〜天使の憂鬱〜
                              みつばや


 銀糸のような雨が降る。
 時々、ガラス窓を叩いて硬質な音を立てる。
 私はそんな午後の憂鬱が好きだった。
 何もせず、何も考えず、ただ地球の自転に乗りかかって、時間の移ろいを見続ける。その行為が。
 ほぅ、と吐き出された息は大気に攪拌され、もうその姿を見ることは出来ない。僅かに窓を白く染める。
 指を当て、引く。つぅっと、透明な直線が現れる。そこから見える前庭には、沢山の水溜りが出来ていた。
 学校の連絡路。新校舎と旧校舎を繋ぐその場所は、私の一番のお気に入りの場所だった。
 右手を窓に当てる。ひんやりとした冷たい感覚が、掌から進入してくる。今度は左手を。
 窓を跨いだ外の世界は綺麗で、ココロの中に創られた深く透明な世界の水鏡。片方が澱めば、もう片方も澱む。そんな相互関係。そんな幻想。
 授業という権利を終えた学校は静かで、何処か物寂しさを感じずにはいられない。休み時間に響き渡るあの喧騒も、教師の催眠音波も、この世界にはなかった。何もなかった。誰もいなかった。私は一人だった。ずっと前から、私は一人だった。
 前触れもなく胸に浮かび上がる焦燥を、私は抱きしめた。苦しいとか、痛いとか、そんなことは何もないのに。
 晴れ。曇り。雨。雷雨。雪。霙。空は、様々な表情を見せる。だけど、それから感じられるのは、一つしかなかった。
 それは――憂鬱。晴れの日も、雨の日も、雪の日も、空は憂鬱を抱えている。
 私は窓から手を離し、長く暗い廊下を歩き始めた。
 カツンカツンと、リノリウム張りの廊下と上履きが叩き合い、音を拡散させ、集束させている。
 しめっぽく濡れた廊下の摩擦係数は限りなく小さい。気を緩ませれば、簡単に転倒してしまう。そんな場所を、私は一歩一歩踏みしめるように、昇降口へ向かっていった。
 一階に降りる。そこの窓から見える世界は、二階からよりも近く、そして狭く感じる。廊下は同じように濡れ、転びやすい。
 雨は止むことを知らないようで、高い音を立てなから空間を満たしている。
 止むことを願って覗いた窓の先に、私は正門から昇降口に向かう人影を発見した。
 窓に歩み寄って、その姿を確認するまでも無い。
 赤外線視力によって得ることが出来る世界は、温度差のみの純粋な世界だから。
 周りが暗く視え、人影だけが明るい。それは私のよく知る人物だった。
「あ……お兄ちゃん」
 見遣った視線の先で、お兄ちゃんが傘を片手にこちらに向かって来ていた。

「どうしたの?」
 昇降口に辿り着くなり、私は疑問を口にした。
「優がさ、傘ぐらい届けてやれって」
「なっきゅ先輩、お節介だからね」
「面倒見がいい、ともいうけど……」
 何処か照れながら、お兄ちゃんはしなやかでスラリと伸びた細い腕を伸ばし、私に傘を差し出した。
 黄色の、大き目の傘。何のプリントも、模様のついていない、シンプルな傘。機能面のことしか考えてなさそうな、そんな傘。
「ほら」
「あ、ありがとぅ……」
 傘を受け取り、お兄ちゃんを見上げる。金色の髪が湿度をたくさん含んで垂れている。いつもは跳ね上がった髪も、今日だけは素直だった。
 私はこの傘を差して、家まで帰るのだろうか。だとしたら、それはとても哀しいことのように思えた。髪は素直になっている。なら、もしかしたら、性格も素直になっているのかも知れない。そんな想いを私は抱いた。
 お兄ちゃんは後ろを振り返り、足を踏み出そうとする。私を意を決して傘に潜り込んだ。
「あ、沙羅っ」
「いいじゃない」
 傘を抱えたまま、私はすぐ隣にいるお兄ちゃんを見上げた。
 心臓の音が聞こえるくらい、すぐ近くにいる。
 シャンプーか、それとも香水か、仄かな匂いが鼻腔をつく。心臓がドキンドキンと高鳴る。
「全く……」
 苦笑するお兄ちゃんは拒絶しなかった。
 それがとても、嬉しい。
「まあまあ、男は女を護るものでござるよ?」
 いつもの調子で話しているつもりなのに、言葉が震えていた。
 気づかれなければいい。そう思った。だから、
「そうだけど……ま、いっか」
 半ば諦めたお兄ちゃんに向かって、私は「行こっ」と促した。

