2051年8月16日(水)午後8時34分 倉成家ダイニングルーム


 ゆさゆさゆさ。
「ほら、つぐみ。起きて」
「ん?ユウ……御免なさい。また私、寝ちゃってたのね」
 嫁に肩を揺すられて、つぐみは目を覚ました。目の前に映るのは見慣れたダイニングテーブル。
「武から電話があったの。もうちょっとしたら帰れるから、夕食の準備をしておいてくれって。
 沙羅や彼方が帰ってきてるって伝えたら、すごく喜んでたわよ」
「そう……それじゃ、ちょっとリビングに引っ込んでるわ」
 ユウの言葉に頷いて、つぐみはダイニングのいすから立ち上がろうとした。
「はいはい、お願いします。お母様」
 苦笑しながら、つぐみの椅子を引いたユウに対して。
「言ってなさいな。準備の手抜き、しちゃだめよ?」
 つぐみもまた微笑んで、ゆっくりと立ち上がる。

「あ、おばあちゃん。冬香菜がいっしょにいくから!」
 昼と同じように、大慌てといった風情で冬香菜が駆けて来る。
「ふーちゃんずるい!私もおばあちゃんと一緒!」
 僅かに遅れて夏香菜も妹の後を駆けて来た。
 そのまま孫娘二人は、つぐみの両脇に回って手を取る。
「夏香菜も冬香菜も心配性ね?おばあちゃん一人でも大丈夫よ」
「「だめ!」」
 二人揃って『めっ!』をする姿に目じりを下げて優しく笑いながら、つぐみは二人に手を引かれてダイニングルームを出た。





未来へと続く夢の道 −グランドフィナーレ−
                              あんくん



〜倉成武&倉成つぐみ〜







 2051年8月16日(水)午後8時37分 倉成家リビングルーム



 どたどたどた!
「夏姉!ふーちゃん!グランマ!大ニュース、大ニュース!!!」
 盛大な足音と大声と共に、黒い弾丸がリビングルームに飛び込んできて……

「きゃあー!きゅう……」

 カーペットに足を取られて、盛大に転んだ。

「何やってるんだ、沙夜?」
「……さーちゃん、何してるの?」
 きょとんとしているホクトと夏香菜。
「さー姉、だいじょうぶ?」
 慌てて転んだ物体に駆け寄る冬香菜。
「だ……大丈夫……だよ」
 確かにカーペット敷きだから、転んだ所で大した事は無い。
 転んだ物体――倉成沙夜は照れ隠しに笑いながら、従姉妹の手を借りてゆっくりと起き上がった。

 一瞬、部屋に沈黙が下りる。なんだか居心地の悪い、イレギュラーな静けさ。
 そんな中、沙夜はゆっくりと部屋を見回して、顎に手を当てて考え込んで……
「って、そうだった!グランマ、聞いて聞いて!!!」
 再度大声を上げて、流石に今度はゆっくりとつぐみの方に寄って来た。
「なあに、沙夜?良い事でもあったの?」
 つぐみが沙夜に声をかける。沙夜がこんな風にリビングに飛び込んでくるときは、大抵なにか嬉しいことがあったときだ。

「あのね、あのね、グランマ!」
「?」
「沙夜ね、沙夜ねっ!」
「??」
 顔を真っ赤に火照らせていつもと違って要領を得ない感じでなんとか言葉にしている沙夜の姿に、部屋の全員の視線が彼女に集まる。そんな視線の中で、




「お姉ちゃんになるのっ!!!」




 家中に響く大声で沙夜は叫んだのだった。





 一分後。

「沙夜、フライング」
「パパが帰ってきてから言うつもりだったのに」
「ぐっすん……パパさんママさん、ごめんなさい」
何事かと駆けつけてきた彼方と沙羅そしてユウの目の前で、沙夜は小さくなっていた。


「彼方も沙羅も良いじゃない。沙夜だって、嬉しい事は早くみんなに伝えたかったのよ」
 つぐみが微笑みながら沙夜の肩を持つ。
「いいじゃないの、お母さん。おばあちゃんのいうとおりだと私はおもうんだー!」
「冬香菜もね、おばあちゃんといっしょだよ。またかぞくがふえるんだよね、ね!」
 更に二人の子供達も沙夜の味方についた。
「つぐみ、お願いだから甘やかさないでくれるかなあ」
 こちらは不満そうに頬を膨らませているユウであったが。
「沙夜、今回だけはつぐみに免じて許してあげるけど。今後は約束事はちゃんと守る事。いいわね?」
「はーい!」
 結局、無罪放免と相成ったのである。

