※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。








不器用な想い
                              YTYT 

6話



視界の左に、天井がぼんやりと見えた。
顔をテーブルに付けたまま、つぐみは意味も無くデジタル時計を眺めていた。
机の上には、武の夕飯が乗ったままだ。念のために、と自分が作り置いた物だった。
23時50分。もうすぐ日付が変わる。
《つぐみへ。ちょっと遅くなるけど、必ず帰るぞ。メシは適当に食ってくる。帰ったら、話を聞くからな。ビールでも交えてさ(笑)》
武から返ってきたメールを、頭の中で執拗に反芻し、確認している自分が居た。武の帰りを、今か今かと待ちわびている自分が居た。
静寂や孤独感は、昔から味わい続けてきたものだが、今の自分を苛んでいるそれは、昔とは桁違いに耐え難い苦しさを伴っていた。
昔の自分なら、それをライプリヒへの憎しみに置き換えることが出来た。
死ぬことの出来る者達に対する、倒錯した憎しみへと置き換えることが出来た。
それ故に、その苦しさには、逃れることの出来る手段があったのだ。
だが、今は違う。決定的に違う。自分は、心から幸せに満たされ、ものの考え方を根本的に変えたのだ。
変えるきっかけを与えてくれたのは、武だった。長い間奪われていた幸せを、武は自分に与えてくれた。胸一杯に与えてくれた。ホクトや沙羅を、そして家族と共にある幸せを、武は私に与えてくれた。
だが、そんなかけがえの無い夫を、今自分は失おうとしているのかもしれない。
そう一旦思ってしまうと、脳裏に浮かぶ想像は、どれも等しく怖かった。それらは昼の、あの血のイメージと結びついていた。どの想像も、武を失ってしまう、最悪の結末を予感させてしまうのだった。
連関の無い、意味の無い想像が、今では何もかも現実になりそうな、そんな錯覚を覚えた。
その想像は武一人に留まらず、ホクトや沙羅にまでも及びつつあった。
想像が怖い。言葉に出来ないほど、怖い……。
武……私を、一人にしないで……。
知らず、視界が滲んだ。
その拍子で、つぐみは我に返った。顔を上げ、落ちかけた涙を、さっとぬぐう。
時計は、23時58分を示していた。
武のために風呂を用意しておいた事を、つぐみは思い出したのだった。
ふらりと、椅子から腰を上げかけた時、ドアの鍵がガチャリと音を立てた。
固まったように、つぐみはその方向を見た。
「おお、ぎりぎり日付変更線を超えなかったか。こりゃ、午前様にはならんなあ」
こっちの心配などまるで知る由も無い、といったような軽口が聞こえた。
「ただいまでチュよ、チャミチャミ。お前の怖いご主人さまは、どこでチュかあ? 」
無意味に赤ちゃん言葉も混じっている。
そんなふざけた軽口など、自分の家で言うような人間はただ一人しか居ない。
馬鹿、本当に馬鹿、私の気持ちも知らないで……。
武が靴を脱ぎかけているのを待たずに、つぐみはその胸に飛び込んでいた。
「武……! 」
フローリングが揺れた。
慌てながらも腰にしっかりと手を差し伸べてくる、武の手があった。
自分よりも一回り大きい武の胸を、つぐみはかき抱いていた。それから恥じらいも無く、つぐみは声を上げて泣いたのだった。

椅子に座り、武が苦笑い混じりに言ってきた。
「あのな、お前……。亭主の帰りが遅くなる度に、そんな帰還兵を待つ妻のような気の揉み方してたら、倉成家の女房はやってはいけないぜ」
ただでさえ、うちはハンパな家庭じゃないんだから、と、やんわり付け加えてくる。
武は、首にかけていたバスタオルをひざに置いた。
半乾きの髪を指ですきながら、ふいーと息を吐く。そんな武を、つぐみは横目で見ていた。
赤面をしながらも、「それは、そうなんだけれど……」 と小声で反駁する。
二の句が出てこない。確かに、武の言う通りではあった。
そうこうしているうちに、武は冷蔵庫に向かっていった。
戻ってきた時に、手にしていた缶ビールを見て、つぐみは大事なことに思い当たった。
「武、」
やや慌てて、武の手を制止する。武は、まさに夜の一杯を迎えようとしていたところだった。
「ん? なんだよ、つぐみ」
怪訝な表情をする武に、つぐみは口を開いた。
「あのメールの件だけど……」

