※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。 |
不器用な想い YTYT |
武とココをICU(集中治療室)に移す準備の間、つぐみは一人、廊下の側壁に背を預けていた。 廊下の奥は、ICUの連絡通路だった。 周囲に所員達の姿は無かった。人の気配一つ無い。先程まではまばらに居た警備員達も、今では姿を消している。おそらくは、優春が退避命令を下していたのかもしれない。 つぐみは、採血された方の腕を見つめていた。すでに影も形もない、採血の跡を。 念のため、自分から採取された血液から、つぐみは自らのウィルスを検査に掛けてもらっていた。その検査結果は白。キュレイ・ウィルスのバージョンは、無印のオリジナルだった。 どうやら、武とココを冒している変異性キュレイ・ウィルスは、感染力の極めて弱いタイプらしかった。それが不幸中の、唯一の幸いとも言えた。ホクトや沙羅については、とりあえず安心しても良いのかもしれない。そのことが、つぐみを少し安堵させた。 しかしながら、その傍らで懸念していた事があった。 運命の時を刻一刻と控えて、否応なしに高ぶっていた感情は、今少し落ち着いている。 高揚と沈着が入り交じり、混沌とした心境の中で、つぐみはこれまで自分が先送りにしていた事を思い出したのだった。 天井をしばし見つめ、息を深く吐く。 それから、手にしたPDAに目を落とした。 ホクトと沙羅の学校に電話をかけるべきかどうか、迷っていた。 今の時間、二人のPDAは繋がらない。そのことは判っていた。 ”あ、ママ。夜はPDAを切っているからね。就寝時間に使っていると、担任の先生がうるさいから” そんな沙羅の言葉が、頭を掠めたからだった。 更にその言葉を受けて、 ”それ、本当のことだからね。実際にPDAを取り上げられた人もいたらしいし。……で、結局、旅行先で新しくPDAを買い直すはめになったらしいけど” と苦笑いをするホクトの姿が、脳裏によぎった。 あの時、何気なしに応じていた言葉が、よもやこんな形で思い起こされるとは……。 運命の数奇さに微かな憎しみを抱くも、一方では、つぐみの迷いは未だ消えずにいた。 高校生活最後の修学旅行を、こんな形で台無しにしてしまうことに対する、罪悪感が働いていた。 そんな場合ではないだろう、と言い聞かせるも、罪悪感は容易に消え去ってはくれなかった。消え去らないどころか、それは容赦なく、良心の呵責を突きつけてきていた。 PDAのボタンにかけている指が、重い。 自分はあの子達の幼少期を台無しにしてしまったばかりでなく、今度は、一生一度の思い出まで台無しにしてしまうのか……。そう思うと、指は、心は更に重くなった。 だが、武やココに起きている現状と、そこから想像し得る最悪の未来と、ホクトと沙羅のそれを秤にかけた末、結局は二人を旅行先から呼び戻す選択をつぐみはしたのだった。 学校の連絡先の番号を、つぐみはゆっくりと押していった。 その一方で、もう一人、今の状況を伝えなければいけない人間がいることを、つぐみは思い出した。 それは、優春が電話を掛けることさえも気遣っていた人間だった。 ――ホクトの恋人であり、沙羅が慕う先輩でもあり、その優春が世で最も大切に思っている人間だった。 《もしもし、……田中ですが》 PDA越しの優秋は、深夜の電話であるのにも関わらず、声色に気怠さ一つ無かった。 むしろ、少し緊張したような声だった。 ホクトとの間柄もあり、面識もあるとは言え、ろくに言葉を交わしたこともない自分が突然電話をかけたのだから、無理も無いのだろう。 しかも、本来この電話は、母親の優春がかけるべきものだった。その筋を端折ってまで、他人である自分が優秋に電話をしているのだから、当人の困惑と緊張が如何ほどのものか、つぐみには容易に想像できた。 けれども、ことここに至っては、そんな気遣いをする余裕も無かった。つぐみはまず、夜分の電話を詫び、それから性急に事情を話したのだった。 PDA越しに、息を飲む音が聞こえた。 しばしの沈黙の後、優秋の言葉が返った。 《それで、あの……武さんとココちゃんは、どのくらい症状が、悪いんですか……? 》 「良くない、としか今は答えられないわ」 そんな……という声を残し、優秋は再び沈黙した。 