僕達は迷っていた。このLeMUは広くないけれど、外と違って壁がある。だから遠くを見渡せない。いつの間にかみんなとはぐれてしまって、僕達は二人きりで歩いていた。
 困っているのはそれだけじゃなかった。頭が痛かった。どうしてなのか分からないけど、どうしようもない痛み。立っていることも出来なくてその場にしゃがみこんだ。
 一緒に歩いていた女の子が立ち止まった。大丈夫?と声をかけてくれたけど、僕は答えられなかった。俯いたまま顔を上げることも出来なくて、ただ首を横に振る。
 手を貸してもらって僕は噴水の縁に座った。近くのベンチは人でいっぱいだった。
「ここで待っててね、涼権くん。みんなを探してくるから」
 アイスクリームを手に押し付けられた。頭痛の時は冷やすといいと言うから、水枕の代わりなのだろうか。そんな不器用な気遣いがうれしい。
 痛む頭をなんとか持ち上げてお礼を言おうと思った時、走り出していた女の子が立ち止まってこっちを向いた。
「食べちゃ駄目だよ、それはあたしのなんだから」
 …さっそく一口貰おうとしたところで釘を刺された。どう返事をすればいいのか分からなくて、駆けて行く背中が人ごみに消えて行くのを、あっけにとられたまま見送った。
 その時、サイレンのような大きな音が鳴り始めた。
 嫌な予感がした。何故か2度とその子に会えなくなるような気がした。僕は痛みを我慢して立ちあがろうとした。けれど、金縛りに遭ったように体が動かない。
 女の子はどんどん遠ざかって行ってしまう。だから、せめて名前を呼ぼうとして…
「………誰だっけ」
 そこで目が覚めた。



空梅雨 
                              TARO


-1-

 すでに朝ではなかった。
 時間の感覚を無くすほどの熟睡を中断したのは、けたたましい音で着信を知らせている枕もとのPDAだった。内容は忘れたが、夢の中にまで聞こえてきたような気がする。半分寝ぼけたまま画面を確認した。
 これまでの経験からして、電話をかけてくる頻度が最も高いのは、かつての直属の上司、つまり優だった。しかし今の俺は既に部下ではなく、また、今日の予定を考えると無視するのが理想だった。そんな風に考えていたので、つい反応が遅れた。発信者は田中優美清秋香菜だった。
「…珍しい」
 電話に出るか、それとも気付かなかったことにして冷蔵庫に放り込むかで迷った。時計を見ていないので分からないが、確実に五分以上迷っていた。それでも一向に呼び出し音が鳴り止まないところをみると、どうあっても諦める気は無いらしい。母親譲りの根性に敬意を表して、俺は通話ボタンを押した。
「…もしもし」
「やっと出た。一体何やってるのよ。もう日は高いのにまだ寝てるんじゃないでしょうね」
 ベッドから身体を起こして窓際に立ち、PDAを首に挟んで両手でカーテンを開いた。南中より一歩手前の強い陽光がフロアリングの床に差し込んでくる。今日も暑くなるだろう。
「この蒸し暑い季節に元気だな、お前は。何か用か?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、今すぐ出られる? ひょっとして本当に寝起きだった?」
「寝起きだ。ついでに二日酔いで気分が最悪だから、今日は一日中寝てようかと思ってる」
 それらしく聞こえるように不機嫌な声で返事をして、それから受話器の口を抑えて大きく伸びをする。充分な睡眠のおかげで気分がいい。
「そっか。せっかく近くまで来てるんだから、少しだけでも駄目?」
「近くねぇ…どこからかけてるんだ?」
「桑古木のアパートの前。へぇ、こんな所に住んでたんだ。部屋は二階だったっけ」