「それじゃ、沙羅はしばらくこっちに居るのね?」
「うん、なっきゅ義姉さん。暫くはパパや優さんの手伝いをするつもりだよ。だからよろしくお願いね」
 隣の娘共々照れ笑いをしながら―笑い顔は本当に母娘そっくりだった―沙羅はユウに今後の事を相談していた。
「それは全然構わないんだけど……目覚まし鳴ってから30分経っても起きなければ容赦なく見捨てるからね。私は沙夜の面倒見るだけで精一杯」
「うっ!お兄ちゃん、彼方、なっきゅ義姉さんに何か言ってよ!」
 冷たい義姉の発言に、不満げに眉をひそめて周囲に応援を求める沙羅であったが。
「ユウに賛成」「秋香菜義姉さんに賛成」
 当然、望んだ応援など得られるはずも無く。
「子供達に示しがつかないから。四人目の孫が生まれてくるまでにその癖は直しなさい」
「……沙夜と二人で善処いたします」
「よろしい」
 つぐみにトドメを刺されて、沙羅は沙夜共々半泣きの態で全面降伏するハメになったのだった。


 わいわい、がやがや。
 こうしてリビングの中は大賑わい。ユウも夕食の支度などすっかり忘れて、会話に興じる。
 後は武が帰宅すれば倉成一家全員がこの家に揃うのだが、既に一足早く家族の団欒が繰り広げられていた。
 主な話題は勿論、沙羅のおめでたと倉成家への帰還。
 皆が嬉しそうに話す姿を、これまた嬉しそうに笑いながら見守るつぐみ。
 
 幸せな家族の肖像。そんな中で……




「く、う、うっ!!!」

 突如襲い来る激痛。余りの痛みに、つぐみはうめき声を上げてソファーベッドに倒れこんだ。
 顔色を蒼白にし、歯を食いしばって痛みに耐える。



 突然の変奏曲。全員の表情が凍った。

「お母さん!」
「つぐみさん!」
「「「おばあちゃん!」」」
 声を上げて、慌ててつぐみの傍に駆け寄ろうとするホクト・彼方、そして子供達。

 だが……

「どきなさいっ!」
「来ちゃ駄目!」
 それより一瞬早くユウがつぐみの傍に寄って、沙羅が他の五人を押し留めた。

「つぐみ……私がわかる?」
「ええ……分かるわ、ユウ……」
 息も絶え絶えなつぐみに声をかけながら、ユウは片手でつぐみの脈をとり、空いた手でつぐみの顔から胸、そして腹部をゆっくりと撫でていく。
「なっきゅ義姉さん、これは……」
 こちらは決然とした面持ちでその姿を見つめる沙羅。
「ええ、間違いないわね」
 振り向いて、ユウは頷いて短い応えを返す。

                                直後。


「彼方、研究所に緊急連絡!ホクトは今すぐ車を出して!沙羅はストレッチャー持ってきて頂戴!事は一刻を争うわ。
 夏香菜!沙夜!冬香菜!じゃまだから部屋に戻ってじっとしてなさい。後で電話をするから、絶対にそれまでは家から出ちゃ駄目よ」
 有無を言わさぬ口調でユウは皆に命令し、ポケットから車の鍵を取り出してそれをホクトに放り投げる。
 ホクトはそれをキャッチし、くるりと振り向いて全速力で部屋を出て行く。
 既にこの時点で彼方と沙羅の姿はリビングから消えていた。


「「「あ……あっ……」」」

 目前の光景に、怯えて立ちすくむ子供達。

「あなた達、何しているの?私の言う事聞けないの?」
 表情に苛立ちを露わにして、ユウが子供達をしかりつける。
「ユ…ウ」
 つぐみがユウの名を呼ぶ。
「つぐみ!喋っちゃ駄目よ」
「こ……ども…に……怒鳴っ…た…ら…ダメ……よ……」
 絶え絶えの声で、つぐみが……子供達を案じる。


