さざなみが引いていくような浮遊感の中で、小町つぐみは目を醒ました。
 世界は昏い。空間中に偏在していた闇の粒子が拡散し、視界を黒く塗り潰しているためである。そのため、眼を見開いているのか閉じているのかが判らない。
 数度、瞬きをする。だが何の変化もなかった。彼女は小さく吐息する。
 何の音も聴こえない。自分の吐き出す吐息ですら、闇に溶けていってしまう。風のざわめきも心臓の鼓動も、この世界には存在しないような錯覚に陥る。無音が押し迫ってくるような圧迫感だけがあった。
「――ここは……?」
 肺から空気を押し出す。その瞬間、刺されるような痛みが胸に走ったが、耐え切れないほどではなかった。
 喉の渇きを覚える。まるで激しい運動をしたあとのように、身体が酸素を欲しがっていた。両肩は忙しなく上下し、肺細胞は酸素を取り入れようと躍起になっている。
 つぐみは胸を押さえながら立ち上がり、深呼吸をし気息を整えた。
 仄暗く、粘性の強い湿気が辺りに満ちている。温度はそれほど高くない。むしろ過ごしやすい温度であったが、如何せん湿度が高すぎる。全身に張り付く湿気は、まるで昇華した鉄のようにずしりと重い。
 視線だけ動かし、現状を把握しようと情報を集めるが、何も見つからなかった。そればかりか視線は安定せず、不必要にぐらつく。一点を凝視することが出来ず、つぐみは何度もかぶりを振らなければならなかった。
「どうしたって……」彼女は呻きながら眼を細めた。今、自分の状態が酷く憎たらしく思える。
 彼女の眼は特別だった。その瞳は赤外線を捉えることが出来る。一般に瞳は、可視光を捉えその情報を脳に送るのだが、つぐみの瞳はさらに赤外線を捉えて情報に変換することが出来る。
 ――インフラヴィジョン。そう、科学者は言っていた。
 その瞳を――インフラヴィジョンを持ってしても何も見つけられなかったということは、つまり、捕らわれてしまったということか。暗室か何かに入れられている可能性はある。全身が重いのは、薬物のせいなのだろう。
 ほぅ、と彼女は吐息した。それで情況が好転するわけではないが、ため息を吐かずにはいられなかった。或いはそれは、薬物を注入された結果かもしれないが、つぐみにとってはどうでもいいことだった。
「……っく」
 ふらつく身体を叱咤し、眩暈をやり過ごそうと壁に背を持たれかけようとした。だがそこに壁はなく、背中が宙を彷徨う。その時を待っていたかのように、重力がつぐみの身体を縛り付けた。抗えない。圧倒的な力の前に、背中が地面に叩きつけられる。
 かはっ、と彼女は呻いた。予期していなかった分、衝撃が強かった。刹那、呼吸が奪われ、胸に痛みが走る。
 津波のような引き返しが起こると、彼女は咽返った。後頭部を打ち付けたのか、視界がちらつく。黒い地面はすべての温度を奪い去ってしまうほどに冷たく、すべてを頑なに拒絶するかのように硬かった。
 つぐみは暫くの間、冷たさに身を任せていた。こうしていることによって、今、自分が置かれている状況を把握出来そうな気がしたからである。
 だが、そんな空想は実を結ばなかった。考えれば考えるほど、底なし沼に嵌っていくように思考が沈んでいく。
 本当に、ここはどこなのだろう?
 初めは軽い痛みのあったこの地面も、慣れればなんてことはなかった。自分の温もりによって暖まらないのは残念だったが、その分、冷静でいれれる時間が永い。冷静でいられる時間が永いということは、現状において自分の居場所を探し出そうとしている証である。
 す……っと眼を細める。記憶の糸を辿りながら、自分の道程を思い返していた。



