命に学び、懸命に工夫し、プライドを捨てて部下に教えを請う。あらゆる努力を不器用に続ける武。残業も増えた。休日出勤する日もある。だが…
(つぐみの苦労考えたら、この程度、苦労の『く』にもなりゃしねえ。この程度克服できないようじゃ、俺にはつぐみの夫の資格はない)
 心の柱を持っている彼は、折れなかった。

 事務や総務という仕事は、研究職と異なり努力は相応の成果として現われる。進展具合は異なれど、それは事実。
 また実年齢と経験年齢にギャップがある武は、部下や年下に教えを請うことを頓着しなかった。優れた相手はそれと素直に認める度量。簡単な様でいて、これは非常に難しい事。

 結果的に、少しずつだが確実に事務の効率は良くなってきており、部下の信頼も厚くなっていく。

 かくして武の抜擢は、周りにも明らかな成功人事として受け入れられたのであった。




 2037年9月18日(金) 午前11時17分 田中研究所RTS棟中央制御室



「よし、それはその位置だ。…久遠、あの装置は何処にすればいい?」
「T-42ブロックです、涼権さま。あと、T-27から電気供給ラインをお願いしますねえー」
 桑古木と久遠は、中央制御室からRTS設置作業を監視し、監督していた。
 モニターに表示される設計図や現状進捗図を見ながら、的確な指示を飛ばす。

(涼権さま、流石は久遠が見込んだお方ですぅ。私の目は、確かなのです!)
 絶え間なく指示を続けながら、惚れ惚れとして桑古木を見つめる久遠。

 優が総司令官や作戦立案者としての資質に秀でているのと同様に、桑古木は現場指揮官や作戦修正・実行者の資質において他の追随を許さない才能の持ち主だった。
 この才能は、生来の物ではない。武に憧れ彼を理想として追い求めた桑古木が、文字通り血反吐を吐いた努力の末体得したものである。
 最初は、自分と優しか信頼できる仲間はいなかった。だが、それでも女性である優には汚れ仕事は一切させたくなかった。
『泥を被るのは男の仕事。そういう仕事を女性にやらせるのは下の下』
 その思いを胸に、武になりたかった少年は、優を守る為だけに自身を汚れた暗闇の世界の中に飛び込ませた。
 さまざまな裏工作の中で、危機や、窮地は数え切れないほど体験した。だが、危機を乗り越え、黒い誘惑を振り切り、桑古木は2034年5月7日を迎えた。
(俺は、多分引き返せない。いつかは分からないが、地獄に堕ちることになるだろう)
 既に、その覚悟は済ませている。だが、それでも。
(だが少なくとも今までは、優を守り抜いた。今後も、守り抜く。武にもなれず、ココの傍にいる資格も失った俺には、それしかもう残っていない)
 どっぷりと闇の泥に染まった対価として得たもの。唯一つ残った誇りの拠り所として、桑古木は優の下に留まり続ける。何一つ、報いられない事を承知の上で。 


 姉と同様に、久遠は普遍的に存在し、同時に偏在する。
 有機ボディを得る前の彼女は、この研究所のコンピュータネットワークの中で育てられた。殆どのデータベースや監視機器、センサー類を使用でき、研究所内では事実上いかなるところにも目と耳を置く事ができる、そんな存在。
 いろいろな人々を見ていく中で久遠の興味を惹いたのが、桑古木だった。
 データベースの欠損や閲覧禁止情報の多さから、彼が後ろ暗い過去を有しているのは明白。そんな存在が、唯々諾々として優の横暴に従っている。そんな姿に興味を抱いた久遠は、優先的に桑古木の観察を始めた。
 だが、彼の研究所の日々は文字通り平穏。自身の直感は、ただのバグだった。そう結論付けようとしていた時、その事件は起こった。
 卒業式の一件。使用した特殊車両に残されたデータのメインデータベースへのストアリングは、たまたま空のボディメンテナンス開始シークエンスと重なってしまった。姉が開始シークエンスを終了し、データネットワーク内のチェックをして車両のデータを隠匿するまでの僅かな間に、久遠はその一部始終を見てしまったのである。
 姉の語った悲恋物語と、桑古木の過去、優の態度。それらの結果として、久遠の胸に沸き起こる甘くて暗い感情。…愛情と、嫉妬。これが彼女の原点。
(あの女は、涼権さまに相応しくない。久遠が救い出す)
 だが、同時にその『涼権さま』のアイデンティティの源が優であることも、彼女の発達した知性は的確に捉えていた。
 そして、今に至る。徹底的に『愛しの涼権さま』に甘え、優に反抗しつつも、桑古木と優を引き離す冒険を挑む事も出来ない。
 文字通り、久遠は袋小路の中にあった。出口は、まだ見えない。




