未来へ続く夢の道
−本編17 決断−

                              あんくん



〜 沙羅 〜






 2037年9月22日(火)午前10時17分 倉成家 沙羅の部屋




 まどろみと覚醒を繰り返しゆっくりと目が覚めていく。

 沙羅が、自然に目を覚ました時。すでに時計は10時を軽く回っていた。


(どう見ても、今日の講義は間に合わないなあ…今日は自主休講にしてもいいよね)

 時計の示す時間にため息を吐きながら、半分眠ったままの頭脳で考えを巡らす。

(そういえば他のみんなって、今回の事どう考えてるのかな?)

 どうせ、今更大学にいってもしょうがないし。そう考えた沙羅は、今日は別の場所に出かけることにした。





 2037年9月22日(火)午前11時47分 田中研究所所長室



「おじゃまするよ…」
 小さくお辞儀をして、ゆっくりと室内に入る。
「あら、珍しいですね。沙羅さんがここに顔を出すなんて」
 所長室のデスクに腰掛けて書類を見ていた空が沙羅を認めて声を掛ける。
「あれ、空だけなんだ。優さんはどうしたの?」
 不思議そうに沙羅が尋ねる。
「優さんは、大会議室で打ち合わせ中です。連休を挟む中日ですから、仕事関係がいろいろお有りみたいで。
 そういう事で、私が代理として書類決裁をおおせつかったという訳です。大会議室の状況は環境モニターを通じてモニタリングできますが、書類の閲覧はここでしか出来ませんから」
 そう言って、空はいつもの艶やかな笑みを浮かべた。



 柔らかい紅茶の香りが部屋に満ちていく。
「お疲れみたいでしたから、あっさり目にセイロン葉のレモンティーにしてみました。いかがですか?」
「うん、とっても美味しいよ。流石だね、空もココちゃんも。
 沙羅はこういうのはダメだから。もっとも彼方ちゃんもダメみたいだから、勝負にはならないんだけどね」
「ふふふ、光栄です。最近ココちゃんの上達が凄いものですから、私も負けないようにいろいろ試しているんですよ」
 ゆったりした雰囲気の中で、紅茶を楽しむ二人。

「空。聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「私に答えられることでしたら、よろしいですよ」
 真剣な沙羅を前にして、それでもなおいつもの微笑を絶やさずに空は姿勢を正した。


「私は、沙羅さんの決断を誘導する発言は出来ません」
 
  キュレイかサピエンスの選択の件について、助言を求めた沙羅に対する空の応え。

 顔に浮かぶのは微笑みでも、紡がれる言葉は決然としたもの。
 唖然として、口を開いたまま硬直する沙羅。
 そんな沙羅を見ながら、空は微笑を少し変化させた。大人の笑みというよりも…母親の笑み。つぐみが時折見せる笑顔。
「その代わりといっては何ですが。私の存在理由―沙羅さん流ですと『生きる意味』についてなら、お話しすることが出来ます。それで如何でしょうか?」
「うん。できればお願いするでござるよ」
 空が突然言い出した提案に、興味を抱いたのか沙羅が身を乗り出す。
「私は、どちらかといえばキュレイに近い存在という事になります。メンテナンスさえしっかりすれば半永久的な寿命を有しますし、記憶も知識もメモリーの許す限りのレベルであれば全て蓄積する事が可能です。
 そしてもう一つ。私はAI―人工知能。人間により、用途を与えられて生み出された存在です。それ故に、生まれながらにして使命を背負っています。その点もキュレイに共通します。理由は異なるかもしれませんが」
「ふむふむ」
「ですが。それだけでは、ただのハードウェアの制御機構に過ぎません。感情という人間の持つ制御機構を応用した機械にしかなれないのです。
 最初の私も、まさにそうでした。しかしあるきっかけから、それを脱する事になりました」
「………パパ?」
「はい、その通りです。多分、つぐみさんからお聞きになっておられると思います。つぐみさんにとっては、ある意味では私は潜在的な敵という事になりますね」
「そこまで言う?」
「ええ。しかし、つぐみさんは勘違いなさっておられます。私の存在は、つぐみさんの立場である『妻』を脅かす事は有り得ないんですよ」
「なんで?」
「私は、女性型のAIとして設計されて感情制御機構を与えられ、倉成さん―やはり、この呼び方が私には一番合うみたいです―に出会って女性としての感情そのものに目覚めました。
 ですが、一番肝心な要素…『人間の女性』の機能を私は持つことは叶わないですし、それに起因する感情も持つことは出来ないのです」
「…御免。沙羅、なんか頭がこんがらがってきちゃったよ」
「そうですか。ならば、ちょっと際どいですけれども分かりやすい表現を致しましょう。
 私は子供を生む機能も、その為の本能的行為を誘導する感情―性欲およびそれに直結する意味での愛欲ですね―も有しませんし、肝心の性的行為そのものも実行できません。そして子供の父親や自身の伴侶を求める本能に起因する独占欲というものも、実は意外と薄いんですよ。…もっとも嫉妬もしますから、皆無には程遠いのですが。
 全てを壊してまで愛する相手を奪い取ろうとするような感情は残念ながら抱けません。
 結局、私は『人間の女性』の根本を欠いた存在。精神が満足できるのならば、肉体的なつながりや法的な立場の裏づけを必要としないのです。
 故に、精神の繋がりを共有し一部であろうともパートナーとして共に在れるのならば、『人間の女性』である伴侶を他に有してもらっていても構わないんです」
「結局、空は何を言いたいのかなあ?だんだん『空の生きる理由』に程遠くなってきてるんだけど」
「ふふふ。時たま沙羅さんって鈍くなる時がありますね。
 私は待っているんですよ。倉成さんをパートナーにする、その時を。プライベートのパートナーの地位はつぐみさんのものですけど、それ以外のパートナーになら私はなれるんです。
 今はまだその時ではないですけど。ですがこういう場合に私の特性―AIであるが故の永遠性―は有利ですね。時が来るまで待ち続けても、この身が朽ち果てる事は有りませんから。
 それまでいろいろと仕込みをしながら、倉成さんの隣にパートナーとして立てる日を待ち続ける。それが、私の『生きる理由』なんです」
「………パパの娘としては、とても複雑な心境なのでござるが」
 興味から困惑、次いで混乱へ。話が進むにつれて目まぐるしく変わる沙羅の表情と合いの手に合わせて、空もその微笑を最初の母親のそれから微妙に変化させつつ説明を加えていく。

「ここから先は、乙女の秘密ですから。沙羅さんには話すことはできません。

 ですが、大なり小なり、キュレイという存在はこういう側面を持ち合わせています。
 寿命という概念から開放されたが故に、長い時間をかけて実現する事を『生きる理由』にしているものなのです。見果てぬ夢や、一代では成し遂げられないような事を。
 そして…そんな存在に自身の人生を重ねることで、結果的に同じ夢を見る人々もまた多く存在します。
 これもまた、長い年月の果ての夢を『生きる理由』としていると言って良いのかもしれません。伴侶と共に夢を追うわけですから。

