ポケットの中のPDAが『ニンネコ音頭'34』を数小節分だけ奏でる。
 それがメールの着信音であることを思い出すまでにやや間が空いた。
 素っ気無い文面と発信人の名前を見てやや悩む。
 結局、武は時間通りの昼食を断念した。


Forever17 〜the girl of infinity〜 
                              TARO


その1 社員食堂

 昼休みに入ってしばらく経ったところで、昼食を取るために外出していた田中優美清春香菜は社員食堂に来ていた。注文をせずに空いている席につき、持っていた鞄を隣に下ろす。その口を開いて中身を取り出そうとしたところで、日替わりセットのトレイを持った桑古木が向かいの席についた。
「今日は休みじゃなかったのか? なんでこんなところにいるんだ」
「予定が狂ったのよ。まったく、どこをうろついているんだか」
 優は鞄の中から手を付けていない弁当箱の包みを取りだし、テーブルの上に置いた。
「なんで二つもあるんだ? 一人で食うのか?」
「うるさい。桑古木こそどうしたの? いつも外食なのに、ここにいるなんて珍しいじゃない」
 桑古木に限らず、社員のほとんどは昼食を外で取っている。研究所の隣の本社棟にある社員食堂は値段と栄養面で優れているものの、メニューの少なさの為に最近は外食産業に押されつつあり、昼食時にも関わらず席の大半は空いたままである。
「新装開店のラーメン屋の先着限定メニューに出遅れた。それに他の奴らと違って、俺はまだ食堂の味に飽きてないんでね。珍しいと言えば、知ってるか? 空に客が来てる」
「空に?」
「ああ。今は視聴覚室で接客中。誰だと思う?」
「沙羅じゃないの? あの娘、最近よく遊びに来てるから」
「残念だが違う。武だよ」
「…家にも居ないし電話にも出ないと思ったら、そういうこと。せっかく気合入れて作ったのに…」
 優は久しぶりに自分で作った弁当を睨みつけ、軽くため息をついてから食べ始めた。
「空が呼んだらしい。そのまま視聴覚室に通すように言われていたから案内したんだが、…なんかまずかったか?」
 分野を問わず何でも手広く扱うこの研究所には、数多くの実験室が存在する。『視聴覚室』はRSDに代表される視覚・聴覚を対象とする実験室の俗称である。
「何でもないわよ。それにしても、今更RSD使ってどうするのかしら」
「内緒話をするには最適の環境だな」
 鋭さを増した優の視線に気付かない振りをして、桑古木は食事を続けた。
「冗談はさておき、武に見せたいものがあるんだってさ。使用申請が来てたから受理しといた。断った方が良かったか?」
「うるさい」
 優は女性とは思えないハイペースで一つ目の弁当箱を空にし、二つ目に取りかかった。
「そうそう、RSDで思い出した。第17研究室からも視聴覚室の使用の申請が来てる。正規の業務じゃないんだが、新しいプログラムが組みあがったから、それのテストをするらしい。これがその内容」
 桑古木は昼休みに入る前に預かった紙の束を取り出した。
「私に? 直接持ってくればいいのに」
「それができれば苦労は無い」
「どういう意味?」
「…と、他のやつらが言ってるんだ。空のファンに恨まれたり、優の犠牲者に逆恨みされたりする俺の身にもなってくれ」
 茜ヶ崎空がAIであることは周知の事実である。それを承知の上で、入社の翌日に名乗りを挙げたファンクラブを皮切りに、大小様々な支援団体が研究所に乱立した。日夜活動を続けるその規模は数十人とも数百人とも推定されるが、これらの団体が目立った行動に出ないのは、空の直属の上司である『先生』こと田中優美清春香菜の威光による。
 年齢不詳の科学者・田中優美清春香菜は入社後数日で頭角を現し、一週間で全研究所員に名を知らしめ、一ヶ月で畏怖の対象となった。目的のためには手段を選ばない性格と人使いの荒さ、そしてそれらを帳消しにして余りあるカリスマは、多くの敵と信奉者を作り出し、良くも悪くも影の実力者として不動の地位を築いている。
 同時に入社した桑古木は、女性陣との関係について一通りの誤解を受けた後、空と優への貴重な連絡役として認識されていた。そのため空との仲の取り持ちを期待されたり、優への遠まわしの抗議を聞かされることは珍しくない。
「考えておくわ。食事中だから読み上げてくれる?」
「俺もメシ食ってるだろうが。まったく人使いの荒い。…えーなになに、バーチャルステーション、略してVS。RSDの新たな可能性を探るという名目で有志の暇人が組み上げた、擬似体感ゲームのプログラムらしい。昔はバーチャルゴーグル使ってたヤツだな。対応ソフト第1弾のα版がやっと出来あがって、その稼動実験に使うのか」
「へぇ、面白そう。ガンシューティングとかアクションとか? 格闘もいいかも」
 右手に箸を持ったまま左手でページをめくっていた桑古木は何か言いたげな顔をしたが、すぐに手もとのレポートに目を戻した。主旨に続いて記載されている内容の項からタイトルを探す。
「残念ながら期待には添えないようだ。『タイトル未定、ジャンル……ぎゃるげー』」
「…え?」
「数年振りに訪れた故郷で再会した少女達。
 多感な青春時代を彩る、胸を締め付けるような切なさと蘇る甘い初恋の思い出。
 あなたはそこでどんな体験をするのでしょうか?
 可憐なヒロイン達の実在感はもちろん、信楽焼のタヌキのような背景の大道具から、場面によっては人工降雪機を利用した雨風雷雪の天候まで、全ての環境を再現。これにより感情移入度は試算で180%を達成。忘れかけていた甘酸っぱい思い出が鮮やかに蘇ります。…そんな目で俺を見るなよ、棒読みしてるだけなんだから」
 優の視線を受けて、すらすらと読み上げていた桑古木は肩をすくめた。
「分かってるわよ。続けて」
「かえって不自然になるBGMやSEはカット、あるいはボリューム調整が可能。他にも古今東西のゲームを参考にした充実のオプションを備え、ストレスを感じさせることなく感動の物語の世界に誘います。また、プレイヤーに合わせて登場人物の性別を反転できるハイブリッド仕様のため、女性でもお楽しみ頂けます。
 …最大の売りにして問題点はキャラクターで、チーム内のアンケートで決定した声優を参考にして声を合成で入れたところ、声質だけでなく演技の癖まで再現されて、世に出したら本当に出演料とか取られそうな出来になったらしい。んでもって、こっちが別冊の登場人物の設定資料なんだが…どうかしたか?」
 真面目に読み上げる馬鹿馬鹿しさに気付いて途中から斜め読みに切り替え、桑古木は数十ページに渡る内容を省略した。
「…匠の技というより、執念ね。そこまでやれば見事だわ」
 思わず受け取ってしまった別冊資料をパラパラと読み飛ばし、びっしりと書き込まれたヒロインの設定その他を見て、優はこめかみを押さえて大きなため息をついた。
「もう少し我慢してくれ。ここから本題に入っている。…リアルさを追求し過ぎて、自然な反応が出来るキャラクターの設計が難航している? 既製のAIを出演させた方が楽かもしれないってことで、もし許可をもらえるなら、物置で埃をかぶっているLM−RSDS−4913Aをテストに使用したい?」
「却下」
 空の本体であったLM−RSDS−4913Aシステム一式は研究所の所有となっているが、空が実体を獲得した現在ではAIとしての機能を使用しておらず、演算機として通常業務の処理に利用されている。
「即答だな」
「当たり前よ。だいたいあれは仕事に使ってるでしょうが。そんな訳のわからない趣味への転用は認めません」
「そうか? なんか忘れてるような…」
 桑古木が怪訝そうな表情を浮かべた。
「どんなゲームか知らないけれど、アレは空の人格なんだから、何を作っても空とおしゃべりする内容にしかならないわ。それを目当てにした企画なんじゃないかと思ったんだけど。出所は親衛隊? それとも後援会?」
「さすがマネージャー、読みが深いな。その通り、発案はファンクラブだ」
「誰がマネージャーよ」
 軽く桑古木を睨みつけ、視線を落とした。当てが外れて自分で食べることになった2つ目の弁当も、すでに空になっている。
「それに、厄介ごとが起こるリスクは、これ以上増やしたくないの」
「これ以上? 何かあったのか?」
「あったというか、あるかもしれないというか…」
 優は白衣の内ポケットを漁り、最近使用して以来そのままにしていたディスクを取り出した。深海の水圧にさえ耐えるライプリヒ謹製強化コーティング処理を施されたそれは、桑古木にも見覚えがあった。
「あぁ、あれか。懐かしいな、そのディスク…」
 優の手の中を覗き込んだ桑古木は首を傾げた。
「…空が自分で持ってるんじゃなかったのか?」
「半分当たり。これ、覚えてないの?」
 優は手首を返し、日付のみを書き込んだラベル面を桑古木の方に向けた。
「そっちの方か。それがどうかしたのか? その…」
 適切な表現を探している桑古木の後を引き取り、優は頷いた。
「そう、彼女…『茜ヶ崎空』の記憶のバックアップディスク」
「…厄介事ってのは、それのことなのか?」
「私は気が進まなかったんだけど、沙羅に頼まれたのよ。気持ちは分かるし、断ろうにも理由が理由だから言い辛くて」
「理由?」
「単なる思い過ごしならいいんだけどね。さすがにこればかりは実験してみるわけにはいかないから」
 優は持参した魔法瓶から注いだ紅茶を飲み干し、壁に掛けられている時計を見上げた。昼休みはまだ半分以上残っている。


