2051年8月16日(水)午後5時57分 倉成家



「ただいまー!!!」
「ただいま帰ったでござる!」
「ただいま帰りました。…沙羅、その挨拶は止めなきゃ」

 三人一緒に大きな声で帰宅の挨拶をして。

「あっ、お父さんだー!」
「パパさんと、ママさんだ!やったやった、今日は帰ってくる日だったんだね?」
「おとうさーん!おかえりなさーい!!!」

            どたどたどたどた!!!

 奥のダイニングから飛び出してくる子供達。
 そんな子供達にきゃいきゃいとじゃれ付かれながら、三人は我が家へと入ったのだった。


 ダイニングルームへと向かう彼方と沙羅そして沙夜と別れて、部屋に一度戻ろうとするホクトの両脇に張り付く二人の女の子。
 普通、毎日このように父親を迎える子供達が果たしているのであろうか?

「お父さん、お土産は?」
「おとうさーん、おみやげ、おみやげ〜♪」

 この二つの声が答えであった。

未来へと続く夢の道−エピローグ7 普通の価値−
                              あんくん



〜倉成ホクト&田中優美清秋香菜〜






「やれやれ、帰って来るなりおねだりだね。……ユウに似たのかな?」
 苦笑しながらも、ホクトは大きな旅行用トランクのサイドポケットを開けて小さな包みを二つ取り出すと、そのまま二人の娘たち―夏香菜と冬香菜―に手渡した。
「やったー!お父さん、ありがとうございます」
「おとうさん、ありがとー!」
 二人揃ってちょこんと頭を下げるが、しっかりと視線は自分の手に固定したまま。挙句に顔を上げた後に期待に満ちた視線を父親へと移動させる。
「あははは。うん、良いから開けてごらん?」
 言葉以外での催促に、柔らかい笑顔に顔を変えてホクトは許可を与えて。
「………」
 どきどきと心を高鳴らせて二人は包みを解く。
「へえー、おもしろいおにんぎょうさんだー!」
「木彫りなんだ?お父さんってこういうの好きだね」
 興味深深という按配でお土産に見入った二人の口から漏れた感想。
 二人の手の上には、今時は珍しくなった木を手彫りして作られた魔除けの人形。意外と精巧に作られた民俗工芸品。
「ねえ、お父さん。これってどこの人形なの?」
 夏香菜が、父親を見上げて尋ねる。その隣で顔を上げた冬香菜共々、その目は好奇心に輝いている。
「うーん。南太平洋…って言っても分からないよね?
 南の方の海の中にぽっかり浮かぶ小さな島の物なんだ。後で地図持ってきて教えてあげるから、少しだけ待ちなさい」
 娘達の表情に、自分の妻の姿を重ねて。思わずはにかみながら娘の質問に丁寧に答える。
 もっとも、何度説明しても3日後には忘れられているのだが。下手すれば地図を見せる約束ですら忘れられているかもしれない。
 実に気楽で移り気で、そして何事にも興味津々といった感じの姉妹。そんな娘達の姿に、ホクトは心の中で呆れ半分感心半分のため息を吐く。

 そんな父親の心を知ってか知らずか。
 お土産を大事に持って、二人の姉妹は手を取り合って自分達の部屋へとうきうきとした足取りで凱旋していく。
「さて。それじゃ僕も、荷解きをするとするかな」
 娘たちを見送る顔に、微笑を浮かべたまま。ホクトは荷物を片付けるべく寝室のドアをゆっくりと開いた。



 2051年8月16日(水)午後6時34分 倉成家 キッチン


「ただいま、ユウ。手伝おうか?」
 キッチンで鍋とにらめっこしているユウに、ホクトは声をかけた。
「ううん。もう支度は済んでるから。あとは武が帰って来るのを待つだけよ。さっき研究所から電話があって、9時くらいにならないと帰ってこれないって。どうせ後から暖めなおすからいいわ」
 パチン。
 ガスコンロの火を落として、ユウはホクトに向き直りながらゆっくりとエプロンを外す。
 昔より伸びた髪がそれに合わせて揺れる。
「さて、しばらくは時間があると思うんだけど。ホクト、夏香菜と冬香菜は?」
「お土産を渡したら、部屋にすっとんで帰ったよ。全くもって現金だね」
 悪戯っぽい笑みに目じりを下げるユウの問いに苦笑で答えながら、二人そろってリビングへと移動した。

