〜ゆう〜
                              みつばや


 一途な想いは澄み渡る空のように煌いて、そして永遠を感じさせるほどに遠い。
 短期間で浮かび上がった感情は汚れを知らず、ただただ夢を追いかける乙女の如くに純粋。それ故に傷つきやすく、それ故に壊れやすい。どう触れればいいのか判らず、けれど手放せる勇気すらない。停滞。そう、停滞だ。右にも左にも行けず、立ち止まったままその行く末を見送ることしかできない。そして姿が見えなくなったところでようやく後悔するのである。
 ――そう、それには届かないのだ。だから、美しい。だから、永遠。手に入ってしまえば、自らの手垢によって穢されてしまう。本来あったはずの耀きは失われ、醜く澱んだものだけが残る。
 自らが浮かべた思考に苦笑を浮かべ、彼女は遠く海原へ視線を投げた。
 風。南より渡ってくる熱い風が彼女の前髪を揺らす。深い赤茶色に染まったそれは、なんの反旗を翻そうともせずに弄ばれる。上空を過ぎ去る風は灼熱の余波を彼女たちにもたらし、何の余韻も残さぬままに還っていく。――空へ。日差しは夏を連想させ、潮の深い匂いはここが船上であるということを再認識させてくれるに十分だった。
 そう、ここは船上なのである。譬え波に揺れず、そしてひたすらに渇いた空気が流れていようとも。ここは船上なのだ。間違えようがない。何故ならば、自分がこの船を手配したのだから。
 わざわざ確認する必要のないことを一々確認して、彼女――田中優実清春香菜は嘆息を漏らす。手すりに体重を預け、船体が切り裂く海面を見遣った。白く泡が吹いているのは、空気を内包させたがためだ。本来なら無色透明なはずの水が青く見えるのは、光の散乱のせい。赤よりも青のほうが波長が短く、水中――或いは大気中に含まれる元素やら分子に乱反射を引き起こさせ、それを網膜が感じ取って視神経より脳へ送る。そして脳が、それを『青』と認識するのである。
(本当、関係ないこと……)
 気が抜けたのかもしれない、と彼女は思った。長く続いた計画がようやく終わり、気が抜けてしまったのだ。尤も、原因はそれだけではなく複数存在していたのだが、彼女には関係のないことだった。これから計画の後始末が残っていると思うと、それだけで気が落ち込む。まるで海へ鉄を落としたかのように、海底まで着底してしまいそうになる。
(――それでも、私の仕事はまだ終わってないのよね)
 瞼を落とし、進入してくる光子に網膜へ闇を焼き付けさせた。こうする事によって、彼女の精神は幾分落ち着くのである。
 一秒、二秒……。どれほどの時間が経っただろうか。突如として聞こえた足音に。瞼を引き上げる。斜陽が開き切った瞳孔へ差し込み、視界を白濁させる。さして時間を必要とせず、視力は元に戻った。嘆息する暇も与えぬよう、彼女はその音源へ視線を遣る。
 ――居た。
 風に靡く髪を押さえながら、自らと同じ遺伝子を持つ、もう一人の“ゆう”がそこに立っていた。表情は俯き、元々色白だった貌に深い陰影をつけていた。それでも美人の類に入ると思うのは、親馬鹿たる所以だろうか。或いは、客観的事実に基づいた考えなのだろうか。否。そんな事は関係ないのだ。重要なのは、今、目の前に娘が立っていると言うことであって、それ以外の何者も問題ではない。
「お母さん」
「………」
 母は答えられず、娘の瞳を見返すことしかできない。
 何を言うべきなのか。
 何を教えるべきなのか。
 言うべきことは多々あった。教えるべきことも同様に、数多く存在していた。だが、何処から話せば良い? どのように話し始めたら良い? それが判らない。だから恐い。未知なる物への恐怖心。それは、ある種の感情に酷く酷似していたことに、彼女自身気づかぬままだったが。
「話、してくれるんでしょ?」
 その直後、風が凪いだ。
 それは偶然だったのか、或いは神の起こした悪戯なのか。それは判らない。判らないが――凪いだ。本来なら凪ぐはずの無い風がないだのである。海鳥もここでは飛ばない。まして、新型の駆動方式を採用しているこの船に、動力音などする筈も無かった。だから、ここは無音。あらゆる音はかき消され、二人のための舞台となった。
 僅かばかりの潮の香りが鼻腔を突く。それすら、彼女の決心を固めるに至らなかった。
「うん」
 一応、頷く。
 それを見てから、娘は話し出す。
「私は、いろいろ知りたい。知りたいことがたくさんある。全部は無理だけど、だけど、いつか聞くから。……今聞こえることは、ここで聞くことにしたから」
 話の端々に、まだ質問すべきことを決めかけている節が聞いて取れた。
 ――やはり。彼女は気持ちを鎮めさせる。娘も悩んでいるのだ。自らと同様に。或いは、自分以上に。
「お母さんは」
 凛とした声が鼓膜を震えさせる。自分と同じ声。だがしかし、少しだけ音程が高い。
「私を、私だと、見てくれてる?」
「え?」
 意図を捉えかねた。
「私は、私よ。田中優実清……秋香菜――」
 鳴きそうな声で、娘は続ける。
「お母さんは、春香菜。名前は似ている。けど、別人。なのにお母さんは、“ゆう”だって」
「………」
「どっちが“ゆう”なの? お母さん? それとも、私? そうじゃなかったら、両方とも――二人とも“ゆう”?」