 風を通すために窓を開けようとしていた手が止まった。嫌な予感がして視線を下に向けると、電話をしながら歩道からこちらを見上げている人影と目が合った。
「目は覚めてるみたいね」
「…そこの喫茶店で15分待ってろ。シャワー浴びてくる」
 にっこり笑ってVサインを向けてくる姿に、日増しに似てくる母親の面影が重なったような気がした。俺の私生活は、これまでに続いてこれからもあの母娘によって支配されるのだろうか。

 倉成武はタバコを吸わない。酒は飲むが、一人で好んで飲む方ではないらしい。必然的に俺もそういう風に振舞っていた。もしも武がヘビースモーカーでアルコール依存症だったら、俺もそう仕込まれていたのだろう。
 あの計画という目的を別にしても、俺は自発的にそういったものに手を伸ばす気にはなれなかった。理由があるとき、例えば誰かを尾行している最中に時間を潰す場合などは、男が一人きりで場に溶け込むために最適の小道具として活用している。しかし、あくまでもポーズであり、味は二の次だった。
 嗜好品に限らず、あまり娯楽の類にも縁が無かったような気がする。ひょっとすると自分なりの願掛けだったのかもしれない。我ながら若かったものだ。
 それはともかく、そのせいもあってか、今でも俺はアルコールとは縁が薄い生活を送っている。ただし、そのことは優でさえ知らない。二日酔いは厄介ごとを断る言い訳として便利なのだ。今日は失敗したが。
 
「単刀直入に聞くけど…」
 人目をはばかるように声の調子を落とし、ユウがテーブルの向こうから身を乗り出してきた。わざわざそんなことをしなくても、昼食時には一寸早い平日の午前中なので、客はまばらである。
 ここは俺がよく利用する喫茶店である。味はそこそこ、値段はまあまあ、雰囲気はそれなり。なんといっても近いので、休日の朝にはトーストを焼くのさえ億劫な独り者にはありがたい。
「…お母さんって、どんな人なの?」
「…俺のか?」
 つられて声を潜めて聞き返したのだが、気に召してもらえなかったようだった。盛大にため息をついて、俺の鼻先に人差し指を付きつけてくる。
「私のに決まってるでしょうが! 何が悲しくて桑古木の母親の話を聞きに来るのよ!」
 もちろん分かっていた。それでも外さずにはいられないのが倉成流の心得である。武本人が何と言うか知らないが、少なくとも演技指導の優によればそうらしい。
「どんな人って言われてもなぁ…そのまんまとしか言い様がない」
「十数年隠し事されたのよ。いまさら『そのまま』なんて信用できると思う?」
「それもそうだ。空はなんて言ってる?」
 空は俺に次いで優との付き合いが長い。あの事件の混乱にまぎれて法律上の処理も済ませ、今では田中家で一緒に暮らしている。男である俺よりも、この手の相談を持ち掛ける相手として適役だろう。
「空は嘘をつけないんだけど、代わりにはぐらかすのが上手なのよ」
 なるほど、と相槌を打って、俺は考え込んだ。空が口を割らなかったのは、優の意向を受けてのことかもしれない。とすれば、うかつなことを漏らすのは命取りである。
「優か…」
 傍若無人、と言いかけて思いとどまった。後で本人の耳に入った時のリスクを考えて、田中優美清春香菜という人間を説明するのにふさわしいエピソードで、なるべく当たり障りの無いものを記憶の中から探す。何気なく窓の外を見ると、一台の自動車が走っていくところだった。
「…知ってるか? 無敵を誇った関東愚連会・苦麗無威爆走連合初代総長の、唯一の敗北」
「なんでみんな沙羅の冗談を真に受けるかな…。で、それがお母さんに関係ある話なの?」
「最後まで聞けって。創設者にして歴代最速と謳われた初代総長に黒星を付けたのは、驚け、なんと優だ。あいつのデロリアンは、あの頃を生きた走り屋なら誰でも知ってるぐらいにすごかったんだぜ」
「で、でろりあん…」