「……そんな事があったのか。夏香菜も沙夜に良いように遊ばれてるなあ」
「沙夜の詰めの甘さも沙羅譲りだけどね。結局得をしたのは冬香菜だけ」
 リビングのソファに並んで腰掛けると同時に、ユウが説明したのは朝の一件――もちろん夏香菜たち三人娘の話だ――を聞いて呆れ果てたように宙に視線をさ迷わせたホクトに、こちらも唇をかすかにゆがめた苦笑いのユウが応じる。
「どうのこうの言っても、お母さんも孫たちには甘いから。とはいえ流石に僕達の話はあの子達には早すぎるからそうやって誤魔化したんだろうね」
「ま、そういう事。いつかは話さないといけないんだけど、キュレイとサピエンスの違いを理解するにはあの三人はまだ幼すぎるもの」
 ふっと、ユウの唇から笑みが消える。
「とは言え、少なくとも沙夜はそう長くは誤魔化せないと思うわ。マヨや彼方が判断することだけど、真実を明かす日はそうは遠くないのかもしれないわね」
 いつか対面する事実とはいえ、できればもうすこし人間的に成長してから教えたい。だから今回は、卑怯を覚悟で誤魔化したつぐみの判断に間違いは無い。
 しかし全般に早熟なのは、キュレイ種に共通する特徴。沙夜もまた、沙羅に似て知性の成長は早い。今回の事自体、自分達の出自を知りたいという無意識の欲求が現れたものとも取れる。
 真実を教えないといけなくなる日は、そう遠くないのかもしれない。
 子供達の成長を喜ぶ気持ちと、真実を知らせないといけない日が来ることの恐れが入り混じりった複雑な気分。二人を支配したのは、そんな感情だった。

「まあ、この話は置いときましょう。どうせすぐ結論が出る話じゃないし。
で、どうだったの今回の首尾は……って、今日帰ってきている時点で明白か」
 気分を変える必要を感じて、ユウは話題を切り替えた。
「うん。空振り自体は珍しくもなんとも無いんだけど。今回みたいに悪質かつ稚拙なのは初めてだ」
 その言葉を聞いた瞬間にがっくりと肩を落としたホクトが、ため息混じりに妻の問いに答えた。
「あれれ。それはまた、ホクト災難だったなあ。わざわざ行くだけで2日かかるような場所まで行ったのに。
 でも、この研究ってそんな詐欺仕掛けられるほどメジャーじゃないと思うんだけど。何でまたそんな事に?」
 不思議そうに、ユウがホクトの目を覗き込む。
「うーん。僕の研究より、財団の方が目当てだったみたいだ。
 当初の触れ込みの遺跡なんかそっちのけで、他の『歴史的大発見』とやらを同行した財団の幹部連中に売り込んでたからね。……どうやら僕をピエロにするつもりだったらしいよ」
「へえ。『歴史的大発見』ねえ。さぞおもしろい物が見れたでしょう?」
 お手上げという風に掌を上に向けて肩をすくめる姿に、思わずユウの顔に微笑が浮かぶ。本来笑うべきところではないのかもしれないが、夫の子供っぽい行動に微笑ましさを感じずに入られなかったのだ。
「うん。明らかに人寄せの為に偽装された物と一目で分かったよ。
 しかも、それは一度や二度じゃないみたいだ。どうも僕らみたいな調査団が来るたびに、そのお眼鏡に叶うような謂れの物に作り変えていたらしい」
「ぷっ……ばっかじゃないの?そんな子供だましに引っかかる専門家がどこに居るのよ!」
 ついにユウは噴き出してしまった。 今までこの手の話は色々と聞いてきたが、ここまであからさまで笑える話はついぞ聞いたことがなかった。
「全くだね。正直笑い飛ばさないとやってられないよ……はは、はははっ!」
 そしてその笑いはホクトにも伝染し、二人そろって暫くの間笑い転げたのだった。