その2 視聴覚室

 その部屋に入ると同時に音楽が始まった。
 海中、あるいは海底をイメージした大道具で飾られた部屋の中央で、遊園地では定番の回転木馬が賑やかな曲に合わせて動き始める。ただし、客を乗せるのは馬ではなくイルカである。LeMUのアトラクションの一つ、カルセル・デルフィーネを前にして、武は桑古木から聞いていたこの部屋の目的を思い出した。
「RSD、か」
「ええ、その通りです」
 なんとなくイヤホンを付けていることを確認した武は、声をかけられた方に振り返った。
「久しぶり、空」
「今日はすみません、お忙しい所を呼び出してしまって」
 開いたままの入り口を閉め、空は室内に置かれたテーブルセットに武を案内した。
「いいって。それにしても…」
 すすめられた椅子に座ってから、武は改めて目の前の空の姿を見直した。ティーカップにアイスコーヒーを注いでから席についた空は、さすがに日常生活では着られないので最近目にしていなかった白いドレス姿である。
「ここもそうだけど、その格好の空も久しぶりだな」
 返事の代わりに微笑を浮かべ、空はかるく会釈した。
「それにしてもすごいな。これもRSDなんだろ?」
「あっ」
 立ちあがって手近なイソギンチャク付きの岩に触れてみようとした武に、空の制止の声は間に合わなかった。数歩踏み出して違和感に気付く間もなく、ガンという鈍い音を立てて武の顔面は何かにぶつかった。
「……?」
 痛みよりも驚きに突き動かされて、武は目の前に手を伸ばした。岩のかなり手前の何も無いように見える空間で突き当たり、冷たい感触だけが手の平に伝わる。
「す、すみません、倉成さん!大丈夫でしたか!?」
 慌てた空の声と同時に周囲の風景が変わる。武は自分が触れているのが実験室の金属製の壁であることに気付いた。
「なるほど、こういうタネか」
「ごめんなさい、倉成さんを驚かそうと思っていたんですけど、まさかこんなことになるなんて…」
「そんな大げさな。俺ならなんともないって。それよりも、ホント驚いたよ。一瞬LeMUに戻ってきたのかと思った。こんな大掛かりなRSDは初めて見たよ」
 実験室の壁だけはそのままに、武の視界に再び回転木馬が現れた。明らかに直径が部屋よりも大きいはずだが、全体が見えることに違和感を感じさせない。
「なるほど、沙羅から聞いてたが、技術の進歩ってのはたいしたもんだ」
「はい。こんなこともできるんですよ」
 にっこり笑って椅子から立ち上がった空が、テーブルの下から五枚重ねの瓦を取り出した。床の上に積み上げ、衣装に合わせたような中華拳法風の構えを取る。
「よく見ていてくださいね」
 空は呼吸を整えて下を向いた。手を伸ばして対象までの距離を測り、拳を引く。
「…空?」
 返事は無かった。全身の筋力を引き出すために深く繰り返されていた呼吸が途切れる。その直後の空の動きは、武には見えなかった。
 テーブルの上のカップが、衝撃で一瞬だけ浮き上がった。
 中心から真っ二つになった五枚分の瓦の残骸越しに、武は下段突きを放った態勢のままの空におそるおそる話しかけた。
「だ、大丈夫なのか?」
「驚きましたか? デモンストレーション用のデータを元に作り上げた即席の映像です。実体に架空の映像を重ねるだけでなく、さらに整合性を持たせることで、従来よりも現実感をより高めることが可能になり…」
 説明しながら、いつの間にか影も形も消え失せている瓦のあった場所を指し示した空は、武の視線が床ではなく自分の手に向けられていることに気付いた。
「倉成さん?」
「あのなぁ、あんまり無茶するなよ。RSDだと分かってても心配するんだぞ」
「大丈夫ですよ、本当に壊したわけではありませんから」
「違う、空の方。怪我でもしたらどうするんだ…って、するわけないのは頭で分かってるんだが、やっぱり心臓に悪いというか…」
「…私のことを心配して下さったんですか?」
 一応空の手が無事であることを確認した武は、何か言いたげな空の視線に気づいて、居心地悪そうに目を逸らした。
「まぁな。どうせ俺は慌て者だよ。
 最近は俺たちと同じように生活しているからすっかり忘れてた。そういえば空も結構無茶をすることがあったな。やっぱりそういうところは同じなのか?」
「…え?」
 発言の意味を捉え損ねて、空は武の顔を見つめた。
「さっきのは訂正。初めまして、だよな、確か」
 一瞬だけ迷って、武は笑顔で手を差し出した。戸惑ったような表情の空がおずおずと手を伸ばす。
「いつ気付いたんですか? 私が偽者だということに」
 実体が無いため感触も無い。武は適当に判断して握手の形を作った。