つぐみはためらいながらも、優秋の沈黙を無視し、言葉を続けた。 「それで、貴方にもここへ来てほしいのよ」 出来ればだけど、と言い添える。 優秋が、母の優春に対して何らかのわだかまりを抱いていることは、つぐみも承知していた。 それは、武が何度となく気にかけていたことであり、自分も気にかけていたことでもあった。 それ故にためらった言葉だったのだが、現状ではやはり、優秋の心情を深く慮ってやれる余裕は無かった。 《でも、私……ちょっと、今は……》 「合宿中だという話は聞いているわ。だから無理強いはしないし、出来ないと思っている」 言いながら、つぐみは、自分がこの優秋にこだわっている、と思った。 何故だろう……。 おそらく自分は、LeMUで初めて会った時から、心の何処かでこの優秋に対するこだわりを感じていた。 先刻、廊下で優春と会った時に見た優秋の幻影。あれは、決して錯覚ではない。だが、その正体が何であるのか、実の所つぐみには、この時判りかねていたのだった。 しばらくして、優秋の言葉が返ってきた。 《いえ、行けます。もちろん、そのつもりではいます……でも、……でも》 苦しげに返事を返そうとするが、そこで優秋の言葉は止まってしまっていた。 優秋の中で今、めまぐるしい葛藤が起こっているのが、PDAの向こうにさえ、つぐみは感じ取れた。 優秋の沈黙は続いた。 廊下の窓にいっそうの深い闇が下り始めていた。そんなさなか、優秋の四度目の《でも……》が、聞こえた。 そして、ここに至りつぐみは、出すまいと思っていた言葉を口に出したのだった。 「優……。貴方が、母親に対して何かしらの溝を残していることは判っているわ」 PDAの向こうで、優秋が言葉を失うのを感じた。 それでもあえて、つぐみは言葉を続けた。言うべきでない事を言わなければならない、その苦さだけは自覚しながらも、つぐみは一言一言を口にした。 しかし、そこまでして、自分が優秋にこだわっている理由を、この時もつぐみはやはり見通せずにいた。 「貴方と母親の間にある距離の大きさは、私には漠然と推し量ることしかできない。でも、……貴方が母親から距離を置いているのは、おそらくその溝のためでしょう」 「……貴方が周囲の制止も聞かずに、遠方の大学に転入した理由も、そこにあるのではないの? ……母親がおそらく反対しないであろうと、予想した上でね」 そう言った直後だった。 ――貴方に……っ。 優秋が声を荒げたのは。 《貴方に! ……貴方に何が判るって言うんですか! 私と母の日々を、知りもしないで……! 》 PDAの向こうで、激烈な感情が翻った。はっきりと形を持った剣幕や害意が、PDA越しから伝わってきていた。 優秋の激昂は、続いた。 《私が、あの母にどれだけ欺かれていたか! 貴方に何が判るんですか! この、私の気持ちが……っ! 》 頭にじりじりとした痛みを感じながら、つぐみは優秋の激昂を受け止めていた。 《祖父と祖母の死の真相を隠し続けて、18年間も騙し続けて、この今でさえもまだ、私をどこかで欺いているかもしれない、あの母のことなんか! 》 《貴方に! 絶対、判るものですかっ……! 》 つぐみは、きつく目を閉じ、その激昂も併せて受け止めた。 感情が高ぶっているあまり、優秋の荒い呼吸は、いっそう乱れて聞こえた。 ……優秋の反応は、その実、十分に予想しえたことだった。 誰が誰にわだかまりを持とうが、そんな事を他人に指摘される筋合いは無く、苦言を吐かれる謂われなども無い。まして、親と子の軋轢に関わるものであれば、それは尚更のことだった。 それについて言及を重ねれば、このような事態になることを予想していたのにも関わらず、自分が今何故、こうも優秋に執着しているのか……。つぐみ自身、やはりこの時に至ってもなお、判らないでいたのだった。 そんな自分自身に当惑するも、つぐみは、だが言葉を続けた。 「……試してみたらどう? 秋香奈」 それは、自分でもまるで予期しなかった言葉だった。 言いながら、これは本当に自分の口から出た言葉か、と訝った。 「私が貴方を理解できないかどうか、試してみたらどうなの? 秋香奈」 言い続けながら、自分は優秋を憎んでいるのか、とさえ思った。 