〜Fictional Air / first part "word"〜
                              みつばや


 白と黒の二色で表される世界は、とても簡潔で理解しやすい。考えるのは濃淡のみでよいのだから。複雑な思考を必要としない数式――例えば足し算なんかを最初に習うのは、その簡潔さにある。
 簡潔なものは理解しやすい。それは当然のことだった。逆説を使えば、複雑なものは理解しにくい。その根源を見つめるためには、網目のように入り組んだ常識を取り払いながら、その根源を目指さなければならない。この行動において、常識というものは障壁でしかなく、障壁を取り除く行為の多さが、そのまま理解のしにくさに繋がる。
 それは世界も同様である。ひとが世界を理解できないのは、その複雑さ故。無数に――文字通り無数に張り巡らされた常識という障壁の数は、他の事象の比ではない。事象とは世界の基盤の上に立っているのだから当然だが、世界の許容領域の広さは事象や法則から推測出来る範囲を大きく超越している。
 現時点において、ひとが世界を理解することは不可能であると断言せざるを得ない。世界を理解するには、ひとはまだ、未熟すぎる。将来においても不可能だとは言い切れないが、その可能性は極めて低い。ひとがひとである以上、“ひと”という定義に固定される。定義によって固定されたものは存在であり、存在とは概念によって支えられるものである。低次元のものがより高位の次元を認識することが不可能なため、ひとは世界を理解し得ない。
 世界とは概念だ。世界は実体を持たない。世界は存在していない。世界だと思っているものは、実は世界ではないのである。
 では――今、生物が存在しているこの世界とはなんなのか?
 虚像か、空想か、それとも夢か? 答えはすべて――否、である。
 世界とは言葉だ。世界というものは無数の言葉の集合体である。世界で起こる事象も、奇蹟も、法則も、すべて言葉によって成り立っている。言葉がその存在を形成し、言葉が無い場所ではその概念を確立させている。
 世界とは言葉というものに擬似的な定義に固定された、いわば擬似的存在なのである。




 朝、何の前触れも無しに目が覚める。
 窓から差し込んでくる陽の光が、今が早朝だということを告げていた。
 小鳥の囀り、梢の葉擦れる音、自分の体内から漏れる命の奏で。それはらいつも聞き飽きている音であったが、また大切なものでもあった。この音を聞いていられるから、生きている。彼女はそう定義付けをしていた。もちろん別の定義に当てはめれば、自分は生きていないのかもしれない。例えば――何かを生産し続けることを『生きる』と定義付けるならば、今の自分は何も生産してない。つまり生きていないとなる。だが――
 それ以上深い思考は、エラー発生によってキャンセルされる。まだシステムチェックが終わっていなかったのだ。『眠っている間』にしておけば済むのだが、残念ながらヒトに近いように設計されているためだろうか、合理的な方法は用いられていない。
 仕方なく、彼女――茜ヶ崎空はチェックプログラムを走らせることにした。その瞬間、彼女は外部情報から遮断され、完全な内向きの世界に漂うことになる。全面を灰色掛かった半透明な膜が覆い、それがディスプレイの役割となる。
 空は指を動かすと、その膜に軽く触れた。接触面から蒼白い光があふれ出し、彼女の全身を覆う。
 全システムをメインコンピュータに接続。イメージが脳内に投影され、伝達システムに異常が無いことを告げる。続いてメモリチェック。メモリ残量二十五テラバイト…予備メモリ十テラバイト…システム占有領域六テラバイト。全駆動器官チェック……完了。
<SOLA-Syetem、全チェック完了>
 光はいつの間にか消え去り、そこは良くみる灰色の世界だった。
<現在時刻、西暦二〇三四年八月二十日、日本標準時午前七時二十五分>
 その情報を受け取ってから、空はプログラムを終了させた。
 視覚が戻る。チェック時間は二十六秒だった。最初の頃に比べ、これはかなり早い。春香菜が毎日のようにバージョンアップさせているためだ。既に彼女は研究者としてだけではなく、プログラマーとしての才能も開花させていた。空を動かしているシステムも、春香菜が作り上げたプログラムなのである。
「さて、と」
 空は大きく息を吐き出すと、ベットから抜け出していつもの服装に着替える。――といっても、昔のようなチャイナドレス風ではない。流石にアレを普段から着るようなことは、春香菜が承知しなかった。今空が着替えようとしているのは、至極普通なクリーム色のブラウス。その上から民族系のストールを羽織っている。下は赤とオレンジのストライプ模様のロングスカート履いて、右の耳にはパールのピアス。
 このどれも、空が選んだものではない。選んだのは秋香菜だった。ショップや専門店を回りながら、彼女が見立ててくれたのだ。
 鏡の前に立って、自分の姿を見る。少し微笑むと、鏡の中にいる女性も微笑んだ。似合っていると、思う。少なくとも自分が選ぶより、数倍はいいだろ。自分の中の美的感覚は、普通といって差し障りないほど平凡だ。平凡なものからは平凡なものしか生まれない。鳶は鷹を産まないだから。
「それでは……いけませんけどね」
 苦笑。
 けれど、真実だった。
 自分が選ぶのは機能面を重視したものばかり。残念ながら機能性とデザイン性の両立は難しいらしく、求めるものはなかなか見つからなかった。
『空はねぇ、もっとファッションのコトを考えるべきよ』
 秋香菜の言葉が甦ってくる。
 判ってます。判ってますよ、と空は呟いた。だけどそれでも、何も変わりません――哀しそうに俯きながら。
 この部屋もそうだ。デザインを考えた造りではない。あるのはテーブルとベッドと、IBM製ノートパソコン、壁に埋め込まれた赤と緑の接続端子。首筋から伸びているプラグをそこへ差し込むと、研究所にあるホストコンピュータに直接繋ぐことが出来る。そのため、仕事をするのにこの部屋から出る必要なかった。――白黒の、この冷たい部屋の中から。
 そっ……と首に手を遣る。髪の毛に隠れるように、硬いプラグがある。掴んで伸ばす。目の前に持ってくる。しばらく金メッキされた先端を見つめてから、放した。
 シュルシュル……と擦れる音を立ててプラグが戻っていく。

 それはいつもの儀式だった。
 自分が自分であるという確認のための。
 ヒトとヒトでないモノの違いを確かめるための。
 そして命の残りを確かめるための。
(私はヒトじゃない)
 ヒトではない、ヒトのカタチをしたモノ。
 ヒトに造られた、ヒトに準じた存在。
 私は人形。
 私はココロを持たない、偽りのニンゲン。

 私は――――









                 "Fictional Air"




