「ねえ、ココ。友達から面白い喫茶店の話聞いたんだけど、興味ない?あなた紅茶に興味あったよね?」
「うん、そうだよ」
「○○島にね、『ルナビーチ』って幻の店があるんだって。でね、私の友達がたまたまそこに行ったそうなのよ。
 それでね、『ご注文は?』って聞かれたときにその子の連れが『苦くないダージリンを』って言っちゃったらしいのよ、これが。連れは紅茶のど素人だったらしくて、これが無茶苦茶な注文だって気づかなかったらしいんだわ」
「ふむふむ」
「なんだけど。友達が突っ込む前にあっさり『承知しました』って言われて、本当に出てきたらしいのよ…苦味がほとんど無い、それでいて香りはそのままのダージリンが。信じられない話よね。注文の時に『どっちもどっちだわ』って思ってた友達も、それ見て絶句していたみたい。
 なんでこんな店が、こんな場所にあるのかって。淹れ方教えてって言ったけど笑って教えてくれなかったって話。
 …ココも紅茶淹れるの凄く上手だけど、流石にそんな淹れ方までは知らないよねえ?…ココ?」
「あははは、ごめんごめん。なんでもないんだよ?」
 そう言って、ココはいつものように笑って見せた。







未来へと続く夢の道−エピローグ3 贖罪の終わり 動き出す時間−
                              あんくん



〜八神 ココ〜










2051年8月16日(水) 午後5:00 喫茶店ルナビーチ



「うんうん、やっと一息だよ〜♪」
 八神ココは、にこにこ笑いながら、グラスとティーカップを洗っていた。

 すらりと伸びた手足、緩やかなくせっ毛のロングヘア。
 Lemuよりの帰還から既に17年。ココの体つきもすっかり昔とは変わっていた。出る所もそれなりに出ていて、身長もかなり伸びている。顔立ちも、昔の面影を残しつつも整った大人の女性のそれとなっていた。
 だが。軽やかな仕草、特徴的なにへら笑い、癖のある語り口調。そしてすこしズレた感性などなど…そういったものはほとんど変わらず。時として昔ながらの電波発生器になることも有るし、コメッチョも健在。
 そういった意味では今でも八神ココは、八神ココだった。
 
 不定期開店の喫茶店、ルナビーチ。通の人間には幻の店として知られている…らしい。
 元々のマスターは、もはや消息がどうなっているのかマスター代理にすら判らないそうだ。そして、肝心のマスター代理やその妹もまた、本業が忙しい事もあり滅多にこの島には来れなくなっていた。

 そういうこともあり、現状ではこの店を切り盛りするのは八神ココ一人。もっとも彼女も本職を持つ身となっていた為、ルナビーチは事実上夏休みや冬休み、言うなれば盆暮れ正月、希に連休くらいしか開いていないという趣味の店ここに極まれりな状態と化していた。

 この日は、夏休みでお盆の真っ最中ということもあってかなりの客がルナビーチを訪れた。なにせ不定期開店であるが故にアルバイトもいない。当然、目の回るような忙しさになる。
 そんな時間帯も過ぎて客も引け、店内にはココの他には誰もいない。…昔からの伝統通り、この店は夜はバーになる。滅多に開かない店であるものの地元民には大体いつなら開いているかが読めているらしく、夜は顔なじみのメンバーが集まって賑やかになるのが通例であった。


 そんな中途半端な時間帯に。


                 からんからん―――


「御免なさい。今の時間でも大丈夫ですよね?」

「はいはい、もちろんだよ〜♪いらっしゃいませーーー!」

 エントランスに立ってドアを開けた女性に、ココはにぱっと笑って返事したのであった。




 サマードレスに白い帽子。キャリングカート付きのトランク。
 整った顔つきの、落ち着いた清楚な気品を感じさせる20代前半の女性。素人のココにも、その服は結構な値段がするものだとすぐ分かった。第一印象で『お嬢様』な感じをさせる、そんな客。だがその面に浮かぶ穏やかな笑みが、柔らかな雰囲気を作り出している。
 そんな彼女は、店内の席が空いているにもかかわらずカウンター席のど真ん中に席を取った。

「ご注文はお決まりですかあ?」
 そんな彼女にココスマイルのままでココはオーダーを訊いて。
「ダージリン。苦くない奴をお願いするわ」
 彼女は即答した。
「承知しましたあ〜♪」



「お待たせしました」
 カウンターに、紅茶の香気が立ち上る。ダージリン…紅茶の王様。特に香りは最上級とされる。
 同時に苦味が強いのも特徴。高価な上にわりと癖があるせいもあって、日本人の場合セイロンのような安価であっさりした茶葉を好む人間が意外に多いのも事実。
 だから…「苦味のないダージリン」というのはある意味邪道でもある。あっさりした味わいの茶葉はいくらでもあるのに、わざわざダージリンでそれをやる必要は普通感じないであろう。

 だが目の前の彼女はそれを指定し、ココはそのオーダー通りダージリンを淹れて彼女の前にカップを置く。

「有難うございます」
 そう言って白い帽子をテーブル脇に置き、彼女は手馴れた仕草でティーカップを取り、口に運ぶ。
「!」
 さざなみのように、表情が揺れる。だが、わずかな時間の後に、また最初の微笑みに戻った。

「御免なさい。失礼でなければ、この淹れ方をどなたから教わったかを教えていただけませんか?」
 カップを干した後、彼女はココに問う。
「うーん。それってココのオリジナルなんだー。だから、だれにも教えてもらって無いんだよ?
なんでか知らないけど最初から淹れられたんだよ、ココは。不思議だよねー?…こう言うと、みんな変な顔するんだよ、何でだろ?」
 そういって、不思議そうな顔をする。
「…ココさん、ってお名前なんですね。店長さんは」
「あはははは、ココは店長さんじゃないよー。えっと、代理の代理、かなあ。
 えっと、八神ココっていうんだよ、ココは」

「そう、ですか…」
 客はそう呟き、面を伏せる。




「申し訳ないですけど、少し身の上話をしてもいいですか。八神ココさん」
「うん、いいよ!」
…これもまた、喫茶店の特徴みたいなものだ。ココは何の逡巡もなく頷いた。



「私の家は、結構大きな病院を経営しているんです。
 小さなどこにでもあるような診療所を、大病院に育て上げたのが私の祖父でした………」
 天井を仰ぐようにして軽く頬杖をつきながら、彼女は話し始めた。

「ですが、病院を大きくしていく過程でいろいろとあったらしくて。祖父が結構精神的に参っていた時期がありました。
 それで、娘―私の母ですね―一人を連れて、ふらっと旅行に出たそうなんですが…旅先で、突然倒れてしまったんです。…医者って不便なものでして。他人は診察できても、肝心の自分の事は診察できないものなんですよね。
 その時、一人の男性の方が祖父を救ってくださいました。その方に祖父は惚れ込みまして。自分の病院で働かないかと誘ったそうです。
 その方は断られたそうですが、それがかえって祖父の心に火をつけてしまったようで。
 祖父は…半ば強引に自分の病院に連れて行ってしまったんですよ、その方を」
 彼女は、苦笑いを面に浮かべて見せた。
「祖父は、その方を病院の総医局長…事実上の病院のNo.2に据えました。
 この時期、病院内はとても人間関係が荒れていて危機的状況でした。祖父が心労で倒れてしまったのも元々はこれが原因です。
 その方も最初は内部の人間から結構攻撃されたそうです。
 …ですが、あの方は、そんな病院内の医師やその他の職員をあっという間にまとめ上げて、病院を立て直すことに成功したんです」
「へえ、すごいんだ〜♪」
「はい。その方の言うには『この病院には腕のいい医師や看護婦や職員は一杯いるけど、組織の事について知っている人間は殆ど居ない。私は医師としての腕は並だけど、組織の裏の事については嫌になるくらい良く知っている。だから、私は、病院を組織として作り直しただけだ』って事だったらしいです。
 結果的に病院は立ち直り、地域で一番の病院といわれるまでになりました。

 当然のようにその方は賞賛され、皆から尊敬されるようになりました。
 歳こそいっていましたが、みなから尊敬されていた事もあって院内の女性職員にもてていたようですし、縁談もひっきりなしだったと聞きます。
 ですが、その件になるとその方は絶対に首を縦に振らなかったそうなんです。必ず最後に、『私には、家庭を持つ資格が無い』と寂しげに仰って。
 そういう事もあり、周囲はこの件にはあえて触れないようになっていきました。事実、その方はプライベートでは女性に距離を置いていらっしゃいましたから。


 でもたった一人だけ、諦めなかった女性がいました。

 その女性は、ひたすらその方に恋焦がれていました。その方も、その女性は可愛がっていたそうです。
 だってその女性は、その方にとって『女性』ではなく『女の子』でしたから。
 あの方は、本当に子供に優しい方でした。病院の総医局長になったとき祖父に真っ先に要望したのが院内の託児室と、わりと大きい子供用のスペースだったそうですから。偶に暇があれば託児室に顔を出して、子供達と分け隔てなく遊んでいたって聞いてます。

 月日が経ち、美しく成長したその女の子から告白されてその方は大いに驚き、困惑されたそうです…もっとも、対応は変わらなかったそうですけど。
 ですが、その女の子は諦めなかった。…しかも周囲は彼女を引き離すどころか、むしろ応援していましたから。だんだん、その方は追い詰められていきました。
 その女の子が嫌いなら、突き放せばいい。だけど一番可愛がっていた子供でもありましたから、それはできなかった。
 遂に追い詰められたその方は、自身の過去をその女の子に告白したそうです。ですが、結果としてそれは逆の結末を生んでしまいました。…その方が、折れたんです。

…もう分かりますよね?」
 悪戯っぽく、客の女性は笑って見せた。
「うん。ココにも分かるよ。『その方』って、あなたのパパさんなんだね?」
 ココがにぱーっと満面に笑みを浮かべて答える。
「はい、そうです。母との年齢差は親子ほどもありましたけれど。
 周囲もまた、それを望んでいました。祖父は子持ちが遅かった上に母以外に子供がありませんでした。当然のように婿をとらないといけませんけど、この病院を背負って立てる人間はそうそういるものではありません。
 父は正にその条件を満たしていました。その上、母は父にベタ惚れでしたから。年齢差を除けば周囲にとっては一番望みうる最高の組み合わせだったんですよ。
 何度も母に聞いたことがあります。『どうやってお父様を説得したんですか?』って。そういうと決まってこう言って笑うんですよ。『それは乙女の秘密です。ただ、あの人にだけしか通用しない魔法の言葉よ』って。
 そうやって夫婦になった父と母との間に、兄が生まれて、そして私が生まれました。
 それを見届けた末に高齢の祖父は引退し、安らかな余生の末に亡くなりました。最期まで、父に感謝していたそうです。
 父と母もずっと円満な関係を続けていますし、病院の方も順調です。
 兄も、来年医学部を卒業します。『お父様みたいになりたい』って、これは兄の口癖ですね。
…どうですか?いい話だと思いませんか?」
 語り終えた客に対して。
「ぱちぱちぱちぃー!うんうん、ココ、そういう話大好きだよ?…コメッチョにできないかなあ」
「?」
「ああ、ごめんなさい。気にしない、気にしない!」
 とびっきりのココスマイルで、ココは答えたのだった。



 客は何種類かの紅茶をオーダーし、ココと紅茶談義に花を咲かせる。

「へえ、結構詳しいんだー!」
「はい。意外でした?」
「ううん、そうじゃないんだけどね」

 そんな穏やかな時間の末。客の女性は左手の腕時計をちらりと見る。
「…そろそろね」
 そう呟いて、微笑みながらココを見つめる。
「ほえ?」
 ほんわか笑みを浮かべながら、不思議そうに見返すココ。



