2037年9月20日(日) 午前10時00分 田中研究所3F 所長室



「いよいよ、決心したのね。
 御免なさい。Xデイを、これ以上引き伸ばす事はできなかった…」
 優が、誠に言葉をかける。

 所長室には、昨日と同じ強度のセキュリティがかけられている。

 室内には、二組の男女と、二人のAI。同室しようとした彼方に対して、
「お前には、お前の仕事がある。優しい嘘を吐き続けるのが如何に辛く、難しい事か。その身で体験し、そしてやりとおせ…幸い今回は、そんなに長く嘘を吐き続ける必要はなさそうだ」
 誠はこう諭し、居るべき場所へ彼方を送り出した。

「こればかりは、多少の努力ではどうしようもないさ。むしろ、よくここまで引っ張った。
 特に心のケアの方は見事だ。…体力は残っていても心が壊れてしまっていれば、希望はゼロになっていた筈。
 時間制限付の苦しみの中、完璧な前提条件を作ってくれた。本当に、感謝する」
 誠が、感謝の表情で頭を下げようとする。
「頭を下げるのはこちらの方。彼方…貴方の息子まで利用しつくした。だから、賞賛で止めておいて。
 具体的な話は、どうするのかしら?」
 大慌てで押しとどめる優。罪悪感と葛藤している心の内が、僅かに表情に出ている。
「彼方の事は気にしないでくれ。あれは、彼方自身の選択だ。
 さて、話を戻すぞ…まず、当事者に告げることから始める。とりあえず、その件の打ち合わせと摺り合わせだが、少しは時間が在る。昔話するくらいの、時間はな。
 そこの相棒さんは知らないはずだし…こうして応接室で優と向かい合っていると、どうしても思い出してしまうからな。あの、原点の夏の日を」
「…そうね。もう涼権も、少年じゃない。そろそろ知ってもいい頃ね。
 考えてみれば、あれこそが真のライプリヒとの戦いの第一歩だったのかもしれないし。ある意味涼権の最初の戦果が、あれだったと言えなくもないから」
 優と誠のやりとりは、実務的な話から何故か逸れていく。

「俺の、最初の戦果?」

「ええ、話してあげるわ。私と誠が、初めて出会った時の事を………」





未来へ続く夢の道
−幕間7 past a Day−

                              あんくん






                      2020年8月。




「ふう。疲れたわ」
 バスから降りたがらないユウを抱えて降ろした私は、目の前の、かつて通い詰めた建物を見上げた。

守野遺伝子学研究所。

 私の、世界で一番尊敬する人の城であり、同時に私の娘の生まれ故郷でもある。そんな懐かしい場所。私にとっても、第二の故郷みたいな場所。
(本当は、来ちゃいけない場所だけど…ごめんなさい、茂蔵おじちゃん。一回だけ、好意に甘えさせてください) 
 私は、心の中で謝った。

 私は…正確には、私と少年、そして私が背に負っている人々は、崖っぷちに追い詰められていた。そんな中、唯一救いとなるであろう情報を、文字通り体を張って少年が手に入れてくれた。
 だが、一介の学生、しかも文学部系の学生である私には、せっかくの情報を利用する術がなかった。
 だから、
『困った事があったら、いつでもおいで。父親代わりだったら、私にでも出来るからね』
 その茂蔵おじちゃんの言葉だけを頼りに、私はここに来てしまった。
 絶対に巻き込んではいけない筈の、恩人の所へ。だが、私にはもう、茂蔵おじちゃんしか頼れる人は残っていなかった。



「どのようなご用件ですか?」
「…守野茂蔵所長に、こうお伝え下さい。『優しい春が、秋を連れてやって来た』と。それで、判ると思います」
 私が通っていた頃と違う受付の女性が、けげんそうな顔で内線電話をとり、番号を押してコールする。
「はい、はい。…『優しい春が、秋を連れてやって来た』と…えっ!…判りました」
 カチャリ。受話器が置かれる。
「お会いになられるそうです。『所長室は以前と同じだから』と、伝えてほしいと」
「!…わかりました」
…思わず涙が出そうになるのを堪え、受付の女性に背を向ける。

 私と、茂蔵おじちゃんだけの、暗号。
『優しい春が、優しい秋を連れてやってきた』というのが本来の暗号。前の受付の人は、それを聞いただけで笑いながら取り次いでくれたものだ。そして、『優しい秋』の『優しい』を抜かすのが、緊急時や困った時を示すSOSサイン。ずっと前に決めたけど、流石にSOSの場面なんて出てこなかった。
 本来の暗号の返事は『所長室は、空いている』だったはずなのに…『所長室は以前と同じだから』って返ってきた。以前と同じ…昔のように力を貸してあげるよって、言いたかったんだろう。
 あの2017年以降、一回も来た事もないのに。それどころか、電話の一本も、年賀状の一通も出していないのに。そんな私に、以前と同じって、言ってくれた…。
 そんな人を、私は巻き込まないといけない。喜びと罪悪感でいっぱいになりながら、私は娘の手を引いて、既に暗記してしまった所長室への通路を辿った。



「優ちゃん、よく来てくれたね。正直、寂しかったんだよ、私は」
「ありがとうございます、茂蔵おじちゃん」
 茂蔵おじちゃんは、変わっていなかった。昔のように、笑って私を迎えてくれた。
…だけど、私は、この笑顔を、利用しなければならない。
 でも、どうやって切り出せばいいの?私は、どう、恩人を巻き込む言葉を紡げばいいの?


「娘なら、父親は利用しなさい。大切な娘の為なら、父親は泥だって進んで被るさ。
 連絡を絶ってまで私を守ろうとした優ちゃんが、こうしてこの場所に来たんだ。大ピンチなんじゃないのかい?他に誰も頼れる人は居ないんじゃないのかい?
 危機にある娘を救う事は、父親の義務だ。だから、遠慮なく頼りなさい」



 もう、ダメだった。




 長い時間、茂蔵おじちゃんの胸の中で泣き続け、やっと落ち着いた私は今ソファの上に居る。

「もしもし、私だ。今日の予定は、私の急病という事で全てキャンセルしなさい。来客も、電話も一切お断りだ。…たとえ総理大臣が来ようが、大統領が来ようが、玄関先から一歩も入れないで追い返しなさい。出来るだけ、角が立たないように。
 君が頼りだ。自慢の演技力に期待しているよ」

 …やっぱり上手いなあ、茂蔵おじちゃんは。ああ言って部下を上手く使っている。少年一人御するのが精一杯の私が、ああいう風になれるのかな。
 だけど、ならないと駄目なんだから。だから、まずは茂蔵おじちゃんから学ぼう。

