※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。 |
不器用な想い YTYT |
つぐみが研究所の敷地内に入った時、時刻はまだ14時になっていなかった。 予想よりもかなり早い。 優春から得たデータは、おそらく裏道という裏道を網羅したものだったのだろう。無論、自分が道路の至る所で、法定速度を無視した事もあったのだが。 警備員らのチェックも実に簡素だった。優春が事前に手を回していたのかもしれない、とつぐみは思った。 長い庭園を越え、優春の居る研究所へと向かう。 弱い日差しの中、庭園の草木は山吹色の衣替えを迎えていた。秋の匂いがそこから仄かに感じられる。 だが、それに向ける感慨はすぐに消え去ってしまい、頭の中は再び武のことで占められ始めていた。 研究所の入り口では、空が一人立っていた。 遠目にも派手なチャイナドレスは、いつもの通りだ。それでいて、空の身体から発散されるたたずまいは、冬の湖水のように静かだった。 外面の派手さと内面の静けさ。それらを併せて持っていたのがこの空だったな、とつぐみは改めて思い起こした。 空はこちらを見るや、艶やかな笑みを浮かべてきた。 「お待ちしておりました。つぐみさん」 良く通る声だった。 こちらへ、と空はつぐみを招き、研究所へと向かっていった。 セキュリティチェックの施された空圧ドアを、数回ほど抜けていく。その際、つぐみは空からIDカードを手渡され、パスワードを耳打ちされていた。 頭の中で、パスワードを覚えるために反芻を繰り返しながらも、つぐみは所内の雰囲気に少し飲まれていた。 研究所内部の無機的な空間は、ライプリヒに監禁されていた記憶と重なり、つぐみは言いしれぬ不快感を覚えていた。 研究という名目の下、自分やチャミが、幾度この空間の中で殺されてきたのか。その記憶が脳裏にちらつき、かすかな吐き気を催した。 それを意志の力で抑え込み、なんとか押しのけると、今度は別の不快感がやってきた。 観察されている、という気がした。妄想ではなく、実際に今、自分は観察されているには違いのだろう。が、その感覚はこの時、異常なまでの実感を伴っていたのだった。 全身にビリビリとした緊張が走り、つぐみは知らず身体を強ばらせた。 その一方で、今少し自分自身を見つめる必要にも迫られた。 自分は顔を強ばらせているのだろうか。それとも、鬼相を浮かべているのだろうか。 客観的に自分を見ると、自分はそのどちらとも言えない表情をしていた。 優春にこのまま出会えば、武とココの件で、感情が激発しかねない危惧もあった。そのため、つぐみはしばし気を落ち着かせるべく、自分自身を客観的に見つめるように努めたのだった。 そんな際、先導していた空の言葉がした。 「つぐみさん。貴方がこういった場所に嫌悪感を示される理由は、良く判ります」 空は、こちらを振り返ることなく、言葉を続けた。 「ライプリヒのデータベースから、貴方に関わる膨大なデータを拝見しましたので」 ややあって、つぐみは口を開いた。 「感想はどうかしら? 」 笑えたでしょう、”こんなの人間じゃない”って、と自嘲まみれに言葉を付け加える。 失言と判っていて、発した言葉だった。空には恨みが無かったが、発せずにはいられない言葉だった。 それでも、ばつの悪さにかられ、つぐみは息を深く吐き、再び口を開いた。 「ごめんなさい……。これは貴方に言うべき言葉じゃなかったわね」 空は、やはりこちらを振り返ることなく、答えてきた。 「いいえ。……私こそ、今のは無思慮な発言でした」 そう言った後、空はちょっと間を置き、 「私にはまだ、他人を忖度する心が判っていないのでしょう」 と続けた。 それから、唐突にこんな言葉を出してきた。 「でも、貴方がここに来た時の気持ちは、理解できました。入り口でお会いした時の、貴方の目を見て、……それが痛いほどに」 痛いほどに、という言葉が引っかかった。 実体を持っていても、空は、代謝機能や生命維持機能を機械組織に依存する、アンドロイドのはずだった。 無意識に、言葉が出ていた。 「貴方にも、そういった気持ちは理解できるわけ? 」 直後、また”失言だ”と思い、つぐみは後悔した。 それを察したように、空はこちらを振り向いた。 「気になさらなくても、良いですよ」 と微笑んだ後、空は続けて言った。 「確かに、私は実体を持ってはいても、”痛み”を生理的な知覚として認識することはできません。ですが……」 空は、自分の胸にすっと手を当てた。「私には、とても判るんです。人が人を想う心というものが」 人が人を想う心。 こんな場所で、そんな言葉を聞くことになるとは努々(ゆめゆめ)思っていなかった。目眩ましにあったような気分だった。 だが、空の表情や仕草からは、人に対する尊敬の念がありありと窺えた。いや、人ではなく……人が人を想う心に対して、この空は尊敬の念を抱いているのだろう。その清涼な空の微笑みを見、つぐみは殺伐とした心がわずかに和らぐのを感じた。 「空。いつの間にか、随分と人の遇し方が達者になったようね」 もしかしたら、優の入れ知恵かしら? と、つぐみは尋ねた。探りを入れるつもりは無く、ただ純粋に知りたいと思ったのだ。 セキュリティの解除用パスワードを入力しながら、空は「まさか」と、ふわりとした笑みをこぼした。 穢れの無い、無垢な笑みだった。 施錠を解除された空圧ドアが、ゆっくりと動いた。 「これは、本当の気持ちです。……私は嘘をつくのが苦手なんですよ」 ドアの向こうが明るむ。 空に、後光が差していた。 所長室の中、優春はデスクに深く腰を下ろしていた。 