 田中優実清秋香菜が生まれたのは、今より十九年前の、秋もその密度を増し始めた季節のことである。
 体重三千二百グラム。母胎から生まれた直後より盛大に泣き、元気この上ない、もう一人の“ゆう”の誕生であった。
 その“ゆう”につける名前は、一つしか存在していない。これしか決まらなかった、と言っても良い。
 ――秋に生まれたから、秋香菜。私の娘、田中優実清秋香菜。短絡的と言われるかもしれない。それでも、彼女はこの名を付けた。愛した。
 だが、彼女には父はいない。何故ならば、娘は自らの細胞から作られたクローンだからである。
 重度の心臓病を患い余命幾許と宣告された直後、彼女は生きる意欲を失い惰性から来る日常と、時折襲い掛かる死の痛みから逃げるように生き続けていた。否。あの状態を“生きる”というには、余りに喜劇的だ。言うなれば地獄であった。生き地獄である。
 何度、自ら命を絶とうと決意したか。その度に聞こえる幻聴が、彼女の決意を掻き消していた。――今にして思えば、あれはブリックヴィンケルの叫びだったのではないか、と思う。この日、この為に自分は生かされたのか?
 だがそれは、明確な答えの出現によって打ち消される。
 絶望のまま行き続けた矢先、一人の科学者によってその人生を大きく軌道修正されることになる。名を守野茂蔵という。世界でも著名な、遺伝子工学者である。彼との出会いが、春香菜の人生の転換期となったのは言うまでもない。彼がいなければ、“ゆう”はもう、この世に居なかった可能性すらあるのだ。
 彼は春香菜に言った。
『ヒトの不死には三種類ある』――と。そして、『みっつめの、遺伝子の不死に賭けてみないか?』
 それは比喩ではなく、本当の賭けであった。クローン自体は普遍的な技術であり、制約となる技術ハードルは低かった。しかし問題は、それを“ゆう”が受け入れるか否か、という場所に存在していた。
 自分の命があと僅かだからといって、遺伝子を――想いを残すというのは如何なることなのか。その疑問を出すのに、彼女は数ヶ月を要した。そして悩みに悩んだ末、了承したのである。「お願いします」と、ただ一言を添えて。
 そうして産まれたもう一人の“ゆう”――田中優実清秋香菜であるが、母として接してこれたか、今でも不安に思うことがある。
 元々、彼女は死ぬ運命であった。だから新しい“ゆう”を残した。けれど今、こうして生きている。青い空の下で、その奏でに浸っている。
 父の失踪の手掛かりを探そうと入った、LeMUでのアルバイト。ある種の幸運に事件へ巻き込まれ、その過程を知ることができた。――辛い現実だったが。だがそれだけに留まらず、キュレイウィルスというウィルスに感染。しかも同じ場所に閉じ込められた武とココがIBFでハイバネーション状態で眠っているという情報を、ブリックヴィンケルかた知らされた。
 一体、何がどうなっているのか。死を覚悟したはずなのに、こうして生き、なおかつ命を救おうとしている現実。
 母として接すべき筈なのに、どうしてもそう接することができなかった原因の一翼は、ここに存在する。彼女は生真面目すぎた。そして不器用だった。二つのことを同時に進行できるほどの器量を、彼女は持ち合わせていなかったのである。その為、自分は娘とどう接するべきかという疑問を敢えて持たず、その付けが、ここで巡り合わせたのだ。

