優編  〜Pandemonium〜 
                              作 A/Z&Mr.Volts


3

 翌朝。あの後軽く睡眠を取った2人はLeMUから地上に上がって朝食を取り、ワンボックスワゴンをレンタカーで借りて、待ち合わせに決めた駅前で4人の到着を待っていた。
「で、どんな奴等なんだ?その助っ人さん達は」
 隣の助手席に座っている春香菜に桑古木が尋ねる。
「外注した2人のうちアメリカの方はエアフォース出身の男性で名前はマイク=フレジャー、28歳。ロシアの方は元KGB所属のユダヤ人でネロ=マクスタイ、26歳だって。あと私が頼んだ2人のうち1人は劉の紹介でどんな人かもよくわからないわ。最後の1人はよく知ってるんだけどね・・・」
「やれやれ、そんな事で大丈夫なのかよ?」
 と、その時桑古木たちの乗る車の窓がノックされた。視線を向けるとそこにはスキンヘッドで大柄の黒人男性とぼさぼさの金髪の上に帽子を乗せて、くたびれた格好をした男が立っている。桑古木が手元を操作して窓を小さく開けて2言3言やりとりを交わした後、ドアロックを解除すると2人の男はドアを開けて車の後部座席に入ってきた。
「あんた達が今回の仲間か。俺は桑古木涼権だ、よろしく」
 お互い英語で軽い自己紹介を交わす。マイクと名乗った黒人は人懐っこい笑顔を浮かべたまま、野球のグローブ並みに大きい手を後から伸ばしてきた。
「ヨロシク、ローゴ」
 一応あちらも気を使ってくれたらしく、日本語がある程度はできる人材を派遣してくれたようだ。
「『ローゴ』って・・・何か年食った爺さんみたいな呼び方だなあ」
 桑古木は苦笑しながら手を握り返す。英語には『りゃ』行の発音はないので、『リュウ』とか『リョウ』という名前は発音しにくいらしい。
「あのさあ」
 と、そこへ自分の荷物から取り出した春香菜と桑古木に関する資料を見ていたネロが話し掛けてきた。こちらはかなり日本語が達者らしく、自然なイントネーションで流暢に話す。
「この『TANAKAYUBISEIHARUKANA』ってどこまでがファーストネームでどこからがラストネームなの?」
 と、当然の疑問を口にする。春香菜は一瞬動きを止めたが、すぐに平静を取り戻して
「ああ、それは気が遠くなるほど長くて面倒でしょうから単純に『YOU』でいいわ」
 と答えた。

 と、そこで春香菜のPDAの着信音が鳴った。着信者を見てみたが『非通知設定』だった。春香菜はしばし考えたが、意を決して通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「・・・」
「もしもし?」
 返事がない。いたずらか何かだろうか。
「用件がないなら切りますよ?」
「田中先生ですね?」
 通話口からボイスチェンジャーを使った機械の様な声が聞こえてきた。
「・・・ちょっと待ってて」
 春香菜は電話口の向こうの相手にそう言うと、桑古木に軽く目配せをした後ドアを開けて車を出た。そのまま道路を渡って行って向かいにあるビルの壁面に背中をつけ、自然な仕草で回りに注意を配りながら通話を続ける。
「ごめんなさい。あなたが『劉』かしら?」
「そうです。この場合は『初めまして』と言うべきなのかな?」
 春香菜は受話器に唇を押し付けるようにして、声のトーンを落としながら話す。
「それはどっちでもいいわ。それより頼んでおいた件だけど・・・」
「ええ、わかっています。かなり名の通った奴を昨夜そちらに向かわせましたよ。もうすぐそちらに着くと思います。それよりも先生、なかなか厄介な奴を敵に回しましたね」
 受話器の向こうの相手は苦笑しているようだ。
「そうなのよ。奴らはキュレイウィルスだけじゃなく、私たちの研究まで乗っ取ろうとするつもりだったみたい」
 それを聞いた劉は驚きと呆れが入り混じったような声を出した。
「BWですか。あんな代物がそう簡単に自分の意のままに動かせるわけが無いのに、奴らも浅はかと言うか何と言うか・・・」
 春香菜は手で髪を軽くかき上げた。
「とにかくあんな奴らの勝手にはさせないわ。絶対につぐみとユウは守ってみせるから」
「幸運を祈ってますよ。それでは、また何かあったら遠慮なくどうぞ」
 そう言って通話は途切れ、春香菜はPDAをポケットに仕舞うと桑古木たちの待つ車に戻っていった。