「うん……私、いい子にしてるから。だから頑張っておばあちゃん!」
「沙夜、待ってるから。グランマ、待ってるから!」
「おばあちゃん。だいじょうぶだよね…だいじょうぶだよね!」
 つぐみの言葉は子供達の呪縛を解きはなち、三人は弾かれた様に部屋の端っこの邪魔にならない位置に退いた。

「…い……い…こ………ね……」
「お願い、つぐみ。これ以上……無理に喋らないで!」
 必死に微笑もうとするつぐみ。そんな姿に思わず半泣きの涙声になるユウ。

「ゴメン、遅くなった!連絡終わったよ!」
「なっきゅ義姉さん!ストレッチャー準備できた!」
 その時、彼方と沙羅が部屋に飛び込んできて。

 子供達の視線の先で、つぐみは三人がかりでストレッチャーに乗せられてそのままリビングから運び出されていった。




                             ???



 ゆっくりと、意識が覚醒する。
(ん……ここは……どこ……)
 かすかに目を開けて、私は周囲を見ようとする。

 身体に力が入らない。まぶたを開けるのでさえやっと。

 すっ。
 そんな私のまぶたの上に、暖かい感触が広がる。

「まだ……無理しちゃダメよ……もう大丈夫だから……ね?」
 ゆっくりと私のまぶたを押し下げる、柔らかくて暖かい手。

 はるか昔。もう忘れてしまったお母さん。そんなお母さんの手の暖かさを思い出させる、そんな感触に。
 私はもう一度、ゆっくりと目を閉じて……緩やかな眠りへと落ちていった。




 2051年8月17日(木)午後 3時51分 田中研究所医療セクション 個室病室




 ゆっくりと、頭にかかったもやが晴れていく。
 今度はすんなりと、目を開けることが出来た。

 「すうー……すうー……」
 すぐ傍に寝息を感じて、頭を傾ける。
 見慣れた亜麻色の髪を揺らして、ベッドにもたれて眠っている義理の娘。
 
 彼女を起こさないようにそっと首を動かして、周囲を観察する。
 白い壁、白い天井、白いシーツ。
 嘗て私が見慣れていて、そして二度と帰りたくないと願った光景と瓜二つ。

 でも、もう……怖くない。ここは、あの場所ではないから。


 かちゃり。
 ドアが開く音がする。嘗ては、苦しみと悲しみの時間の始まりを告げる合図であった音。

 でも、今は違う。その先に立っているのは。

「やっと目を覚ましたわね。全く、人に心配させないって事を知らないんだから、つぐみは」
「……お久しぶりです、つぐみさん」

 私の、かけがえの無い友人だから。


 私は安堵と共に、改めて自分を観察する。
 そっと上げた手で、ゆっくりと自分の身体を撫でる。
 私の腕に繋がった点滴の管が、しゃらんと音を立てて揺れる。ゆったりと動く手は胸のふくらみを下った後、すっと平行に動いてヘソの上へ……えっ?!

「!!!」
 私は恐慌に駆られ、無理やり身体を起こそうとする。下腹部に走る鈍い痛み。
 だが、そんなものは構ってられない!

「落ち着きなさい、つぐみ!」
「これが、落ち着いてなどいられるものですか!」
 
 ぱあん!

 私の頬に生まれた、硬い衝撃。起き上がろうとする力は全て跳ね返されて、私は再びシーツの上へ逆戻り。

「はあ、相変わらず暴走癖は健在か。少しは私を信用してよね」
 手を赤くした優が、すぐ脇に居て頭を抱えている。
「うにゅ……お母さん?何でここに居るの?!」
 ベッドの揺れと耳元の鋭い音に目が覚めたユウが、寝ぼけ眼で私達を見つめている。
「優さん。やはりお見せしないと、つぐみさんには信じていただけないでしょうね」
 表情に微笑を浮かべたまま、空が開いたドアの先に立っている。

