〜月に想いを…〜
                              月守蒼輝


 夜の闇に紛れて、息を潜め、辺りをうかがいながら街の中を疾風のように駆け抜ける。
 全力でかなりの距離を走ってきたけど、不思議と息苦しさを感じることが無かった。
 しかも、そのスピードは15歳にして常人のそれをはるかに凌駕していた。
 こんなの、絶対普通じゃない……
 少し前まではそう思っていたけど、もう慣れてしまった。
『普通じゃない』
 そんなのは当たり前だ。
 僕はあるウイルスに感染している。
 そのウイルスの名は、キュレイ。
『司祭』と名付けられていながら、人を「ヒト」で無いものにする恐るべきウイルス。
 その最も大きな特徴は「死ねない身体」になることである。
 確かにそれだけなら、むしろ感染したいと思う人が多いだろう。
 だけど、僕はこのウイルスのために常に監視の目にさらされていた。
 でも、それは当然のことかもしれない。
 この世には、壊れないもの、死なないものは無いのだから……
 いつまでもそんな窮屈な生活を送るはめになるのなら、やっぱりキュレイという名はおかしいよ。
 それに、もし監視がいなかったとしても、きっと今までどおりの生活を送ることなんて出来ない。
 自分の中の何かが変わってしまった感覚。
 きっと、その違和感を頭のどこかで理解しているから、このウイルスは忌むべきものなんだ……。
 そして、ついにライプリヒのやつらは僕を捕獲しようと動き出した。
 実験材料にされたら、もはや人として生きることは許されないだろう。
 そんなのは絶対に嫌だ。
 だから、僕は逃げているんだ。

 追っ手を十分に撒いてきた。
 ここまで来たらしばらくは大丈夫だろう。
 ふと立ち止まり、空を見上げた。
 そこには、何もかも覆い隠してしまう漆黒の闇の中でもその存在を示すかのように輝き続ける光があった。
 キレイだなあ……
 優しくて穏やかな光を放つ満月を眺めると、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
 気持ちに余裕が出来たら、急に家族や友達のことが懐かしくなった。
 お父さんとお母さんは、ライプリヒの連中に何もされていないだろうか。
 まさか、学校の友達に手を伸ばすなんてことは……
 いや、こんなことを考えても何にもならない。
 僕はもう、後戻りは出来ないのだから。
 彼らとは、もう二度と会うことは無いのかもしれない。
 退屈だけど安らぎのあった平穏な日々は、突然に終わりを告げた。
 今僕が存在する世界は、まるで深い海のような暗闇に覆われている。
 決して青ではなく、辺り一面、黒一色だった。
 そこには、上も下も、右も左も、さらには自分と周りを隔てる境界線すらない。
 このままでは、そのうちに自分が本当に生きているかどうかも見失ってしまうかもしれない。
 何故僕がこんな目に遭わなければならないのか。
 これからどうするべきなのか。どうなってしまうのか。
 わからない。
 わかるはずもなかった。
 でも、一つだけ……
 一つだけ確かなことがある。
 僕は、お月様に恋をしているんだ。



 遡ること1週間。
 僕と優は、夏休みを利用して再びインゼル・ヌルを訪れていた。
 ここは本来なら残骸の撤去作業中により立ち入り禁止だったけれど、優は親がLeMUの関係者であることや事故の生き残りということで特別に許可してもらったらしい。
 僕たちの生活は確かにライプリヒに監視されていて窮屈だったけれど、特に不審な行動を取らなければ何もしてこない。
 すぐ目の届くところに置いておけばいざというときに安心だ、と考えたらしい。
 別に狙われているわけじゃないので、それが少しだけありがたい。

