2037年9月18日(金) 午後4時17分 バス停



「おのれ、なっきゅ先輩!…って、お兄ちゃんもお兄ちゃんなんだから。いいようになっきゅ先輩のペースに乗せられて!」
 バスから降りた沙羅の機嫌は、直滑降状態だった。
 いつも通り、カフェテリアか図書室で卒論作りにいそしむホクトとユウを迎えに行こうとした沙羅と彼方であったが。
「今日は止めときなさいな、沙羅」
 たまたま出くわした真幸に止められ、結局、三人でバスに乗る事となった。

「………っていう事。まあ、あそこまで行っちゃうと、もはや誰も間には入れないわね」
 昼間の一件をバスの中で真幸から聞かされる二人。…というか、大原真幸の場合、面白がって話しているに違いない。

 そういう訳で、沙羅のこの日の機嫌は見事な放物線の軌道を描くこととなった。
「ああーっ!もう腹が立つっ!!!こうなったら彼方ちゃんはウチに来るの!今日はゲームで勝負!徹底的に叩きのめしてあげるから覚悟するでござるよ!!!」
「って、待ってよ、沙羅ってば!」



 バス停からわずかに坂になる道を沙羅は駆け上がり、


 あわてて彼方は、沙羅の後を追って駆け出した。


 緩やかな坂。その頂上で、




                            沙羅を操る不可視の糸は、切れた。





未来へ続く夢の道
−本編16 真実−

                              あんくん





 どさっ。


 突如短くなる影。先行する沙羅の後姿が、見えなくなる。一瞬遅れて、道路の上に何かが落ちる音。
 人通りも、車の往来もない道。
 彼方はわき目も振らず、本当の全速力で沙羅の元へと走る。


「あ、かな、た、ちゃ…ん…」


 顔面は蒼白、額には脂汗。額には縦に皺が走り、呼吸はリズムを失っている。
 彼方が沙羅に追いついたとき、既に沙羅の瞳は焦点を結んではおらず。


 かろうじて彼方の名を呟き、沙羅は意識を失った。





 2037年9月18日(金) 午後4時40分 田中研究所1F 医療セクション




「自業自得。無茶のしすぎよ。ここいらあたりは、やっぱりつぐみの娘ね」

 滅菌マスクを外して、優は彼方と武に告げた。


「で、でも…」
「しかし優!」
 同時に言葉を発しようとする二人に。

「ああっ、もううるさいなあ!!!女の子にはそういう日があるの!
 ただでさえそういう日なのに。いつもは抜かない朝食を抜くわ、精神的なストレスはかけるわ、全力で走るわ。これだけ無茶したから、体が付いていかったのよ。
 倉成総務主任。娘が心配なのは分かるけど、今は勤務時間。ここまでは大目に見るけど、それもあくまで、ここまで。さっさと事務室に戻って職務を遂行しなさい。これは、業務命令よ」
 ぴしゃりと言い放つ。
「…承知しました、所長。あとは宜しくお願いします」
 武は棒読みで返答し、心配顔のまま医療セクションから出て行く。
「さてと。簡単な検査をしたけれども特に問題はなさそうね。まあいい機会だから、ここで集中的に検査をすることにしましょうかね、っと」
 優は、ディスポーサブルの滅菌手袋を嵌める。
「で、彼方はどうするの?」
「一応、つぐみさんが来るから。それまでは、ここに居るよ」
「あら、そう」
 滅菌マスクを付け直した優は、こもった声を残して医療セクションに引き返した。

 そして幾つかの医療機械が運び込まれ、精密検査が行われた。

 遅れて到着したつぐみに、検査終了後、優は先ほどと同じ回答を繰り返し。最後に、こう付け加えた。
「まあ、無茶の代償として若干体力を消耗しているみたいだから、今日は沙羅はここで預かるわ。それでいいでしょう?」
「…医療は優に任せるしかないから、お願いするわ。今日は料理教室の日だから、悪いけど失礼させてもらうわね」
 あっさりと、つぐみは引き下がった。

 そのまま、つぐみは玄関へ、優は所長室へ。二人は別の出口へ通じるドアからそれぞれ医療セクションを出て行った。





 2037年9月18日(金) 午後7時17分 田中研究所3F 所長室




「…………………」

「…………………」

「…………………」

「…………………」

 