 長い長い回想を終えて、春香菜は確りとした視線を娘に向ける。秋香菜も、その視線を一身に受け止める。
 自分は答えられるだろうか? 自問する。
“ゆう”は何処に居るのか、という問いに。
 母としての自分。“ゆう”としての自分。
 唐突に風が舞い戻り、耳元で唸り声を上げた。春香菜は髪を押さえる。目の前で、娘も同じ動作をする。
 同じだと思った。それは当然なのだと理性は告げていた。だが、理解と納得は違う。理解していても納得できないことは世の中に沢山在る。そしてその逆も、同じように在る。
(私は、理解している。ゆうの母親だということを)
 事実。
(けど、私は恐れている。ゆうの母親ということを)
 真実。
 どちらがどちら、ではない。どちらもどちらなのだ。
 これは数学に似ている。解答だけでは理解できない。また解き方を教わったとしても、納得できない。両方を理解し、納得して、初めて『答』なのだ。片方だけでは成立しない。それは“ゆう”にも同じことが言える。
「“ゆう”は、どちら、ではないの。どちらも、“ゆう”」と、母は言った。
「“ゆう”のアイデンティティは名前だけではなく、存在に順じている。私と貴女のアイデンティティは似ている。遺伝子が同じでも、それは完全な同一ではない。極めて近い存在。漸近線に似てるわ」
「それは……」
「それは“ゆう”である証よ」
 微笑。そして――
「“ゆう”は“ゆう”よ。私は優美清春香菜。貴女は、優美清秋香菜――私の娘」
 優しく――本当に優しく、娘を抱きしめた。
 秋香菜の口から「あっ」という言葉が漏れる。身体が硬くなる。けれど、拒絶はしなかった。
「私は“ゆう”を遺伝子として残す必要はなくなったの。だから、貴女は私の娘――」
 一時期、生きることに絶望した少女が居た。
 重い心臓病を患い、日を追う毎に強くなっていく痛み。目の前に迫った、死という名のタイムリミット。気が狂いそうであった。狂い掛けたこともあった。しかし、狂い切れなかった。最後の最後まで抵抗していたものが、自分の中に在った。それが、最後の防波堤だった。
 それが何なのか、今なら判るような気がする。
 ――それは“ゆう”だ。
“ゆう”が“ゆう”で在るために必要な存在。失いたくない。終わらせたくないという、心の叫び。
“ゆう”はまだ終わらせない。終わるには早すぎるという想い。それが、彼女の最後を支えたのだ。支えて、押し返した。
「私は私になった。私は“ゆう”を認められるようになった」
「お母さん……」
「そう、呼んでくれるんだ」
 薄く笑う。
 嬉しくなった。母がすべきことを、自分はやった覚えはないのに。
「だって、お母さんはお母さんでしょ?」
「ええ、私は私」
「だから、お母さんだよ」
「そうね……そう、なるのよね?」
 不安は、そのすべて隠すことはできない。必ず何処かでこちらを見ている。
「そうだよ」と娘は言う。
 それに――と彼女は言った。
「私は嬉しいよ。でも、恨んでるから」
「え?」
 秋香菜は母の元を離れると、その場でクルリと踊るように回った。自分より幾分短めの髪が、風に揺れる。
 確りとした視線が、母に向けられて離れない。
 と、彼女は悪戯っぽく微笑った。
「私にあんな苦労させたんだからね、責任とってよ?」
 腰に手を置く。少しだけ不機嫌そうな――それでいて愉快そうな表情のまま、彼女は歌うように喋り続ける。
「一週間、あんな暗くてジメジメしたところに閉じ込めて。はい、脱出できました。めでたしめでたし、じゃ、ないからね?」
「あ……」
 そうなのだろうか?
 春香菜の脳裏に、一瞬だけ何かのイメージが浮かんだ。昏い昏い世界の中で、明確な指標のない闇の中では視覚情報はなんの役にもたたず、ただ“何か”としか感じ取れなかった。
「それは……」
 意図を汲み取ってくれない母に吐息しながら、
「つまりね。その……、これからも、よろしくお願いします。お母さん」
 秋香菜は満面の笑みを浮かべた。
 ほんのり上気させた頬。照れ臭そうに緩んだ口端。強い意志の見て取れる瞳。それらはすべて自分であって自分ではない。“ゆう”でありながら、それは“ただのゆう”ではない。
「秋香菜……」
 それが目の前にいる“ゆう”の正体だ。
「うん?」
 居るはずのない、もう一人の“ゆう”。
 居ると勘違いしていた、もう一人の自分。
 恐れる理由など何処にもなかったのだ。――最初から。自分が勘違いしていただけだ。無い物を在る物として考えてしまったのが原因なのだ。自分が信じる道を通ってきて失敗しただろうか? 答えは――否、である。自らを信じ、進んだが故にこの世界が在る。
 春香菜は大きく息を吸った。何故だか足が震える。恐怖からではなく、歓喜からでもない、まったく別の理由からだ。
 今、自分は別の領域へ行こうとしている。その好奇心と不安が、心を支配している。
 目の前に娘が居る。今なら、自分が母だと胸を張って言えそうな気がしてきた。
 それは綺麗なものだった。綺麗なものは、それだけで美しい。
 だから触れられない。
 だから手に入らない。
 遠くから見守ることしか出来ない。そう、思っていた。だがそれは違うのだ。綺麗なものは触れられる。手に入る。手垢で穢れたら、その都度洗えばいいのだ。
 母は娘を見つめ、娘は母を見返す。数分の時の流れが怠慢に感じられ、しかし不快だとは感じなかった。むしろこの怠慢さが幸せなのだと、彼女は思った。
 だから、微笑う。出会いと別れの狭間で。
「ええ、これからもよろしくね――ゆう」











