※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。








不器用な想い
                              YTYT 

16話

――武とココをICU(集中治療室)に移す準備が始まってから、研究所内は、さらに緊迫感を増していた。
D区画内のICU連絡通路に戻るや、胸に残っていたわずかな想いは、たちまち頭の隅に押しやられてしまった。つぐみは、自分が非日常の世界に身を置いているのだ、ということを改めて実感した。
セキュリティドアのパスワードを入力していく。機械的に指を滑らせながら、つぐみは一瞬だけ雑念に囚われた。
ホクト、沙羅……。私達を見ていて――。
そんな想いが、すっと頭に浮かび、消えていった。
だが、たちどころに消えていってしまったそれを惜しむ間もなく、ドアは開き、つぐみは現実に我を戻されることになった。
息を吐き、中空を一度見据えた。顎を引いて、つぐみはICUの連絡通路を再び歩き始めたのだった。

運命の刻が、もうすぐ迫っていた。
ティーフブラウ・ウィルスを使用するため、研究所の所員は皆、安全のためにD区画から外に待避させていた。警備員や事務員も含めて、例外は無い。全ての所員が対象だった。
この研究所のD区画内に残っているのは、つぐみを含め、優春、空、桑古木の4人および、武とココだけだった。
つまりこれは、武とココを含めて自分達6人が、ティーフブラウ・ウィルスの抗体を保有していることを織り込んだ上での救出策だった。
つぐみ達は、ICUへ続くドアの前に立っていた。
空と桑古木も、後ろから来ていた。無言で、つぐみの背後を見守るがごとく付き従っている。
「つぐみ。ここを抜ける前に、PDAの類は切っておいた方が良い」
桑古木はそう言って、振り向くつぐみに言葉を繋げた。「もう、それは使えなくなるから」
傍らの空が、桑古木の言葉を補った。
「ICUの構造上、PDAは使用できなくなるのです」
このドアを抜けると、PDAや無線機器の類は、一切使えない。医療設備の誤作動を防止するために、特定の帯域の周波数を遮断するノイズがICU内に発生しているためだった。
つぐみはゆっくりと頷いては、二人に返答した。
「そう、よく判ったわ。……外部への通信手段が断たれるということは、ある意味、状況は更に2017年のLeMUに酷似していくわけね。……上等よ」
空と桑古木に、さりげない笑みが浮かんだ。二人が最も聞きたがっていたそれは、つぐみの不敵な台詞だった。
つぐみは、ドアへ目を戻した。
ICUには通常のセキュリティドアの他に、更にもう一つのドアが施されていた。
俗にエアロックと呼ばれるものが、それだった。
気圧差のある二つの区画を隔てるためのドアが1枚だと、それを開けた時に、空気は圧力の高い方から低い方へ流れていってしまう。
これを避けるために、二つの区画の間に2枚のドアを設け、人や物を移動できるようにしたものが、エアロックだった。2枚のドアを片側ずつ開くことで、気圧差の流動を防ぐという仕組みだ。
ICUは、他のいかなる区画よりも気圧が低く設定されていた。
その理由は、ウィルスの流出を防ぐことにあった。万が一、ウィルスが漏洩しても、それらは外の世界には出られず、このICU内に還って来るというわけだった。かつてはLeMUのIBFにも、要所要所にこれが敷設されていたことを、つぐみは思い出した。
そして、自分の中に今まだ少し漂っていたホクトや沙羅や優秋への思いを、今度こそ心の中にしまい、つぐみはICUへのドアに手を掛けた。
その時だった。
力を込めようとしていた指が止まった。
足元にふわっとした感覚があったからだった。下を見ると、そこには一匹の犬が居た。
三人の目が一点に注がれた。――それは……ピピだった。
ずっと、ココのことを心配していたのだろう。ICUの中に入るに入れず、ピピはずっとここに居たのかもしれない。飼い主の窮地を案じてか、その表情は曇っているように見えた。
くぅ……ん、と哀しげな声をくぐもらせながら、ピピは自分を見つめていた。見上げていた。
ピピ――。
つぐみは身をかがめていた。……そして、ピピを自分の胸に抱き寄せた。
ピピの体から、ぬくもりを感じた。
電子仕掛けであるはずの体に、何故か心臓の鼓動を感じた。
小さく刻む生命のいとなみを感じた。
ピピも待っているのだ。飼い主が生きて還ってくることを……。
突然に、つぐみはチャミのことを思い出した。今は自分の家に待ちぼうけさせている、自分のかけがえのない仲間。死ねない業を背負った、自分の仲間……。
つぐみは、ピピを――その無垢な生命を抱き上げていた。
それから、その小さな体に顔をうずめ、つぐみはしばし肩を震わせていた。ピピを……チャミを……その心の中に収め、つぐみは改めて誓ったのだった。
二人は必ず、連れて帰るから。このドアの向こう側から……。