 ―――室内には、いつもの四人。所長の優、副所長の桑古木、互いの秘書兼副官の空と久遠。
「四人揃えば痴話喧嘩」などと最近は所員に皮肉られる組み合わせ。

 だが、今の室内に響くのは電子機器の静電音とエアコンディショナーの音だけ。
 既に四半時は、この状態のまま。


 その状態を打開する、声は。


『石原彼方です。資格が無いのは承知していますが、入室許可を申請します』


 四人からではなく、インターフォンから流れ出た。








 心地よい紅茶の香り。空が淹れた紅茶が各人の前に置かれる。
「有難うございます」
 彼方は礼を言って、礼儀のように一口、口をつける。…文字通り、礼儀のように。

 カチャリ。

 静かな空間に、微かにカップとソーサーが触れる音が響く。
 その音が、残響を残して消えた後。





「教えてください、真実を」
 ぽつりと、彼方はそう優に言った。





「何の、事かしら?」
 いつもの優の声。

「茶番はもう結構です、優さん。優さんのポカにしろ、確信犯にしろ、僕は気付いてしまったんですから。結果的には一緒です。…重粒子線照射治療装置。こう言えば、分かって頂けますでしょうか?」
 落ち着いた彼方の声。その目には、一点の曇りも無い。




「空、久遠。

 機密モード、デフコン5・センシティブ。

 時間制限だの欺瞞限界想定時間だのと甘いことは言わせない。話が終わるまで、ウィルス一匹でもこの部屋には近寄らせないで」

 表面上は落ち着いた優の声に合わせ。

「承知致しました」
「了承です」

 久遠ですら、何も言葉を挟まなかった。




「モード設定完了。この部屋は、現段階の科学技術で考えられる最強の防諜手段を施した状態にあります」
「有難う、空、久遠」
 二人の空システムに礼を言い、ゆっくりと優は彼方に向き直る。
「さて。覚悟は出来ているみたいだから、結論から先に言わせて貰うわ」
 優の言葉は、ここで一度途切れ…







「このままなら。沙羅は、22歳の誕生日を生きて迎える事は無い。ホクトも、多少遅れるだろうけど同じ結末を辿るでしょう」







「…正直、予想はしていました。だけど、今回だけは外れていてほしかったです。
 説明、して貰えるんですよね?」
「ああ。そうだ。説明してやる」
 彼方の、極僅かに上ずった声に。桑古木が、いつもの声で応じた。


「…キュレイウィルスっていうのは、ご都合主義の塊でな」
 彼方に対して行われた説明は、去年の春に隣室でホクトに対して行ったものとほぼ一緒。
「文字通り、キュレイという種の発生と保存の為にのみ存在しているようなシロモノだ。
 ホクトには、時間切れでここまでしか言えなかった。もっとも、あの時点では、最後まで言うつもりも無かったが。
 …ホクトと違って、彼方は専門家だ。俺が言いたかった、最後の言葉。分かるよな?」
 こう、締めくくる。
「うん。
 『過剰適応』。条件さえ揃えば完全な能力を発揮できるけど、すこしでも条件を外れてしまうと途端に能力を失う状態。
…サピエンス・キュレイっていうのは、『ご都合主義』のご都合じゃ、ないんだよね?」
 理解するということは決して幸せな事ではない。それを噛み締めるように、彼方が受ける。
「そうだ。キュレイ・ウィルスは、後天性キュレイ種を生み出すため為だけの存在。もともと、このウィルスにはサピエンス・キュレイなんて存在をサポートする能力そのものが付いていないんだ。だから、生物種として、歪む。
 Cp1700に乗っている情報の殆どが眠っているから、かろうじて遺伝障害を起こさずにホクトと沙羅は育った。だが、それでもp53に関する不利は解消できない。
 Cp1700から派生する遺伝子異常を解消するために、p53の遺伝子修復機能は文字通りフル回転で働き続けている。当然、遺伝子複写回数は普通のサピエンス種のp53に比べれば段違いに多くなり結果的に…」
「p53異常を起こす可能性が並の人間より高くなるね。しかも、サピエンス・キュレイはp53は一本しか持っていないから。その一本が遺伝子異常を起こしてしまうと…」
「そうよ。サピエンス種は、2本のうち一本が上手く働けば、壊れたp53そのものを修復できる可能性又は細胞がアポトーシスを行って被害を最小限に食い止められる可能性がある。だけどサピエンス・キュレイは、それが出来ない。
 結果的に、一本でもp53の機能が失われれば…Cp53+とCp1700、そして他の遺伝子が暴れだす。立派な、ガン細胞の誕生よ」
 桑古木が口火を切り、彼方が繋ぎ、優が締める。教科書どおりの三段論法。

