空梅雨 
                              TARO

-3-

 俺はそのまましばらく考え込んでいた。しかし、考えるべきことが多過ぎて思考がまとまらない。諦めてすっかりぬるくなったレモンティーを一気に飲み干すと、俺はいつも通りの方法をとることにした。
 席を立って、お手洗いの場所を聞いた。思った通り、店の奥だった。礼を言ってそこに向かう。
 何か確信があったわけではない。優と空が頭脳だとすれば俺は手足である。手足が一人で行動する場合、考えて分からない部分は動きでフォローするしかない。それだけのことだった。
 彼女が現れたのは店の奥からだった。まさか厨房や裏口から現れたとは考えにくいので、残る場所はお手洗いぐらいしかない。遅刻してまで何をしていたのかは知らないが、とりあえず自分の目で見ておいた方がいいような気がした。
 さすがに女子トイレを覗くことはできない。どうするか迷っているところで扉が開いて中から女子高生が出てきた。天の配剤とばかりにさりげなく視線を走らせ、個室が全て空いていることだけ確認すると、俺は男子トイレへと入った。
 顧客層の男女比を反映しているのか、女子用のほどは広くなかった。一つしかない個室が閉じているのを見て、ためらわずノックする。返事は無い。しかし中に誰かが居る気配がする。念のためにもう一度だけノックしてから、少し強めに扉を押してみる。錠は下りていなかった。閉まっているのは、内側から何かで押さえられているらしい。
「誰かいますかぁ?」
 少し大きめの声で呼びかけると、返事として唸り声が聞こえた。声の主を確かめるべく、内開きの扉を無理矢理押し開いた時、俺は考え込まずにいられなかった。両手足を縛り上げられて口には猿轡まで噛まされた男が転がっているのを目にしたからだが、そのこと自体は充分に予想の範疇だった。こちらに気付いて何か言おうとしているが、全然分からないので、とりあえず猿轡だけ外してやることにした。
「あんたかい? 俺に熱烈なラブコールをくれたのは」
 男の体をエビ反りの体勢で固定している器用な拘束は、念のためにそのままにしておいた。
「うるせぇ! てめぇ、よくもやってくれたな!」
「おいおい、実際に会うのは初めてだぜ、オジサン。その歳でもうボケてるのか」
 サングラスをかけているが、せいぜい30代前半だということは分かる。女と違って男の歳は分かりやすい。そういえばキュレイ種も歳をとるとボケるのだろうか。
「ざけんな! あの女はお前の仲間だろう!」
 それにしても、と、俺はもう一度相手の服装を眺め回した。この格好でこういう店に入ることに抵抗を感じなかったのだろうか。空調の効いた屋内とはいえ、この時期には暑そうな一目で安物と分かる紺色のダブルのスーツを着込み、足元には黒の皮靴。妙な光沢があるところを見ると、合皮製の安物だろう。ここで終われば普通のサラリーマンで済むが、その上にサングラスまでかけるとなると、「疑ってください」と公言しながら歩いているようなものである。服装は似ていても、さっきの彼女とは異なる感想を持ってしまうのは、きっと身に付ける人間の質に原因があるのだろう。
 まして、女子高と女子大がそのまま進出してきたような店である。この外見年齢の俺でさえ、理由がなければ足を踏み入れたいとは思わない。この男の葛藤を察して、少しだけ同情した。
 この男の雇い主が例の製薬会社だということらしいが、何故そこの商品が日本に受け入れられないのか分かったような気がした。日本に対する認識が根本的に間違っているのだ。いくら下っ端とはいえ、こんな昭和時代の暴力団員のような男しか動員できないような組織では、たかが知れている。屈辱で顔を真っ赤にしている相手には悪いが、俺はバカバカしさを感じずにはいられなかった。
 外見をとやかく言うのはここまでにして思考を戻す。堅実な職業に就いているようには見えないこの男をノックアウトして転がしたのは、どうやら彼女らしい。
「まあまあ、落ちつけ」
 本来なら俺が今日会う予定だった相手に対して、とりあえず敵意が無いことを知らせるために、自分でも呆れるほどの人の良さを発揮してロープをほどいてやった。このあとの予定を考えれば、どうせそうする必要があった。
 だからといって感謝して欲しいとは思わないが、男の自尊心は相当深く傷つけられていたらしい。いきなり立ちあがって俺を一瞥し、入り口の前に立ちはだかる。他に出入りできそうな場所といえば窓だけだが、そんなところから出るのは絵にならないどころか、もしも誰かに見られたら恥ずかしい。