「さて、これで大丈夫だ。優ちゃん、何でも無理は利いてあげるから。その代わり、隠し立て無しで話してもらえないかな」
「…うん」


 ライプリヒ製薬グループの人事制度に「旧社員遺族の生活支援制度」というものがある。言葉どおり社員が職務上や、それ以外にも病死等で亡くなった場合、その妻子の生活を支援する制度である。ただし、義務もある。
 ライプリヒ関連の企業に就職して、支援費受給期間に応じた期間、原則昇進なしで勤めないといけない。一応優先採用だから、生活安定の意味もあるというお題目が付いてはいるけど。事実上は恩を売って口を封じるとか、要注意人物の家族―私なんかその典型だ―を監視するとかそういう目的で作られたんじゃないかって私は思っている。
 両親とも社員で父親が行方不明、母親が病死の私は、この制度のおかけで生活できる。だけど、学費が保障されるのは大学まで。だから就職する代わりにレムリア考古学研究者として貝emuに関わるという条件で、大学院への進学と卒業後の研究生活を認めてもらった。嘱託みたいなもので、生活支援費や研究費・学費の対価として研究成果を無償で提供する事になっている。
 本来ならこんな事は無いらしいのだが、特例として認められてしまった。『レムリア考古学なんて眉唾な領域を真面目に研究する物好きな研究者は、他にいないから』というのが人事部の見解らしい。


 だが、ここで、遂に恐れていた問題に直面する事になった。
 嘱託とは言え、やはり貝emuの職員と同格に扱われて健康診断の受診義務が発生してしまった。何しろティーフ・ブラウが猛威を振るって、世界中が恐慌状態。健康診断関係の法制はとても厳しくなった。今回は無審査だし、まだ内定貰っただけなので不要だったが。次の4月には、間違いなく健康診断を受けなければならなくなる。
 …Lemuだから、当然のように健康診断にはLemuの医務室乃至医療センターを使用する。
 そして、そこのL-MRIや血液検査装置は特別製。具体的に言ってしまえば…キュレイウィルスを検出できる。
 

 キュレイウィルスの検出技術は当然の様に秘中の秘だから、一般用のL-MRIには搭載されていないし、血液検査機器にしても、同じ。 
 それに現在、血液感染(特にティーフ・ブラウ)の問題と個人情報保護の問題から、採血血液はその場で検知器にかけられた上で本人の目前で高圧殺菌の上焼却される事になっている。
 だから、普通にしていれば、キュレイウィルスなんて検出される筈がないのだ。…Lemuでさえなければ。

 つまり…健康診断の結果、私がキュレイキャリアだってことがばれてしまう。大体、私は間違いなく監視対象リストに入っている。健康診断を欠席すれば、途端に疑いを確信に変えてしまうことだろう。
 今日、ここに来たのだって、ぎりぎりの選択。ユウがここで生まれたから、健康診断の名目でここに来た。クローン自体は今は一般的な存在だから、疑問には思われないだろう。
 事実、今、ユウは健康診断の真っ最中。私もそうしていることになっている。
「どうせタダなんだから、徹底的にしてあげるよ。心臓の事もあるし、見落としなんてしたら私の恥だからね。…それに、今日ここに留まる理由としては十分だ」
 という茂蔵おじちゃんの好意に甘えることにしたのだ。ぐずる娘を宥めるのには苦労したが。


「…そうか。キュレイになってしまったんだね、優ちゃんは。そして、それをライプリヒの連中にだけは知られたくないわけだ。
 つまり、健康診断のその一日だけでもいいからキュレイキャリアとしての反応が出なくなるようにする薬が欲しいんだね、優ちゃんは」

 …隠し立て無しと言われて頷いてしまったけど、私にはいくつも隠さないといけない事がある。たとえ、茂蔵おじちゃんが相手だったとしても。
 そんな、隠し事だらけのLemuの一件の話を終えた後の、茂蔵おじちゃんの言葉がこれだった。
 私がいっぱい隠し事があるのは茂蔵おじちゃんも知っているはずなのに、何も非難しなかった。…ごめんなさい。そしてありがとう、茂蔵おじちゃん。
 
「…はい。出来れば、携帯可能な即効性の物を。抜き打ちの検診というのも、私の場合ありえますから」
「当然そこまで言うからには、相手の手段を知っているんだね」
「…はい。唯一の私の同志が、文字通り命がけで手に入れてくれました。…これが、そうです」

 服の内ポケットから取り出した、一枚のテラバイトディスク。
「L-MRI System Ver.17.1.17 Lemu 2020」と刻印が打たれている。

「…よく、手に入れられたものだ。君の同志は、優秀だ。誇っていいよ」
「本人も、奇跡だって言ってました。ここまで上手くいくとは思わなかったと」
「想像以上に、ライプリヒの内部も乱れ始めているようだ。巨城を崩す蟻の穴が少しずつ開き始めているようだね。ここにも、穴が二つほど開いているし」
「!」
「話を続けるよ。現在、最強の医療機器がL-MRIだ。間違いなくね。そして、Lemuを含む研究機関に存在する特別製は、一般向けより遥かに強力な最新鋭検査システムが装備されている。そのシステムが、このテラバイトディスク。間違いないね?」
「その通りです。そして、その中には、キュレイキャリアの検出プログラムも入っています。…Lemu用のものですから」
「LemuというよりIBF用だね、これは。IBF壊滅の事実を隠匿するために、存在を知っている部門にはIBFは健在と嘘を吐いているんだろう。だから、余り物がこうやって回ってくる可能性が出てくる。
 あんな所になんでまた研究所なんか作ったのか、私は理解できないけど」
 頭をハンマーで殴られたような衝撃。思わず私は面を上げて、真っ直ぐに茂蔵おじちゃんを見た。
「…一体何処まで、知っているんですか?」
「おいおい、そこまで血相変えることはないんじゃないかい?海難救助隊さ。彼等はあの施設のことを、Lemuの事件で知っていたからね。あとは想像の産物だ」
「なんでまた、そんな人たちと繋がっているんですか?」
 半分呆れて、聞いてみる。
「子供達の、ネットワークさ。今かなりの子供がクローンだ。ウチはその大部分を手がけているから。たまたま救助隊の隊員が子供を連れて検診に来て、たまたま私が担当したから聞いてみただけだ」
 半分本当で、半分嘘。多分、無理して担当を変えたに違いない。…茂蔵おじちゃんは、ずっと私のことを気にかけてくれたんだ。

「もちろん引き受けるが…その前に、まず実証実験からだ。一応ウチのL-MRIは最新鋭だけど、そのままこのデータが使えるとは限らないからね。準備させるから、少しだけ待ってくれるかな」
「はい、勿論」
 茂蔵おじちゃんはそのままデスクに向かい、内線をかける。
「もしもし、私だ。L-MRI室を開けてくれ。一番新しい17号機と、同室の11号機を使いたい。…30分か。まあしょうがない、それ位は待つことにするよ。…それならついでに頼まれてくれないか。その30分で、研修生の誠君と遙を呼んで、L-MRI室に待機させておくように」

「誠君と遙?いいんですか?」
 内線を終えた茂蔵おじちゃんに、私は問わずにはいられなかった。
「…優ちゃんに秘密があるように、私達にも秘密がある。彼等はその秘密の一端だ。
 同じような秘密を持つ者同士、仲良くなれるなら仲良くなってもらおうと思ってね。人間、一人より二人、二人より皆の方が心強いだろう?絶対に裏切らない、信頼できる同志ならばね。
 さて、剣呑な話はここまでにしようか。秋ちゃんの近況とか、聴きたい話は一杯あるからね」
 その後は、大学の事とか、娘の事とか、そんな他愛のないそして幸せな話に費やした。嫌な事を忘れられるような、そんな話に。