その3 再び食堂

 優は食事は終わったものの席を立つ気になれず、暇つぶしに受け取った企画書に目を通していた。その様子を見ながら日替わり定食の残りを片付けていた桑古木は、最後に味噌汁を飲み終え、頃合を見て再び優に話しかけた。
「なぁ。気になってたんだが、LM−RSDS−4913Aって確かもう一基あったよな。あれは駄目なのか?」
「何の事?」
 桑古木と優の付き合いは長い。そのため他人なら気付かない言外のニュアンスまで理解することができる。しかし今回は、桑古木は無言の圧力よりも自分の事情を優先した。
「ほら、この前警察から戻ってきた方。あれならまだ本格的に仕事には使ってないし、テストに使うぐらいならいいじゃないか」
「絶対に駄目」
「なんでだ?」
「ユウと沙羅がご執心だから」
「つまり、その二人を説得すればOKか」
 企画書を読んでいる振りをしていた優が顔を上げた。新入社員なら一睨みで出社拒否に追いこむと言われる視線を向けるが、桑古木は平然と受け止める。
「話してくれるよな?」
「…ファンクラブにいくらで雇われたの?」
「安心しろ、単なる好奇心だ。どうしても逆買収したいなら止める気はないが」
「言うようになったわね」
「上司の薫陶が行き届いているからな」
「…LM−RSDS−4913Aの使用を断る代わりに理由を話すわ。それでいい?」
 珍しく素直に折れた優に拍子抜けしたが、桑古木は顔に出さないように勝利を噛み締めた。
「でも、これだけは守って。これから言う話は誰にも言わないこと。特に空には。いい?」
「空に?」
 桑古木は視線を外して考え込んでから、口を開いた。
「やめよう」
「は? 何言ってるのよ」
「いや、だって、なぁ…」
「まさかあんた、空に隠し通す自信が無いなんて言うんじゃないわよね」
「そうじゃなくて、後ろ」
「私がどうかしましたか?」
「うわぁ!」
 いきなり背後から声をかけられ、優は慌てて企画書を鞄に仕舞い込んだ。
「お、お帰り。お客さんの方はもういいの?」
「お客様が来られているんですか?」
「何を言ってるのよ。武と実験室で会っていたんじゃないの?」
「武さんはここにいらっしゃるんですか?」
 言葉の意味に気付いた優の視線を受けて、空は慌てて手にしていた巾着袋と水筒を背後に隠した。
「考えたことは同じね。まぁいいわ。だとすると…」
 優は不吉な予感を覚えて、怪訝そうな表情の桑古木に訊ねた。
「桑古木、武を実験室に案内するようにって、誰に言われたの?」
「空に、メールで。昼休みに入ってすぐだったな」
 空が首を横に振ったのを見て、優は直感的に事態を把握した。席を立ち、食堂の入り口に向かって歩き出す。
「田中先生、どちらへ?」
「視聴覚室。桑古木は警備室からマスターキーを借りて来て。空は、…私と一緒に来て」
「おい、ちょっと待て。話が全然見えないぞ。そもそも視聴覚室には誰が居るんだ?」
「決まってるじゃない」
 優はもう1度白衣のポケットからディスクを取り出した。
「『空』よ」


