優編
〜Pandemonium〜 
                              作 A/Z&Mr.Volts


 西暦2017年5月1日。
 東京湾沖に位置する海洋テーマパークLeMUで突然原因不明の事故が起こった。その場にいた殆どの人たちは『非常事態発生』との館内放送を受けてすぐにインゼル・ヌルに避難したが、当時LeMUで短期アルバイトをしていた『田中優美清春香菜』と記憶喪失の少年『桑古木涼権』はとある事情により逃げるのが遅れてしまった。
 そして2人は同様に逃げ遅れた倉成武、小町つぐみ、茜ヶ崎空、八神ココの4人と共に、閉鎖されたLeMUの中に閉じ込められてしまったのだ。

 内部気圧の低下により、LeMUが圧壊する予想時間は事故発生からおよそ7日後。6人は様々な手段を駆使して脱出方法を探したが、春香菜、桑古木、武、ココの体は脱出中にティーフブラウ(TB)と呼ばれる極めて致死性の高いウイルスに冒されてしまう。
徐々に身体と精神を蝕んでいく圧倒的な死の恐怖。そんな過酷な状況の下、武のアイデアでその場に同行していた小町つぐみの体からキュレイウィルスと呼ばれる諸刃の剣を抽出し、それをベースにした抗体をTB感染者である4人の体内に注射した。
 しかしその危険な賭けの結果、キュレイウィルスに感染してしまった春香菜と桑古木はその後の人生を不老不死という重い鎖に繋がれて生きていかなくてはならなかった。更に、結果的に春香菜と桑古木は一命こそ取りとめたものの、それと引き換えにこの数日間行動を共にした仲間である倉成武と八神ココの命というあまりにも大きな代償を払わされることになった。

 だがその事件直後、春香菜の耳にどこからか声が聞こえてきた。姿が見えない謎の声は17年後の未来から来た『第3視点』が自我を持ったもの、ブリックヴィンケル(BW)だと名乗った。そして彼?の話によれば17年後の同じ日、同じ場所で、条件を揃えてBWを発現させることができれば、武とココの命が助かる可能性があるというのである。

 神の啓示か悪魔の囁きか、それは普通なら到底信じられない幻聴としてしか認識しないような話だった。しかし自分たちの前にこれから立ち塞がるであろう残酷すぎる現実にただ打ちのめされるくらいならば、春香菜はその残された可能性に賭けてみることにした。
 この計画はBW発動計画と名付けられた。そして後に話を聞いて協力することになった桑古木と共に、2人は今後の17年間の全てをその計画の為だけに捧げることを決意したのだった。

 時は流れて2025年、春香菜は大学在籍中にBW発動計画に関連性のある『第3視点』理論の研究をまとめ、博士課程を修了後LeMUに就職を果たした。それと同時に桑古木も春香菜と同じ部署を希望しつつLeMUに就職を志願し、見事に内定を取った。そして春香菜の下で助手をしながらBW発動計画の準備を補佐する事になった。

 更にそれから4年の月日が流れた。2人はLeMU内で功績を重ねる裏で地道な根回しを続け、LeMUの実権をある程度掌握するために日々奮闘していた。そんなある日のこと・・・



 2029年10月17日。
「は〜、それにしても鬱陶しい季節ねえ。外は毎日雨ばかりだし」
 強化ガラスに仕切られた窓の外を見ながら春香菜はぼそりと呟いた。窓から見える外の世界は暗く、室内光の届く数メートル先までしか見渡せない。その狭い視界の中には白い空気の泡が漂う以外は何も見えてこなかった。
「ここは雨だろうが晴れだろうが関係ないだろ」
 と、春香菜のデスクの向こう側でディスプレイから目も逸らさずに桑古木は答える。確かに、LeMUは海中に位置する施設なので天候の影響は無く、水深51mという太陽光の届かない深さでは朝も夜も関係なかった。
「わかってる、単に気分の問題よ。もう、それにしても何なのよこの資料の束は!あ〜あ、たまには一日中ゆっくりと温泉にでも浸かっていたいわ〜」
 目の前に文字通り『山積み』にされている資料を前に不満をあらわにしながら、春香菜は椅子の上で体の関節をぐっと伸ばした。
「オバサン臭いこと言ってないで手を動かせ手を」
 桑古木も長い付き合いで彼女の愚痴にはもう慣れているため、まともに取り合わずに仕事を続ける。だが、その態度にカチンと来た春香菜は桑古木の背後に静かに忍び寄ると
「あら、随分な口の利き方じゃない?ねえ、か・ぶ・ら・き・く〜ん♪」
 そう言ってこめかみを力いっぱい握った両拳で挟んでぐりぐりする。
「いだだだだ!こら優、やめろ、マジで痛いってそれ!」
 そんな日常的とも言えるいつものパターンを2人が繰り広げているところに、

 プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・

 内線からの呼び出しを告げるベル音が室内に鳴り響いた。ディスプレイに表示されている発信者を見てみると、ライプリヒ製薬ドイツ本社から派遣されたハイデルン・ディーヴァからだった。年齢はおそらく50後半〜60程度、ライプリヒ製薬でのキャリアも長い古株で、かなりの地位と発言力を持っている。長年の間キュレイウイルスに関する研究の責任者を担当していて、世界で唯一報告されている『パーフェクトキュレイキャリア』である小町つぐみとも面識があったらしい。
 彼は1年の内に何度かこうしてLeMUにやって来るのだが、何の目的でLeMUに来ているのかはようとして知れなかった。

 彼のキュレイウイルスに関する知識は深く、春香菜と桑古木がLeMUに入社して1年程経った後に彼の方から接触してきた事があった。そしてその後何度かに渡ってキュレイキャリアである2人に色々とアドバイスを授けようと持ちかけてきたのだ。
 一見それは親切な行為に見えるが、彼のアメリカにある研究所では極秘裏に日夜キュレイキャリアに対する人体実験が密かに行われている。そんな内情を知っていた春香菜と桑古木にとって彼はあまり近寄りたくない存在だった。それに人間をただの実験材料としか見ていない冷酷な性格もまた2人が彼を忌避する理由となっている。

 プルルルル、プルルルル、プルルルル・・・

 内線電話は一向に鳴り止む気配がなかった。それは取らなければ永遠に鳴り続けているという向こう側の意思表示の様なものにさえ感じ取れた。
「・・・どうする?」
「無視する訳にもいかないでしょ」
 お互いにしばらく顔を見合わせていたが、やがて春香菜は重々しい口調でそう言うと桑古木を開放して、やや固い顔をしながら手元のパネルを操作した。回線が繋がると正面のモニターにハイデルンの冷たい笑顔が映し出される。
「やあ、2人とも。久しぶりだね、元気にしていたかな?」
 モニターに映った男はいかにも社交辞令としか取りようのない形だけの挨拶をしてきた。面長のその顔は若い頃はハンサムであったような様相がうかがえるが、長年に渡って禁断の人体実験を続けて邪気を帯び、禍々しいものに変わってしまった。
 今ではその顔は出来合いの鉄仮面のように冷たい印象を与え、青い瞳の奥には覗き込むものに恐怖心を抱かせる怪しい光が灯っている。
「お陰様で。それで何の御用でしょうか?」
 春香菜はまともに取り合わず、無表情のまま単刀直入に用件を尋ね返す。その態度にハイデルンはいかにも不満げに肩をすくめた。
「おやおや、つれないものだな。まあいい。今から2人共私の部屋まで来てくれないか?」
 ハイデルンからの突然の呼び出しに春香菜と桑古木は再度視線を合わせた。今までこちら側から接触を極力避けていたこともあり、彼とは今までまともに会話をしたことすら無かった。それにも関わらずいきなり『部屋に来い』というのは何か裏にありそうな気がした。
「こっちも今夜中にまとめないといけない資料が山ほどあるんですよ。できれば今この場で用件を言って頂くか、そちらからご足労願いたいですね」
 と、桑古木がディスプレイにやや顔を近づけて返答する。しかしハイデルンはそれなら心配ないと笑った。
「上には私の方からうまく言っておこう。それに私も色々と忙しくてここから動けない状況でね。忙しいところをすまないが、君たちの方からこちらに来てもらいたいんだが・・・」
 穏やかな話し方ではあったが、その口調からはハイデルンの方から春香菜たちの下へ足を運ぶつもりは無いという意思がはっきりと感じ取れた。しかし、そう言われてしまっては、ライプリヒ幹部である彼の命令を現段階ではただのいち研究員にしか過ぎない春香菜と桑古木が拒否する訳にはいかなかった。
「・・・わかりました。では10分後に」
 そう言って春香菜はひとまず通話を切った。