 2037年9月18日(金) 午前11時17分 国立K大学 量子力学第一講義室



 ざわ…ざわ…。

(おい、どうしたんだ?)
(始まったんだよ、例のあれが)
(って、それがどうした。確かに難しすぎて理解するのは大変だが、他の大学じゃあんな高度な討論は聞けないぞ。これだけでも、この大学を選んだ価値はあると思っているんだが)

 講義室の前に出来た人だかり。みな、室内を覗き込んでいる。

(いや。今回は凄く珍しいパターンでな)
(もったいぶるなよ。何が中であるんだよ?)
(いや、この講義の教授、すごくイヤな奴だろ?)
(ああ。確かに頭はいいが、それを鼻にかけるわ、えこひいきはするわ。女子学生に手を出しているって噂もある位だ。そのくせ、上にはへつらう最低男。…それで?)
(まあ、見てみろ。そうすりゃ、この人だかりの理由も分かる)

 ここからは見えないが、この講義室に繋がる全てのドアには全部人だかりが出来ている。

「…いや、私はそのような心算では…」
「教授とは、教える事により立つ人間だと愚考しますが。RTSに対する討論を挑んできたのは、教授ではないのですか?
 それとも、別の意図があったとでもおっしゃるおつもりですか?ここは、学問と科学への最前線だと確信しているのですが。なればこそ、量子論にのみ絞って教授のご意見を伺っているわけです」
「そうよ。『この件は機密に触れると愚考するのだが、存念は如何』と問われたから、私は答えただけですわ、教授。教授は他者の理論に便乗し、機密の二文字をもって論破するという手段を行うほど愚かではないと私は確信しております」

 教壇に立ち、がたがた震えながら、それでも必死に言葉をつむごうとする中年男性と、
 広い講義室のど真ん中に立ち、超小型公式記録装置―授業内容や、討論を保管する為の記憶装置―に直結したマイクを握って落ち着いた笑みをたたえる、少年と、少女。

「教授は、自身の理論に自信があるからこそ、RTSの件に触れられた。その論理は、僕や彼女にではなく、企業と学会、何よりのこの部屋の外で教えを待つ学生達に対して語るべきことでありましょう」
「そうですわ。まさか『わたくしの』言う事が、機密漏洩かつ、ある人物の理論の盗作、などと仰るほど愚かな人材が、この学府に存在する事はありえない。そうですよね?」

(うわあ。こりゃ確かに壮観だわ)
(だろ。あの教授、よりによって虎を手篭めにしようとしたわけだ)
(って事は、沙羅ちゃんの方か?)
(ああ。実にヤツらしい愚かさだよ。結局、入り口に到達するどころか)
(虎の尾を踏んだ後に、竜の逆鱗に触れたわけだ。順番的にも最悪だ…終わりだな。元々、学生受けは最悪だ。学科必修だったから渋々皆従ってただけだし)

 沙羅と彼方は当然のように有名人。最近は、勝負は正面切っての論争の形式をとる事が多くなった。
 極めて高度な理論の応酬。しかし、二人が参加する講義は最先端技術のものばかりであり、それを学ぼうとする生徒の大部分は皆、真摯。故に、二人の論争はむしろ好意的に受け止められていた。
 一流の教授達も二人との討論を楽しむ所があったし、この年の三年次編入生の中には、世界有数と言われている大学の学生がこの二人の討論を聞きたいが為に編入した例が複数存在していたくらいである。