つぐみは黙したまま、優春を見た。 優春の顔には、感情を窺わせるような物が無い。ただ、その無表情の中には、何らかの雰囲気を漂わせるものもあった。 空を後ろに控えさせ、つぐみの方に向き直ると、優春は口を開いてきた。 「……お久しぶりね、つぐみ。まず何よりも先に、謝罪をしておくわ。今回の事態を招いたのは、他ならぬ私の落ち度だから」 その優春の言葉を待たずに、つぐみは口を開いた。 「謝罪よりも前に、武とココに会わせて。話はそれからよ」 「つぐみさん。二人はまだ……」 言いかけた空を制して、優春は答えた。 「では、貴方のその優先事項を変えてもらわなければならないわね。倉成とココは現在、面会の一切出来ない状態。これは絶対に優先させる項目よ」 そう言い切り、優春は口を閉ざした。 「何故? 」 つぐみは、努めて冷静に尋ねた。冷静に努めるあまり、抑揚がやや歪になっていたが、それはもう構っていられなかった。 優春は、自らの顎の前で指を組み、それからこう答えた。 「出血量のレベルは中症。しかし、意識は不明。心肺機能などにも循環障害が有り。これだけで、理由としては十分だと思うけれど」 「それは一面の事実であって、本当の理由ではないわね」 つぐみは静かに、優春の言葉を否定した。 断定的な口調になっている。もう、こうなると自分でも抑えが効かなかった。 優春が言っていることは、おそらく事実そのものだった。だが、その言葉は通り一遍の医学的な見解を述べているにすぎず、真実を迂回した詭弁にすぎない。優春の言葉は、事実であっても真実ではなかった。 「……本当のこと、教えて。優」 つぐみは、もう一度口を開いた。 静かに詰め寄るように、身を乗り出していた。 優春は、つぐみをじっと見つめたままだった。その目からは、否定も肯定も窺い知ることは出来なかったが、わずかながらの感情がそこに潜んでいるように見えた。 ややあって、優春は深く息を吐いた。「判ったわ」 潜んでいた感情が、ゆっくりと表に顕われた。優春は諦めの表情で、つぐみの言を認めたのだった。 それから、意を決した顔になり、優春は口を開いた。 「倉成とココは現在、原因不明の疾患に冒されている。その疾患の原因は未だ不明。……ティーフブラウ・ウィルスによる出血熱の症状と似ていることから、その線で当たっているけれど、ウィルス自体は現在二人から検出されていないわ。仮に、他に該当するウィルスが検出されたとしても、その感染力はおそらく不明。念のため、所員には抗ウィルス剤の接種をさせているけれど、それも何処まで有効なのか。全く定かではないわ」 これが貴方の知りたがっていた真実よ、と優春は締めくくった。 最後に言い添えた言葉は、皮肉とも自嘲ともつかない、ひどく曖昧な響きを持ったものだった。 だが、それを捉える術もなく、つぐみは立ちつくしていた。 やはりそうか、という得心と、そんな馬鹿な、という放心。 それらが交互に押し寄せ、やがては、言葉に出せないほどの後悔に陥った。 昨日のビール缶に付いた血……。武の顔にさしていた赤らみ……。それらの記憶が禍々しくも鮮やかに、脳裏に浮かび上がってきた。 武から窺い知ることの出来た全ての機微の中に、その病状が隠されていたような錯覚を覚えた。それを思うと、どうにも出来ないほどの後悔の念にかられた。 何故、自分はもっと深く、武の事を見ていなかったのだろう……。 何故。何故……。 ホクトと沙羅の事に、自分が掛かりきっていたからか? 武がキュレイ・ウィルスのキャリアだから大丈夫、と安く踏んでいたからか? それとも、自分のことだけで頭が一杯だったからか? どれもがイエスだった。イエスと答えざるを得ない生活を、自分は日々漫然と送ってきていたのだった。端的に、自分は怠慢していたのだ。 妻としての怠慢。伴侶としての怠慢。そんな言葉が、言いしれぬ重さとなって、自分の上にのし掛かった。 今回の事態を招いたのは、優春ではなかった。他の誰でもない。原因は様々にあり、とうてい特定出来るものではなかったが、少なくとも一つは間違いなく、この自分の怠慢だった。 武の病変に最も早くから気付いていなければならない者が、今頃になって狼狽し、この有様だ。謝罪しなければならない立場にいるのは、優春ではなく、この自分の方だった。 そうして、つぐみは改めて深い後悔の念にかられたのだった。それと同時に、自分が武を愛していることも、併せて深く認めた。 会いたいと思った。武に、つぐみは心底から会いたいと思った。 謝罪や償いをしたい気持ちも含めて、ただひたすらに会いたかった。会わなければ、謝ることさえ、思いを告げることさえできない。 会いたい。会って、話がしたい。 謝りたい。 償いがしたい。 そして、伝えたかった。 自分が、この上もなく武を愛していることを。 それから数十秒後、優春の室内電話が鳴り響いた。 最初のコール音が鳴り終わるのも待たず、優春は受話器を上げた。 優春は無言のまま相手の話を聞いていたが、ややあって、 「判ったわ。ご苦労様」 とだけ言い、受話器を下ろした。 「つぐみ。面会の準備が出来たそうよ。……案内するわ。私が貴方の立場なら、やはり一刻でも早く会いたいと思うものね」 そう言って、優春は立ち上がった。 背もたれに掛けてあった白衣に手を掛ける。年季の入った白衣が、つぐみの目に留まった。 優春は言葉を続けた。 「……倉成とココに会う前に、これだけは約束して」 「約束? 」 白衣を羽織った後、優春は応えた。 「現実を受け入れることよ。……二人の身に起きている現実を」 |
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