「まあ、空が正解か。ほら……ホクト、沙羅。さっさと入りなさい」
 優の声。空の姿がドアの先に消えて。

 からからとキャスターが転がる音が、リノリウムの床に響いて。

「あ……ああっ……」

 涙で霞む視界の先で。


 ホクトと沙羅が……ゆっくりと私の傍へとやってきた。


「ほら。しっかりしてよ、つぐみ」
 ユウが、そっと私の上半身をを抱き起こしてくれた。

「ごめんね、ママ。ママより先に、この子達を抱いちゃった」
「本当はお母さんに最初に抱かせてあげたかったんだけど。こればかりはしょうがないよね」
 沙羅が……ホクトが……新生児用ベッドから、産着に包まれた赤子を一人ずつ抱き上げて。

「はい、お母さん。この子が、僕達の弟です」
「ママ。この子が、私とお兄ちゃんの妹だよ」

 そっとやさしく……私の胸に抱かせてくれた。

 とくん……とくん……左の胸と右の胸に、確かに伝わる鼓動の音。
 すうー……すうー……胸をくすぐる、柔らかい吐息。
 私の世界は今、それだけで埋め尽くされた。


              ………………


「大体ねえ。二人目が産声上げた瞬間に気絶した挙句、お産の間の事全く覚えてないってのはどういう事よ?
 あれだけ口を酸っぱくして注意してあげたってのに……どうせ無茶したんでしょうが!相変わらず無理と無茶はつぐみの専売特許って事か」
「言いつけ通りにちゃんと安静にしてたわよ。それに優にだけは、その台詞言われたくなかったわね」
 長い長い時間、子供達を抱きしめ続けた末に、私はやっと人見心地がついた。胸の中の子供達を起こさないように気をつけながら、務めていつもどおりに振舞う。

 気が付いた時には、既にホクトと沙羅、そしてユウの姿はこの部屋には無かった。今の私の背中は、クランクで起こされたベッドのマットレスで支えられている。
「みんなに知らせに行ったのよ。お産の間中全員分娩室の前から動かなかったから、今頃は疲れ切って眠ってるはずだし。暫く掛かると思うわね」
 静かな声で優が説明してくれた。

「さて。正直言って予定日より早かったから焦ったわ。本当にお騒がせよ。
 ただ……お陰で立ち会えた。あと一週間遅かったら、多分ここに私はもう居なかった筈だから」
 めずらしくしんみりとした表情の優を見る。そういえば……そういう事か。
「ふふっ。だから慌てて生まれてきたのかもね、この子達は。都合よく全員揃っている時に。
多分、分かったのよ。今なら家族全員にすぐ会える……って」
 素直に本心が出た。私と武の子供達だから、それくらいは心得てるのよきっと。
「はいはい、言ってなさいな」
 優も、柔らかく笑ってくれた。多分、私の言いたい事を分かってくれたんだろう。


「さて……改めて。お久しぶりね、空。もうこっちに帰ってきてるとは思わなかったわ」
 ドアの脇に控えている空に声を掛ける。
「はい。ノアの艦長が配慮して下さいましたので。昨日、正式に帰任致しました」

 いつもどおりに見える、空の微笑み。でも、昔と少しだけ違うのが私には分かる。
 一挙手一挙動に……確たる自信が籠もっているのが分かる。

「ま、いいわ。武の仕事のサポートは任せるから」
「はい」
 喜びと自信に満ちた笑みのまま、空が私の言葉に返事を返す。
「その代わり……」
 多分、私は微笑んでいるだろう。目の前の空と同じ笑みを浮かべているだろう。
「心得ております。私は、折角手に入れた自分の居場所を失いたくはありませんから」
 表情一つ変えずに、空は私の言葉を受け止めようとする。

「それに……百歩譲ってつぐみさんに勝てるとしても」
 かすかに空の表情が、揺らいで。
「そのお二人のお子様方に勝てるとは、とても思えませんから」
 かすかな陰を、その微笑に落として。
「私も皆様を迎えに行って参りますので。それでは失礼致します」
 そのまま私に背を向けて、空はドアから部屋を出て行った。


 言葉の失われた時間。
 私も、優も。何も言わず、ただ時を過ごす。
 でも、暖かい。でも、寂しくない。そんな……優しい時間。

 
 やがてノックの音と共にドアが開かれて、この静かなひと時は終わりを告げた。


「優。そろそろ時間だ。それにもうすぐ武たちが来る」
 ドアから入ってきた少年が、無表情で私達に告げた。

「さて、義理の親族の出番はここまでね。後は家族の時間だから、私は失礼されてもらうわ」
 ゆっくりと丸イスから、優が身を起こした。ぴんと背筋を伸ばした姿で、私に背を向けて歩いていく。
「ねえ、優」
「何よ?」
 私の声に、足を止めて。でも振り返ることはない。そんな優の背中に向けて。
「ありがとう、優」
 全ての想いを、この言葉に込めた。