優秋をこれ以上追い詰めて、この先自分が何をしようというのか。何を望んでいるというのか。つぐみは自分自身全く判らないまま、それでも己が出した言葉を取り下げもせずに、廊下に立ち続けていた。 そしてその一方、つぐみは無意識の中で、あることに気付き始めてもいた。自分が優秋にここまでこだわっている理由を……。 PDAの向こうでは、息を飲む音がしていた。 思いもしない冷や水をかけられて、すっかり怒気が抜けてしまい、代わって押し寄せてきた当惑に、自らが翻弄されているような優秋の反応だった。 《つぐみさん、貴方は……》 半分は憎悪し、半分は戸惑っているような、優秋の声だった。 優秋は言葉に一度詰まり、再び苦しげに言い直してきた。 《……貴方は、私を挑発しているんですか? 私の母は、私をずっと欺き続けてきたんですよ。私を遠ざけて、退けて……私から逃げて、ずっと……ずっと、LeMUのことに掛かりきりで、》 その言葉をさえぎるようにして、つぐみは言った。 「秋香奈……そろそろ本当のことを言ったらどうなの? 」 《本当の、こと……? 》 突然に言葉を挟まれ、優秋は口を止めてしまった。 だが、再び訪れた静寂の中、その優秋の狼狽は刻々と明白になっていった。 優秋の沈黙は、”隠し続けてきた心の内奥を、引きずり出されるかもしれない”という、予感と怯えに満ち始めているように思えた。 「そう、貴方はまだ、本当のことを言っていないでしょう。貴方の母親が、自分を今まで欺き続けた云々と言うのは、貴方の心の一面の憤懣でしかない。私が理解したいのは、もっと深いところにある貴方の心よ」 言いながらも、つぐみは、この自分に人としての血はもう残っていないのだろうか、と漠然と思った。 だから、優秋にこんな言葉を吐けるのか。 だから、最愛の夫に「ありがとう」の一言も言えなかったのか。 だから、その夫の病変も、今まで見過ごして来られたのか――。 そんな事を激しく自問しながら、つぐみは更なる狼狽に陥っていた。 ここまで優秋を問い詰めて、しかも自分自身は依然、何の確たる見通しも無い。一体、これから自分自身どうすれば良いのか、何を言えば良いのか、全く一筋の光明も見い出せずにいた、そんな時だった。 《私は、私は……》 PDAの奥から、苦しげに優秋の声がしていた。こうまでも執拗に問いかけをしてくる、つぐみの態度に、何かしら心の底で思うところがあったのだろう。あるいは優秋は、その遥か昔から、自分の心の聖域を開けたかったのかもしれない。 《……、なんです……》 不鮮明な声は次第に、はっきりとした輪郭を帯び始めていった。《好きなんです……》 そして、その声は唐突に跳ね上がり、先を上回る激昂にまで高まった。 《好きなんです! 母のことがっ……! 》 それは、優秋の心の叫びだった。 さらに、その叫びは、PDA越しから響いてきた。 《好きなのにっ! 好きなのに……どうしても、母がわからないんです! なんで、いつも私を見てくれないのか! なんで、私の傍に居てくれなかったのか! なんで、私に近付きさえしてくれなかったのかが……っ! 》 好きなのにっ! ……好きなのにっ……! 静寂の中、優秋の嗚咽が聞こえ始めていた。 その嗚咽を聞きながら、自分自身胸の張り裂けるような思いで、つぐみは立ち尽くしていた。 心拍数を刻む音が、武とココの心拍数を刻む音が、……この場に無いはずの音が、何故か不意に耳をかすめた。 近づいてくる。もうすぐ、運命の刻が近づいてくる……。そんな感慨が唐突に心に翻った。 その感慨に、武やココの笑顔が脈絡もなく重なり、ホクトと沙羅の無垢な笑顔が重なり、つぐみは我に返った。 そして、再び巡ってきた、優秋の悲痛な嗚咽を身に受けながら、つぐみは突然に思った。 ホクトと沙羅の笑顔が今、自分の脳裏をよぎったこと。――それが、一筋の手がかりとなった。 ああ、そうなのだ……。 自分が優秋に、ここまで執着する理由。 この時、つぐみはようやくはっきりと思い当たったのだ。――自分は優秋を……ホクトと沙羅の姿に重ねていたのだ、と。 優秋の境遇が、ホクトと沙羅に似ていたから。 優秋の孤独感が、ホクトと沙羅のそれに似ていたから。 それらの苦しみは、かつて優春が――そして、この自分が与えてしまった物だったから……。 