「どういうつもりかしら?」
 春香菜は消えたモニターをいぶかしむ様に見つめたまま隣で考え込んでいる桑古木に尋ねた。
「さあ?行ってみないとわからないな。特にあいつらに目をつけられるような事をしでかした覚えはないし」
 桑古木は椅子から立ち上がると、片手を頭の後ろに、もう片方の手をズボンのポケットに突っ込みながら答えた。これは彼の自然体の時のスタイルで、いわば癖みたいなものだ。
「『虎穴に入らずんば虎子を得ず』ってやつだ」
「それはちょっと違うんじゃないかしら・・・」
 桑古木は春香菜直伝の倉成流『場の緊張をほぐす冗談』を発したが彼女のお気には召さなかったようだ。
「うーん、近すぎず遠すぎずでいい喩えだと思ったんだがなあ・・・」
 と、真剣に考え込んでしまった桑古木に春香菜は呆れた様な視線を送り、
「もう、それはいいから早く行くわよ」
 そう言ってさっさと部屋を出て行ってしまったので、桑古木は反省会を中止して春香菜の後を追いハイデルンの部屋へと向かった。



「忙しいところをすまないね。まあ立ち話もなんだし、かけてくれたまえ」
 2人は鼠みたいな顔をしたハイデルンの部下らしき男の案内を受けて応接間のような部屋に通された。その部屋はテーマパーク内の一室にも研究室にも相応しくない豪奢さと落ち着いた雰囲気を醸し出していた。部屋の一面はガラス張りになっていて、その向こうには深く蒼い世界が広がっている。
 春香菜たちに背を向け、海を見つめるように立っていたハイデルンはこちらを振り向いて、まるで氷から削り出したかのような冷たい笑みを浮かべると、挨拶もそこそこに座るように勧めた。
 春香菜と桑古木は手前のソファに腰を下ろして、あちらから話を切り出してくるのを待つ。ハイデルンは向かいのソファにゆっくりと体を沈めると、持っていたパイプに火をつけた。
「コーヒーでも飲むかね?」
 相変わらず顔に冷笑をたたえたままそう尋ねるハイデルンだったが、
「結構です。それより用件に移ってもらえますか?」
 と春香菜が先を促す。
「随分と性急だな。来たばかりだというのに」
 無下に断られたハイデルンは若干眉をひそめたが、春香菜の隣に座っていた桑古木が更に平然と言いつのる。
「こっちは呑気にタバコ片手にコーヒー飲んでるあんた程は忙しくはないが、こう見えてもやらなきゃいけないことが山積みでね。コーヒーを飲めば仕事が魔法のように消えてなくなるって話なら何倍でもおかわりさせてもらいますがね」
 この皮肉交じりの発言に入り口の脇に立っていた部下の男が明らかに不機嫌そうな顔をした。しかし、目の前のハイデルンは今度は顔色一つ変えなかった。
「そうか、では率直に行こう。私と組む気はないか?」
「え?」
「はあ?」
 唐突にそんな話を振られて春香菜と桑古木は揃って気の抜けた返事をした。
「順を追って話そう。私はライプリヒの元で長年に渡ってキュレイウイルスに関する研究を行っている事は知っているね?」
 嫌な方向に話が流れていきそうな予感がしたが、
「ああ・・・」
 と、桑古木が一応相槌を打つ。
「それで私たちに『協力』しろって事ですか?それはできれば遠慮したい話ですね」
 春香菜はすかさずその後に予測される提案をぴしゃりと撥ね退けた。彼の非道な人体実験に付き合うつもりは毛頭ない。しかしハイデルンは笑顔を崩さず、空いている左手を前方に出してそれを否定した。
「まあまあ、話はまだ終わってないよ。我々が所属するライプリヒ製薬ではあまり大声では言えないが、細菌やウイルスを主にした生物兵器を収入源に様々な事業や研究をしていることは君たちも知っての通りだ。『様々な研究』の中には私のキュレイウイルスのそれも入るし、勿論君たちの行っているレムリア大陸と第3視点とやらの関連の研究も含まれる」
 いまだに話の先が見えてこない。2人は黙って続きを待った。

