※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。 |
不器用な想い YTYT |
朝のニュースが、静寂の室内に流れていく。 先刻の沈黙が尾を引いているのもあるにはあったのだが、何より「夫婦二人きりでいる朝」という経験の乏しさが、武を寡黙にさせていた。 ホクトと沙羅は、今この場に居ない。 平素はやかましいほどに騒ぐ二人だったが、いざ居なくなってみると、あの二人がこの家の空間に占めていた存在の大きさに、武としては今更ながら痛感する思いだった。 何か話題を切り出さなくては、と思うのだが、なかなかこれが上手くいかない。 時事ネタはすぐに会話が尽きるし、趣味の話はつぐみが付いていけなくなってしまう。 結局、TVで流れるニュースを見ながら、二言三言語り合うくらいで、すぐに沈黙が訪れるのだった。 つぐみも、同じような思いをしているのだろう。話を色々と切り出してはくれるのだが、やはり自分と同じところで会話は止まってしまっていた。 つまりは、自分もつぐみも手詰まりという訳だった。 ニュースは、9月に起こった皆既日食の事や、世界の平均気温がこの11月で19℃を超えそうである事などを報じてはいたのだが、どれも自分達の中で素通りしてしまっていた。 だが、”クローン法の第二回改正法案が、衆議院で可決される見通しである”というニュースが報じられた時だったろうか。つぐみが反応したのは。 箸をおもむろに置くと、つぐみは口を開いた。 「ねえ、武。クローン法の改正公布の年って、覚えてる? 」 突然の問いだった。 しばし考え込んでしまう。そもそもクローン法の内容自体、殆ど忘れかけてしまっていた。 さんざ頭を捻ったあげく、武は降参した。 「……悪いが、判らん」 そもそもクローン法の内容も忘れてる、と付け足す。恥の上塗りの一言だったが、つぐみはくすりと笑った。 「貴方らしい答えね」 「……失望したか? 」 つぐみの笑みが、ここで意地の悪いものに変わった。 「答えてほしいなら、答えてあげるわ。意味の無い質問だけど」 うう……む、と武は唸った。 どうやら、今のやり取りで、つぐみに本来の”らしさ”が戻ってきたらしい。 早い目に話題を転じようと、タイミングを探していたところへ、つぐみが再び口を開いてきた。 「武、ごめん……。意味の無い質問を最初にしてきたのは、私の方だったわね」 つぐみは、自分が気分を害したと思ったのだろう。驚くほどのしおらしさだった。 そして、遠慮しがちに言葉を続けてくる。 「でもね……。クローン法の改正公布の年は、私にとって……とても重要な年でもあったのよ。2010年……あの年から、私の老化は止まってしまったから……」 そう言った後、つぐみは目を落とした。 つぐみが何故、この話題を切り出してきたのか、武はようやく気付いた。 老化しない体。死ねない体……。 キュレイ・ウィルスのキャリアであるつぐみにとって、時間はほとんど意味を成さない物だった。 つぐみの命には、終わりが無い。 だからこそ、つぐみは、万物の終わりである死に執着していたのだ。 幸せに生きることを望みながら、苦しみだけが絶え間なく訪れる。それでも死ぬことは出来ず、苦しみからは逃れられず、もしそれを乗り越えたとしても、また別の苦しみが新たにやって来る。 つぐみにとって、その悲劇の始まりこそが、2010年という年だったのだ……。 「さて、と」 顔をぱっと上げ、つぐみはつとめて明るく、自分を見てきた。その作られた明るい表情に、胸が傷んだ。 目の前の、このつぐみを守りたい。 そんな衝動が起こっていた。 「武。貴方、そろそろ時間でしょう」 靴の用意をしておくわ、と立ち上がろうとしたつぐみの手を、武は引いた。 そのまま、つぐみの体を抱き寄せる。 「武、」 つぐみの言葉を待たず、武は言った。 「……言ってくれ」 振り絞るようにして、武は続けた。 「……苦しみを自分で抱えきれなくなったら、必ず俺に言ってくれ。 支えきれる、とは言わない。守り抜ける、とは言わない。……だが、せめて、お前と一緒に倒れるところまで共にいるから……」 自分の伝えんとしている気持ちを察したのか、つぐみの身体が一瞬震えた。 その震えは、だが確実に大きくなり、涙声に変わった。 「馬鹿、……言わないで。私たちが倒れたら、誰がホクトと沙羅を守るのよ……」 つぐみの正論は、本心から出たものではなかった。今や抑えきれなくなっている震えが、それを物語っていた。 