※ 本作は、性的な描写が一部含まれています。ご注意ください。 |
不器用な想い YTYT |
所長室へ戻る途中で、優春はふと立ち止まった。 いや。足の方が、自然に止まっていたと言って良い。ひざは震えていた。 震えは、身体の全てから来ていた。思っていたよりも遥かに、自分は追い詰められていたのかもしれない。 自分達は、問いかけにひとまずの答えを出すことはできたのだろうか。優春は、元来た通路に目線を向け、少しの間考えた。 それから、おそらくはできたのだろう、という結論を出した。……いや、そう願っていたのだった。 少なくとも、武とココを、なんとか死の淵から救い上げることは出来たのだ。あと、しばらくもすれば、武とココは意識を取り戻すかもしれない。その望みを十分に繋げられるところまでは来た。なんとか、ここまで来た……。 その思いが、実感として胸に上ってくると、ひとりでに涙が溢れてきた。 涙を拭う。 優春は、窓を見た。 先まで無明だった景色は、払暁の光に照らされ、その姿をゆっくりとのぞかせ始めている。もうすぐ、夜は明けるのだ。 やらねばならない事は、沢山あった。 研究所内のウィルス汚染の確認。研究所総員のウィルス再検査。各研究機関への報告……。 それらが終わったら、今度はバージョンBのキュレイ・ウィルスの研究調査だった。 今回の件は、大きな危機であったと同時に、大きな進展だとも言えた。 キュレイ・ウィルスといえど、ハイバネーションなどの特殊な環境下では、その活動は弱められ、遺伝コードが書き換えられ得るのだということが今回判った。つまり、キュレイ・ウィルスも万能のウィルスではなかったのだ。 万能のウィルスで無い限り、いつかはこのキュレイ・ウィルスを克服できる日も来るだろう。 思えば――。 2017年のIBFで武がハイバネーションに入ったのは、あの寂しがりやのココを孤独にさせないためにとった行動だった。 「疲れたからな」と、その理由をはぐらかしながら、武はココを孤独から守るために、ココと共にハイバネーションに入ったのだ。 武のその献身が――その心が、時を経て今回一つの危機を引き起こし、ひいては新しい一つの未来を自分達の下にもたらせた。 そして、その未来は自分達に、この忌むべき肉体の業からも解放される可能性をさえもたらそうとしている。 確かに――奇跡は人が人を想う心によって、生み出されているのかもしれない……。 優春はこの時、そう信じることが出来た。 窓の向こうからは、葉ずれの音が微かに聞こえた。 それは錯覚なのかもしれない。けれども自分の心の中に、その音は確かにしていた。 静かな音だった。 それは全ての命を育む海原の波音にも聞こえ、優春は、2017年のあの場所に思いを馳せた。 2017年……そして、LeMU。 思えば、それはなんという場所だったのだろう。 重い心臓病を患った自分が、死に場所を求めて辿り着いた場所。 未だ見ぬ父の姿を求めて辿り着いた場所。 武達と初めて出逢った場所。 死の恐怖に晒され、それを乗り越えた場所。 生きる意味と目的を、新しく見出した場所。 そして、今また自分達に、生きる意味を問いかけてきた場所……。 振り返ってみれば、自分の人生は、LeMUに結びついていた。ライプリヒへの憎悪と共に、武とココを救いたいという意志と共に、LeMUは、いつしか自分の全てを結びつける場所になっていたのだ。 自分は、何らかのけりを付けたのかもしれない。あの場所に。 唐突に、優春はそんな事を思った。 何かを終わらせたという達成感は、未だやって来なかったが、何かしらの区切りを付けたという、おぼろげな感慨だけは自分の中にあった。 ――不意に、優春はかすかな自由を感じた。 自分を長きに渡って縛り付けていたLeMUという枷は、今は少し軽くなっていた。それは解放というほどの大げさな感覚では無く、もっとささやかで控えめで、ちょっと危うげな、小さな感覚だった。その感覚に、優春は少し戸惑っていた。 確かに今、自分は自由だった。そして、少し孤独だった。 孤独を感じた優春は、無意識のうちに父と母を呼び求めていた。 天井を仰ぎ見た。 優春は、父と母の姿をそこに求めた。 お父さん、お母さん……。