 だが、二流でありながら功名心と自尊心のみが肥大した存在も居る。それだけならまだ良いが、一流となるために自身を磨くのではなく、他者を梯子にしようとする輩は最悪。
 この教授はその典型。よりによって、沙羅を陥れる事で自身の立身を計ろうとしたのだ。

…因果応報。朝の一件で機嫌が悪かった沙羅は、教授の意図をあっさり看破。何時でも穏便にまとめられる筈なのに、のらりくらりとかわしつつ自身が知る最強の仲間を待つ。
 彼方も、この手の輩を嫌う。…ましてやターゲットは沙羅。彼がこの部屋の中の出来事を知った時。


 愚かな教授の命運は、決まった。
 
 

 ネズミのようにこそこそと退散していく男を学生達は嫌悪と蔑みの視線で見送り、次いで二人の英雄に対して拍手喝采を浴びせたのであった。




 2037年9月18日(金) 午後0時17分 国立K大学 中庭



「はーっ、すっとしたあ!沙羅はあの教授、大っ嫌いだったの。あの目、見るのもイヤだった…あの日々を思い出しそうになるんだもの…」
 だんだん、尻すぼみ。沙羅にとって、そういうタイプの目はライプリヒに囚われた過去の象徴。
「御免、沙羅」
 彼方が、それを察して謝る。
「彼方ちゃんが、謝ることじゃないよ。…お兄ちゃん達が傍にいなくてよかったね」
「うん。ホクト先輩だったら、多分、手が先に出てたから」


 昼下がりの、中庭。テーブルに向かい合わせで腰掛け、沙羅と彼方はつぐみお手製のサンドイッチを食べながら、さっきの一件について話していた。


「あと彼方ちゃん、御免ね。知ってたんだよね、あの教授の事」
 突然、彼方に謝りだす、沙羅。
「…何の、事?」
「とぼけないで。あの教授が近づいてくるとき、必ず彼方ちゃん、沙羅のすぐ傍に居てくれたよね。
 今日だって、特別試験を10分で途中退席したって聞いたんだ」
「…武さんやつぐみさんに顔向けできないから、沙羅になんかあったら。それに、ちゃんと答案は埋めてきたよ。その位の時間なら、沙羅だったら問題なく持ちこたえられると思ったから」

 特別試験。飛び級や、多学科重複履修の核になる制度。
 当然の如く、出席日数制度下では飛び級という制度は成立しない。それゆえ、明らかに履修内容を完璧に理解している者に単位を与えるための制度が必要となる。
 それが、特別試験。教授が認めた者に課す試験で、合格すればその場で『優』評価で単位が与えられる。当然ハードルは高いし、一度落ちてしまえばその教科の特別試験は二度と受けられない。
 その答案を、10分で埋められる。教授にとって屈辱的だろう。
 今まで、彼方は最低でも定められた受験時間は受験会場に留まっていた。教授や講師への礼儀として。だが今回は、その礼儀よりも沙羅の安全を優先したことになる。

「それでも、沙羅の借り一つ、だよね」
「そんなことはないよ。単位なんかより、沙羅に勝つほうが重要だから。あんな馬鹿教授のせいで、沙羅が弱くなったらつまらないから。やっぱり完調の沙羅に勝ってこそ…っていうより、完調でも僕の普通に勝てるかどうか怪しいけど」
「…言ってくれるよね。ハンデ戦でも、彼方ちゃん程度で沙羅に勝てるなんてありえないんだから」
「うん。それでこそ沙羅だ」
「彼方ちゃん、偉そう。なんかイヤだから、コテンパンにしてあげるよ」


 だんだん、美談からいつもの方向へ進んでいく話。
 だが、傍目から見ても、二人は本当に楽しそうだった。




 2037年9月18日(金) 午後0時17分 国立K大学 カフェテリア



 9月の大学、ついでに4年生といえば、当然の如く『卒業論文』と相場は決まっている。
 そして、田中優美清秋香菜もその例外ではなかった。

 既に、就職せずに大学院で引き続き考古学を学ぶ事をユウは決めていた。母親も了承している。
 まず大学を卒業しなければ、当然大学院には進めない。そういうわけで、今必死に論文を書いている真っ最中。
 当たり前だが、論文は自力で書かなければならない。だが、全く他人が手助けができないかというと…そういう事はない。