 この島の下にはかつて「LeMU」と呼ばれた海洋テーマパークの成れの果てが見るも無残な姿で残されている。
 全ての発端は、その原因となった事故だった。
 そして、更にその下には忘れたくても忘れることが出来ない、いや、忘れるわけにはいかない場所がある。
 ふと気になることがあって、優に訊いてみる。
「ねえ、なんでココ達を助けに行かないの? 今IBFに行けば……」
 すると、優は呆れたように言った。
「それはダメ。倉成とココを本当の意味で助けるにはBWの力を借りなきゃいけないの。
 何度も説明したでしょう」
「でも――」
『どうしても納得できない』
 そう続けようとした僕の口を、優の人差し指がさえぎった。
「いい? 倉成とココが助かったのは、BWが2034年からやってきたからなの。もし二人を助けてしまったら、BWを呼ぶ意味がなくなっちゃうでしょ? 私達が2034年でBWを騙してこの世界に召還しなければ、二人は助からなかったことになるのよ。少年はそれでもいいの?」
「嫌だ!」
 すぐに二人を助けたい。
 だけど、助けられないのは絶対に嫌だ。
「そうでしょう? そして17年の歳月を超えて計画を実行することが出来るのは、事故のことを知っていて、なおかつキュレイウイルスに感染している私達だけなの」
 何度も聞かされた言葉。
 本当は、もうわかっている。
 最初に訊いたときは何がなんだか分からなかったけれど、今ではBW召還計画の全容を事細かに説明することが出来るだろう。
 あまり好きではないけれど、これもキュレイウイルスの力だ。
 しかし、いくら理屈で理解しても感情で納得することが出来なかった。
 ココはすぐそこにいるのに黙って見ているなんて……
 ましてや、BWを騙すためだけに17年もかけてあの事故を再現する?
 そんなことが出来るわけ無いじゃないか。
 そんな僕の考えを知ってか知らずか、優は突然こんなことを言ってきた。
「ねえ、少年。ちょっと愚痴を言いたくなったの。聞いてもらえないかなぁ〜」
「別にかまわないけど」
 あまりにも唐突過ぎて、返事はそっけないものになってしまう。
 だけど、優は気にせずに話し始めた。
「私はね、本当ならあのLeMUからの脱出の後死んでいるはずだったの。重度の心臓病に冒されていて生きているのが不思議なくらいだった。私が頑張れたのは、行方不明だったお父さんのことをどうしても知っておきたかったからなの。だけど、お父さんは――」
 優は顔をうつむけて、唇を噛みしめていた。
 その口からは血が出ていたけど、瞬く間に血が止まっていく。
 こういうとき、キュレイの異常性を垣間見ることが出来る。
 それにしても……
 優が重度の心臓病だったなんて、まったく気づかなかった。
 いつも元気で明るい優からは想像できない。
「私の人生はそこで終わるはずだったけど、キュレイウイルスに感染して生き延びることになった。でも、でもね、例えキュレイの力でも、今は生きていて良かったって思ってるの。今でもユウと一緒にいることが出来て充分過ぎるほど幸せだし、倉成たちを救えるのは私たちだけだから。どうせ拾った人生なら、二人のために出来ることは何だってしてみせるわ」
 その瞳からは揺るぎない意志が感じられる。 
 強いな、優は。
 この強さはどこから来るんだろう?
「だからお願い、力を貸して!」
「え?」
 いきなり話を振られたのでびっくりしてしまった。
 どう答えよう?
 とりあえず、もっと話を訊かなきゃ。
「今すぐじゃダメなの! どうしても17年後の2034年に計画を実行しなければならないのよ! 迷惑かもしれない。少年には少年の人生がある。でもね、私には他に頼れる人がいないのよ」
 こんなに必死に懇願されては断れるはずがない。
 それに、僕だってココを放っておきたくないんだ。
「うん、わかった。僕にも手伝わせて」
「ありがとう、少年。これから頑張ろうね」
「うん」
 そう言って、僕と優はしっかりと握手を交わしあった。

 それからしばらく、僕たちは他愛ない話をしながら歩いていた。
 そのなかで、不意に出た話題。
「ところで、何でいまだに僕のことを『少年』って呼ぶの?」
 今まで、どうしてもそのことが引っかかっていた。
「何でって言われても、少年は少年だからとしか言えないよ。名前で呼ぶよりそっちの方が君らしいじゃない?」
 LeMUでの7日間、名前がわからずその呼び名で通してきたからかな。
 皮肉にも、あの記憶喪失がなかったら優とこんな風に話す事は無かっただろう。
 でも、やっぱり気になる。
「僕にはちゃんと桑古木涼権という名前があるって、前に言ったよね?」
「ま、そうなんだけどね。細かいことは気にしない気にしない!」
 優はもう、いつもの彼女に戻っていた。
 こうなってしまったら言い負かすことは出来ない。
 まだ納得いかなかったけど、諦めよう。
 これ以上言ってもあまり意味がない。
 それに、それよりもっと気になることがある。
「ねえ、優。どうしてここに呼び出したの?」
「そんなの決まってるじゃない。IBFに行くためよ」
 ……だまされた!