  < first part "word" >






 闇は地平線さえ深い紺色で包み込み、その僅かな隙間で陽光が赤々と燃えていた。大地を撫でる風は灼熱の余波を含んで、ひとの意識を空へ釘付けにさせる。そこにあるのは星の煌き。見える数は数百ほどしかないが、実際には数千数万――言葉通り無数の星が煌いている、はずだ。
 買い物袋の中でじゃがいもが動いた。かさりと乾いた音を立てる。まるで早く調理してくれとせがんでいるようだと思った。ジャガイモだけではなく、豚肉も、たまねぎも、にんじんも。早く帰って調理して、美味しい料理に仕立て上げなくてはならない。きっと家の住人も、それを望んでいるはずだから。
 だから、早く帰らなくてはならない。住人は激しい空腹に耐えられるような、強い精神力は持ち合わせていないのだ。今頃は空腹で倒れているかもしれない。そして自分に呪いの言葉を綴っているかもしれない。おそらく、帰った途端自分に非難が集中するだろう。どうしてこんなに遅いのか、と。
 だけど、それでも――彼女は早く帰ろうとは思わなかった。それどころか、もっとこの時間が続いて欲しいと思った。家に帰れば待っていてくれるひとたちがいる。自分の料理を待っているひとたちがいるのにもかかわらず。
 彼女は柄にもなく緊張していた。右足と右腕が同時に出てしまうような、ともすれば素っ頓狂な声を上げてしまいそうな、そんな緊張感。そして胸の奥で生まれる、確かな温もり。吐息は熱く、システムは自分自身に異常が発生したと何度も告げていたが、そうではない。これは異常なんかじゃない、正常な反応だと。
 彼女は何か言葉を口にしようとして――しかし薄く口紅を塗った唇を閉じた。沈黙は嫌いだったが、こんな温かい沈黙なら受け入れられると思った。もっともそれは、緊張しすぎて呂律が回らない言い訳に過ぎなかったが。
 ふたりは歩く。街を、道を、ひとがひとの為に作った場所を。有機物と無機物が交互に重なり合って、網目状にその領域を広げている場所を。そこにはもはや区別などない。どちらが、という言葉は正しくない。完全に溶け合ったカフェオレみたいに、もうそれはひとつなのだから。
 ほぅ、と吐息する。吐いた息はまだまだ熱い。CPUの廃棄熱は、冷媒の許容範囲を超えようとしていた。もうモーターで熱廃棄するだけでは足りず、仕方なく皮膚表面から熱を逃がしている。そのため、彼女の身体は薄っすらと上気していた。
「なあ、空」
「は、はいっ!?」
 さり気ない彼の声に、素っ頓狂な声が漏れた。発してから後悔したが、もう遅い。遅いから悔やむ。だから後悔。
 CPUの回転数がはね上がる。オーバークロックしているほどに熱をどんどん吐き出し、空の表面温度を上昇させていった。オーバーヒートなど起きるはずもないが、あまりに熱暴走が激しすぎるとセーフティが働きシステムの利用を一部制限させることになっている。それでも、空の権限で制限解除などいつでも出来ることになっていた。あまり役に立っているとはいえない。
「そんなに緊張せんでも……」
 と、彼は苦笑した。
「……すいません」
「別にいいさ。ま、そんなことより」
「な、なんでしょう?」
 ひとつ息を吐き、自分を落ち着けさせ、彼――倉成武の貌を横目でうかがう。瞳に優しい光を映しながら、空を見つめていた。
「夕飯カレーなんだよな?」
「ええ、はい」
「いいなあ、って」
「そうですか?」
「ああ。拾った宝くじで一等前後賞が当たるくらい羨ましい」
 そんなひといるんですか? と瞳で問いかける。
 彼は頷き、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「いるんだよ。斉藤ってひとなんだけどな、今は会社おっ建てて成功してる奴なんだよ。まあ、もともと資本金が足りなかったから丁度良かった、とか言ってたけど」
「凄いですね」
 素直に感心する。
「まったくだ」と、彼は笑った。「あいつは経営学部で、あんまり頭イイほうじゃないんだけど、何が人生を変えるか判らない」
 そこまで言うと、武は何かが琴線に触れたようであははと笑った。「それは俺も同じか」
 空もその言葉に同意して、微笑みながら頷いた。確かに、人生は何が起こるか判らない。自分がこの肉体を手に入れていることを、昔の自分は想像できただろうか? 答えは――否。
 世界はゆっくりと、だけど確実に変化していく。だから未来を想像することは難しい。僅かな決断の遅さが企業を殺してしまうことがあるように、ささいな事象でさえひとの人生を大きく変化させる。フラクタルのような相似性。それらは関連性を持ちながら、けれど自己独立性が強い。
 ひととひとは繋がってりる。個ではなく群。群体としての生き物。
「未来は判りません」
 突然呟いた空の言葉に、武は視線を向ける。その先にある瞳に向かって、彼女はくすっと微笑んだ。「すべてにおいて、遅いってことは無いんです。行動したときが始まりですから」
 そう言った空に、武は掛けるべき言葉が見つからず曖昧に微笑んだ。
 それからまた、沈黙が訪れる。けれど、それはさっきよりも暖かい沈黙だと思った。
 無言に歩く二人組み。周りのひとたちがどう見ているか、それは判らないけど。あるいは喧嘩をして気まずい雰囲気を纏っていると取られるかもしれない。それでもまあ、いいか、と空は思った。喧嘩するほど仲が良い、と諺でも言うし。
 そう思うと、なぜだか笑みが零れた。気まぐれに風が吹いて、武の視線が空へ向かう。
 どうした? と武は聞いた。
 なんでもありません、と空は答えた。
 天空はもう、漆黒に覆われている。地平線で燃えていた太陽も、今はもうない。街灯の頼りない明かりだけが二人を照らし、そして道を誘っている。
 一匹の猫が視界に過ぎった。それを追うと、武も追っていた。
 風が吹いた。生温い風。夏を目の前にした、生まれたての風。それは二人に悪戯をすると空へ消えていった。
 結局、今まで言葉を交わさなかったが、最後に、
「またな、空」
「はい。また、です。倉成さん」
 とだけ言葉を交わした。
 空は武の背中を微笑みながら見送る。
 今日は、とっても美味しい料理が作れそうだった。