「ココさん。あのお話には、後日談があるんです」
「へえー、そうなんだ〜♪」
「知りたいですか?」
「うん、知りたい、知りたい!」
 興味津々の態で、カウンターから身を乗り出すココ。
「はい、分かりました。
…実はですね、後日談はたった今から始まるんです。



                       やっと会えましたね、ココお姉ちゃん」







 ココの笑顔は、凍りついた。






「えっと、どういう、事?」





「驚くのも無理も無いとは思います。ですけれども、これは事実なんです。
 私が大学を卒業した日に、思い切って聞いてみたんです。父の過去を。祖父に会う前の昔の話を。
 父は教えてくれました。前の妻と娘を死なせてしまったことを。

 この紅茶。この味を出せるのは、私の父だけなんです。私もいろいろ努力しましたけど、この『苦くないダージリン』だけは真似が出来ませんでした。
 あなたの淹れた紅茶は、父のものと全く一緒でした。一度も飲んだ事が無い人間に、この味は出せません。
 最近、父は折に触れて亡くなった娘さんのことを話してくれるようになりました。この『苦くないダージリン』もその一つ。
 幼い頃のお姉ちゃんは、苦いのは嫌いなのにダージリンの香りは大のお気に入りだったって聞きました。それで父が昔の同僚の方に相談して生まれたのが、あの『苦くないダージリン』なんだそうです。
 だからお姉ちゃんはこの味を知っているし、この味を再現できるんです。父はこの淹れ方を誰にも…母にも私にも教えてくれませんでしたから。だから、他の誰もこの淹れ方を知らないんです。
 友人から『苦くないダージリン』を出す喫茶店があると聞いて、まさかと思いました。それで、いろいろ調べてみて…確信しました。ああ、間違いない。父の亡くなった筈の娘さんが、私のお姉ちゃんが生きているって」
 躊躇の欠片も無く言い切って、真正面からココを見据える。

「でも、それだけじゃ証拠にならないんじゃないかなあ?だって、ココ、この味の紅茶飲んだ覚えないんだよ?」

「うふふ。そうですね。確かにそうですよね。幼い日のことですから。
…ですけど、とっておきの証拠があるんです。

 実は、私が生まれた時に母がねだったそうなんです。『この子に、亡くなったこの子の姉の名前を譲ってあげてくれませんか』と。

 だから、私の名前も『ココ』なんです。『草薙ココ』………私がお父様から頂いた名前。これが一番の証拠です。

 私は、正真正銘、あなたの妹なんですよ。ココお姉ちゃん。


 …そうですよね。お父様?」



                 からんからん―――
 


                 エントランスの扉が開いた先に立つ、一人の老紳士。




 杖に頼ることなく立ってはいるが、髪は既に白くなり、顔には深い皺が刻まれている。だがそれでも………実の娘が、見間違う筈などありえない。




「ココ………本当に、ココなの、か………」

「パパ………なんだよね?ココの…パパさん、なんだよね?」


 凍りつき、途切れ途切れの言葉を交わした末に。



             「パパ、パパーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」



               ココは…八神ココは、父の胸に一直線に飛び込んだ。













 感動の再会。共に抱き合ったまま、ひたすら泣き続ける。34年間の月日の空けた間隙を、涙のひとしずくひとしずくが埋めていった。









2051年8月16日(水) 午後11:00 喫茶店ルナビーチ2F




 父と妹の勧めに反して、この日、ココは店を開けたままにした。
なぜなら…。

「全く。いい話じゃないか、なあ、みんな!」
「おおーっ、めでたいめでたい。我らがココちゃんのお父上が生きていたうえに、こーんな出来た妹さんまでいるたあ…くーっ!俺は泣けてきたぜえ!」
 ルナビーチに一杯引っ掛けに来た常連客は、ココの死んだ筈の父親が生きていた上に妹まで出来たという話に皆感動し、口々に祝福の言葉を贈ってくれた。
 皆がこの3人親子を車座で囲む形になり、和気藹々の雰囲気の中で祝宴が繰り広げられたのである。皆大いに楽しい酒を飲み、大いに騒いだ。
 そんな中で一人忙しく働きながら、八神ココはずっとにこにこと笑いを絶やす事はなかった。

…そして、常連客は立場をちゃんと弁えていた。いつもより早い時間にいろいろと理由をつけて一斉に去っていき、後には家族3人だけが残される。
 姉が店の後片付けをするのを、妹が手伝って。
 結果的に、いつもより早い時間にルナビーチのエントランスドアには『Closed』のプレートがかけられたのであった。


 ルナビーチの2階にある、従業員用の部屋。
 その部屋に布団を3組敷いて、今日初めて出逢った姉妹とその父親が川の字に並んで横になっている。
「ねえ、パパ?」
「どうしたんだい、ココ」
「小さいココさんのママさん、どうして連れてこなかったの?ココ、会いたかったんだけどなあ」
 名前が一緒という事もあり、姉の特権で八神ココの方が『ココ』の呼び名を獲得し、妹の方は『小さいココ』と呼ばれる事になった。
 だが、そう呼ばれる度に草薙ココは嬉しそうに顔を綻ばせる。…どうやら、かなり気に入ったらしい。
「まあ私も半信半疑だったし。それに、『流石に、まだ心の準備が出来ていません』そうだ」
「…私も、まさか自分と外見が同い年位だとは思ってもみなかったですし。…今後はいつでも会えますし、次に会うときはお母様とお兄ちゃんを連れて来ますからそれで勘弁してもらえませんか、お姉ちゃん?」
「うん!楽しみだな〜♪」
 妹の言葉に、ココはにぱっと笑ったのだった。

 話は、二人のココの身の上話に入っていく。特に姉の方の話に。

「…キュレイウィルスに、ハイバネーションか。まさかミズ小町のご主人と一緒に眠っていたとは」
「お姉ちゃん、キュレイなんだ…だから、私と同い年に見えるんですね?」
 八神ココは隠し立てする事なくLemuで起こった全てを語り、その内容に驚きを隠せない二人。
「うん。そうなんだよ。だから、パパを探さなかったんだよ?私がいると迷惑になるかもしれないって。
 小さいココさんのいう通りだったら、多分ココがいると迷惑だったんじゃないかな?」
「お姉ちゃん、そ、そんな事っ………」
 ないっ!と言い募りかけて…言葉が止まる。
 姉の言葉は真実だった。草薙ココには、それが分かる。
「…どうして、私が生きていると思ったんだい、ココ。私は、いかなる資料でも死亡扱いになっていたんだよ?」
 表向きのライプリヒ製薬の人事部資料では八神岳士は2017年に病死して死亡退職した事になっていて、遺族には彼の死亡退職金及びココの死に関する見舞金が支給されている。また、2034年の強制捜査の際押収されたIBF関連資料の中にIBF職員の秘密消息資料があったものの、ここでも八神岳士は死亡扱い。
 表の資料でも裏の資料でも、どちらであっても八神岳士は死んだ事になっていた。幾ら調べても自分の生存を示す資料は存在しない。

「えへへ、それはね…」
 ココはごそごそと枕元のバッグを探り、何かを取り出した。

 …年季の入った、革の装丁の男物の大判手帳。

「この手帳のお陰なんだよ…それとねえ」
 さらにごそごそとバッグを探って、何かを取り出す。
「じゃーん!小さいココさんは初めて見るはずの、パパの若い頃の写真!」

 …幼い八神ココとその両親が写った、古い古い写真立て。

「これは…もしや…」
「うん、パパのIBFの部屋で見つけたんだ。それからずっと、宝物にしていたんだよ。
 多分パパはどこかで幸せに暮らしている筈だって。ココは空さんやみんなと幸せに暮らしているから、パパの邪魔しちゃ駄目だー!って思って、我慢してたんだ。
…御免ね、パパ。こんな事、小さいココさんには知られたくなかったよね?」

「そんな事無い!お姉ちゃん。私、お母様から聞いていたの。『お父様の過去には触れないであげて。もし知ったとしても、絶対にお父様を見捨てないでほしいの』って。だから、お父様の過去については覚悟してた。間違いなく暗い話になるって。…お姉ちゃんと、お姉ちゃんのお母さんの話だけでも十分それが判っていたから」
 姉の暗い表情に、思わず被りを振って草薙ココは言葉を投げる。
「いい人なんだね、小さいココさんのママさんは」
 そんな妹の姿にココは表情をいつもの微笑みに戻して、優しく髪を撫でた。

「…もう、ココも小さいココも子供じゃないんだな。父親としては寂しいけれど。
 だったら教えてあげよう、真実を。はっきり言って、世界の闇を覗く汚い話になる。それだけは覚悟して欲しい。
 ココも、小さいココも、それでもいいのかい?」


「うん、パパ」
「はい、お父様」





2017年4月 第3IBF



 ティーフ・ブラウ。元々はLemuの電力源として設定された熱水噴出口に生息していた古代ウィルス。この発見に伴い、Lemuの存在意義は大きく捻じ曲げられる事となる。
 多くの人員が常駐できる深深度の海洋観測拠点はここしかない。IBFユニットのことが公になれば、多くの研究機関がIBFを共同研究の場として使う事を求めるだろう。ティーフ・ブラウの件から言って、それは余りにも拙かった。
 故にIBFは存在自体を隠匿され(あくまで、IBFの構造体は発電機構の一部とされた)、実情を糊塗すると同時に他の研究者を排除するため、元来は科学的な海洋観測拠点として設計されていたLemuは急遽テーマパークとして再設計されたのであった。


 ごく一部の人間しか知らない、ライプリヒ製薬の秘密研究部門、IBF。Lemuは毎年かなりの赤字を生んでいた事になっているが無理もない。…かなりの資金や物資が、秘密裏にIBFへ流されていたからである。

 IBFの研究目的はただ一つ。
『ティーフ・ブラウ』を細菌兵器として改良する事。
 故にIBFでは、ティーフ・ブラウの研究と共に、毒性や感染性が異なるバリエーションの開発が行われていた。


 細菌を兵器として使用する場合、幾つかの前提条件が存在する。

 一つ目。当然、致死性が高いものでなければならない。致死性が低ければ脅威にはならないし、抗体が自然発生的に見出されて対策され、兵器としての存在意義が失われることになる。
 二つ目。感染性。これは高すぎても低すぎてもいけない。あくまで、制御された感染が重要である。感染性が高すぎると、兵器を使用した側も事態をコントロールできなくなる。…戦争というものは、大抵国境を接する同士が行うもの。結果的に自国にまで感染が拡大しては元も子もないのである。

 この二つの条件の内、一つ目は十二分に満たしていたが、二つ目は不十分だった。通常気圧下の感染性が不十分であった為、その点についての改良が必要であった。元々の感染性の高すぎるウィルスの感染性を弱体化させるよりは感染性の低いウィルスの感染性を増強するほうが技術的には簡単な事もあり、その意味では『ティーフ・ブラウ』は十分、細菌兵器になれる素養を秘めていた。

 そして3つ目。ワクチンと特効薬の存在。できれば一種類のティーフ・ブラウにしか利かないものと万能のものの二つがあれば尚望ましい。
 細菌兵器における、真の武器や商品が治療薬である。
 まず、細菌兵器を保有する以上事故もありうる。その際に速やかに被害者に治療を施して事実を隠匿する為には、治療薬は必須だった。
 次に、細菌兵器に対する防御策として一番重要である。結局、細菌兵器を無力化する一番手っ取り早い手段が『特効薬を手に入れる』事なのである。
 とんでもない話なのだが。一番有効な細菌兵器の使用法とは、『取り入りたい国家に対して使用して、かつそれが兵器だと気づかれない』ことである。
 突如発生する伝染病。それに対して打つ手のない相手に対して、治療薬や治療手段を供与する事により恩を売る。供与する際に見返りを求めるのは当然であるし、その場で代償を手に入れられなくても『貸し』を作ることにより後々の交渉を有利に進めることが出来る。
 衛生状態が比較的悪く、それでいて多くの資源を保有しているような国が一番の標的になるであろう。