「うーん。実に長くて判りづらい名前だな」
「うん。私も、そう思う」
 自己紹介の後の、誠と遙の反応…実に聞きなれた、そして嫌いな反応だった。本当に私の母を恨みたくなるのがこの時だ。
「そんな名前じゃ俺も呼ぶのが嫌になりそうだから…優春ってのはどうだ?」
 そんな時、誠が実にわかりやすい、同時にセンスの欠片もない名前を提案してきた。
「優春?なんでまた、そんな名前を思いつくんだか」
「いやな。唯、優だと娘さんと区別がつかない上に、俺もまたわかりにくい。何しろ俺と遙の女友達に『優夏』ってのが居てな。この子の声がまた君とそっくりなんだ。…声はわずかに違うんだが、なんと言うか、喋る雰囲気がそっくりでな。そっちの意味もあって、つい浮かんだんだが…駄目か?」
 案外、いいかもしれない。私が優春で、ユウが優秋。で、優夏って子を入れて春・夏・秋と三季節が揃う。…冬は要らない。あと15年間、冬を耐えないといけないからもう十分。
「どうやら、異論ないみたいだな。それじゃ宜しく、優春」
「宜しく、優春」
「ええ、宜しく。誠、遙」
 こうやって、挨拶が終わった。

「で、所長。私は何をすればよろしいのですか?」
 表情を改め、礼儀正しく茂蔵おじちゃんに問う誠に対して、茂蔵おじちゃんが言ったのは…
「この4人では、世間体は不要だ。遙は3番目の娘、優ちゃんは血は繋がっていないが4番目の娘だ。
今後はそのつもりで接してもらおう、誠君、遙…そして優ちゃん」
 文字通り、とんでもない台詞だった。驚きの余り、思わず頭が混乱状態になる。
 確か、さっき自己紹介で聞いた通りだと遙は樋口って姓だし、今までも、家族の話で遙という名前が出たことは無かった。確か、子供さんは、いずみさんとくるみちゃんという二人姉妹だったはずなんだけど。

「誠君、遙。今からここで明かされる事実は、優ちゃんの未来を左右する重要な秘密だ。だからこそ、こちらも隠し事無しで行く。秘密を共有し共にあるべき存在の、最低限の礼儀だ」
 そんな私の心を読んだように、茂蔵おじちゃんは言葉を継いだ。
「判った、義親父。遙も、二人目の年上の妹が出来たな」
「…うん。でも、くるみはお姉ちゃん。だから、優春さんも、お姉ちゃん」
「???」
 最早、混乱の極地へ達しかける私。
「っと、すまんな。説明が足りなかったようだ。
 誠君は、この遙の婚約者だ。今、医学部の3年生。君と同い年なのは、さっきの自己紹介でわかるだろう?遙は…私の実の娘だ。ただし、クローンで訳有りで養女に出した。君より一つ年下で、次の3月で飛び級で医学部を卒業する予定だ。くるみは知っての通り私の2番目の娘。遙より一つ年上で、同時に二つ年下。で、遙のオリジナルだ。ちょっとくるみの件は説明が難しいから、年下の姉と覚えておいてくれればいい」
 私の様子に状態を察したのか、茂蔵おじちゃんが説明してくれる。
 そんな私を見て、誠と遙は、私が落ち着くための時間を与えてくれた。
 
 なんとか心を落ち着かせて状況が整理出来た。

 取り敢えず疑問は一つ、驚きも一つ。
「失礼ですけど。遙さんは、違法時代のクローンなんですよね?」
「うん。だけど、お陰で誠と一緒にいられるから。今は感謝しているの」
 私の剥きつけの失礼な質問に、遙は何の躊躇もなくそう応えてくれた。これが、多分遙と茂蔵おじちゃんの秘密。
「凄いんですね。医学部の飛び級なんて」
…飛び級や多学科重複履修が普及しつつあるこの時代にあっても、医学部だけは別格。人の命を預かる知識以上に経験が物を言う分野で、卒業と同時に医師免許試験の受験資格が得られる医学の世界では滅多に飛び級は出来ない。
「遙は真の天才だ。俺が邪魔しなければ、今年の9月には卒業できていたはずだ」
「邪魔?」
「俺が無理言って、医学部への3年次編入試験の受験勉強を付き合わせたからな。お陰で一年遅れとはいえ医師を目指せるようになった代わりに、遙の足を引っ張っちまった」
「…誠は、悪くない。誠が医師を目指したのは、私の為だから」
 今度こそ、呆れた。医学部への編入試験は、そこらの試験の比ではない。唯でさえ入るのが難しい医学部に、途中乗車しようという訳だから。それこそ周囲全てが納得できるだけの実力を示す必要がある。
 目の前に居るのは、まさに化け物二人。
「…そんな目で見ないでくれるか。こう見えても、遙に出会うまでは典型的な落ちこぼれだったんだから」
「誠は、出来るのにしていなかっただけ。今が本当の姿」
 真っ赤になって謙遜する誠と、幸せそうにその姿を見上げる遙。…これだけでも、この二人が如何に血の滲む努力の末にここにあるかが痛いほど良くわかる。
 もしかしたら、この二人の姿を見せる事で、私にハッパをかけてくれたのかもしれない。私は、そう思った。

「おっほん。
 さて、本題に入ってもいいかな。…優ちゃん、その新しいほうのL-MRIに寝てくれるかい」
 咳払いと共に、威厳を取り戻した茂蔵おじちゃんの声に従い、L-MRIの診断を受ける。

『Health』

 対して時間も掛からず、そうモニターに表示される。
 次いで誠、次に遙、最後に茂蔵おじちゃん。
 そして、もう一基設置された古い方で同じ事を繰り返した。
 結果は、全員全く一緒。

「成程。確かに一般用では、こうなるか。遙、17号機と11号機の、システムまで含めたフルバックアップデータ作成を頼むよ。
 誠君は、システムの調整の準備を。17号機に優ちゃんが持ってきた最新バージョンをダウンロードする。…17号機と11号機は故障して使用不能、事前のフルバックアップデータを使用して修復実行中。そういう事だ、判るね、二人とも」
 茂蔵おじちゃんの言葉に、二人とも信じられないくらい真摯な顔になる。

 無言で作業を進める二人。制御ユニットから1枚ずつ計2枚のテラバイトディスクが吐き出される。
 遙が手を挙げて、その手の上に茂蔵おじちゃんが、私が持ってきたテラバイトディスクを置く。
 そのまま、三人が制御ユニットに張り付き、作業をしている。

 ただ見ていることしか出来ない、無力な私。

…やがて。


「準備は終わった。…優ちゃん、この上に、寝てくれるかい?」
 これから起こる事を知っている茂蔵おじちゃんが、悲痛な声で告げる。
 私も無言で、言葉に従う。

 システムのシーク音。その後に…

         『Cure-Virus P. Carrier』

 ビープ音と共に、表示がコンソールスクリーンに表れた。予想通り…でも少しだけ違和感のある表示。

「遙。捕まえたかな?」
「うん。元々のデータとの相違部分だけ見てたから。使用されたプログラム、データベース、機器類のリストとソース。出力する」
…天才って言葉の意味、実感した。何回も実験台になるつもりだったのに。
 たった一度で、遙はキュレイウィルス検知システムの所在と仕組みを特定して見せた。私もそれなりにコンピュータを使えるつもりだったけど、格が違う。

「さて、遙が解析する間に比較試験をしておこう。誤作動の可能性もあるからね」

 そう言って、茂蔵おじちゃんが、私と交代する。

『Health』…当然。

 茂蔵おじちゃんが、誠と交代する。

『Cure-Virus P. Carrier』…当z…!!!