「私自身は君たちの行っている第3視点の研究を高く評価している。遥か昔に存在したと言われているレムリア人が『第3の眼』を持っていたとはなかなかユニークなアイデアじゃないか。他の幹部や無能な上層部には理解できないようだが」
 とハイデルンは感心したように言い、コーヒーカップを手に取って一口飲んだ。
「ありがとうございます」
 感情の篭もっていない声で春香菜はそう返した。ハイデルンはそこで視線を下げると、残念そうな顔をして声のトーンを落としつつ話を続ける。
「しかし、残念な事に私の研究も君たちの研究もなかなか思わしい結果が出せず、一向に評価を得られない。キュレイウイルスはうまく不死その他の副作用を取り除けばあまたの不治の病を治療する万能薬になり得るし、君たちの研究している第3視点もそれが実際に使えるようになれば、未来に起こるはずであろう事故や犯罪や戦争を未然に防ぐことだって可能なはずだ」
「・・・・・」
 2人は黙って話を聞いていた。第3視点とレムリア人の関連性など半ばこじつけで作った理論である。春香菜たちが第3視点の研究費用を確保するために『レムリア遺跡探索』のお題目を掲げている一方で、ライプリヒは海底調査にかこつけて細菌研究を進めるという別の目的を見出している。
 いわば利害の一致の上に成り立っている虚構であり、レムリア大陸の調査などお互いに本気で取り組んでいるわけではないのだ。それ故、結果に対して上層部が期待していないのもまた当然の話だった。 ハイデルンはそんな事情を知ってか知らずか、話を続ける。

「私は先日、中東のある国で起こった内戦にボランティアの医師として派遣されたのだが、あれは嘆かわしかったよ。戦争で死ぬのは軍人や兵士だけでは無い。罪もない一般市民の犠牲者の数も世間に知れ渡っているものよりずっと多いのだ。今まで平和に暮らしていた市民がある日突然ひっきりなしに続く爆撃音に曝され、夜も銃撃戦の音に脅かされて眠れない日々を強要される。そして時には家族や友人の命さえも奪われる。この圧倒的な恐怖が想像できるかね?」
 そう言ってハイデルンは悲しそうに両手で顔を覆った。
「更に彼らは凶弾やテロの恐怖に曝されるだけでなく、戦争による貧困でまともな生活も送れなくなるのだ。そして寒さや飢えによって毎日たくさんの人々が死んでいく。想像を絶するひどい惨状だったよ」
 ハイデルンは体を細かく震えさせながら声を絞り出すように語った。だがその一方で自分の研究所では何の罪も無いキュレイキャリアの人たちに数々の人体実験を行っている、という彼の裏の顔を知る2人にはそれが心から出ている悼みの言葉には聞こえなかった。ハイデルンは正義の医者として世界中から評価を受けていたが、売名行為の一種だろうとさえ思っていた位である。
 ハイデルンは顔をゆっくりと上げると2人の目をじっと見つめた。