ピピを、ドアの外側に見送る。
ココの大切な飼い犬の体は、まだ2017年当時の物だった。すでに老朽化した電子素子も、少なくない。
ICU内に発生しているノイズは、ピピの体の素子にも一部影響を及ぼす可能性があった。このため、やはりピピをICUの中に連れて行くことは出来なかったのだ。
分厚いガラス越しに見えるピピは、きちんと廊下の真ん中に座って、この自分達を見送っていた。
後ろ髪を引かれる想いで、つぐみが後方を見ていると、空が声をかけてきた。
「つぐみさん……。行きましょう。私たちの進む未来は、私たちの前にしか存在しません」
言われ、つぐみは空の方に首を振り向けた。
空は、自分を見つめていた。
微笑みも無く悲しみも無く、ただ一つの意志を湛えたまま、空は自分を見ていた。
桑古木も、自分を見つめていた。
ココに全てを捧げ、尽くし続けてきた男の目が、自分を見ていた。

二人の――二対の目を見つめながら、つぐみはこの時思った。
二人は、いや自分達は……まさに、この世界の中にいるのだ、と。
不確かな、そして不条理な、この世界の只中にいるのだ、と。
キュレイ・ウィルスとティーフブラウ・ウィルスが武とココの体内で絡み合い、異常な蛋白質を生み出し、こうして今の危機を生み出しているこの状況は――まさしくこの世界の不確かな在り様を……不条理さを象徴するものだった。
ウィルスとウィルスが互いに絡み合い、それが結果としてウィルス自身も、人の生命をも脅かしている。
それと同じように……。
人と人の不器用な心は互いに絡み合い、それは結果として、互いの憎悪を生み出し、罪の意識を生み出し、それらは時には自らの生命も、――相手の生命さえも脅かしている。
今の今も、世界の何処かで、それは起こっているのだ。自分達が人を助けようとしている、今のこの瞬間も……。
そこに、おそらく理由などは無い。道理も摂理も、法則もないのだろう。
ただ、自分達人間とはそんな生き物であり――自分達の生きる場所は、そんな世界だったということだった。
武とココの危機も、ホクトと沙羅を置いてきてしまった自分を苛む心の罪も、すべてはそんな世界から生まれた物だった。
世界に意志は無い。意志を持った自分達だけが、世界に翻弄され、世界の不条理さに翻弄されている。そして、そのことを理解しているのもまた、自分達だけなのだ。
確かな物など、この世界の中にはただ一つとして無いのかもしれない。
2017年のあの時、自分は言った。
理由の理由、原因の原因を突きつめていっても、それは無限に広がっていくだけなのだ、と。
だから、自分はこう言ったのだった。――すべては起こるべくして起こったのだ、と。
その自分の言葉を反芻する。
今、自分はあの時以上の諦観と認識を持って、その言葉を受け入れることが出来た。覚悟をもって受け入れることが出来た。
つぐみは深い決意と共に、そこに新たな言葉を付け加えたのだった。
”すべては起こるべくして起こった。”
――そして……。
”自分達は今、そのすべてを乗り越えるために、この場所に来るべくして来たのだ”と。
その決意と覚悟を胸奥に抱いた者が、自分の他にいる。
二人。この自分の目の前に……。

そんな、空と桑古木の二人の目を――想いを、自分は今この身に受けていた。つぐみにはもう、二人の決意にかける言葉は見つからなかった。
つぐみは少しの間、床に目を落として、やがて顔を上げた。
そして、こう言ったのだった。
「ええ、空。行くわ。……私たちが越えるべき時と場所が、そこにあるから」
つぐみは二人を従え、エアロックの突き当たりの扉を開けた。
ゴゴンという重い音がした。
室内に佇んでいた空気が、ドアの隙間へと一気に流れこんでいく。扉の向こうが開けてきた。
中の世界が、音もなく、ゆっくりと目の前に現れた。
そこが――ICUだった。