「さっき僕が訊いた時は行かないって言ったじゃないか!」
 腹が立って、ついつい怒鳴ってしまう。
 そんな僕に、優はまるで諭すように話し始めた。
「あのね、少年。私は『助けに行かないの?』と訊かれたからダメって答えたの。行かないとは言ってないでしょう」
「じゃあ、何しに行くんだよ」
 やはり、まだ納得することは出来ない。
 自然と口調も厳しくなるが、あくまでも優は冷静だった。
「倉成とココがハイバネーション中、その電力は熱水噴出孔によってまかなわれている。発電機に異常が無い限りは半永久的に動くけど、それにはIBFが機能し続けなければならない。でも、ライプリヒにとってIBFは必要なのかな?」
「言われてみれば……」
 そうかもしれない。
 今、TBは世界中で猛威を振るっている。
 その原因がこのLeMUでのウイルス漏洩事故だとばれたら、ライプリヒはおしまいだろう。
「そこで私の出番ってわけ。父をTBによって失った私に、ぜひIBFの最後を見届けさせてって頼んだの。そうしたらライプリヒの奴らだって私がIBFに行く理由を詮索することも無いでしょ」
「最後って……IBFが無くなっちゃうの?」
 そうなったら、二人は……
 どうしても嫌な考えしか浮かんでこない。
「まさか。ちゃんとした形で残っているIBFをわざわざ莫大な金をかけてまで破壊・撤去する意味は無いよ。それに今まで研究してきた成果を簡単に手放せないんじゃない?」
 もしかして心配無用だったかな?
 BW召還には、この上にLeMUが再建されなければならない。また、このIBFが機能を失うようなことになってはならない。
 その二つがあってこその計画なのだ。
 そのことは、優が一番よく知っているはずだった。
「それで、どうするつもりなの?」
「もちろん、ハイバネーション機能だけ生かして他のシステムを休止させるの。起動中であることがばれないように、空に協力してもらうつもり」
 そう言って、優はバッグから1枚のディスクを取り出した。
「空にはもう説明してあるの。あとはIBFでこのディスクを使うだけ」
 それがテラバイトディスクというものか。
「準備がいいんだね」
「私達は絶対に計画を成功させなければならない。だったら、出来ることは全てやっておきたいの」
 手際がいいというか、抜け目が無いというか……
 そう思ったけど、もし言ったら何をされるかわからないので決して口には出さなかった。
「それで、僕は何をすればいいの?」
「IBFまで一緒に来て手伝ってもらいたいの。いいでしょ?」
「うん、わかった」
 断る理由などあるはずもない。
 たとえ眠っているとしても、ココの姿をもう一度見ることが出来るのだから。
「ありがとう、少年。詳しいことは着いてから話すね」
 そう言った優は、とても嬉しそうだった。
 
 
 
 僕たちはIBFにいる。
 潜水艇を借りることが出来たのは、本当にライプリヒの連中が優の言葉を信じたからだろうか?
 もしかしたら、ハイバネーションのこともすでに気づいていて、取るに足らないものとして放っておいているだけじゃないだろうか?
 ひょっとして、事故の真相を知っている僕たちをここでまとめて口封じするつもりとか。
 ……ばかばかしい。
 もしそうなら、最初から救助隊が来ないようにすれば良かったんだ。
 それを今更どうこうするわけないじゃないか。
 おそらく、未だにTBに感染する可能性があるこの施設に来るのが嫌だったのだろう。
 僕と優はTBの抗体を持っているから、この際は任せてしまおうと思ったのかもしれない。
 何か引っかかるものがあるけど、今は強引に納得せざるを得なかった。
 
 優は診療室に入ってすぐ、そばにある端末に向かっていった。
「少年はそこでちょっと待ってて。さっきも言ったけど、絶対にポッドは開けちゃダメだよ」
「うん、わかった。でも、中を覗くだけならいいかな?」
「そうね、しばらく会えないんだものね……」
 優には何か思い当たる節があるのか、それっきり何も言わなくなった。
 そういえば、さっき優のお父さんはずっと行方不明だったって言ってたなぁ。
 悪いことしちゃったかな……
 無言のままコンソールを叩く優を尻目に、奥にあるポッドの一つを覗き込む。
 その中では、一人の少女がまるで死んだように静かに眠っていた。
「ココ……」
 その表情はガラス面が曇っていてうかがうことが出来なかった。
 だけど、今のココはきっと笑っていないだろう。
 僕は、ココがまだ元気だった頃のことを思い出していた。
 僕が記憶喪失で自分自身を見失っていた頃、それでも確かにそこにいたことを証明するための大事な想い出の一ページ。