 半世紀前に公開された映画に登場し、一躍有名になった自動車である。れっきとした実在の車だが、劇中の特殊な扱いと独特のフォルムのため、架空のマシンだと勘違いしている人が多い。かく言う俺も実物を見るまではその一人だったが、世代の差を考えれば仕方ないだろう。
「お、知ってるのか。意外に通だな」
「なんでお母さんがそんな車に乗ってるのよ!」
「デロリアンといえばやることは決まってるだろーが。例の第3視点の研究の一環だ。結論から言えば、後ろから火を吹くのは成功したけど時間移動は達成できなかった。その代わりに、実験繰り返す内にいつの間にか最速伝説築いていたんだってさ。優らしいよな」
 本来ならドイツのアウトバーンやアメリカの大陸横断道路でやるような実験である。それを「面倒くさい」という優の鶴の一声だけで国内で強行したのだが、いかんせん、こちらはデロリアンである。無塗装のステンレス製のボディは目立つことこの上なく、映画ファンから車マニア、果ては挑戦の精神に溢れる大勢の走り屋まで引き連れることになった。それらを振りきるべく、ステアリングを握っていた優は、北陸自動車道あたりから始める予定だった最大出力テストを、渋滞の激しい首都高速環状線からに繰り上げた。
 結果については思い出したくもない。以来、俺は優の運転する車にだけは乗らないようにしている。
 観測機器を操作するために助手席に放り込まれていた俺が我に返ったのは、仙台のサービスエリアに着いた頃だった。後で知ったことだが、道中で何台もの挑戦を受け、それらの全てを打ち破ってきたという。その中の一人が例の初代総長である。
 彼は自分を負かした「謎のデロリアン」に惚れ込み、それから何度もオファーをかけに来た。その熱意たるや凄まじく、驚いたことに、あの優があまりのしつこさに根負けし、名前を貸すだけということで手を打つことになった。関東愚連会・苦麗無威爆走連合数代の歴史には、今でも番外として名誉総長の名前が添えられている。
 そんなわけで「謎のデロリアン」はちょっとしたセンセーションを巻き起こしたのだが、当の本人はしばらくして車を売り払ってしまった。買ったのは恩人の娘さんで、スピード違反の常習犯らしい。俺としては2度とあの実験に付き合わないで済むというだけで感謝したい心境だった。なにしろ、優の走りに対抗できそうな車と言えば、俺にはバットモービルかボンドカーしか思いつかないのだ。そんなシロモノに誰が乗りたがるものか。名目こそ第3視点の研究だったが、あれは優にとってのストレス解消以外の何物でもなかった。
「私が聞きたいのは、そういう話じゃなくて…」
「じゃあこれはどうだ。十年ほど前に、『レムリア大陸が存在したのは大西洋だった』っていう新説が発表された。しかもそれらしき遺跡が海底で発見されて、ちょっとした波紋を巻き起こした」
「知ってる。あれって結局、損傷がひどくて有力な証拠にはならなかったんでしょう? それとお母さんと何の関係が…って、まさか…」
「海底地震に見せかけて魚雷で跡形も無く吹っ飛ばしたのは、そう、それも優だ。計画の邪魔になるからなんだが、今から思えば科学者とは思えん大罪を犯したような気がするな。説の提唱者は世を儚んで出家したとか」
 あれは珍しく優が海外まで出張し、さらに珍しいことに土産まで持ち帰ったときのことだった。土産といっても何かの欠片のようなもので、留守番をしていた俺は首を傾げたものだった。その意味が分かったのは、しばらく経ってから学術関係のネットでニュースを調べていた時である。優が文化財破壊の罪で捕まった場合、やはり俺は共犯にされるのだろうか。