 覚えておいて下さい。キュレイとは、こういう存在だという事を」

 最後にいつもの大人の笑みに戻って、空は話を締めくくった。

「あ、そうだ。久遠ちゃんの話も聞いてみたらどうでしょうか。あの子の感情システムは私とはかなり異なる制御系を有していますので、私とは別の側面から見た話も聞けるんじゃないでしょうか?」
 この言葉を付け加えて。




 2037年9月22日(火)午後 0時17分 田中研究所3F 中央電算制御室



「あれ、沙羅お姉さま。今日は大学じゃないんですかあ?」
 沙羅の本拠地、中央電算制御室。オペレータ席に行儀悪く腰掛けていた久遠が沙羅を認めて
少し驚いたように声を上げた。
「うーん。ちょっと今日は自主休講なんだ。久遠に聞きたいことがあって」
「珍しいですねえ、久遠に話なんて」

「それはもう、涼権さまをゲットすることが全てですよう!」
「聞いた沙羅が馬鹿だったでござるよ………」
「ちょっと、その発言は沙羅お姉さまでもあんまりです!」
 予想を一ミリも外さない久遠の返事に頭を抱える沙羅と、その反応にむくれる久遠。
「そんな事を仰るのなら、久遠は何もお話しませんよーだっ!!!」
 あかんべをする久遠。
「ごめんごめん。沙羅が悪かったから」
「分かってくれればいいんですよ、まったくう!」
 沙羅が笑いながら謝って、やっと久遠は機嫌を直したのであった。


「久遠が沙羅お姉さまにアドバイスできることですよねえ…一つだけならあります。
 良く『目的の為に手段を選ばず』って言いますけど。私の場合は『目的の為に手段を選ぶ』ですね。ここは大切じゃないかって思ってるです」
「へえ…面白い事言うよね、久遠は。確かに、優さんと桑古木さん以外を困らせるような事を久遠はしないよね」
「はいですの。そこだけは気をつけてますから。
 確かに久遠は空お姉さまの妹ですが、精神アルゴリズムの構成はずっとサピエンス寄りなんです。
 空システムの2号機である私―茜ヶ崎久遠は、新たな精神制御デバイスのテストベッドも兼ねています。そんな私に、最後に追加されたデバイスがあるんですが…これがまた訳ありでして。他の量産型には採用されなかったんですよ」
「えっと、『ミラージュ・デバイス』だったっけ」
 空システムのメンテナンスも行っている沙羅は、久遠の言っているデバイスの名前だけは知っていた。
「はい、そうですの。
 別名『妄想デバイス』。自身のボディの有する性能を無視した前提下の行動をシュミレートし、想像するデバイスです。これにより、AIの一番の苦手分野である『創造性』と『感情のゆらぎ』の分野において、久遠は大幅な進化を遂げました。
 これまでのAIは、自身のスペック内で最大のパフォーマンスを発揮するように設計されています。それ故にその枠をはみ出る事を前提とした思考や判断というものが出来なかったんです。空お姉さまも、この部分に関しては超えることが出来ませんでした。
 空お姉さまが沙羅お姉さまにお話した事も、これを裏づけてるですよね?
 あくまで『一人の人間』としてではなく『一人の女性型AI』として、倉成武さんのパートナーとしての立ち位置を探してらっしゃいますから。空お姉さまは」
 余りに進展なさ過ぎてやきもきしてますよお、と笑いながら久遠が説明する。
「デバイス『ミラージュ』は、特定の発展を前提として自身の行動をシステム内でのみシュミレートしてメインフレームにフィードバックするのです。このメカニズムが人間の『白昼夢』や『妄想』の仕組みに良く似ているので、『妄想デバイス』の別名があるわけですの。
 ですので久遠が夢見る未来の自分の中には、現在の自分に装備されていない数多の機能が存在しています。いままでのAIでは有り得ない革新的な事なんです、これは」 
「へえー、すごいんだあ…なんで妹さんたちにそれを装備しなかったの?」
 想像以上に凄いらしいデバイスが、なぜ久遠のワンオフになったのか。コンピュータに詳しい沙羅にとって興味を惹く内容であった。
「それじゃあ、沙羅お姉さまにお聞きします。『キュレイシンドローム』の定義って、何ですか?」
「確か『特定の思い込みが高じて、結果的にそれが現実になる現象』って…えっ!」
「そうです。キュレイシンドロームが現実にすることは、現状ではあり得ない事。普通、それを『妄想』と言うんです。
 別の言葉を使用するとこうなります。
『キュレイシンドロームとは、脳内で構築した特定の妄想が結果的に現実に取って代わる現象』
 もし、久遠の妄想が現実になったとしたら…こう呼ばれるでしょうね。
                    
                      『ピグマリオンの奇跡』と。

 まあ、起こせるものなら久遠も起こしたいんですよ。だけど、不可能に近いらしいんですよねえ」
 似合わないため息を吐いてみせる。
「…空といい久遠といい、なんか回りくどい説明になるよね。やっぱり姉妹なんだ」
 そういえば空の説明もこんな感じだったなと思いながら、沙羅が正直に感想を吐露した。
「はい。久遠のメインフレームは空お姉さまの物がベースですから、やっぱり似ちゃうんですよねえ。
 久遠が単独のパーソナルトルーパー機体だったら大した問題にはならなかったんです、『ミラージュ』は。しかし、AIは目的のために生み出されるもの。これは久遠も例外ではありません。
 久遠はRTSの管制・制御を目的として生み出されました。空お姉さまのメインフレームから生み出されたAI間では『魂の双子』の関係が成立しています。少なくとも今のところは。
 同時に成り立ちが人間と異なるAIは、人間との間には『魂の双子』が成立しないと考えられています。受け入れる容器…脳とメインコンピュータですね…が違いすぎるために。
 ですがここに一人だけ、久遠という例外が居ます」

 いつもの、小悪魔的な目の光が消え。空と瓜二つの真剣な表情が久遠の顔を彩る。

「ここから先は、機密事項です。沙羅お姉さまを信じて、お話します。

 『ミラージュ』というデバイスを得て、妄想という手段でメインフレームの思考ルーティンを改変してきた久遠の思考方法は、現在ではほぼサピエンス種と同一水準にある。

 そういずみさまは久遠に仰いました。同時に、識域下には本来のメインフレームも保存されているからAI的な思考も可能な存在であると。
 そんな私ならば、サピエンスやキュレイとの間に『人格交換』が恐らく発現するだろうと。この可能性に所長さんや空お姉さまが気づいたから、妹弟や甥姪に当たるAI達には『ミラージュ』は搭載されなかったんです。………人類にはまだ早いと。
 元々RTSはライプリヒの技術。そのRTSの技術がなぜか『ミラージュ』の技術と共にキャビン研究所にかなり早い時期に漏洩してきたんです。所長さんや涼権さまはこの件には無関係だそうですから、別の人物が絡んでいると想像されますが。実はその提供元が誰であるか、その目的が何かもまったく分かっていないんです。
 ここから先は憶測なんですが。2011年の「ユウキドウ計画」…RTSの実証実験とキュレイシンドロームの発現実験。これから繋がった技術だと想定されています。
 最初の計画の失敗を受けて、別の角度から再度計画を練り直したんではないだろうかと。