見ていますか……? すでに遙か彼岸におり、もう顔もおぼろげにしか思い出せない父と母を、今再び優春は求めていた。ただ、純粋に求めていた。求めながらも、そんな自分に、少なからず驚きもした。 思えば、そんな理由で父と母の姿を求めたのは、初めてではなかったか。 救われたい訳ではなく、懺悔をしたい訳でもない。今の自分は、ただ純粋に、父と母の姿を求めていた。 純粋にただの一人の子として――今、自分は初めて、父と母に向き合っていたのだった。 お父さん……。お母さん……。 天井の灯りに、片手をかざした。優春は、涙を一筋こぼした。 一条の光が、見えた。 瞳孔の中にまばゆくたゆたう、それはまるで、天上の光の雫のようだった。 今なら、優秋にも本当の意味で向き合える……。優春はそう感じた。ただの一人の親として、優秋と向き合えると思った。 自分は優秋を愛していた。この上なく愛していた。 が、我が子として接したことは、今まで無かったのかもしれない。優秋を、”我が子”である以前に、”自分の罪の対象”として見てしまっていたのかもしれない。 だからこそ、優秋のする全ての事を、無条件で譲歩できたのだ。……容認できたのだった。 だが、そんな在り方は、親と子の在り方であるはずが無かった。 子は親の心を、直感のように鋭く見抜く。自分が一人の子として見られていないということを、優秋はその昔から見抜いていたのだろう。 必要以上に気遣い、譲歩し、遠慮する母親を、優秋はもどかしく思う一方で、こう訝っていたのかもしれない。自分は、本当にこの母親から愛されているのか、と。一人の子供として愛されているのか、と。 その不信感は、母親の傍にいる以上、絶えず優秋の心に根付き続けることになる。優秋が自分との距離を置き始めたのは、いわば至極当然の結果だったのだ。 罪の意識から逃げ、逃れた故に自分がせざるを得なかった、優秋への譲歩や遠慮。そのことで作ってしまった、優秋との心の距離。そして、溝。 それらが、優秋を傷つけ、追い詰めてしまっていたのだった。 そんな事さえ、自分は今まで気付かないでいた。本当に気付かないでいた。 一人の子として、父や母と向き合ってこなかった自分は、一人の親として、我が子とも向き合ってこなかったのだろう。 優秋の時折見せる、自分への反発。それは反発であると同時に、優秋の切なる心の叫びだったのかもしれない。”もっと私の近くにいてほしい”という……。 ――優秋に会いたかった。 会って、話し合いたいと思った。今まで自分が見落としていた事を話したい。詫びたい。その上で、優秋と自分の溝を埋めていきたいと思った。 親として自分は罪深く、不器用で愚かな母親だが、それを認めてさえも、優秋を慈しむ思いは止めようがなかった。優秋は自分の全てだった。 自分にとって、罪の真の償いとは、おそらく今これからなのだろう。 埋められる溝なら、どれほどの時間を掛けてでも、優秋との溝を埋めていきたい。そのためには、どんな障害であろうと乗り越えるつもりだった。それは、自分が長いこと見えずにいた、新しい地平だった。 生きている限り。生命ある限り。自分は、優秋を愛し続けるだろう。 優春は今一度、父と母の姿を求めた。 先刻にはおぼろげだった父と母の顔は、この時はっきりと自分の目の中に見えた。 息を深く吸い込み、優春は目を閉じた。 自分の存在を、優春はこの時、しかと実感した。確かな物はあった。ここにあったのだ。 目を開け、まぶたの中の父と母にひとたびの決別をする。 それは、LeMUとの――2017年との決別でもあった。 お父さん……お母さん……。 名残惜しさやら寂しさやら、名づけ難い様々な想いが、しばらくの間、優春の胸の中で行きつ戻りつを繰り返していたが、やがてそれは、ゆっくりと薄らぎ消えていった。 いや、消え去ってはいまい。優春は思った。それらの想いは、どこかに収まったのだろう、この心のどこかに。 白衣の胸ポケットに、優春は少し重みを感じた。 その重みに、何かを思い当たった。そう、これは……。 ポケットから、それをすっと抜き取る。 つぐみのPDA端末だった。所長室へ戻る途中で、空から手渡されたものだった。 ”つぐみさんからです。《田中先生にこれを渡してあげてほしい》とのことでした。” そんなことを、空は言っていたと思う。