"幻死の夢"
                              みつばや


 ――あれは、いつのことだったか。
 春のような気がする。夏のような気もする。秋のような気もする。日差しが強かったから、冬ということはないだろうが。
 風が強かった。ともすれば吹き飛ばされてしまいそうなほど、風の強い夜であった。
 今から思えば、それは何かの前触れだったのだろう。無論、吉兆を占うことは出来ないので単なる推測だった。だが、無碍に斥けられるほど当てのない推測でもなかった。
 闇に紛れ、つぐみは小径を疾走する。強風は彼女の身体を執拗に打ちつけ、髪は流れながら大気に纏わりつき、まるで羽毛のように背で広がっていた。
 その様子は、まるで闇に奔る一条の煌きと映るであろう。もちろん、見る人間がいれば、だが。
 駆ける。
 駆ける。
 駆ける。
 延々と、脚を止めることなく駆け続ける。時折振り返っては、追跡者の影がないかを確認する。数は十。その内ふたつは林で振り切った。よって残りは八。だが、実際に付いてきているのは五だけだ。残りの三は、後方でバックアップの役割があるのであろう。
 ちっ、と内心舌打ちをしつつ、彼女は大地を蹴り飛ばす脚を叱咤した。複数の敵を相手にすることに――しかもこんな長時間追跡されることに、彼女は慣れていなかった。
 朝方から続いているこの追走劇は、徐々にであるがつぐみの体力を摺り減らしていた。幾らキュレイウィルスに感染し、身体能力が向上したといっても元が人間である以上、上限は存在する。
 その詳しい数値をつぐみは知らなかったが、少なくとも二時間以上走り続けていることは無謀なのだろう。全身の関節が悲鳴を上げ、集中力も途切れがちになる。額には大粒の汗が浮かび、白い頬を通って風にさらわれる。
「はぁ……はぁ……はぁ。――まったく!」
 苦虫を噛み潰した。表情が歪む。
 走る速さはこちらの方が圧倒的に疾い。それでも振り切れないのは、ここは奴らの前庭だからなのだろう。地の利がある分、奴らは余裕を持って対処していた。もしつぐみがインフラヴィジョンを持ち合わせていなければ、最初の三十分で十字路を曲がった瞬間に捕まっていたはずである。
 ひとがひとである以上、常に熱を発している。それは服を着たくらいでは覆い隠せない。腕や脚、或いは顔。その部分を完全に遮断することは出来ず、必ず熱が漏れる。つぐみはそれを視る。
 もちろん確かに、熱を遮断する素材――服――は存在していが、奴らが使った形跡はない。或いはもう使っていたのかもしれない。それでも捕まらなかったため、コストを考えてそれ以降の使用を抑制していたとか。
 そんな自分の思考に、彼女は冷笑を返した。
 そんなことあるはずがない……と、断定できる。経験してきたからこそ出る断定。奴らはそんな甘くはないのだ。冷たく、そして合理的である。戦力の漸次投入などという愚は犯さない。戦力の一挙投入による飽和攻撃。それが奴らの戦法であった。


 街の小径は複雑に入り組み、まるで迷路のようである。計画性無く建てられた廃屋や道路。それらが複雑に入り組み、増殖し、喰らい、生み出され、肥大化していく。もはや混沌。誰も正確な場景を思い浮かべることは出来ない。それは忘れ去られた屍骸のように腐乱し、元の面影を残さない。
 だから増えるのだ。腐乱した屍骸を貪る蝿どもが集まり、それを喰らおうとする小型の動物が帯び寄せられる。さらに大型の動物が小型の動物を狙って集まり、そして死に、屍骸に蝿が群がる。
 ――そうして、街が生まれた。小さいが、確かに街だった。
 死から生まれた街は、誰も拒みはしない。ただし、誰も受け入れない。好きなときに住み、好きなときに出て行く。それが暗黙の了解事項。何も拒まない代わりに、何も受け入れない。馴れ合いなどという世俗とはかけ離れた世界が、この場所である。
 つぐみはここに身を寄せていた。今はもう誰もいない廃屋を寝床とし、昼間は息を潜めて辺りを窺い、夜になって動き出す。
 瀬戸内の小さな街――それでも人口は十万程度いるだろうが――は過疎化が進み、市政の悪化により住民の流失に拍車が掛かっていた。そんな場所に死は根付く。僅かな死臭が漂うだけで、死街地が形成される。こんな場所――或いは街――は日本中どこにでもあるだろう。だから、何の変哲もない落ち目の街に映る。
 だが――
 つぐみは見逃さなかった。街のからくりを。裏を。そして真実を。
 落ち目の街にしては、ここは公共機関が充実している。図書館、博物館、歴史資料庫など。この程度の街には不釣合いなほど公共機関が多い。別段、原発を誘致しているわけでもないし、放射性廃棄物を受け入れているわけでもない。何の変哲もない、落ち目の街。
 街中からは覇気が消えている。商店街にはシャッターが良く眼につき、不況の煽りを受けているように見える。だというのに道路は良く整備され、公舎も新しい。
 違和感。僅かな違和感。よくよく注視しなければ見逃してしまいそうなほど、小さな違和感。それをつぐみは感じ取った。
 裏がある。もしくは、何らかの事情があるのだろう。
 瀬戸内には無人島が多い。大小様々な大きさで、その数は百を超える。この街も、幾つか無人島を抱えていた。
 彼女は図書館に赴き、街の歴史を紐解いた。だが、そこに記されていたのは平凡なもので、目新しいものや眼につくようなものは一切なかった。
 ――考えすぎか、とつぐみは思った。
 がらんとした館内に、彼女のため息が溶けていく。
 だが違和感が拭えない。確かに何かあるのだ。何かがあって、そして動いている。
 図書館を後にしたつぐみは、そのまま港に向かった。小さな漁港である。小型の漁船が数隻係留され、波間で揺れている。潮の香りが強い。酔ってしまいそうになる。水平線で太陽が煌き、二重の陽光が街を照らしていた。――彼女には強すぎる日差しであったが。
 昼間に動ける時間は短い。キュレイウィルスに感染してから、紫外線はつぐみの天敵となった。遮断するための服装は、残念ながら寝床に置いてきたままだった。アレは確かに優れものだが、若干隠密性に欠ける。
 辺りを見回しながら海岸線を歩き、違和感の元を探す。右手には蒼い海。左手には緑の林。杉の木だ。潮風に強いため、良く植えられている。それは防風林の役目を持っているのだが、瀬戸内の風は穏やかだ。もっと別の意味があるのだろう。
 二キロ程度の海岸線を、つぐみは二往復した。結論から言えば何も見つからなかった。やはり考えすぎだろうか?
 太陽は徐々に水平線へ沈んで行き、黄金色の海が眼の前に広がっていた。そこに点在するように、島影が見える。小さいもがほとんどだが、大きい島がひとつだけある。ここから十キロほど沖にある島。――名前は、思い出せない。なんとなくそこへ視線を投げる。
 夕暮れ時が一番紫外線量が多い、とか、久しぶりに見た黄昏は綺麗だ、とか、海は嫌いだ、とか、様々な感情が胸を過ぎっていく。その度に、感情は何かを零していって彼女を困惑させた。
 懐かしいような、切ないような、哀しいような、愛しいような、そんなものが浮かび上がってくる。冷え切ったココロに熱が通る。永久凍土に沈めた想い出が、その暖かさで融解していった。
「…………」
 もう、訳が判らない。何故だか突然、泣きたくなった。泣くまいと決めていたはずなのに、その想いが揺れた。
 熱く煮えたぎったものが鳩尾から競り上がってくるのを彼女は感じていた。それを表に出さないようにかぶりを振る。
 ひとつ、息を吐く。
「戻ろう」
 眼を細めて黄昏を見遣る。
 いつだってそうだ。夕暮れは――夕陽は、いつだってココロを開け放ってしまう。

