2051年8月16日(水)午後6時00分 田中研究所 RTS棟キュレイ転送用RTS室




「SGLS、RTS準備完了しました…。来ます」
 久遠の報告と共に、忽然とRTS転送領域に人影が現れる。


「おう、帰ってきたか優」
「お帰りなさいですの、所長さん!」
 RTSサブ制御ユニット室から手を振る桑古木涼権と茜ヶ崎久遠の挨拶に。

「ただいま。まったく世話を焼かせてくれるわ、あの陰険坊やは。私へのあてつけ?
『飛ぶ鳥後を濁さず』って言葉知らないのかしら」
 田中優美清春香菜は、嘆息しながら手を上げて挨拶を返した。





未来へと続く夢の道 −EP5 主従として 家族として 伴侶として−
                              あんくん



〜 田中優美清春香菜&桑古木涼権 〜






2051年8月16日(水)午後6時17分 田中研究所3F 所長室



 過去、何度も様々な物語の舞台となったこの所長室。常にその場に香っていたのは、琥珀色の紅茶から立ち上る馥郁たる香りであった。
 そして今は。

 馥郁たる香りという表現には間違いはない。異なるのはカップの中身が漆黒の液体であり、香りが清涼さではなく重厚感を伴うものに変わっていること。

 この室内にいる4人の前には、ティーカップに注がれたダージリンティーではなくコーヒーカップに注がれたキリマンジャロコーヒーが置かれていた。
 淹れたのは…

「ご苦労さん、東雲(しののめ)」
「…副所長さん。何度も、その呼び方は他人行儀ですのでやめてくださいと申しましたけど。『シノ』と呼んで下さいませんか?」
「全く同感。意外とこういう所は律儀というか、融通利かないというか。
 サンキュ、シノ。空の紅茶も大好きだったけど、やっぱり私は珈琲党だわ。空って珈琲淹れるのあんまり上手じゃなかったから我慢してたけどね」
「シノちゃんありがとうですの!」

 茜色の髪と空色の瞳を除けば、外見は空に瓜二つ。夏の暑い盛りという事もあって、ノースリーブのチャイナ服の上下を纏ったうら若き美女。

 茜ヶ崎東雲。朝焼けの茜空を表す古語を名前に有する女性型AI。
 茜ヶ崎空が『ノア』に上がり、優のサポート役は当然交代しなければならない。その為に開発されたのが東雲。新機軸によって製作された次世代型の空システムであり、現用機の中では一番新しい機体でもある。守野遺伝子学研究所長、守野いづみを首班とする専属グループが開発を担当。…珈琲の淹れ方はいづみ直伝である。
 最大の特徴は…『RTS制御用の機体』という機能が失われたこと。『空システム』ではあるものの、最新技術を集めたカスタムメードの彼女のメインフレームには一切空のデータは流用されていない。故に既存の空システムとは『精神の双子』が成立しないし、意図的に彼女にはSGLS用のインターフェイスが搭載されていない。
 そしてもう一つ。彼女には禁断のデバイス、『ミラージュ』の改良型が搭載されている。すなわち、自身のメインフレームプログラムを『妄想』という形式を利用して変更することが可能なのである。

 宇宙開発に必要なマンパワーを補うには、現在のキュレイの人口は少なすぎる。自然増や人口増加奨励政策を計算に入れても、近い将来に人手不足は深刻になると予想されていた。
 故にそこを補うために注目されたのが、『空システム』のアンドロイドの側面。空システムを『サーバント』即ちキュレイの従者として生産し、危険性の高い業務や電子頭脳の方が向いている業種に振り分けて人手不足を解消しようというプランが立案され、現在試験段階として運用されている。

 結論から言えば。茜ヶ崎東雲はパーソナルサーバント型のAIアンドロイドの試験機として製作され、もっともAIとの接触が密であった優に託されていたのである。


 優は、淹れられた珈琲を一口すする。
「ああ、生き返るっ!一仕事の後のコーヒーって最高!!!それに今までに無い味だけど、これって私好みかもね」
 優はほにゃらーという感じのリラックスした表情を作り出し、
「恐縮です。今日はいい豆が手に入りましたので、新しい焙煎を試してみたんですけど。気に入っていただけて良かったです」
 東雲は赤くなってひたすら恐縮する。
 これを皮切りに、話題は身近な雑談へと移行する。研究所職員の失敗談や、最新の科学事情といった硬軟入り混じった話題の数々。
 話題の数と共に、かなり大き目のポットに入れられた珈琲が量を減らしていく。そんな心安らぐ時間が過ぎていき。


「だけど、今後はこの部屋に集まる機会も殆どなくなるわね……」
 ぽつりと呟いた優の声が、そんな時間の終わりを告げた。


「そうだな。二代目NUNCPC委員長兼INPAOの最高運営責任者。キュレイのトップになっちまったからな、優は。
 こうなるとほとんどこっちには戻ってこれなくなる。とてもこんな風にみんなでくつろぐなんて贅沢、そうそうできねえだろうなあ」
 桑古木も頬杖を付いて嘆息し、向かいに座る優を見やる。
「まったく。最後の最後まで嫌な奴だったわ、あの陰険坊や。好き勝手にやるだけやった挙句に責任私に押し付けてくれちゃったからね」
 むーっという感じで、優は顔を歪めて見せる。理性ではトムの選択は正しいとわかってはいても、感情面ではやっぱり納得できない。そういう内心が表情に反映されている。