けれどもあの時は、空の言った意味もつぐみの意図も判らず、ただ渡されるがまま、自分はこれを受け取ったのだった。 ちょっと当惑しながらも、優春は端末のパネルを開けた。 直後、言葉を失った。 《私、……行きます。明日の始発便をキャンセル待ちしてでも、お母さんに会いに行きます……必ず》 端末のパネルに浮かんでいた文字。……それは、あの優秋がつぐみに宛てたメールだった。 優春は、心底驚いた。 驚くとともに、つぐみがこれを自分に渡してきた意図を、優春は今はっきりと理解した。 先刻、つぐみが”優秋には、この件を話したの? ”と聞いてきた理由も、これで判った。つぐみは、この自分と優秋のために、一つの未来をもたらそうとしていたのだった。 なんということ……。つぐみが、私と優秋のために……。あの、つぐみが……。 PDAを持った自分の指が、震えていた。つぐみの献身に対する深い感謝や、今まで何も知らずに居た自分自身の不覚や、優秋への思慕など、言葉に出来ない万感の想いが、全身を包み込んでいた。 優春は堪えきれず、短い間、声を上げて泣いた。 優春はひとしきり泣いた後、そのPDAを大切に胸のポケットにしまいこんだ。つぐみには、この上もなく大きな借りを作ってしまった。そう思いながらも、自分の心は希望や喜びを感じてもいた。自分の生きる理由が今、新たに与えられたのだ。この胸の中に、一つ……。 優春は自分の存在を改めて確認した。 どことなく心許ない、それでいて自分を確かに支えてくれる何かが、自分の中に感じられた。それが何かは判らない。けれどもそれは、自分が守りたいと思う者達が与えてくれたものであることには違いなかった。 今この場にいない武……そして、つぐみ……更に、自分が守りたいと思う全ての者達に向かって、優春は心の中で言った。 ありがとう――……私はもう――ずっと、ここに踏みとどまれるから……。 窓に差し込む薄明かりに、視線を戻した。 「ユウ……」 最愛の者の名を呟いて、優春は微笑んだ。 それはおそらく、優秋に初めて向けることの出来た、心からの微笑みだった。 優春は目を細め、窓の薄明かりを眺めながら、もうすぐ来るであろう我が子の姿を待ちわびていた。 今この時が、自分の新しい始まりだった。 ユウ……。 武とココは、ICUから元の病室に戻された。 必要の無くなったハイバネーションユニットは、すでに外されている。カプセルの隔たりは、もう無かった。 再び戻ってきた病室の中に漂う静寂は、以前のままだった。 空調機の音と、心拍数を刻む音。それ以外、この空間に音は無い。 消毒用アルコールの匂いが微かに漂う病室の中、つぐみは一人所在なく、武を見つめていた。 武は、静かに眠っていた。 この夫が意識を取り戻すまでは、静寂が破られることは無いのだ。 人の心を殺してしまうような静寂が、そこにはある。 それでも、その静寂の中に武がいる以上、自分は逃げ出すわけにはいかない。 ベッドの傍らの椅子に座り、つぐみは武の顔を見た。 先までの苦悶の表情は、随分と退いており、今は穏やかな寝顔とさえ言える。 そう言えば、武がじっとしているのは、寝ている時だけだったな、と、つぐみは思い出した。 武は、ずっと走り続けていた。 小さな家族の中で、小さな幸せの中で、この自分の見ている中で、武は何かに駆り立てられてるがまま、一人走ってきていたように思う。 その理由には、つぐみやホクトや沙羅に対して、長い間辛い目に遭わせてしまった事に対する償いの意識も、多分にあったのだろう。 今までしてあげられなかったことを償うための、それは相当の努力だったに違いない。 17年分もの時事ニュースのバックナンバーを密かに取り寄せていたことも、なけなしの金をはたいては中古の家族用ワゴンを購入したことも、多忙な研究所勤めの中にあってなおも長時間の残業を続けていたことも、その中で休日は自分の事を一も二も無く置き、つぐみ達との時間を常に最優先させていたことも、……全てはその努力の一環だった。 そんな武の一途さや真摯さを、嬉しいと思う反面、誇りにさえ思う反面、つぐみはとても心配にも思った。 自分の事をまず置き、他人の事を第一とする武の生き方は、そのまま武自身の命を縮めることにもなる。