          ◇ ◇


「――二次元世界の重要なファクターは、視覚情報です」
 春香菜は座ったまま厳かに呟き、モニター上に備え付けられているカメラを見つめた。
 室内の照明は明るすぎるほどに明るかったが、それはカメラの感度が悪いため暗いと良く撮れないからだった。だから目には少し厳しい。ちらちらとフラッシュが焚かれている。早めに終わってくれないと倒れそうだ。これだからインターネット会議は嫌いだった。まあ会議好きの人間に、まともな人間はいないのだろうけど。
 会議は踊る、されど進まず。日本人にぴったりの諺だと春香菜は思った。会議はもう、三時間ほど続いている。
『視覚? 映像ということですか?』
 十二分割されているモニターの一角がアップされる。身なりの良い、若い男がそこにいた。
「ええ。映像……もしくは、画像。動体でも停止体でもどちらでも構わないけど、視覚情報の優劣がそのまま二次元世界の優劣を決める」テーブルの上に置かれているカップを手に取り、春香菜は黒くて苦い液体を喉に流し込んだ。「客観的な測地からではない、主観的な測地からの判断ですが。……しかし、それを決めるのは私たちじゃない。ブリックヴィンケルが決めることよ」
『あ、でも。ちょっと待って下さい』
「はい?」
 カップを置いてから、画面に映る男を見つめる。悩んでいるように顎を摩り、言葉を選んでいるようだった。
 やがて数秒経ってから、
『そういうことでしたら、三次元世界でも視覚情報は重要ではないのですか?』
「もちろん」春香菜は頷いた。「しかし、三次元世界では視覚情報だけではない、“プラスアルファ”が必要となる。例えばそれは……動き。限りなく現実に近い動きをトレースできるか否か、それが三次元世界での優劣基準になる」
 そこまで言うと、彼女は一旦言葉を切った。
 男は自分の言っていたことをまるで理解できていないようで、しきりに首をかしげている。しかしそれは仕方の無いことだった。自分自身でさえ、まだ良く判っていないことなのだから。情報のアウトプットは、情報の整理に繋がる。滅茶苦茶に詰め込んだ箱の中身を整理するとき、一旦ものを外に出さなくてははかどらない、物事を整理したいときにはいつも話しかけながら自分に言い聞かせていた。
 春香菜はもう一度カップを手に取った。液体は半分ほどなくなって、深い闇をそこに宿している。
 言葉とは不思議なものだと思う。伝えたいことは十分に伝えられないのに、誰もがこの方法をやめない。不完全な情報伝達手段だというのに、だれも改善させようとしない。もっとも、今ではメールなどの他の手段も確立されているため、不完全な部分を補完すればよい。だがそれは、少々非効率だ。
 現に今も、自分の言いたいことを男が理解できていない。確かに難しい分野ではあるし、自分もまだ理解しきっているわけでは無いから仕方がない。だがそれでも、言葉というものはとても不便である。不便で不完全で、それでいてとても使いやすい。
 日本語ではそれが顕著に現れる。謝罪と感謝の境界が曖昧なのは、その一例に過ぎない。日本人が何かと「sorry」を使ってしまうのは、その感覚を英語に持ち込んでいるためだ。伝えたいことは半分も伝わらない。代わりに相手がその部分を補完しなければならない。そういった曖昧さが日本人の美徳になっていたし、春香菜も産まれてからずっと日本で生活しているため、そのことについて疑問を覚えたことはない。ただ、こういった複雑な話題のとき、とても苦労する。
『では……』痛みをこらえるように眉を顰めて、彼は恐る恐る言葉を紡ぎだす。『三次元世界では現実の再現度が、二次元世界では視覚情報が重要だということですか?』
「三次元世界においても視覚情報は重要よ。ひとが外部から得る情報の八割は、視覚情報に依存するんだから」
『それは、判ります』男は苦笑した。
 そして今までの困惑したような口調から、気まぐれな木枯らしのように固い口調に変えて、彼は春香菜の瞳を見つめた。
『それでは世界とは何でしょう? 二次元世界、三次元世界、四次元世界、さまざまな世界があります。それこそ無数という言葉が適用できるほどに。しかし世界が何なのか、私には判りません。優劣基準や境界条件を幾ら記憶しても、それだけで世界を知ることはできない。世界を知るには“世界とは〜であるから世界である”という絶対条件が必要です。今まで先生が仰っていたのは十分条件であって、それだけでしかない』
 男の言いたいことは、何となくだが理解できた。だがそれを説明するには時間がかかる。
 時計に視線を移す。もう七時を越えていた。予定では六時半には終わるはずなのだから、三十分は越えている計算になる。あとどれくらいでこの地獄から開放されるか、彼女は動いていない一部の脳で計算を始めた。
「そうですね」と、一応返事をしておく。
 答えは、意外に早かった。すぐに終わる。ただし、この質問をはぐらかさなければならない。
 男は答えを待っている。おそらく他の参加者も同様だろう。だから足蹴には出来ない。もっともらしい理由をつけて、相手のほうから引き下がってもらう。これがベストだ。もちろん、こちらから一方的に終わりを宣告することは可能だった。だがそれを行うと、今後の活動に支障をきたす恐れがある。
 今までライプリヒの監視下で研究を続けていたから圧力には慣れていた。だが、無いのなら無い方がいいに決まっている。
「ただ、その話題については情報が不足しています。次の会議のときに、それを提出しましょう」
『僅かもありませんか?』
「僅かだけで」彼女は苦笑した、その表情を作った。「それだけでは一部も説明できません」
『そうですか、判りました』
 男はまだ言い足りなそうだったが、渋々といった感じで引き下がった。
 会議の議題はすべて終わり、二三言葉を交わしてから解散になった。
 パソコンの電源を落とし、灯りも落す。それから思いっきり背中を伸ばすととても気持ちよかった。
「疲れた……」
 この単語一つ吐き出すだけで、やけに労力を使った気がする。自分ももう歳かな? と考えて、苦笑した。
 客観的に見て二十歳前後だとしても、自分はもう四十代なのだ。肉体が持っても精神が持たない。若すぎる肉体を扱うには、この精神では酷というものだ。
 しばらく背もたれに身体を預けて瞼を閉じる。強い疲労感が春香菜の意識を夢の世界に誘っていくまで、それほど時間を必要としなかった。
 どれほど眠っていたかも判らないくらい時間が過ぎたとき、不意に目が覚めた。室内は暗くて、光源は何も無い。カーテンも閉められているため、星明りも月明かりも無かった。だが、よく視える。余計なものが何も無いから、よく視えてしまう。