ICUに足を踏み入れると、鼓膜が少し引っ張られるような感覚があった。気圧差のためだった。
「何度体験しても、この感覚は不快ね」
つぐみは、端的な感想を漏らした。それには思わず、空と桑古木が苦笑いで応じていた。
ICUの中央には、武とココのハイバネーションユニットが並列に設置されていた。
見れば、優春がICUの設備チェックを行っているところだった。
優春は、後から入ってきたつぐみ達を認めると、笑みをよこしてきた。
「貴方達、遅ればせながらやっと来たわね……私のささやかな戦場へ」
そんな事を言ってのける優春の目には、しかし確固とした決意が宿っていた。
その目の中に、人を包み込むような愛情を垣間見た。
それを見ながら、つぐみは思った。これはたしかに、母親の一つの姿なのだと。

2017年の時と違い、基本的にはハイバネーションは実行しない。
理由は、ティーフブラウ・ウィルスがある意味効率よく、武とココの体内で感染を広げていくためだった。
通常、ベクターとなるウィルスには、病原性を無くし増殖をできなくするための、不活化処理が行われる。
が、それでは、免疫系も効果的に機能せず、ティーフブラウ・ウィルスも取り込まれない。正常なキュレイ・ウィルスの遺伝コードも、体内に取り込まれなくなる。
体細胞への感染が効率良く行われれば行われるほど、免疫も効率良くキュレイ・ウィルスへ取り込まれることになるのだった。……それが諸刃の剣であることは百も承知だが、この時、他に最善と思われる方法は見つからなかった。
二人の細胞が壊死する速度は、予想以上に速い。そうなれば、それ以上の速度で細胞に増殖感染する、ティーフブラウ・ウィルスに一縷の望みを託すしかなかった。
”ティーフブラウ・ウィルスには不活化処理を行わず、武とココに投与する。”……再三にわたり躊躇した上での、これは優春の決断だった。
ティーフブラウ・ウィルスの増殖力。キュレイ・ウィルスの本来の持つ回復力。武とココの体力。そして、運。これらにすべてを掛ける。――これが、つぐみ達の結論となったのだった。
「優、カテーテルの準備は終わったぜ」
桑古木の両手には、それぞれ別の色をしたアンプル管が握られていた。
おそらく、キュレイ・ウィルスとティーフブラウ・ウィルス用の酵素活性阻害剤なのだろう。それらは、万が一の際、両方のウィルスの活動を抑制するためのものだった。
「それと念のため、ハイバネーション・ユニットのアイドリング(準備運転)は確認しておいたから」
優春に言い添え、桑古木は、ICUの医療設備室へと目を移した。
黙々と各部の計器類の数値を追っている桑古木を見て、その落ち着き払った横顔に、つぐみは少し感心してもいた。2017年から今日に至るまでの日々は、確実に桑古木を成長させていたに違いない。
「手伝うわ」
言いながら、つぐみは桑古木に手を差し出した。
「そのアンプル管を渡してもらえる? それを、ハイバネーション・ユニットのマニピュレータ用カセットに収納しておけば良いのでしょう」
計器類からいったん目を離し、桑古木はつぐみの方を見た。
「なんで、それを? 」
「マニピュレータで遠隔操作をする場合、医療器具を交換する台座として、カセットが必要になるはずだから。……おそらく、その中にアンプル管を入れておくのだろうと思ってね」
それから頭を振って、こう付け足した。「ただの勘。独りよがりの想像。……単に、じっとしていたくないだけよ」
桑古木はつぐみを見ていた。意外そうな目をしていた桑古木は、やがて奇妙な得心の微笑みを浮かべたのだった。
「いや、概ね当たってる。勘や想像にしては上出来だ」
桑古木はつぐみの手に二つのアンプル管を握らせた。
「これを頼む。……ただし、カセットではなく、そっちのステージに置いておいてくれ」
そうして、信頼する者を見るような目を向けてきた。
桑古木はこの自分を、”共に守りたい者を持つ人間”として信頼しているのかもしれない。おそらく、今の微笑みはそこから来ているのだろう。
それにしても、とつぐみは改めて思った。
何という皮肉なのだろうか。
優春の父と母の命を奪ったのは、ティーフブラウ・ウィルスだった。今度はそのティーフブラウ・ウィルスに、自分達は望みを託そうとしている。しかも、それはあの2017年の因縁を断ち切ることに繋がっているのだ。これを皮肉といわずして、何を皮肉と呼べば良いのだろう。
