〜Infinity Air〜
                              みつばや


 その世界は黒で出来ている。
 遠近感も、濃淡も、起伏も、何も存在しない世界。それは無の世界とも呼ばれている。
 そこには何もない。質量も、座標も、時間も――そう言った概念は存在しない。
 何もないが故に平和で統一された世界。それが無。それが世界の始まり。
 やがて――平和が壊される。
 別宇宙から襲来した“何か”が無の世界を掻き乱し、攪拌させる。
 無であるが故に全ての事象を停止した世界で、それは耐え難い苦痛だった。
 人間の体に防衛機能が備わっているように、無の世界は自身の身体を硬化させる。
 全ての動きを封じ、物理法則を消し去り、再び安定と平和の世界を築き上げようとする。
 しかし、一度動き出した世界は止まることを知らなかった。
 “何か”が生み出した波動は世界の全てに行き渡り、全ての場所で同時に振動を開始した。
 それは徐々に大きくなっていき、世界の中心点で臨界を超えるのに、然程時間を必要としなかった。
 世界の揺らぎが集束する。世界の中心に向かって揺らぎが集まる。もはやそこは無ではなかった。無は、もうそこには無かった。
 揺らぎが揺らぎを引き寄せ、揺らぎが揺らぎを取り込む。そんな単純な行為を何度も続けていくうちに揺らぎは肥大化し、その振幅速度を徐々に減らしていった。
 そして、全ての揺らぎを取り込み、世界となった“揺らぎ”が放った波動が世界の端で跳ね返り、中心に向かってその速度を速めた。その波動は世界を剥ぎ取り――空間という概念がない以上説明し辛いが、カーペットを端から捲り上げたときのように――終に中心で一つになった。
 その瞬間、世界が産まれた。零次元の誕生である。
 初めて座標という概念を得た世界は、揺らぎの反発の中でその世界を広げていく。
 世界の中心で生まれた“点”は引き伸ばされ、“軸”となる。
 “軸”は横方向に引き伸ばされ、“面”となる。
 “軸”は縦方向に引き伸ばされ、“空間”となる。
 “空間は”並列方向に引き伸ばされ、“時空間”となる。
 その過程で生み出された無数の揺らぎが、再び世界の端まで移動し、跳ね返り、集束し、新たな“点”となる。
 一つの世界から産まれた“点”は無数に分裂を繰り返し、徐々にその範囲を広げていった。
 “点”が産まれ、“軸”となり、“面”にその姿を換え、“空間”と言う世界を持ち、“時空間”という完全体へ近づく。だがそれは、完全な非減数分裂ではなかった。
 世界は微細に“数”を減らしながら分裂を重ねていく。
 無から有へ。その過程で磨り減らされていったモノは時空間を歪曲させ、歪(ひずみ)を創る。
 数ナノメートルに満たないその隙間は、世界の端。全ての歪みの直線上にある事象の地平線。
 彼はそこに居る。“世界”を産み出した原罪がそこに居る。
 彼は全ての時空間に干渉することが出来る。故に――彼は神と呼ばれることがある。
 我々は彼を知覚出来ない。彼は我々の領域外に存在する。故に、我々が彼の存在を知るのは、彼が気まぐれに姿を現したとき。
 彼は一つにして全てのもの、全てにして一つのもの。この宇宙であり、別宇宙であるもの。存在する限り、無限の領域を彼は支配する。
 第三視点――ブリックヴィンケルというのは、彼に付けられた名前の一つでしかない。本当の名前は解らない。存在すら疑問視せざるをえない。彼は、そう言った世界には居ないのである。
 彼は気まぐれだ。彼はいつも世界を視ている。しかし、彼は何も憶えていない。何も知らない。何故なら彼にとって、我々の住む地球など、道端に転がっている石ころ以下の認識しか持っていないからだ。
 では、我々の存在を彼に知らせるにはどうしたら良いか?
 現在判っているのは三つしかない。
 最も確実な方法は、彼と同じ世界の“もの”に頼ること。彼と同じ世界に住み、同じ思考を持つ存在の助力を借りること。もしくは、彼と同じ世界に接続できる人間を使うこと。その人間を中継基地として、我々の意思を彼に伝える。或いは、知恵を振り絞って彼を騙し、この世界に呼び出す。この三つに限られる。
 しかし、我々が取ることの出来る選択肢は一つしか存在しない。
 我々は彼を騙す。持ちうる限りの知識と、人の粋を集めた技術を用いて、彼を騙す。
 それが唯一我々が取れる手段であり、最も“安全”な方法なのだ――