 長弓背負いし 月の精
 夢の中より待ちをりぬ
 今宵やなぐゐ、月夜見囃子
 早く来んかと待ちをりぬ
 眠りたまふ、ぬくと丸みて
 眠りたまふ、母に抱かれて

「それ、なんていう歌なの?」
「月と海の子守唄って言うんだよ」
「とてもいい歌だね」
 まるでこの曲はココのために作られたのではないかと思うくらい似合っていた。
 もしかするとココは本当に月の精なのかもしれない、とさえ思った。
 口説き文句の一つに、「あなたは太陽のような女性だ」というのがあると聞いたことがある。
 それに対して、この状況の中でも明るさを失わない彼女は、さしずめ夜空を照らす月だった。
「そうっしょ、そうっしょ、いい歌っしょ〜♪」
 ココは、これ以上無いような満面の笑顔ではしゃぎまわっていた。
 僕は、そんなココのことが……


 …………。
 ほんの少し前のことなのに、すごく昔にあったことのような気がする。
 ココがいなければ、僕はあの状況下で記憶が無いという恐怖に耐えられず、どうにかなっていたかもしれない。
 僕はあの笑顔によって何度救われたことか。
 でも、僕にはココを救うことは出来ない。
 本当は、今すぐにでもこの機械を開けてココを起こしてやりたかった。

 僕が手を伸ばし開閉スイッチを押すだけでそれは可能だろう。
 だけど、それをやってしまったら計画は失敗し、ココは助からない。
 手を伸ばせば届くのに、その距離は果てしなく遠い。
 このままそこにいることを忘れてしまうんじゃないかとさえ思えてくる。
 結局、僕はあの5月7日と同じように、ただ指をくわえてポッドの中を見ていることしか出来ないのか……?
 こんなときに何も出来ない自分は、とても無力だ。
「これでよし!」
 僕が考え事をしている間に、優はもう作業を終えていたらしい。
「本当に武とココは大丈夫なの?」
「うん。ずっと放っておくわけには行かないけど、ある程度は耐えられるように空に設定してもらったから」
「空には気づかなかったなぁ」
「それはそうよ。だって、IBFにはRSDシステムがないんだから。でも、空はちゃんとここにいるよ」
 優は、持っていたバッグをぽんぽんと軽く叩きながらそう言った。
「そうだね。たとえ姿が見えなくても、空はここにいるんだよね」
 存在するということは、体を持つことでも生きることでもないのかもしれない。
 では、ディスクに記録された情報が空なのか?
 それも違う気がする。
 それがどういうことかよくわからないけれど、何となくそう思った。
 でも、少なくとも優にとって、空はそこに存在しているのだろう。
 目に見えないものを信じられること。
 それが出来れば、何か変われるような気がする。
 僕も見習わなきゃ。
 
 そういえば……
「ねえ。僕は何もすることなかったんだけど。手伝いに連れてきたんじゃなかったっけ?」
 てっきり、雑用や力仕事をやらされると思っていたのに……
「あ、いいのいいの。実はちょっと心細かっただけなんだよねぇ〜」
 優は罰の悪そうな顔でそう言った。
「そうなの?」
「一人でIBFに来るのは不安だったし、何かあったときに困るのも確かだから。それに、私の相棒なんだから別にいいじゃない」
「いつ優の相棒になったんだよぉ〜」
「さっき君が言ったでしょ、僕にも手伝わせてって」
「うっ、そういえばそんなことを言った気もするけど……」
「だったら観念なさい。これからは私の片腕として何でも言うことを聞いてね」
「それって上司と部下なんじゃ……」
「細かいこと言わない! とにかく言うとおりにするのよ!」
「優、キャラ変わってない?」
「……ぷっ……」
「……ふ、ふふっ、あはははは!!!」
 優は突然、腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしいんだよぉ〜」
 そういう僕も、顔はつられて笑っている。
 理由は無い。ただ何となく可笑しかった。

 二人ともひとしきり笑った後、優は満足げな顔で言った。
「私達、結構息があってるじゃない。この様子だと何にも心配なさそうね」
「そう言われてみれば、そうだね。相性がいいのかな?」
「そうかもしれないわね。初めて少年に会ったときは『この子、頭大丈夫?』なんて思ったけど」
 冗談交じりにそういわれたので、僕もそれに答える。
「それはひどいなあ。確かに記憶喪失だったけどね」
「あははっ、そうね。ま、ここでいつまでも話しているわけにもいかないし……帰ろっか?」
「うん、でもその前に」
「何?」
「ちょっとの間だけお別れの挨拶をしてくるね」
「じゃあ、私も。さっきはそれ所じゃなかったから」
 僕はココ、優は武のポッドに向かって語りかける。
「ココ、僕は頑張るよ。だから、今はごめんね」
「必ず助けるから待っててね、倉成」
 僕たちは各々の思いを巡らせ、絶対に二人を救うと心に誓う。

