※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。








不器用な想い
                              YTYT 

10話



「武が、倒れた……? 」
受話器から、空は《はい》とだけ答えてきた。
狼狽を無理矢理に理性で押さえ込んでいるような、空の声だった。
ココが突然吐血し、一気に緊張が高まっている所に来ての、空の連絡だった。
「いつから? 」
空に聞き返しながらも、優春自身が驚いていた。
予期しえた事態であったのにも関わらず、何の準備も出来ずにいた自分自身に対して。
そうした不手際を、ただ漫然と受け止めている自分自身に対して。
にも関わらず、武とココが倒れたことについては、未だ認めたがらない自分自身に対して、優春は驚いていたのだった。
武が……。ココが……。
ココの屈託の無い笑みや、武の朗らかな微笑みが、闇の中に溶けていく。沈んでいく。形を失っていく……。
昨日、自分の身を支えてくれていた武が、今は物言わぬ体となって横たわっている。その事態を、優春は今の今さえ認められずにいた。
にも関わらず、事実は事実として受け止めなければならない義務感にも揺さぶられ、短い混乱に嵌っていた。そんな、馬鹿な……武が、ココが……。
《、ていますか? 》
受話器の声に、我を戻された。空は言葉を繰り返していた。《私の言葉、聞こえていますか? 田中先生》
「ごめんなさい。……聞いていなかったわ」
素直に詫びつつ、優春は有機ELディスプレイを見た。スクリーンセーバーが、ゆらゆらと明滅を繰り返している。
数秒置いて、空は答えてきた。
《倉成さんが倒れたのは、たった今です。とりあえず、止血は済ませてありますが……ただ、意識を喪失している状態です。現在、出血量は20%未満。ショック指数は1.7ですが……》
電話越しに聞こえる空の言葉を、頭の中に入れていく。それにつれ、遠ざかっていた感覚がじわじわと戻ってきた。
原因は未だ謎のままだったが、少なくとも容易ならざる事態が、武とココの身の上に起こっていることだけは、頭の中で理解させた。
現実を一つ理解し受け入れてしまうと、頭は徐々に、次に採るべき方法を模索し始めた。
まずは出来るだけ早く、武とココの容態悪化を抑えなければならなかった。
出血の量もさることながら、昏睡状態に陥っているのであれば、もはや一刻の猶予も無い。
「空、概ねのところは判ったわ。……とにかく、研究所の総員に、至急抗ウィルス剤を接種するよう通達して。あとは、これから言う物を用意しておいてほしいの」
そう言ってから、優春は頭を巡らせ、さし当たり必要な物を挙げていった。
純エタノール。アルギン酸ナトリウム。止血クリップ。カテーテル各種。等々……。
桑古木にそれらを挙げていき、最後にはこう付け加えた。
「それから、念のため……ハイバネーション・ユニットも」