「唯一の救いは、進行の遅さ。ウィルス感染ではないから周辺細胞に転移や浸潤することはあまりないし、もともとキュレイウィルスの増殖性の低さから分かるように、暴走しても通常の若年性ガンに比較しても進行はゆっくりだ。
 キュレイ的細胞増殖をしないのが、せめてもの神の情けとでも言うべきか。
 だが、だから治療できるかというと、残念ながら違う。ウィルスや分化細胞遺伝子の暴走と異なり…」
「…局所性が、無いんだね。転移しない代わりに、どんな場所にも発生してしまう」
「そういうことだ。だから、文字通り全身のあらゆるところにガン細胞を抱えてしまうことになる。最悪の、多発性ガンなんだ。サピエンス・キュレイのガンは。
 そして、さっきも言ったが、進行はゆっくり。検査機器に引っかかる水準のガン細胞塊が出来ているということは、つまり…」
「既に、全身に多くの極小のガン細胞を抱えているという事。おまけに、暴走しているのがCp53+とCp1700だから、キュレイ細胞的要素が出てきて薬剤に対する抵抗性が高い―具体的に言うと抗ガン剤が全くと言っていいくらい効かないのよ。こうなると、打てる手は限られる。
 現状で唯一有効と思われるのが、重粒子照射療法を初めとする放射線療法と、温熱療法。今日見つけたガン細胞はこれで潰した。
 でも、所詮、これも対症療法でしかないの。どんどんガン細胞は見付かるし、いくら身体にダメージが少ないと言ってもゼロじゃないから。重粒子の影響で、周辺の細胞のガン化の可能性も出てくる。
 ユウから聞いたわ。最近、ホクトも寝坊するから困るって。
 サピエンス・キュレイのガンの初期症状は、全体的な潜在体力の低下。だから、それを回復するために眠る。沙羅の寝坊は、悪癖じゃない。体が必死で、ガン細胞と戦っている証なの。そして、ホクトの体も、それを始めてしまっている。
 沙羅は、ライプリヒの人体実験のせいで体にダメージを負っているわ。その蓄積が、限界点を早めた。
 全力で治療をしても、沙羅だと頑張って2年とちょっと。ホクトは分からないけど…いいとこ1年、寿命が伸びるだけ。
 だから、沙羅は、22歳の誕生日…2040年の1月21日を生きて迎える事は、多分、できないの」
 全身に無力感を漂わせて言葉を紡ぎ、そして話し終えた優。



 再び下りる、沈黙の帳。



「それで、放置していたんだ。なんにも出来ないからって、放って置いたんだっ…!!!
 
 何が『キュレイによるキュレイの為の研究所』だよ!女の子一人救えないで、何が、何がっ!」


  ピシャーーーーン!!!

  ドスッ!

 圧縮された空気がはじける音。そして、僅かに遅れてソファに何かがぶつかる音。


「いい加減にしないか、このガキが!!!
 誰が、放置しただと!何も知らずに言うんじゃねえぞ、こら!!!
 俺や優だけじゃねえんだ。沙羅やホクトだけじゃねえんだ。

 今まで何人のキュレイとサピエンスの愛の結晶が、この病で命を落としていると思っているんだ!
 
 何人の、世界一の研究者をも上回る知性の持ち主のキュレイ達が、わが子を救うために必死で努力してきたか分かっているのか?

 そして、そんな思いをしたくない、させたくない。だからわが子がキュレイとして生まれるようにと、わが子をキュレイとして産めますようにと…何人が、キュレイウィルスのキャリア…ブラッドキュレイになってまで、キュレイと添い遂げて子供を得ようとしたのか。お前は知っているのか?
 逆に、夫や妻に、何より子供達にそういう思いをさせたくないが為に、恋や結婚を諦めたり、子供を諦めたキュレイが一体何人居たと思っているんだ!