「そこで私は一刻も早くあの不毛な『戦争』というものを人類の歴史から終わらせようと決心したのだ。君たちの研究に全面的に協力しようというのもその活動の一環だ。資金と人員さえ増えれば君たちの研究の成果もある程度は形として表せる見込みも出てくる筈だ。そうすれば上の意見も変わって、今よりも研究がやりやすくなるだろう」
 そう言いながらハイデルンはやや体を前に乗り出してきた。しかし、春香菜も桑古木もやや下を向いて難しい表情をしたまま一言も喋らない。ハイデルンは両腕を広げ、ゆっくりと2人に語りかけるように話した。
「自分たちで築き上げてきたものを他の者に干渉されたくない、という科学者の気持ちは同じ立場である私には十分理解できるが・・・それでは、こういう話ではどうかな?前々から言っていたが、私の方から君たちにキュレイに関する情報を提供することにしよう。10数年前に君たちを襲った事故とそれによってもたらされた結果はあまりにも悲痛なものだったし、君たちも永遠に不死の鎖に縛られ続けるのは辛いだろう。我々はキュレイの優れた回復能力と代謝能力のみを残してテロメアの回復等の副作用を押さえる研究を続けている。これが成功すれば君たちも普通の身体に戻れるというわけだ。どうだ、協力してもらえないか?」

「・・・少し考えさせてください」
 しばしの沈黙の後に春香菜が呟いたその言葉を最後に話は打ち切られ、2人はハイデルンの部屋を後にした。



「ねえ、どう思う?さっきの話」
 春香菜と桑古木は秋雨の降る中、早朝のファミリーレストランに来ていた。LeMU内でこの話をするのはまずいと判断した2人は部屋に戻ってすぐに残っている資料をとり急いでまとめた。その後に減圧を行い、地上に上がって桑古木の車で市街まで出て来たのだ。
 一応警戒していたが途中に尾行らしきものはなかったし、適当に入ったファミレスなので怪しい客の出入りにさえ目を光らせておけば会話が漏れる心配も無い。
「どうも胡散臭いな、この条件じゃあっちにメリットが全然無い。あのドイツ人が本当に『世界の平和』とやらを願っているのなら考えられなくも無い話だけどな」
 桑古木はモーニングメニューの焼魚定食の味噌汁を飲みながら答えた。やはり日本人たるもの朝は米と味噌汁に限る。注文を取りに来たウェイトレスに『無料で生卵か納豆をお付けする事もできますが?』と聞かれたが、せっかくの白いご飯に何かを乗せて食べるのはポリシーに反するので丁重にお断りした。
「彼の日頃の行いから見てその可能性はまず無いでしょうね。やっぱり今回の件は何か裏がありそうだね」
 春香菜はそう言っておかわり自由のクズ豆から無理やり熱湯で抽出しただけの渋いブラックコーヒーを口にした。相変わらずコストのみを追求した味も香りもない代物だったが、あの部屋で出されるコーヒーよりは100倍マシだった。
「・・・調べてみるか?」
「そうね、劉に頼んでみるわ」
 それを聞いた桑古木は露骨に顔をしかめた。お盆の上に置いてあるお茶を手にとって一口飲むと、
「あの中国人か。あまり気が乗らないな。これは俺の勘だがいまいちアイツは信用できない」
 憮然とした口調でそう吐き捨てる。
「そう言わないの。彼はこういう裏情報に詳しいし、文句を言える余裕は無いんだから」
「へいへい」
 春香菜はそう言って桑古木をなだめてコーヒーカップを置くと、手元のPDAを操作して『Atlantis』という名前のサーバーにアクセスした。アトランティスとはレムリアやムーと同じく大昔にこの世界に存在していたという伝承の残る伝説の大陸の名前である。どの大陸もその実在を示す地質学的・考古学的証拠も見つかっていないが、神秘主義者たちの間で持ち上げられ、学説と言うよりは半分ファンタジーとしていまだに語り継がれている。このサーバー名は製作者の趣味で付けられた名前だった。
 今は海の底に沈んでいるという伝承の通りか、一見放置されたゴーストサーバーで機能していないように見える。だが、そこで特定の操作を入力すると彼のもとにメールを送信できるフォームが開く。そこからクライアントは彼に仕事を依頼するのだ。