「――ゆーう!」
 風の調べに、ホクトの声が混ざっていた。
 それは母娘に同時に受け取られ、だがまったく別々の反応を示した。
「うっ」
「どうしたの?」
「え、いや、なんていうか……」
 しどろもどろな口調の娘に、母は困ったように首を傾け――思い当たる節を見つけて悪戯っぽく微笑んだ。
「ああ、ホクトね」
 秋香菜は隠しているものを見つけられた子供のように――実際そうなのだが――表情を歪めた。
「告白、受けてるんでしょう?」
「ちょちょちょちょちょ、ちょ、ちょっと、お母さん!」
 顔を真っ赤にしながら、手をパタパタと揺らす。本来はもっと別の行動をとりたいのだろうが、思いつかないのだろう。その様子に、春香菜は苦笑した。まったく、自分にそっくりだ。能動的でありながら、受動的な部分はトコトン弱い。
 恐らく告白を受けたあと、その返事を言えずに逃げ回っていたのであろう。
「だめよ。正直にならないと」
「待ってよ。私は、そんな……」
「そんな? もしかして、嫌い?」
「そうじゃなくて!」ちくちくと自分の嫌な場所を突いてくる母に、秋香菜は真っ赤になりながら押し返す。「突然だったから。まだ、決まらなくて」
 手摺の腕を置いて、遠い水平線を見遣る。春香菜も同じように、手摺に腕を置いた。
 蒼い蒼い空に、青い青い海。風は穏やかで、とても静かだった。ホクトは船内を探しているのか、外に言葉は漏れてこない。
「………」
 ぽつり、と春香菜が呟いた。だがそれは風に溶けて、秋香菜には届かない。
「え?」
「どうしたいと、思う?」
 その問いに、彼女は途方に暮れた。
 好きなのか、嫌いなのか。問題は、そんな単純なものではないような気がする。好きなら好きだといえばいい。嫌いなら嫌いだといえばいい。だけど、そうじゃない。好きなのか嫌いなのか、自分でも判断が付かない。
「わかんない」
「そっか」
「うん。時間が経てばわかるかもしれないけどね」
 その言葉に、春香菜は驚いたように振り返る。
「時間が、あれば?」
「どうして?」
 春香菜はそれには答えず、代わりに空を仰いだ。時間があれば、その言葉を反芻する。――時間があれば、自分は、何が出来るのだろう?
 ふと、目の前で何かが奔った。それは光でも物体でもない、まったく異質なものであった。形も、材質も、まったく判らない。判らないけど、不快ではない。
 ああ、これは、似ている。
 かつて生み出した感情。それに似ている。
 一途な想いは澄み渡る空のように煌いて、そして永遠を感じさせるほどに遠い。
 それは手に入らない。それは触れられない。だから求める。だから傷付く。それでも――諦めきれない想い。
「時間って、皮肉なものね」
 呟きが風となって、空へ昇っていった。
「え?」と娘が反応して、母は苦笑気味に振り返る。
「なんでもない」微笑みながら、自分に問いかける。「なんでも、ないの」
(今更言える訳ないよね――)
 吐息と共に、想いを吐き出した。だけどそれは廻り廻って、また自分に還ってくるのだろう。長い、長い時間をかけて。
「判んないなあ」
 非難するような口調で、秋香菜。
「お母さん、いっつも自分だけ納得するんだから」
「そう?」
「そうよ」
「なら」手摺から手を放した。もう、コレは必要ないのだ。もう手摺無しでも、一人で立つことが出来るのだから。それは少しだけ哀しいことであったりする、だけど――「ゆうだって、そうじゃない?」
「え、私も?」
「そうよ」