つぐみは、昼間の件を一部始終、武に話した。
話している間、武は曖昧な相槌を打っていたものの、とりあえずのところは理解したようだった。
「ok、ok。だいたいの所は判った。……まあ、大方ビールのプルタブかなんかで、唇を切ったんだろうな」
手鏡で自分の唇を見ながら、武は言った。
おお、我ながらセクシーな唇、と戯れ言を吐く武に、何故かつぐみは一抹の不安を覚えた。
それは、”武が自分の言葉をまともに取り合ってないのでは”という不安ではなく――。
”まともに取り合った上で、あえて取り合っていないふりをしているのでは”という不安だった。
「武。貴方……、」
だが、動こうとしていた唇は、武の唇にふさがれてしまった。
ん、と出しかけた声が、武の息に絡め取られる。
やがて、唇を離すと、武は言った。
「ああ、理解した。そんなことで亭主の職場にまでメールを入れてきた、心配性のお前のことが、さ」
ちっとは性根を叩きなおさんとな、と、もう一度唇を交わそうとする。
それを拒まず、一旦は受け入れたつぐみだったが、もう一度だけ抗い、口を開こうとした。
「やっぱり……ちょっと待ってったら、あ……」
しかし、その抵抗もまた唇で塞がれてしまい、つぐみはついに陥落した。
今朝とは、攻守が逆転していた。
唇をついばまれ、全身をゆっくりと弄られながら、つぐみは武の中に溶けていく感覚に酔い始めていった。
最後にもう一度だけ、脳裏に不安がよぎったが、それをつぐみは意識として捉えきれずにいた。
そのまま、つぐみは武の中に取り込まれてしまい、恍惚と陶酔と忘我の中に溺れていった。


体の節々が痛んだ。
昨夜のいとなみは、いささか度を過ぎていたようだった。関節も少し熱を持っているかもしれない。
傍らのつぐみが起きる前に、シャワーを一浴びしておきたかった。
ゆっくりと、武はベッドから身を起こした。
椅子にかけっぱなしにしていたバスタオルを一枚羽織り、ふらりとした足取りで洗面所へ向かう。
向かう途中で、昨日買って帰る予定だったメイブルを買わずじまいだったことを思い出した。
それに勢いとは言え、優春をこの身に抱き寄せた記憶が重なり、武は一人ため息を吐いた。こりゃ、しばらくはつぐみに逆らえんな……。
鏡の前に向かい、自分の顔を見た。
昨晩、つぐみは色々と心配をしてきてくれたのだが、武はその殆どに、あえて取り合わないでいた。
たかが血の一つや二つ、と軽んじるつもりは無かったが、つぐみには余計な心配事をさせたくはなかった。
詮索の目をいくら向けられても、疑惑の念をいくらぶつけられても、この事の一切について、武はつぐみに話さないつもりだった。
自分の体の事は、自分が一番良く知っている。
そう、うそぶく。
うそぶいては、どこかで自分の中に引っ掛かるものを感じた。何かが気になる。そうして、武はしばらくの間、鏡の中の自分と不本意に向き合うことになった。
――貴方とココの免疫系の機能が、わずかに活性化しているのよ。私たちよりも更にね。
優春の言葉が、耳の中でこだました。
その言葉には、良い意味がまるで含まれていなかった事を思い出す。
むしろ、異変の凶兆であるとさえ言わんばかりの口調だった。
おぼろげに、最近までの自分の体調についてを考えてみたが、何も思い当たるところが無かった。
コンクリート壁に隔てられた研究所の中で、ただひたすら忙殺される毎日を送るしかなかった自分は、どこかが鈍くなっているのだろうか。
いくら考えてみても、頭の中で再現される記憶は、アンプル管やウィルスの塩基配列やRNA合成酵素の画像など、無味乾燥とした光景ばかりだった。
それに入り交じるようにして……・LeMUで過ごしたあの数日間の記憶が、ちらちらと頭の中に浮かんでは消えていった。
まるで、海の底から浮かび上がっては消える泡のように。
青く、ただ青く、冷たく静かな海の底。
かつて、自分がその只中で死に瀕していた事を思い出す。
つぐみを救うため、一人救命ポッドから海の中に飛び出していった自分。
冷たい光の舞い降る世界の中で、あの時はっきりと、自分は死ぬ感覚を味わった。
おびただしい水圧と泡の中で、全ての細胞が圧迫され、潰されていく。
全身を包み込んできた意識が、バラバラに引きちぎれて四散していく。
自分は、自分であった何かに変わり、昏黒の海に溶け合い、交じり合う。そして、……音一つ立てず、無明の世界に消えていくのだった。
あの時の感覚だけは、忘れてはいない。
あの時の感覚だけは決して、忘れることが出来ない……。
知らず、つぐみの泣き顔を思い出していた。
あの時……救命ポッドから窓越しに泣き叫んでいた、つぐみの顔を。
それは、もう二度とつぐみにさせたくない顔だった。
つぐみは、あの時救命ポッドの中で、最後まで自分と居ることを望んでいた。
自分は、つぐみの制止を振り切って、つぐみを救うために、一人救命ポッドから飛び出したのだった。
あの時の選択は間違っていなかった、と今でも確信している。
だが、しかし……・つぐみの、あの悲痛な表情を思い出すと、その揺るぎなかったはずの確信には、ある種の疑問が芽生えてくるのだった。
果たして、自分の選択は、つぐみにとって真の救いになりえたのか、と。
あの時の自分の選択は、つぐみに新しい悲しみを植え付けただけではなかったのか、と。
そんな疑問が芽生えてくるのだった。
あの時の選択は、はっきりと自分自身の死を意味するものだった。このことを武は認めた。
つぐみを救うことだけは真剣に考えていたが、自分自身を救うことまでは、あの時には正直考えていなかった。これも併せて、武は認めた。
翻っては、それは自分の在り方を問うことにもなった。
他人を救うためには、自分が犠牲になることなど厭わない。これは、自分が今まで至極当然と考えてきたことだった。
だが、守るべき者達を持った今、この考え方には修正をしなければならない点が出てきていた。
自己を犠牲にするという事は、そうして自分が守ろうとした者に、新しい悲しみを背負わせてしまうのだということに、武は思い当たったのだった。
自分は救われず、自分が守ろうとした者は、新たな悲しみを背負ってしまう。
それ自体が悲劇であるという点において、それ自体が新しい悲劇を生み出してしまうという点において、究極的に自己犠牲は誰も救えないのだという事実に、武は今改めて突き当たった。
そして、それをもっとも端的な形で訴えてきたのが、つぐみのあの悲痛な顔だったのだ。
救命ポッドでつぐみの発していたあの言葉が、今になって心に痛く響いていた。
私を、一人にしないで……。