 事実、世界のあちこちで突如流行する伝染病のどれだけが自然発生的なもので、どれが陰謀の末であるのかは線引きは難しいのが現状だ。

 ちなみに、細菌兵器に転用可能な細菌とその治療薬を世界で一番多く所有している国がアメリカ合衆国である………


「IBFは4つのブロックを通路で繋いだ構造になっている。それぞれのブロックには第1から第4の番号が振られていて、第1IBF、第2IBF…といった風に呼称されていた。…番号が若い方が偉いって事になるのが世の常なんだがね。
 ちなみに私が属していた第3IBFは、TBの治療薬とワクチンを開発する部門だった。
 対して第1IBFがTBそのものの遺伝子研究と開発・改良を担当する部門。本社採用で、汚れ部門を担当してでも出世したいという野心を持ったエリート研究員の集まりだった。
 第2IBFはその中間。TBの病理研究を主体としていた。…具体的な内容は言葉に出来ない。お願いだ、察して欲しい。
 第4IBFは事務と監視部門…なんだが、実の所第1IBFの使い走りになっていたよ。


 …話を戻すよ。あの2017年の4月末。ティーフ・ブラウを実際に使用する最初の機会が迫っていた。

 もともと、TBはライプリヒ製薬躍進の切り札だった。
 衛生状態が比較的低く、それでいて資源や資金だけは豊富な国家。そんな国家に対して『コントルールされたティーフ・ブラウの流行』を起こす。
 致死率の高いウィルスで、新種ゆえ治療薬が分からない。そんな中、たまたま別の用途で開発されたライプリヒ製薬の新型抗生物質が劇的な治療効果を持つことが分かる…その結果、ライプリヒ製薬の知名度が上がり、この新型抗生物質が大量に売れることになる。
 そして、また別の変異型のTBが別の場所で流行する。そして、それに対してライプリヒが素早く対応する抗生物質を提供する。
 これを繰り返すことによりライプリヒ製薬の技術力は広く知られると共に治療薬を独占的に販売できる。ライプリヒの言い値で相手は買ってくれるだろうから、莫大な利益が約束される。優秀な研究員も集まってくるようになるし、稼いだ利益を研究費に投入することにより薬剤開発力が高まる。
 その結果として、世界一の製薬会社に伍する事が出来る。それが遠大なライプリヒ製薬の野望だったんだよ。

 その時点で開発されていたTBの変異型のうち、比較的古い型でそこそこの伝染性を有し、かつ致死率があまり高すぎないタイプ―Ver.7とコードされていた―を、ある小国で散布し、人工的に流行させる計画にゴーサインが出たんだ。
 対応する治療薬―グリコペプチド系の抗生物質をベースにしたものだ―は、既に別の用途でドイツ及びEUで医薬品として承認済みになっていた。
 後は、IBFからTB-Ver.7を持ち出して実行部隊である特務部へ渡すだけだったんだよ。
 そのスケジュールが、ココのLemu滞在のスケジュールと被っていたものだから。念の為、ピピの中に支給品のオレンジアンプルを入れておいた。
 あれは事前予防用のワクチン。TBのVer.1からVer.16までは一定期間ならほぼ確実に感染をシャットアウトするし、ごく感染初期ならば治癒も可能だ。まあ、1週間ほどしか持続しないのが欠点なんだが。一応既感染者の治療効果もあるにはあるが、それほど効果が無い。TB増殖を抑える効果はあっても、TBそのものを殺す効果は僅かなんだよ。…少し話が逸れたね。


 天網恢恢、粗にして洩らさず。そんなライプリヒの悪行に、天は裁きの鉄槌を以て応えた。


………ココがIBFに一時訪問したとき。すでにその兆候は始まっていた。私はIBFの中でも非主流派である第3IBFの中でも少数派の方だったから殆ど知らなかったんだが。迂闊なことに、その実態を知ったのはココがIBFからLemuへ戻った後だった………」


 
  第3IBF制御室


「無茶を言わないで頂きたい。第3IBFの医薬品ストックはそんなには無いという事は、あなた方が一番ご存知の筈でしょう!」
 第3IBFの部門長…初老の研究員がスクリーンに向かって訴える。
「お題目は結構。私が言いたいのはただ一つ。先ほど―17分17秒前だな―送付したリストにある医薬品を指定された数量、可及的速やかに第1IBFへ拠出せよという命令だ。…在庫データを照合する限り、供出可能と考えるが如何?」
 スクリーンに写る、中年の鋭い目をした研究員が冷たい口調で言い放つ。
「物理的には可能でも、あれを全て第1IBFへ拠出したら第3IBFは次回の補給艦の到達まで何も業務ができなくなります!」
 部門長が僅かに怒りを滲ませて返答するが…
「第3IBFの都合など、我々の必要性に比べれば小さな事だ。早急に医薬品を供出せよ。以上だ」
 一方的に通信回線は切断された。
「部門長。どうされます?」
 制御室に詰める部下の質問に。
「…医療物資の在庫の再チェックを行え。アンプル一つ洩らさぬよう、手間をかけてな。最近は実地たな卸しをさぼっていたから、さぞデータと実数が食い違っていることだろう」
「…了解しました、では、その線で」
 上司の言外の意図を汲み取った部下は、上司の命令を忠実に実行した。


「第2IBFはまともな人間の居る場所じゃなかったから、第1と第3からは必要最低限の業務連絡時以外は無視されていた。
 そして、エリート揃いの第1IBFと、どちらかというとアウトローの多かった第3IBFは仲が悪かった。第1IBFの連中は第3IBFの人間を只の格下の下働きとしか思ってなかったし、第3IBFの研究員は、人殺しの道具を出世の為に嬉々として研究する第1IBFの連中を嫌悪していた。何のことは無い。お互いが相手を軽蔑しあっていたんだ。第4IBFが第1IBFの出先機関に堕していたせいで常に第3IBFは様々な補給や待遇の面で冷遇されていたから、どっちかと言うと第3IBFの敵意の方が強かったな。
 だからさっき話したようなやりとりは、日常茶飯事。第1IBFの連中の命令に対して、第3IBFがサポタージュで応戦するなど毎度のことだった。
 結果として、気づかなかった。あの時、本当に第1IBFの連中は掛値無く第3IBFの医薬品…TBの治療薬を欲していたんだよ。それにエリートは目下に弱みを見せるのを極端に嫌う。プライドが邪魔をして、第1IBFの部門長も真実を告げず、対策だけを強要した。
 だから切迫した状況は第3IBFへは伝わらず、決定的な時間のロスを生む事になった…もっとも、仮に命令に従っていたとしても結果は一緒だったと思うけど」


 
  第3IBF制御室



「部、部門長!大変です」
「どうした?血相変えて」
「第1IBFの連中が…クラッキングかけて、ウチの医薬品貯蔵庫のシステム乗っ取りました!あと、IBF環境調整システムに割り込みかけて、貯蔵庫から第1IBFへ繋がる全通路を強制開放しています!…ダメです。環境調整及び警備システム全部中央管制室に権限奪われました!!!」
「なにっ!第1IBFの連中、血迷ったか!!!止めろ!」
「無理ですっ!!!」
 監視モニターの画像を見て、オペレータが悲鳴交じりの声で答える。
 モニターには、目を血走らせて通路を大挙駆けてくる第1IBFの研究員の姿が映し出されていた。



 第1IBF中央制御室



「は、ははっ、はははははっ!!!どうせ終わりだ!俺はもうお終いだ!!!
 だったら、全部………全部滅びてしまえ!俺を裏切った世界など…消えてなくなれい…はは、ははは…うはははははは!!!」

 このIBFで一番広い部屋………中央制御室。
 只一人この部屋に立つ、顔と喉を鮮血で染めた男………IBF所長兼第1IBF部門長は狂気のままにコンソールキーを叩き続ける。

 それに合わせて、降りていた筈のバイオハザード対応隔離隔壁が上がり、止まっていた筈のエアコンディショナーが再稼動し…。




 惨劇の幕が、開いた。


 


「ココがヒンメルの加減圧室に送り届られるのを見送った帰り、たまたま私はその通路の側を通っていてね。そして、見てしまった。

 一団になって走ってくる第1IBFの研究員の一人の唇から鮮血がこぼれていて、それを口を手で覆って隠しているのを。

 瞬時に私は事態を悟り、自室へ駆け込んだ。そして、私の最新の研究結果…まだ治験は愚か動物実験すら行っていない故、だれにも教えていなかった…レッドアンプル。TBのVer.17にも対応できるその予防ワクチンの、たった一本しかないサンプルを取り出して自身に注射した。
 あの時は、ココは大丈夫だと思っていたんだが…残念ながら私が浅はかだったようだね。
 そして、自室の端末を操作したんだが…完全に第一IBFの中央制御室にパスを乗っ取られて、何も知ることが出来なかった。

 後は…神の裁きが下る様を、ありありと見せ付けられることになった」

「あの、IBF…なんだね?」
「ああ、ココは知っているんだったな。その通り。第1IBFの連中が隔壁解放してしまったために、辛うじて止まっていたTB漏洩が一気に全IBF施設内に広がってしまったんだ。
 しかも、TB漏洩監視システムは全て第1IBFの中央管制室が握ってしまっていた。第3IBFのスタッフが苦労して閲覧権限を取り戻したとき…自分たちがP4バイオハザードの真っ只中にいる事を知覚してしまったわけだ。
 トドメに医薬品は第1IBFの連中に略奪されてしまった。第3IBFの研究員は、自身の感染状態さえ分かれば治療薬そのものや調合方法は分かる。だが、肝心の医薬品や調合材料そのものが奪われてしまったんだ。
 何人かの研究員が意を決して第1IBFへ向かったんだが…ひどい有様だった。彼らは、第3IBFの連中ほど治療薬には詳しくない。希にTBに罹患した研究員が出るが、そのまま第2IBFに直行だったから。実際にTB治療に関わったことがなかったんだ。
 故に手当たり次第に治療薬を注射していて…医薬品は全滅状態。
 しかも感染時期が早かったものだから…後は言わなくても分かるだろう。

 そして、それが集団パニックの引き金を引いた。

 皆、先を争って非常用脱出口…中央シャフト外部直結脱出口へ殺到した。後は知ってのとおり。
 不用意に脱出口を開放したため、Lemuの気圧は急低下。緊急警報と共に館内の一般入場者に避難命令が発令され…一番強度が劣るエルストボーデンの海中展望セクションの強化ガラスが水圧に負けて破損。『2017年Lemu事件』が始まる。
 …あとはココが語ったとおりだよ。Lemuの方はね」

「じゃあ…じゃあ!ティーフ・ブラウは…」
 顔色を真っ青にして、妹の方のココが震える声で問いかけて。


「あれは酷かった。
 流行したのは一番最悪のVer.17。これはまだ、治療薬は全く開発されていなかった。レッドアンプルにしても、効果はいいところ1週間。これでは、治療の役には立たない。
 それに初動の段階で救助された研究者が各地に散ったものだから…一気に伝染した。呆れた事にIBFの事を他のライプリヒの一般職員は知らなかったから、殆どの場合初歩的な防疫処置さえ怠ったんだ。
 早いうちに防疫処置を講じた場合はまだ良かったが。そうでないところは大規模感染を引き起こした。
 一次感染者である研究員の隔離には成功しても、移動手段…主にヘリコプターだ…の乗員や乗機の消毒や治療が遅れ、それを発端にして二次感染が拡大する。
 ライプリヒの秘密主義が、全てにおいて裏目に出たんだよ。
 そうやって、あの『TBの大流行』が始まった。流石のライプリヒ製薬も、TB-Ver.17の治療用抗生物質の開発には他社の力を借りざるを得ず―なにしろ、IBFのデータ全てを失ったわけだし、センシティブデータアーカイブスにも詳細なデータは残されていなかった―だからこの件で儲けることはできなかった。
 この件で莫大な投資の回収先と多くの優秀な研究者を失った上に、隠蔽工作に多大な労力を割かなければならなくなったライプリヒ製薬の牙城には、少しずつ穴が開き始める。