 ちなみにこの話には後日談がある。欠片の分析を依頼した専門家から結果を聞き、俺は青くなった。優にも言っていないが、あれはレムリア大陸の遺跡ではなかった。どうやら類人猿から人類へのミッシングリンクに関わる生物の化石だったらしい。この話はいつか切り札として使う時の為にとってあるのだが、相手が優では効果は期待できない。おそらく墓場まで持っていくことになるだろう。
「…聞くんじゃなかった…」
「これも気に入らないのか? 仕方ない、では空さえ知らないとっておきの武勇談を」
「ちっがーーーう! 私が知りたいのはそういうことじゃなくて、もっとこう…母親としての面とか…」
「母親ネタで笑える話か。難しいな…」
「だからなんで笑い話に持っていこうとするのよ!」
 もちろん倉成化の過程で開花した芸人魂に久々に火が点いてしまったからだが、逆上した今のユウに理解してもらうのは難しいだろう。あまりにリアクションが良いので調子に乗り過ぎたことを反省した。母親譲りの芸人魂に目覚めればどつき漫才のツッコミ役として将来は有望だろうが、今はまだ経験が足りない。
 ユウがひとしきり喚いたところで、ウエイトレスが俺の分のコーヒーをトレイに載せて現れた。タイミングが妙に良いところをみると、俺たちの会話が途切れるのを待っていたのかもしれない。こういう気の利かせ方が、俺がこの店を贔屓にする理由の一つでもある。
「…もういいわ。ところで」
 俺が平然とコーヒーを飲み始めたのを見て、ユウはがっくりと肩を落とした。嘘偽りなく真面目に答えていたつもりなのだが、相談相手には向いていないと判断されたらしい。
「今日の夜は大丈夫?」
 俺は窓ガラスの向こうの空を見上げた。雲一つない快晴である。人によっては日焼け止めか、みゅみゅーんの着ぐるみが必要だろう。
「降るとは聞いてないな」
「誰が天気の話をしてるのよ。誕生日のパーティーやるってお母さんから聞いてるでしょう?」
 思わず舌打ちしていた。優本人が来ていたら俺はなんとしても逃げていただろうが、すっかり油断していた。どうやら変化球に引っかかってしまったらしい。
「わざわざ家まで来たと思ったら、やっぱりそのことか。あのな、優に何度も言ったが、この歳で『お誕生日』は恥ずかしいんだよ」
「いいじゃない、どうせ皆で集まるための口実なんだから。桑古木は一応主賓なんだから、もちろん出てくれるわよね」
 あの事件から一月以上経つが、考えてみればその間に全員が一堂に会する機会は無かった。それぞれの新しい生活で忙しく、何かあってもせいぜい優に相談を持ち掛ければ事は足りるからだった。
 しかし、世間に数少ないキュレイウイルス感染者として、そして計画一筋で生きてきた俺たちとしては、気の置けない相手は限られている。ようするに寂しいのだ。それだけが理由でもないだろうが、俺の誕生日にかこつけた優のアイディアに誰も反対しなかった。
 約一名を除いては。
「悪い、俺パス」
「なんでよ!」
「だーかーらー、人と会う約束があるって言っただろう。お前ら親子は揃って人の話を聞かんな」
「だーかーらー、空けておいてって言ったでしょう。いくら三十路過ぎた建前上のお飾りでも、主役がいないと意味が無いじゃない。まさか自分の誕生日も忘れてたの?」
 ユウは歯に衣着せない物言いで切り返し、店の壁にかかっている定休日のお知らせ用のカレンダーを指差した。俺はもちろんそんなものを見るまでもなく、今日が6月12日であることは知っている。
「そういやそうだった。ついうっかり」
「まったく呑気なんだから。桑古木といいホクトといい、記憶喪失になると緊張感がなくなるのかしら」
「自分の彼氏に酷い言い方だな」
「だ、だ、誰が彼氏なのよ!」
「言っとくが俺じゃないぞ、誤解するなよ」
「誰がするか!」