 ――その時!
 突然IBF全体が大きく揺れた。
「な、何? 一体何が起こってるの!?」
「そんなこと僕に訊かれたってわからないよ!」
「もしかして、この上にあるLeMUの撤去作業でミスでもあったのかな? ひょっとすると、このままだと危険かもしれない」
「それよりさ、武とココは大丈夫なの? もし、ここが崩れたりしたら……」
 プツッ
 直後、電灯が明滅を始めた。
「電気の供給が上手くいってないみたい。このまま停電するとハイバネーションが不完全に終了されて、最悪の場合、二人の命は無いわ」
 優の口調はかなり焦っている。
 おそらく、本当なのだろう。
「そんな! どうにかならないの?」
「そんなの決まってるじゃない! すぐに原因を見つけて直すのよ!」
「う、うん」
「こういうときは、まずは発電室を調べないと! 通路に出て少年は右側、私は左側の部屋を調べるの。わかった?」
「わかった!」
 とにかく時間が無い!
 通路に並ぶドアを片っ端から開けて部屋の中を見る。
 ドアを閉める余裕などありはしない。
 疾風のように駆け抜けながら、半ば強引にドアを開け放っていく。
 その衝撃で壊れて使い物にならないものも出てくるくらいだ。
 でも、今はそんなことをいちいち気にしていられない。
 早く発電室を見つけないと……
 僕たちが通った場所はまるで竜巻が通った後のように荒れていた。
 その状態は、後方の通路に延々と続いている。
「なんでこんなに部屋が多いんだよ!」
 僕の怒鳴り声が周りの壁や床、天井にこだまする。
 通常の人間の限界を遥かに凌駕している肉体の限界を更に超えて精神が加速している。
 今の僕はボクサーの世界チャンピオンのパンチさえハエが止まっているように見えるだろう。
 それでも、時間には一刻の猶予すらなかった。
 間に合わないのか?
 嫌な考えが頭をよぎる。
「少年、見つけたわ! すぐにこっちに来て!」
「わかった!」
 優が開けた部屋に飛び込む。
 勢い余ってぶつかったため、ドアがものすごい音を立てて変形した。
「大丈夫?」
「うん、それよりこれは……」
「そうよ。当たり前だけど、これはLeMUと同じ発電方法」
 熱水を利用し、温度差でタービンを回すことによって電力を供給する発電機。
 しかし、今はパイプの接続部から熱湯と蒸気がものすごい勢いで噴出しているのが見える。
 LeMU圧潰事故のときのまま放置された挙句、先ほどの揺れによってパイプが緩くなったのが原因だろう。
「修理自体は簡単。ただあのパイプを締めるだけ。でも熱湯が修理の邪魔をしているの。あの噴出を止めることは出来るけど、それと同時にハイバネーション機能が停止してしまう……」
「どうにもならないの?」
「大丈夫、私に任せて」
 優はそう言うと、何かを覚悟したような、そんな目で問題のパイプを睨みつけた。
「まさか――」
 僕が口を開いた瞬間、優はパイプに向かって猛然とダッシュした!
 いくらなんでも、あの熱水はまずい!!
 あわてて後を追いかけて、優の腕を強引に掴んだ。
「危ない、無茶だ!」
「離しなさいよ、少年!」
「嫌だ、離さない!」
 何とか引き止めてはいるが、ものすごい力だ。とても女性のものとは思えない。
 キュレイウイルスの特徴の一つ、身体能力の向上。
 でもそれは僕だって同じだ。
 ここで離せって言われて離すほうに無理がある。
「こんなことしてる場合じゃないでしょ! 早くしないと倉成とココが……きゃぁぁぁ!!!!!」
「うわぁぁぁぁ!!!!!」
 突然視界が真っ黒になった。
 一体何が起こったのか理解できない。
 自分が今、どこにいるのか分からない。
 まさか、停電?
 このままだと、武とココが危ない。
 そう思っても、体が動かなかった。
『優、どこにいるの?』
 そう言おうとしたけど、声が出なかった。
 いや、自分が口を開けたかどうかわからない。
 そういえば、何かおかしい。
 何も見えない。
 何も感じない。
 突如やってきた虚無の世界は、かろうじて残された意識まで容赦なく剥ぎ取っていく。
 優は……どこ?
 発電機、直さなきゃ……
 そして…ココを…助…け…
 必死に抵抗することも敵わず、意識は漆黒の闇と交わり一つとなった。