 春香菜が車に戻った後、マイクとネロが空港に着いてすぐに直行してきたので朝食がまだだと言い出したため、残りの2人が来るまでに朝食を食べてくるという話になって春香菜の案内で近くのコンビニに行った。
 1人車中に残った桑古木はハンドルの上に手を組んで顎を乗せ、通勤の為に駅前をせわしなく行き来するサラリーマンたちの流れをぼんやりと眺めた。今日は珍しく太陽が顔を覗かせていて、暖かい1日になりそうだ。
「ふぁ〜あ・・・」
 思わず欠伸が漏れた。最近は色々と考える事も多く、睡眠時間も短かったために慢性的に寝不足だ。春香菜たちが戻ってくるまでちょっと眠らせてもらおうかなあと思っていたところへ、再びドアガラスがノックされた。
「・・・ん?」
 顔を横に小さく動かして閉じかけたまぶたの隙間から覗いてみると誰かが車の側に立っている。
 つい今しがた出て行った春香菜たちが戻ってくるにはまだ早すぎるので助っ人の誰かだろう。
 そう判断した桑古木は車の窓を開けるつもりで誤ってドアのロックを解除してしまった。

 桑古木が気が付いた時には襟首を掴まれて車の外に引っ張り出されていた。
 ・・・しまった。桑古木は舌打ちした。

「おはようございます桑古木さん。こんな朝からどこかにお出かけですか?」
 桑古木を後ろ手に締めあげる巨漢の横に立っている男の姿には見覚えがあった。ハイデルンの部屋に行った時に控えていた鼠顔の男だ。
「そういえば自己紹介がまだでしたね。私、ハイデルン様の部下で小俣と申します。以後お見知りおきを」
 と、鼠顔の男は桑古木に向かってうやうやしく頭を下げる。
「さて、桑古木さん。質問を繰り返しますが、ボックスワゴンなど持ち出して一体どこに行こうとしていたのです?」
「天気もいいし、紅葉狩りにでも行こうと思ってね」
 と、苦痛に顔をしかめながらも桑古木は質問をかわす。その言葉に桑古木を締め上げる力が若干強くなった。小俣は嫌味さしか感じられない歪んだ笑顔を浮かべると、桑古木に顔を近づける。
「それはいいですねえ、私たちもぜひご一緒したいものです。ところで、あなたのパートナーの女性はどこに行ったのですか?」
 どうやら幸いなことに春香菜たちの居場所はまだバレていないらしい。桑古木は口をつぐんだ。
「やれやれ、仕方がないですねえ。ちょっと強引に喋ってもらいましょうか。ここでは人目につくのでちょっとそこまで来てもらいましょう」
 小俣がそう言うとそのまま桑古木は路地裏に引きずって行かれた。突然拘束されていた体勢から突き飛ばされてバランスを崩したが、何とか転倒しないで持ち堪えた。
「さて、喋るなら今のうちですよ。こちらもあまり大事にはしたくないのでね」
 と、口の端を歪めながらそう言った小俣を桑古木は痛む腕をさすりながら静かに見返す。
「どうせあんたらの秘密を知ってる俺たちをタダで返すつもりはないんだろう?」
「これはこれは、なかなか聡明ですね。しかし我々に素直に従うならば悪いようにはしませんよ?」
 小俣と会話をする一方で桑古木はこの状況の突破口を探していた。奥は行き止まりだし、逃げ込めるドアや空間も無い。相手は巨漢ひとりと小俣だけだったが、狭い道幅をほぼ塞ぐように立ちはだかる巨体を相手に正面切って出し抜くのは難しい。春香菜たちと連絡を取れる頼みのPDAは車の中だ。騒ぎは避けたかったが、これしかないか・・・?