 しばらく周囲を見渡して、自分の身体の上に毛布が掛けられていることに気付いた。空だろうか、それとも秋香菜だろうか? おそらく空だろう。秋香菜は仕事部屋には絶対入ってこない。入ってくるとしたら空しかない。自分が寝入っているのを見て、毛布をかけてくれたのだろう。
 時間が十一時を越えていた。いけない。こんなに眠ってしまった。
 慌てて立ち上がり、筋を伸ばす。ドアを開けた途端、強い光が瞳孔に射し込んで立ち眩みがした。ドアに持たれ掛けてやり過ごす。小さな音でテレビが流れていることが判った。多分、空が起きているのだろう。
 ダイニングへ行くと、予想通り空が起きてテレビを見ていた。ニュースだった。
「お早う、空」
 場所にそぐわないな、と思いながら、だけどこの挨拶が正しいと思った。今まで自分は寝ていたのだから。
「あ、お早うございます。田中先生。今日はカレーですけど……食べますか?」
 テレビを消して空が立ち上がる。
 春香菜はしばらく逡巡してから頷いた。
「では、少し待っていてください」
 キッチンに入っていく空の背中を見送って、彼女は椅子に座った。
 数分待っていると、カレーのいい匂いが漂ってきた。お腹が鳴りそうになる。慌てて力を入れて、虫を殺した。どうやら想像以上に空腹らしい。会議とは空腹を促進させるものなのかもしれない。
 さらに二分が経って空が姿を現した。トレーの上にはカレーとサラダが載っている。
「相変わらず美味しそうね」
「今日は三倍です」と、空は言った。
「三倍? 意外に低いのね」
「ええ。隠し味を入れたら、倍率が下がってしまいました。けど、秋香菜さんも美味しいと誉めてくださいました」
 空は嬉しそうに微笑みながら、食器を並べる。カレーは少し大盛りだった。
 ちなみに倍率というのは、カレーの辛さのことだ。田中家は辛党が多いらしく、基本は八倍、挑戦したいときは十五倍といった風に、クラス分けをしていた。最高は五十倍で、これは秋香菜が先月挑戦して――完敗している。それ以来、しばらくカレー嫌いになっていた彼女だが、最近になって持ち直したらしい。
「あの娘はね、無茶しすぎだから」
 カレーを口に運びながら、春香菜は呆れたような言葉をもらす。
 そんな様子を、空は嬉しそうに微笑みながら見ていた。
「なに?」春香菜は怪訝そうに空を見る。
「いえ」と、空はかぶりを振った。「無茶といえば、田中先生も凄いですよね。蛙の子は蛙、です」
 春香菜と秋香菜の遺伝子は同一。だから、似ていて同然なのだ。秋香菜の行動は春香菜の写し鏡。他方が動けばもう一方も動く。片方の行動原理を理解すると、両方理解できる。
 彼女は何か言おうとして、けれど何もいわず、無言でカレーを口に運んでいった。こういう負けず嫌いなところもそっくりだと、空は思った。
「私はあの娘ほど無茶じゃないわ」
 ぽつりと呟く。
 空は微笑んだ。
「ええ。秋香菜さん以上ですもんね」
「…………」
 言葉を被せたことに、少しだけ後悔した。確かに言われなくても、自分は無茶ばかりしている。例えばこれ、と説明することは出来ない。なぜなら数が多いから。今までやってきたことを思い起こせば、無理ばかりしている。無理ばかりして、それらを無理やり通してきた。時にはくじけそうになったり、諦めかけたときも、確かにあった。一度や二度じゃない。それこそ何度も何度も。
 だから、
「ゴメンね」
 と、言った。
「え?」
 空は瞳を丸くする。
「いろいろと……ね。今日だって、毛布かけてくれたでしょ?」
「いえ、そんなことくらいで」
「そんなことでも、積み重ねれば無視出来ないくらいになるわ」
 もう何年になるのだろう。自分と、空との付き合いは。
 ずっとずっと昔から――産まれたときから一緒の気もする。本当は十五年程度に過ぎないけど、十五年という時間はとてつもなく永い。十五年を簡単に語りきれるはずもないし、しようとも思わない。
 今まで生きてきた人生の約半分。それほどの時間を、自分は空と共にしてきた。
 喧嘩もしたし、意見の相違も、落ち込んだのを励まされたこともあった。よくよく考えれば、今まで助けてばかりだったではないか。自分は空に助けてもらってばかりで、空を助けたことは一度も無い。
「わ、私は……」
 空は困惑したような表情を浮かべる。そんな姿を見て、春香菜は薄く苦笑した。
「謙遜よ。あんまり謙遜しすぎると、よくないわ」
「……ぁ、はい」
「ふふ、そんなに落ち込まなくてもいいのに」
「落ち込んでません。ただ」
「ただ?」
 春香菜は首を傾げる。
「はい。ただ、田中先生から、そのような言葉を聞けるとは思いませんでしたので」
「……それって」
「はい?」
「貶してるの? それとも、誉めてるの?」
 少しだけ目を細めて問う春香菜に、空は流れる水よりも静かに、言った。
「もちろん、誉めてます」
「ま、それならそれでいいんだけどね」
 何事も無かったように食事を再開させる。カレーは少しだけ冷めてしまったが、美味しいことには変わりなかった。
 一回だけお替りをして食事を終えた。調子に乗って食べ過ぎてしまったが、これだけ食べればすぐに眠くなってしまうだろう。食べてすぐに寝たら牛になる、と誰かが言っていたが、そんなことは生物学上ありえない。あれは小さな子供に言う言葉なのだ。
 空は食器を片付けている。カチャカチャと食器同士が擦れる音。しゃーという水の流れる音。そして、音は唐突に終わる。
 静かだった。とても静かだった。周りの家はもう寝入っているのか、それとも今日は旅行に行っているのか、それは判らないけど。今日という日は、いつにも増して静かだった。まるで静寂が迫ってくるような圧迫感。大切なものが抜けてしまったような喪失感。色褪せた写真を見つけたときのような、そんな懐古の情。
 ――あ、そういえば。
「ねぇ、空」
「なんでしょう?」
「秋香菜は?」
「秋香菜さんでしたら、今日は臨時のバイトが入ったとかで出かけていきましたけど」
 そうか、と思った。だから今日はこんなにも静かなんだ。
 川に魚がいないような違和感は、この家に秋香菜がいないから感じていたのか。
 納得したと同時に、落胆した。自分は母親なのに、娘の存在すら忘れてしまっている。これでは本当に、母親失格だ。秋香菜がいまだにバイトに励んでいるのは、自分を信用していない証なのだろう。
 ため息が漏れる。テーブルに肘を突いて顎を載せる。
「どうしました?」
 空が心配そうに聞いてくる。
 ああ、自分はまた、空に頼ってしまうのか。
 それはとても魅力的な考えのように思えて、苦笑した。
「母親として、ね」
 もっとも、この時期の子供は親離れが進んでいるからあまり親には関わらない。それは普遍的なことであったが、あまりその事情に詳しくない春香菜は誤解していた。
「はぁ」
 そして当然のように、空にも母親としてどのような行動が最適か、という情報は入っていない。
 二人は秋香菜が帰ってくるまで、母親を議題に語り合った。