 鳩鳴館女子高等学校の制服は湿気のはけが悪く、よく蒸れる。特にこんな、梅雨の季節には。
 雨は嫌いじゃないけど、蒸れるのは嫌いだった。だって、キモチワルイから。
 どうして制服って、こんなに蒸れるのだろう? 冬の制服にしたって、少し動くと汗が滲んでくる。そうすると蒸れて蒸れて大変だった。まさか男子みたいに、気軽に脱げるわけじゃない。……まあ、男子校の生徒はすぐに脱ぐって言うのは聞いた話だけれど。
 ぽちゃん、と小さな水溜りが波紋を作る。水が跳ねる。靴を濡らす。
 私たちは無言のまま歩いていた。雨の音が強く、耳に残る。しとしとと、静寂を伴った雨ではない梅雨の雨は、どの季節にも属さない、特別な雨だった。特別に、私の心を沈ませた。
 霧のように立ち込めた湿度が粘膜に張り付いて、息苦しささえ感じる。
 お兄ちゃんは何を考えているだろう? 私は盗み見るように横を伺った。
 高いところに傘がある。それが私を雨粒から護っている。兄ちゃんの腕は思っている以上に細く、華奢だ。だけどそこから生み出される力は誰よりも強いし、誰よりも優しい。
 突然お兄ちゃんが視線を落とした。中空で視線が絡み合う。私は慌てて視線をそらした。心臓が今更のように仕事を再開させる。
「ねぇ、お兄ちゃん?」
 黙っているのも不自然なので、私は当たり障りの無い話題を振ることにした。
「なんだ?」
「学校のほう、最近どう?」
「普通……かな」
「普通、じゃわかんない」
 少し拗ねたように見上げると、お兄ちゃんは困ったように苦笑した。
 カバンを持ったほうの手で頭を掻くと、思案するように空を仰ぐ。
「……そんなこと、言われてもねぇ」
「難しいことじゃないでしょ?」
「確かに。仰る通りで」
 お兄ちゃんは肩を竦める。それを見て、私は少し笑った。
「楽しいとか、嬉しいとか、つまんないとか、いろいろあるでしょ?」
「ある」と頷いて「楽しいかな、やっぱ。授業は憂鬱だけど、休み時間にバカ騒ぎするのは好きだし」
「馬鹿すぎる?」
「バカ騒ぎ」
「あー、なるほどなるほど」
 私は納得した。馬鹿すぎるっていったいどういう意味なんだろう、って。それは私の聞き違いだったのだ。
「どんな想像してたんだよ……」
「秘密でござる」私は微笑った。
 相変わらず、雨は降り続く。
 DVDをエンドレスで流してるみたいに、切れ目なく降り続ける。
 大地を叩いた雨粒は細かい微粒子となって、風に吹かれる。
 雨の日は駅前を歩く人影は少ない。そのため、擦れ違う人は疎らだった。だけど、その人たち全員が擦れ違い様振り返ってくる。好奇の視線を向けてくる。
 擦れ違う人たちは、私たちをどんなに風に見ているのだろう? 考えて、顔が熱くなった。
 恐る恐るお兄ちゃんの貌を覗き込むと、微かに赤く色づいた唇は横一文字に結ばれて、ピクリとも動いていない。傘を掲げた右腕も動かず、私を雨から護っている。切れ目の双眸が前を見つめていた。その目元は、少しだけ私に似ている。
 私たちは二卵性双生児の兄妹だ。だから、姉弟と表記してもいいはずなのに、どうして私が“妹”なのか。それは心の奥底、海の中心部で護られているように耀く淡い琥珀――その中に答えがあるのかもしれない。
「そういえばさ」
「うん?」
 思い出したようにお兄ちゃんが言った。
「沙羅が通ってる学校って、大きいなってさ」
「おっきいよー。私がまだ、行ったコトない場所だって沢山あるからね」
「忍者なのに?」
「忍者は関係ないー、でござるぅ〜」
「そうでござるか?」
「ニンニンでござる」
「ござるござる」
 噴き出すようにお兄ちゃんは笑った。
「なにー?」
 私もつられて笑ってしまった。
 相合傘をしたまま笑いを飛ばす男女。こういうのを、一般的にはカップルと呼ぶのかもしれない。
 私はそう判断した。
 そう……決めることにした。
 その時、駅ビルの大きな影が、私の視界に入ってきた。

「それじゃ、先に家戻ってて」
「あれ? 一緒に帰らないの?」
 お兄ちゃんは傘を差したまま、雨の中で立っている。
 私は取り残された気分になって、胸が萎んだように痛んだ。
 雨脚が微かに強まる。雨音が、構内に反響していた。
 僅か数センチの境界線が、私たちの違い。
 私は枯れた世界に。
 お兄ちゃんは雨の世界に。
「うん。優にね、呼ばれてるんだ」
 そう言って照れたように頬を薄く染め上げた。
「そう、なんだ……」
 多分、私は冷静に返せたと思う。表情が歪んだのは、お兄ちゃんに気付かれなかったと思う。
「だから。……まあ、遅くなる前には帰れると思うから」
 お母さんに伝えておいてよ――そう言って、お兄ちゃんは雨の世界に駆けて行こうとする。
「お兄ちゃん!」
 何故か泣きそうな声が漏れた。全然、哀しいなんて思ってないのに。
「ん?」
「あのね、その」言いたい言葉は些細なことなのに、口にするのが躊躇われた。一回、大きく息を吸う。それから言葉を紡ぐ。「ちゃんと、帰ってきてよ?」
 その言葉の中に『待ってるから』という意味があったのを、お兄ちゃんは気付いてくれただろうか。
「判ってる」いつも、お兄ちゃんはそう言ってくれる。「それじゃ」
 微かに水飛沫を上げて、お兄ちゃんの背中は雨の中に溶けていった。
 それから、私はたっぷり十秒数えて空を仰いだ。
 やっぱり空は曇っていて、大粒の雨が降り続いている。雲の切れ目は僅かもなく、晴れ間が見える気配すらない。
 雨はずっと降り続いて、大気を廻る色々なものを洗い流していく。
 哀しいことも。嬉しいことも。楽しいことも。雨の前には、全てが平等だった。何の判断基準も存在していなかった。
 冷たいコンクリートを叩く雨の音。
 ビニール製の傘を叩く雨の音。
 色々なものを洗い流していく雨の音。
 私はもう一度、大きく息を吸い込んで、その世界と音を体内に閉じ込めた。
「さて、帰りますかな?」
 私は決心したように呟き、改札口に向かって歩き出しながら、

 お兄ちゃんが帰ってきたら、なっきゅ先輩と何をしたか問い詰めてやろうと思った。




あとがき

 沙羅の性格が穏やかです。
 まあ、こんな感じで。

 雰囲気は通常の200%増しです(ぉ




2002


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