最愛の人間の命を奪おうとしていたウィルスに、今度は同じ命を託さなければならない。
この時、つぐみは深く思った。
……これが、生きると言うことなのか、と。
束の間、つぐみは絶望に陥りかけた。
生きることには、人の信念や倫理の及ばない、どうにもならない局面があるのだという現実に……。
「つぐみ」
優春の声で、つぐみは我に返った。
カプセル越しの武とココに、優春は目を落としていた。
それから、つぐみを見て、優春は微笑みを浮かべた。
その笑みの中に、ある種の諦観や決意が宿っているのを、つぐみは見た。
この時、つぐみは何かを悟った。
優春も、自分の感じた絶望を、同じように味わってきていたのだということを。
そして、その絶望を越える意志を、つぐみは優春の目から感じた。
私達は生きていく。この先も、ずっと……。
それを、真っ正面から語る目だった。
その目を見ながら、つぐみは思った。
2017年のあの時……。全員がティーフブラウ・ウィルスに感染した、あの極限の状況の中、武が選択した道はこうだった。
”自分の体内のキュレイ・ウィルスに出来ている抗体をもらう”と。”その抗体に、自分達は望みを託すのだ”と。
その時、自分が泣いてそれを拒んだことを、つぐみは思い出した。
抗体を純粋培養することは、容易ではない。下手をすれば、武達は自分のウィルスにまで感染してしまう。そんな危険を冒してまで、……そして、自分の忌むべきこのウィルスを利用してまで、生きる道を選ぼうとした武に、自分は抵抗したのだった。
キュレイ・ウィルスの感染は、ただの感染ではない。それは、自分の存在そのものを変質させてしまうことだった。永遠に死ねない、という業を肉体に背負うことだった。
それを自分だけでなく、武達にまで背負わせることは、自分には堪えられなかったのだ。
あの時、自分は絶望しか感じていなかった。おそらくは、今以上にだった。
生きることの果てには、絶望や苦痛しかない。そう信じて疑わなかったのは、まさしくこの自分だった。
……だが、結果はどう出ただろうか。
たしかに、武達はキュレイ・ウィルスに感染し、自分と同じほどの業をその体に背負うことになってしまった。しかし、それは絶望と苦痛に満ちた未来でしかなかったか。違うだろう。
確かに、死ねないという苦痛はある。絶望も確かにある。だが、それだけではなかっただろう。武やココ、その他に仲間と呼べる者達を得て、自分は彼らと共にいる希望も得ていたのだ。――全ての希望は、生きているからこそ得ることが出来たのだった。
私達は生きる。どこまでも生きていく。
信念でもない。理屈でもない。それは人間の、人間としての意志だった。
どんなことがあっても、私達は生きていく。その先には、絶望や苦痛しか無いのだとしても、不確かな未来しか無いのだとしても。それでも、……私達は生きている限り、生きていく。
守りたい者を守るために。救いたい命を救うために……。
――優春の目は、そう語っていたのだった。
そして、そんな優春の想いを素直に受け入れる事の出来た自分自身にも、つぐみはかすかな希望を見出したような気がした。
優春は、口に出してはこう言ったのだった。
「つぐみ。一つだけ約束するわ。……これが終わった時、2017年の悪夢も終わっている事を」

不意に、肩に手が置かれた。
振り向いた先には、空が居た。
「つぐみさん、奇跡を信じましょう」
言いながら、空の口の端に、深い笑みが浮かんだ。
困難を前にしていながらも、揺らぐことの無い決意がその笑みから垣間見えた。
武とココを救いたい。その曇り無き一点の決意を前にして、つぐみは、ほんの少し勇気づけられもした。
その決意なら、私にもある。誰にも何者にも、譲れないほどにある。
無言の中、空との間に何かしら通じ合うものがあった。
ややあって、つぐみは笑みを返したのだった。
「空。奇跡は信じるものじゃないわ。……起こすものよ」
自分達は今、様々な人の想いを背負っている。
ホクトや沙羅や優秋の想いを、背負っている。
その想いに誓って、自分自身の全てに誓って、今、自分達は最後の行動を起こそうとしていたのだった。
そう遠くないうちに、自分達はこの結末を見ることになる――。
つぐみには、そんな予感があった。