これが、『ティーフブラウ漏洩事件』の真相だよ…だが、惨劇の元凶についてまだ語らなければいけない」


 2017年5月1日(月) 午後4時00分 第3IBF



 喧騒は過ぎ去り、IBF内部は完全な静寂に包まれている。
 私は今、一人でIBFの中に取り残された。他の人間は―生きていて、身動きが出来る人間限定だが―は狂乱の中、地上へ脱出してしまった。

 だが、私は残った。何故ならば…好機だからだ。
 私は第3IBFの中でも極少数派に属していた。すなわち、田中陽一氏と懇意であるという極少数派に。彼は、TB計画に気づいたが故にこのIBFに幽閉された。最初はIBFでも空システムとレミシステムの開発に携わっていたが、やがて外部との接触を完全に絶つためにその部署から外され、今では第3IBFでTBの治療薬の開発に回されている。オレンジアンプルは彼の開発したもの。
 そして、私は彼の友人という立場にある。紅茶という共通の趣味を持っていたのがきっかけだった。私の私的な補給品の中にあった紅茶の葉を、田中さんが分けて欲しいと言ってきたのが付き合いの始まりである。
 そうやって付き合ううちに、私も少しずつ彼に感化されていった…すなわち、反ライプリヒの方向へ思考法が変化してきたのである。
 だが彼は厳重に監視されている身であり、私のことを心配してくれていた。それ故、表面上は私もそんな心中などおくびにも出さなかった。

 想像していたのとは全く違う形であったが。こうやって好機が巡ってきた。ライプリヒの行った、ティーフ・ブラウに関する秘密研究の数々と…そして第2IBFが行ってきたであろう人道に反した所業の数々。
 それらの情報を手に入れる千歳一遇の大チャンス。なにしろ、今、私を妨害できる存在は皆無である。


 まず最初に、自分の端末に入っているレッドアンプルのデータをテラバイトディスクにコピーする。既に第1IBF中央制御室によるクラッキングは解除されており…いや、維持されておらずだ…あっさりデータを呼び出すことが出来た。
 今向かっているのは、第1IBFの中央制御室。ここには、TBに関するあらゆるデータと、それを開発する過程の情報が存在する。…細菌兵器の開発と、TB漏洩に関する全ての記録も。

 だが、私の想像は裏切られた。…第1IBFの中央制御室には、先客が居たのだ。空いたままになっているドアから覗いた先に、伸び縮みする人影がある。
(どうする?一度出直すか?)
 だが、自身の頭脳が出した答えは「否」だった。レッドアンプルは、動物実験すら終わっていないシロモノ。理論上の自信はあるが、できるだけこのP4バイオハザードが荒れ狂うIBFに長居はしたくない。
 そう考えて、足音と気配を消して人影に忍び寄ろうとして…

 その人影が、不意に私に振り返る。
 思わず私はその人物に襲い掛かろうとして…

「…八神くん、か?」
「…田中、さん?」

 お互い、驚いた顔のまま硬直したのであった。


「田中さん。ここはP4バイオハザード状態ですから危険です。早く退去してください」
「そういう君こそ、退去したまえ」
「…私は大丈夫です。Ver.17まで対応できる最新の予防ワクチンを射ってますから」
「ああ、レッドアンプルか。すまんがあの情報を貸してもらった。既に調合して、私も注射済みだ」
「た、田中さん…あなたは…」
「許してくれ。非常事態だったからな。…それより、手伝ってくれるか?どうやらお互い、目的は一緒のようだ」



…結局、互いの目的は一緒であった。私は田中さんと協力して目的の作業を開始する。



 まず、第一IBFでの作業。

 ウィルスというものは、程度の差こそあれ突然変異しやすい。故に、致死性の高いウィルスの複数種類のサンプルをただ列挙しても『細菌兵器の開発』の証拠にすることは難しい。
 だから、私達は遺伝子改良の証拠となるデータ…すなわち『人為的にウィルスに手を加え、より危険性を高めた』証拠を優先的に検索し、収集した。交配表、交配記録、比較研究データ………この手のデータは、ほぼ全ての部分が消去されたり隠匿されていた。このままでは必要なデータが得られない。

 …だが、ライプリヒは誤った。
 田中さん…田中陽一博士を生かしておいたこと。これが致命的な誤り。田中博士を骨の髄まで利用しようとする彼らの利己主義的な悪行が、遂に彼ら自身に報いを与える事となったのだ。

 これらの消去工作を実行したのは恐らく第1IBFのスタッフ。彼らは権力闘争や遺伝子研究に関しての才能は優れていた。だが…コンピュータ技術者としてはせいぜい良くて中の上。
 対して…田中博士は天才。レミシステムと空システムという世界でも有数のコンピュータシステムを設計し、かつオレンジアンプルを開発してみせた遺伝子学とコンピュータ工学を共に極めた天才なのだ。
 故に、第1IBFのスタッフが短時間のうちに施した妨害工作など大波の前の砂粒。あっという間にデータが復元されていき、さらにそれが目的重要度の高い順にソートされ、圧縮されてテラバイトディスクに格納されていく。私ではとてもこうはいかなかっただろう。
 やがて…最も致命的な証拠の一つ、この事件が無ければ実行されていた筈の『TB-Ver.7散布作戦』のアクションプランが目の前のモニターに表示された。まず一つ目の強力な証拠を、私達は手に入れた。
 そしてもう一つ。ティーフブラウの漏洩の、真の原因。…これは恐らく、私達が生きているうちに語られる事も無ければ公開されることも無いだろう。そんな事実の記録が、テラバイトディスクに圧縮変調されて格納された。


 次に、第2IBF制御室。



「こんな事が、私達の隣のブロックで行われていたというのか………」
 私達は、絶句した。
 前と同じように、残されたデータには目もくれず廃棄・破壊されたデータの修復や隠匿データの復帰を行って、その結果として私達の目前に表示されたデータ。
『患者』という名の被験者に対する『治療』という名の人道や人権の欠片もない『人体実験』の記録の数々。
 元来、治験―実際に開発中の治療法を患者に対して試す事―は数限りない動物実験による安全性確認の末に行われる最終段階の試験。
 だが第2IBFの連中は、そんな手続き無視で研究途中の治療法を『患者』に試していた。中にはその場の思いつきとしか思えない治療法を実施している場面さえある。

 そして最後。…二つ目の、致命的な証拠となる映像。
 おそらく厳重な人事部や特務部のチェックをかいくぐってIBFへの転属に成功した、他の製薬会社の息がかかった研究員だろう。彼は、手足を手術台に縛り付けられて固定されている。
 泣き叫んで許しを請う彼の口に全身麻酔用のマスクが被せられ、やがて………その腕にTB入りの注射液が入った注射器の針が突き刺され、中の液体が見る見る減っていった。

 あまりの凄惨さに吐き気を堪えながら、私達はこの惨たらしいデータの数々をテラバイトディスクに収めていった。




 最後に第3IBF制御室。



 ここだけは気が楽だった。前の2箇所と異なり、ここに眠る情報群はTB患者を救う事に使えるものだったから。
 だから私達は、前の2箇所とは別のテラバイトディスクを用意し、この場所に眠る情報を可能な限りの量圧縮し、吸い上げていった。…人を救うための情報を少しでも多く、志ある研究者達に届けるために。
 


 そして、作業を終えた私と田中博士はエレベータに乗り、今も昔も惨劇の舞台であったIBFを後にした。







 余りに凄惨な真実。草薙ココは打ちのめされていた。表情は凍り、完全に放心している。
 父親はそんな娘の肩を抱き、優しく頭を撫でる。
「お父様…ごめんなさい…一番辛いのはお父様の筈なのに…」
 その瞳からは、次から次から涙が溢れる。
 そんな娘を、父親はひたすら抱きしめ続けた。



「お父様…もう、大丈夫です。続きを教えてください」
「分かった」








2017年5月1日(月) 午後6時29分  ヒンメル加減圧室




 加減圧室で減圧を開始する。外気圧力計が示す、ヒンメルの気圧は…1気圧。Lemuの与圧は完全に失われていた。IBF中央制御室で入手したLemuの状況データが嘘でないことが実証された瞬間だった。

 私はウェットスーツを身に纏っている。それと簡単な身の回りのものや食料、現金―第1IBFでかき集めた―を入れた潜水携行用のバックパック。何本かの潜水用ボンベ。アクアラング一式も付いている。深度に合わせて混合気の比率や気圧を変えられる最新式。元々は、IBFの外部補修用の備品である。
 当然のように、これらは全て徹底的に滅菌を施してある。
 一応二人分用意した。脱出手段は事実上これしかない。インゼル・ヌルへはLemu内の通路からは移動できない。海中を泳いで海上に上がるしかないのである。
 多分、インゼル・ヌルは大騒ぎになっている。特に避難した一般客の収容と輸送におおわらわだろう。その騒ぎに乗じて私は一般客に紛れて島を去るか、あるいは貨物船に密航するつもりでいた。最悪ライプリヒ関係者に見付かっても、私はIBFの職員。なんとでも言い逃れできる。田中さんは…まあ、私の随員という事にしておこう。
 だが、少なくとも暫くは私は死亡扱いになっていたかった。ライプリヒの悪行の証拠である、このテラバイトディスクを信頼できる人間に託すまでは。

 最速減圧で12時間。減圧が終わるまでの時間、私は眠ってすこしでも体力を温存することにする。
 隣では、田中さんが疲れきった表情で寝息を立てていた。





2017年5月2日(火) 午前6時26分  ヒンメル加減圧室




 がこおおおおん…


 突然の重い振動音に揺さぶられて目が覚める。隣の田中さんは眠ったままだ。腕時計は…午前6時26分。ほぼ12時間経過している。アナログ式の内気圧計と外気圧計をチェック…ほぼ1気圧。
 眠っている田中さんを残して加減圧室のドアの開閉ボタンを押す…開かない。もう一回押してみる…やっぱり開かない。
 目を凝らしてよく見てみる。…ランプが点いていない。開閉禁止ランプも、開閉可能ランプも両方。
(もしかして、停電か?)
 ありうる。IBF中央制御室で入手したデータによると、エルストボーデンは完全浸水。ツヴァイトシュトックやドリットシュトックにもかなりの損害が発生している。
 結果的に発電機が破損してもおかしくは無い。とりあえず…手動の非常用開閉レバーを探して、手動でドアを開ける事にした。

 ヒンメルの機器は生きていた。IBFとLemuを繋ぐ重要な結節点であるヒンメルには単独のバッテリー設備が備えられており、最低でも48時間、節約すれば72時間は機器を稼動させることが出来る。
 だが、肝心な『目』が潰されている状態ではどうしようもない。レミシステム本体にはヒンメルと同じく単独バッテリーが装備されているが、末端のセンサー類まではカバー出来ない。
 第一、この停電が恒常的なものなのか、一時的なものなのかすら分からない。
(とりあえずは、様子見で待つか)
 田中さんもまだ目を覚ましていないこともあり、私はとりあえずヒンメル付属の食料庫から保存食と保存用滅菌飲料水を取り出して腹ごしらえをしながら、待つことにした。
 