 ちいっとばっかり頭がいいからって、神になったような口を利くんじゃねえ、この洟垂れ小僧!!!」

 容赦したとはいえ、死線を潜った桑古木の平手打ち。
 彼方は文字通りソファに叩きつけられた。そのソファも衝撃を吸収した代償として破壊され、あたりにクッション材が散乱している。

 そんな彼方を、文字通り阿修羅の形相で、桑古木は睨みおろしていた。

「そこまで言うんなら起こして見せろよ、奇跡をよ?
 起こして見せたら、俺は全所員の前でお前に土下座してやる。…どうだ、出来るのか?」

 表情を凍らせ、ソファの残骸にのしかかったまま。左頬を腫れ上がらせた彼方は文字通りフリーズしていた。

「さっきまでの威勢はどうしたんだ、彼方。

 せいぜい、自身の無力に打ちひしがれて眠れない夜を過ごすんだな。
 キュレイの父親や母親が、サピエンスの父親や母親が、当事者の子供達がそうしていたように。そして…優がそうしていたようにな。

 久遠。
 話は終わった。このお子様をゲスト室に案内して差し上げろ。秋香菜に妙な事を吹き込まれちゃ敵わんから、今日はここに泊まっていただく。
 ついでに脱走しないようにきっちり見張ってくれ。分かったな」

「了解しましたあ、涼権さま」

 久遠が、女性とは思えない力で彼方をソファから引きずり起こす。
 その後文字通り彼方を引きずって、久遠は所長室から出て行った。




 2037年9月18日(金) 午後10時00分 田中研究所1F ゲスト室



 言葉も思考力も失い、ただ虚空を見上げるのみ。


 彼方の状態は、そういう状態だった。
 自分が一番良く知っていたはずの年上の少女の事。だが、一番重要な事だけは知っていなかった。

 そして、何も出来ない自分もまた、初めての体験だった。
 秀でた頭脳も、圧倒的な身体能力も、この件では何も対応策を提示してはくれなかった。
 桑古木は正しい。皆、この無力感に打ちひしがれ、眠れぬ夜を過ごしたに違いない。語った言葉の中には、彼の名は無かったが。多分彼もまた、こうやって眠れぬ夜を過ごしたに違いないのだ。
 
 増して、優は。

 つぐみと武、そして自身の最愛の娘に、全てを隠し通さなければならなかった。おそらく、三人に知られないように必死で治療法を探していたのだろう。…だが、事実や現状は、変わらなかった。
 迫り来るタイムリミットの中で。時が経つほど、眠れぬ日々は恐らく増えていったに違いない。
 自分が発した言葉に、一番傷ついたのは他でもない優だろう。それ故、桑古木は激発した。その苦悩を、秘密裏に力を尽くす姿を、一番近くで見届けていたであろう故に。何よりも、無力さに打ちひしがれた優の姿を、知っていた故に。


「…本当に、似てらっしゃいますねえ。涼権さまと少年さんは」
「?」

 ゲストルームの隅に腰掛けて同じように虚空を見上げていた久遠が、言葉を発した。僅かに、彼方の思考回路が動き出す。

「久遠は、最近、涼権様の全てのデータを見せていただきました。『汚れきった俺の過去や行った事を全て見せてやれば、あの子も俺の事を諦めるだろう』と仰って。
…破壊工作、欺瞞工作、情報操作。離間策、埋伏の毒。情報泥棒、ライバル会社への情報漏えい、ライプリヒへの裏切り者…自分たちの味方のネットワークや連絡網・組織の構築、物資の調達と資金繰り。
 ありとあらゆる裏工作を、誰にも知られる事無くこなしてらっしゃいました。ですが、涼権さまには悪いですが久遠はかえって惚れ直しちゃいましたよ」

「なんで?」

「それだけの裏のお仕事をされても、女性に女性の武器を使った諜報活動を強要した事も、悪いクスリを売りさばいたことも、一般人を巻き込んだこともありません。増してや所長さんをその悪事に巻き込んだことは一回も無いんです。
 情報戦においては、女性の武器の存在っていうのは大きいんです。特に要人に対する諜報活動においては圧倒的な使い勝手の良さを誇ります。
 悪いクスリは、一番利幅が大きい上に収入が安定します。一番資金繰りが楽なんです。
 何も知らない一般人というのは、カモフラージュや盾に最適なんです。
 そういう有利を、涼権さまは全て切り捨てられました。
『俺は、優を優のまま勝たせるためにこうしただけだ。第二のライプリヒになってまで、勝つ意味はない』
 こう、仰って笑っておられました。その為に、倍の苦労をされてまで。
 あの苦しい17年間をそんなハンデ戦で乗り切られたんです、涼権さまは。そしてそのやり方は今でも変わりありません。
 涼権さまは、私と空お姉さま、そして所長さん以外の女性を絶対に傍に置かれないんです。
『俺に気に入られようとして、自ら女の武器を使って闇の中へと進んで堕ちようとされるのは嫌だ。俺が応えられないのは判っているのに、それを承知の上で堕ちていく姿には、俺は堪えられそうも無い』
 久遠がその事を聞いたときの、ご返事がこれでした。
 久遠だったら、こんなすばらしいお方を手放すなんて絶対無理。久遠の見る目は、確かでしたの」