「起きろ、少年」
 男の声が聞こえる。
 どこかで聞いたことのある声だ。
 ……誰の声だっけ?
「寝てる場合じゃないだろ? 起きるんだよ!」
 肩を激しく揺さぶられる。
 起きたくても起きられないんだ。
「起きないなら、お前が俺にやったみたいに額に『肉』って書いてやろうか?」
『肉』? 僕が書いた?
 ……それってまさか!
 僕はガバッと起き上がって、声の主を見る。
「武!」
「よう、少年! 久しぶりだな」
 武がここにいるってことは……
 まさか、ハイバネーション機能が停止した!?
「武、ココは? ココはどうなったの?」
「まだポッドの中で気持ち良さそうに寝ているよ。でも、このままだと危ない」
 武は真面目な口調で言った。
「それってどういうこと? 武はここにいるから、ハイバネーションは解除されたんじゃないの?」
「そんなことはどうでもいい。とにかくこれを見るんだ」
 武がそう言うと、突如目の前に発電室が映し出された。
 そこに映っているのは、倒れている僕と優。
 相変わらず、パイプからは熱水が噴出している。
 しかも、ところどころで火花がバチバチと鳴っているようだ。
 まさか、漏電している?
「これは……」
「お前と優は、感電のショックで気絶しただけだ。今すぐに起きれば、手遅れになることは無いと思う」
「そんな、無理だよ。あの状況じゃパイプに近づくことすら出来ない。それに、もうじき部屋全体に電気が流れて……」
「諦めるのか?」
「だって、もう何も出来ないじゃないか……」
 もう、何も出来ることは無い。
 無い……はずだ。
「そんなことだから、お前はいつまで経っても『少年』なんだよ。お前は今まで、何かにがむしゃらになって全力を出し切ったことが一度でもあったか?」
「…………」
 何も言えない。
 悪いことをしているわけじゃないのに、武の目を直視することが出来ない。
 空気が、とても重く感じられた。
「だんまりか? 何も言えないってことは、やっぱりそうなんだろうな。全力も出さずに諦めているやつに一体何が出来る?」
 そうだ。僕は何もしちゃいない。
 僕はあのLeMU崩壊の時だって、自分から行動しようとはしなかった。
 みんな生き延びることに必死だったのに……。
 僕がしたことといえば、不満を周りに撒き散らし、わがままを言って皆を困らせたくらいだった。
 記憶喪失だなんて、言い訳にしかならない。
 僕は確かにそこに存在していた。
 でも、ココがTBに冒されているときでさえ、ただ見ていることしか出来なかったんだ……
「悔しいか? だったら、自分が今何をしたいのかを考えろ。自分の本当に大切なものを失わないために」
「僕は……」
 そんなこと、最初から決まってる。
「僕は、ココを助けたい」
「なら、そうすればいいじゃないか。きっとお前ならできる」
 そう言って、武は僕の頭を優しく撫でた。
 子ども扱いされているのがわかっていたけど、それでも僕は嬉しかった。
「こうやって頭を撫でてやるのもこれが最後だな」
「最後って……ねぇ、武!」
「今度会うときは立派な男になっているんだぞ。約束だ」
 武は僕の頭をくしゃくしゃにした後、背を向けてゆっくりと歩き出した。
 周りに霧がかかり、視界がどんどんぼやけていく。
「武、待ってよ!」
 その姿は霞んで見えなくなってきた。
「必ず助けるから! だから、ちゃんと待っててよ。ねえ、武!」
 武は振り返って最後に一言――
「頑張れよ、桑古木」
 その声は、とても聞き取りにくかったけど……
 僕の心に、しっかりと届いた。

「武!」
「あれ? ここは……」
 隣で優が倒れている。
 少し濡れているが、やけどのような外傷は見当たらない。
 戻ってきたんだ……
 問題のパイプは、今も熱水を噴出し続けている。
 それに加えて、漏電した電流の存在。
 近づいたら、ただでは済まないだろう。
 だけど僕は、もう迷わない。
 パイプまで、確実に距離を縮めていく。
 その足取りは速く、そして正確に。