「でも、結局またハズレだったんだ。まあ、いつもの事だから覚悟はしていたとは言え」
「やっぱり辛いよね、ホクト。自分で選んだ道だからしょうがないと言えばしょうがないんだけど」
 笑いをやっと収めたホクトの言葉に、ユウが頷く。
「あーあ。結構いい線いってる仮説だと思ったんだけどなあ。空振ったからまたやり直しね。
 ここが当たりだったら、とりあえずの形で論文にしようと考えてたんだけど。そこまで甘くはなかったか」
 先ほどまでの微笑みは消えて、ユウは諦観をその瞳に浮かべる。
「ごめん、ユウ」
 そんな彼女の姿に思わず頭を下げようとしたホクトだったが。
「こらこら、ホクトが謝ることないじゃない。だってホクトがあちこちを巡ってくれるから、何とかやって来れているんだから」
 ユウは少々乱暴な手つきでホクトの頭を撫でて、自分の方へと引き寄せた。


 結局、ユウ……田中優美清秋香菜は大学院修了後、家庭に入った。その時点で既に夏香菜が生まれていたこともあるし、そもそも企業勤めをする事自体全く念頭には無かった。
 対してホクトは大学を卒業した後も、助手として研究室に残った。勿論、考古学を研究するためである。
 研究分野は、『レムリア考古学』。結局優の分野を引き継いだのだ。

 さて……残念なことに、ここで現実の問題が立ちはだかる。考古学そのものは、一部の例外を除いて何も生産しない。故に自然と研究資金は外部を頼ることになる。そして考古学にも需要と供給の関係が厳密に存在するのだ。
 芸術や美術、工芸に関する考古学は人気がある。故に資金を出してくれるスポンサーも多いし、それ故に多くの研究者が存在していて研究も発展している。特に遺跡発掘は投資に対するリターンを生む数少ない分野であり、正規非正規を問わず需要が絶えた事が無い。
 対して、地味だが民俗学や郷土史の人気も高い。自身の住む地や出身地を愛し由緒ある歴史を知って後世に伝えたいと願う人々の努力や援助によって、この手の研究も盛んに行われている。

 そして『レムリア考古学』は……残念ながら需要そのものが皆無に近い。
 学説としては明らかに過去のものとされているし、それに反論する証拠は少ない。
 カルトや空想を好む人々には一定の知名度を得ているものの、彼らが好むのは大風呂敷の夢物語の方であって、地味に学術的証拠を集めて証明していく『研究』に対しての理解は期待できない。
 第一そんな人々ですら、現実に自分の資金を継続的に拠出してまで神秘を解き明かそうとはまず考えないだろう。
 『Lemu』……レムリアを名前に冠した施設を有していたライプリヒの、実体を隠す為の隠れ蓑として優の研究は辛うじて成立していた。いくら目的のためとは言え、敵の禄を食むことでしか研究することが出来なかった優の無念は余りあるものであったろう。
 ホクトにしても『レムリア考古学』を表看板にする事は出来なかった。それより一段階大きい分類である『海洋地政考古学』の中の『環太平洋海洋地政考古学』の研究者として研究室に入り、講座を持った。結局、大学のスポンサーが望む比較的メジャーな研究を行いながら片手間に本来の研究を行うという主客逆転の立場に甘んじるしかなかったのだ。

 だが、そんな状況を劇的に変えた事件が起きた。
 考古学の研究を担う新設の文化財団の一つ、『環太平洋文化財団』がホクトの研究に目を留めて援助を申し出たのだ。
 この財団は、その名前の通り太平洋を囲む沿岸地域及び太平洋に点在する諸島の文化や歴史の保全を目的に設立されたものであり、ホクトの分野はまさにこの目的にかなりの部分で合致するものとされたのだ。
 レムリアそのものは空想かもしれないが、今でもカルト的とは言え信じる者が多い。実際問題として現在の学説で説明できない遺跡が幾つかあることも事実なのだ。
 故に、環太平洋地域の考古学研究の一アプローチ手法としてホクトの研究を評価して実益があると判断したという。