「ユウ、これでいいかなあ」
「あ、うん。そこに置いててくれるかな、ホクト。御免ねえ、付き合わせて」
「ううん。いいんだよ。僕がユウを手伝えるのって、これしかないから」

 飛び級をする意思も、多学科重複履修をするつもりもない。だけど真面目に講義を受ける学生。
 そんな堅実な学生であるホクトの単位取得状況は非常に良好。それほど数は多くないが特別試験で取得した単位もいくつかあり、彼の2年後期の講義日程はとても余裕のあるものとなっていた。
 そして敷地に余裕があるこの大学は、教養学部も専門課程も同じキャンパス内。おまけにホクトとユウの目指す目的は一緒。
 資料集めを始めとする『足で稼ぐ』部分を中心として、ホクトは当然のように恋人の卒論作成のアシスタントを勤めていた。
 入学式の時点で既にバカップル認定済みの二人だから、周囲も特に何も言わない。そんな環境の中、二人は堅実に学業を進めていた。が、

 ぐきゅるるる〜!

 健全な精神は健全な肉体と共に有るから、おなかが減るのは避けられないのであった。


 というわけで、前振りが長くなったが。
 この時間、ホクトとユウも、もう一方の片割れと同様にサンドイッチをつまんでいた。書籍の山に埋もれているのだけが、沙羅たちとの違い。

「ねえ、ユウ?」
「なあに、ホクト?」
「今度の火曜日なんだけど。講義、さぼってもいいよね?」
「むぐっ、ごほっごほっ…はあはあ。いきなり何言い出すのよ!」
 突然、実にホクトらしからぬ発言を聞かされ、ユウは口にしていたサンドイッチを咽喉に引っ掛けかける。
「ねえ。ダメかな?」
「私は、まあ大丈夫だけど。もともと講義ないし。だけどホクトはそういう事しちゃダメ!」
 優等生なお姉さま的発言。実に理想的な模範解答である。

「そっか…」
 文字通り、肩を落としてうなだれるホクト。どうやら正解ではなかったようである。
 話の内容といい、この有様といい。いつものホクトとは明らかに違う態度。
「うんっと…うんっと…」
 流石にその有様に気がとがめたのか、額に指を当てて考え込むユウ。
(ええっと、今度の火曜日って、確か平日だから通常の講義があるわね。
ただ前の日と次の日が確か祭日で休みだっけ。なんでわざわざ休みの間の平日にこだわるのかしらホクトは…って、祭日って何の日だったっけ)
 考える。考える。とにかく考える。
(えっと、確か月曜日が敬老の日の代替休日で、水曜日が9月23日、秋分の日…って)
「秋分の日いーーーーーーーーーっ?!」
 突然のユウのすっとんきょうな大声。

 カフェテリアで昼食をとっていた学生達が、何事かという風情で一斉にユウのほうを向く。
 だが、当のユウはそんな事などお構い無しにホクトに抱きついていた。
「御免ね、御免ね…私の誕生日の事だったんだ…」
「うん。9月22日…ユウの誕生日。せめてそんな日くらい、一日一緒に居たかったから。…ダメかな?」
「ううん、ううん!」
 ふるふると、子供の様に首を振るユウ。
「それじゃ、朝一番で迎えにいくから。待っていて、くれるよね」
「うんっ!」
 半泣きの、そして最上の笑顔。柔らそうな唇に浮かぶ微笑み。そんなユウの姿に、ホクトは思わず唇を重ねてしまい…。