2017年5月2日(火) 午前10時16分  ヒンメル




 突然、電源供給が復活した。
 自動的に電源系統が切り替わり、殆ど消灯していたモニターやコンソールのデータ表示が復帰する。

 ヒンメルのシステムはレミシステムの上位に当たり、全ての情報がリアルタイムで流されてくる。更にこの要求実行はレミシステム側のログには残らない。IBFの存在を一般職員に感づかれないためである。
 早速ドリットシュトック及び発電機のデータを呼び出そうとしてモニターコンソールを覗き込んだ私は…絶句した。

 『Lebenswichtige Reaktion : 6』

 内訳は…発電機室に2、ツヴァイトシュトックEI乗り場に3つ、ヒンメルに1つ…1つ?
(あ、そうか。ウェットスーツを着ているから、私は赤外放熱が少ないんだ。だから私は数に入っていないんだな)
 とりあえず納得した。だが、この表示が示している意味が変わるわけではない。その意味は…
「取り残された生存者が、居るのかい?」
「あ、田中さん。目が覚めたんですね?」
「ああ。…生存者5名。上は何をしているんだろうね?本来なら救出活動が始まっていてもおかしく無いんだが」
「…恐らくTBがらみでしょう。残念な事に。それに通信機器をモニターする限り、通信回線やデータリンク回線は完全に途絶しているようです。生存者の存在を知る手段が全て失われていますね。
 しかし、困った事になりました。私は、出来るならば誰にも見付かることなくLemuを脱出したかったんですが」

 確かに生存者の救出は重要ではある。だが、私はライプリヒの蛮行を止める使命を帯びている。IBFは壊滅したが、腐った膿を出し切らない限り同じ事は何度も続くであろう。
 だが、それでも人命を見捨てるのは躊躇われた。…それでは、私が憎悪する連中と何も変わらない。

「ならば、私が引き受けよう」
「た、田中さん!」
 私の躊躇を読み取ったのか、田中さんが私に告げる。
「君は機を見て脱出するんだ。この5人は、私が引き受ける。テラバイトディスクも君が持って行くといい。
 それにこの件については私が適任だろう。レミと空の基礎設計者は、私だよ?」
…反論は、出来なかった。私は、後ろ髪を引かれつつも、田中さんの案を呑むしか方法は残されていなかった。




2017年5月2日(火) 午前11時41分  ヒンメル





 生存者5名は会議室へ集合。動きを停止する。正直遭遇する可能性は否定できないが、彼らはドリットシュトックを生活領域としているようであり、他の時間においてもそれは一緒の筈。
 それに、時間が経つほどインゼル・ヌルの混乱は解消に向かうはず。混乱に乗じて脱出する予定であった私としては、それは避けたかった。
 私は、自分が付けていた高性能イヤフォンを外してデスクの上に置く。
「行くのかい?」
「はい。申し訳ありませんが、生存者の方は宜しくお願いします」
「分かった。任せてくれ…幸運を」
「…幸運を」
 田中さんがコンソールデスクに着いてドア開閉システムを操作。警告メッセージを省略してヒンメルの水密ドアば静かに開く。
 私は振り向くことなく、ヒンメルを後にした。








 レミシステムメインフレーム中枢に仕込んだ秘密コードは問題なく作動した。誰も気づいていなかったようだ。
 八神岳士の移動にあわせて、レミに虚偽データを送り込む。単純。一時的に音声と画像をフリーズした上で『異常なし』とするだけ。
 彼がツヴァイトシュトックに上がり目的地に到達、脱出したのを確認して、一度ログアウトする。

 「…すまないな、八神君。私は君を騙したよ」
 田中陽一は、力なくデスクにつっぷした。
 生体反応を示す5人の生存者の内、3人は『ゲスト』即ち外来客として表示されている。だが、残り2人は固有名詞を以て表示されていた。共に生体認証が行われていたのである。通常はフィルタリングが行われており、画面に表示される事はない。秘密のマスターコード故、データが表示されたのだ。
 一人は…田中優美清春香菜。自分の娘。これがあった故、陽一はこの場に残る決意をした。
 そしてもう一人は…八神ココ。八神岳士の娘。卑怯と知りつつ、陽一はこの事を黙っていた。
「私の最期の仕事だ。なんとしてでも、5人は助け出してみせる」
 陽一は知っていた。自身の肉体には、既にTBのVer.17が巣食っている事に。
 IBFで告げたのは全くの嘘八百。少し前に彼の開発していた新型ワクチンの試作品をチラッと見たとき、その試作品は赤いアンプルに入っていた。だからあの時カマをかけて、それが当たったから話の流れに乗って嘘をついた。………田中陽一は自身にレッドアンプルなど注射していなかった。

 そしてもう残された時間は長くは無い。だが、神はその僅かな余生の中に最大の使命を与えてくれた。
(死神よ。せめてこの5人を救うまで、私の命、狩るのを待ってくれないか)

 この願いに、死神がどう応えたか。…それはBWのもう一つの意思たる貴方の良く知るところである。





2017年5月2日(火) 午後0時17分  クヴァレ





 私は、幸運にも誰にも知られる事なく、目的地…クヴァレに到達した。

 Lemuにあって、唯一の館外アトラクションであるクヴァレ。館外に稼動部分を有しているクヴァレのメンテナンスや修繕においては水中作業を必要とする場合がある。
 それに他部分と異なり、即応体制を取らざるを得ない。万が一、外来客が乗ったまま停止してしまった場合は速やかに修理しなければならないのだ。
 その為、クヴァレ昇降所には外へ通じるメンテナンス用のエアロック付き二重水密ハッチがある。ここが私の考えた脱出点。
 既に自動タイマーをセットしたアクアラングにより、体内加圧は終了。ツヴァイトシュトックの外水圧…4.4気圧でエア供給を行っている。ボンベも予備に交換したためエア残量は十分。

 さっそくハッチに潜り込むと、Lemu側の水密ハッチを閉め、次いで外海側のハッチを解放する。あっという間に海水が流れ込み、エアロックは海水に満たされた。
 そのまま外へ。それから外海側のハッチを閉める。


 私は、ヒンメルの方へ顔を向けて一礼し、ゆっくりと水面へ向かって浮上を開始した。







「こうして、私は脱出。インゼル・ヌルへ上がった。
 事件から2日経ってもインゼル・ヌルは大混乱にあったし、港には多くの船舶が停泊していた。その中から、物資輸送用の貨客船を選んで密航し、私はLemuを去った。
 潜水病にもかからず、TBも発症しなかった。…最初の難関を、私は潜り抜けたんだ」
 長い話の一区切り。八神岳士は深い息を吐いた。
「で、小さいココさんのおじいちゃんとママさんに出会うんだよね?」
 ココの明るい言葉に。
「いや、まだだ。もう一幕、あるんだよ」








2017年5月4日(木祝) 午後6時17分  大井競馬場





 とりあえず東京港に停泊した貨客船から脱出した私は、インターネットカフェで情報収集をした後に大井町に向かった。
 第一の難関を越えた私には、次の難関が待ち構えていた。………テラバイトディスクを誰に託すか、である。
 第3IBFに長い間勤めていた私には、外部の知己は極端に少ない。それに今の段階でマスコミに流したところで、ライプリヒに潰されるのは目に見えている。そして…私にはこれを使う才能が無い。
 だれか信頼できる人物を通じて、このテラバイトディスクを活用できる人物へ託す必要がある。一足とびでは無理。
 現在ライプリヒで働いておらず、それでいて内外にパイプを有し、にもかかわらず反ライプリヒの立場の人間。私が知っている数少ない該当者の一人が、ここ、大井に居る。インターネットカフェで簡単な検索をした結果分かった事。
 彼は今、大井町で小さな薬局を経営している。薬局名の頭文字が彼の姓と一致しており、薬局管理者の欄には彼の名前があった。彼は主に技術畑を歩いていたが、薬剤師の資格を持っていた。だから第二の人生を歩む事が出来たのである。

 で、私は何故か大井町の彼の家ではなく大井競馬場に居る。何故かと言うと…駅前で『彼』を見つけたからである。ちょうど彼は、大井競馬場行きの無料バスに乗る所だった。
 それで私は、彼を追う形で競馬場へ向かったのである。
…正直、がっかりした。彼は毎レース馬券を買い、それを握り締めてレースに見入っている。荒んだ姿。こんな人間に先を託さなければいけないのか?そう思うと情けなかった。
 だが、場所としては悪くない。祝日の夕方、トゥインクルレース開催中の競馬場。多くの人々でごった返し、喧騒で包まれる競馬場で密談したところで誰も聴いては居ないだろう。万が一、彼が私のことを密告したとしても逃亡は容易。
 僅かに思考の迷路に迷いかけた所で…
(し、しまった!)
 ごった返す馬券販売所。僅かに目を放した隙に彼の姿を見失う。この人ごみの中、彼を探さなければならなくなった。―――大失態である。慌てて周囲を見渡して…
「どうしてこんな場所に居る、八神岳士博士?」
 背後から声を掛けられ、がっしと肩を掴まれる。
「!」
 慌てて振り向いた視線の先に…『彼』が居た。



 凄まじい喧騒の中にある、競馬場の一般席。そこに私と彼は居た。 
「なんという事だ。それはまた凄いことになったな」
 こうなってしまうと、隠し事をしても余り意味が無い。彼は元々IBFの事を知っているし、最終職歴の関係上Lemuにも知己が居る。遠からず真実を知る事になる筈だ。だから、私は真実を包み隠さず話すことにした。
「情けない。俺は田中博士を裏切り、かといって表立ってライプリヒに反抗する事もできず。出来る事は、こうやって下野する事だけだった。
 そして下野したところでライプリヒの実態は何も変わらず、悪行を止める事も出来ず。こうやってギャンブルで憂さをはらす存在に成り果てたよ。…軽蔑してくれ、八神博士」
 私と田中さんは、共に医師の免許を持っている。だから彼は私を敬称である『博士』で呼んだ。
 田中さんが空システムの開発に携わる事になったのは、精神医としての才能とシステムエンジニアの才能を両立させた稀有な存在だったからである。AIの開発においてこの二つが必要だったし、田中さんが殺される事なくIBFに幽閉されたのも医師としての田中さんの才能をライプリヒが利用するためだったのだ。…まさに田中さんは多才の天才だった。
 私が『彼』の過去の事を知ったのは、田中さんの口からである。自身を売り、このような境遇に追い込んだ張本人。だが、最後に田中さんの口から出た言葉は意外なものだった。
「彼に恨みが無いといえば嘘になる。だがね、彼もまた犠牲者なんだよ」
 たった一言。周囲の監視故、これだけしか言えなかったのだろう。

 私は田中さんの言葉を信じたくなった。『茜ヶ崎空』が形となり、その分野を任されていた彼には前途洋々の人生が待っている筈だった。少なくとも貝emuの役員クラスまでなら出世できた筈。
 だが、彼はそれを放棄して下野した。…『茜ヶ崎空』は元々田中さんの作品。良心の呵責に耐え切れなかったのだろう。
 そして今、面と向かって語りあった限り、彼の心はその時と変わっていないと思えた。…どうせ私には選択肢はほとんど無い。私の心は、決まった。


「ならば、ライプリヒを潰す為の切り札を貴方に託す。言葉が嘘でないならば、これを使える人間に託してくれ。今すぐでなくてもいい」
「何だと?…本当に俺を信用する気か?俺は一度裏切った人間だぞ!」
「…だったら、その償いをしてもらいたい。それでいい」
 私の言葉に、彼は考え込む。


 長い長い間の末に………


「分かった、何とかしてみよう。それはそうと、逃亡資金はあるのか?」
「私のことは構わないでくれ。それに…あなたからお金を貰うと迷惑がかかる。不明瞭な支出は、足がつく」
 好意は有り難かったが。彼が押さえられたら、全てが瓦解する。
「足?…心配するな。まあ、見てろって」
「?」