 久遠は、幸せそうな笑みを、その顔に湛える。

「…そんなすごい人と、僕が、どう似ているの?」

「…真っ直ぐなところですよ。それだけ闇に染まっておられながら、心は昔の少年のままなんです。涼権さまは。

          『優が後ろにいれば、如何に闇に染まろうと、俺は道を誤らない』

 久遠が最初に涼権さまを意識して、同時に所長さんへの嫉妬に狂ったのが、この言葉を記憶領域に初めて焼き付けた時ですの。
 凄いじゃないですか。たった一人の女性の為にあんな苦しい道を選んで、そして変わらないなんて。
 悔しいじゃないですか。その一人の女性が、久遠じゃないなんて。

…少年さんも、一緒なんじゃないんですか?たった一人の女性の為に…違うんですか?」


「…………………うん」

 長い逡巡。
 しかしその後に、彼方は、確かに首を縦に振った。

「そういうことですの。
 ですけど、たった一つだけ、今の少年さんと昔の涼権さまと違うところがあるんです。久遠、はっきり言って怒ってます!本っ当に怒っているんですからねぇっ!!!

 何もしなくても、天運って降りてくる時があるんです。久遠が、なんの障害も無しに涼権さまの傍に居る事ができるようになった時みたいに。沙羅お姉さまや空お姉さまが、所長さんに久遠の想いの事を伝えていたら、絶対に久遠は涼権さまの傍には置いて貰えなかったでしょうから。

 でも、普通は、天運って人事を尽くさないと降りてこないんです!!!
 だから久遠は今、人事を尽くせるだけ尽くしてます!徹底的に頑張り通してるんですよぉ、久遠はっ!!!
 涼権さまの『たった一人の女性』には、久遠はなれないかもしれない。だけど、『一番の次に大切で、ずっと傍に置いてもらえる女の子』にはなれるかもしれないんですっ!だから、出来る手段は全て使って、ひたすら人事を尽くして、天運を待ち続けているんですよ、久遠はっ!!!

 少年さん。あなたは、今回の件で人事を尽くされましたか?
 久遠の涼権さまに、その涼権さまの所長さんにあれだけのタンカを切っておきながら…あなたはこの件で、一体何をしたというんですか?

 何もしていないじゃないですか、少年さんは。

 打ちひしがれて眠れない夜を過ごすなんて権利は、人事を尽くして天命を待つ人にしか許されないんですよっ!!!」

 久遠の目は、表情は、既に鬼子母神のそれに変わっていた。

「いい加減にしてもらえますか、少年さん?あなたには、まだ尽くせる人事があるはずです。
 人事を尽くすつもりなら、久遠にも出来る事があります。ですが…このまま泣き寝入りをするつもりなら、久遠も容赦しませんの。
 二度と、少年さんを倉成さん一家や、所長さん母娘や、なにより涼権さまには近寄らせません。…やると言ったらやりますから、久遠は。その程度の力は持ってますからね。

 さあ決断してください、少年さん。あなたは、どうするつもりですの?」





 長い、空白の時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。時間。






「久遠さん。量子テレポーテーションの用意…いや、実行をお願いできないかな。
 目的地は、守野遺伝子学研究所。転送対象は、僕。まだ、僕は転送資格を持っていないけど…規則違反だけど、お願いできないかな?」
 穏やかな、しかし決意を秘めた面持ちを、彼方は久遠に向けた。
「…やっと、目が覚めたみたいですね、少年さん。RTSの件は涼権さまから許可は頂いています。
『全責任は俺が取る。彼方がRTS使用を求めたなら、万難を排して実行しろ』と。
 沙羅お姉さまと、ホクトさんの命運、貴方の人事に委ねます。二人の為…そしてその両親…所長さん母娘と、何よりも涼権さまの為に、天命を手繰り寄せてください」
 そう言って、久遠は微笑んで見せた。