桑古木はココの手を握っていた。
ココの顔に生気は無い。頬も血色を失いかけている。
わずかに起伏する胸の動きがなければ、ココは死人と区別が付かなかった。
心拍数や脈拍などのバイタルサインにさしたる異常は無かったが、それらは慰めにすらならなかった。
武が倒れた、という報は既に受けていた。
自分も今すぐに武の元に向かいたいと思っているのだが、ココの病状を見るにつけ、その機会を失ってしまっている桑古木だった。
2017年の、あの時のことを思い出す。
あの時も、自分はこうしてココの手を握り、ココの無事をひたすらに願っていたのだった。
悪夢は今また、そのままの姿で目の前に現れた。症状、容態、それらに付帯する状況が、みんなあの時と同じだ。
何故だ……。
虚空に向かって呟いた。
何故、また武とココに、こんなことが起こるのか。こんな悪夢が降りかかるのか。一体どんな条件が揃えば、こんな悪夢が二度も同じ人間に降りかかりうるのか。
桑古木は、理不尽な神に問いたかった。
つぐみや武やココ、そしてこの自分達を忌まわしい体にしただけでは、まだ飽き足らなかったのか。
武とココを、一度彼岸の向こうへ連れて行きかけただけでは、まだ飽き足らなかったのか。
だから、今また武とココを連れて行こうというのか……。
何故だ……。
拳で部屋の側壁を殴りかけた時、PDAが鳴った。
荒ぶる神経を収めるため、一呼吸を床に吐き捨てる。ややあって、桑古木はPDAを開けた。
優春の声が聞こえてきた。
《桑古木、気持ちは収められそう? 》
”これが収められると思うのか! ”という怒声を、桑古木はすんでのところで飲み込んだ。
今この場に、電話をあえてよこしてきた、優春の気遣いを察した。
優春は、自分の呪詛や怒号の一つや二つを覚悟した上で、この電話をしてきているのだろう。
その優春とて、自分と同じ、いや自分以上の苦渋と煩悶の中に居るはずだった。
それを思うと、怒りがどこかで薄らいでいくのを桑古木は感じた。
「ああ。なんとか、な」
と答えてから、桑古木は優春に言葉を続けた。
「それより用件を言えよ。すぐにそっちへ向かうから」
数秒置いて、返答があった。
《今、空に用意をさせているものがあるから、貴方はそのサポートをお願い。それと……》
自分の中で何かを決意するように間を作った後、優春はこう言ってきた。
《武とココは、必ず救うわ。……あの時と同じように》
そうして、PDAは発信音に変わった。
その無機的な音を聞きながら、桑古木は思った。そうだ、と。
どんな状況に置かれようと、自分達は今出来ることをするしかない。
一歩一歩なすべきことをしていくしかない。その原点は、いつもここだったのだ。武とココを必ず救う。この一筋の意思だ。
それを改めて確認させられた、優春の言葉だった。
おもむろに立ち上がると、桑古木は部屋の出口へと向かった。
もう一度だけ、ココの方を見る。
ココの寝顔を愛おしげに見つめながら、桑古木はあることに気が付いた。
自分には、もう一つ大切な原点があったのだ。
自分がココを好きだ、ということを。


自分の閉じたPDAを、優春はじっと見ていた。
憤怒をぶつけてこなかった桑古木に対し、感謝半分、申し訳なさ半分の心境だった。
だが、今は個人の感情を忖度しているような事態ではなく、現実的な対策を何よりも優先させなくてはならない状況だった。
桑古木も、それが判っているからこそ、自分に何も言ってこなかったのだろう。
そんな桑古木の思いやりを受け止めると、優春は自分の果たすべき責任の重さを再認識することになった。
武とココを救う責任。彼らを見守る、つぐみと桑古木への責任。空への責任。ホクトや沙羅への責任。優秋への責任。
他の所員達への責任。社会的倫理的な責任……。
そして、それら一つ一つを心の内に収めると、優春はいよいよ覚悟を固めたのだった。
今し方、自分が桑古木に言った言葉を反芻する。
武とココは必ず救う。
目を閉じ、心の中で十字を切り、もうこの世にいない父と母に、優春は誓った。
お父さん、お母さん。私はまた、自分の全てをかけようとしています。私の愛する者達を、救いたいのです。
助けて下さい、とは言いません。力を貸して下さい、とは言いません。
ただ、見ていて下さい。貴方達の娘が、これからしようとしていることを……。
それだけを心の中で言うと、優春は再びPDAを見た。
まず最初に、自分が責任を果たさなければならない人間がいたのだった。
それは、自分と同じく、武を心から愛している人間だった。