 彼は、競馬場のATMで自分の口座からお金を引き出した…200万円。引き出し限度ぎりぎりの大金である。
で、それを懐にしたまま、何故かモニターの前で待ち続ける。
「…只今を持ちまして、第10競争の投票を締め切らせていただきます」
 そしてレース。なんだか知らないが、それまでのレースより歓声が段違いに違う。室内にまで響き渡る歓声。
 そしてレースが終わり、人々がぞろぞろとスタンドからこっちの方へ向かってくる。

 間中、彼は全く身動きをしなかった。
 そんな時間が過ぎた後。

「さて、頃合か」
 そういって、彼は床をつぶさに見て回る。…床には散乱した外れ馬券。
「…よし、こいつでいい」
 そう言って彼が拾い上げたのは、四枚の外れ馬券。
「中穴狙いの三連単17口が各12万。まあ、こんなもんだろう」
 約200万円分の外れ馬券だった。あきれ返る私を見て、彼は笑って説明してくれた。
「今日はな、『羽田盃』って大きいレースがある日なんだ。さっきモニターで見ていたろ?あれがそうだ。
 これくらいの大レースになると、こういう大金を張る人間も結構いるもんだ。
 ギャンブルの主催者なんてのは、賭け金の出所も詮索しないし証明書類も発行しない。要は…主催者側からは足のつきようが無いって事だ。
 だから、俺はこの外れ馬券だけで十分だ。こいつを見せて『調子に乗って一世一代の大勝負をしましたが、見事に負けました。いままでそんな勝負をした事なかったんで、記念にこの馬券は取ってあります…ちなみにこれで懲りて、今は競馬はしてません』って言えばそれでいいのさ。現金を引き出した場所は競馬場内のATMだし、引き出した時刻より投票時刻が後だからなこの馬券。
 それに俺が競馬好きだったなんてのはすぐ分かる事。結局、調べれば調べるほど納得するしかないって構造だ…第一、そうでも言わない事にはウチの女房が承知しない」

 彼は苦笑し、そのまま200万円が入った紙包みを私に押し付けた。

「八神博士。田中博士どころか貴方まで見捨てたとなると夢見が悪すぎる。俺はこれくらいしか出来ないが。頼む、生き延びていただきたい」
「…分かった。ありがたく頂戴する」
 私は、そのままその紙包みを受け取った。









「E・Aさん、だね。『彼』って」
「ココ…なんでそれを知っているんだ?」
 納得顔でうんうんと頷いている八神ココに、八神岳士は問いかけずには居られなかった。
「あのね、なっきゅさんに無理言って教えてもらったんだよ。パパの手帳を見せて。
 そうしたら、なっきゅさんも納得してたよ。『あのテラバイトディスクには、そういう由来があったのね』って。とってもとってもパパに感謝していたよ。
『一番大切な情報で一番入手困難だと思っていたものが、一番簡単に手に入ったわ。このお陰でどんなに私や涼権の負担が軽くなった事か。是非、礼を言いたいの』
 そしてパパの消息を調べてくれるって言ってくれたんだけど、ココが断ったんだよ?パパに迷惑かけたくないから止めてって」
 にぱっと笑う。
「…心配かけてしまったね、ココ。
 一つだけ教えてくれないか。その『なっきゅさん』と『涼権』って、一体…」
「多分、パパの考えている通りだと思うよ。
 『なっきゅさん』は田中優美清春香菜さん。田中陽一博士の娘っ子さんだよ。
 『涼権』さんは桑古木涼権さん。あの事件の後、ずーっと、ずーっとなっきゅさんを助けてたんだ。でもって、今はなっきゅさんの旦那様〜♪
…少ちゃんは『旦那なんて名前だけで立場はちっとも変わってやしない。一生優のお守りをしないといけないと思うと憂鬱だ』なーんて言ってるけど、照れ隠し、照れ隠しぃ〜♪♪♪」
 にぱっ笑いをあひゃひゃ笑いに変えて、ココが笑い続ける。あっけに取られる他の二人。

「…なるほど。あのテラバイトディスクは田中さんの娘さんに渡ったんだね。で、あのライプリヒの崩壊があったわけだ。
 『彼』が一番負い目を感じていたのが『田中博士の娘さんと奥さん』だったから。そういう意味では私の選択は、正しかったんだな」
 衝撃からやっと立ち直り、八神岳士が事態を総括する。
「巨悪は必ず裁かれるという事ですわ、お父様。例え幾ら時間が掛かったとしても。そう思いませんか、お姉ちゃん?」
 しみじみと草薙ココが呟いて。
「ああ、そうだな」
「うん!ココもそう思うんだよ!!!」
 二人が万感の思いをこめて頷いた。








 2017年10月9日(月祝) 某所





 あの日から5ヶ月。すっかり私は身を持ち崩していた。
 発端は、Lemuの事故を報道する特別番組。

『既に事故の発生より1週間が経過しましたが、この事故によります行方不明者「倉成武」さんと「八神ココ」さんに関して必死の捜索が続いております。ですが捜索は難航し…』

 これを聞いた瞬間、私はへなへなとホテルの部屋の床に崩れ落ちた。海難事故において、一週間以上行方不明という事はほぼ死亡と同意義。
 私は、私の愛娘を自らの手で死地へと追いやったのだった。

 ほとぼりが冷めたら、妻子に会いに行くつもりだった。だが、それは夢と消える。妻は、私が死んだものと思っているからある意味我慢できる。
 事実上、ココが私が死なせたようなもの。そんな私が会いに行ったなら…妻は私を絶対に許さないであろう。
 行き場を失った私は完全に生きる希望を失い、ホームレスとなってあちらこちらをさまよう事となった。だが、死ぬわけにも行かない。…死んで私の身元が割れてしまえば、『彼』に何かしらの疑いがかかる恐れがある。事件が風化し、ライプリヒが元IBF職員に興味を失うまでの間だけは生き延びねばならなかった。



「ぐ、ぐっ……」
 ぐぐもった低い声と、路上に人が倒れる音。
 反射的に振り返る。人気のない路地に、一人の男性が倒れている。
 それだけならば、多分この時の私なら見捨てていただろう。あの時の私は昔持っていた志も失いかけ、ただ生きるだけの存在だった。目立つ事は避けなければならない身の上。

「だれか…だれか…たすけてよう……たすけてよーーーーー!!!」

 その傍らで泣き崩れる一人の少女さえ、見なかったら。



「もう大丈夫」
「本当ですか!本当ですか!」
「ああ。もう心配する必要はないからね」

 オレンジアンプルはTBに対する予防薬だが、やはり副作用がある。余り強くは無いが、血圧降下剤・血管拡張剤・気管支拡張剤としての効果を持っている。
 この男性の症状は、精神的ストレスに由来する心因性狭心症の発作。故にオレンジアンプルが効果があった。…運が良かった。私が持っている医療用具は無針注射器とオレンジアンプルだけ。他の薬剤投与を必要とする疾患だったら手に負えないところだった。
 とりあえず今は問題ない。後で他の医師に見てもらって、正規の血管拡張剤と血栓溶解剤及びマイナートランキライザーを投与してもらえば大丈夫だろう。

「…ん、美咲?」
「お父様!目が覚めたんですね!」
「目が覚めた?私は一体…」
「お父様が、突然倒れたんです。それで、助けてって叫んだら、この方が」
(しまった。気がつく前に逃げるつもりだったのに)
 私は内心、舌打ちする。あくまでこの男性を助けるのが目的だったのだから。目が覚める前に去るべきだったのだ。だが、もう遅い。

「君かね。私を救ってくれたのは」
 その男性が上半身を起こして私を見上げ、尋ねる。少女が慌てて父親を支える。
「ええ、まあ、そんなところです」
 あいまいに返事する。
「…君は、医者だね?その無針注射器とアンプル。君のものだろう」
(最悪だ…)
 よりによって、相手も医者だった。こうなると誤魔化しが利かなくなる。おそらく、自身の症状も把握するのは遠い先ではないはず。
「急に胸が苦しくなって…おそらく狭心症だな。流石だ。聴診器も検査機器もなく診断し、適切な処置を講じるか」
 ほら、すぐ看破されてしまった。
「なぜ、君のような医者がそのように落ちぶれたなりでこんな所に居る?良かったら訳を話してくれないか?」
…話は、私の『こうなって欲しくない』という方向へずんずんと流れていく。
「いや……」
 言いよどむ私に対して
「まあ、その話は後か。まずは礼だけでもさせてくれ。そのまま『さようなら』というのはこの子も納得しないだろうし」
 苦笑する男性の視線の先…自分の横を見る。あの泣きじゃくっていた女の子が私の袖の端をしっかと掴んでいる。試しに僅かに袖を引くと、首を左右に振って袖を引き返してくる。
 確かに、『はいさようなら』とは言えない。どうやら逃げる機会は失われたようだった。



 久しぶりにシャワーを浴び、新しい服に袖を通す。それなりに値段の張る服だという事はすぐ分かる。…第1IBFの連中で、いい服というものは見慣れていたから。
 あの後、男性は服屋に私を連れて行き数着の服を買い揃えた。私のなりを胡乱げに見る店員を文字通り男性は一喝し、代わりに出てきた店長によって服はコーディネイトされたのだった。
 そして宿泊先のホテルに案内され、その二人の部屋に挟まれた真ん中の部屋を与えられた。
 そうして、今、私は身だしなみを整えている。服以外の身の回りの品物一式は、あの少女が百貨店で買い揃えてきてくれた。…紳士物の下着や靴下を買い揃えるココと同い年位の女の子。さぞ恥ずかしかったであろうと考えると思わず微笑が漏れてきてしまう。

 だが、これっきりだ。あの二人は私と住むべき世界が違う。今日一日付き合って、終わりにする。そう硬く心に決めて、私は部屋を後にした。


 結論から言うと、逃げられなかった。
 その男性は、私に彼が経営する病院で働かないかと誘ってきた。
 対して私は正直に告げた。訳ありで逃亡中であり、表の世界には戻れないと。これだけ言えば諦めるであろう。私はそう高をくくっていた。…だが。
「なるほど。ますます気に入った。そんな立場でありながら、人を救う本分は捨てていない。本気で君が欲しくなってきたよ」
 完全な勘違いと逆効果。私の言葉は、却って相手の心に火をつけてしまう結果となった。さらに
「………」
 食事をしながら、ずっと上目遣いで私を見つめてくる少女。この目に、私は弱かった。
 顔つきも物腰もぜんぜん私の娘には似ていないのに。なぜか彼女を見るたびに娘と重ねてしまう自分が居た。この子には、どうしても強く出る事ができない。
 結局のところ、私は半ば強引に彼の家に連れて行かれることになってしまった。




 その男性は、確かに実力者だった。私と同年代で失踪して行方が分からなくなっており、しかも人付き合いが悪く、殆ど誰の記憶にも残っていない医師。そんな医師の戸籍を探し出してきてそれを強引に私とすりかえてしまった。
 一ヶ月後。私は『麻生一十峰(あそう ひとみね)』という別人となり、『草薙総合病院 総医局長』という肩書きと嘘八百を連ねたプロフィールを押し付けられて表舞台に立たされる事となった。


 内部に入り、大体の幹部職員と面談してすぐに分かった。この病院は、空中分解しかけている。
 大体において、病院の経営は民間企業に比して最低20年遅れているといわれている。この病院もその典型。理事長兼院長…私が救った男性は、私よりかなり年長であった。あの少女は50歳近くになってやっと授かった一人娘らしい。
 トップが一人で引っ張るタイプの病院。規模が大きくなったことにより、内部を理事長一人では統制できなくなりつつあった。だが、それでも組織変革を怠った事により、職員の対立は目に余るところまで来ていた。
 だが、それですら、私にとっては子供の遊びに見えた。陰鬱な権力闘争や反目、部門間の足の引っ張り合い。ライプリヒ製薬でのそんな経験に比べれば、まだ何とかなる水準。