          ◇ ◇


 空に寝不足というものは無い。それ以前に、睡眠や休養といったものも必要ないのだ。
 それはヒトではない、ヒト以外のものである空の特技だといえた。そして、明確な境界線だということも。
「空ぁー」
 彼女がキッチンで朝食の準備をしていると、秋香菜が自分を呼んできた。一度手を止めて、顔を出す。
 しかしダイニングにはいない。ということは、自分の部屋からだろうか?
 作りかけていた玉子焼きを急いで作り上げ、秋香菜の部屋の前に立った。彼女の部屋は二階の東側にあって、朝陽が一番良く入る。
「なんでしょう?」
「今日は朝からバイトだから、食べられないのー」
 そう言いながら、秋香菜は忙しそうに動き回っているようで、室内からガサゴソと音がもれ伝わってくる。
「どうして」空は少し怒った口調で、「どうして早く言ってくれなかったんですか」
「だって仕方なかったじゃない」ズドン、と何かを倒した音。「……いったーい。……あーもう、どうしてこんなところに犬が! って、そうじゃない。だって昨日、空とお母さん、ムズカシイ話題で盛り上がってたでしょ? 話しかけにくくてにくくて。今日は早めに起きておこうと思ったんだけど、まあ、目覚ましに軽い怒りをぶつけたらこんな感じに」
 犬ってなんだろう、と場違いなことを考えていたが、はっと意識が戻る。
「少しも時間がありませんか?」
「うーん、五分なら」
 二分あれば、朝ごはんの用意は出来る。
「なら、軽く用意しておきますので、食べていってください」
 空がドア越しに声を掛けると、しばらく間が空いてから、
「りょーかーい」
 と、秋香菜は答えた。
「では、用意しておきますので」
 空はキッチンに戻り、急いで朝食の用意を整えた。
 彼女がテーブルの上に並べ終えるのと同時に、秋香菜が下りてくる。そして座るや否や
「いただきます」
 と、掛け声ひとつ。猛烈な勢いで朝食を平らげていく。その勢いに空は苦笑した。もう少しゆっくり食べていって欲しかったが、この方が秋香菜らしい。もっともそんなコトを言おうものなら、顔を真っ赤にして「今日だけ」と答えるだろう。毎日のことなのに。
 似ている、と思う。大きなところだけではなく、こういったところも。
「ごちそうさまでした。行ってきます! 今日は夕方ごろ帰れると思う」
「あ、はい。いってらっ――」ガタン。バン。
 最後まで言う暇もなかった。
 しばらく秋香菜の出て行ったドアと見つめ合っていたが、大きく吐息する。春香菜は、まあ、午前中は死んだように眠っているだろう。その間に、日用雑貨を買いに行っておいた方がいいかもしれない。そういえば石鹸が切れ掛かっていたはずだ。他にも買い足しておかなければならないものがあるかもしれない。
 食器を片付け、秋香菜の部屋を掃除する。あんなの慌てていたにもかかわらず、室内は予想以上に汚れていない。一種の才能だろうか?
「春香菜さんも、もう少し整理整頓してくれてもいいのですが」
 飛び出したショーツやシャツを片付けながら、同じ遺伝子でも結構違うものですね、と苦笑した。
 片付けが終わり、店の開店まで少し時間があるので軽く掃除しておくことにする。最近では掃除ロボなるものが発明されているが、そんなものは必要ない。せっかくの仕事が盗られてしまう。それに意外にも、田中家は経済的に裕福だとは言えない。その理由は幾つかあるが、最も大きな理由は春香菜の研究用機材の値段の高さだ。有機コンピュータなんて、まず普通の家には置いていない。あれは研究所用のスーパーコンピュータだ。一般家庭にはパソコンで十分。かなりのオーバースペックだといえた。
 だが、有機コンピュータは春香菜専用のコンピュータではない。むしろ空専用に買ったものだった。
 空のメンテナンスを自分の家でする――そう春香菜が言ったとき、空は反対した。わざわざそこまでする必要はない、と。
『あのね、空。空は私たちの家族でしょ? 家族は共に協力し合うものよ。家族で出来ることは、家族でやる。空のメンテナンスが家で出来るのなら、家でする。当然のことじゃない?』
 そう春香菜が言ったのを、彼女はしっかりと覚えている。
 今からもう、二ヶ月も前のことだ。
 掃除を終えてもまだ時間があった。仕方なくニュースを見ながら時間を潰し、十時になったところで家を出る。一応、家に書置きをしておいたので安心だろう。もしも午前中に起きるようなことがあったとしたら、テーブルの上にあるカップ麺を食べてくれるはずだ。
「行ってきます」
 家を出てから歩いて五分。駅に着く。
 田中家は立地条件を考えているため、近くに大規模商店がなかった。そのため、大きな買い物をするときは電車を使わなくてはならない。
 電車に乗って、揺られること数分。二駅離れた街にやってくると、雰囲気はがらりと変わる。
 どこか学校を思わせる喧騒と、人いきれで熱せられた空気。出会いと別れがあらゆる場所で交錯し、始まりと終わりが同時に存在する領域。距離にして十数キロしか離れていない。けれど、雰囲気はこんなにも違う。
 今日は平日とあって、人影はいつもより少ない。日曜日は人波で数メートル先も見えなくなるのだが、今日はしっかりと前を見据えることが出来る。道の両脇に立ち並んだ商店は活気付いていて、少ない客を入れ込もうと必死に声を張り上げていた。
 騒がしい、けれど心地いい。まるで自分が世界の一部になったような幻想。自分という存在がなくなってしまったかのような浮遊感。この場所は、そんな相反した思いを抱かせてくれる。少しだけ、精神的に不安定になる。
 ほう、と吐息する。それから正面を見つめて歩き出す。
「買い物へ行きましょう」
 その呟きに答えてくれる人はいないけど、だけどそう言わなければ一歩も進めない。
 風の声が強くなった。
 道路を走る車のモーター音。
 梢が揺れて奏でる初夏の調べ。
 この場所は、本当に、不思議だ。矛盾をそのまま受け止めてくれる。だから凄く安心して、とても自分という存在を考えてしまう。もちろんそれは、自分のささやかな幻想に過ぎないのだけど。
 電気街を抜けて広い道に出る。途中で黒猫と二回出会ったけど、進展は何も無かった。小径の奥にある壁が崩れて魔法の世界に続くはずも無ければ、道の真ん中に穴も開いていない。少しだけ天空の色が濃くなった気がする。
 数分で目的に場所に着いた。とりあえず日用雑貨を買い揃え、食料品を買おうか少し迷う。牛肉が安かった。しかし昨日買っておいた豚肉が残っているはずだ。ここで新しい肉を買っても良いだろうか。――いや、今日は牛肉料理を作ればいい。そして明後日に豚肉料理を作ればいいのではないだろうか。
 店の前でしばらく葛藤していたが、結局買わなかった。店主が悲しそうな視線を送っていたが、あえて無視した。
 それからウィンドショッピングを楽しみ、家に帰ろうとしたとき。
 聴覚が聞き覚えのある声を捉えた。反射的に音源へ視線を投げる。
 距離は……十数メートル先。二人組み。その姿を確認した途端、空は急いで物影に身を寄せた。そこから覗き見るように視線を送る。
 身体が熱くなる。思考が制限されている。足が震える。でも――何故?
「……おー、……だ。つ……か?」
 途切れ途切れに伝わってくる空気の振動。その波長、振幅、間の取り方。すべてが合致している。確実に、そのひとだと言えた。
「倉成さん」
 呼ぶだけで、苦しくなる。システムは正常なのに、苦しいと感じる。それは隣に、ひとりの女性がいるからだろうか。
 武と、つぐみ。二人がいることはなんら不思議なことではない。むしろ当たり前だ。夫婦なんだから。
 二人はファッションショップの前でなにやら話をしている。買い物だろう。武がつぐみに、何か変なものを買おうとして、それを止めているに違いない。
「つぐみさん、素直じゃありませんからね」
 トクン、と胸の中で何かが鳴った。
 ――悔しい?
 まさか。
 目の前で繰り広げられる、漫才のようなじゃれ合い。あれは多分、二人だから出来る。自分とだったら出来ない。確実に。
 吐息が熱い。身体は冷たい。心は――心は、無い。
 優しすぎですよ。その呟きは、武には届かない。
 彼は優しすぎる。誰にでも平等に。だから勘違いしてしまう。武の気持ちが自分に向いているのだと、勘違いしてしまうのだ。
 空はその場から離れた。二人に背を向ける。踏み出す足が重い。
 だけど一度だけ、一度だけ振り返ってみた。
「倉成さん……」
 もうそこに、武の姿は見えなかった。