 本来の「ユウキドウ計画」の最終目的は、過去に失われた存在を復活させることだったようです。
 仮に対象の精神のみを復活させるとしますね。その為には当然のように依代が必要になります。それをAIに求め、そのようなAIを生む為のモニター機構として『ミラージュ』が存在しているとしたら…そう考えると、全ては一本線に繋がるのですよ」
「…人間の魂が宿れるような思考ルーティンを持つコンピュータを生み出すために『ミラージュ』が存在する。そういうAIとRTSがセットで開発されるであろう場所―キャビン研究所―に確信犯で技術を渡した。久遠が言いたいのは、そういうことなんだよね?
 それってあんまりだよ!それじゃ、最初にその器に入っていたAIは新たに宿ってくる人間の魂と引き換えに…」
「…確実に死ぬ肉体に飛ばされ、そのまま死ぬですね。もし余命が残っているならば、そのような手段に訴えるはずがないですから。
 AIの中に残された魂は、新たな器―多分クローン体になるんでしょうね―が成長するまで眠らされ、依代がしかるべき年齢になった時点で人格交換で最終的な器へ移動する。そういう計画であったと想定されます」

「冗談じゃないよね。そこまでして、何になるというの?
 死すべき人間を救うのに、関係の無い二人の存在を犠牲にすることを最初から考えているなんて。最低だよ!!!」

 激怒。沙羅の顔は紅潮し、正に湯気を吹き上げんばかり。

「沙羅お姉さま。それが、精神を病むということなんです。だからあえてお話しました。
 沙羅お姉さまの病気の件、久遠も知っています」
 表情を消した、久遠の顔。
「!!!」
「沙羅お姉さまやホクトさんが置かれている状況は、『ユウキドウ計画』の対象者と大差ないんです。放っておけば、100%の死。既に死んでいるか、死んでいないかの差はあるとしてもです。
 目的の為に手段を選ばない、いかなる犠牲を払ってでも生き抜く。あるいは、いかなる犠牲を払ってでも取り返す。そういう考え方の先に、『ユウキドウ計画』は存在したんです。
 だから、あえてカマをかけさせてもらったんです。沙羅お姉さまの、生きる意味を。なぜ生きるのかを。それをちゃんと確認したかったんです。
 まず、『目的の為に手段を選ばない』って事自体が難しいんです。そういう考え方だと、いつの間にか目的そのものを見失って、手段が暴走してしまいます。
 仮に新たな『ユウキドウ計画』が成功して過去の存在が蘇ったとしても、その為に最初から2人の精神を犠牲にすると分かってしまえば…世間から攻撃され、こういう技術そのものが封印され…肝心の蘇った存在も処分の対象になりかねません。過去の非合法クローンがそうであったように。
 これが、典型的な『目的のために手段を選ばず、手段の為に目的を忘れてしまう』事なんです。
 『手段を選ぶ』為に常に目的を再認識する。これを続けているから、目的を見失わないで済んでいるんです、久遠は。もしこれを久遠が忘れ、涼権さまを手に入れる為に周辺に害を及ぼしたら…久遠は涼権さまから引き離された上で廃棄処分され、私の他のAIや所長さん、涼権さまにも迷惑をかける結末になるでしょう。

 『生きる為に生きる』のはいけないことなんですよ。そういう考えになってしまうと、行ってはならない方向に容易に行ってしまいます。生きるという妄執に捕らわれ、その為に他を踏みにじるのは当然と考えてしまうんです。そうなると生きる事の先にある肝心な『生きる理由』すら、平気で踏みにじってしまうんですよ。

 だからこそ、きちんと『生きる理由』とその先にあるものはちゃんと決めてから、選んでください。正しい夢を抱いて、その為に手段を選んでください。
 久遠は、沙羅お姉さまが大好きですから。だからこそ、道を誤らないでほしいんですの」
 言い終えた久遠が、ゆっくりと顔をあげ沙羅を見つめる。
 沙羅には、自身より幼い性格に設定されたはずの久遠の表情が成熟した大人のそれに見えた。

「………そっかあ。御免ね久遠、心配かけて。
 まだ、沙羅は完全に未来の事、考えている訳じゃ無いんだよ。誠さんから考え方は教わったけど、まだ悩んでいる段階なんだ。
 だけど久遠の心配しているような事にはならないよ、沙羅は。ちゃんとした『生きる理由』を見つけて、それを見据えて生きるんだから。
 だから安心してくれないかな、久遠」

 沙羅の答えに、久遠は満面の笑みを浮かべた。

 そしてそんな久遠の両手を、沙羅はやさしく握り締めた。




 2037年9月22日(火)午後 0時47分 田中研究所1F 大食堂内個室ブース



「沙羅!何でここにいるんだ?まだアルバイトの時間じゃねえんだが」

 大食堂脇にある、機密会話も可能なセキュリティの施された小さな個室ブース。
 そこで食事を取っていた桑古木は、予想しなかった来客を迎えていた。

「桑古木さん。ちょっと聞きたい事があるんだけど」



「俺の場合、なっちゃいけない代表格みたいなもんだ。…沙羅がどっちを選ぶにしたって、俺のようになってもらったら困る」

 桑古木の言葉は、完全な拒否と言えた。

「桑古木さん。そこまで言わなくてもいいと沙羅は思うんだけど」
 流石に、沙羅も鼻白んでいた。

「いや、実際の事を言ったまでだが。もっとも今の沙羅がこれで納得するとは思えねえから、別の話をしてやることにする。
 …沙羅。仮にサピエンスになるとして、そのあるべき姿ってのは想像できるか?」
 沙羅の表情を見て苦笑しながら桑古木は、別の話題を沙羅に投げかける。
「えっと、あるべき姿?つまり理想って事だよね?」
「ああ、そうだ。想像付くか?」
「………そういえば、沙羅って嫌な大人ばっかり見てきたから。サピエンスの大人のあるべき姿って言われてもピンとこないでござるよ」
 意外な話題だが。確かに沙羅は、そんな事を考えた事は一度も無かった。
「………灯台下暗し。一番身近に居るんだよ、典型的な理想のサピエンスっていう存在が。一体誰だと思う?」
 笑いをいつものおちゃらけ顔へと変えながら、桑古木が問う。

「…御免なさい。わかんないよ、沙羅は」
 暫し考えた後、沙羅は降参というように両手を挙げて見せた。

「全く、あきれたもんだ。…武とつぐみだ。この二人ほどサピエンス的な理想に近い存在はそうそうは居ないぞ?」
「パパとママァ!!!
 ちょっと桑古木さん!パパとママって、パーフェクトキュレイだよ?」
 あきれ果てたという表情で回答を出す桑古木。余りに無茶な答えに思わず桑古木に詰め寄る沙羅。