 夕闇が迫る街を、彼女は寝床へ向けて脚を進めていた。すでに店のシャッターは下ろされている。人影はなく、まるでゴーストタウンのようである。人目につかないのは好都合だったため、つぐみはさして気に留めていなかったが。
 長い影法師が、建物の壁に寄りかかっている。遠くで鳥の鳴き声。それ以外に音のない、静かな時間。
 寝床に戻り、少しだけ仮眠を取ろうと思った。深夜にもう一度、この街を探してみるつもりだった。確かに調べた結果、怪しさは残るものの自分の求めているものとは異質のように思える。落ち目の街にしては公共施設が充実しているのも、怪しいといえば怪しい。だが、予算は当年に付くものではないから、その前は景気が良かったのかもしれない。
 世界が闇に包まれた頃、彼女は寝床に着いた。あまり疲れていなかったため、すぐに寝ることは無く、覗く隙間から銀弓のような月を見上げる。
 つぐみがこの街にやって来て三日が経っていた。あまり成果は上がっていない。
 元々この街は通過点でしかなく、本当ならば京阪神地方へ行く予定だった。それが僅かな違和感を感じたため、今日まで居座っているのだ。早く場所を移動させたいという気持ちと、違和感が拭えない不快感の間でつぐみは悩んでいた。
 京阪神地方――それが大阪なのか神戸なのかは判らないが――に、ライプリヒの研究所がある。……いや、正確に言えば“あるらしい”。
 東京から逃れて山口まで遷移したあと、裏路地を逃げ回っていた際に出会った人間から聞いた情報だった。出所は怪しい。だが、調べるほかつぐみにする術はなかった。
 そうして立ち寄った、小さな港町。
 やはりここは、早く移動するべきか。
 情報が流れたことを、ライプリヒ側は知っているだろうか? もし知っているとすれば、研究所を閉めてしまうかもしれない。そうなる前に忍び込んで、何でもいいから情報を引き出す。
 強硬手段だったが、他にとるべき術が見つからないのも事実であった。つぐみが切れるカードは多くない。
「あの子たち……」
 ふと、思う。あの二人は、今でも元気にしているのだろうか――と。
 後悔していないと言えば嘘になる。今日の今日まで、後悔の連続だった。一日も忘れたことのない、二人の笑顔と自分呼ぶ鈴のような声。
 あの日――ライプリヒの襲撃を受けた日のあと、安心して暮らせる場所を求めるため、仕方なく子供たちを施設へ預けた。その時の声が、今でも耳に焼き付いている。何度も振り返って、何度も泣いた。自分の不甲斐なさと、そして世界の冷たさに心が震えた。
 そして数年が経ち、ようやく目途がついたところで引取りに来て――愕然とした。
 二人はもう、捕らわれてしまっていたのである。
 詰め寄った。施設の園長や職員に。だが、返ってくる答えは煮え切らないものばかり。本意ではなかったのだろうが、結果として渡してしまったのだ。
 絶望というのは、こういうことを言うのだろう。
 武がいない。
 子供たちがいない。
 失って暫くは、廃人のような生活を送っていた。ようやく見つけた安息の場所で、幸せな幼い夢を見ていた。そこには武がいて子供たちがいて、笑顔が溢れている生活。待ち望んだ平和と、穏やかな日常が続いていく。そんな、幻死(まぼろし)の夢を見ていた。

