※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。








不器用な想い
                              YTYT 

12話

優春と空に促されるまま、つぐみは病室の中に足を踏み入れた。
病室内は、白く無機的な空間だった。
生命の居る気配が感じられない。病室と呼ぶには、あまりに殺風景な空間だった。
唯一例外があるとすれば、それは天窓の存在だった。
見れば、繁茂した樹木が、天窓の三分の一ほどを覆っていた。樹木から伸びた枝葉が、部屋の中に神秘的な影模様をもたらせている。つぐみは自然の織り成す光と影の造形美に、一瞬だが目を奪われてしまっていた。
病室に視線を戻すと、中央には、一台のハイバネーション・ユニットがあった。
かつて、LeMUのIBFで見たユニットとは、また違った型式の物だった。ユニットのモデルは、あの頃とは3世代ほど違っているのだろう。
だが、ユニットから漂う、そこはかとない冷たさは、昔と何ら変わっていないようだった。ユニットの外周は、硬い光を弾き、見る者にも明らかに無機感を漂わせていた。
ユニットの前に立ったまま、優春と空は、無言でつぐみを見ていた。
歩を進め、二人の近くに寄りながら、つぐみは内心の恐れを隠し切れずにいた。
優春と空の無言の中に、”出来うることならば、この光景を見せたくなかった”という意思が感じられた。
だが、そんな二人の気遣いを丁重に押し退けると、つぐみは意を決してユニットの中を見たのだった。

ユニットの中には、亡骸一つが横たわっていた。
いや、そう呼ばざるを得ないほどに衰弱した、武の体があった。
目は閉ざされ、表情は無い。身動きも一切無い。生命感一つさえ感じられない。何処にも感じられない。武の体は、死そのままの冷たさで、ユニットの中に横たわっていたのだった。
青白い頬と唇にわずかな赤みがあるのは、血行のためではなかった。
それは、薄く付着した血だった。
おそらく、こんな状態に陥るまでには、さぞ激しい下血があったことだろう。それは、取り替えられた肌着にすら血が付着していたことからも、容易に察せられた。
”面会謝絶”と最初に言い切られた理由は、これで明らかになった。優春と空が見せまいとしていた真意は、正にこれだったのだ。
そのときだった。
――かすかに。
武の口が、かすかに動いた。
「武っ 」
自分が叫んでいたことさえ気付かなかった。心臓の止まる思いで、つぐみは武を凝視していた。
武の口は、「つぐみ……」と言おうとしてひきつり歪み、再び死のように動かなくなった。
手を押さえられていたことにも気付かなかった。
空は、自分の手を握り締め、精一杯の視線を向けてきていた。
「大丈夫です。倉成さんは再び睡眠状態に入っただけですから」
だが、その空の言葉は素通りし、つぐみの頭の中には殆ど残らなかった。
現実を受け入れるという、優との約束はいつの間にか頭から消えうせてしまっていた。変わって、途方も無い苦痛が押し寄せてきた。
五臓をちぎられる思いで、武の受けた苦痛を想像した。その想像は、すぐにココにも繋がった。あの柔らかい太陽のような笑顔が、如何なる苦痛に晒されたのか。想像しただけで、全身の神経が激しくざわだった。
生きることは罪なのか? つぐみは激しい疑問にかられた。それは武と再会して以来、自分の中で絶えて久しかった、激烈な感情だった。
生きることとは、他の物を殺して食することに他ならず、その意味で言えば、この世に罪無き者というのは存在しない。だが、これほどの苦痛を身に受けさせられるような罪を、この二人は犯したのか。
自分達を生み給うた神に、つぐみは問いただしたかった。
武とココが、これほどまでの苦痛を身に受けなければならないような罪とは、一体何なのか! と。
人を愛したことか。人のために生きたことか。人の幸せを願ったことか。それとも、人として生命を受けたことか。
だとしたら、そもそも貴方は何故二人に生を与えた? この世に二人を作り給うたのだ?
知りたいと思った。心底、知りたいと思った。武とココと同じ世界に生まれ、同じ苦痛を身に受けさせられている者として、つぐみは知りたいと思った。
それらの思いを、自分の内に堪えきってしまうと、今度は放心がやってきた。
肉体的な苦痛は、ある限界を超えると脳内麻薬の生理作用で和らげられる。それと同じように、精神的な苦悩も、ある限界を超えてしまうと体内の何らかの作用で和らげられてしまうのだろう。まるでそれは、モルヒネを打たれた後のような、漠とし茫々とした感覚だった。
そうして、我が身に降りてきた虚脱と放心の中、つぐみは、あても無く二人の名を呟いていた。
武……。ココ……。
その名を呼び、武とココへの想いがゆっくりと蘇って来ると、再び二人の受けた苦痛を思い出し、心は深く傷んだ。だが、つぐみはすんでのところで涙を堪えると、床をじっと見据えた。
武以外の者の前では、涙を見せるまい。そう誓っていた。
武が倒れたという連絡を耳にした時。
武を死なせないと決心して家を出た時。
武を救おうと研究所に足を踏み入れた時。
自分はそう誓っていたのだった。
涙を流すことはあっても、それを人には見せるまい。
涙を人に見せたら、ただそれだけで、自分は崩れてしまいそうだった。
自分は倒れるわけにはいかなかった。武のために。ホクトと沙羅のために。
その決意として、人には涙を見られたくなかったのだ。
意味も無い。理由も無い。それは、ただ一つの意志であり、意地だった。
顔を見られている事に気付き、つぐみは我に返った。
躊躇いを見せるも、空が口を開いた。
「つぐみさん……」
少し休まれた方が良いのでは、という空の言葉を、優春が止めた。
優春は、何事かを洞察するような目で、つぐみを見ていた。
その目はつぐみの頑なな意志を捉え、何かを察したかのように、柔らかく細められていた。
優春はつぐみの肩に優しく手を置き、そして言った。
「つぐみ。大丈夫、倉成は死なないわ。彼は、」
ここで優春は、言葉を少し変えた。 
「……あいつは、絶対に死なないわ。光も届かないような世界から、かつて生きて還って来たように」
俺は、死なない……。
それは、かつての武の言葉だった。
その記憶が蘇り、つぐみは、ああ、と思った。
そうだったのだ。武は、今の状況に等しいほどの危機から、生きて還って来たのだ。人の祈りさえ、神の声さえ届かない、深い死の世界から、武は生きて還って来たのだ。
――俺は……。俺は……死なない――。
その言葉は今、自分のすぐ下から聞こえたような気がした。
ハイバネーション・ユニットの中の武は、変わらぬ昏睡状態のままだった。が、その苦悶の表情からは、生きようとする意志が感じられた。だからこそ、武は自分の名を呼ばわったのだ。
苦しいのは、生きようとするからだ。唐突に、そんな言葉が頭に降ってきた。
それはこの時、天啓のように思え、つぐみは小さな声を上げ、その後言葉を失った。そうだ……。
自分達が今苦しみの中にいるのは、確かに、自分達が皆生きようとする意志を持っているからなのだろう。
優春を見返しては、つぐみは「ええ、そうね」と、答えたのだった。
ええ。本当に、そうね……。