「落ちついているさ、さっきからな。あんたがカブラキさんだろ? どうせこうするつもりだったんだ、一緒に来てもらおうか」
「嫌だと言ったら?」
 男はポケットから飛び出しナイフを取り出した。持っているのは知っていたが、相手の本命だったであろう武器ならともかく、刃物の一本ぐらいなら切り抜ける自信があったから、そのままにしておいたのである。
「少々キズをつけても構わないという条件だ。おとなしくした方が身のためだぜ」
 従うべきかどうかで迷った。どうしても、ナイフだけで大の男を脅して拉致する状況が想像できなかったからである。急所に刃物を付きつけながら、混み合った店の中を怪しまれずに通り抜ける方法があるのなら、是非教えて欲しい。だから素直にそう言ってみた。
「やれるものならやってみな」
「…!」
 遠目で見ても分かるほどくっきりと青筋を浮かび上がらせて男が突進してきた。肉を切らせて骨を断つのは得意とするところだが、好んで痛い思いをするほど酔狂でもない。付き出されるナイフを後退して避けながら、俺はあることに気付いた。
 有利なはずなのに男の腰が妙に引けている。キズを付けても構わないと言っていた割には踏み込みが浅い。俺の反撃を警戒しているのかと思ったが、余裕を持って観察できたのはそこまでだった。
 狭いトイレである。すぐに背がタイル張りの壁に当たった。注意が一瞬逸れ、避け損ねたナイフが左の二の腕を掠めた。
 追い詰めたことを確信した男が足を止めた。こちらの手と足の届く範囲には入ってきて             いない。また、相手の方が体格は一回り上で、手にはナイフを握っている分、こちらよりも間合いが長い。俺はポケットから垂れ下がっているストラップを引っ張り、PDAを手に取った。
「どうした? 助けでも呼ぶのか?」
 右手の中のPDAを、相手が胸の高さで構えているナイフと見比べた。
「いや、別れを告げてたんだ」
「誰にだ?」
「買ったばかりのコレ。保証が効くといいんだけどな」
 そう言ってPDAを放した。と同時に、右腕を勢いよく振り上げる。男は俺の狙いに気付いて慌てて手を引っ込めようとしたが、判断と反応が遅かった。
 ナイフが手を離れて宙を舞う。振りきった腕を返して相手を牽制し、落ちてきたところを左手でキャッチした時には、相手の目には驚愕の色が浮かんでいた。
「はい、形成逆転」
 ナイフを持った左手で、右手首に掛かったままのPDAのストラップを外す。その先に付いていたPDA本体は原型を留めておらず、残骸がかろうじて残っているだけである。精密機器を打撃武器代わりに使い、人の手をしたたかに殴りつければ当然の結果だった。この壊れ方では保証は期待できないだろう。
「続けるかどうかはあんた次第だ。どうする?」
「…」
 悔しそうに俺を睨むばかりで返事は無かった。
「やる気がないなら、さっさと帰って雇い主に報告するんだな」
「…」
 それでも返事が無い。俺はナイフの刃を畳んでポケットに入れ、一歩踏み出した。すると男の表情が変わった。何故か俺の歩みに合わせて後退する。とうとうお手洗いの入り口のドアにへばりつくような格好になったので、俺はため息をついた。
「まだやるのか?」
 またもや返事が無い。言語によるコミュニケーションを諦めて、実力行使を考えて男の肩に手をかけた時、その信じられないものを見るような視線がどこに向いているのか分かった。
「…け物…」
 先ほど切られたキズは浅かった。現に出血は止まり、既にカサブタが張っている。俺には見慣れている光景だった。そして、その言葉にも聞き慣れていた。
「…ば、化け物…」
 正直だが独創性に欠ける呻き声を聞き流して、男をドアから引き剥がす。雇い主から詳しい事情を聞かされていない下っ端を必要以上に脅しても意味は無い。
 その場にへたり込んだ男に一瞥を投げかけて立ち去ろうとした時だった。
「てめぇ、やっぱりあの女の仲間じゃねぇか! お前ら二人とも化け物だ!」
 開きかけたドアを再び閉じた。男の声が外に漏れないようにしたのだろう、と他人事のように考えながら。
「あいつもそうだ! 確かに刺してやったはずなのに平気な顔してやがった! 一体なんなんだ、お前らは!」