 そして財団の援助はホクトのみに留まらず、大学の考古学科の多岐に渡った。一つは『環太平洋地政考古学』という分野が財団の設立理念と相性がいいせいもある。
 そういう中でホクトは順調に出世して、今では上席研究員として財団に籍を置きつつ、大学の客員教授となった。
 ユウもまた財団の客員研究員として財団に籍を置き、別に給料を貰っている。


 『実業』と言われ自身の努力で稼ぐ一般業種と異なり、資金を他者から貰うことが当然となっている組織―代表的なのが『行政』である―に共通するのが『内部の序列に敏感』である事と『直接的なパトロンに弱い』事。とにかく視線が内向きになるのである。
 公務員、特にキャリアにはこれが顕著である。業績云々よりまず組織内での地位が重要。で、地方自治体は予算配分を握る中央政府に頭が上がらないし、官僚も政治家に振り回されることが多い。
……そして大学は、巨大なヒエラルヒーに支えられた官僚機構でもある。そして、文化系財団もその性格はあまり変わらない。
 そんな中でどちらかといえば人の良い二人が順調に出世して一定の立場に居られるのには、当然の如く裏があった。

 この財団、実は『レムリア考古学』の研究を目的として設立されたものなのである。その事実を知る者は財団の中でもごく少数だが、その人物達は全て財団の中枢を担っていた。
 財団のスポンサーは飯田財閥。飯田億彦を始めとしたキュレイにとって、レムリア考古学は重大な意味を持っていた。キュレイが人類社会に存在するためには絶対に欠かすことの出来ない最重要プロジェクトの一つだったのだ。

 それこそ、ノアプロジェクトに匹敵するような。

 表立っては知られていないが。この財団の真のトップは……田中優美清秋香菜。彼女の指示によって財団の真の中枢部門―レムリア考古学研究部門―は動いている。
 規模としては財団のごく一部といった所であろう。だが、他の部門はレムリア研究のカモフラージュ又はサポートの為の周辺分野の研究部門としてのみ存在する。どんなに規模が大きかろうが世間受けしようが、下は下なのである。
 ホクトは、現場の総責任者。基本的に自宅を離れられないユウに代わって、文字通り世界中を飛びまわって遺跡を巡ったり資料を集めたり。又は研究員たちに指示を与えたり指導したりする。又、大学でも教鞭を取る。少しでも『レムリアの存在』が受け入れられる素地を作っておくために。
 対してユウは財団をコントロールしてホクトの後方支援をすると同時に、彼の集めた資料に基づいて仮説を立てたり、論文草稿を起こしたりしている。現状では、発表した学術論文は全て夫婦連名で出されたもの。

 ホクトが前線に立って実働部隊を動かし、ユウが後方に控えて総指揮と支援を担当する。
 文字通り夫婦二人三脚で、表に出せない重大な研究を支えてきたのである。

「でも、いつになったら表に出せるのかな。『レムリア仮説』」
 髪の毛をくしゃくしゃにされた格好のままで、ホクトが苦笑して呟く。
「うーん。ここいらは研究の進展度にも関係はするけど、政治的な部分が大きいから。お母さん次第って所なのよね。
 実の所、私達が生きている内に完全版が公開されるかどうかすら微妙」
 ユウもまた、ホクトと同じ表情を作った。

