※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。 |
不器用な想い YTYT |
つぐみがICUへと向かっていた頃――。 ホクトと沙羅は、言葉を失っていた。 昼頃パパに送ったはずのメールが返信されてこず、そのことが気になり、中々寝つけずにいたところを担任の先生に突然起こされた。それから、訳のわからない内にホテルのロビーの一室に呼び出され、まずソファに座らされた。 そして、いきなり聞かされた言葉が、これだった。「倉成。……お前らのお父さんが、突然倒れたんだそうだ……」 担任の先生は、顔一杯に苦い表情を浮かべながら、こうも続けた。 「さっきお前達のお母さんから電話があったらしくてな。当直の先生から、今こっちに掛かってきた。……勤め先で倒れた、らしい……」 先生の言葉をさえぎる様に、沙羅が「そんな! 」と声を上げた。 だが、その声は後に続かず、「そんな……」とトーンを落とし、静寂に取って変わられてしまった。 そんな静寂の中、一方のホクトは無言を続けていた。 信じられなかった。どうして……パパが……。 耳では、先生の言葉を聞いている。その言葉が何を意味しているのかも、判っている。それなのに、頭と口を繋げる神経が寸断されてしまったように、何も言葉が浮かんでこない。 パパが。父さんが。そんな……。 隣のソファの沙羅が、手をぎゅっと握ってくる。その手は、今にも泣き出しそうなほど、弱く震えていた。 ホクトは声を絞り出すように、言った。 「先、生……」 声が上手く出てこなかった。感情が高ぶっているためだろうか、視界が少し滲んでいた。ホクトは咳払いをし、言葉を続けた。 「あの、パパ……父さんは、……無事なんですか? 」 それはある意味、自分が最も切実に知りたかった事実であり、最も知りたくない事実でもあった。極限の煩悶と葛藤に満ちた静寂の中で、先生の返してきた答えは、「判らない、」だった。 「すまないな、倉成。肝腎なそれについては、まだ何も判っていないんだ。私も、当直の先生もだ。……あの後で、何度か家に電話を掛けたが、誰も出なかった……」 先生の沈痛な声を聞きながら、しかしホクトの心は徐々に動き始めていた。 LeMUだ。ホクトはこの時、唐突にそう思った。そう思わざるを得なかった。 あのLeMUに関係する何かが、父さんに起こったのだ。そうでなければ、キュレイ・キャリアの父さんが倒れることなど、考えられない。LeMUだ……。 それは連関の無い想像だったが、今やとてつもない重量感を伴って、心に圧力を掛けていた。LeMUが、2017年が、また巡ってきたのだ……。 居ても立っても居られなかった。今すぐにでも、父さんと母さんの元へ行きたかった。 ホクトは立ち上がるや、隣の沙羅の手を引いて、部屋を後にしようとした。あ、という沙羅の声が耳に残るも、あえてそれは聞こえないふりをした。 一歩足を踏み出しかけた時だった。 ――何かがおかしい……。ホクトは、自分自身に違和感を覚えた。自分の中に、何か視界が混じっている……。 先刻の視界の滲みは、何かの錯覚かと思っていた。だが、これは違っていた。断じて違う……。 今自分の見ているのは、確かにロビーの一室だ。けれども、その光景の中に、ホクトは別な景色をうっすらと見ていたのだった。 それは、ちらちらと消えては現れ、その度に輪郭と色彩を伴って、実在感を増していた。 見える。何かが見える。……僕には、ボクには……何かが見える。 ボク? ホクトは自分の中に居る、もう一人の自分を見た。君は、ああ……あの時の――。 「……ちゃん、お兄ちゃん! 」 自分の体が揺さぶられる感覚があった。沙羅が必死に叫んでいる。だが、その叫びに応えるための感情が沸いてこない。 まるで、自分の奥にある自分が、この世界のあらゆる刺激に対して反応を遮断しているかのようだった。 こんな感覚を、ホクトは以前に体験していた。 ブリック・ヴィンケル……BW。 それは、ドイツ語で”視点”を意味するものだった。 視点。……それは”四次元存在”であり、”時間を越える傍観者”であり、そして――”心を持たない第三の目”だった。 心を失った傍観者……。かつて、この自分に乗り移っていた存在、BW……。 