 私は最初から、自分の医師の才能など信じてはいない。長らく臨床から外れていた医師など、現場では物の役には立たない。
 だから、私は自分が只の組織作りの捨て駒であると割り切った。組織を立て直し、理事長に恩を返した後は皆の恨みを一身に負って職を辞そう。そう考えて、院内の組織化を推し進めた。実際に目に余る職員や医師の首を切ったこともある。恨まれ役を買って出て、組織間の仲裁をし、看護婦や下の職員の不満を聞き…そういう泥臭い作業を毎日のように繰り返した。
 …結果として、総医局長就任後僅か一年半の内にある程度の成果が見えてきた。このままならば、私がここを去る日も遠くない。そんな時に目に飛び込んできた物。
 ティーフ・ブラウ医療情報共有ネットワークシステムの中にある、死者のリストの中に。我が妻の名前が確かにあった。

 その瞬間。私は、壊れた。…手元のドアロックを操作して鍵をかけて、私は総医局長室に閉じこもった。




「麻生のおじちゃん?」
 耳元で囁かれ、唐突に目が覚める。目の前には、理事長の娘さん。
「どうして、入ってこれた?」
「あはは…お父様からマスターコードを借りました」
 そう言って、屈託無く彼女は笑う。
「直ぐにこの部屋を……」
 出て行け。そう言おうとした所に
「死なないし、去らないって約束してくれたら、直ぐにでも出て行きます。でも約束してくれないなら、いつまでも出て行きません」
 心の底を透かし見る言葉を前に、私は絶句した。
「私は、この病院と同じように見られています。私のだんな様になれば、この病院が手に入れられるってそんな感じで。それで、私はずっと自分を隠して生きてきました」
 歳に似合わぬ言葉。私は、この年端の行かない少女に圧倒されていた。
「私は相手のことを窺ってばかりで生きてきたんです。だから、分かるんです。相手がどんな事を考えているかって。
 …何があったのかは知りません。私には、知る権利はありません。でも分かります。
 麻生のおじちゃん、死にたがっています。逃げたがっています。この世界から、居なくなりたがっています。
 でも…でもっ!私はおじちゃんに死んで欲しくない!居なくなって欲しくない!
 病院の皆だって一緒です!皆心配してました。『総医局長先生、どうしたんだろうって』。あんなにおじちゃんを嫌っていた先生方だって心配してました。『あの人の下なら存分に腕を揮える。また昔みたいなのは嫌だ』って。
 だから…だから…お願いです。居なくならないで…私達を置いていかないで下さい…お願いですっ!」
 ぽたぽたと涙がデスクの上に落ちて、跳ねる。
「そう言えば…最初に会った時も泣いていたな、美咲ちゃんは」
 ぽんぽんと頭を撫でる。…嘗てココにそうしていたように。
 傷だらけの心。いまでも心臓が脈打つたびにじくじくと痛み続ける。もういやだ、もう沢山だ。そう訴え続ける。
 だが、目の前にそんな私に生きる事を望む娘が居る。…とりあえず、この子が大人になって私の手から離れるまでは付き合ってみよう。例え、この子に自分の娘を投影していても構わないじゃないか。
 とりあえずの生きる理由。そう考えてみようじゃないか。
「いつかは話せるかもしれないが、今は無理だ。…だけど、美咲ちゃんの言いたい事は分かった。とりあえず、君とお父さんの為に、生きてみるよ」
「はいっ!」
 私の搾り出した精一杯の言葉に、目の前の少女は泣き笑いをして見せた。 






「私は酷い人間だ。ある意味、これで吹っ切ってしまったんだから。帰る家が本当に無くなってしまって、却って目の前の場所に安住してしまった。心は痛み続けたが、実際の所それは自分が罪人だと思い込んで居たかっただけかも知れない。
 そして、結果として一人の少女の運命まで狂わせることになる。私みたいな男に惚れなくとも、もっと相応しい人間は幾らでも居ただろうに」
 俯き加減に、力ない口調で八神岳士は肩を落とす。
「お父様。私、本当に怒りますよ?美咲お母様の決断を、その様に言わないでください!
 それとも…私やお兄ちゃんは要らない子ですか?」
「パパ、それは違うよ?それって、小さいココさんやそのママさんに失礼だよ!」
 父親の言葉に、娘二人は本気で怒っていた。
「お前達…………」
「お母様は…いつもお父様の居ない時に笑いながら言うんです。『私の人生の一番の戦果は、あなたのお父様を捕まえた事よ。この歳になっても、あの人の半分でも好きになれる男性には出会えなかったから』って。それを…私みたいな男って…他に相応しい人間は幾らでも居るなんて…お願いだから、そんな事、二度と言わないで下さい………」
「うんうん。本当に好きな人と一緒に暮らせるんだから。それって悪い事のはずなんてないと思うんだよ、ココは」
 娘二人に両方から詰め寄られて、たじたじとなる。
「済まない。もう二度と言わないから、勘弁してくれないか?」
 遂に全面降伏へと追い詰められたのであった。
「そうですねえ…お姉ちゃん、どうします?」
「うーんと、どうしようかなあ、小さいココさん?」
 そんな父親を、今度は悪戯っぽい目で見る娘達。一瞬互いにアイコンタクト。

「それじゃあ、お母様の『魔法の言葉』を教えて頂けたら許してあげます」
「うんうん。ココも聞きたい、聞きたい!!!」
 自ら墓穴を掘った形になり、八神岳士は逃げ場を完全に失ったのである。





2025年3月6日(金) 午後2時00分 草薙総合病院 総医局長室





 まさか、こんな羽目に陥るとは想像もしていなかった。文字通り、今までとは異なる意味で私は窮地に立たされていた。


 妻を失ったことを知った日以降。文字通り、私は仕事の虫となって病院と医療の為に邁進した。

 その結果…病院の危機は既に過去の反省話となった。草薙総合病院は今では地域一番の優良病院と称されるようになっている。実際に病院を支えているのは私以外の人間なのだが、皆はその功績を私に押し付けた。
 私は、組織を組織として組み上げただけ。そんな私を皆は祭り上げ、喜んで指示に従ってくれるようになった。まあ、結果がよければそれでいい。そう思って甘んじて虚像を演じる身を引き受けたのだが。
 皆が余計な心配をしだしたものだから、話はややこしくなる。つまり、私が独身である事を気にしだしたのだ。
 病院職員からもけっこうモーションをかけられたり、回りの『大物』といわれる地域医師会の重鎮達が余計な縁談を持ち込んでくるようになっていた。

 だが、それだけは私が絶対に望んではいけないことだった。
 私は、妻と娘を自らの手で殺したに等しい。あの日、私がココをIBFに呼ばなければココは死ぬ事はなかった。妻がLemuを訪れて、結果的にTBに感染する事もなかった。
 結局、私は『IBFの秘密資料を持ち出してライプリヒを潰し、多くの人を救う』という免罪符の元に妻子を死なせたのだ。挙句に私一人がこうして生き恥を曝している。
 私には家族を持つことは許されるわけがなかった。

 だから、例え立場を悪くしようとも、絶対に縁談には応じなかった。『会うだけ』と言われても、頑として応じなかった。第一、心がそれを許す筈も無かった。
 私の態度は、一時的とはいえ大恩ある理事長の立場を悪くした。だが、なぜか理事長はその件に関して私を責めようとはしなかった。…この時点で気づくべきだったのかもしれない。

 その内にこの件は自然とタブー視されるようになっていき、誰も私の前では話すことはなくなった。


 この頃の私にとって心休まるひと時は、子供達と接する時になっていた。
 最初に無理を言って作ってもらった託児室と、比較的年長の子供達用の部屋。託児所がある大病院は珍しくはないが、小学生はともかく中学生や高校生用の部屋というのは珍しいだろう。
 はっきり言って私のエゴなのだが、想像以上に好評だった。これで看護師や医療事務といった職種の人々の支持を集める事ができたのが、病院を立て直すことができた一つの要因である。
 時間に余裕が出来たときは、そこに顔を出して、従業員の子供達と遊ぶのが私の息抜きとなっていた。業者や来客が総医局長室に私がいない時には託児室の外で待っている位、これは皆に知られてしまっていた。
 私は恐らく、子供を持つことは今後無い。持つ資格もない。だから、他の子供達の面倒を見ることで誤魔化していたのだろう。自身の心の奥底を。

 子供達の輪の中には、たいてい理事長の娘―草薙美咲の姿があった。
 彼女の母親…理事長夫人は彼女が幼い時に亡くなっていた。高齢出産で無理をして彼女を産み、それで身体を損ねたのがそもそもの原因らしい。そのせいか、彼女は母親という存在に過度の憧れを持つ傾向が見えた。それ故、彼女もまた暇があればこの託児室に顔を出して幼い子供達の相手をしていた。
 そんな彼女の評判は、病院内ではかなり良かった。事実、従業員の子供に対してもその子の親の身分に関わらず彼女は平等に接していた。だから、特に若い子持ちの看護師にはかなりの人気があった。

 そして。最初の頃に見せていた、穏やかで礼儀正しい姿とは別の彼女がそこにあった。快活によく笑い、よく怒り、よく拗ねる。流石にココのようにコメッチョを連発したり破顔して馬鹿笑いすることこそ無かったものの、その姿は亡き娘を思い出させるのに十分であった。
 そのせいかもしれない。私は分け隔てなく子供達には接したつもりであったが、事実は違ったようだ。少なくとも周囲の人々にはそうは思われていなかったらしい。


 高校を卒業した彼女が選んだのは、医学部ではなく地元の大学の教育学部、保育学科。つまり、彼女は保育士への道を選んだのである。
 理事長が強硬に反対する。そう私は思っていたのだが…意外にあっさりと理事長は承諾してしまった。―いいのだろうか?昔彼女が言った言葉が思い出される。
『私は、この病院と同じように見られています。私のだんな様になれば、この病院が手に入れられるってそんな感じで』
 あの時の、透き通るような寂しげな表情。あれは忘れられない。
 彼女が医師でありさえすれば、努力の末自身で病院を切り盛りする事も可能な筈なのに。この進路では、ゆくゆくは病院の後継者の為に政略結婚を強いられかねない。いや、間違いなく強いられる。
 それもあり、私はこの事を彼女自身から聞かされた時は信じられなかった。だが、そんな私を彼女は笑って見つめるだけであった。



 そのような伏線の数々が全て一本の糸に紡がれたのが、去年―2024年の夏。
 夕焼けの託児室。美しく成長した21歳の彼女が告げた言葉。
『私が大学を卒業した、その時には。私をあなたの奥さんに貰ってくれませんか?』
 この瞬間。私が思い込んでいただけの、仮初の調和は全て崩れ去った。

 私は、草薙美咲に対しては常に自分の娘代わりとして接していた。周りの皆にもそう言い続けたし、少なくともそれに対して他の人間から反論された事はない。
 だが、肝心の彼女はそうは思ってはくれなかった。よりによって、一番大切にし大人になるまでは面倒見ようと思っていた第二の娘は、私を父としては見てくれなかった。………一人の男性として見ていたのである。
 そして理事長や周囲の反応の意味も、やっと理解できた。
 何のことはない。皆は、私に『草薙家の後継者』になって欲しかったのだ。そんな皆の想いを、彼女は巧みに利用した。
 彼女はもう大学4年生。後戻りは出来ないし、医師でない以上後も継げない。後継者となる医師と政略結婚する以外、病院を草薙家が保有する手段は無い。…本来なら彼女にとって悲劇。
 だが…最初から周囲が望む一人の医師を狙い撃ちにして、かつその相手は彼女が元々結婚を望んだ相手だったとしたら。
 彼女も、草薙家も、病院の関係者もまったく不幸にならない。万事上手く収まる最高のハッピーエンドへと変わってしまう。
 当の本人たる私を除けば。
 彼女が大学を選ぶ時点で既に事態は動き出していて、私が気が付いた時には退路は封鎖されている。全ては、彼女が狙ったシナリオ通りになっていた。草薙美咲はもう小さな女の子ではなく、立派な一人の女になっていたのだ。それに気づかなかったのは………私一人だけ。





