白いアルバム
                              作者:長峰 晶



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(バット……?)
 少しでも秋香奈のフォローができないかと、シートベルトを外して後方を見つめていたホクトは、その非現実的な光景に、しばし言葉を失った。
 二度、三度と振り下ろされるバット。
 その間、明らかに追撃ペースは落ちているのだが、それが見えていない秋香奈は、気付いていない。
 ホクトはシートに座り直すと、シートベルトを付け直した。一つ大きく息を吐いて、ゆっくりと隣の秋香奈に視線を向ける。
「ユウ。落ち着いて、ぼくの話を聞いて」
「落ち着けるもんですか! このままじゃ、負けちゃう! 負けちゃうよ……」
 最後の方は、泣きそうな声になっていた。ステアリングを握る手が、素人目にも明らかに力が入り、小さく震えている。
 ユウは強い女の子だ、とホクトは思う。
 だから自分は、ごくたまに、ユウが弱っているときに、ちょっとだけ背中を押してあげればいい。
 今が、その時だった。
「ユウ。なんで、お母さんがこんな小細工をしていると思う? ちょっと考えれば分かる筈だよ。ユウの腕と、この車とを相手に、真っ向正面戦うのは余りにも不利だからだ」
 ほんの少し、嘘をついた。
 実際のところは、真っ向正面戦えば互角か、ややつぐみが有利なのだろうと思う。つぐみは、あくまで勝利を確実にするためにこんな戦術を取っているのだ。だが、それを正直に伝えるつもりはない。
「ユウは、後ろのことなんか気にしないで、ユウの走りをすれば良い。そうしたら、絶対にユウは、負けない」
「でも……もし、負けちゃったら? ホクトと、半年も会えなくなっちゃう。そんなの、嫌だよ!」
 見合い写真がうず高く積まれた倉成家の食卓が、秋香奈の脳裏をよぎる。
 自分以外の誰かが、ホクトと結婚してしまう――そんな恐怖が、秋香奈の心を鷲掴みにした。
「大丈夫だよ、ユウ。ぼくはいつだってユウの側にいる。たとえ、お母さんが何と言おうとも」
 その言葉に、秋香奈の手の震えが止まった。
 ちらちらとホクトの方に視線を向けながら、ホクトの次の言葉を待つ。
「付き合ってくれって言ったのもぼくだし、結婚を申し込んだのもぼくだよ。お母さんはもちろん、たとえユウが離れてくれって言ったって、離してなんかやらないから!」
 後半は、ほとんど叫ぶような口調だった。
 顔を真っ赤にして、荒い息を吐く、ホクト。
「絶対だよ。約束する」
 どこかで聞いたその言葉に、秋香奈の頬が緩んだ。
「絶対に? 1%たりとも破られることはないの?」
「0.00000000000000001%たりとも、ない」
 ほんの一瞬、秋香奈とホクトの視線が絡んだ。
 秋香奈はすぐに前方に向き直り、鋭い視線を、コーナーの向こうに向ける。
 その姿に、ホクトは会心の笑みを浮かべた。
「ユウ……いつもの格好良いユウを、見せてくれるよね?」
「もちろんよ!」
 秋香奈はぐっと拳を突き出し、親指を立ててみせる。
「格好良い私を見て……惚れ直しなさい!!」