そのBWの力によって、父さんとココは生還してきたのだった。 2017年と2034年の二つの時代に起こった事故の、全ての鍵となる存在――それが、BWだった。 だが、そのBWの発現を可能たらしめたのは、2017年と2034年の事故の類似性・酷似性から起きた錯覚によるものだった。 つまり、2017年と2034年を同一の時間で起こったかのごとく見せかける錯覚によって、それ以上の次元に居るBWを3次元世界に取り込んだのだった。 そうして発現したBWは、自分と共に2017年と2034年を行き来し、その中で死の淵にあった父さんとココを救い出したのだ。 BW……父さんの、ココの生命の恩人。 そのことを、ホクトは束の間、思い出していた。 だが、思い出すも、やはり体の自由はままならなかった。ホクトは沙羅に揺さぶられながら、虚空を見ていた。 窓の向こうに臨む阿蘇山の姿は、すでに無かった。ロビーの一室は、もはや一室では無かった。 四方を取り囲んでいた部屋の壁は消え、自分の立っている場所を中心に、ホテル全体が透けて見えた。 そして、そのホテルの景色に、LeMUの悪しき記憶が重なった。 ロビーのアトリウムが、あのインゼル・ヌルのエントランスホールに見えた。 客室階移動用のエレベータが、かつてのツヴァイトシュトックのそれに見えた。 中央エントランスホールのオブジェが、ドリットシュトックのレムリア遺跡に見えた……。 ありとあらゆる景色が既視感を伴い、それらの景色は皆LeMUに繋がっていた。 IBF……ハイバネーション・ユニット……。 ハイバネーション・ユニット――。 既視感がそこまでたどり着いた時、ホクトの視界は虚空を駆け抜けた。 ――感情を持たないBWの目が、この二日間に起こった出来事を、克明に映し出していた。 居間の中、己が死ねない体に苦悩する母さんの姿が見えた。その母さんの心を守ろうとしている父さんの姿が見えた。 いつも見ていた居間。父さんが母さんを抱きすくめている。 母さんは泣いていた。 ”お前と一緒に倒れるまで、そばにいるから” そんな父さんの声が聞こえた。 ”馬鹿、……言わないで。私たちが倒れたら、誰がホクトと沙羅を守るのよ……” そんな母さんの声が聞こえた。 決して器用ではないが、これが自分と沙羅を愛してくれる親の真の姿なのだと物語る光景だった。 感情がわずかに動き掛けるも、やはり、自分の二つの目はそれを許さずに、次なる光景を映し始めていた。 次いで、缶ビールに付いている不吉な血が見えた。それと、父さんの顔に浮かんでいる不自然な赤らみ……。そんな、血と赤らみに対する母さんの不安と怯え。やがて、その不安は的中してしまったのだ。父さんは……。父さんは……。 だが、感情は激情にまで高ぶることが無かった。 容赦の無い光景は続いた。 母さんが泣いていた。車のハンドルに突っ伏して、母さんは一人涙をこぼしていた。その一方で、父さんを助けようという強い意志も垣間見えた。もし、父さんに何かあったら、自分と沙羅にどうやって言えばいいのか……そんな事を、母さんは泣きながら呟いていた。 そして、――優春の研究所に赴いた母さんを待っていた、父さんとココの姿。変わり果てた二人の姿。死んではいない。けれども、死に最も近い所に、二人は居た。 父さん、ココ……。それでも、自分の感情は動かずに――最後の光景が見えた。 母さんが、優秋に電話を掛けていた。 躊躇いと苦渋の色を浮かべながら、母さんは何事かを、優秋に伝えようとしていたのだった。母さんの頬からやがて涙が伝うのを見、ホクトの心は再び動き掛けた。 母さんの、その話を聞いて、ホクトは絶句した。そんな……母さんが……。 知らなかった。母さんが、自分達の名を呼ぶ時に、そんな苦しみの中にいたことなんて……。 そして、母さんが優秋を、自分と沙羅に重ねていたことも、ホクトは初めて知った。自分達にした罪を、優秋を救うことで償おうとする母さんの気持ちも、この時ホクトは初めて知った。 同時に、母さんの優秋と優春に対する想いも察せられ、ホクトは胸を締め付けられる想いがした。母さんという人間の心根の優しさが、そこにあった。 ホクトの目に、知らず涙が流れていた。 父さんの想い。母さんの想い。さらには、自分達を取り巻く人間達の想いが、ホクトの心に入ってきた。 