 桑古木はジャケットの内ポケットの中身に上から手で軽く触れた。今回の救出作戦はかなり危険なものだとわかっていたので、有事の時のために3年前から持っていたが、練習以外では一度も撃った事のない拳銃の所在を確認するとゆっくりと距離を取る。この距離であのデカさの的なら外さない自信があったが、ここで迂闊に発砲してしまうと間違いなく騒ぎになる。事を起こす前に目立つのはこちらとしても極力避けたかった。桑古木が悩んでいると焦れたように小俣が一歩前に歩み出た。
「仕方がないですね。少々痛めつけてやりなさい」
 その言葉を受けて、のっそりと巨漢がこちらに進んできた。その動きは緩慢なように見えて隙が無い。桑古木が覚悟を決めて内ポケットに手を入れようとしたその時、路地の入り口に人影のようなものが見えた。

「な、何ですかあなたは?・・・ゲヒィ!」
 あっけに取られる小俣をあっさりと殴り倒すと、その人影は素早く路地の中に入り込んできた。逆光で顔がよく見えないが、春香菜やさっきの助っ人の2人ではないようだ。だがまだ味方と判明したわけではない。桑古木は警戒心を保ったまま下手に動かず、睨み合う2人の動向を見守った。
 巨漢はその図体に似合わない素早い動きで一気に影との間合いを詰めると、太い腕を振り回して闖入者を捕まえようとした。だが影は素早く後に下がり、その腕は何もない空間をむなしく切る。その時桑古木の目にこの季節にはまだ早いロングコートの裾がはためくのが見えた。やはり春香菜たちとは別人だ。
 と、その時突然コートの中から黒い霧が激しい音と共に現れ、そのまま一直線に巨漢の周りにまとわりついた。巨漢は腕を振り回して必死にそれを振り払おうとするが、それは執拗に巨漢の周囲を飛び回る。
「ギャアアア!」
 悲鳴が路地裏に響き、巨漢は顔を両手で押さえたまま地面を転がり回って泣き叫ぶ。黒い霧は再び音を立てながら舞い上がると今度は桑古木の頭上を漂い始めた。そして、霧の一粒が桑古木の服に付着した。目を向けてみると、それは日本に存在する蜂の中でも最も毒性が強く、凶暴なオオスズメバチだった。桑古木は心臓が口から飛び出るほど驚いたが、身体を動かすのは何とか自制した。下手に動くと余計に蜂を刺激して刺される可能性が高くなる。上空の蜂の大群は更に激しい羽音を立てつつ、 大顎についている歯を打ち鳴らして桑古木を威嚇する。
「『クワコギ・リョウケン』さんですか?」
 影が喋った。声から判断した感じでは男性で、思ったよりも若い。
「俺の名前は『かぶらき・りょうご』だよ」
 これは一種の合言葉の様なものだった。いつも名前をいちいち訂正するはめになるのは手間だったが、皮肉にもこの読みにくい名前がこうして身の証を立てる事があるので、普段からあえて読み仮名を振らないようにしていた。
 男が指を鳴らすと、蜂は男のコートの中に戻っていった。
「クックック、どうも失礼しました。ヴェスパと申します、以後お見知りおきを」
 と差し出された右手に蜂がいないかどうか確認してから、桑古木は握手を交わした。
「もうこっちのことは知っているみたいだが『桑古木涼権』だ。よろしく」