 微笑む。ただ微笑むためだけに微笑んだ。
「それは――」
 言葉が風に流れる。そして秋香菜の耳に届こうとした、直前、
「優〜?」
 ホクトの声が、再び蒼穹に広がった。まだ幼さを残すボーイソプラノは、何の障害もなくすっと脳に浸透していくようだった。秋香菜の表情が、まるで締め切り間近の作家のように歪む。
「お母さ〜ん」
 と、母に助けを求めるが、
「プライベートな問題は、自己解決してね」
 極めて冷静沈着な返答の見本のような答えで応じた。
「そ、そんなぁ」
「ほらほら」悪戯っぽく微笑いながら、娘の肩を押す。今の自分に出来る、最大のお節介だ。「早くしないと、逃げられるかもね?」
「むぅ」
 嫌がっていた秋香菜だったが、やがて決心がついたのか、うんと頷いた。掌から方が離れ、前に進んでいく。それを、複雑な気持ちで追う。
「頑張ってね」
 そう呟いた言葉は、果たして娘に届いただろうか?
 秋香菜は数度、息を整えるように深呼吸して、
「じゃ、行ってみるね」
 歩き出した秋香菜は振り返ることなく、マストの陰に隠れていった。
 しばらくその影を見つめ、やがてほぅと吐息した。
 あのあと、彼女はホクトの前に立って自分の気持ちを伝えるのだろう。恐らくそこには沙羅も居るから、大変な騒ぎになっているに違いない。それから――それからどうなるかは、流石に判らない。恐らくブリックヴィンケルでさえ、その後を視ることは出来ないだろう。もしかしたら修羅場になるかもしれないし、或いは沙羅から応援されるかもしれない。そのどちらの可能性も、フィフティ・フィフティ。
 どちら、ではない。どちらも、だ。
 片方だと決め付けてはいけない。その両方だから意味が在る。それは春香菜が理解した、一つの真実であった。
 告白、その言葉に隠れている想い。秋香菜は――或いはホクトは気付いているのだろうか?
 今はもう諦めてしまった想いが、心の中で薪のように燻っていた。諦めることで保とうとしていた平穏は、今、再び荒らされそうとしている。その原因は、言うまでもなく、“ゆう”にある。
 かぶりを振る。それから、半ば無意識の癖になったように頭を掻いた。風が強く、ともすれば飛ばされそうな幻想を、彼女に抱かせた。風任せに飛ばされたら、どんなに楽だろう。もちろん望めない。だから、願う。在り得ないからこそ、祈る。
 ――立っていけるの?
 ええ。私はもう、私だから。
 ――本当に? 
 本当。
 ――本当に諦めるの?
 諦める、そう決めたから。そう決めたから、私は別のものを得た。それはとても哀しいことであるけど。
 武はつぐみを想って、つぐみは武を想う。強さがその絆を強固なものにして、また再び、両者を引き合わせた。ただ、それだけのことだ。自分がその間に入る余地がなかった。――ただ、それだけのこと。
 不意に込み上がってくる熱い物を飲み込んで、彼女はもう一度空を仰いだ。答えが在るような気がした。
 空は青く、風は強い。
 涙は乾いてすぐに消えた。


おわり。




あとがき

 前半は文体を変えてみました。中盤は今までとごっちゃに。終盤は(以下略
 なんかなあ。優が可愛いなあ、とか思い始めたり。
 とりあえず、なんていうか、実験というか何と言うか。そんなもん送るな、って言われそうですけど。
 うぐぅ。




2002


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