 目の前で、漏れた電気が青白い火花を散らしている。
 僕に襲い掛かるのを心待ちにしているように。
 ……焦ったら負けだ。
 今、僕に出来ること。
 それは武のような勇気でも、優のように強い意思を貫き通すことでもないかもしれない。
 だけど、たかがパイプを締めるくらいのことがなんだっていうんだ。
 電撃が、濡れた地面を通して襲い掛かる!
「くっ!」
 体中に激しい痛みが走る。
 大丈夫。キュレイに侵されているのだから、この程度でどうにかなるはずが無い。
 まだ、頑張れる。
 パイプ周辺は、当然ながら水浸しだった。
 高圧電流と戦いながら、ついにパイプまでたどり着いた。
 感覚はすでに麻痺している。
 気のせいか、肉の焦げたようなにおいがする。
 しかも、電撃に加えて、沸点上昇によって百度を超えた熱水まで僕を餌食にしたいようだ。
 目の前でパイプが外れてしまった。
 すぐにパイプを繋げたかったけど、体が思うように動かない。
 持てるだけの力を振り絞って、すでに感覚が無く震えた手でパイプをしっかりと掴む。
 間違って落とさないように、確実に持ち上げていく。
 意識が遠くなる。
 ダメだ、ここまで来て失敗するわけにはいかない。
 あと少しなんだ……。
 工具は無いけど、両手に力を込めてしっかりとパイプを締める。
 もう、熱水は噴き出してこない。
 ココ、武……これでいいんだよね?
 安心したとたん、全身の力が急に抜けていく。
 もう動けないみたいだ。
 とにかく眠い。少し眠ってもいいかな?
 それに答えるものは誰もいなかった。
 僕は、そのまま意識を失った……。



「あれ? ここは……」
 気がついたら、見たことの無い部屋のベッドの上だった。
「僕はどうしたんだっけ?」
「う〜ん……」
 何も思い出せない。
 そこで、名前を呟いてみる。
「僕は、桑古木……涼権」
 どうやら記憶喪失でないのは確かだけど、この状況はまるでわからない。
 そのとき、部屋のドアが開いた。
「あ、起きたんだ!」
 部屋に入ってきたのは、優だった。
 僕の姿を確認すると、そばまで駆け寄ってきた。
「具合はどう?」
「大丈夫、全然平気だよ」
 軽く腕を振るって見せる。
 特に問題は無いようだ。
「そう、良かった」
 優は安心したのか、とても穏やかな表情で微笑んだ。
「それより優、ここはどこ?」
「私の家だよ。君は1週間も寝込んでいたの」
「1週間……」
 そんなに長い間眠っていたんだ。
 あまり実感は無いけれど……。
「体質上、病院に運ぶわけにもいかないでしょ。重傷だった君をここまで運んでくるのは大変だったよ」
「そうなんだ」
 覚えてないけど、優が僕を助けてくれたようだ。
 優には、感謝してもしきれないな。
「一時はどうなることかと思ったよ。インゼル・ヌルで空に調べてもらったら、全身大火傷、感電による神経や内蔵、そして脳へのダメージ……」
 インゼル・ヌル。
 その言葉は、一連の出来事を思い出すのに十分だった。
 そうだ、僕は発電室で――
「助かったのはまさに奇跡的だったの。もうこんな危険な真似はしないでね。いくらキュレイだからって、完全な不死じゃないんだから」
「うん、ところで……ココと武はどうなったの?」
 あの後どうなったのかすごく気になる。
 それを訊かないことには、まだ素直に喜べなかった。
「大丈夫、ポッドは正常に動き続けてる」
 間に合ったんだ。
「それは良かった……」
「これも君のおかげだよ。ありがとう、桑古木」
「優」
「何?」

「いや、なんでもない」
「?」
 優は気づいてないけれど、僕のことを名前で呼んでくれたのはこれが初めてのことだった。
 たったそれだけのことだけど、それがとても嬉しかった。
「あのさ……BW召還計画、もっと詳しく説明してくれないかな?」





『海月の虚空に秋涼し時鳥』
「よーし、出来た!」
 優が書いたのは、17文字の言葉の羅列だった。
「でも、何でココちゃんが『月』なの?」
「うん、それは――」
 もしかすると、このときから僕と優の本当のBW召還計画が始まったのかもしれない。
 確かな手ごたえを感じつつ、僕は1週間ぶりに家路に着いた。
 だけど、家に帰る途中で、白衣を着た男達が待ち構えていた。
「桑古木 涼権くんですね?」
 まさか、この男達は……
「あなたの生命力は素晴らしい! まさか、あれだけの重傷から立ち直るなんて。その能力をみんなのために役立ててみたいとは思いませんか?」
 監視が見ていたのか……
 ごめん、優。協力できそうにないよ。
 どうやら、ライプリヒに狙われる立場になっちゃったみたいだ。