「それにしても朝から災難でしたねえ」
 と、路地を抜け出て車に戻る道を辿りながらヴェスパが話し掛けてきた。顔にもマフラーのような物を巻いているので表情はよくわからない。
「まあな。それにしても凄いな、刺されたりしないのか?」
 と、コートの方に視線を送って桑古木は先ほどの出来事を思い出す。あれだけの数の蜂に突然囲まれたら大の大人でも取り乱すだろう。ヴェスパはそんな桑古木の反応を楽しんでいる様子で、明るい口調で答える。
「ああ、とてもいい子達ですよ。僕が指示しなければ人を刺す事は滅多に無いのでご安心を」
 とは言われるものの、何となく距離をおいて歩いてしまう。車が視界に入ってきたところで遠目にも車の傍らに立ちつくしている春香菜たちの姿が見えた。あちらもどうやら無事だったらしい。桑古木はひとまず安心して車に駆け寄って行った。だが・・・

「あー、やっと戻ってきた!こら桑古木、車を置いて今までどこをほっつき歩いてたのよ!」
 一難去ってまた一難である。桑古木の姿を見るやいなや猛然と詰め寄ってきた春香菜は既に怒りゲージがMAXに達しているようだ。
 春香菜はそんな桑古木の思考をよそに一気に不満をまくしたてる。
「こっちはコンビニに着いたと思ったらネロは何の前触れも無くいきなり朝からエロ本読み出すわ、マイクは店員に真顔でショーケースの中華まんを全部くれとか言い出してその場でフードファイト始めるわ、コンビニを出たらあいつらの一味に喧嘩売られて危うく警察沙汰になりかけるわ、戻ってきたらアンタはいなくて車はレッカー車で撤去寸前で大変だったのよ!」
「はいはい、申し訳ありませんでした」
 と、素直に謝る。こういう時はこちらから折れるのが一番の解決策だ。普段は彼女もBW発動計画の為に自分の感情を押さえて冷静に行動するが、ふとした拍子にこうして地が出る事がある。この時、迂闊に弁解するのは活火山に核爆弾を投下するようなものだと、長年の付き合いの中から桑古木は『体』で学んでいた。
「ローゴ、肉マン食べるか?」
 と、そんなやり取りをよそに呑気に左手に持った中華まんを幸せそうな顔でかぶりつきながら、マイクは右手に持っていたまだ湯気が立っている肉まんを桑古木に差し出してきた。
「いや、いい・・・」
桑古木がゲンナリした顔で丁重にお断りすると、マイクはまだ食べていた左手の中華まんと右手の肉まんを口の中に詰め込み、0.7秒で食べてしまった。
「はあ、まったくもう。最初からこんな調子で大丈夫なのかしら・・・」
 肩を落として不安げに呟く春香菜を隣でまあまあとなだめている見知らぬ女性の存在に桑古木はその時始めて気がついた。
「ところで優、その女の人は誰だ?」
 桑古木の視線に気づいたその女性はこちらに顔を向けてにこっと眩しい笑顔を返してくる。
「言ってたでしょ。最後の助っ人よ」
「ええ!?この子が・・・?」
 桑古木は驚きの声をあげてまじまじと見つめる。可愛いというよりは美人な顔立ちをしていて、艶やかで長い黒髪が印象的である。しかし、どう見ても今回のような荒っぽい仕事には似つかわしくない穏やかな雰囲気を発していた。
「本多梓と申します。どうぞ宜しくお願いします」
 と、丁寧にお辞儀をする梓についつられて桑古木も頭を下げてしまった。
「彼女は私の大学の後輩で、こう見えても大会でもかなりの成績を残している弓の名手なの。こういう事を頼むのは私も気が引けたんだけど、彼女が是非手伝いたいって言うから・・・」
 春香菜が気まずそうに頬を掻きながらそう紹介したが、本人はそんなやり取りは耳に入っていない様子で、秋の陽気にほだされたかのようにのほほんとしている。
「ほ、ほんとに大丈夫なのか・・・?」
 心配げにじっと見つめる桑古木の視線を感じたのか梓はやや照れた様子で顔を赤くする。と、その時後ろから古木の肩をネロが叩いた。
「大丈夫だって、彼女はこう見えても結構凄腕だぜ。ついさっきも・・・」
「ね、ネロさん。その話は止めて下さい・・・!」
 と、突然恥ずかしそうに顔を真っ赤にした梓が両手を伸ばして喋るネロの口を塞ごうとする。
「そうそう。さっきも私たちがハイデルンの手下らしき数人の男に襲われたんだけど、梓が1人で撃退しちゃったのよね。あれは爽快だったわー」
「もう、優まで・・・」
 拗ねたような口調で口を尖らせる梓の仕草を見て桑古木の顔から思わず笑みがこぼれ、その場にいる一同からも笑い声が上がった。

