『教授の優しい午後』
                              蔵川 蕉


「ふぅ。疲れたぁ〜」
 田中優美清春香菜は、若者たちの声がざわざわと響くキャンパスを歩いていた。
 今はちょうど昼休み。
 誰もが眠気を誘うばかりのかったるい講義から解放され、憩いの一時を満喫している。
 もちろん、彼女もその例外ではない。
 田中優美清春香菜。彼女は現在この大学で教授職を得ている。
 少し前までは然る製薬会社関連の企業に勤めていたのだが、二年程前にそこがぶっ潰れてしまい
(というかぶっ潰してしまったわけだが)、その後この大学に転がり込んだのだった。
 そして今日は一限、ニ限と講義。
 眠そうにしていたり、実際豪快にいびきを立てて寝ている生徒を見ていれば、
自然とこっちも眠くなってくるというものだ。まったくもぅ。
 湧き出てくる欠伸を何とか堪えながら大きく伸びをしたその時、背後から声をかけられた。
「田中先生!」
「ん?あら、ホクトじゃない。久しぶりね」
 優美清春香菜が振り向くと、そこには一人の少年が微笑んでいた。
 彼の名はホクト。彼女とは、まあ何と言うかちょっと複雑ないきさつで知り合った。
ちなみに、彼もこの大学に在学している。現在入学したて、ピッカピカの一年生だ。
「本当、久しぶりですよね。優に会いに行ってもいつもいないみたいだし。お仕事、お忙しいんですか?」
「ま、まあねぇ。働かざる者食うべからず、とか言うでしょ〜。あはははは……」
 ついつい苦笑してしまう。
 何しろ彼女の研究分野は異端中の異端であって、人の倍動かなければ職さえ危ういくらいの状況なのだ。
 まあ、この少年はその異端中の異端である研究をするためにここを選んだ奇特な人物だったが。
「あ、それよりホクト。もうお昼済ませちゃった?」
「いえ、まだですけど」
「じゃあ、一緒に行かない?よかったら」
「はい!もちろんよろこんで!」
 ホクトの元気な答えを聞いて、優美清春香菜は知らず頬を緩めながら歩みを進めた。

 二人が向かったのは大学のすぐ近くにあるレストランだった。
 学内にはもちろん学生食堂があるのだが、昼時の混みようは尋常ではない。
 その点、このレストランは学生にはやや高めのメニューが並んでいるためか、昼時もそれなりに空いている。
いわゆる、穴場というやつだった。
 なんとも落ち着いた雰囲気の店で、ホクトはあまり来慣れないのかどこかそわそわしていた。
「大丈夫よ、ホクト。今日は私のおごりだから」
「は、はい。いや、そうじゃなくて、おごってもらうなんて、そんな」
 目を白黒させながらしどろもどろの返答をするホクト。
 ふふっ。
 優美清春香菜はつい笑ってしまった。
 あの二人からこんな息子が生まれるなんてねぇ。
 改めてその少年の顔を見る。二年前とはずいぶん印象が変わった。
 今では、うん、父親そっくり。
 倉成武と小町月海――――いや今は倉成月海だったっけ――――の二人の子供の一人、それがこのホクトだ。
 武と月海。二人は彼女にとっていわば戦友。そして、武は彼女にとって……。
(そう、あの人は、私にとってどんな存在なんだろう……?)
 ただの友達?……ではないのだろう。
 いや、わかっている。わかっているはずよね。そして、もうとっくにあきらめたはず。
 もう、とっくに……。
 とりとめもなく考えを巡らせながら、窓の向こうをひっきりなしに駆け抜ける自動車をボーっと眺めていると、
「田中先生、きてますよ、料理」
「えっ!?ああ、ごめんなさい」
 ホクトの声で現実に呼び戻された。彼女の目の前には注文したマグロづけ丼がでんと乗っている。
「よくマグロなんて食べる気になれますねぇ」
 自分の分のカルボナーラをくるくると巻きつけながら、ホクトは呆れ顔で言った。
「なんていうかね、もう習慣みたいなものなのよ。それにほら、やっぱりおいしいし」
「それに、よくそんなメニュー置いてありますね、こんなお店に」
「なーに言ってるの。元々はなかったわよ、もちろん。私が無理やり置かせたの!」
 きれいに割った割り箸をホクトの鼻先に突きつけるようにしながら、なんとも大げさな言い様だった。
 ひどいなぁ、と言って笑う少年。
 優美清春香菜も大きな声で笑った。