それをおそらく本人は、半分は理解して半分は理解していない。 ここ一年の武の異常な奔走ぶりを見ていると、その感は強めざるを得なかった。 LeMUで、この自分を守るために一人脱出ポッドを出て行った武の精神性は、やはり、今も昔も変わっていないと思う。それ故に、武と居る時には、いつも不安がつきまとうのだ。 いつか、この武はまた、自分の手をすり抜けてどこかへ行ってしまうのかもしれない。”俺は死なない”という言葉と意志だけを、自分達にゆだねたまま……。そんな予感が、不安が、いつもつきまとうのだった。 ”生きている限り、生きろ”――。 この言葉は本来、言った武自身にこそ、一番考えていてほしい言葉だった。守り抜いてほしい言葉だった。そして、このことも多分、武は半分しか理解していない……。 それでも、自分はこの夫が好きだった。 不器用な生き方をしているくせに、それを十分に判っていて、なおかつそんな生き方しか選ぼうとしない、この頑迷な夫をつぐみは愛していた。そして、自分も同じ人間なのだということを認めてもいた。自分も、武と同じような生き方しか出来ない。 武の手を、つぐみはそっと握っていた。 適度に柔らかく、そして自分よりも少し大きな手。この手は、間違いなく武の手だった。 2017年のあの事故で――崩壊するエルストボーデンの水槽の濁流の中で、自分は武の手を取り、武を救おうとした。 思えば、……全てはそこから始まっていたのかもしれない。 それから自分は、この武に手を――想いを重ねて、ここまで辿り着いたのだった。 「――長弓背負いし……」 知らず、つぐみは口ずさんでいた。 武の体を覆うシーツに手を置き、後を続けた。「月の精……」 それはかつて、ホクトと沙羅と自分の心を繋げ、自分の武への想いをも繋げていた――あの唄だった。 武の手をそっと握り、つぐみは唄い続けていた。 武の事を想い、今まだ戻ってこないホクトと沙羅の事を想い、唄い続けた。……長弓背負いし――。 長弓背負いし、月の精……。 夢の中より、待ちをりぬ……。 今宵やなぐゐ、月夜見囃子……。 早く来んかと、待ちをりぬ……。 眠りたまふ、ぬくと丸みて……。 眠りたまふ、母に抱かれて……。 真櫂掲げし、水の精……。 夢の中より、待ちをりぬ……。 今宵とりふね、うずまき鬼……。 早く来んかと、待ちをりぬ……。 眠りたまふ、ゆるゆる揺られ……。 眠りたまふ、海に抱かれて……。 唄いながら、つぐみはふと思った。 この唄はもはや、ホクトや沙羅の事を想うだけのものではなくなっているのだ、と。 ――”早く来んかと、待ちをりぬ”……。 そう。この唄は……想い人の帰りを待ち望んでいる、全ての者達の想いに捧げられる唄なのだ、と。 優秋が帰って来ることを待ち続ける、優春の想い。 息子が法事に帰ってくることを待ち続けている、お義母さんの想い。 ホクトと沙羅の帰りを待ちわびている、この自分の想い。 それだけではない。ホクトや沙羅や優秋もまた、待っているのだ。自分達が再び元の幸せに還れる日を。 ――この世にいる数え切れないほどの待ち人が、今の自分と同じような想いを抱いている。そして、何かを待ち望んでいる……。そう、つぐみは思ったのだった。 眠りたまふ、海に抱かれて……。――。 つぐみは、口を閉じた。 唄い終えた唇は、震えていた。 指も、震えていた。 武……。 つぐみは、未だ目を覚まさない武に、目を落とした。 残り火のようにちらついていた希望が、ふとした勢いで高ぶってしまい、それがかえって自分の心を締め付けた。 武の手を握ったまま、つぐみは頭を垂れた。 わずかに低くなった武の手の温もりが、消えゆく命を想い起こさせてしまう。 ともすれば、自分は絶望に崩折れてしまいそうだった。 また、頭の中に不安が首をもたげ、眼下の床が涙で滲んだ。武……目を覚まして……お願い――。 不意に。 予兆さえも無く、アルコールの匂いがふわりと翻った。 そして、シーツの擦れる音がした。「……んとに、泣き虫なやっちゃな。……お前」 かすれた声は、頭の上からだった。 はじかれたように、つぐみは顔を上げた。 視線が合う。……そこには、自分を見ている武の姿があった。 「おはよ……つぐみ」 頬をそっと撫でてきた。 