 NUNCPC、新国連キュレイ種保護委員会。名称は設立時のままであったが、今では『キュレイ種自治政府』と言える位の立場と権限を有する存在となっていた。当然の如く規模は急拡大しており、さまざまな下部組織とそれを支える官僚機構を有している。
 INPAO、国際ノアプロジェクト遂行機構は言うまでもない。人類の存続を左右する世界最優先のプロジェクト。既存国家はこれに協力すると同時に主導権を握ることを欲し、この組織の上層部は文字通りの政争の坩堝と化していた。キュレイ種がトップになっているのも、むしろ特定国家が主導権を握るのを防ぐためという側面が強い。
 並みの人間にはこの二つは統制しきれない。トム・フェイブリンという強力な官僚政治家の後任は、困難な舵取りを強いられることになる。

 そんな立場に選ばれたのが、優だった。
 キュレイ種の『表の人間』としては『ミズ小町』と『トム・フェイブリン』、『飯田億彦』の次に高い知名度を有していたし、最も早く自身がキュレイであることを明らかにした人物の一人でもある。
 また、『空システム』の元来の所有者でもあり、彼女の動向はノアプロジェクトを左右するに十分な影響力を持っていた。
 故にキュレイ達は彼女の能力と影響力に期待し、既存国家の政治家達は彼女の首に鈴をつけることを望み。両者の利害が一致して、『2代目NUNCPC委員長兼INPAO最高運営責任者 田中優美清春香菜』が誕生したのである。

「まあ、しょうがねえけどな。ノアプロジェクトのほうに人材のかなりの部分を取られている。優しかこの手を捌ける人材は残ってないだろうし。
 まあ、やりたいようにやって来い。留守は俺が守るからさ」
「はいですの。涼権さまと研究所は、久遠にどーん! と任せなさいですっ!!!」
 元気付けるように、胸を張って保障する二人。
 当然の如く、優がこの研究所まで面倒見るのは無理がありすぎる。殆どNUNCPCやINPAOの本部のある新国連特別区やノアプロジェクトの実務統括本部があるLemuに詰めなければならない立場である。結局、本来の本拠地である田中研究所は後を誰かに託するしかない。当然、その任に当たるのはNo.2であり優の配偶者である桑古木と、その秘書兼副官である久遠しか居ない………



「はあ?何他人事みたく言っているのよ?
 涼権、あんたも来るに決まっているでしょうが!!!」


「はあ?」
「なんですとおぉーーーーー!!!」

 当然の様に、当然の事を一言で否定してのけた優に。桑古木と久遠は目を点にした挙句に、鸚鵡返しに間抜けな返事を返すしかなかったのである。


で、一瞬の間を置いて。

「って、何ふざけたこと言ってるですか所長さんっ!!!」
 大噴火。世界広しといえども、ここまで優に食って掛かれる存在はつぐみと久遠位しか居ない。
 怒りで顔を真っ赤にして優に詰め寄っていく。
「どーこがふざけているって?涼権は私の所有物なんだから、地の果てまでついてくるのが当然でしょうが。そんな分かりきった事訊くんじゃないわよ!」
 こちらもどう見ても子供の返事。まるっきりジャ○アニズム。

 すっかり子供のけんか状態で、至近距離でにらみ合う美女と美少女。

「大体、個人の我侭で何とかなるようなものじゃないです、所長さん!」
 しごく全うな理論。確かに新国連の人事はそう簡単に決められるものではない。久遠の突っ込みは正鵠を得ていたように見えた。だが………
「あら、残念ねえ。もう新国連安保理で人事の承認貰っているから変更は利かないわ。
 NUNCPC委員長直属首席補佐官、INPAO主席統括審議官。涼権、これがあんたの新しい肩書き。シノにも私の主席秘書官の肩書きを貰ってきたわ。
 さて久遠。これでもまだごねるつもりかしら?」
 優の表情を彩る勝利の笑み。久遠の突っ込みは逆に自爆を誘発する結果となった。

「おい、ちょっと待て優。お前、何考えてるんだ?
 優も俺も研究所から離れて、この田中研究所の今後はどうするんだよ?それに清涼と美春はどうする?二人とも学校だのなんだのがあるじゃねえか。まさか子供達ほっぽって俺達だけ新国連に赴任するなんて言うつもりじゃねえだろうな?」

 今度は桑古木が、怒気をはらんだ言葉と共に優に詰め寄る様に身を乗り出す。その顔は紅潮している。

 桑古木清涼(かぶらぎ きよすず)と田中美春(たなか みはる)。名前から分かるように優と桑古木の長男と長女である。清涼が8歳で美春が6歳、共に小学生。で清涼が沙夜の、美春が冬香菜の同級生でもある。

「二人とも連れて行くに決まっているわよ。小学生を残して両親だけ海外転勤なんて無責任な真似を私がするとでも思っていたの?
 それに何のために武を研究所長代理に昇格させたと思ってるわけ?
 武も立派に一人前。研究所は所長代理と副所長代理に任せとけばいいのよ。武はカリスマって点じゃ飛びぬけてるし、実務で足りない部分は副所長代理の松永が差配してくれるわ。………涼権の憧れる理想の男がこの程度の事乗り切れないわけがないでしょうが。心配性も度が過ぎるとただの嫌味よ?
 どうせいつかはこんな日が来るんだから。それがたまたま今日だっただけ」
 優は夕食の献立を告げるような口調であっさり答える。顔に浮かぶのは微笑み。