 かさり、と何かが動く音。
 意識が戻って来る。音源に視線を向ける。
 そして――襲撃を受けた。

 失態だ、とつぐみは自身を叱った。
 寝床から飛び出して闇を駆ける。後方からひとの気配が続いてくる。数は五。かなり多い。振り切れるか?
 ――否、振り切る。
 小さな街であるということが、彼女の緊張感を弛緩させていた。あの日に受けた襲撃も、小さな町での出来事ではなかったか。どうしてそんなことを失念していたのだろう。
 かぶりを振る。悔しくて悔しくて堪らない。何に対して悔しいのかは判らない。ただ、悔しいという感情が湧き出てくる。
 やはりこの街にはライプリヒの影響があった。恐らく……だが、無人島に研究所を建てているのであろう。その口封じに金を捻出しているとしたら? 例え落ち目であろうと、金はある。
 追跡者の襲撃を躱しながら、つぐみは様々なことを思い浮かべていた。
 研究所があるとしたらどんな研究を行っているのか。
 研究所でなければ、他に何があるのだろうか。
 そして、ここに子供たちはいるのだろうか――と。
 追跡者は数人纏まってやってくる。しかも街の地理を熟知しているのか、巧みにつぐみを追い回していた。このままでは袋の鼠になってしまうのは目に見えている。だが、相手のほうが数枚上手らしいく、こちらの行動を先読みしていた。
 彼女は徐々に徐々に、海岸線へと追いやられていく。商店街を抜け空き地を駆け抜け、十字路を曲がろうとすると必ずその先に追跡者が潜んでいた。インフラヴィジョンにより隠れていても見つかるのが幸いしていたが、それは逆に、つぐみの行動が制限されていると言うことでもあった。
 彼女自身気付いていないことだが、つぐみは危険を察知すると回避することが多い。行動は大胆であるが、明確な危険が迫っていれば高確率でそれを回避しようとする。そのことをライプリヒ側は知っていたのである。
 専門家を使い相手を徹底的にリサーチする。それがライプリヒの強さであり、決して表に出てこない所以であった。例えライプリヒを批判しようとも、その批判者を徹底的にリサーチすればボロが出てくる。出てこなくとも、その行動原理を理解することが出来る。必要なのは、そのひとつを削ればいいだけのことである。行動原理のひとつを失えば、意思は容易く揺らぐ。
 つぐみの場合もそうだった。彼女は幼少期ライプリヒの研究所にいたため、その判別が用意だったのだ。こう動けば、つぐみはこう動く。右に行けば左に。進めば引き、引けば進む。行き先の詳細までは判らないが、姿を見つけてしまえば作り上げた方程式に組み込むだけでいい。
 事実、つぐみは追い込まれていた。景色から建物が消え、自然が多くなってきている。眼の前には防風林。いつの間にかここまで追い詰められていたのだ。
 拙い、と思った。何とか別の場所へ行こうと思うのだが、すると必ずその先に、熱源が視える。
 包囲網は完璧だった。
 どこにも穴など見つからなかった。
 八方塞。四面楚歌。様々な言葉が思い浮かぶ。圧倒的不利に立ちながら、つぐみの口元が緩んでいた。弱気になったら負けだということを、彼女は知っていたのである。だから負けそうになると、必ず微笑を浮かべ、自分自身に余裕を持たせる。
 焦りは冷静な思考を奪い去り、感情で動こうとしてしまう。時にはその判断が重要だった。だが、この場合は違う。
 林に足を踏み込む。その瞬間、新しい人影が視界の端で動いた。
 ――奴らは、ここで自分を待っていたのだ。
 そう理解した瞬間、無意識に身体を反転させ追跡者に向き直る。
 実際、包囲網は完璧ではなかった。窮鼠猫を噛む、という諺がある。この場合、鼠はつぐみだ。追い詰めれば彼女から手痛い反撃があると悟ったライプリヒは、ひとつだけ抜け道を用意していた。
 だが、何の因果かつぐみはこれに気付かなかった。そして初めて、彼女が方程式から抜けた。
 その姿に一瞬躊躇いの表情を見せた追跡者も、プロなのかすぐに表情を引き締めた。両者が真っ向から対峙する。距離がどんどん縮まっていく。つぐみは駆ける脚に力を込めた。強行突破の構え。
 二人が左右に分かれる。正面に三。後方から接近するのは五。これで完全に包囲された。
 構わない、と彼女は思った。突破すべきは正面の三人だけなのだから。他の七人は無視してもいい。
 距離が詰まる。正面の三人まで四メートル、左右との距離は三メートル、後方は十メート利以上余裕がある。例え正面を突破できなくとも、後方の五人が到着するまで数秒のライムラグがあるだろう。つぐみにとっては十分な時間だった。
 もう相手の表情すら判るほどに近い。腰を下ろしてこちらを待ち構えている。
 残り一メートル。どうにでもなれ、と、つぐみは男たちを飛び越えようと大地を蹴った。