 春香菜はBW発動計画のためにある程度LeMUをコントロールできる力を短期間で手に入れつつ、ライプリヒに潜り込んで内部告発の裏も取らなければならず、そのためには様々な権謀術数を張り巡らせる必要があった。この裏業界への窓口もそのために不可欠な要素の一つである。
 それに劉はただの情報屋というだけではなく、サーバー名に『アトランティス』と名付けるほどにその手の話が大好きで、そっち系の情報にもめっぽう強かった。春香菜は彼に情報入手を頼む以外に、時々第3視点の研究に役立つ貴重な資料を入手してもらったりもした。そもそも『レムリア大陸と第3視点を結びつける』という春香菜たちの今行っている研究のアイデアも彼の助言があってこそのものだったのだ。

「よし、と。こんなところかしら」
 ハイデルンの過去と動向を調べて欲しいという旨のメールを送信して、春香菜はPDAをジャケットに仕舞った。
「さて、開けてビックリ、ハイデルンからは何が出てくるかな?」
 桑古木は壁に掛けられた時計にちらりと目をやると、席を立って伝票を掴んだ。それを見た春香菜は
「あら、悪いわね。払ってくれるの?じゃあ先に車で待ってるから」
 そういい残して風のように店から出て行ってしまった。それを呆然と見送った桑古木は肩をがっくりと落として
「やられた・・・」
 と、ため息をついた。



「奴らは我々の申し出を受け入れるでしょうか?」
 春香菜と桑古木が出ていった後、応接室に残された部下の鼠顔をした男は、ソファでくつろいでいるハイデルンの背中に向けて尋ねた。
「まずその可能性は無いだろうな」
 しかし、その背中からは意外にも否定的な答が返ってきた。
「え?しかしそれでは・・・」
 不思議そうな顔をする部下に対してハイデルンは愉快そうに笑って立ち上がった。そして棚の方に歩いていってブランデーとグラスを手に取る。
「まあ聞け小俣君。君は日本人だから周囲に『勝負は正々堂々と真っ向から立ち向かえ』という教育をされてきたのかもしれないが、真実はまったく逆だ。最初からこちらのカードを全て見せて同等の立場で勝負などしてはいけないのだよ」
 ハイデルンは出来の悪い生徒を諭すように優しく、ゆっくりとした声で喋り始めた。
「先ほど私がボランティアの医師として世界諸国に派遣されていた、という話をした事は覚えているかね?」
 ブランデーの栓を抜き、グラスに注ぎながらハイデルンは部下の顔も見ずにそう尋ねた。質問の意図が掴めない小俣と呼ばれた部下の男は当惑した顔で間抜けな返事を返す。
「は?はあ、それはもう」
 彼が戦地に赴き、多くの怪我をした兵士や一般人の命を救った英雄として賞賛を浴びていたことは小俣も知っていた。それどころか、その美談はライプリヒを超えて世界中に知れ渡っているほどである。ハイデルンはニヤリと口の端を歪めて小俣に真実を告白し始めた。
「実はあれは表向きのものなんだ」
「え?」
 小俣は目を丸くした。
「私は自ら進んで戦争そのものを求めていたのだよ」
 絶句している小俣の様子をよそにハイデルンは部屋の奥に向かってゆっくりと歩きながら語る。
「あれはライプリヒ製薬の奉仕活動の一環として行われていたのだが・・・戦場とは私にとってはまるで天国にいるようだったよ。なにせ黙っていても実験材料は次々と運び込まれてくるし、生と死の狭間という極限状況における人間の行動心理は見ていてとても興味深い。その上、我々にとって都合のよい駒も見つかる。いやはや、戦争さまさまだよ」
 そこまで言ってハイデルンは窓の前で立ち止まって振り返り、小俣の目をまっすぐに見据えた。小俣はその瞳の奥に潜む狂気に触れ、身震いと共に戦慄を覚えた。ハイデルンは『奇跡の医師』と呼ばれるほどの多大な功績を残していて、いずれノーベル平和賞を貰えるのではないかという噂すら囁かれていたが、裏でその様なことをしていたとは・・・。それは『奉仕』などとは程遠い、神をも恐れぬ蛮行だった。