 つぐみは訝しげな視線を前方に向ける。
 後、一息の筈だった。
 秋香奈の心は、今にも折れんばかりだったのに。
 いつの間にか、秋香奈は本来の走りを取り戻し、そのペースはどんどん上がっている。
「……ホクトの奴だな」
 瘤だらけになった頭を痛そうにさすりつつも、どこか嬉しそうに武が呟く。
 目の前には、既に原型を留めていない、プラスチックバットが転がっている。ちなみに、『プールより先に行ってたら、マスコットバットを用意していたわ』というのがつぐみの言である。
「どういうことよ」
「分かってるくせに。追い詰められた秋香奈を、ホクトが支えてやったんだよ。あの二人には、もうそれだけの繋がりがあるってことだ」
 武の言葉に、つぐみはどこか苛立たしげに前髪をかき上げた。
 鮮やかなブレーキングドリフトで、コーナーを抜けていくRX-11に車体を寄せていく。
 その最中に、秋香奈とつぐみの視線が、絡み合った。
 秋香奈は一瞬表情を強ばらせ――次の瞬間、極上の笑みを浮かべると、片目をつぶり、投げキスをつぐみに送った。
 絶句するつぐみと武を尻目に、RX-11は理想的なラインでコーナーを立ち上がっていく。特徴的なロータリー・サウンドが、誇らしげに辺りに響き渡った。
「ははっ……大したタマだな、ありゃあ」
 武が、心底嬉しそうに笑う。
 怒れるつぐみを前に、あそこまでやってのける度胸は、彼にすらない。
 そして、秋香奈のその姿は、思わず武が見惚れるくらい可愛らしかった。
 その秋香奈の姿を思い返しているときに、急激なGが武を襲いかかった。
「お、おい、つぐみ! なんか、一段とペースが上がってないか?!」
「仕方ないでしょ。秋香奈がこのペースで逃げてるんだから」
「お前、いくら何でもこれは無茶だろ! この狭い道で、100以上出してないか? 下手すりゃ、110とか!」
「バカね、武。いくら何でもそこまでは出してないわよ。この車で、そこまで攻められるわけないでしょ」
 つぐみのその言葉に、武は再び助手席のヘッドレストにしがみつくような姿勢で運転席のパネルを覗き込む。
 つぐみの言う通り、スピードメーターの針は、80から90の辺りで振れていた。
「ああ、なるほど……って、待て、つぐみ! 良く見たら、そのスピードメーター、マイル表示じゃねーか!!」
「あ、ばれちゃった? うふふ」
「うふふ、じゃねーっ!!!!」
 助手席にしがみついて、つぐみの耳元に怒鳴りつける武。
 つぐみの表情が、瞬時に強ばった。
「ねえ、武……あなたは、どこにいるの?」
「どこって……俺はここにいる」
 そうじゃないでしょ、とつぐみはびしりと後部座席を指差す。
「良い、武? この車の燃料電池のセルは車体中央、座席の下にあるの。モーターは後輪側にあるけど、基本的にはミッドシップ、MR車なの。下りで充分なトラクション……駆動力を得ようと思ったら、後輪側に、ある程度の重りがいるのよ」
「重りって……つぐみ、お前、人を漬け物石みたいに」
「そうね。あなたの場合、漬け物石と言うよりは、むしろ」
「いや、もういい」
 そう言って、すごすごと後部座席に引き下がる武。
「そこから先の台詞は、昔、聞いたことがある」


 春名の下り、終盤。
 その最終局面には、走り屋達の間で、通称、地獄の谷――ヘル・バレーと呼ばれる難所が待っている。
 長い急勾配の下り坂の先に、奥になるほどRがきつくなる複合コーナー。そして、そのコーナーの途中で、道は下り勾配から上りに変わり、そのコーナーを抜けた次のコーナーでは、再び下りに変わる。
 この谷間で、いかにスピードを殺さずコーナーを抜け、次のコーナーに飛び込んでいくかが勝負の鍵であり――その一方で、今までに何台もの車が、コーナーを抜けきれずに、道の側壁やガードレールに車体を突き立てている。
 そこが最後の勝負の分かれ目になることを、秋香奈もつぐみも理解していた。
 ヘル・バレーに向けて、秋香奈は最後の追い込みを掛ける。
 掛け値無しの、全力走行だ。
 その一瞬、ホクトの方に、左手を伸ばす。
 堪えきれずに震える手を、ホクトはその秋香奈の左手に向かって伸ばす。
 指先が、ほんの一瞬、触れた。
 それだけで、二人の思いは繋がった。覚悟が、決まった。

「な、なあ、つぐみ? 何だか信じがたいスピードなんだが……もしかしてお前、『コーナーの向こうに神が見える』っていうクチか?」
「アイルトン・セナね。良い言葉を知ってるじゃない、武」
 ずっと黙り込んでステアリング操作に集中していたつぐみが、かすかな笑みと共に言葉を洩らす。
「それも悪くないけど……私が好きなのは、こっちよ。『私たちは、危険を冒すがゆえにカネを受け取っている』――ジル・ビルヌーブの、言葉」
「誰だ、それ?」
 武の言葉に、むっとした表情を見せるつぐみ。
 だがそれも一瞬のことで、すぐに遠い目をして、言葉を続けた。
「F1最後の騎士と言われた、スクデリーア・フェラーリ史上最速最強のフェラーリ・パイロットよ。かのエンツォ・フェラーリが『破壊の王子』と呼び、息子のように愛したただ一人のドライバーと言われているわ」
 『破壊の王子』。同乗者の不安を煽らずにはいられないそのフレーズに、武の肌が粟だった。
「そして彼は――1982年、三十二歳の若さでゾルダーにて天に召された……」
 つぐみは黙祷するように、静かに目を閉じる。
 目を開いたとき、『小さな巨人』と呼ばれたカナダ人のその姿が、はっきりと見えたような気がした。
「サリュー、ジル……!」
 つぐみは、アクセルを床まで一気に踏み込んだ。