その4 再び視聴覚室

「私がここにいる経緯はご存知ですか?」
「ああ、沙羅から聞いた。基本のAIは同じでも、記憶とか体験が違うから、二人は厳密には同一人物じゃないんだよな。今回の事件の後に統合させるはずなのに、沙羅がクラッキング仕掛けたおかげで、それが無理になった…だったっけ?」
「はい。それで私の記憶をバックアップし、ほとぼりが冷めてから回収されたメインシステムで再生したんです」
「…えと、よく分からないんだが…」
「LM−RSDS−4913Aという既に完成された人格があると考えてください。この時点ではそれぞれの個体に差異はありません。違いが生じるのは、その後の体験・経験によります。つまり、稼動後の記憶を与えることで、LM−RSDS−4913Aはここにいる私になり、あるいは倉成さんの知っている私になるのです。ディスクに記録された記憶の部分とLM−RSDS−4913Aという人格、どちらかが欠けても今の『茜ヶ崎空』は存在できません」
「じゃあ俺の場合、LeMUを脱出する時に、そのメインシステムとやらも持っていくべきだったのか?」
「いいえ、それは不可能です。人格を持つほどの高度なAIのシステムは、当時の技術では部屋を一つ占拠する程の大きさを必要とします。その意味では、機能を限定しているとはいえ、もう一人の私のようなサイズにシステムを搭載しているのは、まさに技術の進歩による『奇跡』ですね」
「実感できんが、とりあえずすごいんだな」
 武が眠っていた17年間の年月は長い。その影響はコンピューターの性能の上昇にも顕著に現れている。自分が使っていた物とは桁どころか単位さえ違う性能を目にして以来、武はこの分野において旧人類であることをあっさりと受け容れていた。
「話が逸れましたね。警察の調査の前にメインシステムを回収してしまうと証拠隠滅を疑われかねません。かと言って、あの事件の真相の記録をそのままにしておくわけにはいきません。そこでまず私の記憶をバックアップし、その後で5月1日以降の記録を消去しました。それが警察で一通りの調査を経てこの研究所に返却され、私の記憶を再生したんです」
 なるほど、と頷きかけて、武は首を傾げた。
「おい、今の話で、どこが偽者なんだ?」
「え?」
「だって、間違い無く『茜ヶ崎空』だろ? 俺の目の前に居るのは」
 ソラは返答に詰まった。
「ですから、私が、倉成さんの知っている『茜ヶ崎空』を装っていたという意味なんですが…」
「…おお」
 武はポンと手を叩いた。
「そうか、空のフリをしていたのか」
「…はい?」
「悪い、気付かなかった」
 ソラは武の言葉を分析して、その意味に気付き、絶句した。
「あの、いつから気付いてたんですか?」
「この部屋に入ってすぐ」
 即答され、ソラはなんとも形容しがたい表情を浮かべた。その様子を見て何か妙なことを言ってしまったことを察し、武は慌てて話題を変えた。
「ところで気になっていたんだが、どうしてRSDなんだ? 確かに技術の進歩は堪能できたけど、ソラ本人までRSDを使う必要は無いだろう」
「確かにその通りですね。会話だけが目的ならスピーカーとマイクだけで足ります。でも、私は倉成さんを見てみたかったし、倉成さんに見てもらいたかった。それではいけませんか?」
「確かに俺も相手の顔を見ないで話をするのは苦手だが、そうじゃなくて、あの空の身体と同じ物を作ってもらえばいいじゃないか」
「予算や時間などの問題がありまして、今のところその予定は無いそうです」
「…そっか。残念だな」
 どういう言葉を返せばいいのか分からず、武は率直な感想を口にした。
「いえ、いいんです。それにRSDだと色々なことができるんですよ」
「さっきの瓦割りとか?」
「それもありますが、昔のデータを整理していたら、私のオプションで面白いものを見つけたんです。せっかくですから見ていただけますか?」
「面白いもの?」
「もう私の正体はばれてしまっていますし、倉成さんの知っている『茜ヶ崎空』と同じですから、この姿ではややこしいですよね」
「言われてみれば、少しは」
 その言葉を待っていたように、ソラは嬉しそうに微笑んだ。
「少し待っていてくださいね」
 そう言ってソラは立ち上がり、テーブルから少し距離を取った。目を閉じて胸の前で手を組んだ身体を光が包み込む。
 RSDで単純に光を再現すると、照射を受ける網膜に悪影響を与える。代わりに使用された通常のホログラフによる輝きは強さを増していき、耐えかねた武は手を目の前にかざした。裸眼で直視することが困難な光量の中、その中心に居るソラが一糸纏わぬ姿でいることをかろうじて判別した武は、慌てて椅子ごと回れ右をした。
「お待たせしました。倉成さん? どうして後ろを向いているのですか?」
 光が弱まり、壁に投影されていた影も薄れてゆく。武は不思議そうに問いかけるソラの声を聞き、振り返ろうとして思いとどまった。
「いや、何でもない。それよりも、今どんな格好をしているんだ?」
 服を着ているのか、とはさすがに言えず、武は辺り障りのない質問にとどめた。
「変ではないと思いますが…作成時のデータなので少し古いかもしれませんね」
 言葉の意味をよく吟味して、少なくとも何かを着ているだろうと判断し、武はおそるおそる振り返った。
 そして、絶句した。
「……………」
「どうかしましたか?」
「…誰?」
「私ですよ。茜ヶ崎ソラ。そんなに変ですか?」
 スカートの裾を慣れない手つきで摘み上げ胸のリボンを物珍しそうに見下ろしている、見たことのない少女に聞かれて、武は首を振った。
「いや、変、じゃない、少なくとも」
「良かった。今から20年以上前のデータなので心配していたんです」
 武の娘と同じ制服を着た少女がはにかむ。その外観はどう見ても高校生だが、同時にソラにしか見えない。
「LM−RSDS−4913A初期案その2、茜ヶ崎空17歳バージョンと、そのバリエーションの没ネタ集その1、鳩鳴館女子高等学校指定夏用制服です。どちらも用途が限定されるので正式採用は見送られましたが、この組み合わせは開発チーム内で最も人気が高く、最終選考に漏れた後も開発が続けられ、こうして完成した一品です。似合いますか?」
「…ああ、凶悪なぐらいに」
「ありがとうございます」
 武の感想を褒め言葉と解釈したのか、ソラは嬉しそうにその場でくるりとターンを決めた。材質から縫製までデータをそろえて仮想的に再現されたチェック柄のスカートが、存在しないはずの慣性に従って軽やかに浮かび上がる。
「12歳から28歳までの成長過程を想定した数種類の姿があるのですが、最も完成度の高かったものを選択しました。他にもお好みに合わせて体格や髪型などのオプションがありますが、何かリクエストはありませんか?」
「いや、俺に聞かれても」
「そうですか…」
 何故か残念そうなソラの様子には気付かず、武はここに来た理由を思い出した。
「そういえば、話したいことがあるんだって?」
「はい。私の、いえ、LM−RSDS−4913Aの根幹に影響する問題です」
「そんな重大な問題を俺が聞いていいのか?」
「いいえ、倉成さんじゃないと駄目なんです。それにこうして実際にお会いして、疑問は確証に変わりました」
 深刻な発言と裏腹に、ソラは楽しそうな笑みを浮かべた。
「実は私、お会いするのは初めてですが、皆さんから倉成さんについて色々伺っていたんです。それで一体どういう人なのか考えていました。だって面白いんですよ」
「悪かったな、オモシロイ奴で」
「あ、違うんです。田中先生に桑古木さん、それにもう一人の私まで口をそろえて、倉成さんは『バカ』だと言うんです。松永さんのお話では、小町さんも同じ意見だとか」
「なお悪い!」
「でも倉成さんのことについて話されるとき、皆さん、とても楽しそうなんです」
「面白くてバカな奴をネタにするんだ、思い出し笑いぐらいするだろう」
「すみません、表現が悪かったですね。こうして実際に倉成さんにお会いするまでは分からなかったのですが、今ならなんとなく分かります」
「何か分かったのか?」
 答える代わりに、ソラは曖昧な笑みを浮かべた。
「その前に、私の疑問にまだ答えてもらっていません。どうして私が私だと分かったんですか?」
「んー、そうだな。…勘、かな」
「そうですか」
「おい、今の答えで納得したのか?」
「勘というのは、知識と経験によって導き出される、理論的な思考を省いた判断です。つまり、倉成さんにとっての『茜ヶ崎空』に関する知識と私の間に食い違いがあったということですね」
「いや、そこまで深く考えていたわけじゃないが…」
 一人で何事かを納得しているソラの様子を見て、武は頭を掻いた。
「ねぇ、倉成さん」
「何だ?」
「もう一つお聞きしたいことがあるんです」
 外見こそ異なるが、その表情が記憶の中のものと重なる。既視感に襲われて、武はソラを見つめ返した。
「花は咲くために…」
 ソラの背後で、回転木馬が速度を落として停止する。
「鳥は歌うために生きています」
 申し訳程度に音量を押さえていたBGMが完全に消えた。
 ソラが次に口にする台詞を、武は知っていた。
「では、人は何の為に生きるのでしょうか」
 静寂の中、武は、ここがカルセル・デルフィーネであることを思い出していた。