「な、何ですってえーーー!!!」「な、なんだと…」
 私は、反射的に大声を上げてしまった。
 誠は表情を凍らせ、呻く。…待って!

「誠…あなた、なぜキュレイウィルスの事を知っているの?普通の人は、この表示の意味は分からない筈よ!
 一体、あなた達、何者なの!」
 私は自制を失い、誠に食って掛かっていた。



「落ち着いたかい?」
「…御免なさい、茂蔵おじちゃん。思わず取り乱してしまって。ご免、誠」
 当事者の茂蔵おじちゃんと、誠に謝る。
「気にするな。キュレイの事知っている人間だったら、取り乱さない方がおかしいんだ」
 気にする風もなく、誠は許してくれた。
「誤作動、だよね?」
 恐る恐る、聞いてみた。
「それは、遙の結果次第だ。…多分、誤作動じゃない」
「えっ?」
 確信したような、誠の言葉。

 遙が横たわるL-MRIのシステムが、彼女を調べていく。

         『Cure-Virus P. Carrier』

 …確かに、モニターにはその表示が表れた。
「決定的だな。誤作動じゃない。…やっぱり『永遠の7日間』は、唯の夢じゃなかった。そうだよな、遙?」
「うん。誠の言うとおり」
「参ったね。話を聞いて、可能性くらいは考えていたが。…まさか本当にキュレイシンドロームだとは思わなかったよ」
 私以外の三人は、驚いてはいても、悩んではいない。何か、結論を持っているようだ。
「他の5人、呼ばないといけない。そうだよな、義親父?」
「ああ、その通りだ。…誠君、あの時の残り5人を呼んでくれないか。捕まらない人間は後回しだ。ただし、早い時期にここに来させるように。分かったね?」
「ああ、当然だ。義親父」
 私を置き去りにしたまま、話は、終わってしまった。…いったい、私、何をやっているんだろう?



 遙が、先ほどのデータを解析している。誠が、電話機に齧り付いて何かを話している。
「…わかった。ごめん、くるみ。今度遊んでやるからな?」
 チン。
「いずみさんとくるみは自宅に居た。すぐここに来るって言っていた。億彦と沙紀は連絡は付いたが場所が遠い。特に億彦は来るまでに2,3日かかるそうだ。
 あと、一人は運良くか運悪くかは知らないが研究所内に居る…優春、済まないけど迎えに行ってくれないか?」
 誠が、私にメモを渡した。…キッズルーム?
「これは優春が適任みたいだから。済まないけど頼まれてくれ」
 私は訳が分からなかったものの、素直に言葉に従いメモの場所へ急ぐことにした。



「きゃはっ、きゃはっ!おねえちゃーん♪」
「ほーら、高い高ーい!」

…目の前の光景。なんと言っていいものやら。
 すこし時間が遅くなってしまったせいか、キッズルームはがらんとしていた。明かりだけは煌々と点いている。
 そんな中で。
「おねえちゃーん、もういっかい、もういっかい!」
「全く、甘えん坊さんなんだから…ほーら、高い高ーい!」
「わーい、わーい♪」

 ショートカットのくせっ毛の私くらいの歳の女の子が、ユウと二人で遊んでいた。
…信じられない。わりと人見知りするあの子が、あんなに初対面の女の子に懐くなんて。
呆然として見ている私。
「あーっ!おかあさーん!」
 そんな私にユウが気付いて、嬉しそうに駆け寄ってくるとそのまま私の腕に寄りかかってくる。
(しょうがないなあ…)
 抱っこのおねだりに、仕方なく片腕で抱えあげる。
「あのね、あのねっ!おねえちゃんがね、あそんでくれたの!」
 ものすごく上機嫌で、私に報告してくるユウ。…本当に、ここまで初対面の人に懐くのは初めての気がする。
「あれ、おかあさんって…私より年上に見えないなあ」
 なんとなく、分かったような気がするなあ。まるで鏡を見ている気分。…私のほうが美人だけど。
「あなたが、優夏さん?」
「うん、そうだけど。なんで私の名前知っているの?」
「誠から、あなたを呼んでくるようにって。L-MRI室で待っているわよ」
「…なんで、誠を呼び捨てなの?」
「茂蔵おじちゃんの命令。後でじっくり説明してあげるから、取り敢えず行きましょう?」
 きゃっきゃっと手を伸ばすユウの手を優夏が握ったり離したり。そういう風にしながら、私達は元の部屋へと戻る事にした。




ピーッ!

         『Cure-Virus P. Carrier』

「ねえ、誠。これって、どういう意味の表示なの?」
 暗い顔の私達を見て、L-MRIに横たわっている優夏が不思議そうに聞く。…これが、普通の人の反応だ。

 キュレイウィルスなんて、学会のごく一部が騒いでいるに過ぎない。なにしろ実態が全く公開されていないから。既にアメリカ合衆国とキャビン研究所が契約を結び、キュレイの研究は全世界的に凍結されてしまった。
 これが、表の情報。これも事実。他の研究機関は、超大国アメリカを恐れて研究しようとしない。サンプルも居ないし、大体サンプルの判別方法すら知らない。そういう状況では、研究しようという存在は居ないだろう。
  だが、そういう状況にない存在が、ライプリヒ製薬。たまたまつぐみを捕らえ、既にキュレイウィルスの判別方法まで手に入れてしまった。…唯一の救いが、キュレイウィルス研究部門が極めて秘密性が高い故に一般の研究員がこの事実を知らないこと。もし知ってしまったら…考えたくもない。

(どうするんですか、茂蔵おじちゃん)
(全ては、いずみとくるみが来てからだ。こういう説明は、一回で済ませたい)
 私は隣の茂蔵おじちゃんに耳打ちし、茂蔵おじちゃんも小声で答えた。