「――はい、そこまでいいわ」
 凛とした声が部屋の中で木霊した。
 その声を起点に、世界がゆっくりと再構築されていく。聴覚は空気の振動を正確に聞き取り、嗅覚は澱んですえた匂いを嗅ぎ取り、触覚は空気の微細な流れを感知し、視覚は閉じられている。そのため、彼女が世界から受け取る情報量は少ない。人は――とここでは言うが――世界の八割を視覚情報に依存する。瞼を落したとき、人は世界の八割を失うのである。しかし失うことは無ではない。再び手にすることが出来れば、失われた八割の世界を取り戻すことが出来る。
 彼女はゆっくりと瞼を上げた。長時間椅子に座っていたために関節が固まり、違和感を感じる。立ち上がって思いっきり伸ばしたい、という欲望を心の中に押さえ込み、彼女は正面に立っている白衣の女性を見上げた。
「もう、この程度でよろしいのでしょうか?」
「そうね……今日は確認だけだから」
 白衣の女性はそう言うと、瞼を落し、少しだけ表情を和らげた。
「けれど、自分で創り上げた論文なのに、こんなに複雑怪奇だなんて、思っても見なかった」
「私は素敵だと思います」
 彼女は言った。腰掛けた椅子から立ち上がり、確りとした視線で白衣の女性の瞳を見つめる。
「それに、とても美しいです」
「Danke.そう言って貰えると嬉しいな」
 白衣の女性は微笑って、それからポケットに忍ばせているサインペンで頭を掻いた。恥ずかしいときや、悩んでいるときによくやる癖なのを、彼女は知っている。その行為が微笑ましくて――そして嬉しくて、彼女も微笑んだ。
 と、不意に微笑っている二人の視線が中空で絡み合って、そして赤面した。
「なんだかな〜」
 そう言うと、白衣の女性はサインペンをポケットにしまい、部屋の端においてあるコーヒーメーカーからコーヒーを淹れた。聴覚がコーヒーの苦味を含んだ匂いを嗅ぎ取る。仄かな甘みも、ミルクの柔らかさも無い、ブラックコーヒー。彼女には刺激が強すぎて飲めないが、ブラックコーヒーを飲んでいるときの女性の表情はとても穏やかだった。その表情から、とても美味しいと言うことが見て取れる。
 室内は物が溢れ、散乱していた。おおよそ掃除とは無関係の部屋に長時間居ると神経が滅入ってくるのだが、彼女らは例外だった。
 片や研究に没頭する研究者。研究中は他の事が見えず、その為に掃除が疎か(おろそか)になっている――白衣の女性。
 そしてもう一人、どこかチャイナドレスを思わせる露出の多い服を着た、二十代前半の女性。室内の掃除は主に彼女がやっているのだが、それを上回る速度で部屋が散らかっていくのだ。潔癖症の気がある彼女は、いつも遠まわしに掃除をするように進言するのだが、いつの間にかはぐらかされている自分が居て、内心不満を溜め込んでいるのだが、一度もおくびに出すことは無かった。
 もちろん今も。
 そして、多分これからも。
 私は、この人には敵わないんじゃないか、そう思っている。だから彼女は白衣の女性の横に立つと、優しい笑顔を作るのだ。
「どうしたの?」
 白衣の女性は穏やかな表情のまま怪訝そうに聞いた。
「いえ」彼女は頭を振る。「ただ、何となくです。何となく、こうしていたいと思ったんです」
 小さな窓から日差しが差し込む。今日は雲が一つも無い快晴だった。蒼くて、遠くて、奇麗で、儚い、自分と同じ名前を持つ無限がそこに広がっている。
 “空”は少しだけ瞼を細めた。視覚センサーが地表に降り注ぐ太陽光線の紫外線割合を弾き出す。二十世紀後半から深刻化したオゾン層の破壊は、二〇三〇年をピークに再生を開始していた。だが毎年皮膚がん患者が増大し、過去の遺産によって苦しむ人間が多い。
 世界は多重螺旋構造を描いている。かつての神秘学者がそう言い、全ての事象は繋がっていると断言した。天災と呼ばれるものは、実際は人が招いた人災であると。突発的な地震も、竜巻も、神が人に対して忠誠度を試しているのだと。
 宗教に疎い空には良く判らないことだった。だが、天災もまた人災、という言葉にだけは同意することが出来る。
(明日も晴れですよね……?)
 光学センサーの倍率を最大まで上げる。見上げたソラの中に、今日も答えを探している。十数年前、結局出されることのなかった宿題の答え――あるいは、ヒントを。電気信号から生体金属を用いた最新の“肉体”を得た今も、同じ事を考えている。同じ事で悩んでいる。
 ――人とはなんだろう。恋とはなんだろう。
 空は、時々そんな取り止めも無い思考を廻らせるときがある。