 あの日、LeMUを離れる船の上で一人たそがれていた俺は、少し離れた場所から皆の様子を見ていた。正確には暇を持て余して、感動の再会などのイベントを一通りチェックしていたのだが、中でもこの凸凹コンビの告白シーンは特に見物だった。若いというのは素晴らしい。
「ああ、まだ返事をしてなかったんだっけ。いつまでも待たせるのは気の毒だぞ。それに言い寄られる内が花だからな。しかし、そうなると『倉成優美清秋香菜』か。ますますワケ分からん名前だ」
「当事者を無視して勝手に話を進めるんじゃない!」
「悪い悪い、とにかく落ちつけ、な」
 テーブルに手をついてユウが立ちあがったため、そろそろ賑わってきた店内の客の視線が一斉に俺達に集中した。そのことに気付いたのか、慌てて愛想笑いを振り撒いて席に就く。自業自得だと思うが、その様子を見てさすがに気の毒になり、俺は一応フォローを入れることにした。
「そうだな、いくらなんでもからかいすぎた。けど、これだけは言わせてくれ」
「何よ」
 ユウは恨みがましそうな目でこちらを睨み、落ち付きを取り戻すために紅茶のカップに手を伸ばした。俺は、そんなユウを刺激しないように言葉を選んだ。
「…『田中ホクト』でも、なんか違和感あるぞ」
 次の瞬間、ユウは紅茶を吹き出した。正面に座っている俺の方を向いたままで。

「何しやがるコノヤロウ」
 洗面所で顔を洗ってきた俺を待っていたのは、開き直った態度で替えの紅茶を飲んでいるユウだった。洗えたのは当然だが顔だけだった。シャワーを浴びて30分も経っていないというのに、一度帰って頭だけでも洗ってこないと気持ちが悪くて仕方がない。
「桑古木が変なことを言うからでしょうが。そんなことよりも、話を逸らそうとしてたでしょう」
 途中までは成功していたが、時間を与えたのが失敗だったらしい。俺は渋々認めた。
「で、もちろん来てくれるんでしょうね」
「…時間に間に合えばな」
「はっきりしないわね。人と会うだけでしょう? なんでそんなに遅くなるのよ」
「デートだからな。野暮なこと聞くなよ」
「嘘。お母さんに聞いたわよ。桑古木は『外見年齢及び精神年齢10歳の初恋の女の子に今でもラブラブ一直線で他の女性に見向きもしない』だって」
「…全面的な間違いじゃないが、事実を端折りすぎだ。それに『見向きもしなかった』んじゃなくて、されなかったんだよ」
 どちらにしても男としてどうかと思うが、せっかくユウの方から話を脱線させてくれているのだから、俺としては自虐的でも引っ張るしかない。見向きされなかったのには相応の理由があったからだが、この場で言うべきことではなかった。
「なんで? やっぱりその…ロリコン…だったから?」
 耐エルンダ桑古木、今ハ話ヲ逸ソラスコトガ重要ダ…と心の中で誰かが叫んだ。つまらんことを吹き込んだのは優に違いない。あの女にとって俺は一体なんなのだろうか。
「違う」
「え? でも…」
「違う。いいか、この17年間は無茶苦茶忙しかった。だから清く正しい男女交際なんぞやってる暇は無かったんだ」
「その歳になるまで? 全く? 一人も? うわ…」
 断言できる。コイツは誰が何と言おうが優の娘だ。二人揃って遺伝子の中に俺に対する恨みでも組み込まれているのだろう。話を誘導されているのは俺の方なのかもしれない、という気がしてきた。わざとやっているなら、母親並の悪女である。
 さすがに言われたままにしておくのも癪なので、思わず何か言い返そうかとしたときに、予めセットしておいたPDAのアラームが鳴り出した。この後の予定を考えれば、これ以上は時間を割けない。反撃を諦めて、仕方なく伝票を掴んで立ち上がった。
「あーっ、卑怯者! 人の質問をはぐらかしたまま逃げる気!?」
「ええいうるさい。お前こそ大学の講義はどうした。今日のところは奢ってやるから、今からでも行ってこい」
「自主休講。…冗談、冗談だってば!」