 ――戛ッ。

 男とつぐみが交差した。
 彼女が飛び込んだとき、男の一人――中央にいた――が反応して右腕を前に向けてた。
 反射的に右腕を躱す。速度が殺された。男たちの後方一メートルに着地。この距離では相手を振り切れない。

 つぐみが反応する。腰をあげ、震える両脚を叱咤させ再び大地を蹴り飛ばす。
 男たちが反応する。振り返り、今まさに逃走しようとするつぐみの袖を掴んだ。

 逃げ切れなかった。
 飛び出そうとした彼女の身体は、けれど男たちに捕まれて大地に束縛される。
 追跡者の二人が近づく。後方にいた五人はまだ来ない。
 つぐみは袖を掴んでいる腕を払いのけ、一歩、後ろに跳躍した。その軌跡を追うように、追跡者の腕が伸ばされる。払う。伸ばす。払う。伸ばす……。
 さらにもう一歩、後ろに飛ぶ。相手との間合いを確かめ、ちらりと視線を動かす。距離は二メートル三十センチ。これなら逃げ切れる距離――けれど。
 追跡者が踏み込む。深い溜めから繰り出された拳をつぐみは弾いた。
 相手の体勢が崩れる、その隙を見逃さない。
 通常ならありえない軌道――しかしキュレイウィルスによって上昇した身体能力を持ってすれば、けっして不可能ではない軌道をつぐみはなぞった。
 相手の拳を弾いた彼女は、返す腕で首筋に手刀を入れた。
 どん、という鈍い音。追跡者の巨体が倒れた。しかし相手は怯むことをしない。仲間が倒れた直後を狙って、今度は二人同時にやってくる。
 右と、左。視線だけを動かして相手の位置を確認。上半身を後ろに傾けて右からの攻撃を回避。左から来た腕を掴み、背負い投げの要領で放り投げた。
「ぐあっ!」
「っが!!」
 投げられた追跡者の下にいた男が悶絶する。これで二人を一時的にだが行動不能にした。
 視線を周囲に向けると、左右でつぐみを包囲していた男たちが呆然としている。後ろから来ている追跡者との距離はまだあった。逃げるのなら今しかない。
 逡巡の影を見せず、彼女は相手に背を向けた。そのまま街に向かって駆けて行く。数秒遅れて男たちの罵声が響いてきた。