つぐみは、誰もいない廊下に、一人たたずんでいた。
武の病状を見るに付け、自分自身打ちひしがれてしまったせいもあったが、そんな自分の心を今一度整理しておく必要に迫られたからだった。
武の病状を見落とし続けてきた自分の不注意を、今更認めたところでどうにもならず、ホクトと沙羅の事に想いを巡らせては、肺を潰されるような苦しみを感じた。
それでも、ホクトと沙羅を決して悲しませたくないという、自分の願いは願いとして受け止め、武を救いたいという想いは想いとして受け止め、つぐみはようやく、当面の困惑を乗り越えようとしていた。
とにかく今は、武の病状の経過を見守るしかなかった。それなら、自分の出来うることはただ一つ、決して望みを捨てずに武と共にあり続けることだった。その上で、優春と空を手伝えるのであれば、自分は出来うる限り何でもするつもりだった。
総ガラス張りの天井に目を向け、夕陽が斜めに照りつけてくるのを見る。武も、こんな光景をいつも見ていたのだろうか。
そう思っては胸が苦しくなり、つぐみは一度頭を振り、悪しき想像から心を遠ざけた。
そうだ、武の着替えを……。持ってきたナップサックの中に、まだ武の着替えが入ったままだった事を思い出した。
そうして、武の病室前の空圧ドアに足を向きかけた、その時だった。
「つぐみ」 
優春の声が、背後からしたのは。