 茜ヶ崎空――正式名称LM−RSDS−4913A。LeMMHIシステムの一プログラムとして設計された擬似人格プログラムの一種である。単独での起動は不可能で、LeMMHIシステムが身体の重要器官なら、空は末端の運動器官にあたる。それを独立したシステムに書き換えたのは、十数年前、今世紀初の一大惨事と呼ばれたLeMU圧壊事故の生還者であり、第三視点の仮説を纏め上げた、田中優美清春香奈だった。彼女はテラバイトディスクに残っていた空の情報を解析し、独立したプログラムに書き換えた。そして出来上がった空に肉体を与えた。
 空の肉体となる生体金属は、ライプリヒ化学金属社が二〇二六年に量産販売――ほとんど受注生産の特別品だが――した物を利用している。
 SFの世界ではポピュラーな代物だが、現実の世界で生体金属など夢のまた夢だといわれていた。だから、ライプリヒ化学金属社が発表した生態金属――LNCを発表したとき、世界は技術の進歩に度肝を抜かれたのは言うまでも無く、裏に隠されている何かを探ろうと考えたのも、また事実だった。
 生体金属は生きることが出来ない。これが統一された見解だった。優れた耐食性と生体親和性の故にチタンは生体金属材料として良く利用されていたが、その利用は限定的なものに限られていた。何故ならチタンは融点が高く、しかも高温では化学活性が強くてほとんどの耐火材や研磨砥粒なんどの酸化物を還元して自らは酸化物になるので、鋳造、研削、研磨が容易でないからである。
 その点LNCは、その心配が全く必要としない。何故なら、LNCは“生体金属”と銘打ってあるが実際は人間の肉体そのものであったからだ。何故このようなものが出来たのか――全ては謎に包まれているが、ライプリヒの取材を続けているジャーナリストの間で頻繁に現れた単語がある。それは『C』。だがそれが何を指しているのかは、誰にも判らなかった。
 ――そう、LNCは『C』の――キュレイウィルスの力を持って開発されたのである。
 免疫力・身体再生能力の超活性化及びテロメアの永久回復などの身体的特徴を発現させる。いわば「不死の肉体を作るウイルス」。この力により、過度の栄養失調下でも生きることが出来、あらゆる腐敗から護られているためにメンテナンスが容易だった。
 空の肉体にはキュレイウィルスが宿っている。そのことについて哀しいとか、怒りを感じているとか、そう言ったことはないのだが。
 肉体を持ってから四年が経つ。最初は戸惑ったものの、最近ではそういうことは全く無くなった。歩くときも転ばないし、力加減を間違ったりもしない。けれど、何かを忘れていた。大切な何かが欠けていた。空はいつも、何かを探していた。
 空の情報を書き残したテラバイトディスクは、実は空の全てをコピーできていなかったのである。余りに膨大で、巨大な空を構築する情報は、テラバイトをほんの数ギガ超えていた。そのため、空の記憶は一部不鮮明なままだったのだ。
 人とはなんだろう。恋とはなんだろう。
 あの時、絶望という海の下に閉じ込められた、あの日――初めて『好き』という感情を生み出してくれた、彼の言葉。彼の答え。名前も、仕草も、温もりも、全て覚えているのに、答えだけが霞みのように掴めなかった。
 ココロの疼き。それを感じたのも、肉体を持ってからだ。生体金属は表皮部分にしか使われていない。記憶装置、骨格、循環器、一部の筋肉は金属を利用している。だから、本当はココロの疼きなど感じないはずなのだ。それは中央演算処理機の生み出すノイズでしかない。冷たいココロは、疼きなど感じない。
 それでも――ココロは暖かい想い出を持っている。そう思うから、そう思っているから、今日も空は同じ名前を持つ無限を見上げる。
 人とはなんだろう。恋とはなんだろう。
 今日も、失った何かを探す問いを、彼女は続けている。