ふとした弾みで、手に歯ブラシが当たった。
歯ブラシは洗面台を滑り、底の排水栓のチェーンに引っ掛かって止まった。
それを掴み、元の場所へそっと戻した。
つぐみを起こしはしなかったか、という危惧が働き、武は後ろを振り向いた。
夜の薄明かりが差し込む寝室から、つぐみが出てきそうな気配は無かった。
ちょっと安堵をし、武は小さく頭を降った。
どうやら、自分は少し疲れているのだろう。考える方向が、負の方向へと際限なく向かっているような気がした。
こんなのは、倉成武じゃない。もうちっと、明るく朗らかであれ、この俺。
鏡の中の自分に言い聞かせ、にかっと笑ってみせる。
そこに、いつもの自分が居た。
つぐみになじられ、時には呆れられ、そして愛されている自分が居た。
ホクトに愛されている自分が居た。沙羅に愛されている自分が居た。
そして、彼らを愛している自分が居た。
それが俺の出発点、俺の誇り、俺の全て……。
面はゆさ混じりでも、そんなことを考えていくと、不思議と自分の内に力が宿るのが感じられた。
真顔に戻ると、武は寝室の方を見た。
つぐみをもう二度、一人にしたくはなかった。
先までの考えをひとまず置き、武はつぐみの事を……そして、ホクトと沙羅の事を考えた。
最後の最後まで、自分は彼らと共にあるつもりだった。

シャワーを浴びてからダイニングルームに戻ると、そこにはつぐみが居た。
「おはよう、武」
目を斜交いに流しながら、恥じらうように、つぐみは言ってきた。
そんなつぐみの態度から、昨夜のいとなみのことを思い出す。
武もつい、「あ、ああ」 と、ぎこち無い返事をする。それから口は閉じてしまい、二人の間に沈黙を作ってしまった。
気まずく、だが少しだけ甘い沈黙が流れた。
ややあって、口を開いたのはつぐみの方だった。
「あ、えっと……昨日、貴方の分のごはん、作っておいたのよ。……温めたら、食べる? 」
ぎこちなさを絵に描いたような、つぐみの言い方だったが、この申し出には助けられた。
昨夜、仕事に追われて、夕飯を結局食いそびれていた事を、武は思いだしたのだった。
「おお、食うぞ。お前の作るもんなら、いつ何時だって食える」

だが、ここで調子に乗り、
「お前自身だって、食べられるからな」 
と言ってしまい、またぞろ、武はつぐみと気恥ずかしい沈黙を作ってしまうことになったが。




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