「そういえば、優とは上手くやってるの?」
 二切れ目のマグロを口に運びながら、優美清春香菜は尋ねた。
「ええ、まあ。最近はこっちがどたばたしちゃってたせいであんまり会えなかったんですけど。
メールとか電話ではよく話してますし」
「そう、そうよねぇ〜。おかげで前から凄まじかった電話代がもう大変なことになっちゃってるからねぇ、最近」
「え、いや、その……すいません」
 真っ赤になって俯くホクトに、彼女の生来のいたずら心がこちょこちょっとくすぐられてしまう。
「ふっふ〜ん。その様子だと、優には相当尻に敷かれてそうねぇ〜、ホ・ク・たん?」
「ええっ!あ、あ、それは、そ、そうですね、あはははは……」
 動揺してる、動揺してる。可愛いなぁ、全くもう!
 はぁ、とやたら大きなため息をついてみせる。
「あなたには倉成と月海という立派な反面教師がいるんだから、ちっとは頑張んなさいよぉ」
「はは。でも、ボクはお父さんとお母さんが反面教師だなんて全然思ってませんよ。
むしろ理想なんです。本当に仲がいいんだから。恋人同士みたいで」
「…………自分の親のおノロケ?」
 全く、あの二人は相変わらず色ボケ夫婦やってんのか。はぁ。
「あ〜あ!うーらやましいこってすねぇ、ハイハイ。っとに!」
 ものすごい勢いでマグロづけ丼をかき込む。どんどんかっ込む。
 そんな優美清春香菜をしばらく呆けたように見ていたホクトが一言。
「田中先生は、彼氏とかいないんですか?」
 !!!!!
 ……マグロが喉に詰まった。
 苦しい。ドンドンと胸を叩いて何とか飲み込む。
「はぁはぁ、はぁはぁ、はぁぁぁ〜」
「あ、いえ、だいたいわかりました」
「ああ、いないわよ、ええ、いないわよ、悪い?死刑?私、死刑!?なんか文句あんのかぁ!」
 しくしくしく。
 ひとしきり弾丸の如く怒鳴ると、今度は静かに泣き始めてしまった。
「あの、なんというか、ごめんなさい」
「ふふ。いいのよ、ホクト。悪いのはみ〜んな私。彼氏の一人もいない私が悪いの。いいのよ……」
 虚ろな目で笑っている。怖い。
「あ、でも、お父さんも励ましてましたよ、先生のこと」
「………………ほんと?」
 少しだけ顔を上げて、上目遣いでホクトを見る。
「ええ。『優もそろそろ頑張っていい男見つけなきゃ、ただでさえ貰われ先がないのにますますなくなっちまうぞ〜』
って、あれ?」
 ……………………。
 …………。
 ……。
「く、くくくくくくくく」
「あ、あの、せんせ?」
「く〜ら〜な〜りぃぃぃぃぃぃぃ!!」
 狭い店内に、優美清春香菜の咆哮がこだました。

 カランカラーン。
 会計を済ませて店を出る。
「先生、なんか、すみませんでした」
「いや、いいのよ。私も、なんだか必要以上に取り乱しちゃったわね。あ、あはははは」
 次の講義に遅れるからと言って、ホクトはもう一度頭を下げ、走っていった。
 その背中を見送って、ふと腕時計を見やる。
 とはいえ、優美清春香菜には午後の予定は何もなかった。
 腹ごなしがてら、ちょっと辺りを散歩してみることにする。
 ここの周辺は意図的に自然を残すよう、町が作られている。ので、石畳の歩道にも
所々小さな木陰が出来ていて、その陰の下を通るときにはさわさわと木の葉が風に揺られる音が聞こえる。
 春の陽射しはぽかぽかと暖かく、しばらく歩いていると体が火照ってくる。それがいい。
 時折道路を走っていく大型トラックが巻き上げる砂煙はすごい。歩行者のことも少しは考えなさいっての。
 ……それにしても。
 どうやら、みんな幸せにやっているようだ。
 優美清春香菜は思った。
 思えば2017年からの17年間、私が求め続けていたのはそんなものかもしれない。
 父を亡くし、母を亡くし、娘を騙して騙して、そしてやっと得た。幸せ。
 それは私のものではなかったかもしれないけれど。
 でも、それでも無意味ではなかった。
 ついさっきまで目の前にあったホクトの笑顔を思い出してみる。
「ま、めでたしめでたしってところでしょ」
 湧き出てくる欠伸を何とか堪えながら、大きな伸び。
「ん〜んッ!たまには桑古木の仕事の邪魔でもしに行こうかねぇ〜」
 胸元のポケットから取り出したペンで、ぽりぽりと頭を掻きながらそう呟くと、
ランランとスキップするようにして長い下り坂の向こうへと消えていった。





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