PDAを握ったまま、つぐみは目をしばたたかせていた。
つぐみは、自分が今、何を言われたのか判らなかった。
いや。言われた内容は理解できたのだが、その内容を受け止める術もないまま、つぐみはただ放心していたのだった。
武が、倒れた……?
PDAの発信元が優春の物である、と判った時点で、なんとなしに嫌な予感はあった。
《つぐみ。気を確かにして、聞いてもらえる? 》
この台詞を優春から聞いた時点で、自分の予感が的中したことも判った。その予感が武に関わるものであろう事も、すでに直感していた。
にも関わらず、武が倒れたと聞いた時、頭にやってきたのは放心だった。武が……倒れた?
武がいつ倒れたのか? 倒れたのだとしたら、その原因は? いや、それよりも意識はあるのか……? 等々。
聞きたいことは山ほど出てくるのだが、何も口に出来なかった。
今起きている事は理解しているのに、頭の何処かが麻痺しているのだろうか。言葉が口に上ってこない。
何かがおかしい。
「武は……」
放心の中で、反芻に反芻を重ねてきた言葉を、つぐみは絞り出した。
「……武は、いつ倒れたの? 」
PDAの向こうで数秒の沈黙が流れた後、優春の声が聞こえてきた。
《繰り返した方が良いわね。倉成が倒れたのは、今さっきよ。現在意識は不明。致命的な状況には至っていないけれど、現状予断は許さないわ……。》
優春の言葉を聞きながら、自分の頭がここに至り、ようやく機能を取り戻していくのを感じた。
武が倒れた事を、事実だと認めてしまうと、頭は今すべきことを絞り込み始めていた。
とにかく、一刻でも早く武の元へ行きたかった。自分に何が出来るのかは判らないが、行かずにはおれなかった。
この自分の忌むべき肉体も、何かの役に立つかもしれない。そんなことさえ思った。
「優、……武が倒れた事については判ったわ」
口を開きながら、つぐみは居間のクローゼットを開け、車の鍵を探した。家族共用の小ケースの中から、鍵を見つける。
「それと、」
つぐみは言葉を続けた。「貴方の研究所への、最短の道を教えて頂戴」
《判ったわ。貴方の車のナビシステムのアドレスを教えて》
意図をすぐに察したかのように、優春は即答をよこしてきた。
その優春には、
「10分以内に、連絡するから」 
と答え、つぐみはPDAを切った。
それから、ほとんど何も考えず、つぐみは機械的に動いていた。
タオル一式。洗面用具。武の着替え。その他雑多な物をかき集め、ナップサックに押し込んだ。
時計を見ながら、頭の中でざっと計算をする。
13時20分。幹線道路を外して行けば、1時間半ほどで研究所に着くだろうか。
車の燃料電池の残量を思い出しながら、つぐみはブラインドカーテンの隙間をちらりと見た。日差しは、それほど強くはない。
鍵をポーチにしまった時に、祖父の法事が頭をよぎった。
苦い思いに駆られた。
法事どころか、息子が今危機に瀕している事を、お義母さんにどういったら良いのだろう……。
PDAを開きかけ、手をとめた。
虚空を睨み、短く迷った末、つぐみは決心した。
開きけかけたPDAを閉じ、部屋を後にする。
事が終わるまで、お義母さんには何も話さないつもりだった。
どの道、法事の件では謝罪しなければならないことになるだろう。ならば、全てが終わるまで、お義母さんに余計な心配をかけさせたくはなかった。
無論、その時は必ず、武にも一緒に謝ってもらうつもりだった。
そう。全てが終わった時、自分の隣には武が立っているのだ。

チャミに「行って来るからね」と声をかけた後、つぐみは家の鍵をかけた。
日傘を携え、ナップサックを腕に持つ。
駐車場へ向かいながら、つぐみはあれやこれやと考えていた。
その全ては、武に繋がる事だった。
車内に乗り込み、ハンドルを握った時も、武のことがずっと頭から離れなかった。
武の欠点を思い出しては、苦笑いを浮かべた。
度を過ぎた楽観主義者。鈍感。意地っ張り。強情っぱり。馬鹿。
では、武の長所は何処だろう……。これには、何故か考え込んでしまった。
陽気な事。朗らかな事。優しい事。実はきれい好き。実は子煩悩。馬鹿……。
馬鹿……馬鹿……。本当に、馬鹿……。
ハンドルに涙がぽつりと落ちた。
肩を震わせ、つぐみは短い間、ハンドルに突っ伏して泣いた。
武。馬鹿……。許さないから。
私を置いていったら……。絶対に許さないから。
貴方に何かがあったら、私、ホクトと沙羅に何と言ったら良いのよ……。

ひとしきり涙を流した後で、つぐみは顔を上げた。
武を絶対に死なせない――。そんな思いだけが胸にあった。
つぐみは、空を見上げた。
先よりも雲が濃密に垂れ込めている。空は、混沌とした灰色だった。
その中に、神の姿は見えずにいた。




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