 そこでふと、春香菜は先ほど桑古木が帰って来た方角に目を向けた。その方角から、イギリス貴族が身に付けるような黒のロングコートを着た男がこちらに歩いてくるのが見えた。特に敵意は感じられなかったので劉に頼んでおいた傭兵だろうと思い、声を掛けてみた。
「えーと、あなたが劉に紹介された人かしら?」
 春香菜がそう言うと全員の視線がヴェスパの方に集まった。
「ええ、そうです。貴方が今回の依頼人の田中先生ですね。ヴェスパと申します、以後お見知りおきを」
 ヴェスパはそう言って春香菜と握手を交わす。桑古木はつい露出した部分に蜂がいないか目で追ってしまったが、そんな様子は見られなかった。しつけが行き届いているのだろうか、と一瞬思ったが彼にその様に尋ねたら何となく怒られそうな気がしたから、結局それは確かめなかった。

 その後改めてお互いに自己紹介を簡単に済ませ、車の中に戻って今後の作戦会議が始まった。
「えーと、取り敢えずこのメンバーを3つに分けるわ」
 春香菜の提案に桑古木が口を挟む。
「ちょっと待て、人質は2人だろう。何で3つに分けるんだ?」
「敵の本隊も引きつける必要があるのよ。あっちがここに人を送り込んできたって事はこちらの動きも当然バレてるわ。多分人質を盾にプレッシャーをかけて動きを封じ込めに来るでしょうから・・・」
 そのやり取りを黙って聞いていたヴェスパは突然含み笑いを漏らすと
「そうなる前にこっちから攻めるというわけですか。クックック、気に入りましたよ。その仕事は私がやりましょう」
 そう言って名乗りをあげた。
「Mr.Vespa、まだ話は始まったばかりだよ」
 すかさず隣に座っていたマイクが意気込むヴェスパを押さえるが、ヴェスパは全員の顔を見回して言った。
「先生と桑古木さんはハイデルンとかいう奴と同僚という立場上LeMUをおおっぴらに攻めるわけにはいかないでしょう?それに本筋ではないとはいえ、ライプリヒの系列会社から派遣されたマイクさんとネロさんも向いてない。そこのお嬢さんに単独でそういう事をさせるのは論外だ。なら私しかいないじゃないですか」
 ヴェスパはそう言って車のドアを開けてさっさと降りていくと、車の後に止めてあったホンダのホーネットにイグニッションキーを差し込んで捻り、エンジンをふかす。『スズメバチ』の名を持つバイクのマフラーは針のように車体後方に高く引き上げられ、唸り声を上げながら灰色の毒霧を吐き出した。確かに彼が一番適任なのは事実だったので、春香菜は諦めた表情でヴェスパに向かって指示を出した。
「LeMU内に『茜ヶ崎空』というRSDの案内人がいるわ。彼女の案内と指示に従っていけばハイデルンの部屋には簡単に辿り着ける筈だから」
「了解しました。クックック、楽しくなってきましたねぇ」
「あくまであなたの今回の役割は『撹乱』よ。あまり意気込んで無理をしすぎないでね」
 と、釘を刺す春香菜に対してヴェスパは首のマフラーを巻き直しながら
「わかってますよ。それでは皆さんもお気をつけて」
 そう言って4気筒の排気音をけたたましく鳴らしながら走り去って行った。