「考える向きを少し変えてみろ、沙羅。種族はキュレイでも、倉成家の暮らしぶりってのは完全無欠にサピエンスのそれなんだよ。
 特に、武は凄いよ。あの姿を見ていると、俺なんぞ一生努力してもあの領域には辿り着けないと思うからな」
「って、パパの何処が凄いんですか、桑古木さん?何処からどう見たって、普通のサラリーマンパパになっちゃってるじゃない。沙羅は正直、ちょっと幻滅している部分あるんだよ?」
 意外な桑古木の言葉に、沙羅は本音を出してしまった。

「おい。今の言葉、聞き捨てならんぞ?
 沙羅。仮に、彼方が突然お前の前にやってきて、『僕は貴方の息子です』って言ったとしたらどうする?すんなり自分が母親ですなんて態度で接する事が出来るか?」
 少しだけ目を細くして、桑古木が問いかける。
「無茶苦茶な例えだよね。
 出来る訳無いじゃない!会ったことも無い人間を家族として扱うなんて、すぐにできるわけが…!!!」

 勢いでまくし立てていた沙羅の言葉が、急停止する。

「ほらみろ。2034年のあの時、武は20年分の生活経験しか持っていない。実年齢が37歳だったとしても、事実上20歳の若者にしか過ぎなかったんだ。
 沙羅と武の経験年齢差は、沙羅と彼方のそれと一緒だ。いきなり4つしか違わない娘と息子が出来たんだ。俺の例えは、あの時の沙羅と武の関係を、そのまま沙羅と彼方に当てはめただけなんだよ。

 つぐみはとにかくとしてもだ。武にとって、ホクトと沙羅は血がつながっているだけの赤の他人だったんだよ、最初は。
 そんな武が、父親になるためにどれだけ影で血の滲む努力をして来たか。沙羅、お前さんわかってるのか?ただでさえ、家族4人を養うためにいきなりウチの研究所に就職して必死で仕事をしながらだぞ?つい数日前までは大学生活をしていた人間が、慣れない仕事をする。しかも背中に3人の家族の生活を背負ってだ。
 それだけでも凄いのによ。
 更に武は、ホクトと沙羅の『父親』になろうとしてお前さん達二人とふれあいの時間を持つ為にどんなに苦労していたか。お前さん達を理解し、父親として相応しい存在であろうとしてどれだけ悩み続けたか。

     『朝食と夕食は、家族全員で食べる』だったよな。沙羅の家の食事の掟は。

 あの掟は、つぐみが作ったものだって武から聞いた。例え強制的にでも家族全員が揃う場を作らないと、いつまで経ってもホクトと沙羅の事を自分達が知るきっかけが作れないし、その逆も然りだと。そう思ったんだろうな。
 親子っていうのは不思議なものでな。血が繋がっているからといって親子という訳じゃないし、逆に血が繋がっていなくても親子という場合もありうる。
 武やつぐみは、血の繋がりだけではなく心においてもホクトと沙羅の親になりたいと望んだんだ。

 そして親の最低限の義務というのは子供を危険から守る事。そして、その為に一番手っ取り早いのは…危険を呼び寄せない事と、そういう時の味方を作る事。
 その時分は外に出れなかったつぐみの代わりに、武は地域に溶け込もうと必死だったしな。自分の住む街の皆と和して敵を作らない。いざというときには最低でも敵に回らないように、できれば味方になって貰える様にと考えたんだ。
 その為には『特別』になっちゃいけないんだ。地域の人々とは、普通の人々なんだから。だから、武は
地域にあって最初は『普通の兄』、次いで『普通の父親』であろうとした。
…『普通のサラリーマンパパ』っていうのは、そういう努力の先にある。その姿に幻滅してるってのは、かなりいただけないぞ?」

 桑古木が言葉を重ねるにつれ、段々としゅんとしてしまう沙羅。
 
「まあ、憧れの父親は格好よくあってほしいって気持ちは分からんでもないけどな。
 だが、武とつぐみのこの姿こそが『サピエンスとして生きる』という事を表していると俺は思っているんだ」
 そんな沙羅の姿に、安心させるように笑い掛けながら桑古木は話を続ける。

「『サピエンスとして生きる』?」
 
 何がなんだか訳が分からなくなりかけながら、沙羅はとりあえず訊いてみる。

「ああ。サピエンスってのは、老いて死ぬ。だから、自身の存在の証を残すため子孫を産み育てる。その為には一人ぼっちではいられない。だから伴侶を得る。だが、二人で生きられるわけでもない。だから群れを作る。
 そんな群れが大きくなったのが、今の人間社会。サピエンスを選択したのなら、その中で生きなければならねえ。
 社会の歯車になりながら、自分の在り様は見失わない。子供達を守り、自身の伴侶を慈しみ、周りの人々と和して協力し合って生きていく。そして天寿を全うして、次世代に未来を託して死んでゆく。
 これが、サピエンスの本来の在り様だと思っている。まあ、古典的な考え方だって事は否定しないけどな。

 キュレイは、残念ながら違うぞ?
 サピエンスが既存の世界を守りながらそれを育てて発展させる存在なら、キュレイはサピエンスが届かない領域へ人類の世界を広げる為の存在。
 キュレイが子を産み、育てるのは志を同じくする仲間を増やすため。まだ子孫に未来を托すなんて余裕のある状態まで来てねえんだよ。
 だから外へ飛び立つべき存在なんだ、キュレイは。俺のさっき言ったようなサピエンス的生活をキュレイが過ごせるようになる時は…キュレイが世界を広げる役割を終えた時だ。
 その時は、『小町法』なんか無くてもキュレイとサピエンスが仲良くやって行けるようになっているさ。何年掛かるか判らねえけどな。

 だから今の武とつぐみとホクトと沙羅の在り様は、キュレイにとっては夢の未来を先取りした姿なんだ。
 例え一家族だけだとしても、キュレイとサピエンスが同じ場所で仲良く暮らせている。それがどれだけキュレイにとって喜ばしく、希望に満ち溢れた事なのか。多分、今の沙羅には解らんだろうな」

 いつの間にか、邪気が無かった笑いがいつものへらへら笑いに戻っている。

「だが、ゴールは一緒なんだよ。サピエンスになり、今の世界に包まれて未来を望むも良し。キュレイになって、少しでも早く全てのキュレイがサピエンスと一緒に生活できる未来を作る夢を追うも良し。そこは、まあ良く考えるこった」

 最後にぽんと軽く沙羅の頭に手を置いて。

 桑古木はくるりと踵を返し、ブースを後にした。





 2037年9月22日(火)午後 2時17分 田中研究所3F 所長室




「でもって答えは出なかった、と。そういう訳ね」
 所長席に座って頬杖をついた行儀悪い格好で、優はソファーの上で縮こまる沙羅を見ながらため息をついた。
「うん。確かに決めるのは沙羅なんだけど。
 でも、聞けば聞くほど訳が分からなくなってきちゃって」
「そりゃそうよ。みんながしているのは直接的な助言じゃないからね。あくまで判断材料。
 助言を求めるのは殊勝だけど。今回ばかりは答に誘導するわけにもいかないから。
 そういう訳だから、私の話も大した助言にはならないと思うわよ?それでもいいなら、少しだけ話してあげるけど…どうする?」
「………お願いします、優さん」
 沙羅は頭を下げた。