 緩やかな放物線を描きながら、世界は黄昏に包まれていく。
 店を出てから、空はずっと歩き続けていた。疲労というものは感じないが、過運動だとシステムが警告を発していた。
 止める。世界が静かになる。
 空の高いところに、燕が翔んでいた。螺旋を描くように、くるくるとくるくると回っている。やがて風が吹き、それに流されるように方向転換。南へ向かった。家に帰るのだろうか――と、その姿を視線が追う。
「……秋香菜さん」
 ため息と漏れた空気は、いつの間にかいた秋香菜へ向かって散らばった。黄昏を背に受け、茶色の髪は金色の輝きを放っている。空を見つめる双眸は、果てしない闇を顰めているかのように黒く、そして慈しむように優しい。
 一歩、彼女が近づく。
 空は動けない。
 ほぅ、と秋香菜は吐息した。
「空、こんなところで何してるの?」
「…………」
 なんと答えていいか判らなかった。
「ま、言いたくないなら強くは聞かないわ。帰るんでしょ?」
「はい」
「それなら一緒に帰ろっか」
 頷く。
 それから二人は歩き始めた。言葉は無い。ただ気まずい沈黙が、二人の間を満たしている。
 天空は徐々にその姿を変え始め、天球上から紺色のグラデーションを放っている。鳥の鳴き声も、子供たちの喧騒も、車のモーター音も失ったこの世界では、二人の鼓動だけが唯一の音源だった。
 陽光が最後のわめきを世界に轟かせながら、地平線に沈んでいく。その叫びが、今の空には少し眩しすぎる。
 倉成さんはなにをしているんだろう。ふと、思った。
 あのあとで食事にでも行ったかもしれない。そこでまた、つぐみを怒らせて、恥ずかしがらせて、喜ばせて、そして満足そうな笑みを浮かべるのだろう。そしてまた買い物の続きをするかもしれない。どこかへ遊びに行くかもしれない。可能性は、さまざまにある。
 どうして、と。どうしてこんなにも辛いと感じるのだろう。武のことを想うと、頭が真っ白になる。隣につぐみがいると、泣きそうになる。隣に自分がいると想うだけで、頭がパンクしてしまいそうになる。
 こんなにもたくさん、自分は感情を生み出す。それに翻弄され、時には手懐けながら、永遠に終わらない唄を歌い続ける。二度と見ることの無い夢を追い続ける。
 滑稽だと誰かに罵って欲しい。そうすれば多分、思い切りがつく。それはとても哀しいことであるのかもしれない。だけど、それでも――
 空の瞳は渇いたまま、涙が零れることは無い。
 天空に視線をやっても同じことだ。何も変わらない。変わるはずが無い。
 ――それでも、この感情は大切にしたいと思った。
 風は徐々に冷涼を孕みながら、夜の匂いと入り混じっていく。家の灯りがぽつりぽつりと付きはじめ、地上の星団を作る。
 無数の星明かりに照らされた大地は、縮小した宇宙そのものだ。星が生まれ、そして星は死んでいく。無数の銀河同士が衝突し、新しい銀河を造る。重力から解き放たれた惑星は、ひとりどこかへ飛んで行ってしまう。強力なブラックホールのある巨大な銀河には、周囲の星雲が取り込まれて肥大化していく。
 自分は星雲。武は巨大銀河。そしてそのブラックホールは、周囲にある無数の星々を取り込んでいく。
「哀しい、ですよね」
「……ん?」
 呟きは闇に溶けて、それを媒介にして秋香菜へ届いた。
「きっと、哀しいことなんです」
 と、空は言った。
「気付いてもらえないということは」
 無数にある星からひとつを選ぶ奇蹟。
 その加護は自分にではなく、つぐみにあったのだ。
 ようやくそれに気付いた。――気付いてしまった。


          ◇ ◇


 世界には最初、闇しかなかった。
 闇が世界であり、世界が闇であった。
 そこに存在するものは何も無い。あるのは概念だけ。闇という概念が、世界を支配していた。
 やがて世界が凝縮し、光が生まれると、闇は概念を保ったままだが世界ではなくなってしまった。代わりに、光が世界を支配した。存在が始めて、世界に生まれた瞬間だった。
 では、闇はどうしてしまったのか――。
 闇は概念となって、世界の基盤となった。光は闇の対極にあるといわれているが、本質的に違う。光は存在だが、闇は概念だ。光は光速という定義に固定されるが、闇はそれを持たない。闇とは世界の基盤であり概念であり、世界そのものなのである。
 ――ならば。