「34年付き合ってきて、初めてつぐみに『ありがとう』を言われたわ。本当に意地っ張りで不器用ね、アンタ。
 でも……そういう所、私は好きよ」
 そして、やはり振り返る事無く優は部屋から出て行った。

 微かな嗚咽の声を残して。


「さて、ばたばたで悪いが俺も失礼する」
 優の姿を見送った後に、踵を返して立ち去ろうとする少年。月日が経ち背も伸びて、子持ちの大人になっていても。私にとっては彼はやはり少年のまま。
「待ちなさい。この子達を、見て行かないの?」
 私は、その背中に対して声をかける。
「……一目見れば十分だ。それ以上見てしまうと情が移る」
 背中越しに首だけで振り向く少年の、寂しげな言葉。

「そう、分かったわ。……優の事はお願いね、少年」
 心の底から湧き出してきた、素直な願い。
「ああ、任された。何とかしてみるよ」
 こちらに向き直った少年の顔には、はるか昔のLemuで見たあの笑顔が浮かんでいた。
「あと今は自分の事だけ考えてくれないか、つぐみ……その子供達、今度こそ何があっても手放すんじゃないぞ」

「……ええ」
 瞳から溢れる涙を見られたくなくて、顔を伏せて辛うじて返事をする。
 そんな私にもう一度背を向けて。少年は部屋から出て行った。



 こん……こんっ。
 音だけは控えめな、その実震えて音が合わない不協和音のノックの後で、静かにドアが開く。

「あ、す、すまん!」
 そこから覗いた顔が私の姿を認めた途端に赤くなり、大慌てで向こう側に引っ込もうとする。

 くいっ、くいっ。
 私はとっさに、開いていた左手で『こっちに来なさい』と合図した。何度も繰り返した、二人だけしか分からないブロックサインの一つ。
 それを見た武が、赤面したまま、ドアを閉めてこちらへとやってきた。
 視線の行方を見れば、武が何に赤面したか分かる。

 はだけられた私の病衣。むき出しになった上半身。
 私の両の乳房に、私達の子供達が一心不乱に吸い付いている。
 そんな姿の私。
「よかったのか?」
 ベッドサイドの椅子に腰掛けて、おそるおそるという感じで尋ねてくる武の姿。
「ええ。むしろこの姿こそ、見て欲しかった。
 私は母親で、あなたは父親。嘗てホクトと沙羅を抱いてお乳を与えていたとき、何度思ったか知れないわ。『この場に、武が居たならば』って」
 昔、四畳半一間の古ぼけたアパートの一室での光景を思い出す。
 あの時と場所は違っても、同じ光景。そして、あの時居なかった……この子の父親にして最愛の人が私と私達の子供達がすぐ傍に居てくれる。
 あの時の幸福感に。今、一番大切な存在に包まれる安心が加わって。
 最早、涙を堪える事など、出来やしない。
「つぐみ……すま……」
「お願い、謝らないで」
 武の言葉を、遮る。この人の考える事なんて、私にはすぐに分かる。
「だがな……」
 表情を陰らせる武。この人は、こういう人だ。
「謝られても、あの17年は帰ってこない。だから、その代わり、この子達からは絶対に離れないで。私を……絶対に……放さ……ないで」
 溢れ来る涙で視界が滲む。必死に武の姿を捉えようとするのに、見たくても……見えない。

 ぎゅっ。
 私の背中に、暖かい身体を感じる。左の心臓の上に、もう一つの鼓動が伝わる。

 そっと私の唇に触れた武の唇は、しょっぱい涙の味がした。





 2051年8月17日(木)午後 6時34分 田中研究所医療セクション 個室病室




 どたどたどた。
「こんばんわー!」
「グランマ、赤ちゃんは!?」
「おばあちゃーん!」
 暮れなずむ太陽を背にした、西日の当たる部屋に。孫娘たちが浮きかえる足取りを押さえようともせずに大挙してやってきた。