その震えを引っくるめ、武はつぐみの身体を自分の中に抱き込んだ。 「俺は馬鹿だ。……馬鹿だがら、お前が言ってくれなければ、お前の苦しみを理解することが出来ない。悲しみを理解することも出来ない。だから……頼む。言ってくれ。 苦しみを抱えきれなくなったら、……俺に言ってくれ」 「俺は、俺の全てをかけて、お前を支えるから……守るから」 武は静かにそう言った。 腕に、冷たい物が落ちてくるのを感じた。 つぐみは堪えきれなくなったように、涙をこぼしていた。 「馬鹿……馬鹿……。貴方。仕事、遅れちゃうじゃない……」 つぐみの顔に、武はそっと手を伸ばした。 そのまま、武はつぐみを振り向かせて、唇を重ねた。 つぐみは抗う素振り一つ見せず、自分の唇を受け入れていた。 唇を一旦離すと、つぐみは武の顔を見た。 「信じてるから」 涙声で、つぐみはそう言ってきた。 「貴方を、信じてるから……」 大粒の涙が、つぐみの目からこぼれ落ちて行く。それを見ながら、自分の心もまた痛んでいくのを、武は感じた。 「判ってる……もう、何も言わなくて、いい」 言いながら、つぐみの顔を汚す涙を拭き取った。 そして、つぐみの頬に自分の頬を当てる。武は、胸一杯につぐみを抱きしめたのだった。 堪りかねたように――。 つぐみは微かな嗚咽を漏らした。 しゃくり上げるでもなく、魂叫ぶわけでもない。 だが一つの感情の塊として、純粋に訴えてくるそれは、自分の心の奥深くにしみ込んだ。 一人にはさせない。決して、お前を一人にはさせない……。 口には出さず、心の中でそう言った。頬の温かさを通して、武はつぐみにそう語りかけたのだった。 「じゃあ、つぐみ。行ってくる」 先の事をまだ引きずっているのか、武の口調はやや不自然なものだった。 「行ってらっしゃい。今日も遅くなるの、よね? 」 自分のこの言葉も、随分とぎこちなさを感じる物があったのだろう。武は苦笑いを見せていた。 「まあ、いつも通りの遅さだろうな」 貧乏暇無し、言うこたないぜ、と軽口を付け加えてくる。 そうして、玄関から二歩三歩出たところで、武は振り向いた。 「つぐみ、」 と言い、武は短く躊躇った後、 「……人生、色々だな」と言ってきた。 はにかんだ笑みを浮かべているのは、言葉が上手く見つからなかったためだろうか。それとも、素直に言葉を出せなかったためだろうか。 つぐみは尋ねたくもあったが、当の武は前を向いてしまい、もう通りに出てしまっていた。 「メールを送りつけてくるのは、ほどほどにな」 という拙い冗句を残して。 小さくなっていく武の背中を見つめながら束の間、つぐみは愛おしい気持ちにさせられた。不器用な人……。 そして、つぐみは先の事を思い出し、ちょっと後悔の念にも駆られていた。 何故、自分は武を見送る時、「ありがとう」を言うことができなかったのか、と。 先に武に抱きすくめられた時、つぐみは、この自分の身が温かく包み込まれるのを感じた。 幸せはここにあるのだ、と感じた。希望はここにあるのだ、と実感した。 それなのに、自分はその武に対して、まだ何も報いていないのだった。 ――結局、不器用という点では、自分と武も大して変わらなかった。 本音を望みながら、それを表に出すことを恐れ、ためらい、心のどこかで誤魔化してしまう。だからと言って、建前で自分を飾るようなことも出来ない。 本音と建前を両立させ、自分自身や他者とうまく折り合えることを器用と呼ぶのなら、自分達は器用な人間ではなかった。不器用な人間だった。 その不器用な人間二人が、二つの不器用な心を通わせ、今こうして一つの家庭をいとなんでいる。 それは、偶然の重なりによって生まれた物に過ぎなかったが、それを言えば、この世にある一切の物は皆全て、偶然によって生まれたという事になる。 自分に武を巡り合わせてくれた偶然。 自分にホクトと沙羅を授けてくれた偶然。 自分に仲間と呼ぶべき者達を与えてくれた偶然。 それらによって、今の自分が育まれているのだとすれば、つぐみは、その偶然には心から感謝したい気分だった。 不器用な者の上にも、確かに幸せは訪れるのだろう……。 空を見上げた。 淡い青の天空に、雲がまだらに入り交じっている。晴天と呼ぶには微妙な空だった。 不器用な空だと思った。 雲間から時おり、陽光が漏れてきていた。 目を細めれば消え入りそうな陽光だった。 だが、その陽光に、つぐみは一縷の希望を見たような気がした。 |
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