         ◇



 失った物は、二度と還ってこない。
 そんなことは判りきっていた。だから、これは足掻きだ。神に対する、最後の足掻きだ。
 田中優美清春香奈は、カップの底で澱んだコーヒーを一気に飲み干した。カフェインが血中を廻り始めたのが、頭の中がクリアになっていくのが判る。
 机にカップを置き、ちらっと横に視線を向けると、空を見上げる空が居る。
 あ、どっちが“空”で、どっちが“空”なんだろう? そんなささやかな疑問が浮かび上がり、春香奈はクスリと微笑った。その表情は幼く、まだ十代といっても通じそうなほど可愛さを孕んでいた。
 空は最近悩んでいる。それは端から見ても明らかだった。恐らくその原因は、記憶の不整合なのだろう。
 春香奈は瞼を落とした。黒い世界の中で、また空に詫びた。今更言っても遅いのだろうけど、けれど、言わなければならない贖罪。テラバイトディスクに記録されていた空は完全ではなかった。そのことを、ずっと隠していたいたのは自分だった。
 最初に異変に気付いたのは、プログラムを解析しているときだ。最後の部分が中途に終わっていたのに気付いたのは、全くの偶然だった。あるいは、親子だからこそ判った差異とでも言うのだろうか。それはともかく、空のプログラムは一部欠如していた。それがどの部分なのか、春香奈には判らなかったが、空の様子を見る限り、とても重要な場所なのだろう。とても心が痛んだ。だから、空は自分の傍にいさせようと思った。それが僅かばかりの贖罪になるのなら、そして、多少なりとも自分がその手伝いが出来るのなら。そう思った。
 空を私用で使うことにライプリヒ上層部が許可したのは、気まぐれでも何でも良かった。どんな理由であろうとも、制限無く使えるというだけで春香奈は満足した。それ以上のことは求めなかったし、期待もしなかった。
 初めて空を自分の一室に招待したとき、彼女はまだ肉体に慣れていなく、よく転び、そしてよく壊した。素直ですぐに謝る空を「気にしないで」と春香奈は微笑って言った。「慣れていないんだもの……仕方ないよ」
 その夜、春香奈は記憶のことを話した。知っていることを全て、隠さずに。その時の春香奈は少し泣いていた。自分の不甲斐なさに涙を流していた。
「心配しないでください」
 泣き続ける春香奈を抱きとめて、空は優しく言った。
「大丈夫です……私は、見つけて見せます。だから、田中先生? 一緒に探してくれませんか? 私は先生の研究を手伝います。先生は、私の記憶を探すのを手伝ってください」
 それから二人ずっと研究を続けている。IBFでハイバネーション状態にいる二人を救うために。つぐみと、その双子の子供を救うために。持ちうる全ての知識と、つぎ込めるあらゆる技術を用いて、彼を騙す。
 この事件の原因となった存在。
 世界を作り出した原罪。
 ブリックヴィンケル――その存在を。