「ああ、暑い暑い。これじゃクーラー程度では対応できないわ」
「馬鹿馬鹿しい。さっさと退散しようぜ!」
「全く持ってご馳走様、お二人さん」


 当たり前の事であるが、カフェテリアの中は『やってられるか』的な空気が充満する事となり。




 倉成ホクトと田中優美清秋香菜の評判は、当然の如く『手の付けられないバカップル』へとクラスチェンジしたのであった。







 2037年9月18日(金) 午後0時17分 倉成家ダイニングルーム



 テレビから流れる超長寿番組のテーマソング。代名詞的存在だった司会者は流石に高齢の為引退したが、番組自体は今でも続いている。
 そんなテレビの音声を聞き流しながら、つぐみもまた、昼食のサンドイッチをつまんでいた。

 以前、沙羅が今日と同じレシピのサンドイッチをつまみ食いした時のセリフ。
「か、辛らーっ、水、水っ…。ぷふぁあ!はあ、辛かった。
ママって、塩辛い方が好みだったっけ?」
「ええ。好みにしたのよ」
「???」
…意味が分からず、目を丸くしていた沙羅。

 一葉綾乃から教わった「綾乃の美味しい」は、今では完全に「つぐみの美味しい」になっていた。
 もちろん同じものを家族に出しているわけではないし、皆が食べる料理の場合は家族の好みを優先するのは昔と一緒。
 サンドイッチのように完全に別々に作るタイプの食べ物の時には自分用を別に作るようになったのが、昔との違い。
 ある意味、不思議な味付けだった。綾乃の言うように、大して塩の量が多いわけではないのになぜか辛い。
 その為もともとが辛いタイプの料理の場合に、つぐみはこの味付けを応用して家族に出している。塩分控えめで、味も家族には好評だった。

 その事を綾乃に話すと、
「なるほど、そういう使い方もあるか。あたしは全部否定する事から始めちまったけど…ものは考えようって事だねえ。今度の料理教室で試してみるか」
と本当に嬉しそうに笑っていた。



 既に主婦業も四年目。掃除、洗濯から始まる毎日の仕事はほぼ完璧にこなせるようになった。
 家の中も常に整理整頓が行き届き、清潔。近所の主婦から掃除方法や洗濯方法を教えてほしいと頼まれる位のレベルに達している。
 そんなつぐみの毎日の仕事に、最近付け加えられたちいさな日課。
 



    少しずつ書き始めた、2冊のノート。


 
                …それは、恐らくそう遠くない将来に、



                         …それぞれ別の人物に、渡される事になるだろう。







 2037年9月18日(金) 午後4時17分 バス停



「おのれ、なっきゅ先輩!…って、お兄ちゃんもお兄ちゃんなんだから。いいようになっきゅ先輩のペースに乗せられて!」
 バスから降りた沙羅の機嫌は、直滑降状態だった。
 いつも通り、カフェテリアか図書室で卒論作りにいそしむホクトとユウを迎えに行こうとした沙羅と彼方であったが。
「今日は止めときなさいな、沙羅」
 たまたま出くわした真幸に止められ、結局、三人でバスに乗る事となった。

「………っていう事。まあ、あそこまで行っちゃうと、もはや誰も間には入れないわね」
 昼間の一件をバスの中で真幸から聞かされる二人。…というか、大原真幸の場合、面白がって話しているに違いない。

 そういう訳で、沙羅のこの日の機嫌は見事な放物線の軌道を描くこととなった。
「ああーっ!もう腹が立つっ!!!こうなったら彼方ちゃんはウチに来るの!今日はゲームで勝負!徹底的に叩きのめしてあげるから覚悟するでござるよ!!!」
「って、待ってよ、沙羅ってば!」



 バス停からわずかに坂になる道を沙羅は駆け上がり、


 あわてて彼方は、沙羅の後を追って駆け出した。




                                   − To Be Continue Next Story …−
後  書

 「あとがき」と入れたら「後描き」と出てきた、願望が如実に出ているうちのパソコン…だって描きたくても描けないんだもん…絵師スキル0で素質レベルEだもん(滝涙)…

 閑話休題。

 こういう偶然に落ち込んだあんくんです。


 見てのとおりの内容。文字通りの日常のショートショート。重い方々もいれば軽い方々もいればラブラブ○驚拳を放てそうな方々もおられます。

 確か『序章 裏』以来ですね、こういう形式で書いたの。たまにはこういうのもいいかなって。



   2006年6月3日   あんくん


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