「OK、OK。それじゃ、簡潔に言ってあげるわ。
 沙羅も彼方も、状況を利用するのは上手でも状況を作るのはからっきしなのよ。典型的な臨機応変タイプね、あなた達」
「???」
「要するに世渡り上手って事。目の前の状況を上手に利用して、一番有利と思われる行動を取る。こういうタイプって、凄く賢く見えるのよね。
 だけど、このタイプって徹底して行動が受動的。まず観察してから行動を起こすから嫌でもそうなるの。自分から討って出て、状況そのものを自分向きに作り変えるという事が苦手なのよ。
 今回は臨機応変は通用しないから。幾ら観察しても対応しても、そもそもの現状が絶望的なわけだから、状況そのものを作っていかないとダメ。分かるでしょ?」
 口調とは裏腹に、表情は穏やか。そんな二律背反の姿を見せる優。
「うん。なんとなく言いたい事は分かるんだよ」
 自覚があるのか、反論もせずに沙羅はうなずいた。
「………いいえ、分かってないわね。
 いい?臨機応変っていうのはね、いきあたりばったりという事でもあるの。だからその場その場は上手くいっているように見えても、長い目で見ると大して前進してなかったりするのよねえ。
 だからこういうタイプって、進むべき道を見失って迷走することが多いの。周囲の状況に惑わされて」
「今の沙羅みたいに?」
 不安そうな表情。少しずつ話がネガティブな方向に動いてきて、沙羅の表情が陰っていく。
 そんな沙羅を優はまじまじと見ていたが、やがて。
「沙羅。貴女、今まで進む道を見失った事有るの?
 近くしか見えてなかろうが、誤った方向だろうが、夢のような遠い目標だろうが。善し悪しを別にしたならば、貴女は常に何かを見据えていたのは間違いないんじゃないの?ライプリヒに捕らわれ心を壊してしまっていた時ですら、貴女はそうだったじゃない。
 ホクトを奪回する為、ホクトを奪われない為、もう一度家族と共にある為、家族と共にある『優しい世界を守る』為、彼方をコテンパンにのしちゃう為…自分で羅針盤作って、それに向かって臨機応変に対処してきた。違うかしら?」
 表情を微笑みに変え、優は優しく問う。
「ええっと、そうだっけ?」
「ええ、そうよ。悩んでいるんじゃなくて悩んでいると思い込んでいるだけだからね、沙羅は。
 臨機応変に対処しつつ道を外さないってのはね、心の中に進む道を心得ないと出来ない事なのよ。
だから、答えはもう沙羅の中にあるの。どうしようかと考えて答えを生み出す必要なんてない。
 なまじっか無意識の内に作っちゃった目的に向かって臨機応変に立ち回っているものだから、肝心な自分の目的を表層意識で意識しないのよ。だから気づかない。

 悩むのではなく、気づきなさい。自分の心の奥深くに眠っている地図と羅針盤を。そうすれば、おのずと選択肢は見えてくるわよ。自分が『何のために生きるべきか』ってね。
 
…ただし、選択肢は一つとは限らない。多分、いくつも眠っているハズ。

 だから、選択肢を見つけ出してその中から『自分にとっての一番』を選び出し、その為にはキュレイとサピエンスのどちらがよりふさわしいか。そういう風に考えて選択しなさい。悩むとすればそこなんだからね?
 その前の段階で悩んだフリしたって答えなんか出ない。そこを勘違いしたらダメよーん?」
 
 いつの間に取り出したのか、古びたサインペンを振って見せながら。優は微笑を笑いに変えて沙羅を見た。

「さて。私の話はおしまいよ。邪魔になるから帰りなさい。
 考えなきゃ行けない事は山ほどあるだろうけど。まずは素直に自分の心を覗いてみなさい」
「有難う、優さん!」
 沙羅は笑って手を振って、所長室のドアの方へ身を翻す。
「お兄ちゃんの事だから、こんな状態でも多分大学に行ってるだろうし。迎えに行ってくるね!」
「はあ?ホクトならユウとデートだけど。誕生日なんだから自主休講も大目に見てるけどね」






         「な、な、なんですってぇーーーーーーーーー!!!」








 2037年9月22日(火)午後 8時17分 倉成家 沙羅の部屋




 結局あの後、優さんに『邪魔したら流石に私も怒るからね』と釘を刺された私は、大学に顔を出してみた。
 彼方ちゃんも、今日は大学に来ていないらしい。たまたま出遭った真幸さんが言うにはそうだ。事実、教授に聞いてもそうだったし。

 彼方ちゃんの事だ。もしかしたら私とお兄ちゃんの病気の事も知っているかもしれない。
 と言うより、誠さんと遙さんは彼方ちゃんのパパとママだから。知っていないほうがおかしいのかも知れないけど。

 まあ、今の私にはどうでもいいことだと思う。結局決めるのは私とお兄ちゃんなんだし、正直他の人に気を使う余裕なんて無いんだもん。
 …なのに何で大学に足を運ぼうなんて思ったのか、自分でも分からなかったけど。

 だから、私は今、家で待っている。お兄ちゃんが帰ってくるのを。

 優さんに言われた通りに考えると、私の場合は『お兄ちゃん』が一番に帰結するみたい。
 ライプリヒにお兄ちゃんを奪われて。Lemuでパパとママとお兄ちゃんを取り返して。
 そして、お兄ちゃんと一緒にいたくて頑張って。………だけど、今のお兄ちゃんにはなっきゅ先輩という人が居る。
 
 
 それでも今の私は、お兄ちゃんと話をして、お兄ちゃんの決断を知りたい。
 卑怯だって承知しているけど。そんなことしちゃいけないって分かっているけど。


 それでも、私はお兄ちゃんの決断と同じ決断をしたかった。

 少なくとも、私はそう望んでいると思い込んでいたかった。




 ベッドの上に座り込んだまま、どれくらいの時間が経っただろうか。

 私の視線の先で防犯用の小型制御盤が、玄関のドアロックが解除された事を表示した。





 2037年9月22日(火)午後10時17分 倉成家玄関



 部屋から廊下へ音も無く出て、そのまま玄関への曲り角を曲がろうとして。


「ホクト…一体どうしたって言うんだ。こんなにびしょぬれになってからに」
「何があったの。傘は持っていたでしょうに」


 パパとママの声に、慌てて廊下の角に身を潜める。そのまま、そおっと玄関を覗き見て。


(お、お兄ちゃん!?)