 口は災いの門とはよく言ったものだ。穏便な脅しで済ませておきたかったのだが、俺一人でどうにかしようとすると、どうしてもこうなってしまうらしい。
 振り向いて視線を下の方に向ける。尻餅をついている男の顔がそこにあった。
「訂正しておこう。まず、俺たちは化け物じゃない」
 ついさっきまでの彼女とのやり取りを思い出していた。時間に遅れてきたのは傷がふさがるのを待っていたのかもしれないし、刷ったばかりの名刺がソーイングセットよりもハンドバッグの奥から出てきたのは、衣服の切られた部分を繕っていたのかもしれない。
「それに、化け物だからといって痛くないわけじゃない」
 そういえば、わざわざ痛い目を見るのはごめんだ、とも言っていた。
「よ、よせ…」
 ポケットから先ほど取り上げたナイフを取り出した。それを見た男の顔が恐怖に歪むが、俺の関心は他にあった。よく見れば柄のところまで血の跡があった。軽く掠めただけの俺のものではない。
 当初はこの男を仕向けた直接の雇い主を探るため、逃げ帰るところを尾行でもしようと思っていたのだが、すでにその気は失せていた。
「おい、立てるか?」
 相手がしゃがんでいるとやりづらい。差し出した俺の手に触れるのはいやがっていたが、ナイフをポケットに戻したらやっと立ちあがってくれたのでホッとした。手頃な高さにある男の顔からサングラスを外してやったのは最後の情けである。
 そして、全体重を乗せた拳を、その顔面に叩きこんだ。

 善意の第一発見者を装って店員に知らせてから、部活帰りの寄り道に立ち寄った学生に追い出されるようにして、相変わらず賑わっている店を後にした。
 鼻血を出して気絶した男は、床にうつ伏せに寝かせて近くに石鹸を転がしておいた。これでどこから見ても、滑って転んで顔面を打ったようにしか見えないだろう。というより、それ以上のうまい考えが浮かばなかった。
「さて、こっちかな」
 次に店の裏手に回り、生ゴミのポリバケツが不自然に並べられている、人通りの無い路地を覗きこむ。表通りから人目を遮るように集められたポリバケツの向こう側には、明らかにトイレに居た奴の仲間らしい男が転がされていた。念のために距離を置いて観察してみたが、当分目覚める心配はなさそうだった。
 全く同じ服装とサングラスの男の傍らにしゃがみ、上着をめくってみる。その下から現れた空のショルダーホルスターまで、トイレに居た男と同じ物だった。中身を誰が持ち去ったのか考えるまでもない。
 PDAは壊れてしまったので、店を出る時に時間を確認していた。会場である優の家へ今から向かったとしても、俺の『お誕生パーティー』まではまだ余裕があるので、俺はその間にできることをしておくことにした。

 ライプリヒの活動は人道に反していたが、企業としての目的は利益の追求にあった。不老不死の方法を確立すれば、金に糸目をつけない輩が後を絶たないだろう。その意味では、ライプリヒは悪の秘密結社ではなかった。それよりもタチが悪いという意味だ。
 しかし、利益を挙げられるのは、その方法を確立できればの話である。
 俺達の調べたところ、こんな胡散臭いテーマを真面目に研究している団体は、社会不適格者を寄せ集めたようなカルト宗教ぐらいしか見つからなかった。当然だ。ライプリヒにしても、たまたまキュレイウイルスに感染した人間を確保したのがきっかけであって、もしも初めから『不老不死』をテーマに掲げた研究なんぞ行っていたら、たちまち鵜の目鷹の目のスポンサーから突き上げを食らっていただろうし、それ以前に経営陣が首を縦に振らないだろう。それが今日の常識ある営利団体の在り方である。文化事業に投資して世間の人気を取るのとはわけが違うのだ。
 これまでのところライプリヒ以外には、特に気をつけるべき相手は存在しなかった。勘の鋭い同業者が諜報員を送りこんでくることもあるにはあった。しかし大企業になるほど、実物、つまりキュレイ感染者の存在を明らかにできなければ、上層部のGOサインを取りつけるのは難しい。偽情報を流して相手を混乱させるのは、この業界でも常套手段なのである。
 逆に言えば、俺や優が捕らえられてしまえば、第二のライプリヒが出現することになる。というわけで、今日のような強引なお誘いに警戒する日々を過ごしていたのである。