「はぁ……はぁ……はぁ」
 時折後ろを振り返っては、つぐみは一心不乱に走り続けた。
 すでに二時間以上経っているが、相手は諦めた気配を見せない。体力は限界を超えようとしていた。もう何時間も走っていることは出来ない。
 息も絶え絶えに、しかし脚を止めることは赦されない。ここまで逃げ続けてきて、今更捕まるわけにはいかなかった。
 空き地を抜け、道路を渡り、住宅地を縫うように走り回る。それでも気配は執拗について来ていた。GPSか何かで逐一位置を確認しているのかもしれない。
 追跡者から逃げ回っているうちに、彼女はいつの間にか寝床のある死街地まで来ていた。
 一度脚を止め、後ろを振り返る。そこには闇があるばかりで追跡者の姿は見えない。しかし、ひとが発する熱がまだ諦めていないということを如実に示していた。
 嘆息。
 それから思考を切り替える。このまま逃げ続けていても、いつか捕まってしまうかもしれない。ならばどこかに隠れ、体力を回復させてから一気に逃げる方が得策のように思えた。
 辺りを見回す。朽ち欠けた廃屋が立ち並んでいるが、こんな場所ではすぐに見つかってしまうだろう。もっと別の、見つかりにくく判りにくい場所に隠れなければ。
 夜を駆け、息を潜め、辺りを見回す。
 潮の香りを孕んだ夜風が、ゆったりとした速度で南に流れていった。髪が震える。
 剥離したアスファルトを靴底が踏みつけ、ぼろぼろになってぼろぼろと音を立てた。
 右を向く。廃屋――というには、さほど崩れていない建物がある。平屋建てで、少し瓦が剥がれている以外は目立った損傷はない。ここだ、と直感で悟った。
 一瞬、気配を消す。塀を飛び越えて敷地内に入った。
「……っあ」と、息が漏れる。
 誰もいないと思っていた場所には、一人の老婆がいた。丁度襖を開けたときに体勢で彼女と見詰め合う。
 寝巻きだろうか、白装束に身を包み、それと同じほどに色素の抜けた白髪が肩越しで垂れ下がっている。ここからは良く見えないが、貌に深く刻まれたしわの多さから、かなりの年齢だと見て取れた。
 つぐみは着地したままの姿勢で岩のように固まってしまう。老婆はしっかりとした視線を向けていた。瞳は月明かりが反射して、幽かに濡れている。死人の眼ではない。
 一瞬逃げようか、と思ったが、老婆の雰囲気は敵対したそれではない。――元々、この街に住む人間は関わり合いを持たないから当然なのかもしれなかった。
 暫く沈黙が漂う。銀弓に雲がかかり、辺りがいっそう薄暗くなった。
「おいっ、見つけたか!?」
 と、声。
「いいや、まったくだ」
 慌てて振り返るが、そこには壁がある。すぐに見つかることはないだろうが、音源は近かった。確実に近寄って来ている。
「……入れ」
「え?」
 彼女は一瞬、その言葉がどこから響いてくるのか判らなかった。が、ここには二人しかいないことを思い出し、射抜くような眼光で老婆を睨みつける。
「入れ。追われとるんじゃろ」
 迷った。
 ここで老婆の意見に首肯してよいのだろうか。信用できるのだろうか。実はライプリヒの手先なのではないのだろうか。ネガティヴな考えばかり浮かんでくるが、迷っている暇はなかった。
 つぐみは頷いき、老婆が通し戸を開けた。
「奥に行け」
 言葉に頷きで返す。襖を開けて部屋の一室に飛び込む。畳が敷き詰めている以外は、何もない部屋だった。倉庫でも、物置でもない。ただ単に使ってない、といった雰囲気である。その証に、薄っすらと埃が積もっていた。
 息を潜め、耳を傾ける。追跡者たちの声が、いよいよ強まってくる。心臓が警笛を鳴らした。
 すえた空気で満たされた部屋に閉じこもっているのは、幾許か精神力を要した。ただでさえ追われている身なのだ。
 がさがさと探る音が聞こえる。来るな、来るなと心の中で叫んだ。いるはずのない神に祈っても、加護を得ることは出来ないが。
 やがて永遠とも錯覚する時間が過ぎ去り、気配も消えた。と同時に、老婆が「いいぞ」と言った。
 ほぅ、と吐息して、襖を開ける。老婆は座布団敷き、その上で正座となってつぐみに振り返った。
 その姿を見た途端、つぐみの全身が緊張した。
 喉がからからに干上がっていく。
 老婆はからからと笑った。
「なんじゃ、御主」
「…………」
「さっさといね。こかぁ、御主のいる場所でねェ」
 静かに、だが身体に響くような口調で老婆は言った。
「……私は」
 つぐみは答えようとしたがかぶりを振られる。
「知っとる。どうせ逃げてきたんじゃろう?」
「はい」
「らいぷりひ、か」
 その言葉に、彼女はハッと顔を持ち上げる。だが、陰に隠れて老婆の表情は読み取れない。
「逃げるはあまじゃーねー」語気は弱い。搾り出すような口調だった。「えーつらは手強い」
「知ってます」
 と答えると、老婆は眼球だけを動かしてつぐみを見た。そしてフッと微笑う。
「なるほど。その眼ぇは修羅場をくぐった眼じゃ」
「教えて下さい。ここには何があるんですか? 何が隠されてるんですか?」
「……何も、何もねェさ。ただひとが死んで、んで街が出来た。それだけじゃ」
「ひとが……?」
 老婆はうんと頷く。
「では、それは」
「研究所があった。今ははあねー。そこでようけ死んだ。うちの息子も、娘も」
 なんと言っていいのか判らない。ただ苦しそうな表情を作ることしか、つぐみには出来なかった。
 老婆は続ける。
「調べて、その結果がこれサ。……喪った。全部喪った。何も残らん、残してもらえん。うちはこげな干乾びてるからええけんど、おめーさんはまだ若い。悪ィこと言わね。やめとけ」
「失ってますよ。私も」
「うん?」
 自嘲気味の笑みをつぐみは零した。
 だが瞳には、燃え盛る復讐の炎が舞い上がっている。それを老婆は見つめた。何かを思い出しそうな表情で、つぐみを見ていた。
「だから取り返すんです。そのために、私はここにいる。失うものなんて、もう何もない。すべては奪われてしまった。……だから」
「取り返す、か?」
 つぐみはうんと頷いた。想いが、さらに強固なものになったように感じた。
 暫く二人は言葉を交わさずにいたが、やがてぽつりと、老婆は独り呟いた。
「神戸辺りに、なんかあるらしい」
 その老婆の意図が掴めず、つぐみは首を傾げた。
「それだけじゃ。うちが知ってるのはな」
「あ……はい。でもどうして――」
 そんなことを? という意味を込めて、つぐみは呟いた。
 老婆はすがるような瞳で彼女を見て、
「なあに、単なる御節介じゃよ」
 うちはもうダメじゃ。……がな、おめーさんならやってくれそうな気ィする。だからじゃよ。と泣き声を押し殺した。
 つぐみは老婆と向き合った。雲が風に流され、薄明るい月光が室内に差し込んでくる。その寒々しいほどの灯りが、今の彼女には希望の灯火のように思えた。
「ありがとうございます」
 心から、頭を下げる。
「ああ……頼む」