涙が溢れて、溢れて、止まらなかった。 助けたい。父さんの命も。母さんの心も。 避け難い絶望への運命を止めたかった。自分のために、沙羅のために、そして大切な人達のために。 ここに至り、ホクトの心はようやく動き始めていた。 BWの視界が、ゆっくりと消えていく。 ――おそらく、今回のBWは発現しきれなかったのかもしれない。ホクトはそう思った。 発現する条件が揃わなかったのか、それとも、優春達に発現させる意図が無かったのか。それは判らなかった。あるいは、もともと発現する条件が揃っていなかったのにも関わらず、BWが良心を起こしてこの自分に真実を伝えようとしていたのかもしれない。 そうして、めくるめく視界は消え、辺りの景色はホテルのロビーの一室に戻ったのだった。 自分の体が揺さぶられていた。その感覚で、ホクトは我に戻った。 見れば、沙羅が必死に叫んでいた。先生と共にずっと叫び続けていたのだろう、沙羅の声は掠れていた。 「ああ、ごめん……ちょっと、色々なことを考えて、」 言いかけた口が止まった。沙羅は驚きの表情で、自分を見ていた。 「お兄ちゃん、泣いてるの? 」 言われて、初めてホクトは気が付いた。自分の目からは涙が幾筋も流れ、顎にまでそれが伝っていた。 慌てて涙を拭きながら、ホクトは言った。「い、いや、これは違うんだ、沙羅……これは」 言いかけた口が、またも止まった。 はたと気が付くことがあり、ホクトは自分のPDAを取り出した。母さんが優秋に電話を掛けていたことを、ホクトは思い出したのだった。もしかしたら優秋は、自分か沙羅の所へ電話をよこしているのかも……。 もう一度、自分の顔をみじめに汚していた涙を、ぐしぐしと擦る。 自分を心配げに見ている先生の方を向いては、ホクトはこう言った。 「先生。沙羅と二人だけで、少し話をさせてくれますか? 身内の事が関わってきますから」 舌っ足らずな台詞だったが、先生はホクトの言葉を、先生なりに忖度してくれたようだった。 しばらくホクトを見つめた後、先生は一つこう言ったのだった。ホクトのPDAを見てみないようにしながら。 「ああ、判った。……それと、倉成。明日の飛行機の始発便だが、お前達二人の分は必ず確保しておく」 ホクトは沙羅を伴って、ロビーの大広間に来ていた。 周囲にホテルマンの姿は無い。客の姿も無い。視界の向こうのフロントには、キャッシャーが一人居るだけだった。そのキャッシャーも、やがて奥のスタッフルームへ姿を消してしまった。 周囲に、静寂が漂っていた。 誰も居ない、閉鎖的な建物。 誰も来ない、静寂の空間。 そのただ中に、自分と沙羅の二人だけが居る。そんな事実が、状況が、あのLeMUの雰囲気を思い起こさせた。 ホクトは沙羅に目を向けた。沙羅も、今居る空間に漂う空気から、自分と同じものを想起したのだろう。その瞳は不安げだった。 その瞳を見て、少し躊躇うも、ホクトは口を開いた。 「沙羅、聞いてほしい。……パパとココは今、自分自身の免疫によって命を落とし掛けている」 沙羅の瞳が、一際大きく見開かれた。だが、それにも構わず、ホクトは敢えて言葉を続けていった。 父さんとココが倒れた原因が、2017年の事故の時に使用したハイバネーションにあるのだと言うこと。 母さんや優春達は今、父さんとココを救うために、ある治療法を行おうとしていること。 そして、その治療法もまた、2017年の出来事に深く関係していること――。 自分達は、未だ2017年の呪縛から解かれていないのだと言う事を、ホクトは沙羅に告げたのだった。 沙羅は、しばし驚きと絶望と悲しみを瞳いっぱいに入り混じらせ、それから頭を垂れてしまった。 「う、そ……嘘、でしょ……そんな……」 肩を震わせている沙羅に、置いてやる手も無かった。自分自身これが嘘であってほしいと願いながらも、ホクトは言葉を更に続けた。 「でも、ごめん……これは本当のことなんだ、沙羅。BWが、僕に見せてくれたんだ。……今回の出来事が、部分的に2017年と類似した状況だったから、彼は発現しかけていたのかもしれない……」 BW――ブリック・ヴィンケル。その言葉に、沙羅は顔を上げた。 目に一杯溜めた涙が、ホクトの顔を映していた。