 春香奈はポンと空の肩を叩いた。
 空は微かに首を傾け、なんでしょうか? と言いそうな表情で振り返った。
「外に行かない?」
「外ですか? でも、紫外線が……」
 身体の心配をしてくれる空に少しだけ苦笑すると、春香奈は空の背後に回りこんで背中を押した。
「大丈夫よ。UVケアクリームは塗ってあるし、この白衣、遮断率は九九・九九九九九九九九九九九九九九九パーセントだから」
「凄すぎですよ」空は唇に手をやって苦笑した。「一体、どんな素材を使ってるんです?」
「太陽星人ね」春香奈は答えた。「彼らは、太陽で暮らしているから紫外線対策は完璧なの」
 その答えに、二人同時に笑い出した。

 研究室を出て、長い廊下を歩いて出口から外に出る。
 山の中腹に出来たこの研究所は周囲を森で囲んでいるため、人の気配が少なく、落ちついて研究ができる場所だった。尤もそれは、研究環境を整えるだけではなく、情報漏えいを恐れたライプリヒ側の思惑もあった。山中、しかも研究所に通じる道は一つしかなければ、進入ルートは限られる。しかも周囲には野生のハブが生息しているため、よほど死ぬ気でなければ獣道を通ろうとしないだろう。野生のハブは縄張り意識が非常に強く、凶暴で、研究員が噛まれたときのために救護室には何種類か血清が用意されている。今のところ、一度も使われていないが。
「いい天気ね」
 春香奈はうんと背を伸ばし、肺に新鮮な空気を送り込んだ。気分転換に外に出るのは、ブラックコーヒーを飲むのと同じくらい効果があった。
「はい。気象庁の三ヶ月予報では、今月は良いお天気が続くそうです」
「そっか」
「ええ。洗濯物が良く乾きますね。それに、お掃除日和が続くのも、いいですね」
 その言葉に、春香奈は苦笑する。
「それはそれは」
「はい」空は笑顔で言った。
 それからしばらく、二人は研究所の敷地内を散歩した。
 同じように気分転換をしている何人かの研究員と眼が合って、軽く挨拶を交わす。その何人もが疲れているようで、眼の下に隈を作っていた。
「先生、寝不足であんな隈を作ってはいけませんよ? 女にとって隈というのは……」
 何処で習ったのか、空はよく容姿に関して口が煩い。しかし、こんな研究所で容姿に気遣ってどうするのだろう? と春香奈はいつも疑問に思っていた。
「女は何時も勝負なんです。倉成先生がそう仰っていました」
 その言葉で全ての疑問が融解された。
 あいつか、と思う。確かにあいつなら、そういうことを言うだろう。全く、ありがた迷惑だ。こっちはあんたを助けようと躍起になってるのに……。そんな皮肉に、春香奈は少し顔を引きつらせる。
「いつもは……ちょっと。私はどちらかといえば、一点突破型だから、力を分散させないの」
「それってもしかして、私はいつも媚び売ってるってことでしょうか?」
「そうとは言ってないわ。けど、空がそう思うのなら、そうなのかも」
「………」
 空はムッと表情を固める。
「あ、怒った?」
 笑いを堪えながら春香奈は言った。どうやら“今日”は、私の勝ちらしい。
「怒ってません。……それに、怒ることでもありませんから」
「へぇ?」
 極めて大人っぽい態度を取った空に、春香奈は少し意地悪っぽい笑顔を浮かべると、ポケットからサインペンを取り出して空のほうを突いた。ぐりぐりと捏ね回す。
「っちょ、田中先生っ!」
 驚いた空は慌てて飛びずさり、怒ったように春香奈を睨んだ。
「もう、田中先生ったら、時々子供っぽいことするんですから……」
 サインペンをポケットにしまいながら、春香奈。
「そお? 私はいつも若いわ」
「………」
「ごめんなさい。あんまり笑えるネタじゃなかったわね」
「はい……」
「少年――桑古木の記憶喪失ネタは使えたのにね」
 春香奈は残念そうに言った。そんな姿に、空は苦しそうに笑顔を作り、
「仕方ありませんよ」
 そう答えるのが精一杯だった。
「俺がなんかしたのか?」