 2037年9月18日(金) 午後10時51分。一人の人物が、田中研究所から守野遺伝子学研究所へと世界を超えて転送された。その転送正常終了のコールサインは、久遠の独断により田中研究所所長室へも送られた。





 2037年9月18日(金) 午後10時47分 田中研究所3F 所長室




 再び静寂に包まれる、所長室。





「ねえ、涼権?」
 
口火を切ったのは、優。

「あんだ?優」

 受けたのは、桑古木。

「私を軽蔑してもいいのよ、涼権。
 私は、自身の策の為にあの少年を利用しようとしている。文字通り、あの子の未来まで利用してね。
 成功しようが、失敗しようが、結果的にあの子の人生は私が敷いたレールの上。…あなたと一緒よね、涼権。2017年のあなたと。
 少年が全てを賭けて守ってくれた年上の女の子は、こんな最低の人間よ。いつでも去ってくれて、構わない。私は、大丈夫だから」


 完全に表情の消えた優。2034年のインゼル・ヌルで指揮を取っていたあの時の顔。


「久遠じゃねえが…寝言は寝ているときに言え、優。

 おまえのその発言は、俺と彼方への侮辱だ。
 俺は、優のレールに乗せられたんじゃない。自分で乗ったんだ。今の彼方も、一緒だろうさ。
 他人が敷いたレールだろうが、割に合わない将来だろうが。それが俺の望むものなら、それは俺の選択だ。そして俺は選んで、ここに居る。その選択を、汚すような言い様をするんじゃねえ。
 彼方も、そうなるといいと思っているが…こればかりは、俺にもどうすることも出来ない。だが、優が見込んだ漢だ。なんとかして見せるだろうさ。
 
 最後にもう一つ。

 自分も騙せないような嘘は、吐くんじゃない。

 何が『私は、大丈夫だから』だ。何もかも無くして一人ぼっちになっちまった子供のような顔をして、そんな心にもない嘘を吐くんじゃない。そんな女の子を見捨てて本当に一人ぼっちにするなんぞ、俺に出来る訳ねえだろうがよ」



 優の座る、ソファの横。優に背を向ける形で、行儀悪く背もたれに腰掛ける涼権。



「…今は、泣けないわよ。総司令官が泣いたら、兵士は動いてくれなくなる」

「それでいい。で、前線指揮官は何をすればいいんだ、この場合?」

「まずは勝利のシャンパンを手配して。その後、必勝の策を練りましょう」

「総司令官のおごりなら、了承だ。さっそく手配するとしよう…出来るなら、あの子達の22歳の誕生日に開けたいものだ」

「開けたいんじゃなくて、開けるのよ。私を見くびらないで、涼権」

「へいへい。ご期待に沿うよう、部下は死力を尽くしましょうかね」




 そんな二人を、一歩引いて見守る空。

 その視界の隅のコンソールが、微かに瞬く。

(どうやら、決心したようですね。どちらの『少年』さんも)




 2037年9月18日(金) 午後10時52分 守野遺伝子学研究所 中央電算制御室付属小型RTS室



「お久しぶりだね、月読さん。さっそくだけど、父さんと母さん、そしていずみ叔母さんに会いたい。悪いけど手配してくれないかな」
 RTS転送領域から出るが早いか、彼方は虚空に向けて呼びかけた。
『お断り致します』
 しかし、スピーカーを介した応えは、彼方の想定とは異なった。
「…なんでだよ、月読さん!」
『「深夜に書いたラブレターは、昼間に読み直せ」と申しますし。それに拝見したところ、彼方さんはお疲れのご様子。
 乾坤一擲の大勝負に出るのなら、全てを万全に整えるのが基本と考えますが。ですので今日の所はお休みになり、明日、お会いになられるのが最善と判断いたします』
「…月読さんの言うとおりだね。そうさせてもらえるかな。でもいずみ叔母さんみたいだ、今の台詞」
『いずみ様は私の母上ですから。似るのは当然かと考えます。誉め言葉と受け取ってもよろしいでしょうか』
「…好きにして。ゲストルーム、使わせてもらうね」
『了承しました。17番室が空いていますので、お使い下さい』
「ありがとう」




 2037年9月18日(金) 午後11時47分 田中家ダイニングルーム



「ただいま…はあ、疲れた」
「お母さん、お帰り。…なんだかお疲れねえ?何があったの」
「どうでもいいでしょ、そんな事。…さて、いつもどおりにしてさっさと休むか。」
 ダイニングテーブルに資料を広げて卒業論文を書いている娘と、残業して帰ってくる母親。
 ここ最近お決まりの、母娘の会話。