 世界とは概念でも存在でもない、そのふたつが両立した、まったく別のモノなのではないのだろうか。




「はぁ」
 ため息が漏れる。今日は朝から、何をやってもさっぱりしない。
 玉子焼きを焦がしてしまうし、ご飯は芯が残ったままだし、醤油とソースを間違えてしまうし。まるで自分の真ん中に開いた穴に、すべてが落ちてしまったように、残りものだけでは何も出来ない。
 春香菜は、
「疲れているのよ」と言い、
 秋香菜は、
「空は働きすぎ!」と言った。
 自分ではそんなことは無いと思っているのだが、周りはそう思っていなかったらしい。すったもんだの末、今日は空の休日ということで、掃除も食事の準備も、何もしていない。何もしていないと返って何かしたくなる。
 仕方なくベッドに倒れてみたが、眠気が来るはずも無いので、天井を見つめる意外にすることが無かった。
 退屈だと思う。だけど休養だと思えば、そんなに悪いことのようには思えない。
 働きすぎだと二人は言っていたが、そんなことは無い。いままで自分にしてきてもらったことを考えれば、全然足りないのだ。
「ふぅ」
 空は窓から外を眺めた。青い若葉が風に揺られながら、その生命を太陽へ伸ばしている。初夏の光景は瑞々しさに満ちて、気持ちをとても穏やかにしてくれる。
 少しだけ、哀しくなった。胸の奥で何かが詰まっている。だけどそれを取り除きたくない。取り除く勇気が、無い。
「倉成さん……」
 昨日の映像が甦る。
 楽しそうに笑う、武とつぐみ。夫婦という関係。子供がいるという現実。
 空は瞼を閉じた。黒い黒い世界がそこにあって、自分を誘っているように感じる。もちろんそれは、思い違いに過ぎないのだけど。
 海水のように、闇が身体に纏わりついてくる。血のように、不快な匂いを発している。振り払っても振り払っても、その闇は取れてくれない。
 まるで自分の心みたいだ。昏い暗鬱とした気持ちの水鏡。それが闇となって全身を覆っている。取り払うことが出来なければ、別のものに変換することも出来ない。
 儚すぎる想い。
 ひとの夢。
 純粋すぎる想いは、けれど不純物を含まないがために脆くて弱い。
「倉成さん……」
 その呟きは、何の助けになってはくれないけれど。