『レムリア仮説』。キュレイやRTSの由来を示す大胆な仮説。
 仮説の提唱者は石原彼方とその叔母である守野いづみ。仮説の存在そのものすら極秘で、知っている人間はごくわずかである。
 状況証拠は揃っている。問題は、それを具体的に証明する物証に欠けている点。内容が内容だけに、不完全なうちに軽々しく発表できるレベルの話ではないのだ。
 その結果として、実に十年以上の間をホクトとユウはこの仮説の改善と物証集めに費やしてきた。
 だが、今回も空振り。極僅かな物証を手がかりに地道に研究を進めているものの、現実は厳しかった。……しかし、これこそが考古学の真の姿。
 このように、地道な苦労を積み重ねて積み重ねて。その先に初めて新発見や新しい学説が生まれる。それこそ考古学とは、世代を超えて積み重ねられた研究の上に成り立つものなのだ。
 故に、二人とも全く焦ってもいなければ絶望もしていない。
 空振りなんて日常茶飯事、当たりを引く方が半分奇蹟。第一自分の代で仮説が完全になるとも思っていないし、今では次の世代に引き継ぐために土台を作るのが自分達の役目と割り切っていた。


「って、その話題はここまでにしましょう。久しぶりに皆が揃ったんだし、悩むのは後からでもいいじゃない?」
「全くだね。どうせ悩んだって現状が変わるわけじゃないし。ねえ、今日の夕食は何?御馳走?」
「うーん。大盤振る舞いも考えたけど、栄養を考えると御馳走ってあんまりバランス良くないからね。とりあえず刺身が増えたくらいよ」
 一瞬にして会話は、日常のそれに戻った。ここいらの楽天的な性格は夫婦とも共通していて、気分転換が容易に出来る。
 これも一種の才能だろうし、これあればこそ自分たちがうまくやっていけているのではないか。二人ともそう思っていた。
 しばらく、他愛も無い話に花を咲かせる。
 久しぶりの夫婦の会話。話の内容は、それこそ井戸端会議の噂話とか、子供達の事とか、出張先の土産話とか。そんな身近で、世界に影響を及ぼすことなどありえない話ばかり。
 どちらかと言えばユウが一方的に話して、それにホクトが笑顔で相槌を打つ形である。まったく飽きる風も見せず、ホクトは妻の話に付き合っていた。

 やがて、壁掛け時計を見たユウが突然バネに弾かれた様に立ち上がる。…7時半を少し回った所。
「い、いっけなーい!いい加減に沙羅と沙夜を起こしてこないと!」
 ばたばたばた……スリッパの音を鳴らして駆け去っていく。
「うーん。確かに。あの二人は、起こすのに最低一時間くらいはかかるもんなあ。二人になったとたんに寝起きが悪くなるんだから、彼方もユウも災難だ」
 昔、まだ決断を強いられる前に散々苦しめられた沙羅の極悪の寝起きの記憶の数々を思い出して流石のホクトも頬を引きつらせる。特にホクトの場合、危うく抱き枕にされかけること多数だったし。
 ちなみにこれはホクト的思い出したくないことの第三位にランクされている。

「そういえば本当に久しぶりだなあ、家族全員がこの家に揃うのは。この前沙羅が帰ってきたときは、僕が出張してたし、あの遺跡が大ハズレでなければ今日もまだあの島だった筈だし。
 運がいいのか悪いのか。良くわからないよね」
 独り言を呟いて、見慣れたリビングを見回す。
 各々好みの定位置が決まっていて、使用頻度でこの家で過ごしている日々がよく分かる。
 父親が座る椅子や、最近の母親の指定席であるソファーベッド、三人娘が独占している三人がけの立派な応接用ソファはあちこち摺れたり、いろいろこぼして汚したりした跡が残っていて、いかにも使い込まれてますって感じがする。 
 自分達の定位置である安物のソファーのうち、いつもユウが座っている所は見事にあちこち引っかき傷やへこみが出来ている。けっこう慌てものの彼女は良くこのソファに爪を引っ掛けたり足をぶつけたりするので、その時の傷が残っているのだ。
 対して今自分が座る席は、隣ほど傷んでいない代わりに、太陽による色褪せは隣よりも進んでいる。
 出張が多いため、月の半分は留守にするためだ。その分使用頻度が低い上、座るのも殆ど朝と夜だから結果的に色褪せが進行するわけである。
 そして……実は彼方と沙羅には椅子が無い。いつもクッションを敷いてその上にぺたりという感じで座っている。『家に帰ってまで、リビングで椅子には座りたくない』というのが二人の持論だ。