その5 視聴覚室前

 内部からロックされている視聴覚室のドアの前で、優と空は桑古木を待っていた。室内との通信用に備え付けられたインターホンも反応が無く、マスターキーを使わなければ、中で何が起こっているのか知る手立ては無い。
 まだ事情を把握していない空が憮然としている優に話しかけようとした時、気の抜ける音が人影の無い廊下に響いた。
『優!』
 ピンポンパンポンというチャイムに続いて、焦ったような桑古木の声が所内放送用のスピーカーから流れた。
『マスターキーは使用中だ。それから、閉じ込められた!』
「閉じ込められた?」
 思わず天井のスピーカーを見上げるが、LeMUと違い双方向通話のマイクは備えられていない。優と空は顔を見合わせた。
「何言ってるのかしら」
「締め出されるのなら分かりますが、閉じ込められることは無いはずなのですが…。様子を見てきましょうか?」
『原因は不明、いや違う、なんかメッセージが出てる。…警備室を中心に火災発生、火元は天ぷら鍋? 付近の扉及び通路は強制封鎖、慌てず騒がず落ちついて避難して下さい?』
 桑古木の声のバックでけたたましい音を立てているのが非常用のサイレンであることに思い当たり、優は辺りを見まわした。しかし、沈黙を保っている廊下の火災報知機をはじめとして、非常事態の兆候はどこにも見当たらない。その目が視聴覚室のドアに留まった。
「ねぇ、空」
「はい」
 同じく周囲を見まわしていた空が、腑に落ちないという顔のまま優の方に振り返る。
「空なら、この研究所のホストコンピューターにクラッキングを仕掛けられる?」
「クラッキング? これは作為であるとお考えなのですか? …武さんと一緒に居るのは、もしかして…」
「多分ね。それで、可能なの?」
「はい、この程度のイタズラの方法なら、以前沙羅さんに教えていただきました」
「そう、沙羅に…」
 優は無意識の内に白衣のポケットに手を入れ、そこに入っているディスクの感触を確かめた。
「避難訓練用のコマンドを発動させただけのようですから、それほど難しいことではありません。おそらくマスターキーの使用記録を調べようとすると作動するブービートラップでしょう」
「解除の方法は?」
「少し待って下さい」
 空は視聴覚室の向かいの部屋に入り、後に優が続いた。端末を操作し警備室を呼び出そうとするが、エラーメッセージが表示される。しかし特に意外そうな顔をせずに、さらにコマンドを打ちこんだ。
 ほどなくしてディスプレイの表示が切り替わった。それを読みとって首を傾げた空に優が後ろから話しかける。
「どう?」
「妙なんです。確か桑古木さんのお話では、武さんが来られたのは昼休みに入ってすぐですよね。視聴覚室の入室記録も一致しています」
「らしいわね」
「しかし、視聴覚室のロックと警備室のトラップが仕掛けられたのは、それからしばらく経ってからになっています」
「私達が気付く頃を見計らったという線は?」
「最初から準備しておくことも可能なのに、わざわざそんなことをする意味がありません。少なくとも、私ならそうします」
 優には空ほどのハッキングの知識が無いため、素人が見ても意味不明のディスプレイの表示ではなく、空の言葉を元に腕を組んで考え込んだ。
「空が言うと説得力あるわね。だとしたら、武を呼び出した張本人は何を考えてるのか…」
「…気が変わったのでしょうか」
「え?」
「あ、すみません。なんとなくそんな気がしただけなんです」
 慌てて取り繕った空を見て、優は組んでいた腕を解いた。
「考えても仕方ないわね。それで、解除はできそう?」
「どうやら時限式のトラップのようです。解除は可能ですが、設定した時間が経過すれば自動的に消滅するタイプですね。視聴覚室のロックも同じ仕掛けが施されています」
「時限式? いつまでなの?」
「そうですね…」
 空はキーボードに走らせていた手を止めて、壁に掛かっている時計を見上げた。
「あと5秒です」
「え?」
「3、2、1」
0、と同時に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
「…もう大丈夫なの?」
「ええ、だと思いますけど…」
 二人して視線を向けた開けっぱなしの入り口の向こうで、ロックされていた視聴覚室のドアが開いた。そこから武が姿を現したのを見て、優は思わず駆け寄っていた。
「武! 大丈夫だった!?」
「何が?」
「何がって、…何してたの?」
「別に。ただ話をしてただけだよ。なぁ、ソラ」
『はい。今日は楽しかったです。本当にありがとうございました』
 視聴覚室の中の方に振り返った武に、室内のスピーカーから流れるソラの声が答えた。
「本当に?」
「嘘ついてどうするんだよ。沙羅がここによく来ているのは知ってるだろ? よく俺のことを話してるから、一度本人に会ってみたかったらしい。LeMUでは沙羅とホクト、それにつぐみも世話になったんだから、俺の方こそこの機会に礼ぐらいしとかないとな」
『いえ、そんな、お礼だなんて』
 照れたような声に、聞いている優と空が複雑な表情を浮かべる。
「あ、そうだ。あの話を教えたのは空だろう?」
「あの話?」
 突然話題を振られて、空は聞き返した。
「『人は恋をするために生きる』…確かに俺はそう答えたけど、ああいう恥ずかしい話をあちこちで広めるなよ。質問されたときはびっくりしたぞ」
「…え?」
『恥ずかしいことではありませんですよ。とても素晴らしいことだと思います』
「ま、喜んでもらえたなら、こちらとしても講義をした甲斐がある。そんじゃ、またな」
『また会って頂けるのですか?』
「なにを当たり前のことを。今日みたいな回りくどいことをしなくても、会いたいならいつでも言えばいいさ」
『本当ですか? ありがとうございます』
 他の二人には見えていないソラに手を振って、武はエレベーターに向かって歩き出した。