その瞳の中で揺れる顔が、そのままホクト自身の心境を投影しているかのようだった。 ハイバネーション、BW……かつて聞いたことのある名を、次々に言われ、ついに自分の中で事実を認めざるを得なくなったのだろう。 沙羅は、「パパとココは、……助かるよね? お兄、ちゃん」と救いを求めるように聞いてきた。 ホクトは一瞬返事をためらってしまった。そして、ためらった自分に焦った。 すぐにああ、と応え、ホクトはもう一度繰り返した。 今度ははっきりと、 「ああ……助かるさ、沙羅」 と言った。 ……自分のためらいや焦りを、沙羅は見て見ないふりをしていた。 そうして、沙羅は自分だけを見つめて、こう言った。「うん、信じてる。……私、お兄ちゃんを信じてるから……」 溢れそうになっている沙羅の涙を見つめ、良心と憐憫に胸が軋んだ。 沙羅の頬に手を伸ばしかけた時だった。 尻ポケットのPDAが振動した。 優秋の事を思い出し、はっとしながらも、ホクトはPDAを手にした。 着信は、やはり優秋からだった。 電話に出るや、真っ先に飛び込んできたのは、凄まじい怒声だった。 《なんで、とっとと電話に出ないのよっ!! 貴方はっ……!! 》 うぐっと耳を押さえながら、ホクトはとりあえず謝った。「ご、ごめん、修学旅行中は夜にPDAを使えなくって……」 だが、そんな謝罪を聞くつもりもなかったのか、優秋は更に言葉を継いで来た。 《ホクト、大変な事があったのよっ! マヨも近くに居るの!? 居なかったら、すぐに呼んで! 今さっき、つぐみさんから電話があって、》 つぐみさん、という優秋の言葉に深い尊敬の念が表われているのを感じ、ホクトは一瞬母さんの微笑みを連想した。 それでも、その連想はすぐに置き、優秋に応えた。 「ああ、……知ってるよ。ユウ」 ホクトはそう応えるも、これでは不十分だと思い、言葉を続けた。「BWが見せてくれたんだ。事のいきさつを」 先に沙羅に言った事と同じ内容を、ホクトは優秋に説明していった。 説明を聞きながら、PDAの向こうで、かすかに泣く音が聞こえた。 一通りの説明が終わるや、優秋は《やっぱり、……武さんとココちゃんが》と涙声で呟いていた。 その呟きの中に、《つぐみさん、今頃……》という言葉を聞いた時、ホクトの胸はまた少し軋んだ。 優秋が、その母である優春にわだかまりを持っていたこと。 わだかまりを解くきっかけを与えてくれたのが、自分の母さんだったこと。 その母さんも優春も、優秋や沙羅や自分に、罪の意識を持っていたこと。 その罪の意識ゆえに、二人とも未だ苦しんでいること……。 それらを併せて思い起こしたのだった。 ホクトはそうなのだと思った。 自分達は2017年という過去の因縁に囚われていると同時に、それぞれの心の中で自らの罪や心の傷にも囚われていたのだった。 母さんは、自分達を捨てたという罪に傷ついた。 父さんは、そんな母さんを見て、傷ついた。 優春は、自分のクローンとして優秋を生んだという罪に傷ついた。そして、優秋をだまし続けていたことに傷ついた。 優秋は、騙された事で傷ついた。騙した母親を一度は憎んで、そんな自分に更に傷ついた。 桑古木や空も、父さんやココの病状を見て心を傷めていた。逃れられない2017年の因縁に苦しみ、それに抗えないでいる自分自身にも傷ついていた。 ……みんな、みんな、何かに囚われていたのだ。そして傷つき、苦しんでいたのだ。 ホクトは、人それぞれの抱える苦しみの重さをひしひしと感じ、改めてそれを心の中に刻み付けることになった。 悲しいことに、自分や沙羅や優秋は、もう今回の危機には無力なのだと言うことも、この時理解した。 BWは去り、父さんや母さんから遠く離れたところにいる自分達に、出来ることは何も無い。 ただ、祈るだけだった。 奇跡を信じて。 奇跡が起こる事を信じて。 人が人を想う心が、奇跡を起こすことを信じて……。 ホクトは、PDA越しの優秋に言った。 「ユウ……。帰ろう、僕達。父さんや母さん達の元へ」 受話口の向こうでは、涙を抑えながら、優秋は応えていた。《……うん、》 「僕は帰る。帰ったらまず、することがあるんだ。……父さんとココを抱きしめたい。目を覚ました二人に会って、こう言うんだ。”ありがとう、また生きて還ってきてくれて”と。……それから、」 ここで、ホクトは言葉を置いた。