 ヘル・バレーに向かって、まっしぐらに車は進んでいく。
 大量に分泌されたアドレナリンが、時間の進みを、ひどくゆっくりとしたものに変えていく。
 黄色地に黒で描かれた直角三角形と、その下に書かれた矢印と『17%』の文字が、ホクトには何かの冗談のように見えた。
 急勾配が、加速性能の差を相殺する。
 フル・ブレーキングと共に訪れた減速Gを感じた瞬間、秋香奈の駆るRX-11の隣りに、つぐみのシルビアが並んだ。
 その横顔に玉のような汗を噴き上げながら、秋香奈は神速のシフトダウンをやってのけた。
 中盤で酷使したタイヤとブレーキが、ここに来て足を引っ張る。全身の感覚を駆使してフロントタイヤの接地感を探りながら、秋香奈はRX-11をコーナーに飛び込ませた。
 コーナーを抜けていく。
 その勾配が下りから上りに変わった瞬間に、つぐみのシルビアが車体半分、RX-11の前に出た。
 秋香奈は、息を呑んだ。
 行ける、筈がない。
 だが、今アクセルを踏み込まねば、絶対に負ける。
 アクセルを踏み掛けて――隣にいるホクトの姿が、目に入った。
 その一瞬が、永遠のように感じられた。
 呆然と見つめる秋香奈とホクトの前で、つぐみのシルビアが、信じられないような車体の動きを見せて、コーナーを抜けていく。一番外側に振れたときには、ガードレールまで、数センチの距離まで近付いていたように見えた。
 そして――その後ろ姿が、闇の中に消えた。
 秋香奈の足は、アクセルから離れていた。
 みるみるスピードを落としていくRX-11の中で、秋香奈は大きく息を吐いた。
「ごめん、ホクト……抜いちゃったよ、アクセル」
 そう言って、寂しげに微笑む秋香奈。
 その秋香奈のシフトノブに掛けられた手に、ホクトは自分の手を重ねた。
「良いんだ、ユウ」
 ホクトはシートベルトを外すと、秋香奈の耳元に触れるか触れないかという位置まで、自分の唇を近づける。
「格好良かったよ、ユウ」


 秋香奈がゴールに着いたとき、ゴール地点には、無表情に腕を組んだつぐみが立っていた。
 運転席から降り、つぐみに向かって歩く。
 つぐみまで後三歩、というところまで近付いたとき、秋香奈の足が止まった。何かを言いかけて、結局言うことができずに、その場でうなだれる。
「合格よ、秋香奈」
 その声の優しさに、秋香奈は驚いて俯かせていた顔を起こした。
 目を見開いて、つぐみの顔を見上げる。
「あそこで無理をして、事故でも起こしてたら……絶対に、ホクトとの結婚は認めなかったわ。でも、あなたはあの時に引いた。それは、隣りにホクトがいたからでしょう?」
 秋香奈が、口ごもる。何かを言おうとしているのだが、言葉にならない。
「あなたを試したくて、色々意地悪しちゃった。そのことに関しては謝るわ。ごめんなさい」
 つぐみは、そう言って、深々と秋香奈に向かって頭を下げる。
「半年間の交際禁止っていうのも無しよ。そんなことしたら、ホクトのことだもの。あなたと駆け落ちしかねないわ」
 だって、私の子供だものね――そう言って、つぐみは半ば嬉しそうに、半ば寂しそうに微笑んだ。
 その姿に、秋香奈の胸が熱くなった。
「あの子を……田中ホクトを、幸せにしてあげてね、秋香奈」
「つぐみ……ううん、お義母さん!」
 秋香奈とつぐみの、三歩の距離が一瞬で縮まる。
 つぐみは、しっかりと秋香奈を自分の胸に抱きしめた。