 全身ずぶぬれで、表情は真っ青。とてもデート帰りだなんて思えなかった。

「………」
 パパとママの問いかけにも、黙っているお兄ちゃん。
「とにかく。そんな姿じゃ風邪ひいちまう。
 つぐみ、風呂は沸いてるよな?すまんが俺とホクトの着替えとバスタオルを用意しておいてくれ。後のことは俺がなんとかする」
「…分かった。お願いするわ、武」
「任せろ。おら、とっとと上がって来い、ホクト」
 そのままパパはお兄ちゃんを引っ立てるようにして浴室へと連れて行ってしまった。



 とても声を掛けられる状態じゃなかった。だけど、『何かがあった』ことだけは確か。

 それはなっきゅ先輩に関係する事で、そして少なくともお兄ちゃんにとっては凶事。

 こう考えると、答えは限定される。



 喧嘩したんだ、多分。この一番大切な時期に。



 どういういきさつか知らないけど、お兄ちゃんとなっきゅ先輩が喧嘩した。それも、かなり酷い喧嘩を。そうでなきゃ、お兄ちゃんがあんな酷い表情で、雨に打たれて帰ってくるなんてありえない。
 なっきゅ先輩は、私達の病気のことを知らない。だから、今のお兄ちゃんを理解できない。多分そのせいですれ違って、大喧嘩したんだと思う。
 いつもなら、多少の喧嘩なんてすぐ仲直りしてしまう。今まではそうだった。

 でも、今はいつもじゃない。私とお兄ちゃんにとって人生を決める岐路に立っている、そんな大切な時。
 そんな大切な時に、なっきゅ先輩はお兄ちゃんの隣に居る事を放棄した。

………やっぱりなっきゅ先輩は、お兄ちゃんには相応しくない。本当に大切なときに、お兄ちゃんの傍にいて理解してあげられるのは私だけ。


 お兄ちゃんにとって、なっきゅ先輩は大切な恋人。

 私にとって、なっきゅ先輩は大切な先輩。

 それは当然の事なのに。なのに、なのに………



 私は、倉成沙羅は。




        心の中に沸き起こる暗い喜びを、押しとどめることができなかった。

        生まれて初めて、お兄ちゃんにとっての不幸を喜ぶ感情を抑えることを放棄した。



 そして、私の決意は定まった。


                    私は…ずっとお兄ちゃんの隣で、未来を歩む。



 後は………この決断をお兄ちゃんに告げるだけ。今は拙い。でもこの様子なら決定的なチャンスはすぐにやってくる。


 決心を胸に、私は自室へと踵を返す。


                          後は、待つだけだから。







 2037年9月23日(水祝)午後6時00分 倉成家 沙羅の部屋



 次に目が覚めた時、既に枕元の時計は午後6時を指していた。実に18時間以上眠っていた計算になる。確かに寝起きの悪い私だけど、ここまで長い時間眠った事はなかった。
(想像以上に、私の身体は弱っているのかも)
 認めたくは無いけれども、真実から逃げても何にもならない。真実を受け止めて、それでも生きる。その為には、まずお兄ちゃんの決断を待たないといけない。
 
 私はベッドから身を起こして、部屋に下りる。とりあえずシャワーを使って、次にご飯を食べる。それからお兄ちゃんと話そう。



 部屋のドアをそっと小さく開ける。
(お兄ちゃん?)
 お兄ちゃんが、部屋から出るところだった。
 あわててドアを開ける手を止め、隙間から覗き見る。お兄ちゃんは、着替えと洗面用具を持って浴室へ消えて行った。
(タイミング、悪いよね。お兄ちゃんが出るのを待たないと)
 多分シャワーだろうから。お兄ちゃんがシャワーを浴びる時間がどれ位かは見当がつく。そのまま私は部屋の中に戻って待つことにする。
  

 もう一回、部屋のドアをそっと開ける。今度は誰も居ない。
 ゆっくりと洗面用具を抱えて浴室へ向かう。足音を消して。途中ダイニングの前を通る時、お兄ちゃんの姿がちらりと見えた。


 ゆっくりとシャワーを浴び、髪と身体を丹念に洗う。
 それから浴室を出て、下したての下着と共にとっておきの服を身に着ける。私にとって、今日は勝負の日だ。朴念仁のお兄ちゃんが気がつくかどうか分からないけど、これは私にとっての意思表示。
 丹念に髪をドライヤーで乾かし、一番お気に入りのリボンで髪を止める。化粧はあえてしない。素のままの私で勝負したいから。 


 身づくろいを整えて更衣室兼洗面所を出た私は、


                    そのままの姿勢で硬直した。


 玄関先。視線の先にあるのはお兄ちゃんとママ。ぱりっとした一張羅のスーツをまとったお兄ちゃんの横顔。………今まで見たことの無い、きりっとした表情。
 ママの顔はいつも通り。

 一瞬の硬直。それが解けた瞬間。

 私は洗面所へ再び引っ込んだ。その場に居てはいけない。なぜか、そんな気がしたから。





 10分後。何食わぬ顔をして洗面所を出るなり、ママに出くわしてしまった。
「沙羅。ご飯が出来ているわ。ちゃんと食べないとダメよ」
「うん。分かった」

………食べた夕食の味は、全く覚えていない。






 2037年9月23日(水祝)午後11時00分 倉成家 沙羅の部屋




 愛用の目覚まし時計も、部屋の壁に掛かった時計も、共に11時を指した。
 お兄ちゃんが家を出た後、玄関のロックは掛かったままだった。

 つまり、お兄ちゃんは帰ってきていない。

 私は、部屋に戻った後、ずっとベッドの上にぽつんと座った格好のままだった。心の中には様々な思いが渦巻いているけど、きちんとした形には一度もなってくれない。普通、こういう状態を混乱と呼ぶのだろう。
 そんな私の視線の先にある小型制御盤。その制御盤の玄関ロックの状態を示すランプが消えて、僅かな間を置いて再点灯する。
 一気に思考ノイズが消え、思考が一つに統一される。

                        (ついに、来た)
 
 そう、お兄ちゃんの決断を聞く時。私の決断を告げる時。私達の未来を決める時が。
 お兄ちゃんが部屋に戻ったその時に。私はお兄ちゃんの部屋へ行き、全てを決めるんだから。

 足音が玄関から私の部屋に向けて近づいてくる。…かすかな違和感。
 だけど、今の私にはその原因は分からない。多分、気が高ぶっているせいだろう。私はそう思った。

 足音が私の部屋の前を通り過ぎ…る代わりに、私の目前の制御盤から突然私の部屋のドアのロックサインを示すランプが消えた。

 僅かな音を立てて開かれたドア。思わず振り向いた私の視線の先には。





               口を真一文字に結んだ姿で立っている、彼方ちゃんの姿があった。






「沙羅、告げないといけないことがあるんだ。部屋の中に入ってもいいかな」

 明かりの無い真っ暗な部屋の入り口。廊下の明かりに照らされた彼方ちゃんの唇が、言葉を紡いだ。

「………うん」

 本当は嫌って言いたかった。だけど、私の口から漏れた言葉は逆だった。

「それじゃ、入るから」

 そう言って彼方ちゃんは私の部屋に入り、ドアを閉めた後に明かりのスイッチを入れた。
 部屋に点った明かりの眩しさに、私は思わず目を細める。

 そんな私を見ていた彼方ちゃんは、僅かに表情を緩めたけど。私の視線に気づいた途端、元の表情に戻る。

「それじゃ、話してもいいかな」
「手短にお願いするよ」
 彼方ちゃんの言葉に、出来るだけ冷たく答える。
 懸命に表情を取り繕おうとする。だけど、出来ない。だって……だって……。