「…なんだか、気に入らないのよねえ。こういう雰囲気」
 辺りを見回し、居心地悪そうな…優夏。あまりにも、私に似ている。
 だって…私も正に優夏と同じ心境だから。せわしなげに目が動き、そのせいで、腕の中のユウも少し怯えている。
「…優夏。悪いけど、ユウ…優秋と遊んできて貰えない?」
 私は、思い切って優夏に提案してみた。この雰囲気の中ではユウが余りに可哀相だったし、優夏にしても居心地が悪いだろう。優夏が私のそっくりさんなら、こういう場合、じっとしているより行動していたほうが気が紛れるはずだ。
「へえ、この子って、私の名前と関連があるんだ〜。なんだか嬉しいかも。…そういえば、肝心のお母さんの方の名前を聞きそびれてたわ」
「本名は言いたくないから、さっき決まった略称で。優春って呼んで。優秋っていうのも略称で、名前はもっと長いのよ」
「…マジですか?」
「マジよ」
 あ、呆れてる。まあ、気持ちは分かるけど。自分を挟んで春と秋が同時に出てくるなんて考えもしないだろうし。
「う〜ん。まあ、いいか。いこっ、優秋ちゃん?」
「うーん、うーん」
 ユウが、私と優夏を交互に見やる…迷ってる。
「お母さんは、もうちょっと用事があるから。おねえちゃんと遊んでらっしゃい」
「うーん…うん!」
 ユウが私の腕からぴょんと飛び降りて、優夏に駆け寄っていく。
「おねえちゃーん、あ・そ・ぼ!」
「はいはい優秋ちゃん、ちょっとここじゃおかあさん困るみたいだから。あっちであそぼうね!」
「うんっ!!!」
 そのまま優夏はユウの手を引いて、キッズルームの方へと行ってしまった。



「上手い手だね。一挙両得、一石二鳥。…それが、基本だよ」
 茂蔵おじちゃんが、僅かに顔を綻ばせて誉めてくれた。
「…普通、一挙両得とか一石二鳥って珍しいんじゃなかったっけ?」
 私は、少し不思議に思って聞いてみた。
「それはね、鳥を貰う人間を自分に限定するからだよ。ギブアンドティクって言うのはね、同じ行動で、自分と相手が共に得をするから成り立つんだ。
 行動は一連。自分から何かを出しているから、自分が一つしか手に入れていないから、鳥一匹しか落ちてないように見えるけど。実際は、鳥は自分と相手に一匹ずつ落ちる。正に、一挙両得。どっちも得しているんだ。
 だから、どっちも損はしていない。この事を忘れると、結構問題なんだ。
 渡して、貰うからって、どっちか一方が大きいものを得れば、それは不公平になる。つまり、一つの取引で、一匹しか落ちなかったか、一匹も落ちなかったとき。具体的には、どちらか一方、又は両方が『自分は鳥をもらえなかった』と思うときに、つまり一方的損か、一挙両損の時に不満が出る。
 だから、常に気にしなさい。まずは、自分が得したか否かより、相手が得したと思っているかどうかを。相手が得してなければ、その相手との関係を対等には保てない。
 そして対等でない関係を保つには、強者の戦略を使用するしかない。弱みを握る、後ろ盾を使う。これらは一方的に得をする。確かに短期的には有効な手段だ。
…だが、相手は常に恨み、隙を伺う。潜在的な敵となり、少しでも隙を見せれば立場をひっくり返す。そういう相手を作れば作るほど、自分に隙を作れなくなり…人を信じられなくなっていく。
 大抵の独裁者ってのが、そういう末路を辿っていく。強者の論理を突き進み、孤独になっていく。
…あえて詮索はしないが。優ちゃんは、多分何かと戦って勝つつもりなんだろう?何かの目的の為に。違うかい?」
「…はい。その通りです」
 私は、素直に頷いた。
「だから、可能な限り強者の戦略は封印しなさい。どうしても使うのなら、滅ぼすべき相手にのみ使う事。絶対に仲間に使っては駄目だよ。転落の第一歩だからね。
 一石二鳥、一挙両得の取引を繰り返して、少しずつ、対等な存在を増やしていくんだ。そういう存在の中から、優ちゃんに心服して従ってくれる同志も現われてくる。…そういう関係は、強者の論理で強制的に結ばれた関係より数段強い。
 後、自分も得する事を忘れない事。自分が損してもいいという取引って、かえって相手が警戒して上手くいかないから。
 そして何よりも、私が優ちゃんにして欲しくない事。
…正直、私的な思いも混じっているんだが」
 真剣な顔の、茂蔵おじちゃん。
「一体、なんですか?」
「絶対に、女性の武器は使わない事。男女の関係を利用するなど下の下だ」
…正直、どきっとした。最悪の時は、と考えていたから。
「女性の武器は、寄生と自衛と篭絡の手段。後ろ向きの手段だ。結局、一人の男を利用する為だけの技術だからね。
 組織の中でのし上がりたいだけなら止めないが。優ちゃんの目的は、そうじゃないんだろう?
 優ちゃんは、ある目的の為、総司令官になって同志と共に戦うんだろう?
 女の武器を使って目的を達しようとする総司令官を、誰が尊敬する?そんな総司令官に、誰が従う?
 まともな人間は、従わないさ。従う者は、優ちゃんを総司令官ではなく一人の女と見る連中だけだ。…女の武器っていうのはね、一度使うとそれしか使えなくなっていくものなんだよ。周りに、それを望む存在しか残らないから。
 
 そして何よりも大切な事。

 さっき言っていた唯一の同志は、そんな君の姿を望んでいるのかい?一番最初の同志の感情すら裏切る存在には、本当に誰も付いては来ないよ?」
 …何も言い返せなかった。
「まあ、ここまでが、理性やら論理の面。
 単純に、私としては自分の娘にはそんな事して欲しくないってのが本音だがね」

 厳しい表情で、茂蔵おじちゃんが話を打ち切った。


(…多分、ずっと顔に出てたんだろうな)
 切羽詰って、ある意味自暴自棄になりかけていた自分が。
(そうよね。少年を失ってしまえば、全てが水の泡だもんね)
 そう。少年、桑古木涼権には、倉成武になってもらわないといけない。最初から最後まで仲間であってもらわないと、目的そのものが潰えてしまう。
(目的と手段を、取り違えかけていたかな、私。やっぱり、茂蔵おじちゃんには勝てないや)
 少年は、文字通り武に心酔している。最初に、この計画を打ち明けたときも
『望むところだよ。僕は、武になりたいんだ』と目を輝かせて言っていた。
 武になりたくて、武を追い続けて、最後に武になる事を目標とし、この17年を駆けようとする少年。どうやらココの事が一番好きみたいだけど、だからといって目前の私だって守るべき対象だろうから。   
 仮に私が女の武器を使って目前の目的を達しても、少年がこの事実を知れば絶望するだろう。彼にとっての武とは、守るべきものを全て守り抜いて見せる、男の中の男だから。…内緒だけど、武は私が惚れた男だし。
 そして少年が壊れてしまえば、計画は瓦解する。
 ここまで茂蔵おじちゃんが知っているとは思えないけど…結果的に、この事を忘れかけていた私を引きずり戻してくれた事は、事実。
 それに凄くきつい事を言ってはいたけど、結局結論は簡単。『自分を大事にしなさい』に行き着く。実の娘並に思って心配してくれたのは、正直嬉しい。