 目指す場所が出来た。それは神戸。
 前に聞いた男の情報と、今回得た情報。そのどちらも、京阪神地区ということで一致している。信憑性が高まった。
 それがつぐみの求めているものなのかそうでないのかは判らない。だが少なくとも、手がかりは出来たのである。
 夜のうちに街を抜け出す。紫外線を遮断する服装は残念ながら諦めなければならなかった。すでに見つかってしまった以上、寝床で潜んでいる可能性がある。アレがないのは確かに不便だが、捕まるわけにはいかないのだ。
 月光を背に受けて、つぐみは闇に駆け出した。
 いつかと同じ、しかし明確に違う何かに向かって、つぐみは想いを向ける。
 海岸線は、風が強まっていた。
 夜に、風が通り抜けていった。


 回想を終えたつぐみは、ゆっくりと立ち上がった。
 疲れはすっかり落ちている。頭の奥の方がまだボーっとしているが、時間と共に落ちていくだろう。軽くかぶりを振る。そうすると、少しだけ記憶が戻ってきた。
 彼女は兵庫に入った直後、またライプリヒに襲われた。情報が漏れたというよりも、情報網に引っ掛かったのである。まったく、ライプリヒの情報網は恐ろしいほどに広い。注意して見極めているつもりでも、不可視の琴線に触れてしまう。
 逃げた。
 逃げた。
 逃げた。
 戦うために逃げた。こんな場所で捕まるわけにはいかない。必ず秘密を暴いて、子供たちを救ってみせる。
 そうして――どれだけの時間が経ったのだろう。
 ふらふらになるまで逃げ続けたつぐみは、小さな森の中にあった小屋に疲れを癒そうと忍び込んだ。外から遮断されたため緊張感が抜けたのであろう、幾ら彼女とは言え、疲労に蓄積が激しかった。軽く舟をこぐ程度の眠りのはずが、深い熟睡となっていた。
 ゆっくりと。
 回っていく。
 落ちる。
 下へ。
 底。
 。