「研究所で、優さんに会ったよ。そして言われたんだ。
『今夜だけは、私の家に帰らないで。無粋な真似はしたらダメだからね』って。
 沙羅にはこの言葉の意味、分かるよね?」





        「お兄ちゃんの、ばかーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」





               ………私が出来たのは、そう叫んで泣くことだけだった。





 私の決意も、私の望んだ未来も、全部夢へと消えた。最後の最後に、お兄ちゃんはまた私を置いて去ってしまった。

 お兄ちゃんはなっきゅ先輩を選んで、私を捨てた。そして…パパやママとも決別する道を選んだ。想像だけど、間違っていない。お兄ちゃんは、サピエンス……なっきゅ先輩と同じ存在となって生きる道を選択したんだ。

 結局、お兄ちゃんの一番は私じゃなかった。3年間待ち続けて得られた答えがこれだと思うと、悔しくて、悲しくて涙が止まらなかった。


 泣いて泣いて、泣き続けて。涙が枯れるまで泣き続けて。永遠とも思える時間泣き続けた末に。

 涙が枯れ果て、泣き疲れて。顔を上げた先には、彼方ちゃんの顔があった。


「沙羅。優さんからもう一つ、聞いたんだ。沙羅がアドバイスを皆に求めていたって」
「………うん」
 掠れた声で、これだけがやっと口に出来た。
「じゃあ、僕の話も聞いてくれないかな」
「………うん」
 本当は、もうどうでも良くなっていたけど。いや、どうでも良くなっていたからこそ、私は彼方ちゃんの言葉をノーチェックで肯定していた。



「結局僕の人生―といってもまだ16年にもならないんだけど―の目的って、一つだけだったんだよ」
「一つだけ?」
「うん。僕は先天性キュレイ種でインフラビジョンを持っていたし、成長そのものも周りと違っていたから。その上父さんも母さんも物心ついた時から留守がちで、面倒を見てくれたのはいずみ叔母さんやくるみ叔母さんや樋口や守野のおばあちゃんだったけど、それでも一人ぼっちのことが多かった。
 だから、父さんや母さんに振り向いてほしくて頑張ったけど。飛び級しても、上の学校に進んでも、結局僕の唯一の目的の役には立たなかったんだ」
「一体、何が目的だったの?」
「………居場所。あらゆる部分で普通じゃない生まれの僕が、居るべき場所。最初は父さんと母さんにそれを求めたんだけど、駄目だった。その過程で飛び級したせいで、学校の皆からも敬遠されたり、疎まれたり。結局学校社会の中では自分で自分の居場所を無くして孤立していたから、当然の様に居場所なんて無かったんだよ」
「………気づいてたんだ」
「うん。だけどその頃になるともう心が磨耗して、ただ上を目指すだけの機械になってしまっていたから。とりあえず父さんと母さんのところまで辿り着いてそれから考えようって思って、それまでは何も考えないようにしていたし。
 それに、その方がすごく楽だったから。何も考えなくても学校教育って自動的にレールを用意してくれるし、孤独って事は他人に気を配る必要も無いし、他人の力を借りる必要も無かったし。目の前の状況だけに対応していれば何も問題なかったから。
 だけど、そんな僕に生まれて初めて、居場所となる可能性のある立ち位置が出来たんだ」
「何?」
 一縷の望みを籠めて訊く。…どうして私、こんなこと思うんだろう。望みなんてとっくに潰えているのに。
「ノア・プロジェクト。キュレイが人類として必要とされる全世界的な大プロジェクト。僕でも、このプロジェクトになら居場所がある。
 そう思って、今の大学に進学したんだ。意外とノア・プロジェクトに必要な知識を網羅した大学って少なくて。条件に合致していた上に、田中研究所が側だという理由で選んだんだよ。
 そして、沙羅に出会って。…後は言う必要はないと思うな。一つを除いて」
 やっぱり、望みも何も無い身の上話。だけども、訊いた以上、最後まで聞くべきだと思った。
「その一つ、教えて」
 最後に残った理性…いや、惰性だと思うけど。それに従い、私は先を促した。
「今年の5月、Lemuに行った時。トムさんに誘われたんだ。
『…いっその事、今日からでもここで働いてくれないものか。君ならば、最高待遇で迎えても皆異論はないはずだ』って」
「………良かったね、居場所が出来て」
 後悔した。彼方ちゃんの単なる自慢話だ。私を打ちのめすためだけの…
「でも、断ったんだ。だって、それはもう僕が望む一番の居場所じゃ無くなっていたから」
「!」
 胸の鼓動が、僅かに高まる。何で、どうして!?私は、私が分からない。
「そして、『せめてあと3年位は待って頂けないでしょうか』って答えちゃったんだ。そうしたらトムさんにこう返された。
 『3年待たせるのなら、できればもう一人超一流の人材を伴って来てくれると嬉しいんだがな』って。
 やっぱりトムさんは凄いや。あの短いやり取りで、心の底まで読まれちゃったから」

 彼方ちゃんが、一瞬笑う。私を安心させるように。だけど、本当に一瞬。

 次の瞬間に、彼方ちゃんの顔が思いつめたものに変わる。

「他のみんなは沙羅の決断を誘導するような事は言えなかったけど。僕は違うんだ。
 だから、言うよ。

 沙羅。キュレイになって、一生僕の隣に居て欲しい。そして、出来たら僕と一緒にノア・プロジェクトに参加して、一緒に夢を見て欲しい。
 だけど、もし沙羅がノア・プロジェクトに参加したくないんだったら。その時は僕も夢を諦める。
 だって…だって…僕は、僕は………沙羅が世界で一番好きなんだっ!!!沙羅の隣が、僕の一番の居場所なんだからっ!!!
 沙羅が居ない世界なんて要らない!沙羅が居ない夢なんて必要ない!
 沙羅の為だったら未来も現在も全部捨てられるんだ、僕は。その為なら、死神にだって盾突いてみせる。絶対に、沙羅は渡さない。

 だからお願いだよ、沙羅。ずっと…ずっと…僕の隣に居てくれないかな?」


 
 その言葉を聞き終わった瞬間。


        私の、枯れたはずの涙が一筋、再び頬を伝って流れ落ちた。




(私は、一体何を聞いていたんだろう。皆の言った事、一つもちゃんと考えてなかったよ)

 ――『悩むのではなく、気づきなさい。自分の心の奥深くに眠っている地図と羅針盤を。そうすれば、おのずと選択肢は見えてくるわよ。自分が「何のために生きるべきか」ってね。』
 