「「しーっ!」」
 反射的に、私と武は口に手を当てて、息を吐く。
「「「!」」」
 その仕草を見たとたんに、三人揃って口に手を当てて黙り込み、バツが悪そうに真っ赤になる。その顔に浮かぶのは、羞恥と歓喜に彩られた笑顔。

「こら、夏香菜、秋香菜。部屋では静かにしなさいと言っただろう?」
「そうよ、二人とも。赤ちゃんはね、うるさくしたら駄目なんだからね?」

「沙夜も、どうのこうも言っても子供ね。後先見ないからいつも怒られるんだよ」
「沙羅も人の事言えないと思うな。沙夜と一緒に突撃しようとしたくせに」

 孫娘達の後ろから、上の息子と娘が、その連れ合いと一緒に姿を現す。こちらもまた言葉とは裏腹に、満面の笑顔を浮かべていた。

 その視線の先にあるのは、私の腕の中ですやすやと眠る二人の赤子。
 だが……周囲の気配に気付いたのか。娘の方がうっすらと目を開いて。

 ほぎゃ、ほぎゃ、ほぎゃ!

 盛大に、泣き出した。

「ほーら、よしよし!」
 私は、ゆったりとリズムを刻んでそっと娘を揺する。刻んだのは、海の満ちて引く波の周期。
 それを繰り返して行くうちに、泣き声は段々小さくなり……やがて、無垢の笑みを浮かべて再びまどろみへと落ちて行った。
 娘が寝付いたのを確認して、私は改めて全員を手招きする。
 孫娘たちはしょうがないとしても、母親である沙羅やユウまで端っこで固まってたってのは納得いかないけど。今は我慢することにする。

 私を囲んで、大きな輪になった私の家族たち。

 その輪の中で一番近い場所を取った孫娘たちが、キラキラと目を輝かせて飽きることなく私の腕の中の赤子を見つめている。……一番最後に冬香菜が生まれた時、一番大きかった春香菜でもまだ三歳。しっかりと外を見れるようになって初めて出会った赤子の姿を、三人はすっかり女の子の顔をしてずっと見つめ続ける。

「ねえ、おばあちゃん。この子達に、触っても良いかな?」
 意を決したように、三人を代表して夏香菜が私に尋ねる。
「御免なさい。まだ、あなた達には早いわ。この子達の首がちゃんと据わったら、あなた達にも触らせてあげるから。その時まで待って頂戴」
 残念だけど、これは事実。私はこの三人の祖母である前に、胸の中の赤ちゃんの母親。譲れないものもある。

「「「………」」」

 しゅんとして、下を向いてしまう三人。ちょっと言いすぎたかもしれない。すこし罪悪感を胸に抱きながら、私は三人から視線を外そうとして。

「………かなあ」
「うん……いいねそれ。ふーちゃん、冴えてる」
「えへへ……さー姉にほめられちゃった」
「どーせ私は、そういうの思いつくの苦手ですよーだ」
「なつ姉、おおごえだしたらだめ」

 冬香菜を中心にしてこそこそと小声で相談を始めた三人の姿に興味を抱いて、私は胸の中の子供を柔らかく揺すりつつ、三人の姿をそれとなく観察する事にした。

「ねえ、おばあちゃん!」
 今度は、冬香菜が決然とした表情で私の方を向いて、小さいけどハッキリした声で問いかけてきた。
「なあに、冬香菜?」
 私は、柔らかい声で返事する。
「おばあちゃん……こもりうた、うたってあげてもいいかな?」
 冬香菜は、確かにそう言った。
「子守唄?どんな子守唄なの?」
 震える声を抑えて、私は勤めて冷静に装って冬香菜に問いかける。
 答えが分かっている、問いを。
「おばあちゃんと、おとうさんにおしえてもらったこもりうた!」
 表情を朗らかな笑みに変えた冬香菜が、そっと右手を上げて私に答えてくれる。
「うん。グランマとママさんが、私に歌ってくれた子守唄! 沙夜、あの歌大好きなんだ」
「あっ、ふーちゃんもさーちゃんもずるい。それ、私の台詞なのに!」
 その両脇から、期待に満ちた眼をした子供達もまた右手を上げる。