「雨降って、地固まる、よね。めでたしめでたし」
 抱き合うつぐみと秋香奈を、離れたところから見ていた春香奈が、晴れやかな笑みを浮かべる。
「まあ、きれいにまとまったみたいだが……賭けても良いが、つぐみの奴、ゴールに着くまでは、勝つことしか考えてなかったと思うぞ」
「お父さん、そこは突っ込んじゃだめ……折角きれいにまとまってるのに、ぶち壊しになるよ」
 アスファルトの上にごろりと横たわる武と、同じくアスファルトの上に座り込むホクト。
 二人とも、立ち上がることができない。助手席でシートベルトに固定されていたホクトはまだしも、後部座席であちこちに体をぶつけながら、信じられないようなGに晒され続けていた武は、吐き気を堪えるのが精一杯である。
 ホクトはホクトで、蓄積した疲労と恐怖で、完全に膝が笑っていた。
「二人とも、お疲れさん。とりあえず、これでも飲んで一服してくれ。よく冷えてるから」
 そう言って、ホクトにはジュースを、武にはビールを差し出す桑古木。
 武とホクトは、ありがたくそれを受け取った。
「それにしても、これでホクトも婿養子決定か。ま、覚悟はしてたけど、寂しくなるな」
「うん。でも、これで良かったと思う。だって考えてもみてよ。ユウが倉成家に嫁いだら、この先、何度となくこうやって嫁・姑戦争勃発だよ? ぼく、正直言って、消化器が持ちそうにないよ」
「それは……想像したくないな、確かに」
 武とホクトは曖昧な笑みを浮かべ合う。
 それを見ながら、春香奈と桑古木がおかしそうに笑っていた。
 しばらくそうやってぼんやり時を過ごしている内に、一台の車が四人の前に止まった。
 瞬間、春香奈と桑古木は目を見交わせ、それぞれ別方向に離れていく。
「く、倉成さん! 大丈夫ですか、しっかりして下さい!」
「お兄ちゃん、平気?!」
 車から降りた空と沙羅が、武とホクトにそれぞれしがみつく。
 その柔らかな感触と甘い香りに緩んだ武とホクトの表情が、瞬時に凍りついた。
 つぐみと秋香奈が、怒りのオーラを噴き上げながら、ゆっくりと近付きつつあった。
「そ、空! 気持ちは嬉しいが、とりあえず今は離れてくれ! 頼む!!」
「ユ、ユウ! 落ち着いて、これは沙羅! 妹だよ、妹!!」
 叫ぶ武とホクトに、空と沙羅は、抱きしめる力を一層強くする。
 視線を交わす、つぐみと秋香奈。二人の心は、今、一つだった。
 ホクトは助けを求めて、後ろを振り向く。
 ホクトから数メートル離れたところで、桑古木が南無と手を合わせつつも、片目をつぶって、実に楽しそうに笑っていた。
「武」「ホクト」
 その声に、ホクトは慌てて前を振り返る。
 拳を震わせるつぐみと秋香奈の後ろで、口元に笑みを浮かべながら、カメラを構える春香奈の姿がホクトの目に入った。
「……覚悟は、良いわね?」
――地獄の蓋が、開いた。


 まあ、最後の最後には助けてくれたんだけどね、とホクトは心の中で呟く。
 秋香奈は春香奈に首根っこを押さえられるような形で抑えつけられ、つぐみの方には、桑古木が仲裁に入った。
 もっとも、最後にはつぐみを背中から羽交い締めにする羽目になり――その際に手が滑ったことが、直後に桑古木に大惨事をもたらした。南無、とホクトは手を合わせる。
「何やってるのよ、ホクト。まだ半分も片付いてないじゃない」
「あ、あれ、ユウ? なんで、こんな時間に、ここに」
「今日、荷物を運び出すって言うから、わざわざ午後だけ有給休暇を取ったのよ。案の定、全然終わってないじゃない」
 腰に両手を当てて、呆れたような口調で答える秋香奈。
 学生と違って、こっちは長い夏休みがある身じゃないのよ、とぼやいてみせる。
 ホクトは胸ポケットに写真をしまい、慌てて机から飛び降りた。
「全くもう。夕方、桑古木が車を出してくれるんでしょ? その時にまだこの有様だったら、いくら桑古木でも怒るわよ、きっと」
「ご、ごめん、ユウ」
「はいはい。謝ってる暇があったら、ちゃっちゃと手を動かす!」
 秋香奈に追い立てられ、ホクトは猛然と荷作りを再開した。
 迷っていたいくつかの品物を、思い切って捨てる。そうやって、次々と部屋の中を整理していく。
――でも、少なくともこれだけは残しておこう。
 ホクトは心の中でそう呟いて、胸ポケットの上から、写真を押さえた。
 田中家へ行く途中で、アルバムを買っていこう、と心に決める。
 まっさらな、白いアルバムの最初のページに、この写真を貼るのだ。
 これが、自分が田中家の一員となった、記念すべき最初の出来事なのだから。


後書き
 はじめまして、H.N 長峰と申します。
 二次創作というのは初めてです。
 正確に言うと本作の前につぐみ過去で一本書いてみたんですが、長い(本作の三倍以上)・重たい・オリキャラと三拍子揃ってしまったため、とりあえずそれは封印して、こちらを書いてみました。
 つぐみ VS 秋香奈という構図は余り無さそうだったので、それで何か書けないかと考え、出来上がったのが本作です。
 種目は結構迷いました。七桃様の『ドッジボール・デストロイ』を読んで、一般人がキュレイ種に挑む無謀さを理解いたしましたので……。
 結局、かぱちゃま様の『頭文字(イニシャル)E』を全面的に参考にさせて頂き、このような形になりました。
 秋香奈がロータリー使いなのはそのためです。つぐみがシルビアなのは、作者がそれに乗っているからです。最後のシルビア(泣)。
 本当はもっと短くする筈だったんですが……どうも、短い文章を書く才能が決定的に欠落しているようです。
 最後までお読み下さった方々、誠にありがとうございました。




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