「あ」
 遠くから響いた声に、二人は同時に振り返った。視線の先、丁度逆光を受ける形で一人の青年が立っていた。
 LeMU圧壊事故の生還者の一人、桑古木涼権である。身長は二十センチほど伸び、あのときの幼さは微塵も残していない。態度も、仕草も、大人のそれに変貌していた。
「別に? ところで、何の用?」
 涼権の質問を軽くはぐらすと、春香奈は涼権を正面に捉えてポケットに手を差し込んだ。空は彼女の隣でぺこりと一礼すると「おひさしぶりです」と言った。「こっちも」と涼権は言った。その仕草は、何処と無く武を連想させた。
 空は軽く頭を振り、その思考を追い払った。似ているだけだ。そう自分に言い聞かせる。
「なんとなく、じゃ、ダメ?」
「だめ」
 即答だった。涼権は顔を顰める。
「冗談だって。さすがに俺も、気晴らしに遊びに来る奴じゃない」
「どうかな?」
「ホントだっての!」疑惑の視線を送る春香奈に怒鳴ってから、涼権はコホンと咳をつき、一拍置いた。表情に真剣さが滲む(にじむ)。「計画の方、どうなんだ? 俺のほうは大体進んだが……」
 その言葉に、春香奈と空は同時に頷いた。
「ええ、順調よ……あとは時が来るのを待つだけ」
 それと、空の記憶を完全にすること、と彼女は続けた。
「大丈夫なんだよな?」涼権は聞いた。彼はずっと、この計画に懐疑的だった。「ココは……武は助けることが出来るんだよな」
「もちろんよ」春香奈は断言した。その表情が苦しそうに歪んだのは、武のことを思い出したからだろうか。「そのために、十年以上も頑張ってるんだから」
「けどよ、全てが順調に行くわけじゃない」
 その涼権の言葉は、春香奈にも理解できた。
 彼は不安なのだ。自分以上に、誰よりも。計画では、涼権がLeMUに入り、月海と、沙羅と、ホクトと、空を騙す。そして、BWを召還させる。彼が失敗すれば計画は全て水の泡だ。だから、涼権は必要以上に神経質になっている。
「そうね」春香奈は頷いて、けど、と続けた。「ライプリヒの悪行をマスコミにリークしようにも、マスコミの大半はライプリヒの息が掛かってる。簡単に行くはずが無いわ」
 風が吹いた。山峰を降りてくる夏の風だった。微かに松の甘い匂いを含み、適度に湿っている。ソラと、大地と、人を包み込む風はゆっくりと世界に充満し、その存在を世界に刻んでいく。
 春香奈はそんな空気を吸い込んだ。肺が甘い匂いで支配される。
「世界は奇麗ごとばかりではない……そのことは良く判ってるだろ?」
「ええ」
「いつだって失敗の可能性は否定できない」
 涼権は言った。それからしばらく、二人の間を沈黙が支配した。
 無ではない、有の停滞。そこには世界がある。空間がある。時間がある。けれど、そこは停滞している。そんな矛盾。初夏の風のような、爽やかなアンヴィヴァレンス。
 雲が流れる。蒼いキャンバスの中で、その部分だけ色が抜き取られている。それが春香奈の上に差し掛かったとき、ようやく彼女は口を開いた。
「でも、私達はそんな奇麗ごとを実行しようとしてる……それは、とても素敵なことだと思わない?」
 そう言ってにやり、と微笑った。
 難しい顔で睨んでいた涼権の表情も、それで和らぐ。
「ああ……そうだな」照れ隠しで頭を掻きながら「全くその通りだ。否定する場所なんて何処にも無い」
 優美清春香奈が微笑った。
 涼権が微笑った。
 つられて、空も微笑った。
 夏の日差しの下で、三人は、絆と、信頼と、希望を確認し合った。絶望の元に集ったあの絆の形を、今、再確認した。
 世界は絶望に満ちている。助かる命と、そうでない命は明確に線引きがされている。
 奇蹟は無い。
 福音は無い。
 けれど、希望があった。
 全ての物理法則を超越し、あらゆる時空間に結びつき、世界の事象を常に見守っている存在――ブリックヴィンケルの助力がある。それは最後の希望であり、事象の起点であり、世界の原罪だった。二人の命を救うため、人類史上類を見ない茶番を繰り広げようとしている。