「………本気、なのか?」
 表情を消した桑古木。
「………本気、ですの?」
 久遠の表情は蒼を通り越して蒼白。

「ええ、本気も本気。すでにこれは既定事項。最早、後戻りは出来ないの」
 口調は全く容赦なく、表情は反論を許す余地は無く。優は淡々と、言い切った。


 静まり返る室内。極僅かな静電音までもがはっきりと聞こえる。そんな『静寂』のみが支配した空間。


「いつもどおり、俺が出来るのは『後始末』だけなんだな………」
 すこし俯いて、力なく肩を落とす桑古木。
「ええ、その通り。
                   人間は、自身の『産みの親』は選べない。
 何の因果か、清涼と美春は私と涼権の子供として生まれてしまった。ユウも私の子供だけど、残念ながらユウの時とは状況が違いすぎる。
 間違いなく、この子達は平穏な人生を送る事は叶わない。普通の人間として平々凡々で居ては、人生はそれほど長いものにも幸せなものにもならないでしょう。だから、この子達は強く逞しく、そして賢くあらねばならない。理不尽な状況を智恵と忍耐をもって打ち破れるような人間になってもらわなければならないわ。
 だから、二人とも新国連特別区へ連れて行く。
 多くの言語を覚え、多くの国の人々と出会い、多くの考え方に触れ、そして…世界の裏も知る。その為にはあの場所は最適。あらゆる国籍の人間が溢れ、思想と政争の坩堝でもあるあの場所はね。
 そして…出会いには別れがあり、別れがあればこそ再会もあるということも知ってもらいたいの。確かにあの二人にとって、夏香菜や冬香菜や沙夜や……他の多くの人々との別れは辛いかもしれないけど。それを乗り越えてこそ、人間として大きくなれる。私は、そう信じている。
 正直、無茶言っているってのは自分でも分かっているけど。でも、産んでしまった以上これは私の義務。産ませてしまった以上これは涼権の義務。今やろうとしているのもまた、『親になった後始末』よ」
 口調は淡々としたまま。『田中先生』の表情で、優は言葉を紡いでいく。

「そうか……優が決めた以上、もはや俺には反論をする余地もなければ意味も無い。
 だがな。久遠を一体どうするんだ。武にそのまま預けるのか?」

 言葉に僅かな怒気が混じる。言葉の宛先は優だが、表情と言外の意味は別の存在に向けたもの。
彼の視線の先には。
「………」
 表情を歪め、涙と嗚咽を堪え、両手をぎゅっと握り締めて。俯いたまま必死で堪えている久遠の姿があった。

 久遠の存在の第一義が『RTSの制御』。彼女の管轄するRTSはこの田中研究所の物。新国連には『アーシア』という空システムが存在し、彼女が新国連のRTS全てを管轄している。
 遠隔型RTS制御は実用化されたものの、それでも極端な遠いところから制御できるわけではない。つまり。
 茜ヶ崎久遠は田中研究所とその近辺にしか居る事は叶わない。つまり、この優の決定の結果として、久遠は『最愛の涼権さま』から引き離されることとなる。
 余りにも唐突で、一方的な別れ。
 彼女にとって、現状は突然控訴審なしの裁判で死刑を言い渡されたに等しいものであった。



 今度の静寂は、ぴりぴりと帯電した空気の中。そんな一触即発、すこしでも火花が散れば大爆発の空間の中で。




           「ふふっ、ははっ……あははははははーーーーー!!!」


               優は突然、火がついたように大爆笑し。


           「何がおかしいですか、所長さんーーーーーーーー!!!」


                久遠の怒声が、部屋全体に響き渡った。




「おい、優。その態度、いくらなんでもあんまりだ。俺は見損なったぞ!」
「優さん。流石の私も、今回ばかりは久遠姉さんの肩を持たせていただきます」

 桑古木と東雲も、全身に怒気を孕ませて優を睨みつける。
 

 そんな3対の灼熱の視線の集中砲火の焦点の中で。



「あはは、ごめんごめん。久遠の早とちりがあんまりにも可笑しかったものだから。
 何を考えていたのか知らないけど。私は久遠を置いていくなんて一言も言った覚えは無いんだけどね」
 腹を抱えて笑いを堪え、目じりに涙を溜めながらの優の言葉。




                       「「「はいっ?」」」



 今度は、他の3人が硬直する番だった。



「大体、久遠を置いていくなんて言ったら、私や涼権はとにかく清涼や美春が承知しないわ。
 只でさえ大きく環境が変わるっていうのに、久遠まで居なくなったらあの二人があまりにも可哀相だもの。
 当然あんたも来るのよ、久遠。涼権の主席秘書官の肩書き分捕ってきたから」
 笑いを悪魔のそれに変えて、優がじっと久遠を見る。

「ええっと、そうなるとこの研究所のRTSの担当がいなくなりますよねえ。アーシアと久遠が交代するんですかあ?」
 当惑と混乱の表情で、しどろもどろに問う久遠に対し。
「うーん。いくつかプランはあるけれども、取り敢えずはアーシアは現状どおり新国連に置いておくわ。RTSやSGLSを使用できる久遠を手元にフリーランスで置いておいたほうがいろいろ対応できるしね」
 胸ポケットから取り出したキャップの付いたままのサインペンでこめかみをつつきながら、優は曖昧な答えを返す。
「質問の答えになってません!一体何考えているんですか、所長さんっ!!!」
 不満ばりばりに優に噛み付く久遠。表情は完全に駄々っ子のそれとなっている。
「はあ……肝心な所で鈍いわねえ。頭寝てるんじゃない、久遠?」
「な、なんですとおーーーー!!!」
 完全に頭に血が上っている久遠と、余裕綽々の優。
「『な、なんですとおーーーー!!!』じゃないわよ。涼権、シノ。とっくにあんた達は感づいているわよねえ?」
 悪魔も飛んで逃げそうな極上の優の笑み。
「流石にここまでネタばらされれば、嫌でも分かる。まあ、妥当な線だろう」
「優さんの仰るとおりですね。それが恐らく一番丸く収まるでしょう」
 涼権も東雲も、納得済みといった按配でうんうんと頷いている。
「???」
「……涼権。タネ明かしてあげなさい」
 完全混乱モードの久遠に、優は表情を変えないで話を涼権に振った。