「・・・本当に大丈夫なのかね?」
 不安そうに彼の走り去っていった先を見つめる桑古木にネロが眠そうに答えた。
「大丈夫なんじゃないの?自信があるから志願したんだろうし。ふぁーあ・・・時差ボケはやっぱり堪えるなあ。マイクはよく平気だな」
「ハイ、マイクはいつでもどこでも元気デス」
 そう言ってマイクはよくわからないポージングを決める。
「じゃあこちらも作戦を練ってしまいましょう」
 春香菜はやや疲れた顔をしながら、中央の座席を倒してあつらえた簡易デスクの上に地図を広げて指を差しながら細かく説明する。5人が覗き込む地図は51万分の1に縮小された長野県近辺を表示したものだった。
「つぐみの現在の位置はだいたい把握しているわ。あっちは脅迫時につぐみを捕まえているとは言っていなかったからまだ完全につぐみの事を捕捉しているわけではないと思う。彼女を見つけ出して安全な場所に逃がして。こっちは桑古木とネロ、梓に頼むわ。特に桑古木はつぐみに姿を見られないように注意してね」
「わかりました〜」
 梓が間延びした返事を返す。桑古木は改めて人選に一抹の不安を覚えたが、贅沢は言えない。
「ここからナガノまでどの位かかるんだ?」
 ネロが地図を鋭い目で見渡しながら春香菜にそう尋ねる。今はかなり眠そうだが、この辺りはやはりプロだ。
「車で高速が混んでいなければ大体4,5時間ってところだな」
 桑古木が春香菜にかわってそう答えた。春香菜は車についている時計をちらりと見ると、話を続ける。
「ユウは私とマイクで何とかするわ。私の家にはしっかりしたセキュリティシステムがあるから大丈夫だし、学校も人が多いから襲われる可能性は低い。だとすると一番危ないのは通学路だから、あの子が家を出る前に何とか手を打つわ」
 そう言って春香菜はジャケットのポケットからPDAを取り出し、全員の時刻を春香菜の時計に合わせた。

 連絡を密に取り合いつつ各自で作戦を遂行し、翌日の17:00にまた全員春香菜の家に集合するという内容で作戦会議は終了し、その場は解散となった。



「クス・・・これが人間が現実から目を背けるために作りあげた娯楽と夢の島ですか」
 LeMU内に進入したヴェスパは人工のアミューズメント施設をみておかしそうに笑った。
「あの、本当にお体の方は大丈夫ですか?」
 心配そうな空の声がイヤホンを通じてヴェスパの耳に届く。
「平気ですよ。私の身体はあらゆる環境の変化に対応できるように訓練されています。6気圧くらい急に変化してもどうということはありません」
 彼は時間を節約するために加圧を受けずに地上から直行でドリットシュトックまで下りてきた。常人なら到底耐えられない環境のはずだが、本人は平然とした表情で動き回っている。

 春香菜は12年前にピピが海底から持ってきた空の『記憶』が入っているテラバイトディスクの内容をベースに、空のシステムの一部を書き換えるパッチを作成していた。そしてレミがメンテナンスを行っている隙に自分のPDAからの遠隔操作でそれを当てて現在の空のデータを書き換えたのだ。レミシステムのわずかな隙を知っていて、空のシステムデータを持っている春香菜たちだからこそ出来た芸当だが、1時間ごとにレミがエラーチェックを行うのでその時間内に事を済ませなければならなかった。