――”2035年10月2日 23:51”。 
治療が、ついに開始された。
マニピュレータが動き、武とココの身体にウィルスが注入された。
武とココは身動き一つ無く、ウィルス剤の投与を受け入れた。
チューブを通じて、ウィルスの入った液体が二人に侵入していく。
気道を確保するために二人の口に入れられたカテーテルが、とても痛ましかった。投与中、つぐみは終始目を歪ませていた。
注入が終わるや、優春と空はハイバネーションユニットの計器類を凝視した。
しばらくした後、心拍数・酸素濃度・尿量などの各種数値が、微細に動きはじめていた。
優春が、眉間にしわを寄せた。
「血圧が、下がってる……」
その言葉を受けて、周囲に緊張が走った。
確かに血圧は、武とココ共に下がり始めていた。
72、70、66……。
誰かの、息を呑む音が聞こえた。
直後だった。
「桑古木、マニピュレータの準備をして! 」
という、優春の怒声が響いたのは。
一気に、周囲が慌しさを増した。殺気すら孕む慌しさだった。
桑古木が速やかにマニピュレータの操作を始める傍ら、優春の声が再び響いていた。
「空、昇圧剤の用意をお願い! 昇圧剤にはイノバン、ドブトレックス。あと……」
短い逡巡の後、優春は「それにノルアドレナリンも追加して! 」と、付け加えた。
昇圧剤が二人に投与され、つぐみらは計器類の各種数値を凝視した。
血圧の降下は止まり、徐々にではあるが、数値は上がり始めた。

――だが、降りかけてきた安堵をあざ笑うように、それは起きた。
今度は新たなアラームが発報したのだった。
全員の目が、計器上の表示に向いた。
――”Oxygen concentration fall”――
アラームメッセージは、そう表示されていた。
酸素濃度が、低下している……。
そう理解するよりも早く、空が声を上げた。
武が、ココが、痙攣を起こし始めていた。
壊れた玩具のように、二人の身体はユニットの中で激しくはねていた。
腕の静脈につながれた点滴用チューブが揺れ、ユニットの内壁にぶつかる。息を忘れ、蒼白のまま固まっているつぐみの顔が、ユニットの窓に映りこんでいた。
「抗痙攣薬の用意! 」 
優春はそう言いながら、空の方を向いては、こう続けた。
「空、筋弛緩用ガスを散布。武にはジアゼパム10mgとサイオバルビツレート200mg、ココには8と160ずつ! 至急二人に静注して! 」
直後、ユニットの中に無色のガスが満ちた。二人の痙攣が、皮膚呼吸を通じて一瞬緩和した間隙を縫い、武とココに抗痙攣薬が注入された。
やがて、武とココの痙攣は止まり、二人の身体は、再び静かな眠りについたのだった。

呼吸すらままならないほどに、緊迫した時間が続いた。
計器類の各種数値は、とりあえず閾(しきい)値ぎりぎりのラインを保っていた。だが、それらはいつか、再び閾値を割るかもしれない。それも遠からぬうちに。
今の武とココの血液は、不凍蛋白や血液凝固阻害蛋白の作用のため止血しにくい状態にあった。そのため、点滴路よりの出血にも細心の注意を払わなければならず、つぐみ達の治療は困難を強いられていた。
ユニットの外壁を手でなぞりながら、優春は考え込む目をした。
次に起こり得る事態と、それへの予測と対応を考え、どうすれば良いのかを必死に模索している目だった。
その目は、混迷と疲労の間を激しく彷徨っていた。だが、最後には、それでも諦めない光を宿し、つぐみを見た。
そうして、優春の視線は、つぐみの視線と絡み合ったのだった。
「……つぐみ、なんて表情しているのよ? 倉成やココよりも酷い顔だわ」
優春に言われるまで、つぐみは瞬き一つしていなかった。血の引ききった頬が、冷たかった。
自分でようやく、そのことに気付き、つぐみは床に目を落とした。
「判っている。判っているわ……」
目をつぶりながら、誰に話すわけでもない言葉をつぶやく。武……。ココ……。二人の笑顔を思い浮かべては再度、気を強く持った。もう自分は二度と、先立つ者を見送りたくはなかった。
二人を死なせない――。
それを自分は、優秋に約束したのだ。ホクトや沙羅に誓ったのだ。決して、二人を死なせはしない……。
やがて、面を上げると、つぐみは優春の顔を見た。
「優、輸液の方は、今この場にあるもので足りているの? もし足りなければ、すぐにでも持ってくるから、場所を教えて」
つぐみを見る優春の顔には、安堵がかすかに浮かんでいた。
つぐみがまだ崩れていないことを確認し、優春自身、救われた気分だったのだろう。良く見れば、当の優春もまた、自分と変わらないほどに蒼白な顔をしていた。
それを、つぐみも優春も、もう決して口には出さなかった。
「……つぐみ。それなら、次に言うものを持ってきてもらえる? エピネフリンとメチルプレドニゾロン。あとは、アミノフィリンも必要になるわ」
「場所は、」と言いかけた優春の後を、空が継いだ。「つぐみさん、こちらです! 」
見れば、ICUの薬剤ルームの前から、空が呼びかけてきていた。
当の空も、かなり息を乱していた。それでも、空がそれを、苦しさとして顔に出すことは決して無い。皆、苦しいという点では同じだった。
優春も。桑古木も。この空も。皆、この苦しみに耐えている。苦しみ――それは確かに、生きるが故につきまとう、容赦の無い問いかけだった。
けれども、その問いかけから逃げるわけにはいかなかった。絶対に、逃げるわけにはいかない。
「空。……そこね、判ったわ」
言うや、つぐみは足を踏み出したのだった。