「それじゃ、お休み。卒業論文もいいけれど、あんまり無茶したらダメだからね。
 そうそう、今日は彼方は訳有りで研究所に泊まっているから。玄関はフルロックモードにしていいからね」
「はいはい、判ったわよお母さん。…それじゃお休みなさい」
 とんとんと足音を立てて、ダイニングルームを出て行く優。

「…本当にどうしちゃったんだろ、お母さん。彼方も帰ってこないし」

 ダイニングテーブルの上には、手を付けていないラップされたままの二人分の夕食。




…この小さな引っ掛かりが、後に致命的な結果を生むことになる。




 2037年9月19日(土) 午後1時17分 石原家・守野家リビングルーム



 守野家と石原家は、二世帯住宅である。住んでいる人数に比べても、大き目の建物。いちおう二つの建物の区分けはしてあるものの、住んでいる者達はほとんど気にした事が無い。
 リビングは全部で三つあり、通常はこの両家にまたがる一番大きいリビングルームを使う事が多い。
最大で一家9人(遙の養父母も、守野家においては家族扱いされている。流石に同居はしていないが)が集っても、十分余裕のある室内。

 この場に集っているのは、全部で4人。

 石原家の構成員3人と、守野いずみ…守野家の長女である。


「さて、彼方。俺と遙だけならともかく、いずみさんまで有給休暇を使わせて呼び出したんだ。
 間違いなく、重要な話なんだろう?だから、手早く、的確に話せ。いいな?」
「うん。判った」

 語られる話は、昨日の田中研究所で語られたものと同じ。

「…で、俺に何をしてほしいと?」
「…守野の力を、貸してほしい。父さんと母さんの力を貸してほしい。…沙羅とホクト先輩を、死神の手から取り戻したいんだ」
 決然とした面持ちで、両親と叔母を見つめる彼方。

「彼方…お前、幾つになる?」
「もうすぐ、16歳になるけど…父さん、それがどうかしたの?」
 突然、年齢の話になり、困惑しながらも応えを返す。
「まだ、16だ。人生を決めるには早すぎる。…一時の気の迷いで、人生の幅を狭める必要は無いと思うがな。どうだ、彼方」
 父親の口から流れる、もっとも想定から外れた言葉。
「―――父さん、本気でそれ、言っているの?」
「ああ、本気だとも。お前くらいの歳は、一番恋に憧れる年代だ。悲劇の少女に同情しそのヒーローになって恋愛成就いたしました、めでたしめでたし…少女マンガの世界だな」
 冷然と、言い放つ。あまりの事に、表情が凍りつく彼方。
「悔しいが、キャビン研究所の連中は超一流だ。技術協力を結んでみて、守野の遺伝子研究が世界一なんてのはただの思い上がりだって事を痛いほど思い知らされた。そうだよな、遙」
「…うん。私以上の研究者は、いっぱいいた」
 夫の問いに、最低限の応えを返す遙。
 遙は嘘を言わない。守野研究所のNo.2格、しかもNo.3を大きく引き離している遙がそう言うのだから、間違いないのだろう。
「そんな連中が束になって、しかも損得抜きの最優先でかかっても解決できない問題だ。…俺達如きがなんとか出来るとでも思っているのか?」
 余りにも冷たく、そして現実的な言葉。
「しかもそこまでして得るものが、お前の初恋のお膳立て。いつ壊れるか知れない甘い御伽噺。確かに沙羅ちゃんはいい子だが、お前の思うとおりに動く子じゃない。
 いい加減目を覚ませ、彼方。現実を見据えろ。
 なんだか大見得切って見合いの連中を断ったみたいだが、百戦錬磨の財界人共がその程度で諦めるとでも思っていたのか?逆に意地になって来ているぞ。
 お前を刺激すると拙いからと、皆、直接連絡を控えているだけだ。初恋の相手がどうのこうのじゃ、この連中を説得なんぞ出来ない。そのせいで、義親父やいずみさん、くるみがどれだけ迷惑しているのかわかっているのか?
 判ったらさっさと帰れ。仕事が溜ってるんだ、俺達は」
 そのまま席を立とうとする父親に。