「東雲。お前さんなら分かると思うが。この研究所の所長の補佐官、並みの人間に務まるか?」
 涼権は涼権で、話は東雲の方に振られていく。
「正直難しいですね。空システムが補佐するって前提の下に内部処理のマニュアルが作成されていますから。並みの人間ではとても補佐しきれないと思います」
 済ました顔で、淡々と答える東雲。
「ふむ……それじゃ久遠、問題だ。倉成武所長代理の補佐とRTSの制御を両方とも担当するのに一番適した存在は誰だ?」
「って、それじゃ!!!」
 流石に、ここまで言えば分かる。そんなご都合主義な存在など一人しか居ない。

「やっと分かったかしら。
 ま、そういう事。『彼女』に任せておけば後顧の憂いは何も無いわよ。
 で、どうするのかしら久遠。別にここに残ってもらっても構わないんだけどね?」
 びしっ!とサインペンを久遠に突きつけて、優が表情を消す。
「当然付いていくですの。所長さんとの勝敗はまだ付いてません!!!」
 きゃしゃな肩を怒らせ、びしっ!と優に指を突きつける久遠。
「上等よ。しょせん私のワンサイドゲームだけど。それでもノーサイドまでは付き合ったげるわ」
 また真正面からにらみ合う二人。
 そして、そのまま……


「くっくっくっ、なんだか可笑しくなって来ちゃったわ」
「えへへへへ。久遠もですよ、所長さん♪」
 
 二人とも、顔を見合わせたまま笑い出し。

「ったく。ハナっからそう言え、優よ」
「そうですよ、優さん。意地悪はだめですからね」

 残りの二人も、そんな二人の姿に思わず微笑んだ。






      2051年8月16日(水)午後7時30分 田中研究所1F 大食堂



 システム調整室へ向かう東雲や一度田中家に向かう久遠と別れ、優と桑古木は夕食を採る為に大食堂に下りてきていた。

 高機密仕様のブースを一つ占領し、厨房から運ばれた定番の『デラックスAディナー』を目の前にして。
「おい、いきなり飲むのか?」
「もう勤務時間外。これくらいバチは当たらないわよ」
 呆れる桑古木の向かいで、ビールジョッキを片手にしてウィンクしてみせる優。
「……だからって、ビールサーバーごと持ってこさせるかよ」
 テーブルの脇に鎮座する、業務用生ビールサーバー。これもまた厨房から持って来させた物である。
「涼権には言う権利は無いけどね」
「ふっ、違いない」
 桑古木の手にも、ビールジョッキ。優共々、ジョッキの中にはなみなみと満たされた生ビール。確かにこれでは苦情を言う権利など存在しない。
「正直、乾杯の理由なんて何にも思いつかないけどね」
「…普通の政治家連中なら大パーティーしてるんじゃねえか。今回の場合?」
 苦笑に嫌味で返す。
「……私や涼権に、そんなのが似合うって思っているのかしら?柄じゃないわよ」
「全く以て優の言う通り。こうやって二人で意味も無くビールジョッキで飲んでるほうが性に合う」
 嫌味が苦笑に変わる。
「大体、今の方が贅沢だわ。高価ではないけど舌に合う料理と……」
「邪魔者なしの無礼講。料理と酒だけ高価で、気も休まらない社交辞令と虚構の塊の会食なんぞに比べれば遙に贅沢だな」
 苦笑がニヤリ笑いに。
「分かればよろしい。それじゃ、何にも挨拶はなしだけど」


                            「「乾杯!」」



 普通ならばこういう場合は『差しつ差されつ』と表現するのであろうが。この二人の場合、勝手に飲んで勝手に注いでなので、とてもそんな表現は使えそうにない。
 たまに相手のジョッキが空の時に継いだりはしているものの、大部分が『おら飲め!』みたいなアピール付きなものだからなおさら。風情も何もない光景。
 で、その末に……
「はあ、飲んだし食ったし。満足満足」
「行儀悪いわねえ、涼権。そんなことしてたらブタになるわよ?」
 ほんのり赤くなった酔いどれ表情でぽんぽんと腹を叩く涼権に、これまた同じ顔で優がたしなめる。
「なーに他人事のように言っている。眼の前の皿の数を見ろ。……ダイエット気にしている女性陣に刺されても知らねえぞ?」
 表情そのままで、いつものようにやり返す涼権。確かに、これだけ飲んで食べて太らないっていうのはダイエットを気にする一般女子にとって最悪の反則である。
 山と積まれた追加オーダーの皿の数々と、もう一滴も出なくなったビールサーバー。文字通りの『惨状』と化しているブース内。
 最後のジョッキに残ったビールをお互いちびちびとやりながら。


「全く。久遠の件はどうなるかと思ったぞ、優?それに武の件を俺まで伏せるかお前はよ」
 涼権は、口火を切った。

「あーら?涼権がキれた事こそ驚きだわ。久遠を切れないって事一番知っているのは他ならぬアンタでしょう。そこを考えれば自明だと思ったんだけどね」
 赤い顔のままの優。その表情は酒精の故か感情の故か。
「まあ、そう言われちゃ身も蓋も無いんだが」
 こちらはため息。表情が赤いのはどのような感情故か。