だからこそ、自分は優秋にこだわっていたのだった。 自分は優秋を救いたかった。助けたかった。そして、ホクトと沙羅にさえ伝えきれなかった思いを、この優秋に伝えたかった。 そうすることで、優秋に何かしらの救いを与えてあげられたなら、それで自分も救われるかもしれない、と思った。 その思いこそが、自分が優秋に執着する理由だったのだ。 それはとりもなおさず、自分がホクトと沙羅に対して、未だ罪の意識を持っていることに他ならなかった。 改めて、そのことに思い至ると、つぐみはいよいよ自分の心の罪を直視することになった。……かつて、自分がホクトと沙羅にした罪を。 「秋香奈。貴方の心……判ったわ。それが貴方の気持ちなら、心なら……私にも理解できる」 そう言ってから、つぐみは少し間を置いた。 今の自分の声が掠れていることを、つぐみは知らないでいた。 しんとした研究所の廊下に、いつしか、空調システムの振動音がこだましていた。 だが、その振動の音に、つぐみはLeMUに居た時の記憶を重ねていた。 ――それはかつて、自分達の生命を脅かしていた振動だった。LeMUの圧壊していく振動音だった。 ……圧壊していくLeMUの中で、コスミッシャー・ヴァルの中で、この振動音の中で、自分はホクトと沙羅の二人に、かつて自分のした罪を告白したのだった。 そして今また、自分は同じ告白をしようとしている。……この優秋にしようとしている。 つぐみは覚悟を決めようとしていた。今まで恐れていた、今もずっと恐れ続けている――自分の罪を、他人に告白する覚悟を。 ホクト、沙羅……。 心の中で二人の名を呼んだ。呼びかける自分の声は、儚いほどに震えていた。 《つぐみさん……》 優秋が、声をかけてきていた。 先刻から流れ続けている奇妙な沈黙に、優秋は何かを気付いたようだった。 《……泣いて、いるんですか? ……つぐみさん》 当初の激情から我に返ったような、優秋の言葉だった。気遣うような口調だった。泣きはらした直後ゆえの、優秋の歪な声色が、この時心に強く響いた。 「ええ……」 つぐみは、白状するように答えた。涙がひとしずく頬を伝って、床に落ちた。 言葉に詰まっていた。息を吐くことさえ、辛い。それでも、優秋にかけてやりたかった言葉を伝えるべく、つぐみは口を開いた。 「秋香奈……母親として、貴方に教えてあげるわ。愛する子が手の届くところに居るのに、その我が子に心から近づけない辛さ……それを――罪というのよ」 そう言ってから、つぐみはついに最後の覚悟を決め、言葉を続けたのだった。 「私の罪……それは、かつて私がホクトと沙羅を捨てたこと……」 PDAの奥から一瞬、かすかな動揺が起こるのを感じた。己の発した言葉の意味を、重さを感じながら、つぐみはなおも言葉を続けた。 「貴方は、すでに貴方の母親から聞かされているのかもしれない。けれど、私は今、自分の口から改めて、貴方に話すわ。それは、真実のことだから。 ……私は、ホクトと沙羅を……あの子達を、確かに捨てた。17年前のあの日、ライプリヒの追手から逃れるために……あの子達を施設に預けて、私は一人逃げたのよ。 そして、それが……私の罪の始まりだった。私は、それを未だに引きずり続けている。 日が暮れては罪の意識に苛まれ、あの子達の顔を思い出しては、身を灼かれるような後悔にかられる。……どうやっても、どうあっても、それは私の頭から離れることが無かった……」 知らず、つぐみは自分の胸を押さえていた。自分の過去を、自分の罪を、自分の手でえぐり出す。それは、自分の胸を直にえぐるに等しい痛みなのだという事を、つぐみは改めて思い知った。死ねない苦しみも、今自分を苛んでいるこの苦しみも、確かに自分の胸の中にこそあるのだった。 その苦しみの中で、自分は今、何かの選択をしようとしている。何かの道を選ぼうとしている。 "つぐみ……生きろ” 武のあの言葉が、彼岸からの光のように、頭をよぎった。”生きている限り、生きろ……” そうだ……。これも、生きるが故の苦しみであり、問いかけなのだ。そう、つぐみは思った。 そして、その問いかけに、自分は逃げないと決めたのだ。そう選択したのだった。 ――胸を押さえたまま、つぐみは更に続けた。 