 PDAを取り出して優の番号を呼び出そうとしたら、急にユウが慌て始めた。
「行く、行きますから、お願いだからお母さんにだけは言わないで!」
「…初めからそう素直に言えばいいんだよ」
 俺に電話させまいとするユウの手を引き離して、なんとか声を絞り出すことができた。ユウが両手で掴んでいたのは俺の首だった。通話を妨害するのが目的なら的確な状況判断である。間違っていたのは、口を塞ぐとかPDAを取り上げるとかの可愛げのある行動を期待した俺の方だろう。
「けどお前、そんなにサボリを知られるのが怖いのか?」
「違うわよ。ただ、その…」
「俺に会っていたことを知られたくない、と」
 ユウは頷いた。
「そりゃまぁ、コソコソ嗅ぎ回ってましたなんて言えんわな」
「人聞きが悪い。ただ私は、誕生日会の件で桑古木に釘を刺すついでに、最近の疑問を解決できないかと思って…」
 立ち話で済ませるような内容ではなかったが、予定の時間はとっくに過ぎている。だから手短にまとめることにした。
「忠告。他人に根掘り葉掘り聞く前に、本人にねぎらいと感謝の言葉ぐらいかけてやってもバチは当たらんと思うぞ」
「へ? どういうこと?」
「17年前の状況に似ていたのは、LeMUの中だけじゃないってことさ。あとは自分で考えるんだな」
 散々コケにしてくれた優の肩を持つのは不本意だが、年長者としての役目を果たしているのだと自分を納得させた。何より俺はユウのことが嫌いではないので、このまま立ち去るのは気が引けた。
 ライプリヒを告発するための証拠を揃えるにあたって、優は、自分の父親…田中陽一氏と同じ轍を踏むわけにはいかなかった。獅子身中の虫であることを承知でライプリヒが俺たちを手許に置いていたのは、俺はともかく優には娘という弱点があったからだった。
 いよいよ計画の実行段階になって、かねてからの打ち合わせ通り、優は自分の娘をLeMUに閉じ込めた。BWの召還に不可欠であったからだが、それだけではないと俺は考えている。
 内部告発の事実を知って動き出したライプリヒからかくまう場所として、誰も近づけないLeMUは最適だった。もちろん一方的な事情であり、理由も分からずに閉じ込められた側にしてみれば、納得できるものではないだろう。
 しかし、俺は知っている。LeMUの強度と安全性の洗い直しと、中にいる空にさえ気付かれないモニターシステムの再設計は、優が不眠不休で行ったものである。直接見たわけではないが、ライプリヒの実働部隊を死闘の末にインゼル・ヌルで追い返し、手が空けば必ず娘達の無事を確認していたらしい。
 そしてここからは完全に俺の推測だが、優の母親も、真相を知っていながら優には黙っていたのではないか。結婚するまで同じ職場で働いていたのなら、夫の行動に感づいていてもおかしくはない。それでも優に「父親はいない」と教えていたということは、ライプリヒから脅迫を受けていたのは父親の方だけではなかったという可能性がある。
 どちらにせよ、優の母親が亡くなるまでの数年間に、母娘の間でどのようなやりとりがあったのか、今の俺には知る術は無いし、知る必要も無いことだった。俺はこの件に関しては他人である。
「…よく分からないからこうやって会いに来たのに」
「いやしくも学問の最高府に通う学生が、簡単に答えを聞こうとするんじゃない」
 他人の家庭の事情に口出しするのことの是非は、天涯孤独となった俺には分からない。この先も分かることはないだろう。だから最低限の譲歩をしたつもりだった。どう活かすかは本人次第である。俺にはするべきことがあったので、自分たちの問題ぐらい自分たちで解決してほしいものだった。




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