……女性の社会進出において、もっとも難題となるのが出産と育児である。残念ながら、こればかりは自然の摂理である以上避けて通れない問題である。
 一般職員であれば給料と職階を制度的に保障すればある程度の対応は可能であるし、資金的に裕福な田中研究所は十分な対応を行っていた。
 だが、それはあくまで一般職員。一般職員の代わりは居ても、所長である優の代わりは存在しえない。普通の職員のように育児休暇を気楽に取れる立場ではないのである。

 という訳で、長男 清涼が誕生した時も最低限の産休の後に職場に復帰した。とりあえず所内の託児室を強化して乳児でも預かれる体制は整えたものの、子育てという点でハンデがある事は優自身認めざるを得なかった。
 優にとって清涼は二人目の子供であり、多少は『産み慣れ』という要素がある。愛情は十二分であっても、ある程度は冷静な第三者の目で見ることが出来るようになっていた。
 対して、涼権にとっては初めての子供である。通常の父親の例に漏れず、赤子の可愛さに完全にメロメロ状態になっていた。しょっちゅう仕事を抜け出しては子供の顔を見に行っていたし、家でもこまめに子供の世話をしていた。
 ここまでなら、母親が上司の場合の共働きの典型と言えるのだが。ここからが普通と異なった。

 空システム2号機、茜ヶ崎久遠。彼女までもがこの赤子の可愛さに完全にめろめろになってしまったのである。とにかくその子供萌えっぷりといったら、作者如きの語彙で表せるものではない。
 それまで『涼権さま』中心に世界が回っていたのが『涼権さまとそのお子さま』中心に回るようになってしまったのだ。
 で、久遠の性格を考えてみよう。天真爛漫で、独特の子供っぽい喋り口調。表裏が殆どなく直情的で、それでいて基本的に他人に害を為す事を嫌う(例外が約2名ほど居るが)。こういう性格の人間は、大抵子供達に好かれる。
 そんな彼女は瞬く間に託児室の人気者になり、同時に主となってしまった。なにしろ子供達の反応が格段に違う。彼女の肩書きに『託児室非常勤主任』なるものが追加されたのもこの頃。
 でもって、次に長女・美春が生まれる。今度は女の子だった為、またしても涼権と久遠はめろめろ状態。流石に仕事に支障を来たすマネこそしなかったものの、完全に日常が子供達中心に回るようになっていた。
 さらにこの時期に遠隔操作型RTSが実用化され、久遠も研究所にずっと詰める必要性が薄れた。全員の利害の一致の結果として、久遠は二人の子供達のベビーシッターや教育係・世話係を兼務することになる。

 今度は子供達のサイド。忙しくてなかなか構うことが出来ない母親に対して、いつも世話を焼いてくれる久遠や父親の方に二人とも懐いた。
 もっとも、涼権の事である。過剰に母親に疎外感を抱かないように努力した甲斐もあり、子供達も優にもそれなりに懐いた。……だが、温度差があるのも止むを得ない。
 結論から言えば。清涼も美春も久遠べったりとなり、事実上久遠は二人の『第二の母親』ともいえる存在になっていた。

 技術部門からもこの事は歓迎された。久遠に搭載された『ミラージュ』は、多岐にわたって絶大な威力を発揮していたのだ。
 まず、情報機械においてもっとも切実な問題である『ソフトウェアの規格』。互換性を阻害するこの要因を『ミラージュ』はあっさりと乗り越えて見せた。『妄想』という形態は『思い込み』とも取れる。本来仕様の異なるハードのソフトウェアを、自身とハード両方が稼動できるように簡単に書き換えてしまうのである。この事により、ハードウェアのテストベットや最終デバッグの側面においての久遠の貢献は絶大なものがあった。
 所内生活に比べて、さまざまな局面が想定される外の生活はテストという側面からは大歓迎されたのである。

 そして、『ミラージュ』の持つ最大の特徴。人工知能システムの自律的な改変とそれに伴う自我の成長。正に人間同様、単一の人工知能が『成長』していくのである。
 人工知能は、基本的には成長しない。様々な情報を蓄積し対応手段は増えていくものの、メインフレームそのものは全く変更できない。俗に言う『人工知能の成長』とは、『ツールの増加による対応性の拡大』であって『メインフレームの進化的変更』ではないのである。
 だが、『ミラージュ』を搭載したAIは違う。『妄想』という手段のフィードバックを以てメインフレームを改変することにより、久遠の人格は確実に変化し、成長し続けている。昔久遠が沙羅に語った言葉は、この事を意味していたのだ。
 そして、その成長にこの二人の子供が大きな影響を与えた。涼権や優との付き合いは久遠の『恋する乙女』の部分を強くしていたが、子供達に触れ合っていくうちに『母性』や『保護者』の側面が強く刺激されその部分が大きく成長したのである。
 この久遠の成長は、当然の如くAI工学の分野においては奇跡ともいえるもの。彼女に対する期待はいやおうにも増大していくこととなり、これに伴って『ミラージュ』に関する関心は一気に高まった。
 結局、これが茜ヶ崎東雲を生み出すプロジェクトの大きな一因ともなったのであった。

「最早、久遠は我が家の家族ですもの。初対面の時に、まさかこんな展開になるとは予想も付かなかった」
「ああ。清涼も美春も、二人とも久遠の事は完全に家族扱い。下手すれば俺や優より優先度上だからな」
 二人顔を見合わせ、ため息を吐く。
「下手すればじゃなくて、間違いなくよね。あの三人にタッグ組まれたら誰も勝てないわ」
「久遠が、子供達を利用しようと考えないのが救いかな……いや、そうだからこそ二人とも懐くのか」
「ええ。大体、そんな下心で近づくような存在なら最初っから排除しているわよ」
「で、その結果、今に至ると。優の考えは想像以上に成功しすぎちまったわけだ」
「そういう事に、なるわね」
 更にため息。