それから、武はこうも言ってきたのだった。「良い唄だったな。……改めて、聞き惚れた」 武の、うっすらと開けられた目が、自分を見ていた。 つぐみはまばたきを忘れ、ただ呆然と、武を見ていた。 のどが、……のどが震えていた。 声が出ない。 自分の前にいる武の姿を、目は認識しているのにも関わらず、頭が受け入れていない。 いや、受け入れたいのだが、もし受け入れてしまって、それが幻であったら、と思うと怖くて受け入れられないのだ。でも……でも……。 そんな脈絡の無い想像が、頭の中を駆け巡っていた。 自分の頬を撫でてくる武の手が、仄かに温かい。 「どうした? ……目を開けたまま寝てるのか? 」 器用な奴だな、と武は口を開いた。生気の芳しくない顔だったが、その笑みは柔らかさを湛えている。 武の、その手の感触を認め、その声を認め、その微笑みを認めた時、これは確かに現実なのだ、とつぐみはしかと認めた。 呆然と武を見ていたつぐみの目に、たちまち涙があふれた。 「武……武……! 」 武の胸に突っ伏すと、つぐみは、ただひたすらに泣きじゃくった。 しゃくりあげるように、幼児のように、激しく、切なく、つぐみは武の胸の中で泣き続けたのだった。 全ての罪や全ての苦しみが、かりそめにでもこの世界から消えて無くなる、それは一つの瞬間だった。 胸の中のつぐみから、事の始終を聞かされると、武は呟いた。 「そうか……俺、ちょっと、ヤバかったんだな……」 カテーテルを咽頭に差し込まれていたためか、「ちょっとばかり喉が痛いかな」と言う。が、武のその物言いは、以前のままだった。 そう、以前のままの武。 そんな、わずかな発見にさえ、無上の喜びを見出してしまう自分がいた。 涙が、またあふれそうになった。 「……そうよ。2017年の時と同じ。貴方はまた、ヤバいところだったのよ」 照れ隠しに笑い、精一杯の冗句を返す。弾みで涙が一筋、頬を流れた。 それを、武の手が拭ってきた。 「……ごめん。心配、かけたな」 武の目は、真剣に自分を見ていた。 頬を撫でてくれる武の手に、自分の手を重ねる。「馬鹿……馬鹿……」 呟きながら、更に涙が一筋、頬を流れた。 顔をわずかに、武から背ける。 武は黙したまま、自分を見つめていた。優しい視線だった。そのまま武は、自分が落ち着くまで、何も語らず待っていた。 つぐみは、やがて武に目を戻すと、口を開いた。 「うん、武。……私、もう大丈夫だから」 「ああ、そうみたいだ」 温かい眼差しを向けながら、武は笑った。 それを見て、つぐみは、深く抱擁を交えたい衝動に駆られた。 先から武に回していた腕に、力を込める。 自分と同じ事を考えていたのだろう、武も自分を受け入れるようにして、同じように腕に力を込めてきた。 抱擁を互いに解きあい、見つめ合う。 ちょっと恥ずかしげに、胸の下から、武は聞いてきた。 「つぐみ。ホクトと沙羅に、このことは言った? 」 「ええ、言ったわ。さんざん迷ったけれどね。……ちょっと前に連絡を入れておいたから、あの子達、きっと始発の便で戻ってくるはずよ。優……秋香奈も一緒に来るから」 春香奈の方にも、その旨は伝えておいたわ、とつぐみは答えた。 ”伝えておいた”という引っ掛かるような言い方をした理由は、この自分だけが知っている。 つぐみは短い間、想念を走らせた。優春と優秋……あの二人は、大丈夫だろうか。 ――いや、もう心配は無いだろう。つぐみはそう信じた。あの優秋の心がある限り、どれほどの時間が掛かっても、二人の絆は元に戻る。戻っていく……。 けれども、そんな束の間の想念は、目の前の歓喜の前に少し流されてしまった。 今は少しだけ、我が儘にさせてほしかった。つぐみは心の隅で二人に謝罪をすると、目の前の歓喜を最優先させたのだった。 そうして、我が心を武に戻すも、当の夫はこんな軽口を飛ばしてきた。 「お前、まさか”俺がくたばりました”とでも言ったんじゃなかろうな、あ痛」 軽く、口をつねった。自分の胸中を悟りもしない、この夫の鈍感さが、ちょっと腹立たしかった。 「言うわけないでしょう。……私が居る限り、絶対に貴方を死なせはしない」 じっと、武を見つめる。 恥じ入った勢いで、つぐみは覚えず、もう一度抱擁を交えたい衝動にも駆られた。 ――武に、顔を近づけた時だった。 空圧ドアが開く。咄嗟に、つぐみは武から体を離した。 入ってきたのは、桑古木だった。 「つぐみ、ココの意識が戻って来……」 言いかけたところで、その口が止まった。 「よう、桑古木」 武の姿を認めるや、その表情が明るむ。 「武。良かった……」 いったん、天井を見上げ、息を大きく吐く。そうして「本当に、良かった……」と呟く。 再び武の方に目を落としては、桑古木は手を差し出してきた。 「……また一つ、命拾いをしたな。武」 その手を握り返して、武は答えた。 「ああ……お前のおかげもあってのことだがな」 「そんなことは……」 「照れんなって」 言っている武も、言われている桑古木も、同じくらいに照れていた。こんなふうな光景を、1年前に見たつぐみだったが、それは、まるで昨日のことにように思えた。あの時も思ったが、今また自分は夢を見ているのだろうか……。そんなことを、頭の片隅で思う。 桑古木を、嬉しそうに見やりながら、つぐみは言った。 「桑古木、ココも持ち直したのね? 」 「そう、だ! 」 と、思い出したように、桑古木は答えた。 「そう……ちょっと前だが、意識を持ち直してな。ココの奴、開口一番”ここ何処? 少ちゃん、なんで泣きそうな顔してるの? ”だってよ。もう……」 言う端から端から、ココへの想いが溢れ落ちてくるような、桑古木の表情だった。 ココの、屈託のない笑顔を思い出し、自分の内からも嬉しさがこみ上げてくる。太陽のような、ココの笑顔。 桑古木へ向かって、口を開いた。 「本当に良かった。……あとですぐ、私もそっちへ向かうから」 空圧ドアへ目を送り、その目線で言葉を匂わせた。”もっと、ココの傍に付いていてあげなさいよ” と。 それを察したのか、桑古木は苦笑いを浮かべた。 「ああ……そうだな。悪い。ちょっと、ここらで、おいとまするわ……ピピも、外で待たせてることだし」 桑古木は空圧ドアへと歩き、ドアの向こうに姿を消した。 去り際、 「武、つぐみ。今のうち、二人の時間を楽しんどけよ。そのうち、小うるさい奴らが来るからな」 という、下世話な一言を残して。 「なっ? 」 言いかけるも、ドアはすでに閉まっていた。 ドアの向こうでは、ピピの嬉しそうな吠え声と桑古木の声が、解け合っていた。その声二つは、幸せに絡み合うようにして、小さく消えていく……。 後には、つぐみと武だけが残された。 さらに、武と目が合ってしまい、つぐみは知らず顔を赤くした。 事実、桑古木の言葉通りだっただけに、言いようの無いばつの悪さに駆られる。 目の前の武も、同じ思いだったようだ。 自分と大差なく、顔を赤らめ、額を掻いている。 「その、なんだろうな……つぐみ」 「う、うん……」 不用意に沈黙を作ってしまう。つぐみは、自分の心臓が高鳴る音を聞いた。 やがて、意を決したのか、観念したのか、開き直ったのか、武が手を伸ばしてきた。 それに救われるような思いで、つぐみは応えた。 顔を、寝ている武へと向ける。唇を交える。武の体を抱きしめる――。 その後は、もう迷わなかった。 ひたすらに、つぐみは武を求め、束の間の幸せに埋没した。 つぐみは夫の顔を見ながら、その頬を撫でていた。 窓から薄明かりが漏れ、自分と武を差している。明日は、もうそこまで来ていた。 武に話したいことは、山ほどにあった。 自分の心の罪の事。ホクトと沙羅の事。お義母さんと法事の事。自分が幸せに溺れすぎていた事。武に甘えすぎていた事。それでも、自分が度し難いほどに武が好きな事……。 謝りたい事や伝えたい事は、抱えきれないほどにあった。 だが、こうして武に面と向かい合ってしまうと、ただそれだけで、胸が一杯になってしまい、つぐみは言葉に詰まってしまった。 「……なあ、つぐみ」 武は言った。 その後、微かにためらいを見せるも、だが意を固めたように、武ははっきりとこう言ってきた。 「つぐみ……俺は、今まで自分自身を大切にすることなんて、考えてなかった。 他人を大切にすることはあっても、自分自身にはまるで無関心だったんだろう、と思う。 だから、他人を救うために自分が犠牲になることなんて、当たり前だと思っていた。