「ゆ〜う〜?」
「優さーん?」


「あひゃあーーーーーーーーーー!!!」


「きゃっ!」
「きゃうん!」


 自分を見つめていた二対の目に驚いて思わず大声を上げてしまった私に、その二対の目の持ち主もまた驚いて、二人仲良く尻餅を付いてしまっている。

「何よお、酷いじゃないの、優」
「優さーん、ひどいよー!」

「って、ごめんごめん。いずみさんもくるみちゃんも、来てたんだ」
 昔ここに通い詰めていた頃何度も会ったことのある、茂蔵おじちゃんの娘さん。いずみさんが私より2つ年上で、くるみちゃんが3つ年下。いつ見ても仲のいい姉妹だ。
…ただ、誠の言葉がある事実を暗示していた。正直、誤りであってほしい。




         『Cure-Virus P. Carrier』

…でも、L-MRIが示したくるみちゃんの診断結果は、誠の言葉が暗示する事実を証明しただけだった。




「…やっぱり、あの『永遠の7日間』は、実際にあったのね」
 いずみさんが、納得顔で自身のL-MRIの検査結果をしげしげと見る。

         『Cure-Virus P. Carrier』

 どこが「パーフェクトキュレイが珍しい」のよ。私を含めて、この場に実に6人のパーフェクトキュレイが集合しているじゃない。つぐみも嘘の知識を教えないでほしいわ。

…って、ちょっと待って。それっておかしいじゃない!

 私は、初めて最初のL-MRIのスキャン結果に感じた違和感の正体に気づいた。
 私がキュレイウィルスに感染してから、3年強の月日が経った。…でも、人間の体の細胞が全部入れ替わるのには最低5年掛かるはず。だから、私が仮にキュレイの素養に優れていたとしても。

 パーフェクトキュレイだけは、ありえない。
 
 何かが、違う。私は、何かを勘違いしている。
 勘違いの理由は?勘違いしているとすれば、何を?


「お父さん、解析できた。…優春、喜んで。隙があるの」
 そんな私の思考を、嬉しそうな遙の声が中断した。





 すっかり遊び疲れて眠ってしまったユウを室内に付属していた簡易防音装置つきの小児用ベッドに寝かせてから、私は皆を振り返った。
 優夏もユウと一緒にL-MRI室に戻ってきていたから、これで全員が揃った事になる。



「キュレイウィルス由来蛋白質同時測定検査法?」
 遙が皆に教えた、このL-MRIの検査プログラム名がこれ。
 なんか、凄く難しい言葉。一体何なんだろう。

「まず、最初に。このL-MRI用検査プログラムは、実はキュレイウィルスを検出する能力がない」
「はい?」
 遙に代わって説明する茂蔵おじちゃんの第一声に、思わず私は鸚鵡返しに声を出してしまった。
「具体的に言うと、このシステムのキュレイか否かの判定は、キュレイウィルスではなく、他のものを検出する事で行っているんだ。
 遙が特定したのは、2つの蛋白質−キュレイウィルスそのものではない−の特定用に組まれたプログラム。どうやら、キュレイウィルスに感染した細胞は、この蛋白質を産生する性格があるらしい。
 だから、『Cure-Virus P. Carrier』という表示は、『キュレイウィルス・パーフェクトキャリア』…完全に全細胞がキュレイ細胞化した、キュレイウィルス保菌者という意味じゃない。
『キュレイウィルス・プロテインキャリア』…キュレイウィルス由来蛋白質保持者という意味だ」
「義親父、質問いいか?」
「どうした、誠君?」
「どうして、その蛋白質がキュレイウィルスじゃないって分かるんだ」
 うん。私もさっきの説明を聞いていて疑問に思っていたわ。
「単純さ。優ちゃんによると、キュレイウィルスは血液感染するらしい。だけど、検査結果からは優ちゃんの血液中に殆ど例の二つの蛋白質は存在しなかったんだ」
 茂蔵おじちゃんが説明してくれる。
「なるほど」
なるほど。思わず誠とシンクロ。実に分かりやすい理由だ。
「キュレイ化の進行は、時間に比例していると考えられる。そして二つの蛋白質の分布には面白い特徴がある。
 仮称としてP1とP2という記号を付けたんだが…というより、システム内でそう変数表示されている。P2は体の中に大きな塊になって点在していて、P1はそれを覆うような形で膜状に存在している。そして、明確に二つは分離されていて、混じっている部分は殆どない。
 P2の存在する領域は優ちゃんが一番大きい…というかダントツだ。他は似たり寄ったり。これが意味する事はつまり…」
「P2の存在している部分は、キュレイ化した部分という事ね」
 私が、答えることにした。
「多分、そうだろう。そして多分P1は、キュレイ細胞化を促進するための特殊な蛋白質。だから、P2の周辺領域にある」
…確かに、そう考えるとつじつまが合うわね。

「それでは、現状の結論を言わせて貰うよ。
 
 どうやら、ライプリヒ製薬はキュレイウィルスそのものの正体や検出技術を完全には掴んでいないか、掴んでいても極一部が独占して部外秘にしている状態だ。
 だが、キュレイのサンプルの収集作業はできれば行いたい。だから、研究所用のL-MRIに、キュレイウィルスの情報を仕込む代わりにキュレイ細胞しか産出しない特別な蛋白質を測定するプログラムを仕込んだ。この蛋白質を持つのはキュレイ、あと真偽は不明だが考えられるのがキュレイ周辺種。だから、これを測定できればキュレイ種を特定できる…後は実験体扱いという訳だ。
 全く持って酷い話だよ。

 だが、隙は十分だ。
 これはウィルスではなく、蛋白質を検出するプログラム。だから、この蛋白質を分解する薬品か検出を妨害できる薬品を注射用アンプルとして調合できれば、検知プログラムには引っかからない。蛋白質の性質上、完全に分解されずとも一部でいいから分解されるものでいい。少しでも差異が出れば、この検知プログラムはネガティブ、即ち陰性と出るようになっているから。
…理由は分かるが。あんまり感度を上げすぎて、非キュレイを拘束して人体実験でもしたらえらい事だろうから。
 全く、こういう事ばかりには良く頭が回る連中だ。
 まあ、不幸中の幸いだ。これがキュレイウィルス検知プログラムだったら手の付けようが無いところだったが。…よかったね、優ちゃん」

 茂蔵おじちゃんの言葉に、私はぶんぶんと頭を縦に何度も振って頷いた。

「それじゃ、私と遙、そして樋口君夫妻 ―遙の養父母で、信頼の置ける私の右腕の一人だ― で、早速薬品の調合を始めるよ。様々な状況に対応できるように、出来るだけ多くのバリエーションを作っておこう。…どうせ、他の皆も使うときが来るかもしれないからね。
 あと、偽装として優ちゃんの心臓病は完全には治癒していない事にしてカルテと診断書を作っておくから。今度作る薬品は、低確率で予測される発作の予防及び緩解用の薬という事になる」