 そうして目が覚めたとき、つぐみは昏い世界にいた。
 どうしてこんな世界にいるのかは判らないが、気付いたときには世界から切り離されていたのである。
 五感のすべては存在しながら、けれどそれを使えない状態。言葉を発しようにも、闇に溶けてしまう。何かを見ようにも、闇しか見えない。自分という存在は正常でありながら、世界が異常であるがため、自分も異常になってしまう。
 彼女は出口を探そうと、世界を駆け巡った。どれほどの大きさか判らないが、兎も角探し回った。
 右へ、左へ。何の脈略なく脚を進めるつぐみは、あるとき自分を見つめる視線に気付いた。あまりに小さく、そして弱かったため今まで気付かなかったのである。
 その存在を確かめようと、彼女は視線を投げた。
 あるのは闇。ただし、歪んでいた。
 きっと、いるのだろう。
 そう、直感した。眼で見えるものがすべてではないように、形あるものがすべてではない。――いや、この闇も“歪んでいる”という形を持っている。だが闇という概念に形はないはずである。では、これは何なのか。
 答えは、闇が答えた。
「初めまして」
 驚いた。声は透き通るようなボーイソプラノだったのである。だが、声を発したということにはさほど驚かなかった。或いはすでに気付いていたのかもしれない。この闇は闇ではなく、ひとつの生命体であるということに。
「少し話をしたいと思ってね」と、闇は言った。
「話?」
「うん。……あ、そうだ。僕も形がないと困るかな? 視線をどこに向けたらいいか判らないもんね」
 微笑するような声。
 つぐみは貌を顰めた。
「適当だけどね」と、前置きをし。「簡単に創るよ」
 そして、闇が形を成した。
 最初は歪みしかなかった“闇”は、まるで単細胞生物のように蠢き、収縮し、そして爆ぜていく。
 腕が生まれ胴が生まれ脚が生まれる。グロテスクなその光景を目の前にしながら、つぐみは一切引かなかった。
 何度も何度も衝突し、分裂し、結合を繰り返しながら、闇はつぐみの前に姿を現す。
 最後の慟哭が終わると、そこには一人の青年が立っていた。年齢は十五前後。髪も瞳も、そして服装さえも闇と同じ色をしている。柔和な顔立ちの反面、その服装が硬い印象を与えた。
 閉じていた瞼を見開き、そしてつぐみの姿を確認すると“貴方”は微笑んだ。
「初めまして、だね」
「そうね。それで何の用? 私、貴方に構っている暇はないの」
「大丈夫だよ。ここでの時間の流れは、現実世界にさほど影響を与えないから」
「さほど?」首を傾げる。
「うん。大体……十分の一かな。こっちでの一時間は向こうでの六分ってトコ」
「そう。それで、話は?」
「それは……ああ、最初に断っておくけど、これは夢なんだよ。だけどイニシアティブは僕が握っている。自分から終えることは出来ない。――それで話っていうのは、これからのことだよ」
 つぐみの表情が強張る。“貴方”は相変わらず微笑を浮かべたまま。
「これから、つぐみはもっと大変な目に遭うよ」
「断定なの?」
 うんと“貴方”は頷いた。
「どうして? 未来は不確定でしょ。どうして断定なんか出来るわけ?」
「簡単なことだよ。それは見てきたから。経験に勝る情報はない」
「……?」
“貴方”は表情を引き締めてつぐみを見つめた。
「つぐみ。これから君は、信じられない体験をするんだ。それがいつかは言えない。きっと僕じゃない僕がそう決めているから。僕としては言いたいんだけど、僕じゃない僕がそれを赦さないからね。流石に喧嘩はしたくないだろう? 君は今、ひとを信じていない。そしてこれからもそうだ。……だけどね、僕じゃない僕が願う“今”は、君がひとを信じてくれなきゃならない。最後の最後まで頑なに信じないというと、きっと哀しむのは自分だよ? 残念ながらその先を僕は識らない。けれど、確定している」
「どういう意味?」
「その時になれば判る。だけど、その時がいつ、と言えないのが辛いところだね。君はその時、信じられないだろう。驚愕するだろう。憤り、怒りが爆発する。それは確定している“未来”なんだ。様々な分岐点を通りながら、それは未来に何の影響を与えない。確定しているものを変化させるには、並大抵の力では敵わない。たぶん僕らが一丸となっても変えられないね。それほど未来は強固で確定しているから」
 そこで一旦言葉を切った。つぐみは難しい表情をしたまま、言葉の真意を汲み取ろうとしていた。だが理解してもらうには、もっと時間が必要である。だが、その時間はない。
「僕から言えることはそう多くない。だから、一言こう言おうと思う」一歩、後ろに下がる。「未来は変わらないといったけど、それはつぐみは行動しているからなんだ。不幸とか絶望って言うのは奇蹟の不安定同素体で簡単に変質してくれる。諦めたら終わりだと、誰かが言っていたね」
「ちょ、ちょっと待って!」
 いつの間にか“貴方”の身体は霞み始めていた。形が闇に溶けていく。再び概念へ昇華する。下半身はもう、闇と同化していた。
 きっと言葉は通じたんだと思う。時間があれば良かったのだが、この世界は即興で作ったものである。アレだけもては表彰ものだ。
 下半身から霞んでいく身体は、すでに胸の辺りまで闇の粒子になっていた。再び姿を現せるようになるまで、また数年掛かる。闇を形作るには莫大なエネルギーを必要とするのである。今回の世界も、今までに溜め込んだエネルギーを使って生み出したのだ。
「貴方は……誰?」
 彼女の問いかけに、“貴方”は驚いたような表情になると、天を仰いだ。つぐみもそれに倣う。
 世界は黒く昏い。
 単一の事象で覆われ、何の変化も望めない。“貴方”は眼を細めた。
「僕はには名前がない。世界に存在しない存在である僕に、名前なんて意味がない。だけど存在しているが故に、ひとは僕のことをこう呼んでいる」
 つぐみを見つめる。その瞬間、夢は終わる。なんの余韻も残さずに。
「――第三視点、ブリックヴィンケルと……」




  おわり




あとがき

 幻死の夢。読み方は「まぼろしのゆめ」
 文体が硬くなって仕方ないです。なんとかしてください(ぉ
 造語ブーム再燃だし。死街地とか幻死とか。

 この作品はFictional Air後編までのリリーフです。2月中には何とか。
 その前に別のが出来そう風味なんですけどねー(死



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