 適度に散らかっていて、アンバランスな中に絶妙の調和を保っているリビングルーム。
 皆の生活と想い出が刻み込まれた、家族の縮図のような場所。
 
「あれ、お父さん。お母さんは?」
 様々な感慨に浸っていたホクトは、駆け寄ってきた娘の問いに現実へと引き戻された。
「うん、夏香菜か。お母さんは沙羅叔母さんと沙夜を起こしにいったよ」
 視線を同じ高さに合わせる様に身体を若干屈み加減にして、優しい口調で娘に答える。
「さーママとさー姉?おきれるのかなあ」
 その視線の横から放たれた無邪気なツッコミ。
「あ、あはは……たぶん、起きるんじゃないかな」
「んー。お母さん次第だね……あははは……」
 冬香菜の子供特有の遠慮の無い言葉に、思わず父親も姉も顔を見合わせて笑ったのだった。


「ふう。全く世話が焼けるわ」
 ため息混じりにリビングに戻ってきたユウだったが、目の前の光景を見て思わず微笑む。
「全く、この子達と来たら」
「しーっ。起きちゃうよ」
 リビングテーブルの上には、大きな一枚の世界地図。あちこちにペンでマーキングされた物。
 そしてテーブル脇の応接ソファでは、夏香菜と冬香菜が肩を寄せて静かな寝息を立てていた。
「何をしてたの?」
「いや、今回の出張先の島のことを教えてたんだよ。帰ってきたときの口約束を覚えていたみたいでせがまれたものだから」
「で、結局居眠りしちゃったって訳だ。情けないぞ大学教授」
 ぱちん!ユウはホクトに軽いデコピンを当てて見せた。
「むう。僕の授業は結構好評なんだけどなあ……」
「自分で言ってちゃ世話無いわよ。まあ、確かに評判いいみたいだけどね」
 むくれるホクトに、ユウがひらひらと手を振って笑いかける。
「にしても。本当に幸せそうに眠ってるな。いっつもこんな感じかな?」
「うん。不思議と自分の部屋以外で昼寝しているときって、一人っきりってことが無いのよ。三人か、二人かどっちか。多分安心するんでしょうね、傍に姉妹が居ると。
 特に三人で寝ているときってさ、沙夜を二人で挟み込んで寝てるもんだからいつも沙夜が窮屈そうに眉間にしわ寄せてるの。ここいらの表情も、本当にマヨそっくり」
「確かに、沙羅も寝苦しいときは眉間にしわ寄せてるよね。癖って似るんだ」
 だらしなく目じりを下げた優しい笑みのまま、目の前で眠る娘たちを眺めながら。二人は声を潜めて語り合ったのだった。

「そういえば、お母さんは?さっきダイニングに居たみたいだけど」
 話が一段落して、ホクトは母親の事を尋ねてみた。
「さっき見てきたら、またうたたねしてた。起こすのも悪いから、タオルケット掛けてそっとしといたわ。
 夕食の準備できたら起こすつもり……少なくともマヨや沙夜と違ってつぐみは寝起きは良いからね」
 ユウは僅かに眉をひそめて応じる。
「全く。私に家事を任せるようになった途端にぐうたらになっちゃって」
 要はこの事を言いたかっただけらしい。
「まあまあ、押さえて押さえて。それだけユウの事を頼りにしてるってことだから」
 あわててホクトはユウを宥めにかかる。
「それはそうなんだけど。でもね、正直つぐみの寝姿見てるとね……思い知らされるの」
 だがユウの表情は晴れず、逆にその瞳には寂しげな光が宿った。


 あの、lemuの日から既に17年余。あの時18歳だったユウももうすぐで36歳になる。
 世間一般で言えば、ユウは十二分に歳よりも若々しい。昔より少し優しくなった目元と、良く動く目、目まぐるしく変わる表情は健在で、むしろ昔よりも魅力的に見える。
 少なくとも、ホクトはそう思っていた。だが、同時にそれは男の贔屓目なのかもしれないと気付いていたのだ。
 なにしろ、ユウの周りには比較対象が二人もいる。義母のつぐみと義妹の沙羅。
 沙羅は27歳で加齢が停止し、つぐみに至っては17歳のままの姿。そんな比較対象に比すれば、どうやってもユウの方が歳に見えてしまうだろう。