 しかし、おそらく俺達以上に神経を尖らせていたのはライプリヒの保安部だろう。監視だけでなく、不本意だろうが警護の目を光らせてくれていたおかげで、プライバシーが保たれないことにさえ我慢すれば、俺のアパートは鍵をかけなくても空巣とは無縁だった。もちろん俺達の計画にとっては邪魔なので、そんな場合には優の老獪かつ狡猾な手腕が冴え渡ることになる。保安部は伝統的に胃潰瘍と減棒が多いことで有名だったが、その原因はほとんどが優に由来すると言っても過言ではない。敵に回してはいけない人種というのは確かに存在するのだ。
 俺だって優には及ばないにしても、直々に教育を受けていたため、多少なりとも厄介ごとへの対処方法は心得ているつもりである。中には「刑務所の内部から連絡を取る方法」というのもあったが、どういう事態を想定したのか手に取るように分かるので、これを使う機会が無かったのは俺にとって幸いだった。
 そういうわけで、手持ちの知識と手段を総動員して倒れていた男の身元確認から始めたのだが、最終的に得られた情報は、彼女の手際が予想以上に優れているという事実だけだった。この分だと、後腐れなく話がついたというのもブラフではないかもしれない。
 することがなくなってしまったので、どうやら『お誕生日パーティー』に出席することが出来そうだった。
 俺はため息をついた。借りを数えるのが面倒になっていた。

「あ、いらっしゃい」
「おう、邪魔するぞ。…って、なんでお前がここにいるんだ」
 パーティーの開始よりもかなり早い時間に優の家に押しかけた俺を出迎えたのは、何故かエプロン姿のホクトだった。
「家政夫のバイトでも始めたのか?」
「違うって。今日のパーティーの準備でユウのお母さんの手伝い。桑古木こそどうしたの?まだ時間は早いけど。あ、つまみ食いは駄目だよ」
 失礼な言い種は無視して、俺はホクトの全身を眺め回した。
「…『田中ホクト』で決まりだな」
「へ?」
「なんでもない。優はいるか?」
 ホクトが家の奥に向かって声を張り上げるまでもなく、当の本人が姿を見せた。こちらはエプロンではなく、既にトレードマークとなっている白衣だった。料理と実験、より清潔さを要求されるのはどちらだろうか。
「あら、今日は来ないんじゃなかったの?」
「今日の主役に向かってそれはないだろう」
「冗談よ。でも秘密の準備の真っ最中だから、今見ちゃうと感動が薄れるわよ」
 優はそう言って隣に目配せしたが、それを受けたホクトは顔を引きつらせただけだった。俺は白衣が冗談で済むことを祈った。
「…いや、邪魔する気はない。おとなしくしてるから、代わりにパソコン貸してくれ」
「調べ物?」
「いや、忘れ物」
 返事も聞かずに堂々と上がりこんで書斎に向かった。ホクトが咎めるような視線を送ってきたが、肝心の優本人が何も言わなかったので、俺は黙ってその前を通り過ぎることができた。大方、俺と田中母娘との関係を邪推しているのかもしれない。
 俺のアパートではセキュリティに問題があったため、重要なデータは優のパソコンにしか入っていない。ユウが居ない間に何度も使っているので、扱いには慣れている。意地で作ったとしか思えないやたらに長いパスワードを入力して認証を済ませ、ライプリヒのデータベースから不正コピーしてきた数多くのファイルの中から目的のデータを呼び出す。
 これを見るのは久しぶりだった。病死、事故死、行方不明など、縁起の良くない単語が延々と並んでいるこの名簿は、事情を知らない人間には死亡者リストにしか見えないだろう。調べることは分かっていたので適当に画面をスクロールさせ、五十音順で並ぶ人名の中から目的の名前を見つけた。
 2017年5月1日のLeMU来場者リストに、『行方不明』の記号を添えてその名前は存在していた。ポケットから貰ったばかりの真新しい名刺を取りだし、そこに書かれた名前と一字一句間違い無いことを確認する。
「…偽名ぐらい使えよ、無用心なヤツ」
 そう呟いたが、俺には人のことは言えない。最初は名刺を見ても分からなかったのだ。
 彼女のことだけではない。一緒にLeMUを訪れてTBに感染した「両親」の死を俺が知ったのは、あの事件の後しばらく経ってからのことである。記憶喪失という状態にあった俺は、冷たい話だが、沈痛な面持ちの優に言われるまでそのことを考えもしなかった。周囲の人間が誰も教えてくれなかったのは、当時の担当医に言わせれば、ショックを与えないための配慮だったそうである。「正体不明の病気」の蔓延を防ぐため、遺体は早々に火葬に付されていた。俺が入院している間のことだった。