つぐみと優春は、廊下の窓に背を預けたまま、若干の距離を置いて肩を並べていた。
しばらく黙していた優春は、やがてこんな事を言いだした。
「つぐみ。……この研究所は、どれくらい嫌いかしら? 」
唐突といえば、あまりに唐突な質問だった。意味のない質問。だが、この時つぐみは、空が優春に何かを言っていたのかもしれない、と思った。自分がこの研究所に足を踏み入れた時に襲われた、あの猛烈な嫌悪感を。
「そうね……どれくらいと聞かれれば、LeMUと同じくらいには」
つぐみはこう応え、優春の笑いを誘った。
「良いわね、その回答。……謙虚に受け止めさせてもらうわ」
言いながら、優春は天井を見上げた。すでに辺りには夕闇が落ちてきている。夜は近かった。
優春の目は、しばし過去の想念に耽るように細められていた。そして、こう続けてきた。
「この研究所はね……もともとライプリヒの施設だったのよ。ライプリヒは崩壊したけれども、そこで持っていた資料は極めて膨大であり、国家機密が関わる部分に多々リンクしていた物もあった。
そこで、機密事項を隠蔽する意味もあって、国の政府は新たに、『民間の製薬研究所』という名目で、この研究所を設立したわけ」
つぐみは背を廊下の壁から離し、優春の方を見ていた。
そんな重要なことを、この自分に訥々と語る優春の真意は判らなかったが、とにかくも優春が何かを自分に伝えようとしていることは確かだった。口を挟むのも躊躇われ、つぐみは沈黙を続けた。
つぐみの無言を受けながら、優春は更に続けた。
「表向きは、民間の製薬研究所。しかし、その実態は”ウィルス・細菌の研究を専門とする機密機関”……それが、この田中研究所よ」
優春は、ここで初めて首を巡らせて、つぐみを見てきた。
「……あのライプリヒと違うのは、決して人身を使った研究をしない事。特定の権力層と癒着しない事。軍需産業に荷担しない事。この三点だけ。……これらは傍目には大きな違いに映るかも知れない。けれど、私には些細な差でしかない」
「何故なら私の今辿っている道は、……私の父と母がかつて辿ってきた道だから……子供に言えなかった道だから」
言葉を切り、自分に視線を向けてくる優春を見ながら、つぐみはある事に思い当たった。
自分が憎悪していたライプリヒに、今もまだ優春は縛られているのだ。縛られながらも、自らの研究所を営む傍ら、ライプリヒの許されざる部分は自分の中で精一杯排除し、優春は日々を送ってきたのだった。
同時に、つぐみは、この優春が優秋への罪の意識にも縛られていることを察した。”子供に言えなかった道”、という言葉を敢えて使った優春の真意は、おそらくここにあったのだろう。
それと共に、つぐみは自分の心の罪にも思い至った。そう。それはかつて、自分がホクトと沙羅を……。
だが、思いかけたところへ、優春の言葉が掛けられた。
「つぐみ。ほら、また沈んでいるわよ。貴方の悪い癖は、とにかくすぐに意識が自分の内に内にいってしまうことよね」
倉成が苦労するのも、判るような気がするわ、と余計な独り言も付け加えてくる。うん、うん、と勝手に自分で相づちもしていた。
「そんな大事な話を唐突に振ってくる貴方に、言われる筋合いもないわ」
応えながら、つぐみは優春を見ていた。
優春も、つぐみを見ていた。
何故だろうか、見つめ合っていた顔は、笑いになった。
二人はその場の重苦しさを忘れ、ほんの少し心を潤しあった。
笑いを交わし合いながら、つぐみは思った。
これまで、優春とは、それほどに深い話をした記憶が無かったことを。
いつか、この優春とは話がしたい、と思った。ライプリヒに縛られてきた人生や、2017年の事故の後、互いに苦悩を重ね続けた17年間のことや、自分の子供達のこと。自分の犯した罪によって傷つけた、子供達のこと……。
この時、つぐみの脳裏に優秋の顔がちらついた。優春の顔を見ながら、何故かその向こうに、つぐみは優秋の顔を思い描いていたのだった。

「倉成とココは、必ず救うわよ」
笑いを収めた優春は、真顔に戻るなり決然としてそう言った。「……絶対に死なせない」
その目の中に、真実の想いが、心が宿っていた。
「判ってるわ」 
そう応じながら、つぐみは少し、一抹の想念に引かれていてもいた。
優春は今一度つぐみを正面から見据えると、自分の伝えたいことは伝えたという風に、視線を廊下の奥へ向けた。
それから踵を返し、所長室へ向かおうとする優春に、つぐみは声を掛けた。
「優、」
言ってから、優春を呼び止めた自分自身に少し戸惑うも、つぐみは言葉を続けた。
「優……秋香奈には、この件を連絡したの? 」
足を止めた優春は、つぐみの方を振り向いて、しばしの間なんとも名付けがたい感情を漂わせた。
そこには、何度も迷った末に、結局連絡できずじまいであったことを裏付けるものがあった。
優春は、ふっと元の表情に戻ると、あるか無きかの笑みを浮かべて、
「ご想像にお任せするわ」と言い、歩き始めてしまった。
その狭い肩がわずかに落ちているのを見ながら、つぐみは自分自身の心が傷んでいくのを感じていた。
感じながらも、諦めない、と呟いた。
諦めない。武もココも。優春と優秋の絆も。みんな、みんな、全て……。
天井を見上げた。
ガラス以外に隔てる物の無い空は、星の光一つさえ透過できない、深い夕闇だった。
武、ココ、……きっと、みんなで見るのよ……明日の空を。




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