胸が塞がる思いだった。心が痛かった。ややあって、ホクトはこう言葉を継いだ。 「父さんと母さんに謝りたい。……自分が今まで、父さんと母さんの事を深く考えてあげられなかった事を」 父さんの病変を見過ごしてきたのは、なにも母さんだけではなかった。自分や沙羅も、同じことだったのだ。つかの間の幸せの中、父さんと母さんと居られることがただ嬉しくて、自分達は、父さんの容態の変化にまで気を止めていなかったのだ。 それを罪と呼ぶのなら、自分達は間違いなく罪を犯した者だった。許されざる罪人だった。 父さんに会いたい。会って、謝りたい。償いがしたい。 そして母さんと同じように、自分の想いを告げたかった。父さん、好きだ、と。 それから……母さんを苛む、心の距離を埋めてあげたかった。裁かれたい、なんて言わないでほしかった。母さんはずっと苦しんでいたのだから。自分達の事を想い続けながら……。そして今、母さんは自分達の元へ戻ってきてくれた。たったそれだけで、自分達は母さんの全てを許せたのだ。 いや、元々母さんに対する憎しみなんて無かったのかもしれない。自分達はただずっと、ひたすらに、母さんに会いたかっただけなのだから……。 PDAの奥では、深い沈黙が流れていた。 きっと、優秋も同じ気持ちなのだろう。優秋も、己が母親との心の距離を埋めていかなければならなかったのだ。自分達と同じように。 それは、母さんと優秋がかつて交わした会話の中から、十分に察することが出来た。BWが自分に見せてくれた、あの母さんと優秋の涙から……。 優秋は、小さな声で《お母さん……》と呟いていた。 「ユウ、帰ろう。僕らは明日始発便でここを発つから」 ホクトの言葉に、優秋も応じた。 《ええ、私もそのつもりだから》 ここで、ホクトは突然に自分の想いを、優秋に告白しようと思った。 昔から抱き続け、今もこれからも変わらない、自分の想いを。 「……それと、今ここで改めて言うよ。……ユウ、好きだ」 PDAの向こうでしばしの静寂が流れた。やがて、嗚咽を混じらせた返事が返った。 《うん……私も……私も、よ! 》 それから、《マヨにもこう言っておいてね》と優秋は続けた。 ”私、貴方のことも大好きだから”って――その言葉を残して、PDAは切れた。 再び訪れた静寂の中で、沙羅は呟いていた。 「なっきゅ、先輩……」と。双瞳に涙を溜めながら。 そんな沙羅の呟きを聞きながら、ホクトは、たった今自分達が出てきた部屋から、ある音を耳にしていた。 どうやら、先生はすでに、自分たちのキャンセル待ちの券を確保しようと動いていたらしかった。 24時間の航空チケット・サービスセンターに連絡を入れて、何事かを話しているようだった。 だが、その首尾は芳しくないようでもあった。 ”キャンセル待ちは、確約できないのが常識? 判っていますよっ、そんなことは! だから、そこを何とかしていただきたいと私は言っているんです! ” ”私自身の勝手な依頼なら、私もここまで強硬に、貴方たちに無茶なお願いをしたりはしない。だけど、今は事情が違う。退っ引きならない事態が起きているんだ! 子供二人の親が今、死の瀬戸際にいるんだ! そこを汲んでいただきたい、と私は申し上げているのです! ” テーブルを叩く音が響いた。 先生も自覚している通り、その要求は明らかに無茶なものだった。そして、その要求を受け入れることの出来ない先方の苦悩も共に感じられ、ホクトはいたたまれない心境になった。 けれどもそんな先生の無茶な要求に、ホクトはほんの一時、人の心からの誠意に触れた想いもした。 「お兄ちゃん、」 振り向く。 そこにはいつもの沙羅が居た。 その顔は、当面の失意や絶望を一旦乗り越え、自らが果たせる使命を見出した顔だった。沙羅も聞いていたのだ。今し方の先生の会話を。 生気に満ちた意志を、己が細身にみなぎらせながら、沙羅は口を開いた。 「キャンセル待ち、取れるよ。お兄ちゃん」 ホクトは沙羅の後をつきながら、客室階用エレベータの前に居た。 妹の足は速かった。歩調を合わせるだけでも、正直ホクトは精一杯だった。 沙羅の真意は判っていた。航空会社のデータベースにハッキングを試みて、キャンセル待ち分を強引に確保しようと言うのだ。