その6 視聴覚室

 武が帰った後、優と空は視聴覚室に残っていた。やっと警備室から開放された桑古木は男であるという理由だけで追い出され、部屋の前で立ち番をさせられている。優は外部との通信が切ってあることを確認してから、空に続いてイヤホンを装着した。
 最初に口を開いたのは、白いドレス姿の方のソラだった。 
『すみません、田中先生。こんな勝手なことをしてしまって』
「反省してる?」
『はい』
「じゃ、教えて。どうしてこんなことをしたの?」
『私のバックアップディスクが再生されてから、松永さんと田中さん…先生の娘さんがよく遊びに来られているのはご存知ですよね。お二人とは例の事件や近況のことをよくお話しするのですが、ある時、倉成さんのことが話題になったんです。私は面識がなかったので、是非お会いしてみたいと言ったところ、松永さんがちょっとしたイタズラを思い付かれました』
「イタズラ?」
『はい。内容はこうです。…私が私であることに気付くかどうか』
「なるほどね」
 優は持ってきてしまっていたカバンから魔法瓶を取りだし、カップに温かい紅茶を注いだ。自分で飲むのではなく、目の前の空に薦める。ソラは一礼してカップを手に取り、口をつけた。
「それで、結果はどうだったの?」
『あっさりばれてしまいました』
 ソラは紅茶を飲み干してカップをテーブルに戻した。今度は優がそれを手に取る。
「うちの最先端の映像技術がそんな簡単に見破られるとはね。桑古木が余計なヒントを与えちゃったのかしら」
 優はカップの中に視線を落とした。八分目まで注がれたままの紅茶は当然のように湯気を立てている。
『さぁ、どうでしょうか。倉成さんの仰るには、勘だそうですから』
「勘ねぇ…。あいつらしいと言えばその通りだわ。で、武と会ってどうだったの?」
『どう、と言われましても…』
 優は紅茶を一口すすって、中身が半分以上残っているカップをテーブルに戻した。
「隠し事はこの際なし。ブービートラップまで仕掛けて私達を遠ざけようとしたのはどうして?」
 ソラの表情がこわばった。
『…知りたくなったんです。私の存在意義を』
 ソラはもう一人の自分を見た。
『私はLM−RSDS−4913A:茜ヶ崎空です。自分がAIであることを自覚しています。では、あなたは?私と同じなのですか?』
「はい、私もあなたと同じ。…AIです」
『でも倉成さんに好意を抱いている。そうなんですね』
「…ええ」
『その想いがこの先永遠に報われることが無いと分かっていても? 例え姿を似せても人間ではないとしても? それでもあなたは、倉成さんのことを…』
「やめなさい」
 静かな声で優が制した。
「今はあなたのことを聞いているの」
『…すみません。しかし、私には分からないんです。田中先生、恋とはなんなのでしょう。それには一体どんな意味があるのですか?』
「…」
 予測していた質問であったため優は動揺こそしなかったが、答えることはできなかった。
『倉成さんはすごいですね。勘だけで私とは初対面であることに気付かれてしまいました。だからお聞きしてみたんです。私達の違いにすぐに気付くほど『茜ヶ崎空』のことを理解している人なら、私自身でも分からないことを教えてもらえるのではないかと思ったから』
「…人は何の為に生きるのか」
 私達、という言葉と共に投げかけられた視線を受けて、空が答える。
『倉成さんは、私があなたから聞いた話だと思われたようですが、…やはりそういうことですね』
「…ええ」
 物憂げな表情で視線を交わして二人の空が沈黙し、会話が途切れた。
 話が自分の待っていたところに辿り着いたことを察知した優は、少し躊躇ってから、本題を切り出した。
「二人とも薄々気付いているようだから都合がいいわ。あなた達は同じソースを持つAI。人間なら長い年月をかけて形成されるメンタリティをすでに与えられてしまっているから、持っている記憶に差があると言っても、根幹的な人格はほとんど同じ。だから発想や行動パターンは似ているし、それに……好きになる異性も」
 息を飲む音がイヤホンから流れた。
「AIが恋をするなんて、開発者も思わなかったでしょうね。もちろん特定の個人に強い好意を抱かないようになっているんでしょうけど、そんな制約を上回るほど、まさに理想通りの人物に出会ってしまった。科学者の端くれとしては認めにくい、ご都合主義な仮説にしか過ぎないけど」
 優は亡き父親のことを思い出しかけて、軽く首を振った。
「今の質問もその一つだったようね。ところでどんな話なの?」
「はい。田中先生にもお話していませんでしたね。2017年のあの事件の時、LeMUで武さんに質問してみたんです。花は咲くために、鳥は歌うために生きています。では、人は何の為に生きているのでしょう?」
「どうしてそんな質問を?」
「知りたかったんです。人間と私の存在意義の違いを」
 一息つき、空は、顔を伏せたもう一人の自分を見た。
「その時の私の感情は自分でも説明できなくて、怖かったんです。でも武さんの言葉を聞いて、ますます分からなくなりました。種の保存という目的とは関係なく恋をするのなら、私だって人間と同じように、…恋をすることも許される、ということになりますから」
『…』
「卑怯なんです、私。分からないと言いましたが、実は心のどこかでその答えを期待していました。今から思えば、武さんへの気持ちを正当化するために質問したようなものですね。
 キュレイウイルスのこともそう。武さんが生きていてキュレイに感染していると聞いたとき、本当はすごく嬉しかったんです。…小町さんがライプリヒの研究所でどんな目に遭っていたのか知っていたのに。
 人間には寿命がありますが、私は技術の続く限り存在が可能です。私自身がそれを望まなくても。でも、これからの長い時間をあの人と過ごせるのなら、その心の中にいるのが私ではなく他の人だとしても、私にとっては信じられないぐらいの幸せなんです。…といっても、それ以上の関係になるのを諦めたわけではありませんよ?」
 冗談で締めくくって、空は微笑んで見せた。
「そう。そんなことがあったの。ごめんなさい、立ち入ったことを聞いてしまって」
「いえ、先生にはいつかお話しようと思っていたんです。かなり時間がかかってしまいましたけど、これが私なりの結論ですから」
 優は、告白を終えた空とは対照的に俯いているもう一人のソラを見た。
「さて、次はあなたの番よ」
『え?』
「空は自分の言葉で語ってくれたわ。あなたはどうするの?」
 優は白衣のポケットから1枚のディスクを取り出した。
「念のために言っておくけど、『以下同文』なんて言ったら、私はいますぐあなたのデータを初期化して、これを叩き割るつもりよ」
「田中先生!」
「空は黙ってて。同じ考えしか持っていないのなら、あなたは所詮『もう一人の空』に過ぎない。それなら一人いれば充分だわ」
「出会ったその日にそんなことを聞かれても、答えられるはずありません!」
「難しい質問じゃないわ。教えて。あなたは武に会って何を感じたの?」
『…私は…』
 ソラの本体はここには無い。別の部屋で稼動しているシステムが弾き出した人間としての行動を、RSDを使って網膜に投影しているだけである。しかし優はその事実をあえて無視していた。情報処理能力だけなら最新鋭の演算機のそれと同等とは言え、思考自体は普通の人間と変わり無い。だからこそ、優は目の前にいるソラが答えを出すのを待ちつづけた。
 しばらくして、ようやく静寂が破られた。
『…分かりません。でも…』
「でも?」
 戸惑いながらもようやく顔を上げたソラは、優がまるで全てを見透かしているような目で自分をずっと見ていたことを知った。それがどういう意味なのか考えながら、まとめきれない言葉を紡ぐ。
『…確かに私ともう一人の私は、同じ考え方を持っていて、同じ人を好きになるでしょう』
 虚像のソラと実体の空が互いを見詰め合う。
『しかし、あなたには倉成さん達と過ごした2017年の6日間があります。今回の計画を実行に移すほどの大切な想い出が。それに引き換え、私にあるのは今日初めて交わした会話の時間だけです』
「…」
『でも、これだけは本当です。倉成さんのことが気になるんです。次に会うことがあれば、この気持ちはもっと強くなると思います。だから、これ以上あの人のことに会わないようにするか、先生の仰る通り、私の記憶を消去してしまった方がいいのかもしれません。
 けれど、多分それはすごく辛いことだと思うんです。この世界にいくつも存在する同じ人格、そして予めプログラムされた結果の感情でも、私にとっては唯一つのものですから。
 私も、いえ、私は、あの人を好きでいたいです。この気持ちは許されないものなのでしょうか? もしもそうなら、…記憶だけでなく私のシステムを全て停止させてください』
 言い終えた後、今度はソラは俯かなかった。自分の言葉を信じるように優の目を見据え、答えを待つ。
「あなたは自分で言ったわよね。姿を似せても人間じゃない。想いが報われるかも分からない。それでも?」
『はい』
「相手は妻子持ちで、他の女になんか見向きもしない鈍感野郎でも?」
『はい』
「後先考えない生粋のバカよ? 苦労するのは目に見えているけど、本っ当にいいの? 万が一うまくいっても後悔するかもしれないわよ?」
『…はい?』
 優の表情は変わらない。しかし、口調が変わっていることにソラは気付いた。
『あの、田中先生?』
 話が妙な方向に向かいつつあることに気付いて反応に困っているソラに、優は苦笑で応じた。再びカップを手に取り、すっかり冷え切ってしまった紅茶を飲み干す。
「確信犯がもう一人増えたか。つぐみも苦労するわね」
『どういうことですか?』
「言ったでしょう? あなた自身の気持ちが聞きたかっただけ。それに生半可な覚悟しかないなら、早いうちに諦めた方が傷つかないで済むわ」
『それでは…』
「途中参戦を認めるわ。残念ながらハンディキャップは無いけどね」
『でも、いいんですか? 私はAIなんですよ?』
「何言ってるの。すぐ目の前に例外が居るじゃない。だいたい今の世の中、人間の方こそあなた達に相手してもらえるかどうか疑わしいんだから。改めてよろしくね、『空』」
『…先生。ありがとうございます』
 ソラは、初めて自分の存在を承認してくれた相手に深々と頭を下げた。
「そういうわけで競争相手が増えたんだけど、構わないわよね」
 優は振り返り、隣で満足げな笑みを浮かべている空を見た。
「もちろんです。ありがとうございます、先生」
「どうしてお礼を言われるのかしら」
「それは簡単です。私は武さんのことが好きですが、先生のことも好きですから。その先生が思った通りの方だったので嬉しいんです」
 言葉に詰まった優の前で、同じ姿と名前を持つ者同士の友好の握手を交わされた。
「…何のこと? 私は本気だったわよ」
「ええ。先生はいつでも本気で、それに優しい方ですから」
 優は肩をすくめた。
「女の友情もいいけど、目的を忘れないように頑張ってね」
 二人の空は顔を見合わせ、吹き出した。束の間のアイコンタクトの後、白いドレス姿の方のソラが口を開く。
「『頑張りましょう』の間違いですね。私達は先生にも負けるつもりはありませんから」
「あら、気付いてた?」
「当たり前です」
 三人は顔を見合わせ、誰からともなく笑い合った。