「羨ましいとは思わないの。つぐみも沙羅も、十二分に苦しんできたんだから。でも……やっぱり女としてはね、羨ましいとは思わなくても妬ましくはなってしまうのよ」
 ここいらは感情の問題ね。理性では分かっていても、感情は抑えられないわ。そう付け加えてユウはうつむく。
 ぎゅっ!
「えっ、ホクト?」
 突然抱きしめられて、ユウは戸惑った。思わず腕の中で震える。

「でも、それが普通だから。だから、僕もユウと一緒に老いる道を選んだんだよ」

 抱きしめた妻の耳元で、ホクトはそっと呟いた。
「僕達は、サピエンス。地上に残り、老いて未来を子供達に託す立場を選んだ。……ユウ、人間の死因の中で、寿命で死ぬ割合って分かる?」
「え?それってどういう事?」
 突然変わる話題。ユウは話題についていけず、困惑して眉を寄せる。
「この前トムさんに会って話す機会があったんだ。その時僕は、正直な気持ちで疑問をぶつけてみたんだよ。
『キュレイって、不老不死なんですか?』って」
「……なんて答えたの?」
「『何もなければ永遠に生きられるかもしれない。でも、多分キュレイの平均寿命はサピエンスとあまり変わらない』って言われた」
 ホクトは、妻を抱く手を解いて、そっと押し離す。
「なんか矛盾というか、変な話だけど。その話には続き、あるんでしょ?」
 じっとホクトの目を見つめるユウ。その瞳に知性の光が戻っている。
「『キュレイが死ににくいのは、死に易い場所に立たないといけないからだ。寿命が長いのはそうしないと人口不足で滅びるからだ』って。
 『レムリア仮説』から考えると納得できる考えだよ。なにしろ本来のキュレイは宇宙を駆ける人種なんだから」
 そう言ってから、ホクトは視線を上に向ける。天井に遮られているが……その遥かなる先には宇宙が広がっている。
「確かにねえ。宇宙空間で生きるとなると過酷な状況なんて幾らでもあるだろうし。多分産み育てる人々と宇宙を駆ける人々に分かれていたんでしょうね」
「うん。もちろんそれらは交代はするんだろうけど。宇宙を駆ける人々の殆どは事故や遭難で命を落とすことになるから、これくらいの寿命が無いと次の世代を確保できないって事らしいんだ」
 納得したといった風情でうむうむと頷くユウを落ち着いた表情で眺めながら、ホクトは言葉を継いだ。
「それに遠くない将来に、キュレイだけがかかる病気も出てくるはずだって。最初に言ったけど、人間が寿命……老衰で亡くなる割合は、サピエンスですら数パーセントにしか過ぎないんだ。
 だからキュレイとて、100歳を超えて生きる人間はそれほど多くは無い筈だって。トムさん、『不老不死って側面が強調されすぎるものだから困ってるんだよ。僕の知っているキュレイのみんなにも、結構事故で亡くなった人が多いんだがな』って哀しそうな顔で言ってたんだ」
 思わずユウが弾かれた様に面を上げた。
「僕もユウも知っているはずだよ。今の生活は、皆が努力してやっと維持されている物だってことが。お父さんもお母さんも、優義母さんも桑古木さんも、沙羅も彼方も……皆頑張っている。
 だから僕達はサピエンスとしてみんなを見守って、そして二人一緒に年老いていくんだ。違う運命にある事を知りながらも、普通に生きて普通に死ぬ。キュレイとサピエンスが共に暮らせるんだって事を皆に示すのが、僕達の出来る『家族』としての最大の努力。
 ユウ。皆が言っていることの意味が分かっているよね」
「うん。お母さんはもちろん、沙羅や彼方や……いろんな人から言われたね。『こんな普通な生活に、憧れていたんだよ』って」
 そう。家族に留まらず、倉成家を訪れたキュレイの殆ど全員が口を揃えてこの感想を洩らしたのだ。
 そして必ずこう付け加える。『いつかはこんな生活が出来ればいいな』と。
 親やその子供達やその孫たちが肩を寄せ合って助け合って生きるだけの平凡な毎日。朝起きて朝の挨拶をして朝ごはんを一緒に食べて、仕事や学校に行って。家事をして、山となった資料に埋もれながらゆったりとライフワークに没頭して。
 夕方、皆で食卓を囲んでたあいの無い会話をして。そしてお休みの挨拶をして眠る。