「2034年に、再び私がLeMUへ行ったのは、間違いなく……ホクトと沙羅に会うためだった。 でも、それは会いたいという想いと同時に、断罪されたい、という想いもあったのよ。謝っても決して贖われはしない、許されざる罪。それを自分の子供達に、私は裁いてもらいたかったのかもしれない……けれども、その気持ちは今も、私の心の中のどこかに残っているのよ……あの子達と暮らしている、今の今も。この時も……」 PDAの奥からは、感情の爆発が完全に途絶えていた。 固唾を飲むかのように、優秋の沈黙は続いた。 つぐみは、更に口を開いた。 「ホクトと沙羅と言う名は、私が付けたものじゃない。あの子達の育ての親が付けた名前なの。……その名は、私の子供達の名であると同時に、私の罪の象徴でもあるのよ。”自分は、理由はどうであれ子供を守る事を放棄して、一人逃げ続けてきた人間なのだ”という、罪の象徴として……」 PDAを握る手が震えていた。口を開くとは、こんなにも重く、こんなにも辛いものだったのか……。 つぐみは、それでも言葉を継いでいった。 「ホクトと沙羅の名前を呼ぶたびに、私の心は罪の意識に苛まれる。それ故に、私はあの子達のそばに近づけない。心のそばに、近づけない。罪の意識が、片時も離れることなく、私の心の中にあるから……それが、心の溝となって、ずっと私を苦しめているから……」 そう言い、つぐみは一旦言葉を切った。 流すまいと思っていた涙が溢れていた。つぐみは天井を仰ぎ、目を固く閉じた。 そのまま、重い口を開いた。一言、一言、絞り出すように……。 「……貴方の母親も今、きっと私と同じ苦しみの中にいる。自分の罪の意識故に、子供との間に作ってしまった心の溝に苦しんでいる……」 いっこうに退くことのない感情の中、つぐみはやがて諦めたように目を開けた。 秋香奈、と言いかけ、口が震えてしまった。 唇を噛む。そして、もう一度、つぐみは言い直した。「秋香奈……」 「……秋香奈……ごめんなさい……秋香奈……。 私と、貴方の母親は、罪の意識と向き合うべきだった。向き合って、貴方達の心のそばに居るべきだった。そうすれば、貴方達は、こんなに苦しまずにすんだと思う……心の溝に苦しまなくてもすんだと思う……。 こんな願いをする資格なんて、私には無い。けれど……けれど、秋香奈……どうか、そんな母親の心を――心の溝の理由を、どうか判ってほしい……」 そう言った後、つぐみは不意に、PDAからの奇妙な沈黙を感じた。 その沈黙の奥に、微かな振動が感じられた。つぐみはその振動に何かを察した。 PDAの向こうの優秋に、つぐみは柔らかく微笑みかけた。 「泣いてくれているの? ……秋香奈」 《はい…泣いてい、ます》 優秋の返答は、驚くほどの素直さだった。 ごめんなさい、と優秋は何故か謝罪し、恥ずかしげな泣き笑いを漏らしていた。 その中に、自分への慈しみや好意を感じた。その声に、その雰囲気に、優秋の生来の優しさや無垢さや純粋さを感じた。 自分をこれ以上沈み込ませないように、つとめて明るく振舞おうという思いやりや健気さも併せて感じられた。 この娘がホクトに愛され、沙羅に慕われた理由を、つぐみは今、自分なりに納得したような気がした。 長く、深い静寂が流れた。 やがて、 《つぐみさん……》と、優秋は声をかけてきた。《……私、実は考えています》 「何を? 」 束の間の逡巡を経た後、優秋は、恥ずかしげにこう言ってきた。 《あの……明日の、……飛行機の便、いつから出ているのかな、て……》 つぐみはこの時、自分の心が何かで満たされていくのを感じた。優秋の拙ない言葉に、その奥にある心に、人間性に、自分は心から救われたのだと思った。 救うつもりが、いつのまにか自分は救われてしまっていたのだ。この優秋に……。 そして優秋は、唐突にこんな希望を言い出した。 「つぐみさん。そうしたら、今度遊びに行ってもいいですか? 」 優秋のこの言葉に、つぐみは不思議なほど素直に頷いていた。 「ええ……」 「そのときには、……母と一緒に行ってもいいですか? 」 「ええ……ええ……」 他愛無い言葉を交わしあい、その都度他愛なく微笑みあい、やはりその都度、どちらかが声を詰まらせてしまっていた。 武とココを救うという一大事を前に、よもやこんなふうに優秋と心を通わせようとは思っていなかった。 