疑問にすら思ったことが無かった。 でも、それが違うということに気づいたんだ。……今回のことで、それが判った。 人を救うために、俺自身が犠牲になったのだとしたら、その人は本当の意味では救われていないのだと。 その人は、俺という犠牲のために、一生心の枷を背負って生きていくことになるのだと……。 だから、2017年のあの時、俺はお前を救ったようでいて、救えていなかったんだと思う。 こうして、また死にかけて、生きて還って、お前の顔を見た時に……お前の涙を見た時に……そのことが本当に判った」 武は、自分だけを見つめていた。 大切な者を見る目だった。 「つぐみ……改めてお前に言う。俺は馬鹿だから、――不器用だから、こんな言い方しかできないが……。 俺はお前を、……いや、ホクトも沙羅も、誰も決して置いてはいかない。自分も守り、お前達も必ず守るから……守り続けるから」 視界に、靄がかかっていた。 おそらく、今また、自分は泣いているのだろう。 信じられなかった。 自分は奇跡を見ているのか、とさえ思った。 思うも、しかし、それを捉える頭がすでに無かった。 自分の中で、熱いものが止め処無くあふれ出てくる。 それは、もう押しとどめることが出来なかった。 胸が熱くて、ただただ、熱くて……そして、つぐみはこれが幸せなのだと感じた。 武……。武……。 不器用な人。そんな貴方に、私もつき合うから。 私と貴方……同じだから――。 そう言ってやりたかった。心の底から、言ってやりたかった。 けれども、胸が熱くて、心が震えて、声が出ない。 それを見透かしているかのように、武は微笑んでいた。 ”判ってるから”。 そう語りかけてくるような目だった。 その目を見ながら、つぐみは一つ……本当に一つ……信じることの出来るものを、この時見出した。 人がこの世界の中で生きていけるのは、そこに人の想いがあるからなのだろう。 たった一組の親子が心を通じ合うことさえままならない、この世界の中で。 自分自身を犠牲にしてさえ、人一人救うことの出来ない、この世界の中で。 これほどまでに不条理に満ちた世界の中にあって、それでも人は生きて、愛して、駆け抜けていく。 そのただ中に、武がいた。ホクトや沙羅がいた。そして、自分の愛した者達がいた。 人の命が、偶然から生まれた奇跡だと言うのなら……、 人が人を想う心が生み出しているものが、奇跡だと言うのなら……、 自分は――自分達は皆、一つ一つの奇跡を心に身篭って、この世界に生まれてきたのかもしれない。 「つぐみ、悪いが起こしてくれないか……。ホクトと沙羅に、笑顔で立って迎えたいから。あの時のように」 ――武は、つぐみを見つめて言った。 「ええ、……判ってる。……判ってるから……私も同じ想いだから……」 ――つぐみは、武を見つめて言った。 ゆっくりと、武が手を差し伸ばしてきた。 その手に、つぐみは手を伸ばした。 不器用に、だが強く……確かに。 ……二つの手が――想いが、重なった。 (了) |
あとがき どうも、YTYTです。 ここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。 本当にお疲れ様でした。心から、労いの言葉を申し上げます。 長丁場シリーズも、これで完結です。 殆ど短編しか書いたことの無い私には、とにかくも良い経験になりました。 自分の欠点が、自分の至らないところが、色々と浮き彫りにされ、 今読んでも恥ずかしい部分が多々あります。 ストーリーの起伏の付け方もおぼつかなく、伏線もよく練ることが出来ず、 人物の描写も、ストーリーの都合に流されてしまい、善人としての側面しか描いていないような気がして……。 そして、テーマも、なんとも青臭い理想を並び立ててしまった感がありました。 そんな反省材料だらけの作品ですが、それでも書き上げられて良かったと思います。 それでは、このあたりで。 ご感想を下さった方々、この作品を掲載していただいた明様、 および、この作品を読んで下さった全ての方々に、心より感謝しております。 重ねて、本当にありがとうございました。 |
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