 キュレイと人類との関係が新しいものであり、様々な問題点を孕んでいるように。AI搭載人型アンドロイドと人類の関係もまた、ごく新しいもの。
 キュレイは人類の一形態だからまだいい。しかし、『空システム』は機械。そんな彼女達も、東雲のプロジェクトやノアプロジェクトが進展すれば人類世界へと踏み出さなければならなくなる。
 現在においても、潜在的なキュレイへの差別心というものは存在している。異質な存在を排除するのが集団の本能の一つだと考えれば止むを得ないし、時間をかけて解決していかなければならない。
 増してや人間ですらないAI搭載人型アンドロイドを、人と共に歩む同格の存在として人類が受け入れるまでには様々な困難が待ち受けているのは想像に難くない。
 だからこそ、そんな彼女達を受け入れる心を持つ存在を少しずつでも育てておかなければならない。その最初の存在の一端が、我が子達。
 二人とも、久遠が自分たちと同格で家族扱いするのが当然と思っている。現在は極少数派ではあるが、そんな人間達が人類の多数を占めてこそ空の一族が普遍的に人類世界に存在することが出来るようになるのだ。
 優の父が生み出し、優が育てた『空システム』。故に優は、その先を託す自身の子供達には絶対に空の一族を嫌ったり排除してもらいたくはなかったのである。だからこそ久遠の行動をあえて制止しなかった。……まさか結果的に、子供達が久遠の優先度を自分より上にするとは思ってもみなかったが。

「だから連れて行くの。子供達の最大の味方としてね。涼権の件だけだったらこれを機会に引き離す所なんだけど、あの子は自分で自分の居場所を切り開いて見せたわ。これに関しては私の完敗ね」
 最後にひときわ大きなため息を吐いて。優はこの話を打ち切った。


「さて、そろそろ武が戻ってくる時間かしら?」
 腕時計にちらりと眼をやる。
「まだ、早いと思うぞ。どうせ……」
 桑古木は苦笑い。
「そっか。どうせ空のことだからハングアップして再起動しているだろうし。多少は遅れるでしょうね」
 その苦笑いの意味に気づいた優もまた、苦笑を返す。
「まあ、そういう事だな、なにしろ……」
「空にとってみれば、事実上のプロポーズみたいなものだから。しばらくは夢見心地でなにも手がつかないでしょうし」
 掌を上に向けて肩をすくめる優。
「わざわざその為に『ノア』に名代として武を行かせたんだろうが。俺にまで内緒にして。まったく、こういう所の情報統制だけはムダに見事だな。
 それにしても、よくつぐみが承知したな。空を呼び戻す件」
 呆れ果てたという表情に先ほどの苦笑を乗せて。桑古木が尋ねる。
「『あなたの倍待ったのだから、これくらいは譲りなさい』って言ったら、承知してくれたわ。もっとも、表情を見ていると心の中は納得していないみたいだけど。とはいえつぐみは武の仕事には不干渉を貫いているし、空が暴走しない限りは何とかなるでしょう。ここの職員はそういうのは慣れてるし」
「……悪かったな」
 久遠の件をあてこすられて、流石の桑古木もばつが悪そうだ。苦笑している笑みから余裕が消えている。
「まあ、これでこの研究所も万全でしょう。武と空のコンビなら何とかなるわよ」
 優は優で、ふわっとした微笑みに表情を変えて、目前の夫を見やる。

「武だから、か。相変わらず優は武に甘い。
 結局、俺が何をやっても武は消せないって訳だ。
 相手が武じゃしょうがないけどな。34年追いかけ続けてまだ背中すら見えない相手じゃ、勝負にすらならない」
 顔を伏せてぼそりと呟く。その伏せられた顔の浮かべる表情は、誰も分からない。

「確かにあんたのいう通り、今でも私の心の中には武は居るわ。17年かけて救おうと思った真の初恋の相手を忘れられる訳なんてあるわけない。当然の事よ。
 だからそんな男は引き立てたいし、武も引き立てるに足る実力を持っている。女としちゃ見る目があったって自慢したい位だわ。逃がした魚は大きいってね」
 表情は変わらず。淡々とした口調が紡ぐのは肯定形……
「でもね、私は…
 涼権が好き!凄まじく好き!!!誰にも渡したくないくらい好き!!!自分だけで独占したいくらい好き!!!誰にも涼権だけは譲れない!!!
 だから、私は今ここに居る。だから、涼権は今ここに居る」
 一瞬の内に言葉は激情を乗せて。顔を上げた桑古木の顔を、硬い表情の中の双眼に焔をたたえた女が睨み据える。
「私が愛した男は二人だけ。一人はその愛した女と幸せに暮らし、もう一人は三世を誓って私のすぐ側に居てくれる。それで十分。優劣なんか関係無いわ。
 武と自分を比較して、自分は大したことは無いって卑下するのはいい加減にやめなさい。
 そんな事うじうじ考えてる暇があるのなら。
 この田中優美清春香菜が選んだベストパートナーだって、堂々と胸を張りなさい。努力するのなら、武に追いつくためではなく私に相応しい男になる為に努力しなさい」

 硬直し、言葉を失った男に。女は、いままで封印していた言葉を投げつける。

「大体涼権。あんたこそどうなのよ?
 私は、ココの代わりだったんでしょ!? あの17年…いや23年間、私しか守る選択肢しか存在しないから、一緒に居てくれたんじゃないの?
 答えなさい、涼権。あんたは一体こんな女の何処に惚れたのよっ!!!」