しかもそれは、沙羅の手腕をもってすれば可能だと言うことも、ホクトは理解していた。ただ、それでも当日のキャンセルが出なかった場合、沙羅の性格からして、元々の客の席まで取りかねない危うさもあったのだが……。 ともあれ、先の怯えが嘘のような、沙羅の溌剌さだった。そんな沙羅に、ホクトはちょっと驚いていた。そして、見とれてもいた。 沙羅には、やっぱり笑顔と元気が似合っている。そうした思いを、ホクトは改めて抱いた。 エレベータは、1階に来ていた。 「お兄ちゃんは、ここで待っていて。上からすぐにノートパソコンを取ってくるから」 そう言った所までは、沙羅は快活そのものだった。しかし……。 その足はそれきり動かなくなってしまった。 沙羅は肩を震わせていた。 エレベータの開閉ボタンに手をかけたまま、沙羅の足元には、大粒の雫が何滴も落ちた。 「お兄、ちゃん。……パパとココは、助かるよね。……きっと……絶対、助かるよね? 」 華奢な背中が、小さく切なく震え続けていた。 沙羅……。 ――その背中を、ホクトはそっと抱いた。「もちろんだ。……必ず助かるよ。二人とも」そう言葉をかけた。 「それと沙羅……忍者はね、そんなふうにすぐ泣いちゃ、駄目なんだぞ」 そして、沙羅を振り向かせた。 少しも抗わずに振り向いた沙羅の顔を、ホクトは正面から見た。 その顔を汚している涙を、そっと拭いてやった。 なんだか、父さんみたいなやり方だと思ったが、そんな感慨を飲み込んだ。 ホクトは言葉を続けた。 「沙羅……最高のお土産を買って帰ろう。父さんと母さんのために」 それには、沙羅は泣き笑いを浮かべ、こう応えた。 「判ってるでござるよ……お兄ちゃん。……それは、”私達だ”と言いたいんでしょう? 」 ホクトは苦笑いで応じた。見透かされてしまった、とホクトは思ったのだった。さすがに、沙羅はあの母さんの子供だった。 エレベータが開いた。 ドアの奥から光が差し込んできた。 沙羅は、体を離すのを惜しむかのように、少しずつ後ずさりながら、ドアの中へ進んだ。 そうして、ホクトと沙羅はドアの開閉口を隔てて、お互いに向き合った。 沙羅は、行き先階ボタンに指をかけたまま、ドアが閉まるのを待っていた。ホクトも、その時を待っていた。 お互いに、もうかけるべき言葉は無かった。 パパとココに、自分達は会いに戻る――。その意志だけが通い合っていた。 自分達はもう間に合わない。 パパとココの命を左右する、その運命の時には立ち会えない。ただ、それだけが辛かった。たまらなく、辛かった。 その気持ちを抑え、ホクトと沙羅はお互いを見つめあっていたのだった。 エレベータが微かに振動した。 ドアの閉まる気配がした、その時だった。 お兄ちゃんっ……! ――沙羅が感情も露にして、泣き出したのは。 「お兄ちゃん、好きだよ! パパもママも愛してる! ココもだよ! なっきゅ先輩も、みんな、……みんな、愛してるからっ……! 」 反応が、遅れてしまった。 ホクトが沙羅に手を伸ばそうとした時には、ドアはすでに閉まっていた。 閉じられたドアに額を付けたまま、ホクトは「沙羅……」と呟いた。沙、羅……。 感情が、心から背中から溢れた。 ホクトは顔を上げ、その閉じられたドアへ向かって叫んだ。 「沙羅! 2017年はきっと終わる! 終わらせるんだ! みんなで、終わらせるんだ! その中に沙羅、お前も居る! だから、あきらめるな! 絶対にあきらめるなっ! 」 すでに論理の破綻していた言葉だったが、ホクトはそう叫ばずにはいられなかった。 堪えていた涙を溢れさせながら、ホクトは思った。 そうだ。 母さんだけじゃない。僕も父さんに謝ることが一杯あるのだ。だらしが無かったこと。家事にもずぼらだったこと。父さんに知らず甘えきっていたこと……。 それらを思い浮かべ、ホクトは天井を仰ぎ、虚空を見つめた。 父さん……。 母さん……。 僕らは帰ります、貴方達の元へ。 その時には……どうかお願いです、僕達を迎えてください。2034年のあの時のように……。 そうして、ホクトは祈った。 祈り続けた。 自分達のこの願いが――想いが、父さんとココの元に通じるように……。 |
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