「あ、そこの扉に入ってください」
 ヴェスパは空の指示に従って『Staff Only』と書かれた従業員専用のドアを開けた。現在殆どの企業が信頼度の高い機械によるセキュリティシステムを使用していて、人が見るのはせいぜい監視カメラのモニター位である。最近ではそれすらも形骸化していて、人件費を削るために監視員を置かない企業もある位だ。逆にいえばそれだけ機械によるセキュリティシステムが優秀という事だが、それが時には仇になることもある。カメラさえごまかしてしまえばヴェスパの奇妙な容姿がいくら一般客の目を引こうと、不法進入それ自体がバレる事はない。彼は現在空の手引きによってLeMUの幽霊と化していた。


「脱出時間も考えると・・・使える時間は7分。十分ですね」
 ヴェスパはポケットから取り出した懐中時計の蓋を閉めてニヤリと笑うとコートのボタンをひとつ外した。するとたちまちその場に黒い霧が現れ、小さい悪魔達は地上の6倍の気圧という状況下にもかかわらず盛んに周辺を飛び回り、その凶暴な力が解放される時を待つ。
 やがてその時が来た。スズメバチの大群がダクトの中や天井の隙間を通って次々と進入し、部屋の中にいる者全てに無差別に襲い掛かる。男たちは突然現れた蜂の群れにパニックになり、それを叩き落そうと手近な物を持って必死に振り回すが、そんな物が通用するはずも無くたちまち阿鼻叫喚の悲鳴があちこちで上がる。
 1分も掛からないうちに静かになった室内の様子を確認したヴェスパは天井の一部を外し、部屋の中に飛び降りて周囲を見回した。何人かの男が呻き声を上げながら床に転がっているが、先ほど見かけた長身の男の姿がどこにも無い。さらに鋭く視線を走らせると部屋の隅に長身の男が何事もなかったかのように平然と立っていた。その足元には何匹かの蜂が激しく体を痙攣させながら床に墜落している。

「ほう、よくこの子達の攻撃をしのぎましたね」
 ヴェスパは感心した口調でそう言った。部屋を飛び回っているスズメバチは一定の距離を保ったまま長身の男に近づこうとしない。何かに怯えているようにも見えた。長身の男はさも余裕ありげに笑ってみせながら答えた。
「ハチって奴はその体の大きさからは考えられない程の激しい運動量をこなすだろう?その分呼吸量も半端じゃなく多い。つまり弱点は・・・」
 そう言って長身の男は手に持ったスプレー缶をシャカシャカと振ってみせる。
「吸引式の毒物ですか。まあこの部屋には殺虫剤どころか人も殺せそうなシロモノさえありそうですしねえ」
 ヴェスパはそう言って指を鳴らすと、スズメバチは一旦退いてコートの中に戻っていった。
「貴方たちのボスはどこかにお出かけですか?」
 長身の男は両手を広げて答える。
「ああ、今日は出張だとよ」
 ヴェスパは残念、とばかりに肩をひそめた。
「クスクス、伏兵がここに来ることまでお見通しでしたか。なかなか貴方たちも食えませんね」
「ヴェスパさん、脱出時間まであと五分です」
 と、そこへ空の声がヴェスパの耳に入ってきた。
「どうする?今ここでやるかい?」
 長身の男が革手袋をはめながら一歩前に出る。
「クックック、そうしたいところですが残念ながら今日はあまり時間がありません。それにここでの戦闘は私にとって不利な要素が多すぎるので、なるべくなら遠慮したいところですね」
 既に2人の身体から殺気は消えている。
「そうか。こちらもそこに転がってる役立たずの連中を放っておく訳にも行かないんで、仕切り直しという提案に異論は無いぜ」
 長身の男は不敵に笑う。

 背を向けてドアから出て行こうとするヴェスパの背後から声が掛かった。
「名前を聞いておこうか」
「・・・ヴェスパです」
「覚えておこう。俺の名はミューゼット・ジュリアーノだ。次に会う時を楽しみにしているよ」
「ククク、そうですね。ではまた、いずれ・・・」
 そう言ってドアを閉めて、来た道を戻るヴェスパはジュリアーノから発せられていた途方も無い強大なプレッシャーを全身でビリビリと感じて歓喜していた。


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