 優は表情を完全に消し、頬に力を込める。
 怒りと激情を持って応えられ、平手の一発二発飛んで来るのが当然と承知の上で剥き身のナイフを突き刺した。一方的な言葉の暴力の先にあるのは、

「さあ?今でもわかんねえ」

 いつものへらへら笑いと、最も覚悟と縁遠い言葉であった。


「……涼権、ふざけているの?」
 頬の力が緩んだ代わりに、眼光に力が宿る。
「うんにゃ。真面目も真面目、大真面目さ。
 考えてもみろ。人生メチャクチャにしてくれるし、今も昔も丁稚扱いで年がら年中こき使いやがる。おまけに俺の好みのタイプとは全く違うし、俺の理想の男に横恋慕していると来た。普通に考えりゃ、どうしたって好きになる理由なんぞ存在しないだろうが。
 第一、優の言ってる事は一字一句当たっているしな。俺にゃ、確かに優の側しか居場所がなかったし。惰性で付き合っていたってのも否定は出来ないな」
 焔の熱と氷柱の凍気。二つを併せ持つ視線に全く動じることなく、桑古木はへらへらと笑い続ける。
「じゃあなんで私の求婚受けて、夫婦や人の親やってるのよ?私は、あんたのお情けでおままごとやっているとでも言うつもり?!」
 言葉の最後には、かすかな雑音が混じる。面につたう僅かな涙。

「だあーっ!この猪突猛進の勘違い女、誰もそんな事言っちゃいねえだろうが!!!」
 ぐしゃぐしゃ。
「こら!やめなさい!!!なにすんよのこの馬鹿涼権!!!」
 突然乱暴に髪の毛をかき回され、盛大な罵声を浴びせる優。こっちはこっちで一瞬の真面目な顔を元に戻して笑っている涼権。

「俺は嫌いな人間の側にずっと居れるほど器用じゃねえ。理由は判らんが、好きなものは好きなんだからそれでいいじゃないか。
 なあ優、考えてみてくれるか?本来、俺は別に優を守らなくても良かった筈なんだ。間違った道に踏み外しかけたときは守野の親父殿が矯正してくれたし、ライプリヒとの暗闘は俺が手を下さなくとも飯田の大ボスが何とかしてくれただろうさ。ココ第一に考えるんだったら、むしろ優に入れ込む事こそ拙かった。
 実際これだけ真っ黒に染まっちまって、ココの隣に居る権利など失っちまったしな。自業自得だ」
 淡々とした口調。へらへら笑いがいつの間にか消え、滅多に見れない穏やかな顔がそこにある。
「…武になりたかったから、でしょう?」
 なぜかその姿に圧倒され、おずおずと尋ねる優。
「それだ。確かに最初は武になりたいから、目の前の人は守らないといけないって思ったんだが。いつの間にか受動的に守るのではなく、能動的に周囲の敵を蹴散らしていた。何があってもこいつにだけは指一本触れさせないってね。
 武になりたくて頑張ったのか、武に優を届けたくて頑張ったのか、それとも…優が好きだから頑張ったのか。今となっては区別も付かない。全部誤りかもしれないし、全部正解かもしれない。
 だが、結果的にいつの間にか『武になりたい』って目的が、その手段である筈の『この危なっかしい馬鹿女を守りたい』って方と逆転してしまったんじゃないか。今じゃ、そう考えている。
 正しいか正しくないかなんて小さな事だ。そう思えるって事が大切なんだから。
………だが、この関係は今と一緒か?」
 穏やかな顔に、いつものへらへら笑いと異なる笑みを浮かべて。桑古木は問う。
「全然違うわけではないけど、同時に絶対に一緒じゃないわね。
 正に『女王と騎士』だわ。あんた、仮に私が他の男を好いてその男の物になったとしても、それでいいと思っていたでしょう?…その後の末路も承知の上で」
 瞳に、光が戻る。澄んだ紺碧の光ではなく、灼熱の炎と凍てつく氷に共通する色…蒼に。
「全く以てその通り。優とその男に捨てられれば、それまでだ。全部を失った生ける人形として、優から離れた闇の底で優を支援し続けただろう。
 挙句に優の選んだ男の嫉妬の激情に触れて、処分されて終わり。あるいは闇の中で活躍する便利な道具として使い捨てされるか。まあ、そんなあたりだろう」
「まあ、そんなあたりだろうって……涼権、あんた……」
「女王に惚れた忠臣の末路などそんなものだ。そんな俺を身を挺して救ってくれたのが優だろうが。わざわざ玉座の階降りてきてまで。
 まさか、プロポーズされて初めて自分の気持ちに気づくなんて乙女チックな経験を自分がする羽目になるとは思いもしなかったけどな。自分の感情は『騎士』であり『守護者』のそれではなく、男として優を独占して可能な限り共に在りたいって気持ちだって気付かせたのは。

 優、お前が勇気振り絞って言ってくれたあの言葉だよ。

 『付いて来い』ではなく『付いて行く』。この言葉がどれだけ俺を救ってくれたか分かるか?主としては、部下に全ての運命を委ねる。女としては、俺に女としての全てを委ねる。
 俺の運命に、優は優の運命を全て重ねてくれた。だから、自分を捨てて優を生き延びさせても意味が無い。前に立って盾になるのではなく、隣に立って共に生き延びる道を探そう。絶対に、優を残して死ねない。素直にそう思ったさ。……この馬鹿女のことだから、ほっとけば本気で地獄行きの片道切符買いかねないって思って観念した部分もあるけどな。とりあえず裏街道は終わりだとね」
 桑古木の顔に浮かぶのは。あの2017年のLemuで見せた、全く混じりけの無い純粋な笑顔。滅多に見せない、いや見せなくなった表情。
「涼権、あんたそんな顔、まだ出来たんだ」
 優の目から炎が消え、代わりに柔らかい微笑が浮かぶ。母親が息子を見るような、姉が弟を見るような、そんな優しさに溢れた光。そんな光が瞳に宿る。