ティーフブラウ・ウィルスが武とココに投与されてから、二時間半。
つぐみも、優春も、桑古木も、空も……武とココの事しか、頭には無かった。ただ二人の事だけを想い、あらん限りの力を注ぎ続けていた。
持てる力と、持てる意志の全てが、武とココに捧げられていた。
そこにいつしか、LeMUの記憶やら悪夢やら、様々な想念が重なり、かつてない濃密な時間が流れていった。
それこそ、全人生にも匹敵するほどの時間だった。
心拍数・収縮気圧・酸素濃度・尿量などの各種数値の監視を続けながら、つぐみと優春らは、事の経過を見守り続けた。
昇圧剤・抗痙攣薬の投与後、やはり最初の30分は数値が落ち着かず、息の止まるような瞬間が続いた。が。それからは各々の数値は安定し、一同を安堵させた。
「つぐみさん、……顔色が、」
ためらいがちに、空が口を開いてきた。
つぐみは、何も言わずに空を見て、微笑んだ。
当の空も、可哀想なほどに顔を強ばらせていた。隣の優春も桑古木も、顔面の蒼白さは、自分と似たようなものだった。
それでも、互いが互いを意識できる程度には、余裕を持てる状況になっていた。
未来は依然として見えない。ようとして見えない。が、武とココの体内のキュレイ・ウィルスが、本来の機能を取り戻しさえすれば、まだ十分に助かる見込みはあると言えた。本当に奇跡が起こりそうな予感があった。
「いずれにせよ、今からの数時間が正念場になるわね」
優春は、桑古木とつぐみに言った。
”それまでに、倉成とココの肉体が持てば、の話だけど” と、その目が付け加えてくる。
最悪の事態には絶対にさせない、という優春の思いもあわせて察し、つぐみは少し優しい気持ちになった。
「大丈夫よ。……必ず、2人は生きて還るから」
それだけを優春に言うと、つぐみは、天井の窓ガラス一面に広がる夜の闇を見た。
未明の闇。夜の全ての時間の中で、最も暗い闇だった。
だが、その向こうには、夜明けが待っている。

――さらに、二時間が経過していた。
長い、長い、二時間だった。
二人の各種数値は、依然として変化が無い。二人の血中ウイルス量を測定した結果、ティーフブラウ・ウィルスのウィルス数は、殆ど0に近い数値を示していた。
もう一つの問題は、キュレイ・ウィルスの方だった。
ティーフブラウ・ウィルスが駆逐されたとしても、キュレイ・ウィルスが本来の機能を取り戻さなければ、この治療は意味を持たない。
すなわち、二人のキュレイ・ウィルスのバージョンは、Aに戻っていなければならなかった。
二人の組織からウィルスを採取して調べた結果、武とココのウィルスは――。
――バージョンAと、同質だった。
そして、これが判明するに至り、ようやく四人に本当の安堵が降りてきた。
この安堵が現実の物であると、はっきり認識した時、四人はついにこう思ったのだった。