 すっかり怯えて縮こまってしまった小俣の様子にハイデルンは穏やかな笑顔を浮かべると、もう一つのグラスにブランデーを少し注いでゆっくりと差し出した。小俣は更に困惑したが、やがて遠慮がちに手を伸ばしてそれを手に取ると、一気に中身をあおった。
「落ち着いたかね?」
「は、はい。有難うございます。しかし、私にはとてもそのような話など・・・」
「信じられないか?ふふふ、ならば私の演技も捨てたものではないという事だな」
 ハイデルンはそう言って満足げに頷き、自分のグラスのブランデーを口に含む。
「話を戻そうか。私はそういう理由で戦争自体は大歓迎なのだが、最近の戦争のあり方そのものには疑問を感じている。これまで彼らは兵の通りそうな場所に片っ端から地雷を蒔き、要人のいそうな所があれば手当たり次第爆撃し、周囲の環境にまで多大な影響を与える化学兵器を平然と使用してきた。これでは武器の性能を引き出すどころかただそれに振り回されているばかりの全く効率の悪い戦略だ。そんなお粗末な作戦の結果、戦争は長期化し、経済活動や環境にも大きなダメージを与える」
 ハイデルンは嘆かわしいとでも言いたげに額を右手で押さえた。
「その上、その様なやり方では後に払わされるツケの方が高くつくという事を全く考慮していない。目先の勝利の事しか考えていない、手に余る武器を持たされた子供を見ているようだよ」
 小俣は頭の中で反芻する上司の言葉を必死で整理しようと頭を抱えている。ハイデルンはそんな部下の様子を見て苦笑した。
「どうやら情報の処理に苦戦しているようだね。要するに私が今君に教えようとしているのは新しい勝者の理論だよ。勝者は決して無駄な事はしない。常に先を見通し、必要最低限の事を実行するだけで最大の効果をあげるのだ」
 ハイデルンは興奮してきたのか身振り手振りを交えながら熱弁を続ける。
「今必要なのは人間自体の進化と情報をより高度にコントロールする技術だよ。偉大なる歴史の覇王たちが探求し続けて辿り着けなかった『不老不死』への道がついにキュレイウイルスの発見によって開かれ、今の人類の前には新たなる進化へのステージが広がっている」

 そこでハイデルンは手にしていたグラスを傾け、中身を飲み干して息をつく。
「キュレイウィルスは素晴らしいものだ。あれだけの回復能力と代謝能力の上昇を見せながら、エネルギー効率は全く変わらない。完全体においては紫外線という弱点があるがそれを補って余りある性能だよ。これをベースに長年の間に私が戦場で集めてきた優秀な兵士としての技能を加えることによって、無敵の軍隊が形成される」
 そう言って飲み終えたグラスをテーブルの上に静かに置いた。
「な、なるほど・・・」
 小俣は唾を飲み込みながら頷いた。確かに不死身の人間で形成された部隊は敵国にとっては相当な脅威だろう。しかしハイデルンは不満げな表情で首を横に振る。
「だがそれだけでは不十分だ。不老不死の肉体と最先端の軍事技術を持った部隊が実際に出来たとしても、それはそれで脅威となるがそれだけで例えばアメリカあたりと戦争をしても一方的に勝てるとは断言できないだろう?確実に戦争に勝つにはこれに加えて更に私が先程言ったもう一つの要素である『情報をより高度にコントロールする技術』が必要になってくる」
 小俣が恐る恐る口を開いた。
「それが・・・あの小娘の研究している」
「そう、『第3視点』だよ。君もなかなか筋がいいじゃないか。第3視点の開眼とはすなわちこの世界を時間の概念も含めた4次元でとらえることだ。つまり過去に起こった真実が見え、将来起こるべき未来が予想できる。いつ、どこで、誰が、何を、どの様にするかを事前に知っていればそれを未然に防ぐことは容易だ。逆にこちらが例えば誰かの暗殺を試みる時も、確実な時間と場所が予想できる。キュレイを核にした最強の部隊がさしずめ身体ならば第3視点の開眼は頭脳といったところかな。この2つの要素が合わさればライプリヒなどという小規模なモノを飛び越えて世界すら手中に治めることも可能になるだろう」
 ハイデルンは満足そうに頷くと、パイプを机の上から取って火をつけた。