「うん…ありがとう…茂蔵…おじちゃん…」
…本当に、茂蔵おじちゃんには、どう感謝したらいいんだろう。私は、流れ出す涙を止める事が出来なかった。
 出来る事なら所長室の時みたいに、抱きついて号泣したいくらいだったけど。流石にこの場では、それはしたくても出来なかった。






 茂蔵おじちゃんが、皆にキュレイウィルスについていろいろレクチャーしている。
 私はその横で、すぐ傍の小児用ベッドで寝ているユウの様子を窺っていた。

「うーん…うーん…」
ユウが寝苦しそうに寝返りを打っている。どうやら寝汗をかいて、気持ち悪いみたいだ。
「しょうがないなあ。拭いてあげなきゃ」
 そう独り言を呟きながら、肌身離さず持っている小型ポーチ―小型と言っても、意外と中身が多く入るお気に入りのやつだ―からタオルを取り出そうとして。

 からん…

 その品は、小さな音を響かせて小型ポーチから床に落ち、そのままコロコロと転がって、いずみさんの足元で止まった。
「…なにかしら?」
 いずみさんが、拾い上げる。私は、それに気付くのが僅かに遅れた。
「茜ヶ崎 空…空システム…システムフルバックアップ?」

(し、しまった!)
 ピピが私に託したテラバイトディスク。それを私は二つ複製し(これを複製する時の苦労は、それこそ思い出したくも無いくらいだった)、少年と一つずつ持っている。
 オリジナルはピピの体の中。そういう訳で、あのロボット犬のメンテナンスも私がするハメになっている。

「返して!」

 思わずいずみさんに飛びかかりかけた私と、いずみさんの間に

「落ち着くんだ、優春!」
 
 誠が割り込んで、私を止めた。

「落ち着きなさい、優ちゃん。
 もう、私達は運命共同体…一つの家族みたいなものだ。もしかしたら、力になれるかもしれない。だから、話してくれないか?」
 茂蔵おじちゃんに諭され、私は渋々と事情を説明する事にした。


「…っていう事なのよ」
 私が、長い説明を終える。正直、キュレイウィルスの件と比較すると優先度が低い話。少なくとも、各々自身に関係があるわけではない。あくまで、私が思い入れているだけなのだ。
…と思ったのだが、思いっきり間違えていた。

 いずみさんの目が、文字通り燃えていた。
 それこそ、大リー○ボ○ル3号が投げられたり、「滝沢○○」という技の数々がメドレーコンボで出てきそうなくらいの勢いで。

「ねえ、優春。そのテラバイトディスクって、一枚しかないのかしら」
 とても落ち着いた、優しい声。
…私は良く知っている。こういう声を出すときのいずみさんの事を。こうなってしまうと、もう逃げられない。

 いずみさんは、私が知っている人間の中で二番目に優秀な人間だと信じている。一番が、茂蔵おじちゃん。
 なにしろ、いずみさんは22歳で大学教授になった人なんだから。私がここに通っていた頃でさえ既に博士課程で、教授たちがこぞって受け持ちを避けるとまで言われた俊英。…自分より数ランク上の博士論文を目前で書かれれば、そりゃ私が教授だったとしても嫌に違いない。
 それだけならまだしも、いずみさんの専攻は心理学。だから、ターゲットロックオン状態で、いずみさんの目前に居る今の状況下では…どうあがいても逃亡不可。

「いいえ、違いますよ」
 私は抵抗する事を諦めた。抵抗したところで、ストレス溜める分だけ損だ。
「それじゃ、このテラバイトディスク、貸してくれないかしら。話を聞いたところじゃ、優春が持っていても何にもならないと思うのよ」
…全くもってその通りです、いずみさん。本当に、隙も何もない論理だった。
「それに、多分私のやりたい事は優春の得になると思うわよ。
 まず一つ目は、このシステムから派生する別のAIを開発する事。…あらら、これは直接的には得しないわね。
 でももう一つは、絶対優春ちゃんにとっていい事だと思うんだけどなあ♪」
「…一体、何なんですか」
 これがいずみさんの手だと分かっていても、こう返すしかない。あーあ。どうしようもないなあ。
「この子…茜ヶ崎空さんに、いつか人間と同等の体をプレゼントしてあげたいんだけど。ダメ?」


 結局、完全にいずみさんのペースに乗せられて。私の空システムは、いずみさんに託される事となった。





 2037年9月20日(日) 午後3時00分 田中研究所3F 所長室



「…という訳。
 結局その日は研究所に泊まって、次の日に私とユウは家に帰ったわ。
 一週間後。茂蔵おじちゃんから託されたアンプルとカプセル剤、そして診断書が入った小包を、直接誠が届けに来たの。
 その時、誠が言った言葉は」

 優が、そこで言葉を止めた。

「敵の敵は、味方だよ。君の唯一の同志にも、そう伝えてくれないか」

 誠が、低い声で、だがはっきりとそう言った。

「涼権。あんたが命がけで手に入れた一枚のテラバイトディスク。
 それが、守野遺伝子学研究所という組織及び守野一族という味方を私達に与え、そして空の有機ボディと月読システムの開発のきっかけをもたらした。
 だからこれは、全部あんたの最初の戦果なのよ」
 優が、俺の目を真っ直ぐに見て、言い切る。…これが、昼飯抜きのぶっ続けの昔話の終わり。


…俺、何て言えばいいんだ?


 流石に言葉が浮かんでこない。そんな俺の目を、じーっと、優は真っ直ぐに見つめ続けている。


『御免なさい、優さん』
 そんな俺を救ったのが、彼方の声のインターフォン。
『沙羅が、さっき目を覚ましたんだ。優さんに、自分の事を聞きたいって』

「…しょうがないか。ちょっとだけ様子を見てくるわ。
 いきなり孤立無援状態で、根拠の無い優しい嘘を吐けと言っても無理あるからね」
 文字通り、プイッという感じで優の奴は俺から視線を外し、部屋から出て行った。ずかずかと足音立てて。

「くすくすくす」
「ふっふっふっ」

「…何故笑う」
 誠と遙が、俺と閉まった自動ドアを見比べて、くすくす笑っている。

「いや、悪い悪い…さて、俺の義親父の優春への助言。どう思うかい?」

…いきなり核心、突いてきやがった。

「交渉技術論や諜報戦略論から言わせて貰えば、噴飯モノだな。そんなに世の中上手くいくんなら、不正規戦部隊や特殊機関だの諜報機関だのは存在してねえぜ」
「それで?」
「だが、そんな甘っちょろい論理こそ正に正解だ。
 未熟だった俺にさえ、あの頃の優が危なっかしかったって事だけは分かっていたさ。

 優は吹っ切りさえすれば何でも出来る人間だ。だからこそ、総司令官がやったらいけない仕事までやりかねない。兵士の仕事をすることを、自分の全てを賭ける事と勘違いしてな。