――本当に、奇跡は起こったのだ、と……。


――……。
静寂に満ちたICUの中央で、つぐみ達は何も語ることなく互いを見ていた。
大きな危機と深い安堵を共有した者同士、言葉は必要としなかった。
無言の視線さえあれば、それで良かった。
つぐみも、優春も、桑古木も……そして、空も。皆、無言で互いを見ていた。……通じ合う心と心で、互いを見ていたのだった。
どのくらい、そうしていたのだろう。
やがて、優春がうつむき加減に言った。
「みんな、本当に……よくやったわ」
そうして、目線をつぐみ達の方に戻しては、こう付け加えたのだった。
「感謝するわ。それと……誇りに思う。貴方達とここまで来られたことに」
この言葉が――救出劇に終止符を打つ台詞となった。


優春は、つぐみの方を見ていた。そして、まず先にこう言ってきた。
「つぐみ……。終わらせたわよ、2017年を」
それから、目を細めて優春はこうも続けた。
「とりあえずは、……一安心できるところまでは来たと思う」
その額には、汗が薄く浮かんでいた。
優春に、つぐみはハンカチを差し出した。
「優……ありがとう。貴方には、また借りを作ってしまった……」
ハンカチを受け取ろうとした優春の手が止まった。
つぐみの顔を見て、苦笑いを浮かべては、
「どうやら、それはあなたの方にこそ必要だったみたいね」 
と、優春は言ってきたのだった。
言われて、はっとする。
目からは、涙が溢れていた。慌てて拭うも、それは、自分の意思や神経から切り離されたように溢れてくる。
いつの間にか泣いていたことにさえ、自分は気付かないでいたのだった。
どこからともなく押し寄せてきた感情に、つぐみは思わず顔を覆ってしまった。
頭は混乱し、胸は熱く、今の自分が全く抑えられない。おかしい。おかしい……。
武以外の者の前では泣くまいとしていた決心は、この時に脆くも崩れた。意志ではどうにもならない力が、心の奥底に作用していた。どうにもできず、どうにもならず、ひたすら自分の内からは、涙が溢れた。心が痛く、熱かった。武、ホクト、沙羅。私……私は――。
その時……肩に、そっと手が置かれた。
優春の手だった。
つぐみの顔を、優春は優しく見つめていた。その目はほんの短い間、穏やかな嫉妬や羨望の色を浮かび上がらせ、そして最後には心からの祝福に落ち着いた。少なくとも、つぐみにはそのように見えたのだった。
それから優春は、
「倉成が目覚めるまでに、その顔、何とかしておきなさいよ」 
と微笑んで、ICUの空圧ドアの向こうへ消えたのだった。
遅れて立ち上がった桑古木も、優春の後に続いた。
空圧ドアの前に立ち、一旦つぐみの方を振り向いては、
「つぐみ、俺達はまだ終わりそうもないな」
と、桑古木は声を掛けてきた。
まだまだ続いていくんだぜ俺達、と言い残し、ICUから出ていく。
その去り際の柔らかい笑みはまるで、武がいつも見せるような微笑みだったように思う。

また一筋、涙をこぼしたところへ、空の声がした。
「つぐみさん。……今日、私は一つの確信を得ました」
つぐみが振り返ると、空は更に続けた。
「奇跡というものは、神によって起こされるものではなく――。人が人を想う心によって、起こされているのでしょう」
そう言って、空はつぐみに手を差し述べてきた。
微笑んでいた。
「こうして私がつぐみさん達と出会い、その前に立っているのも、元は一つの奇跡から生まれたことなのですから」
その笑みに、淡い光が宿っていた。
人が人を思う気持ちこそが、奇跡を起こしている。
武とココが命を取り留めたことを奇跡と呼ぶのなら。
この空と出会い、共にここに在る事を奇跡と呼ぶのなら。
自分達に起こった奇跡はみな、人が人を想う心から起こったものだった。
そのことは、今のつぐみにも信じることが出来た。
空の手を取りながら、つぐみは涙をハンカチで拭った。
「ええ、そうかもしれない……本当に」
涙声で頷き、つぐみは空を見た。
後は、武とココの意識が回復するのを待つだけだった。


――自分達を縛り続けていた2017年は、今本当に終わろうとしていた。




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