 特筆するような事の無い、退屈とも言えるそんな普通の日々。
 だからこそ、気付かない。普通とは、どんなに貴重なものなのかを。どこにでも転がっているように見えるが故に、失なわないと皆が気づかない。

「結局ね、普通っていうのは幸せだから『普通』なんだよ。皆カッコイイ非日常に憧れるみたいだけど、いざその世界に入れるってなったとたんに躊躇するじゃないか」
「そうそう。結局、幸せだからこそ他の生活を羨む余裕も出てくるのよね。普通ってのは幸せの最大公約数じゃないかって、私思うようになってきたのよ」
 この話が始まってから、初めてユウの顔に笑みが浮かぶ。
 そんな妻の頬にホクトはそっと優しく手を添えた。
「そうだね。だからユウ。お願いだから、羨んでもいいから妬まないで欲しいんだ。お父さんやお母さんや、他のみんなを。
 僕たちまでが妬んじゃったら、みんなの居場所が無くなってしまうから。無理を言っているとは思うけど」
 優しく頬を撫でる手の、その感触にうっとりとした半目になるユウ。
「まあ、私は最初っからサピエンスだしね。たまたまお母さんやつぐみやらがキュレイだってだけだし、妬むのは筋違いか」
 夢見心地に呟く。そんな姿にホクトも頬を撫でる手に僅かに力を込める。
「……僕はいつもユウと一緒だから。ずっと傍に居るよ。
 それに理想じゃない?おじいちゃんやおばあちゃんになって、孫に囲まれて生活するって」
 睦言を呟くような優しい声。
「それもそうね。その時は二人っきりでどこかに引っ込んで、孫たちが尋ねてくるのを待ちましょうか」
 ユウは、その声に引き込まれるようにゆっくりと顔を夫へと近づけていく。
「うん。ぜひそうさせて貰うよ」
 ホクトもまた逆らわず、ユウの為すがままになって。
「ねえ、約束。覚えているよね」
「うん。ユウが息を引き取るときは、傍に居るよ。その時は皺くちゃのおじいさんだけどね」
「ふふっ。その時は私も皺くちゃのおばあさんだから、お似合いじゃない」
 お互い微笑んで……そのまま口付けを交わす。





(うわー。お父さんとお母さんって、いつ見てもらぶらぶだね)
(らぶらぶー)
 ちなみに娘二人がしっかり目を覚まして見ていたのに気付くのは、更に数分後。
 これもまた、日常の一コマ。


                    − To Be Continue Last Episode −
後   書


 やっぱり地味だ(笑)

 盛り上げようと思っても、どうやっても地味ででもラブい話にしかならないホクトとユウのエピローグ。

 ちょっと普通からはずれてるけど、やっぱり普通の等身大の人間として書いてみました。


 ユウの悩みは、結局一生付きまとう筈ですし。安易に結論を出すのははばかられましたので半端な形にとどめました。
 とにかく普通で。この二人の今のキーワード。
 疾風怒濤の展開はこの二人には似つかわしくないんじゃないかと気付いたわけです。



 次はいよいよ、最終話。
 題名はずばり、『グランドフィナーレ』です。自分として可能な限りの大団円にしたつもりです。

 最後まで読んでいただけたら、作者としては本望です。


2006年11月18日  あんくん 拝


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