「出来ないんじゃない、しなくなっただけだ。ずっと肩肘張って、周囲の敵から我が身と優と武達を守らなきゃいけない。大抵自室じゃ昔みたいな顔で、不安と焦燥感と戦っていたよ。
 もっとも、そんなところまで仮面が浸透しちまって段々心自体が硬くなっちまった。で、今に至るわけだが」
 ため息一つ。
「嫌いか、こんな顔?」
「嫌いじゃないけど、他人には見せたくない。特に久遠にだけはね」
 すっ、と優が席を足ち、涼権の横に回って頭を撫でる。
「ってこら、優!なに俺を子供扱いしているんだ!!!」
 そんな声に構わず優は優しく髪を漉いていく。

「そりゃ図体の大きい子供だからよ、涼権が。だから私が後ろに立って手綱引かなきゃだめなの。ただし、他人の前では虚勢張ってなさい。あの『少年の顔』は私だけの独占物なんだから!」
 胸を張って宣言する。
「確かに優の言う通りだ。俺は優の下に居ればこそ力を発揮できる。正直安堵したよ。『研究所の留守を任せる』なんぞと本気で言われたらどうしようかと思ってた」
 そのままゆっくり頭を傾ける。その収まる先は、妻の胸の中。
「馬鹿っ!恥ずかしいじゃない!!!」
 そう言って真っ赤になりながら、優は優しくその頭を受け止める。目には一筋の涙。
「じゃあ、その優の照れ顔と泣き顔は俺の独占物だ。人の前では虚勢張らなきゃいけないから、せめて俺の前では力を抜けよ。ここまでこき使ってくれたんだ。終身雇用、保証してくれるよな?」
「せいぜいこき使ってあげるから覚悟しなさい。ちなみに退職は一生認めないからね」
 お互い、目を閉じる。安らかな空気。


「なあ、優よ」
 胸に顔をもたせかけたまま、涼権は訊く。
「なあに?」
 優しく答える優。
「お前、俺の何処に惚れたんだ?」
 さりげなく見せかけた問いに。

「さあ?改めて考えると、私にも分からないわ」
 目を開けると、そこには悪戯っぽくウィンクした優が居る。
「結局、一緒か」
 そのまま、大きな大きなため息を吐く。今日一番の。
「ええ。最初っからこうなるように出来ていたんでしょうね、私達の魂は」
「違いない」
 ゆっくりと触れた身体を離して。


「なんだか私達、こういうの似合わないわね?」
「全く以て同感だ」
 どちらからともなく、顔を見合わせて笑いだす。
「さて、センチメンタルな時間はこれでおしまい!引継ぎもあるし、武を迎えに行きましょうか」
 優がそのまま左手を差し出して。
「了解。さぞ空が浮かれているだろうし。暫くは惚気話に付き合うことにするか」
 涼権はその手を取って立ち上がる。




「さあ、行きましょう。私達の居るべき場所へ」
「ああ、行こうか。俺達が居るべき場所へ」
 共に手を取り、真っ直ぐに前を向いて。二人は並んでブースを後にした。


                                     ―Epilouge 5 END ―
後  書

 書いている内にどんどん美味しい所を持っていくようになったコンビ、優春&桑古木のエピローグです。
 今回も書いている内にヒートアップしていって、まとめるのに一苦労。でも書いてて楽しいんですよこの二人。

 ついでに久遠と空の眷属の補完も兼ねています。空EPの裏話も一部入っていますし。

 結局の所、明確な理由の元に人を好きになるという事があるのか。それは人それぞれだとは思います。ですが元来、人を好きになった理由というのは『後付け』のような気がしなくもありません。
 後から振り返って、『ああ、私はこの人のこんな所に惚れたんだ』って思うのが元来なのではないかと。まあ、この手の話は好みの問題もありますからあまり突っ込まないことにします。


 優春というキャラクターは、一番考察の幅が広いキャラクターでもあります。特に『空白の17年』には様々な謎がありますから(第一、公式年表ですら優春の記述が2種類あったりしますし。設定解説FBでは初回版より優春のLemu就職が早くなっています)
 故に書き手それぞれの優春像があり、その分バラエティーに富んだ姿を見せてくれます。

 自分の場合は、優春は文字通り『総大将』や『女王』として設定しました。
 対して桑古木は『最高の補佐役』として設定しました。ソロでもそれなりに動けるけど、優春が手綱を握れば飛躍的に能力を上げるタイプのキャラクター。同時に優春の暴走を押し留める存在でもあります。
 まあ、ライ○ハ○トとキル○アイスのような感じですか。…むしろヤ○とユリ○ンの方が近いかな。


 ともあれ、エピローグもサブキャラはほぼ全部出終わりました。
 いよいよこの後はメインキャラクターのエピローグになります。

 次は沙羅と彼方…双子の片割れとその伴侶、キュレイとして非日常の日々を選択した二人のエピローグになります。
 若干控えめな感じにする予定―と言いながらこの二人は大抵勝手に暴走するのがお約束なのですが。


 残り僅かのこの物語。出来うる事なら、最後までお付き合いくださいませ。


2006年9月30日  あんくん拝


TOP / BBS /  








SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送