 観客席はない。ゲスト用の一名分があるだけ。だがそのゲストが姿を現すかどうかは、全て台本と演技力が物を言う。
「やるしかないのよ」
 春香奈は言った。その言葉に、二人はうんと頷く。
 季節は夏。蒼い空、白い雲、熱を帯びた駆け抜ける風が世界を支配する。
 不意にメモリーから情報が引き出された。それは空の中央演算処理機の中で、明確なヴィジョンとなって映し出される。音声は無い。あるのは、あの時の映像だけ。その中で、倉成武は確かに微笑んでいた。
(倉成さん……)
 空は視線を上にやった。昨日と同じに見えるソラがそこにある。けれど、それは同一ではない。微小に変化を繰り返しながら、その空は広がり続けている。昨日も、今日も、そして明日も。ソラは止まることは無い。ソラはいつもそこにある。ソラは無数に偏在している。
 自分と同じ名前を持った無限を見上げ、空は陽光を遮るように眼を細めた。
 もしかしたら、これが答えなのかもしれない。そこにあること。無数に偏在していること。それはきっと“空”にだけ許されたたった一つのもの。かけがえの無い何か。
 人とはなんだろう。恋とはなんだろう。
 失われた記憶に存在するもの。今は少しだけ、それが判ったような気がした。けれど、それがなんなのか、言葉に出来ない。
 言葉に出来ないもどかしさと。
 言葉にしたくないココロの疼き。
 きっとこれは、言葉にしてはいけないのだ――そう辿り着いた瞬間、突然理解した。何故か、突然理解できた。
(こういうことだったんですね……倉成さん)
 蒼の向こうに青が見える。空の向こうには、何が見える? 考えの向こうには、何が広がっている?
 さあ、どうしようか。
 さあ、何をしようか。
「空ーっ、部屋に戻るわよ」
「あっ、はーい」
 春香奈に呼ばれて空は駆け出した。横で涼権が腕を組んで待っている。
 と、突然風が靡いて空の髪をさらっていこうとする。慌てて立ち止まり、風の行方を追った。
 風の辿り着く先――それは、自分と同じ名前を持つ無限だった。
「あ……」
 言葉が漏れた。ほとんど無意識的に手を伸ばす。多分――いやきっと、風の中の何かを掴んだ。
「どうしたの?」
「……っえ? いえ、なんでもありません。ちょっと、風が強かったもので」
 掴んだ何かを優しく包んだまま胸元に寄せ、手を開く。けれどそこには何も無かった。
 無限に広がる空。その向こうに居る、彼。
 空は見上げた。自分の同じ名前を持つ無限を。
 そして祈った。また倉成武と、八神ココに再会できることを。
「空ったらー」
「あ、はい、すいませんー」
 空は慌てて言うと、ソラに向かって、ささやかで、静かな奇蹟を祈った。











あとがき

 三時間で20KBなのは結構早いです。前の「或る週末/去る終末」は5時間で20KBだったのでやたらとスピードアップしましたね。

 はじめまして、あるいは久しぶりです。みつばやです。ヘタレモノカキしてます。
 今回は自分なりの考察を入れてみたつもりです。まあ、あんまりな出来なのでどうしようかと。
 序盤でOPの文字無視してるあたり、どうしようもないですね。あんたは喧嘩売ってるのかと、問い詰められちゃいます。
 やっぱり、考察ってニガテです。だから、頑張ってください。自分はそうして他人が導き出した答えの一つを使うだけです。恩恵をうけておきながら何も返せないのが悔しいですが。

 今回は雰囲気重視。特に後半。前半はそんなでもなかったけど。
 本来、自分は雰囲気重視なんですよね。フィーリング。そんな風に書いてるから考察系が書けないんです(死
 ごめんなさい。精進します。

 それではみつばやでした。




2002


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