誰もいない、研究所の殺伐とした廊下の片隅にあって、それでもこうして、人と人の心は通い合うことを望む。重なり合うことを望んでいる。……これが人間なのかもしれない。そう、つぐみは思った。 そうして、ひとしきりの会話も終焉を迎えようとしていた時、優秋はこう言った。 「つぐみさん。武さんと、ココちゃんを、……どうか救ってください」 お願いします、と切実な声を出す優秋に、つぐみは応えた。 「二人の命を救うのは、貴方の母親よ。私は、それを手助けするだけ。貴方のそうした想いは、母親に言ってあげなさい。……これからは、自分の口でね」 PDAの向こうで、再び涙を堪えるような《はい》が返ってきた。 《……でも、私は――私は今、貴方と約束したいんです。……武さんとココちゃんを救う約束を……》 お願いできますか、と優秋は念を入れてきた。 優秋は約束を一つ交わすことによって、この自分と確かな絆を持ちたかったのだろう。優秋のその口調から、つぐみは察することが出来た。 そして、その場にいない優秋に向けて「ええ……判ったわ」と言い、微笑んだ。 「貴方に、約束する」 そう、はっきりと口にした。 そして、つぐみは優秋に最後の言葉を言ったのだった。 「秋香奈、私は……私達は待っているから。貴方を……」 その言葉を残し、つぐみは祈るような思いで、PDAを切った。 そう、私達は待っているから……。 武とココの顔を思い出していた。 優秋に向けた言葉は、そのまま武とココに向けた言葉でもあった。 待っている。私達は待っている。貴方達を……。武とココに、会いたいかった。ただ会いたかった。そこから、もう一度全てを始めたい……。 天井を見た。 もう、夜の帳は下りきっていた。深海の底のような、静けさだった。 光を放つもの一つさえ無い闇の空の下、自分は一人ここにいる。けれども今、少なくとも心に孤独は無かった。 つぐみは束の間、過去の自分を想い起こした。 思えば、過去の自分は、饒舌な自分自身にすら嫌悪していた。孤独を求め、なれ合いを嫌い、自らの死すら望んでいたのだ。 それが今や、自分はここまで人を想い、人のために言葉を心を尽くしている。そのことを考えれば、つぐみはそんな自分の変転を、少しは受け入れてみたい気にもなった。 自分は変わる。変わっていく。きっと、優秋や優春もそうなのだろう……。 そして、いつか優秋と優春が互いに歩み寄ってくれる日を、つぐみは願わずにいられなかった。 自分勝手な願いだと感じ、そう感じてもなお、自分のその気持ちには偽りはなかった。優秋と優春に幸せになってもらいたいという想いにも、揺らぎはなかった。これは自分の真意だった。 同時に、これが自分の関われる限界であることも、つぐみは認めた。 今し方の優秋への電話は、他人の家庭に対して干渉できる範囲をとうに越えていた。 明らかなルール違反。けれども判ってほしい、と願った。貴方達親子は、自分にとって、もう一つの切実な希望なのだということを。 ――後は、優秋と優春に託すだけだった。 この自分の逸脱した行為が、あの二人にどのような結末をもたらすかは判らない。けれども、優秋の背中を押してしまった者として、その結末を自身の責任として最後まで受けとめることに、迷いはなかった。不器用な生き方かもしれないと思ったが、そうした自分にも、今は後悔するところは無かった。 しばらくしてから、自分のPDAには一件のメールが入っていた。 《私、……行きます。明日の始発便をキャンセル待ちしてでも、お母さんに会いに行きます……必ず》 という、優秋のメールが。 それを見て、つぐみは安堵すると共に、何か勇気付けられたような気がした。 これからやって来る大事を前にして、それはこの上なく幸先の良い福音であるように、つぐみには思えた。 武とココの顔を、今一度深く思い出す。 絶対に、助けてみせる……貴方達を。 つぐみは、PDAを胸ポケットの中に収め、優秋やホクトや沙羅への思いも一旦胸の内に収めると、優春達の居るICUへと向かったのだった。 自分の心の罪や傷。それらも皆、心の内に収めて。 |
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