 それから今まで、ずっと逃げてきたというわけだ。
 あれからまだ1日も経っていない。
 しかし、終わることの無い逃走はとても長く感じられた。
 このまま、いつまで逃げればいいんだろう?
 ……いつまで?
 逃げていたって、何にも解決しないじゃないか!
 本当に、これが僕の『全力』なんだろうか?
 どうすればいいのか、もっと考えるんだ……



 僕は再び、ライプリヒの奴らと対峙していた。
 ここが正念場だろう。
 当山ながら、失敗は許されない。
「ついに観念したか? そう、我々から逃げたって無駄だ。どこにいてもお前に平穏は訪れない。おとなしく我々と一緒に来るんだ!」
 自分が優位に立ったと思っているのか、脅迫するような物言いになってきている。
 ここは、怯むわけにはいかない。
「逃げようと思えばいつだって逃げられるさ。いつまでも逃げ続けたっていい。でも、それだとあんた達が困るんじゃないかな?」
「何が言いたい」
「僕をライプリヒの研究員にしてくれないかな?」
「馬鹿な。そんなことをして何の意味がある?」
 やはり、奴らは少なからず戸惑っているようだ。
「キュレイ感染者は、身体能力だけじゃなくて思考能力も向上するって知ってた? 年齢的にも、今から勉強すれば十分に間に合うと思うんだけど……。それに、感染者が自ら研究したほうがずっと効果的だと思わないか?」
「……お前は何でライプリヒに就職したいんだ?」
「わけもわからず他人の実験材料にされるくらいなら、自分で自分を調べた方がましだ。そう思わないか?」
「……わかった。話を聞こう」
 どうやら、上手くいったようだ。
 そう、これが僕の答え。
 奴らは監視だけは怠らないと思うけど、躍起になって追いかけてくるようなことはもう無いだろう。
 それに、自らライプリヒに就職することによって、内側から優のサポートをすることが出来る。
 すべては、ココと武を救うために。
 そのためなら、僕はどんなことでもやるだろう。
 何故僕がこんなことをしなければならないのか。
 答えなら、もうずっと前からわかってる。
 僕は、お月様に恋をしているんだ。
 
 






あとがき
さて、今回の話は私の第2作目となりますが、いかがだったでしょうか?
これを書くきっかけとなったのは、獅子座流星群を見るため夜空を眺めに行ったときに見た月があまりにも美しかったことです。
そのとき感じたことを元に、『少年』の成長をテーマにして書いてみましたが、要するに妄想大爆発ですね。
妄想が進みすぎて、桑古木少年が悲劇のヒーローとして研究員と戦う展開になりかけて修正したり……(滝汗
今回のSSを書くに至って、一つ気づいたことがあります。
私と桑古木って、同じ6月生まれなんです。
そして、これはこの前知ったばかりなのですが、6月の誕生石はムーンストーン……
何か運命めいたものを感じます(笑)
そしてもう一つ。
これは後になって付け加えたテーマですが、優春の手際の良さを表現してみました。
2人でライプリヒを手玉に取る(!?)のだから、これを使わない手はないと思いまして。
でも、なんだか優が主役のSSっぽい気がするのは気のせいか……?
明らかに桑古木より目立っているような。
二人の魅力をどれだけ引き出せたかわかりませんが、やってみると結構面白かったです。
ただ、テーマに関わるはずのココの存在がちょっと弱いような気がします。
あと、心理描写が相変わらず弱く、神の視点だと言われてかなり修正入れたのですが、そのあたりも気になるところです。
他にも作品について何か気づいた事があれば、教えていただけると嬉しいです。
皆さんの感想をお待ちしています。
では、次回予告です!
あの問題作(いろんな意味で)の続編、製作決定!
さまざまな謎を独自に解き明かし、新たなる謎を加えたもう一つのEver17。
〜The start of infinity〜「○○編」(※○○にはキャラクター名が入ります)
生体反応:1とは一体なんだったのか。
優春と桑古木は、無事にBWを召還することが出来るのか。
キュレイウイルスとはいかなるものか。
つぐみの前に現れたココの秘密とは?
それよりも一番気になるのは、一体誰が主人公なのか?(爆)
張り巡らされた謎を次々に解き明かし、ついに暴かれる衝撃の真実!!
解釈・シナリオ:月守 蒼輝
近日公開……かも(待て
失礼しました〜〜〜〜!!!!(逃走
2002年12月04日  月守 蒼輝




2002



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