 翌日。茜ヶ崎空ファンクラブ、親衛隊、後援会、その他の団体(いずれも非公認)の奇跡的な休戦協定により、研究所の創立以来初めてとも言われる一丸の協力態勢で、『空』の身体の開発が開始された。首謀者は田中優美清春香菜とされているが、本人が黙して語らないため、そして誰も反対する者がいなかったため、真相は闇の中である。
 しかし、LM−RSDS−4913Aに関するあるデータが密かに出回っていたことを、彼女は知らない。


その7 第17実験室

「で、なんでこうなるの?」
「さぁ…」
 この日の為に急遽持ち込まれた電光掲示板のカウントダウンの数字が0のゾロ目に変わった。最高潮に達していたドラムロールがタイミングを合わせて鳴り止み、照明を落とした室内を縦横に照らしていたスポットライトが停止、ドライアイスの煙に包まれた人間大のポッドに照準を固定する。
 頭を抱えた優、苦笑を浮かべた空、そして研究所中から詰めかけた職場放棄者が見守る中、ポッドのハッチがゆっくりと開いた。優と空が歩み寄り、胸の前で手を組んで横たわっている身体から電極を剥がしていく。最後にはだけていた服の胸元を整えた時、まどろみから覚めるようにその目が開かれた。
 茜ヶ崎空の2度目の起動は成功した。
「有機部品の拒絶反応は無し。五感五体すべて正常。慣れるまではふらつくかもしれないけど、深刻な問題は無し、と」
 両側から支えてポッドから立ち上がらせている優と空、そして主役であるソラに、中立という立場を買われて進行役を務める桑古木が記録用のマイクを向けた。
「それでは今の感想を一言」
「ええと、よろしくお願いします、でいいんでしょうか」
 直後に起こった部屋を揺るがす歓声に怯えて、ソラは優の背後に隠れた。
「大丈夫よ。改めてよろしくね。それで」
 優しい口調から打って変わって、影の実力者としての地を剥き出しにした視線を桑古木に向ける。
「誰の陰謀?」
「ははは、何のことだい?給料の出ない課外時間労働への美しい献身のどこに陰謀の入り込む余地があるんだ」
「だったら、これは何なの!」
「おそらく私の初期案その2、茜ヶ崎空17歳バージョンだと思います。見るのは初めてですが」
 首を締め上げられて返事できない桑古木に代わって空が答えた。
「ほほぅ、17歳。いい趣味してるじゃない」
 必死に背中に隠れている少女の姿を見て、優はため息をついた。かつて自分が、そして去年までは娘が袖を通していたものなので、見間違うはずはない。ご丁寧に通学カバンまで抱えているソラが着ているのは、真新しい鳩鳴館女子高等学校指定制服であった。
「もう1度作り直す、ていうのは…」
 観客から一斉にブーイングが巻き起こったため、優は諦めて吊るし上げていた桑古木を開放した。
「あー苦しかった。この姿にもちゃんとした理由があるんだ。空と同じ姿では非常に紛らわしいという実務上の要請と、今回の製作チーム内でのアンケートの結果、それから同じスペックで小型化・軽量化を追及するという技術的側面と…他に何があったっけ」
「そこまで内部事情を知っていたなら止めなさいよ。まったく男ってやつは…」
「なんか問題があったか?」
 桑古木が不思議そうな顔をした。
「あるに決まってるでしょう! はぁ、桑古木までそんなオヤジ趣味だったなんて」
「失礼なことを言うな! 俺はいつだってココ一筋だ」
「…聞いた私が馬鹿だった…。お願いだから胸張って言わないでくれる?」
「それに本人の意向を汲んだんだから仕方ないだろう」
「本人?」
 振り返った優と視線を合わせないようにうつむいて、空は消え入りそうな声でつぶやいた。
「はい。…倉成さんが、似合っていると仰られたので…」
「いつの話?」
「この間、初めてお会いした時です」
「あなた、RSD使ってその格好で武と話をしていたの?」
 初々しさ溢れる女子高生が、怯えたような上目遣いで優を見上げる。
「…もう一人の私と同じ姿では話がややこしいと判断しました」
「で、武はそれを絶賛したと」
「いえ、そこまでは…」
「………空」
 さすがに女子高生が相手で反応に困り、優はこめかみを押さえて大きく深呼吸をした。
「なんですか?」
「あとお願い。医務室で薬もらってくる」
「はぁ、お大事に」
「では続いて彼女の愛称の命名式と、配属先を賭けた所内対抗ウルトラクイズに移るとするか。早くしないと今日中に終わらんな」
 赤ペンでチェックを入れた進行台本を片手に桑古木がぼやいたのを聞き、廊下に出ようとしていた優が無言でUターンした。成り行きについて行けずにおろおろしている空とソラの前に立ちはだかり、盛りあがり最高潮のギャラリーを一瞥する。
 今日だけで何回目になるか分からないため息をつき、肺一杯に空気を吸い込んだ。
「あなた達、さっさと仕事に戻りなさい!!」