               「そこを曲げてお願いします。父さん!」



 彼方は床に土下座し、頭を床に擦り付けた。
「僕の夢も、未来も、全部父さん達に預けるから。沙羅を救えるのなら、それを全部、捨てたっていいから。…だからお願いだ、父さん。沙羅を…僕の一番の人を…救って…下さい…」
 何度も何度も、頭を下げて、何度も何度も、繰り返す。

 それを何度繰り返したか。


「頭を上げろ、彼方」


 言われて頭を上げた先に、父親のいつもの顔があった。


「漢の言葉だ。さっきの言葉に、二言はないな?」
「うん」
「そこまでしても、沙羅ちゃんが振り返ってくれるとは限らない…不安から開放され、別の男に靡かないとは限らないぞ?」
「それならそれで構わない。この世界に沙羅が居れば、僕はそれでいい」
 半泣きの顔で、しかし、彼方は躊躇なく言い切った。
「いいだろう。彼方の未来、俺が預かった」
「父さん…それじゃ!」
「ああ。息子が全てを捨てて、一人の女の子を救おうと誓ったんだ。それに力を貸せないで、何が父親だ。
 俺の17年の努力の成果を、お前の未来をチップにして賭けてやる。俺が遙に、いや俺を選んだ5人の女神に相応しい男だという事を…何よりも石原彼方の父親に相応しい存在だという事を証明してやるさ。
…すまない、いずみさん。俺がこんな事言えた義理じゃ無いんだが、力を貸してくれ」
 誠が、いずみに頭を下げる。
「正直、私を振った誠くんに尽くす義理はないんだけど…可愛い甥っ子と、姪っ子になる予定の女の子の為だから。全力で行かせてもらうわね」
 にこにこと笑って、いずみが応じる。
「ありがとう、いずみ叔母さん」
「お礼はいらないから、代わりにウェディングドレス姿の沙羅ちゃんを引っ張ってきなさい。いいかしら、彼方ちゃん?」
「…2040年にならないと無理だよ、それ。僕が18歳になるの、2039年の12月だから」
 叔母のトンデモ発言に、呆れたような笑いを浮かべる彼方。
「なら頑張って、沙羅を救うの」
 最後を的確且つ簡潔な言葉で、遙が締めた。



「準備があるから今日は無理だ。明日の朝一番で、俺達4人…いや、いずみさんはまだ早いか。俺と遙、そして彼方で田中研究所に跳ぶ。RTSで。もう隠し立ては無用だ。
 キュレイとしての力で、全てをひっくり返して見せるさ」





                  ― To Be Continue Next Story… ―
後  書


…遂に、この話を書くときが来てしまいました。


生化学的考察が辿り着いた、悲しいサピエンス・キュレイの宿命です。


 ガンの6割以上が、p53異常に起因するという学会報告があります。事実、ガンとp53の関連性は有名です。もっともE17をプレイした方には常識ですが。
 そんな正常なp53を一本しか持っていない、サピエンス・キュレイ細胞。一本しかありませんから、p53に異常が起きると修復は不可能です。当然、ガン化のしやすさは、普通のサピエンス細胞を大幅に上回ります。私の考察では途中で捨てましたが、紫外線の件を公式設定に準拠させれば、さらにその確率は上がります(サピエンスキュレイ細胞の紫外線耐性は『不完全』とされています)
 しかも、キュレイの要素を有していますから、サピエンス用の抗がん剤が効くかどうかは未知数。
 私のキュレイ細胞考察は生化学ベースで、説明できないものを反則技(Cp1700なんかその典型)で補う形式ですから。残念ながら、サピエンス・キュレイの易がん化性を否定する事が出来ませんでした。

 最初にこの話を考えたときに(キュレイ考察が先でした)、真っ先にぶつかったのがこの壁。
 故に、今書いているこの話も、その時点で既に考えたものです。久遠に代表されるイレギュラーはいろいろありますから、内容自体はそれなりに変わってはいますけど。
 むしろ、この壁を越えるためにこの「未来へ続く夢の道」が存在したといっても過言ではありません。

 この話を含めて本編3話+幕間1話。それにエピローグとして1話の計5話で第2部の残りは構成する予定です。その後に書くはずのピーカンほのぼのの幕間群+エピローグ群を励みに頑張りますので宜しくお願いします。
 半分遊びの考察から始まり、悲しい宿命を否定してEver17の登場人物たちに光当たる未来を与える為だけに書いてきたこの物語。後暫く、お付き合いくださいませ。


2006年6月3日 あんくん


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