 そして、それから半年。必死に彼女と周囲を説得し続けたものの、無益。
 遂に彼女の大学の卒業式が、今日、終わってしまったのだ。




 ソファの向かいには、思いつめた表情の草薙美咲。…ぱんぱんに膨らんだ風船みたいな物だろう。下手に刺激したら、大爆発する。
 私をやっかむ者や妬む者、嫌う者のせいで窮地に立つなら、なんとでもやりようがある。だが、私を男として愛している、そして私が娘として愛していた女性を相手にするとなると、通常手段では妙案は浮かばなかった。

(もう、これ以上は無理だ。…私は全て失っても構わない。これで彼女が私を嫌ってくれるなら、本望だ)



 私は、遂にジョーカーを切る決心をした。



 IBFでの過去。娘の事、妻の事。洗いざらいを彼女にぶちまけた。私は殺人者。治療薬開発部門とはいえ人殺しの道具作りの片棒を担ぎ、その為に妻と娘を死なせた。ライプリヒへの復讐すら他人任せ、TBの治療薬を作る義務すら放棄して、挙句にのうのうと自分ひとりが生き延びている。自分はそんな最低の人間。

 彼女は、何も言わずに私の話を聞き続ける。

「だから、諦めてくれ。私には、家族を持つ権利など存在しない。まして幸せになる権利など無い。私と一緒になるなど、自ら不幸になるだけだ」
 私の最後の言葉。
 …次に彼女が口を開いた時。私は草薙親子と病院の職員全員を騙し、裏切った張本人としてこの地を去ることになるだろう。だが、それでも彼女が…私の二人目の娘が不幸になるよりは、ずっといい。




「それならば、亡くなった奥様と娘さんの代わりに、私と私の子供達を幸せにしてくれませんか?」


 夕焼けの光を浴びた彼女の返事は、私の期待したものではなかった。


「私を娘としてでも愛してくださったあなたは、結局家族無しには生きられない人なんですよ、きっと。
 不幸の償いを、不幸でする必要は無いんです。…亡くなられた奥様と娘さんも、あなたが不幸になっても喜ばないと思います。
 だから、奥様と娘さんを不幸にした償いは、私と生まれ来る子供達を幸福にする事で返してください。
 第一、あの時言って下さったじゃないですか?『とりあえず、君とお父さんの為に、生きてみるよ』って。だったら、そのとりあえずを一生続けてくださいな」



………その言葉に、私の心は遂に折れた。











2051年8月17日(木) 午前2:17 喫茶店ルナビーチ2F






「ろまんてぃっく、だねぇ〜〜〜♪♪♪」
「お母様………本当に、『魔法の言葉』です………」
 うっとりと乙女モードに突入している娘二人に、なんともいえない表情をする父親。
「まさか、娘と同い年の女の子に見事に嵌められて、挙句にあんな決め言葉言われるとは思わなかった。完全に私の負けだったよ。…結局、私は良しにつけ悪しきにつけ、家族に拘っていたから。ああ言われると、最早自分を誤魔化す事すらできなかった」
 そう言って頭をかく。
「娘と同い年?そういえば、お母様は…」
 小さいココが、何か気づいたように言葉を挟み。
「ああ。2017年に出会った時は中学3年生、14歳。誕生日は12月17日。つまり、美咲はココと寸分違わない同い年なんだ。あの直後、ココの話を美咲の奴は義父にしたらしい。後日、顛末を二人で報告しに行ったとき大笑いされたよ。『お互い、娘っ子にしてやられたな』って」
「ふふっ、なるほど。お母様が来なかった本当の理由って………」
 一気に小さいココの表情が悪戯っぽく変わる。
「多分、そうだろう。自分と同い年の娘に会うってのに気後れした訳だな。増して………」
「お姉ちゃん、見た目は私と歳、ほとんど変わらないですから。お母様、来ていたら多分卒倒していたと思います」
 二人揃って苦笑する。
「?」
 一人会話の蚊帳の外のココは、訳が分かっていなかった。



「そういえば、小さいココさんのお仕事って、何なのかな?」
 何の気なしに、ココが尋ねてみる。 
「結局、お母様の跡を継いだんですよ。今、病院の託児室で保母さんやってます。何しろ新人なものですから、お母様も先輩方も容赦してくれません。毎日毎日、怒られてます」
 てへへと笑ってそっぽを向く草薙ココ。
「ふふふーん!ここにも先輩がいるのです!」
「え?」
 思わず振り向いて…草薙ココは後悔した。明らかに悪意を感じる笑いを満面にした姉が目の前に居る。
「ココも保母さんなのですよ!大学を卒業いたしましてからすぐにLemuの保育園にお勤めしたんだ〜♪だから、小さいココちゃんは私の後輩なんだよ?もう勤続7年目のちゅーけん保母さんのココがびしびしと指導してあげるからねえ〜♪♪♪」
「お、お父様ぁーー!」
「諦めるんだ。この件でココと美咲に私は逆らえない」
「えうー………」
 さっきまでからは想像も付かない子供っぽい表情と言葉遣いで、草薙ココはがっくりと肩を落としたのである。
「うひゃひゃひゃひゃ」
 すっかり爆笑モードに入ったココであったが……
「美咲は保育歴20年超の超ベテランだからな。どっちのココも、さぞ厳しくしごいてくれるだろう」
「うひゃ……もしかして、ココも?」
「ああ。…せいぜい頑張ってくれ」
 因果応報。合掌。



「さて…ってもう3時過ぎだ。流石に遅いから、二人とももう休みなさい」
 時間を忘れて話していた結果、もうこんな時間になっていた。父親らしい発言に、
「はいはーい、了解でありまーす!パパ。お休みなさいなのです〜♪」
「分かりましたお父様。それでは、お休みなさい」
 娘達は殊勝に頷いておやすみの挨拶をして床につく。
「お休み。わたしの大切な、二人のココ達」
 挨拶を返して、八神岳士も睡魔に身を委ねた。


「ねえ、小さいココさん?」
「なんですか、お姉ちゃん?」
「小さいココさんのママさんに伝えてくれないかなあ?『ココも、パパが幸せで嬉しいよ。美咲さん、ありがとう』って」
「ふふっ。お母様も喜ぶと思います。ちゃんと伝えますから、安心してくださいね」
「うんっ!」






2051年8月17日(木) 午前10:30 喫茶店ルナビーチ






 朝一番、草薙ココがのたまった。

「実は、今日は私の誕生日なんです」

「えーっ!小さいココさん、何で早く言ってくれなかったの?パーティの準備、しないといけないよ?」
 突然の発言に、八神ココはかなりびっくり状態。
「ふふふ。それなんですけど、お父様」
 そんな姉を含み笑いで見やりながら、草薙ココは突如話相手を切り替える
「ああ。誕生日プレゼントの事だな」
「ええ。私、お父様に言いましたよね。誕生日プレゼントは、その日におねだりしますからって」
 父親に念押しをしてから、改めて姉に向き直る。
「お姉ちゃん。お誕生日パーティは要りませんから。その代わり、誕生日プレゼントをおねだりしてもいいですか?」


 草薙ココがねだった、誕生日プレゼントの内容は………


「お姉ちゃーん!テーブルこんなものでどうですか?」
「ダメ〜♪ もう一回拭いてください」
 八神ココ。何気に仕事には容赦なし。
「ココ。この茶葉、使っても良いのかい?」
「(それはいづみさんの…あははー、いい機会だから使っちゃおう)良いですよぉ!ただ、ちょっとお値段高めのスペシャルメニューでお願いですよ、パパ」

「で、小さいココさんは何が出来るの?」
「とりあえずサンドイッチなら何とかなります。…あとカレーくらいなら」
「それじゃー、カレーは本日のびっくりどっきりメニューに決定なんだよ!」
「お姉ちゃん、酷い(しょんぼり)」
「あり?お勧めメニューの事だったんだけどなあ」
「だったら正直にそう言ってください、お姉ちゃん………」


 店の目立つところに置かれた一枚のホワイトボード。そこに記されているのは、



 2051年8月17日(木) 本日のシフト表  

 マスター臨時代行 八神岳士(草薙一十峰)  出勤・終日。
 先輩ウェイトレス  八神ココ  出勤・終日。         
 新人ウェイトレス  草薙ココ  出勤・終日。






                       からんからん………



       

                    「「「いらっしゃいませ!!!」」」







                                              ― Epilouge 3 End ―
  後  書


 今回は、いつもとは異なります。
 

 神楽坂葵様:原案・監修、文:あんくん。初めての共同作品の位置づけとなりました。

 
 とにかくE17キャラの中では、空と並んで一番SS本編では出番が少なかったココ。挙句に当初考えていたココエピローグもとにかく貧弱なシロモノ。Lemuの保育園で子供達に毒電波発生法を教えているというひねりもなにもないものでした。


 最初に私のSSに神楽坂様が感想下さった時の内容が『八神博士死亡説に違和感あり』というもの。ほとんどのSSでは死亡扱いだったので、とても新鮮な説に写りました。これが私と神楽坂様のなれそめ。


 神楽坂様のプログで意見交換していく内に、神楽坂様からジャイブ公式設定資料集の一文を示されまして。「どう料理するか楽しみです」って言われて…考えたのがこの話の原案です。

 どうやって、優春や桑古木がIBFでの悪事の数々の証拠―刑事告発出来る位のレベルの物―を手に入れたのか。けっこうこれは悩みの種でした。一応八神博士生存説を採れば彼がIBFから持ち出したという解釈が一番自然。ところが誰も彼の生存を知らない。そうなると今度はこの二人を繋ぐブリッジ役が必要になるんですけど…適役が出てこない。わざわざ優春にこの決定的証拠を託す理由を持つ存在が居ないんです。
 ですが…E・A氏はその役にぴったりな存在でした。公式に設定されている、田中博士をライプリヒに売った事の罪悪感に苦しむ存在。彼ならば、この決定的な証拠を間違いなく田中家に渡してくれる。この設定が出てきたことで、話の大筋が決まりました。
 同時に、本当に気が楽になりました。『ああ、これで優春や桑古木に考えていたほど黒い設定を負わせなくて済む』って。

 最後に、前二編のエピローグや序章・本編7を見れば分かりますようにエピローグの時間軸は2051年8月にあります。今度はそこへの時間を繋ぐ為と八神父子を繋ぐ為の存在が必要になります。そこで小道具として『苦くないダージリン』と『小さいココ』の一連のエピソードを創作しました。

 こうして、このIBFの解釈からほのぼの話までを網羅した『ココエピロ−グ』は生まれました。事実上、神楽坂様が作ったお話です。私一人では絶対にこの話は生まれなかったでしょう。

 その為、非礼を承知の上でお名前のクレジット使用を神楽坂様にお願いした所、快く快諾頂きました。更に、それに留まらずこの話に対する意見等まで頂きました。その御意見を踏まえて作成、改稿したのがこの作品です。

 最後にこの場を借りて、神楽坂葵様の限りない御協力に対して厚く厚く御礼申し上げます。

2006年7月25日  初稿  あんくん 
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