 午後になって散歩することにした。
 あのまま家の中にいても、考えは悪い方へ悪い方へ傾いていってしまう。それなら、この蒼穹の下で気分転換をしたほうがいい。
 近くの公園までやってきた空は、ベンチに腰掛けると思い切り大気を吸い込んだ。周囲を緑に囲まれているせいか、ここの空気はとても綺麗だった。綺麗さに、心が洗われていく感覚。
 今日も平日とあって、公園に人影は少ない。小さな子供づれの親子が、噴水付近で遊んでいる。老人がベンチに座って、なにやら会話を愉しんでいた。
 鳥の声が遠い。
 空が高い。
 空気は熱く、湿気を伴っていたが不快ではなかった。それは多分、噴水が近くにあるせいだろう。水辺に近いと、それだけで気持ちよく感じる。
 だけど、暗鬱な気持ちは晴れてくれなかった。
「ふぅ……はぁ」
 何をこんなに悩んでいるのだろう。悩むことなんてひとつも無いはずなのに。
 何でこんなに苦しいんだろう。苦しむことなんてひとつも無いはずなのに。
 どうして、こんなに――
「倉成さん」
 ――こんなに、倉成武に逢いたいのだろう。
 逢って何かしたいわけじゃない。何か話がしたいわけでもない。ただ、逢いたい。顔が見たい。声が聞きたい。それだけ。それだけでいい。
 自分の横に座ってくれて、何も話さず、何も交わさぬまま、この世界の移ろいを見続けていたい。
 たったそれだけの、ささやかな願い。
 けれどこの天空よりも遠い、儚い祈り。
 強い想いは届くのだと想っていた。
 真っ直ぐな気持ちは伝わるのだと想っていた。
 だけどそれは違うのだと判った。初めて肉体を手に入れて、そして彼が近くにいて、思いを抱き続けて――そしてようやく思い知らされた。
 届かないことに。
 伝わらないことに。
 喜劇みたいだと思った。一途な思いを抱き続けて、滑稽に立ち回って、破綻したロジックで夢を見る。そんな喜劇を自分は演じていたのだ。
 哀しくなる。哀しくなるが、それだけ。涙を流すことが無ければ、嗚咽を漏らすことも無い。瞳は乾いたまま、感情は数値の変化という情報に過ぎない。表情の変化もまた、数値の変化以上でも以下でもない。
 言葉。
「どうして……」
 複雑な理論。
「どうして、私は……」
 理解しきれない、
「私は……」
 この感情。
 この想い。
 胸の奥で溢れかえって感情は、すぐさまチェックプログラムに察知されてエラーとして処理される。
 重いものは綺麗に消え去って、その余韻すら残さない。
 風が梢を揺らす。
 誰かの靴が土を踏みしめる音がした。
「…………」
 顔だけその方向に向ける。
 いた。
 目の前にいた。
 微笑みながら、
「よぉ」
 少し意外そうな表情で、
「奇遇だな」
 それから少し楽しそうに、
「はい」と、空は答えた。
 倉成武がそこにいる。
 それだけで感情が溢れ返りそうになる。
 身体が熱い。エラー警告が出る前に、システムに制限をかける。
「奇遇ですね」
 微笑み、ベンチを空けた。武が視線で許可を求めてきたので頷く。
 ぎぃと木が軋む音。
「いい天気だな」
「はい。よいお天気です」
「こんな日はさ」
「……?」
 武は苦笑しながら、
「つい、ふらふら〜っと、散歩したくなるもんだよな」
「ええ」
「空もそうか?」
 さり気ない動作で聞いてくる武に、空は薄く頬を染め上げ、うんと頷いた。
 そっか、と武は笑う。
 この笑顔をどこを向いているのだろう。視線は自分。なら、気持ちは?
 疑心暗鬼。
 自分ではない誰かのための笑顔。
 武の笑顔を信用できない? いや、信用できる。この笑顔は、間違いなく自分に向けられているのだろう。だけど、何故だろう。こんなにも苦しいのは。こんなにも遠いのは。こんなにも脆いのは。
 そっと、自分の頬に手を触れてみる。
 冷たかった。
 そして硬かった。
 とても冷静だった。
 武の瞳が濡れている。こちらを見ている。何か言葉を紡ごうと、喉が上下に動いている。だけど自分は何も出来ない。ただこうして、滑稽なまでに喜劇を続けていくこと。それだけが、自分に残されたものなのだから。
 陽光が瞳に反射していた。虹色に耀くその光は、武の気持ちのように見える。
 ――揺れている。
 ……何が?
 ――感じている。
 ……何を?
 判らないことを判らないままで放置して。
 答えが出ないことは後回しにして。
 それで一体、何が出来るだろう?
 何も出来やしない。そして積もり積もった問題の山は背後に聳え立ち、陽光を遮る。陽の光が届かなくなった場所は冷たく澱む。もはや自分自身では解決できなくなり、また問題が積もる。その繰り返し。
 答えなんて無いのだと。最初から提起された問題を考えなければいいのだと、そう思っていればよかった。そう思っていたほうが、ずっと楽だった。
「倉成さん……?」
 呟くように言葉を漏らす。無機質に、淡々と。
 武が振り向く気配。
「倉成さんは、どうしてそんなに優しいんです?」
「え?」
 空は顔を上げた。
 目の前に緑。上空には蒼穹。横には……武。
「倉成さんは優しいです。優しすぎるほどに優しいんです。私にも、つぐみさんにも、誰にでも!」
「お、おい」
「どうして……どうして、そんなに優しいんですか」想いを吐き出すように言葉をぶつける。「その気が無いなら、そんなに優しくしないでください。私は、私はそれを理解できるほど、出来ていないんです」
 私はヒトじゃない。
 ヒトのカタチをした、ヒトじゃないモノ。
「私は……私は倉成さんが好きです。けど、倉成さんはつぐみさんが好き。それなのに、どうして私にまで優しくしてくれるんですか!? 私は……私は、悔しい」
 同情。
 恋慕。
 悲恋。
「私は勘違いしてしまいそうです。倉成さんが、本当は私のことがすきなんじゃないかと」
 祈り。
 願い。
 そして、絶望。
「だけどそうじゃない。倉成さんはつぐみさんが好きなのです。つぐみさんが好きで好きで、だけど倉成さんは優しすぎる。私にも、誰にでも」
 だから、辛い。
 だから、苦しい。
 だから、愛しい。
 手に入れてはいけないということ。
 知識の実は食べてはいけないということ。
 楽園から追放されるということ。
 それらはすべて、当たり前のことなのに。
 あとには哀しみしか残らないのに。
「もうダメなんです、耐えられないんです!」
 空は立ち上がった。
 遮るものの無い沈黙が通り過ぎ、中天に上っていた太陽は雲にその姿を隠した。少しだけ薄暗くなる。風が出てきた。子供たちの声や噴水の音も聴こえなくなる。
「私は、ヒトじゃありません」
 胸が苦しい。息が出来ない。それでも大きく息を吸い込み、
「ヒトに造られた――」
 大気に空の旋律が響き渡った。
「人形なんです」
 それを理解すること。
 それを語るということ。
「さようなら」
 慈しむ風に抱かれ、空はひとり、この身体を呪った。
 こんなに哀しいと思っても、辛いと思っても、瞳から涙が零れることがない。あくまでそれは、情報に過ぎない。幾らひとに近づけたとしても、所詮は近づいただけ。ひとではない、ひとから生まれたモノである自分には、涙を流す価値もないのだ。
「さようなら、倉成さん……」
 逃げるように、優しさを追い求めるように、空は駆け出した。それがどこにあるか、それは誰にも判らないけど。
 武が呼んでいる。自分の名前を呼んでいる。だけど振り向けない。
 胸の奥から感情が溢れ出して、ぐるぐると渦を巻いていく。
 ああ、この感情は、知っている。
 初夏の、海の、底。
 たった一度だけ、感情を取り乱したことのある、あの時に。
 大きさはその時以上で、哀しみは三倍もある。駆け出すたび、武から遠ざかっていくたび、その感情がどんどん膨れていく。その感情を抑えきれなくなる。
 途中、何度か転びそうになったけど足を止めることは無かった。
 公園を抜け、繁華街を通り過ぎ、少し人気の無いところまでやってきた。もう何十分も走り続けてきたように思える。
 周囲は景色をがらりと変え、公園でもないのに緑が多い。風は優しすぎるほどに優しく、陽光も穏やかなままだ。
 空は天空を仰いだ。そこに答えがあるような気がした。
 青い青い、空。白い雲はまばらにその姿を散りばめ、ゆっくりと流れている。
 あの時ほど激しくはなく、
 あの時ほど曖昧ではなく、
 あの時ほど楽観的ではない。
 僅か一週間の出会い。
 それから続いた、三ヶ月という年月。
 この想いを抱かせてくれたことを。
 永遠は無いということを。
 届かない思いの行く末を。
 叶わない願いを残滓を。
 ずっとずっと、見続けていたいと思った。
 だけど――――


<警告…システムに致命的なエラーが発見されました>
(あれ?)
 突然響いた電子音と共に、身体の自由が利かなくなった。安定を失った身体は重力に捕らえられ、ゆっくりと沈んでいこうとする。だがその直前でバランサーが作動。顔がぶつかる直前に体勢を立て直す。
<警告…システムに致命的なエラーが発見されました>
 警告は止まない。延々と鳴り響き続ける。相変わらず身体の自由が利かなかった。動かそうとしても、腕は、指は、ピクリとも動いてくれない。まるで自分の支配下を脱してしまったようだ。
(自分の身体がコントロールできていない!?)
 その事実に、戦々恐々となる。
<警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N>
(No)
<警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N>
(No!)
<警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N>
(No!!)
<警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N><警告…メモリシステムに致命的なエラーが発見されました。システム復旧には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N>
 何度も何度も、エラー警告が出てくる。頭が痛い。こんなのは聞きたくない。早く直れ直れ直れ直れ直れ……。
<緊急復旧プログラム起動。プログラム作動中は管理者権限がせ――>
 強制終了させる。
 だがそれが原因で、全身の感覚システムにエラーを引き起こさせた。針で刺されるような痛みが知覚される。もう立っていられない。
<警告…SOLA-Systemに致命的なエラーが発生しました。正常な動作には再起動を必要とします。再起動しますか? Y/N>
 視界が揺れる。聴覚がみだれる。せ界がとても た い まん に   か    んじ    ら        れ――――
<警告…SOLA-Systemに致命的なエラーが――>
 ぷつん。
 暗転。







 後編へ続く。










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