 その時に悲しかったのかは今でも分からない。記憶喪失とは、何かを喪失するのではなく、何を喪失したか分からなくなることなのだろう。命日と盆の墓参りは欠かしたことがないが、それとこれとは問題の次元が違う。
 歳月が流れても俺の記憶は一向に戻らなかった。『両親の死を認めたくない深層心理が回復を妨げている』と医師は診断した。おそらくそれで正しいのだろうが、同時に意味の無い結論だった。当時の俺には為すべきことがあり、それだけで精一杯だった。カウンセリングに時間を割いてまで記憶を取り戻そうとは思わなかった。
 両親の仇を討つのは美談である。では、討たないのは責められるべきことだろうか。
 優は前者を選んだ。俺は後者を保留した。結果だけを見れば同じだが、私怨のためにライプリヒに対して行動を起こしたのかと問われれば、俺は首を横に振る。俺が計画の為に17年間を費やしたのは、LeMUでの時間を共に過ごした仲間のため以外の何物でもない。それ以前の記憶が無い以上、今の俺はあの時に誕生したと言っても過言ではないのだから。
 また、両親を失って、ともすれば熱くなり過ぎる優を抑える為に、少しでも冷静である必要があった。そのためには、俺まで私怨に捕らわれることは出来なかった。過去を嘆くのはいつでも可能だが、それは詭弁にすぎない。俺は自分の過去をそうやって割り切ってきた。
 もう一度リストを眺める。これを初めて見た時も特別な感慨を抱くことは無かった。
 俺の姓は珍しい部類に入る。該当する人間はリストの中には一家族だけだったので、「桑古木涼権」の身元は簡単に判明したらしい。そして、家族が全員死亡していることを確認した時点で、俺はそれ以上調べるのをやめていた。
 リストの並びを変更し、住所地ごとの表示に切り換える。桑古木家の次に来るのは、当然ながら家の近い者である。彼女の名前はそこにあった。
 家が近所で子供の歳も同じ。さらに調べたところ、職場が同じだったので親同士の交流もあったらしい。絵に描いたような家族ぐるみの付き合いというやつだった。そういえばアルバムに挟まれた写真には、一緒に写っている頻度がやたらに高い少女の姿があった。17年前の事件に巻き込まれた時も、大型連休を利用して一緒にLeMUに遊びに来ていたのだろう。
 情報を組み立てただけの推量なので確証はない。事実だとしても、彼女がその少女を名乗っているだけという可能性もある。
 俺は操作の手を止めた。椅子に深くもたれて何気なく部屋を見回す。
 この部屋は優の父親、陽一氏の書斎だった。彼が失踪してからも手入れを欠かさなかったのは彼の妻、つまり優の母親である。そして今では優が部屋の主となっている。二人の思い出が残るこの部屋で、優はいつも何を考えていたのか、ふと訊ねてみたくなった。
 いや、優でなくても構わない。誰でもいいので、自分以外の人間の意見を聞いてみたくなった。
「おーい、そろそろパーティー始めるよ」
 ドアを開き、そこからホクトが顔を覗かせた。身に付けているエプロンがさっきよりも一段と汚れているだけでなく、顔にまで生クリームの跳ね跡がある。未来の義母の歓心を買うために奮闘したのだろう。
「おう、今行く」
 ディスプレイを見られないようにさりげなく背中で隠して振り向いた。今夜のパーティーの料理に関して一抹の不安を感じたが、優と空がついていたのだから、タツタサンドの屋台で起こったような惨事は無いと信じたい。
 そう考えて、思いついたことがあった。
「そういや、お前が居たんだな」
 俺の呟きが聞こえたのか、部屋を出て行こうとしていたホクトが不思議そうな顔をして振りかえった。
「僕がどうかした?」
「なぁ、お前って…」
 記憶喪失の間どんなことを考えていたかを訊ねようとして、寸前で思いとどまった。
「…いや、なんでもない。大変参考になった」
 ますます不思議そうな顔をしたホクトには構わず、パソコンの電源を落とし、皆が待っているリビングルームへと向かった。
 自分以外の記憶喪失体験者の意見を聞くというのは、あまりに俺らしくない発想だった。おかげで一時的に見失っていた普段の俺を取り戻すことが出来た。彼女に借りがあるのは事実であって、失った記憶には関係ない。その正体が幼馴染だろうがライプリヒの残党だろうが、「現在」の俺には関係のないことだった。




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