 それを聞いた小俣はもうそれが達成されたかのように興奮して目を血走らせた。
「成程!さすがはハイデルン様。私、小俣感動いたしました。今後もこの身を粉骨砕身あなたの理想の為に捧げるつもりであります!」
 小俣のその様子にハイデルンは口の端を歪めて笑った。
「ふふふ、サムライ魂というやつかな?そういう忠誠心の高い部下は好きだよ。それでは早速君に次の手を打ってもらおうかな」
「はっ、何なりと」
 深々と頭を下げる小俣を見下ろしながらハイデルンは視線を宙に泳がせ、パイプをゆっくりとくゆらせてから命令を下した。

「パーフェクトキュレイキャリアである小町つぐみの行方を割り出し、田中優美清春香菜の娘、秋香菜の周りに人員を配置しておけ」
「は?はい・・・」
 小俣はまたもハイデルンの命令の意図するところを掴みそこねて当惑したが、ハイデルンは気分を害した様子は無く、淡々と説明する。
「これにも説明が必要かな?まあいいだろう。あっちが次に打ってくる手を読めば簡単だ。彼女らはおそらく先程の不十分な説明に対して疑念を抱き、こちらの真意を探ろうとしてくるだろう。それに対して我々は別段隠そうとしない。そのかわりに一手先を打つのだ。つまりあちらがこちらの考えを知っていようがいまいが屈服せざるを得ない状況を今の内に作っておくということだ」
「な、なるほど!了解しました、そういうことならばすぐに手配いたします!」
「頼むぞ」
 小俣はそう言い残して深く一礼をすると部屋を出て行った。ハイデルン1人が残った部屋に静寂の中にアナログ時計が時を刻む音だけが響く。

「ハハハ、しかし単純だねえ、日本人てのは」
 ふいに暗闇から浮かび上がるように声と共に人影が現れた。彫りの深い顔立ちをしていて鼻が高く、明らかに西洋人だと一目でわかる容貌だ。
「ジュリアーノか。昔の三国同盟のよしみで日本人を入れてみたんだが駄目だな。リーダーとしてあるべき思考パターンの教育をまるで受けていない。日本が21世紀に我々ユーロ経済圏やアメリカに簡単に遅れをとった理由が身を持ってわかったよ」
 ハイデルンはソファの背もたれに深く身体を沈めながらそう呟いた。
「まあ、あの手の奴は駒としては優秀かもしれないね。しかし彼も可哀想だねえ」
 ジュリアーノは小俣の出て行ったドアに同情の視線を送る。
「フフフ。それよりジュリアーノ、あれはうまくいったのか?」
 そう言って顔を向けたハイデルンに対してジュリアーノは両手を上げて『お手上げ』のポーズをしたまま首を振った。
「敵もああ見えてなかなかしたたかでね。軽くあっちのメインデータに揺さぶりをかけてはみたけど駄目だったよ。やっぱり城攻めよりは人質を押さえた方が早そうだね」
「そうか。まあそうこなくては面白くないな」
 そう言うとハイデルンは煙をふうっと吐き出した。まるでカードゲームで次に出すカードを悩んでいるような表情だ。
「随分と嬉しそうだね。まあ君たちにしてみれば100年越しの悲願がようやく叶う可能性が見えてきたんだから当然かもしれないけど。以前に入手したデータの・・・ええと『ブリックヴィンケル』だっけ?それを使えば確か時間軸の流れを見るだけじゃなくてその時代に直接干渉ができるようになるんだろ?」
「そうだ、長かったよ。それがあればあのお方が蘇る。無敵のドイツ帝国があのお方の手によって復活し、それが永遠の歴史となるのだ。『アドルフ・ヒトラー』閣下の復活によって・・・」




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