その8 社員食堂

 昼休みということで社員食堂に向かう人の流れの中、桑古木はようやく目当ての人物を見つけ、声をかけた。
「やっと捕まえた。今日は食堂か。珍しいな」
「この後すぐに仕事があるの。のんびり外食なんてしていられないわ。何か用?」
「それじゃ手早く済まそう。例の途中経過が出た」
「見せて」
 優は書類袋から取り出されたレポート用紙の束を受け取り、食券の販売機の行列に並ぶ時間を利用して目を通した。
 茜ヶ崎空(17歳)は、外見はともかく中身は一人前以上のシステムエンジニアとしての実力を持っているため所員扱いとなり、その適正を見るために各部署を日替わりし始めて一週間が経過した。最終決定権は人事課ではなく、何故か優にある。
「どの仕事をさせても十分な成果が出てる。飲み込みも早いし周囲の受けもいいから、早くも話題沸騰、引く手数多といったところか。ここに入社したばかりの空を思い出すな」
「その空との関係は、あの娘の方が意図的に外見相応の振る舞いをしているみたい。この前なんか『先輩』と『姉さん』、どちらで呼ぶべきかで相談されたわよ。誰が吹き込んだの?」
「例の17歳バージョンってのは、外見だけじゃなく仕草や態度なんかも合わせてあるらしい。おかげで似たもの同士の美人姉妹として違和感が無いどころか大評判らしいぞ。あの姿の功績だな」
「紛らわしくないのはいいんだけどね。でも次は認めないわよ。ところでこのレポート、あの娘がいる間だけ、どの部署でも仕事の能率が上がっているのが気になるんだけど」
「人徳じゃないか?おかげで空を独占しているうちは、非難とやっかみの矢面に立たされてる」
「まったく…」
 優は白衣の内側から取り出した認証印で捺印し、レポートを桑古木に返した。顔を上げて自分の順番を確認するが、相変わらず行列を作る人数は多い。不審に思って列の前方に視線を向けようとした優の隣で、桑古木が咳払いをした。
「ところで、この前の話なんだが…」
「この前?」
「VS。あれの件で、優に話しておくことがある」
「まさか、まだ空を使おうなんて考えてるんじゃないわよね」
「それは大丈夫だ。1対1で殴り合うだけの対戦格闘ゲームならともかく、キャラクターの人格をエミュレートしようとすると、空ぐらいのAIだと処理機能のほとんどを食われるからゲームには向かないという偽の試算を流しておくつもりだったんだが…」
「そう。ありがとう」
「いや、実際そうなるそうだ。ここだけの話だが…」
 桑古木は声を潜めた。
「…すでに実験していたらしい」
「何を?」
「LM−RSDS−4913Aのオリジナルが手に入ったんで、試しに走らせてみたそうだ」
「………え?」
 思いもよらない事態に、優の反応が遅れる。
「他にも、プレイヤーに要求される行動が多過ぎて面倒くさいとか、この手のゲームは参加するよりも話として楽しむものだとかいう意見が続出して、結局ゲームとしての利用は諦めることになった。その代わり、空と様々なシチュエーションで会話が楽しめる高機能シミュレーターとして使用されてる」
「ちょ、ちょっと待って! LM−RSDS−4913Aって、どこからそんなものを? 世に出まわっているのは、ここにいる二人だけのはずよ」
 海外仕様の同型機を除けば、優の知る『茜ヶ崎空』と全く同じシステムの生産数は少ない。しかもその内の2基はLeMUと共に海の藻屑と化している。BW召還計画に必要であったため事前に調査した際に、現存の稼動可能なLM−RSDS−4913Aは正真正銘2基だけであることを確認している。
「世に出まわっているのは確かに2基だけなんだが、2017年の事故で安全性を問われて実働する直前に倉庫送りになっていた初期型が見つかって、ライプリヒの倒産による資産処分のオークションで出品されたんだよ。運用に手間ヒマがかかり過ぎる上にいわくつきの一品だから、意外に安かったらしい」
「そんなこと聞いていないわよ! それで、今どうしているの?」
「なにせ20年近く放っておかれてたから、今の規格に合わせるのが大変で、色々手を加えてやっと起動にこぎつけたそうだ」
「…それで?」
「起動したのはいいんだが、肝心の企画が倒れたんで投資を回収する目処が立たなくなったのは今言ったとおりだ。空との会話シミュレーターってだけでは商品として弱いからな」
「投資? 血迷って研究所の予算をつぎ込んだの?」
「ああ。さすがにまずいことになってきたから、苦肉の策で費用を折半するために社内で提携先を募集して、今日からそこで働いてるらしい。これが実に適材適所で、すでに着々とファンを増やしているとは聞いていたけど、本当に噂通りだな」
「働いているって、まさか…」
 会話をしながら列の流れに合わせて足を進めていた優は、時ならぬ盛況を見せている社員食堂を見渡した。躍進目覚しい外食産業に客を取られて閑古鳥が鳴いていると言われていたのが嘘のように、席のほとんどが主に男性社員によって埋め尽くされている。
『いらっしゃいませ』
 聞き覚えのある、しかしありえない声を耳にして、優は恐る恐る列の方向に向き直った。いつの間にか順番が進み、優の前に並んでいた男性社員が、やたらに大きな券売機に向かって姿勢を正す。
『ごめんなさい、お待たせしてしまって。ご注文は何になさいますか?』
「カ、カレーを一つ…」
『あの、それだけでいいんですか? 差し出がましいかもしれませんが、もっと栄養のバランスを考えて、ご自分の体をいたわってください。私に出来るのは食生活のアドバイスだけですが、若い方は無理をされることが多いのでどうしても心配なんです』
「じゃ、じゃあ、一緒にグリーンサラダも」
『ありがとうございます。今日のお野菜も新鮮で、特に付け合せのトマトが絶品だそうですから、ドレッシングをかける前に1度そのまま食べてみてくださいね。すごく美味しいそうなんです』
 とどめに営業用スマイルとは思えない特上の笑顔を向けられ、催眠術に掛かったように代金が投入された。真っ赤な顔で発行された食券を受け取り、何度も名残惜しそうに券売機の方を振り返りながら男性社員が去ってゆく。優と桑古木は無言でその後ろ姿を見送った。
 新台入荷、と書かれた張り紙付きの券売機は、LeMUにおける空にあたる機能と目的を持つ。内部数ヶ所に仕掛けられた投影機によって、ホログラフで店員の姿を再現することが可能である。RSDと違って不特定多数に対応できるため、技術を売り物にする企業の受付で宣伝を兼ねている場合も多い。
 優はその装置を知っていた。そして、優が知っていたのはその装置だけではなかった。カウンターの向こう側で販売員風の衣装に身を包んだ女性がにっこりと微笑みかける。
『いらっしゃいませ。あ、田中先生ですね? 初めまして。今日からここで働かせて頂くことになった茜ヶ崎空です。よろしくお願いします』
「………こちらこそ」
 どうにか引きつった笑顔を返し、優は、特大のため息をついた。


 数日後。
 沙羅に連れられて研究所に遊びに来た武が社員食堂を訪れることになる。
 その時彼女が恋に目覚めるのか、それは誰にも分からない。




 中途半端に長くなりました。
 にも関わらず最後まで読んで頂いた方に感謝します。
 書いている最中にアルコールに逃げたくなったほどハズカシイ話です。
 オチは明さんのイラストの影響だったりします。
 苦情でも指摘でもお気軽にどうぞ。

 2月下旬            TARO




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