 だから、あの助言がなかったなら多分今はねえよ。優は、多分つぐみの二の舞。俺なんか実験用モルモット一直線だったろうな。
 あのアンプルを貰った時以降、本当に優は凛としてずっと未来だけを向いていた。だから、同志達は安心して優に指揮を委ねられた。…よく人がまとまるには目的が必要だというが、それは片手落ちだ。
 目的は、人を集めるためのもの。集まった人間を統率する核があってこそ、人は集団としての力を発揮できる。そして、その核―優―は、絶対に自分の身辺を汚しちゃいけないのさ。
  …だが、肝心の人集めに使える手札が余りに俺達には欠けていてね。そいつは、まともな交渉じゃ簡単には集められない」
 …そう。ほとんどの人物はここで二律背反に苦しみ、大抵失敗してしまう。
 俺は、そんな末路を優に辿ってもらう事だけは、死んでもイヤだった。

「…だから、自ら闇に堕ちる役を引き受けたって訳だ」
「ああ。だが後悔はしても恨みはしないし、まして決断を否定するなど考えた事も無い。光には、闇が従う。あらゆる不正規行為で手札と情報を集め、資金と物資を整える。…優が必要とする分だけな。俺が使えば敵を増やすだけだが、優があんたの親父の言うとおりの使い方をすれば…それはいい結果を生み出すのさ」
「…よく言うよ。完全に闇に堕ちることは無かったくせに。
 女性を道具として使う事と、クスリに手を出す事。一般人を巻き込むこと。これだけは絶対に手を出さなかった。違うか?」
「当たり前だろうが!一般市民やか弱い女を喰い物にして目的を達するんじゃ、ライプリヒと一緒じゃねえか。そこまでして優が目的を達しても、まともな人間は誰も優に味方してはくれなくなる。…結局、優がライプリヒの位置に取って代わるだけだと思われてな。
 そんな事を俺が出来るわけねえだろう!誠、お前、俺だけじゃなくて優まで侮辱する気か?」
 俺は、本気で腹を立てていた。

「ほら、闇に堕ちていねえだろ。目的と手段。こいつをお前さんは混同していない。
 力は、正しい目的に使う為に得るべきものだ。だからこそ、目的を汚す力の得方はしてはいけない。
 真に闇に堕ちた連中は、そいつを忘れる。力を得れば得ただけ強い。目的を忘れ、簡単で強力な力を得られる手段を選ぶ…後は分かるだろ?お前さん、そういう連中からずっと優春の奴を守り続けてたんだから」
 …こういう時、頭のいいヤツってのは嫌いになる。急所を突かれて、反論一つ出来ないから。

「桑古木。お前さんは闇に堕ちてるんじゃなくて、闇の中にぶら下がっているだけだ。優春という命綱つけてな。だから、その綱離して堕ちてもらうのは困るんだ。…彼方の為にも、な」

「はあ?」

 …一番、訳の分からん話になっちまった。なんでここに、彼方の名前が出てくるんだ?

「まだ、分からんか。
 お前さんが倉成武を理想として仰ぎ、倉成武になることを夢見たように。




              彼方は桑古木涼権を理想として仰ぎ、桑古木涼権になることを夢見てるんだよ。


 

 物好きかもしれないが、俺の息子は一人の漢としてそう心に決めた。

 『僕は桑古木さんのような強い男になって、沙羅をずっと守りたいんだ』

 はっきり、そう言い放ちやがった。真っ直ぐな、澄んだ目をしてな。

 親としちゃ、そんな息子の目標に闇に堕ちてもらっちゃ迷惑千万なんだ。
 取り敢えずウチの息子の嫁さん候補とその兄貴を死神から取り返すまでは、理想の姿を貫き通してもらうぞ。そうしないと、死神には勝てんからな」
 そう言って、誠はニヤリと笑う。

 …負けだ。完全に負けだな。ここまで言われちゃ、俺も引き下がれねえ。
(それに、巨大な借りがあるしな。…俺がぶら下がっているもう一本の命綱。そいつは誠、お前がつけたんだろうがよ)

「ふん。そこまで言うなら、彼方を俺の色に染めてやる。グレて反抗する嫌な息子になったなんぞと言われても、俺は責任持てんからな」

 完全な負け惜しみだと知りつつも、俺は強がって見せた。




「で、具体的にどうするんだ?」

 暫く、悪言雑言を応酬した後。俺は遂に踏み込むことにした。

「優春が帰ってきてから、細部を詰めるが。朝一番依頼した人員の人選。まずはそいつだ。
 と言っても、お前さんと優春の事だ。既に人選は決まってるんだろ?」
「ああ。とっておきの切り札が二組。誠の所に預けていた四人だ」
「…当然そう来ると思って、昨日のうちにこっちへ来るよう手配しておいた。
 確かに彼らなら多くのスタッフをまとめる力量を持っているし…絶対に諦めない。沙羅ちゃんとホクトくんを救うためなら、自分の全てを一点賭けすることに一切躊躇はしないはずだ」
「分かっているんなら、ハナっから聞くんじゃねえよ…あとは?」
「ふかふかのベッドと美味い飯。人間、体調が悪いときに碌な智恵は出ない」

…ふっ。こういう所は嫌いになれないな。

「と、いう事は…」

「宣戦布告は、明日だ。
 そのつもりで、全てをピークに持っていってくれ。死神が降伏して逃げ去るまでの長丁場、指揮官の力量不足で戦線維持できませんでしたなんて言い訳は一切聞かないからな、桑古木涼権」

「ふん。誰に言っていると思っている。そっちこそ、戦略ミスしたから撤退しますなんて泣き言言ったら承知しねえぞ、石原誠」

 俺と誠が、テーブルをはさんで睨み合う。

「ふっ」
「ふっ」

 そのまま、俺達はにやりと笑い、握手を交わす。




                            「「宜しく、我が戦友よ」」




                                     ―To Be Continue Next Day−
後  書


 「サマータイムデイドリームス」で書く事が出来なかった、優春とN7メンバーの馴れ初め。同時に、優春と守野博士の絆を書いてみました。
 
 守野博士と優春の関係は、原作本編の記載を元に、親子そのもの(やや、優春は割り切れてませんが)として書きました。「血は繋がっていないが、4人目の娘だよ」という言葉が、全てです。

 守野博士が優に説いた論理は、総括的にはかなり偏ってます。ですが、これが本来総大将のあるべき姿だと思っています。凛として前を向き、戦略をもって勝利する。部下はそれを支え、総大将を汚さぬようにしながら自身は汚れ仕事をこなす。それが本来の軍隊や組織のありようです。

 悪の組織が滅びた場合に賞賛されるのは、自分が正義の味方の時だけです。悪の組織が悪の組織を滅ぼしてもだれも賞賛せず、流血や向こう傷の非を鳴らされるだけでしょうから。故に優春には光当たる位置に踏みとどまってもらいました。

 …実際、元特務機関や不正規部隊のトップが牛耳っている国って、たいていロクでもない国になってますからね。どの国とは言いませんが。



 次が、事実上、私のキュレイ解釈の最後の回になります。いよいよ、第二部終幕まであと3回です。

次回題名は「Cure Cure」…あなたは、どのようにこれを読みますか?


2006年6月11日 あんくん


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