「ええ、良いわよ。あなた達からの、この子達への最初のプレゼントね」
 私は、また溢れかける涙を必死に押し留めて、孫娘たちに笑いかける。

 ぱあっと表情を満開の無垢な笑顔に変えて、私の前の三人はぶんぶんと音がしそうな感じで首を縦に振った。
 そしてすうっと肩から力を抜いて、揃って目を閉じて深呼吸。
「それじゃ、なつ姉、さー姉」
「了解。夏姉、お願い」
「うんっ!せえーの、いち……にの……さん、それっ!」



 やなぐい せおいし……つきのせい……


「ふふっ。この歌を聴くと、本当に心が休まるわね」
「うん。私達の、家族の証。この歌で、みんな育ったから」
「そして、この歌のお陰でもう一回僕達は一緒になれたんだ」


 ゆめの なかより……まいおりぬ……


「ねえ、お母さん」
「なあに、ホクト?」
「僕達の弟や妹が、また双子で生まれてきたのって運命かな?」
「ええ、そう思うわ。あなたもそう思わない? 武」
「ああ。もう一回、神様がチャンスをくれたんだ。今度こそ、手放すなって」


 こよい やなぐゐ……つくよみばやし……


「そう言えばパパ、ママ。ずっと気になってたんだけど」
「どうしたの、沙羅?」
「何だ、沙羅?」
「この子供達の名前、どうするのかなって。だってパパもママも、何にも教えてくれないし」


 はやく こぬかと……まちおりぬ……


「それなんだが。つぐみがな、『もう決めてある』って言い張って。挙句に俺にも教えてくれん」
「へえ。お母さん、もう決めてるんだ」
「ええ、ホクト。『二卵性の双子の男の子と女の子』だって分かったときから、この名前しかないって決めてたの」
「ママの考える名前だから、絶対いい名前に決まってるよね」
「そうよ、沙羅。私のとっておきの名前」


 ねむりたまふ……ぬくとまるみて……


「なあ、つぐみ。もったいぶらないで教えてくれないか。俺達の新しい家族の名前」
「そうだよ、お母さん。もう生まれてきたんだよ? 名前、ちゃんと呼んであげたいんだ」
「沙羅も、パパやお兄ちゃんに賛成。この子達、もう家族なんだよ?」

「そう。分かったわ。それじゃ教えてあげるけど……ホクト、沙羅。お願いがあるの」
「お母さんのお願いだったら、僕、なんでも聞くよ」
「沙羅に出来る事なら、なんでもするよ。ママ」

「ありがとう、二人とも。それじゃ、お願い」


 ねむりたまふ……ははにだかれて……



「この子達にね、ホクトと沙羅の本当の名前を譲ってあげたいの」














 止まっていた最後の時計の針が、ゆっくりと時を刻み始める。


 奪われた最後のふたつを、私は今、取り戻した。


 そんな私は、最愛の家族とこれからもずっと一緒に歩んでいく。






 幸せのこもれびに包まれた、未来へと続く夢の道を。



                                               〜 Fin 〜
後  書


 ついに、グランドフィナーレを書く日がやって来てしまいました。


 『つぐみが双子の子供を出産して、孫たちが歌う「月と海の子守唄」の声に包まれながら、ホクトと沙羅の本当の名前を新たな双子の子供達に授ける』
 この終わり方は、序章を書いたときに既に決めていたものです。

 話の中において常に2051年のつぐみは身重の身体を労わっていましたし(安静にしてましたでしょ?)、孫たちはそんな祖母をいつも気にかけていました。
 ユウが家事全てを担当したのもその為です。勘の良い方は気付いていたかもしれませんね。


 この話においては、今後2051年8月17日より後のエピソードは書く事は無いと思います。ホクトと沙羅の真名を決めるなどという大それた真似を自分がする事は出来ませんし。

 もしかしたら、過去のエピソードを書く事はあるかもしれませんが。


 細かいことについては、総後書に譲ります。いまの精神状況では、まともな文章を綴る自信がありませんので。


 とりあえず。
 この長くて拙い話に付き合ってくださった読者の皆様と、こんな私の作品を発表する場を与えてくださった上に様々な御足労をおかけした管理人様に最大の感謝をこめて。
 ありがとうございました。


2006年11月18日 あんくん。


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