 私が本当に欲しかったもの。私がずっと求めていたもの。心の奥底に仕舞われた羅針盤の示す先。

 私が、倉成沙羅が本当に欲しかったもの…それは居場所。

 私にとっての最初の居場所が、お兄ちゃんの隣。だから、お兄ちゃんを帰ってくるのを待ち続けたのは、自分の居場所が帰ってくるのを待っていたんだ。
 そしてお兄ちゃんだけじゃなくて、パパもママも帰ってきて出来た居場所。私は、この居場所を失いたくなかった。…だから、お兄ちゃんに徹底的にこだわったんだ。

 私はお兄ちゃんが大好き。これは嘘じゃないけど。

 だけれども、私が本当にこだわっていたのは居場所。目的が「居場所」で手段が「お兄ちゃん」だった筈なのに。単に居場所が欲しくて、それをお兄ちゃんに求めていただけなのに。いつの間にか、「お兄ちゃん」そのものが目的になってしまった。

 ――『目的のために手段を選ばず、手段の為に目的を忘れてしまう』
 久遠の言葉。本当に、私のことを示す言葉だった。

 もし、私とお兄ちゃんが結ばれてしまったら。果たしてどうなっただろう。

 私達は、この町の皆に受け入れられて居場所を分けてもらった立場。人間としてのモラルを守っているから、みんなに受け入れてもらえる。
 
『社会の歯車になりながら、自分の在り様は見失わない。子供達を守り、自身の伴侶を慈しみ、周りの人々と和して協力し合って生きていく』
 桑古木さんの言った言葉。そんな存在として私達家族が存在していたからこそ街のみんなは私達に好意を向け、街の一員として受け入れてくれたんだ。

 だけど、私の望みはそれを粉々にしてしまう。サピエンスなら変人という言葉で片付けられるだろうけど、私達は元々がサピエンスではない存在。サピエンスのルールを守っているから、居場所をもらえている存在。だから私とお兄ちゃんを、世間は良識に反する存在として弾劾して排除してしまうだろう。
 結果的に、私の決断は、パパとママ…そしてお兄ちゃんの居場所まで壊してしまう事になる。私達は石持てサピエンスの世界から追われ、下手をするとママの努力の産物である『小町法』まで壊してしまいかねない。


 そして、一番大切なこと。今の私の居場所がどういう場所であるか。お兄ちゃんが私から去ったことで、はっきりとそれが分かった。

 私がいまいる居場所は、私がいる事を『望まれた場所』ではないという事。私がいる事を『許してもらっている』場所だという事を。

 お兄ちゃんの一番は、なっきゅ先輩。
 パパとママの一番は、お互い同士。

 なっきゅ先輩もお兄ちゃんも、パパもママも私を邪険にするような人じゃないことは分かっているけど。それでも、一番の人と私との究極の二択を強いられたら。迷うことなく一番の人を選ぶことだろう。実際、お兄ちゃんはそうだった。

 一番の人と共存できる間はいいけれど。共存できなくなった時は、私は居場所を失うことになる。
 自身の努力の末に手に入れたものでなく相手から与えられた居場所は、相手の都合でまた奪い去られる。
 私は居場所を失いたくなくて頑張っていたけど、何のことは無かった。私の居場所は、元々私の所有物ですらなかったんだ。


                     たった一つを除いて。



『申し訳ありませんが、この縁談はお断りいたします。貴女は、僕以外の相応しい伴侶をお選び下さい』
 彼方ちゃんが求婚相手に送ったメッセージ。なっきゅ先輩が言ったとおり、このメッセージには続きがあった。
『貴女にも譲れない場所がある様に、僕にも譲れない場所がありますから。御免なさい』
 このメッセージは、本当は彼方ちゃんが私に宛てたものだった。自分の隣は、既に売約済みですよって。私が…沙羅がこの場所に来れる様に空けてますよって。そんな精一杯の愛情表現だったんだ。

 でも私はそれに目をつぶり、答えを出すのを避けてきた。
 お兄ちゃんと彼方ちゃん。二つの居場所を天秤にかけて、あわよくば両方とも手に入れようとしていたんだ。

 私って、なんて嫌な女の子。
 なのに、そんな嫌な女の子を本気で好いてくれて。その為に未来まで捨ててもいいって言ってくれる人間が目の前に居る。
 たった一つだけだけど。私の努力の末に手に入れた居場所。生まれて初めて手に入れた、私が一番で他の誰も入れない居場所。それが今、明確な形を取り、私の目の前にある。

 後は、簡単なこと。私は、彼方ちゃんの隣という居場所に居たいのか。それだけを考えればいい。

 なぜ私があそこまで彼方ちゃんとの勝負にこだわっていたのか。
 なぜ私が、彼方ちゃんの隣に別の人間が現れるのを無意識に排除していたのか。

 ………考える必要も無かったね。優さんの言うとおりだったよ。

     『答えはもう沙羅の中にあるの。どうしようかと考えて答えを生み出す必要なんてない』

 もう、答えなんて出ていて。ただ、それを気づかなかっただけ。






「沙羅…沙羅…?御免、やっぱりイヤだよね…僕みたいな…」

 思考の渦から帰還した私の前には、しょげ返った彼方ちゃんが居た。


 私はもう迷わない。私の結論も、取るべき行動も唯一つ。

「…って沙羅!」

 驚きの声にも耳を貸さず。私は彼方ちゃんの首に腕をかけて引き寄せて、その耳元に唇を寄せる。





「お兄ちゃんみたいに私から去らないって、約束してくれるなら。私は一生彼方ちゃんの隣に居るよ」

 そう呟いて、私は今度は自分から彼方ちゃんの唇を奪った。













 2037年9月24日(木)??? 倉成家 沙羅の部屋




「ねえ、沙羅。一つだけ、お願いがあるんだ」

「なあに?彼方ちゃん」



「彼方『ちゃん』だけは止めてくれませんか、沙羅先輩?」

「………お兄ちゃん並に格好良くはないけれど、お兄ちゃんより大切になったから。だから『彼方』って呼び捨てにしてあげるよ」


 そのまま、沙羅は彼方の唇を自身の唇で塞いだ。





                                      ―To Be Continue Next Story ―
後  書


 結局『妹に勝てる兄など存在せぬわ』でした。…何故、こうなってしまったんでしょう。

 彼方と沙羅の告白シーンは簡単に済ませるつもりだったのになあ。しかも初期プロットと告白する側が逆になってるし。
 ついでに脇役の方々にも出番を与えた結果として、またしてもホクトと優秋のシーンより分量多くなるハメになりました。

「沙羅は、自分の居場所を求め続けている存在」というのは、最初からイメージとしてありました。
 沙羅=ブラコンというイメージは浸透していますが。なぜそうなったかという私的解釈は、今回語った通りです。

……でも、沙羅の一人称視点って難しい(泣)
 あえて会話の幼さを廃してモノローグは一人称を「私」で統一し、大人な語り口にしたんですけど。成功したかどうかは未知数です。

 次の話までで本来の一話分。一話分が、実に3話になってしまいました。相変わらず分量読み甘いぞ私。
 多分短いです、次の話は。


 さて、毎度の事ですが。私の駄文をここまで読んでくださり、有難うございました。


2006年7月1日  あんくん


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